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第6話 雨と忘れ物

木箱の中に眠る“花のない花束”が、静かに香りを取り戻します。

忘れ物を返すのは、誰かのためだけではない――そんな一話です。

雨の音が、屋根を静かに叩いていた。

 森の小道が霧に溶け、木々の葉がしっとりと濡れている。

 扉の鈴は鳴らず、ミルの耳だけが、遠くの気配を拾っていた。


 「静かな朝ですね」

 リシェルがカウンターを拭きながら言う。

 アルノルトは本を閉じ、微かに笑った。

 「雨の日の客は、香りを頼りに来る」


 ミルが尻尾を揺らす。

 そのとおり、扉の外で小さな足音がした。

 そして――鈴が鳴る。


 現れたのは、フードを深く被った若い女性だった。

 肩まで濡れた髪の先から、水がぽたりと落ちる。

 彼女は、店の奥を見回してから言った。


 「……ここに、花束を預けた人がいると聞きました」


 リシェルが瞬きをする。

 アルノルトは頷いて、棚の上の木箱を手に取った。

 「“忘れ物”の棚へようこそ」


 箱の蓋を開けると、麻の紐に結ばれた花びらが一枚。

 それは乾ききっているはずなのに、わずかに香っていた。


 女性はそれを見て、小さく息を呑んだ。

 「……やっぱり。あの人の、花ですね」


 「知り合いか?」

 アルノルトの問いに、彼女は頷いた。

 「ええ。祖父です。ずっと、森で花を売っていました。

  昨日……静かに、眠るように逝きました」


 リシェルは思わず手を胸に当てた。

 「……そう、でしたか」


 女性は微笑んだ。

 「最期に“香りは残るから大丈夫だ”と言っていました。

  それが何のことか分からなかったけれど――今、分かりました」


 ミルが静かに椅子の上に乗り、しっぽを垂らす。

 雨音が少し強くなり、屋根を叩く。

 アルノルトは、木箱から花束を取り出して手渡した。


 「これは、あの人からの贈りものだ。

  花は咲いていないが、香りはまだ生きている」


 女性は両手でそれを受け取り、胸に抱いた。

 その瞬間、微かに空気が変わった。

 湿った雨の匂いの中に、花の記憶がふわりと混ざる。


 「……温かい」

 「ええ。香りは心の温度を覚えている」


 リシェルの言葉に、女性は涙をこぼした。

 その涙が落ちた場所で、麻紐がほんの少し濡れ、香りが広がる。

 花が咲いたような瞬間だった。


 「祖父は、あなたたちの話をしていました。

  “花を売らない日があってもいい”と笑って」

 「ここでは、誰も急がない。香りが教えてくれるからね」

 アルノルトは静かに言った。


 女性はうなずき、扉の方へ向かう。

 ミルがついていって、足元をくるりと回った。

 「ありがとう。……この香り、忘れません」


 扉の外はまだ雨。

 だが、森の空気はやわらかく澄んでいた。

 女性の背が見えなくなるころ、雲の切れ間から光が差す。


 リシェルは木箱を閉じ、深く息を吸った。

 「雨の日なのに、花の匂いがしますね」

 「花は、咲く場所を選ばない。

  人の心が思い出すたび、どこでも咲く」


 アルノルトの言葉に、ミルが静かに鳴いた。

 店の中にはまだ、香りが残っている。

 雨音が遠のき、外の光が少しずつ強まっていった。


 ――その朝、森の喫茶店では、雨と香りが同じ速度でやんでいった。

「香りは心の温度を覚えている」――この言葉が今回の核心です。

花を忘れた人と、花を思い出す人。その間を繋ぐのが“香り”の記憶でした。

次回は晴れの日。店に初めて“常連”が生まれます。


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