第6話 花のない花束
花を売る老人が、花を持たずにやってきます。
残り香だけの贈りものが、喫茶店の朝を包む――そんな不思議なお話です。
朝の森は、露の匂いがした。
店の前の小道に、小さな荷車の轍がのびている。
ミルがその匂いを嗅ぎ、短く鳴いた。
「お客さんかな」
リシェルがカウンターの布をたたみながら呟く。
アルノルトは椅子の背に上着をかけ、軽く頷いた。
「扉の鈴が鳴る前に気づけるのは、良い兆しだ」
その言葉のとおり、扉の鈴がほどなく鳴った。
入ってきたのは、背を少し曲げた老人だった。
荷車を引いているのに、荷台には何も載っていない。
「おや。お花屋さん、今日はずいぶん軽そうですね」
リシェルの声に、老人はゆっくりと笑った。
「そうなんですよ。今日は、花を売らない日でしてね」
「売らない?」
「ええ。売る花がないんです。……全部、昨日で終わりました」
アルノルトが静かに立ち上がった。
「終わった、とは?」
老人は荷車の取っ手を撫で、視線を落とした。
「この森の奥に、妻の墓がありましてな。
生前、わたしが摘んでいた花を全部、あの場所に持っていったんです。
今朝になって、荷車だけが残っていました。
――不思議と、軽くてね」
沈黙。
窓の外では風が通り、木々の葉が小さく鳴った。
リシェルはそっとカップを取り、茶葉を選ぶ。
「今日は、お茶をどうぞ。花の代わりに」
「ありがたい。……喉が乾いていてね」
湯が落ちる音が静けさに溶ける。
リシェルは指先で火加減を見ながら、ミルの尻尾をちらと見た。
その白が湯気に混ざり、少し青く見える。
「香りが……花畑の中にいるようだ」
老人が言った。
「“風香草”と“白露草”を合わせました。
花がなくても、香りだけなら少し残せます」
アルノルトが微笑んだ。
「香りは記憶の器だ。姿がなくても、手の中に残る」
老人は両手でカップを包み、目を閉じた。
「……妻は、花が枯れるのを怖がっていた。
けれど、この香りなら、枯れないな」
リシェルは黙って頷き、木箱の上を撫でた。
そこには“忘れ物”と刻まれた文字。
老人の目が、それに気づく。
「ここは、忘れ物を預かる場所かね?」
「はい。誰かが取り返しに来られるように」
「ふむ……では、これを」
老人は荷車の端から、細い麻の紐を取り出した。
乾いた花びらが、ひとひらだけ結ばれている。
「これが、今日の花束です。
形はないが、香りだけは残っていてくれるでしょう」
リシェルは両手でそれを受け取り、木箱の上に置いた。
「お預かりします」
「きっと、あの人も笑うでしょう」
老人はそう言って立ち上がり、ミルの頭を軽く撫でた。
「また、花が咲いたら寄りますよ」
「はい。今度は、花の香りも一緒に」
扉の鈴が鳴る。
朝の光が差し込み、荷車の影がゆっくりと遠ざかっていった。
しばらくして、リシェルが小さく呟く。
「……花は咲いていないのに、香りだけが残ってる」
「それで十分だ」アルノルトが答える。
「記憶という花は、咲かせ直すものじゃない。
香りを思い出せれば、それで生き返る」
ミルが尻尾で床を叩き、リシェルの足元に丸まった。
リシェルは木箱の上の麻紐を見つめ、目を細める。
「じゃあ、これは“花のない花束”ですね」
「そうだ。……悪くない贈りものだろう?」
店の中を、かすかな甘い香りが流れた。
それは確かに、どこかに花が咲いているような匂いだった。
――その朝、森の喫茶店には、香りだけの花束が飾られた。
「花はなくても、香りは残る」
それは、この店が続いていく理由でもあります。
次回は、雨の日に訪れる“忘れ物の客”の物語を。
静かな一話一話が、森の時間を紡いでいきます。




