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第5話 新しい朝と、最初の一杯

翌朝。

リシェルがはじめて“店の側”に立ちます。

一杯の香りが、誰かの朝をそっと整える――そんな小さな出来事。


朝の光はやわらかく、窓の格子に四角い明かりを並べた。

 扉の前に小さな箒。棚の瓶は拭き上げられ、ラベルの文字も新しい。

 白い狐のミルが、足拭きの布に前足を乗せてこちらを見る。


 「……よし。準備、できました」


 リシェルが深呼吸をひとつ。

 カウンターではアルノルトがポットの蓋を軽く叩き、うなずいた。


 「緊張しているな」

 「ええ、少しだけ」

 「大丈夫だ。茶は人の前に出す前に、まず自分を整える」


 扉につるした鈴が、ひとつ鳴った。

 入ってきたのは旅の歌い手らしい若い男だった。

 肩の荷から覗く古い弦楽器。声を出そうとして、咳が先に漏れる。


 「おはようございます」

 リシェルが会釈する。

 男は気恥ずかしそうに笑った。


 「声が枯れててね。朝から歌う仕事なのに、音が掠れて……」

 アルノルトが視線をリシェルに送る。

 「最初の客が来た。――淹れてみなさい」


 喉にやさしい茶。

 リシェルは棚の瓶をひとつずつ指でなぞり、匂いを確かめる。

 花が咲く前の青い香り――“風香草ヴェルニア”。

 ほのかな甘みを持つ“蜜葉ミール”。

 そして清涼の“澄みのクリン”を少し。


 「配合は?」とアルノルト。

 「ヴェルニアを多めに、蜜葉でやわらげて、澄みで喉の通りを……」

 「よし。湯は沸き切らせず、表面がわずかに踊ったら注ぐ」


 ミルが椅子から椅子へ渡るように跳ねて、カウンターの端で丸まった。

 湯気が立ち上がる。

 リシェルは注ぎ口をほんの少し傾け、細い糸で湯を落とした。

 音は静かで、鼻先に甘くきれいな匂いが立つ。


 「抽出は?」

 「三十を数えて、そっと」

 「――二十八。少し早い。君が落ち着ける一拍まで待つ」


 リシェルは微笑んで、呼吸をひとつ深くする。

 湯気がゆっくり伸び、数える心が整っていく。

 やがて、静かに蓋を押えて注いだ。


 「どうぞ」

 カップが歌い手の前に置かれる。

 男は両手で包み、湯気を吸い込んだ。

 眉がほどける。ひと口、喉へ落とす。

 そして、もうひと口。


 「……胸の奥の砂利が、流れるみたいだ」

 声はまだ掠れているのに、音が芯を取り戻していた。

 ミルが短く鳴いた。朝の風が窓を撫でる。


 「お代は?」

 男が財布を探る仕草をしたとき、リシェルが首を振った。

 「今朝は、わたしの練習台になっていただきましたから」

 「そうかい。じゃあ代わりに――」


 男は弦をひと撫でして、短い旋律を奏でた。

 柔らかな音が、カップの縁に触れて震える。

 店の木目が、わずかに歌った。

 ミルの耳がぴくりと動く。


 「声が戻ったら、また寄るよ」

 「はい。次は、もう少し低い温度で長めに――喉のために」


 男が出て行くと、鈴がもう一度鳴った。

 静けさが戻る。

アルノルトがカップの底を覗き、わずかに笑う。


 「良い一杯だった。――ただ、澄みの茎が気持ち勝っている」

 「はい。緊張して、最後にひと摘み足してしまいました」

 「足りないと思ったときは、湯をひと呼吸、遅らせる。

  香りは増すが渋みは出にくい」


 リシェルは頷き、布巾でカウンターを拭いた。

 指がすべって“忘れ物”の木箱の蓋に触れる。

 箱を開けると、薄紙の上に、昨日のリボンが静かに眠っていた。


 「返す相手がいるものは、ここに置いておく」

 アルノルトが言う。

 「取り返せるものは、いつでも返せるようにな」


 リシェルはうなずき、そっと蓋を閉じた。

 その時、窓の外で鳥が一声鳴く。

 風がひとすじ、店の奥まで通っていく。


 「――もう一杯、淹れてみます」

 「誰に出す?」

リシェルは自分のカップを指さした。

 「まずは、わたしに」

 「それがいちばん、むずかしい客だ」


 ふたりは笑い、ミルが尻尾で床を叩いた。

 リシェルは瓶から新しい葉を取る。

 配合はさっきより少し甘く、温度はさっきより少し低く。

 湯気が上がる。

 朝の光が湯気に混ざり、白い花みたいに天井へほどけていく。


 一口。

 舌の先に、昨夜の月と、今朝の息が重なって落ちる。

 喉を通るとき、胸の奥にあった硬いものが、少しやわらいだ。


 「――うん」

 リシェルは小さく笑った。

 「自分のための温度、見つけました」

 「それができれば、誰にでも淹れられる」


 扉の鈴が、また鳴った。

 今度は荷車の小さな影と、野の花の匂い。

 新しい朝の客が、こちらを覗き込んでいる。


 「いらっしゃいませ」

 リシェルの声は、さきほどより少しだけ、あたたかかった。

はじめての接客回でした。

「まずは自分に淹れる」――アルノルトの教えは、この物語の小さな核です。

次回は、荷車の花売りと“花のない花束”の話。

今日も読んでくださって、ありがとうございます。

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