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第3話 満月の湖にて

第3話の続き――

少女が去ったあの朝、風がもうひとりの客を連れてきます。

紅茶の香りに導かれた再会の夜を、静かに描きます。

扉を開けた瞬間、夜の風が流れ込んだ。

 満月の光が床を照らし、銀の帯を描く。

 その光の中に、旅装束の女が立っていた。

 耳元で青い石がかすかに揺れ、淡い音を立てた。


 「……先生」


 懐かしい声だった。

 アルノルトは静かに息を吐き、微笑んだ。

 「やはり、君だったか」

 「はい。……お久しぶりです」


 白い狐が足元を横切る。

 女は驚いたように目を瞬かせた。

 「……不思議な生き物ですね。光を纏っているみたい」

 「ミルという。森に来てからずっと傍にいる、店の同居人さ」

 「動物なんですか?」

 「さてな。少なくとも、人よりはよく気が利く」


 リシェルは小さく笑い、息を吐いた。

 アルノルトは手で店の奥を示す。


 「寒い夜だ。中で茶を飲もう」


 湯気が立ち上り、紅茶の香りが夜に混ざる。

 窓の外では、森の奥の小さな湖が月を映していた。

 その揺らぎが、店の床をやわらかく照らす。


 「……懐かしい香りです」

 「“風香草ヴェルニア”だ。君がよく使っていた茶葉だ」


 リシェルはカップを両手で包み、ゆっくりと口をつけた。

 香りを吸い込むように目を閉じる。


 「先生。……森で“泣けない少女”に出会いました」

 アルノルトは少し目を細めた。

 「……あの子か」

 「はい。あの子は、もう村へ帰るところでした。

  泣いたあと、顔が少し晴れていて……その姿を見て、

  どうしても確かめたくなったんです。

  ――誰が、あの子を泣かせてくれたのか」


 リシェルは小さく笑った。

 「紅茶の香りがしたと、彼女が言いました。

  その香りを辿って歩いているうちに、風が道を教えてくれたんです。

  まるで、誰かに導かれるように」


 アルノルトは穏やかに頷いた。

 「なるほど。香りは、人の記憶を運ぶ。

  きっとあの子は、風に手を引かれていたんだろう」


 ミルが尻尾を揺らし、静かにカウンターへ戻る。

 湯気が立ち上り、二人の間を漂う。


 「……あの子を見て、気づいたんです。

  私は“涙の匙”を作ったはずなのに、人の涙を怖れていた。

  泣くことを悪いことのように扱っていた自分に」


 リシェルの指が震える。

 その指先で、カップの縁が小さく鳴った。


 「だから謝りに来ました。

  あのとき、私は先生を“古い”と切り捨てました。

  でも、本当に古かったのは、私の心のほうでした」


 アルノルトはしばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

 「人はみんな、いったん冷める。

  だが、火を絶やさなければ、茶は何度でも温まるさ」


 リシェルは俯き、目尻を押さえた。

 頬を伝うものを、月明かりが淡く照らす。

 ミルがそっと彼女の裾に頭を寄せた。


 アルノルトは窓を開け、外の風を呼び込む。

 月の光が差し込み、部屋の奥まで染めた。

 「ほら、湖が見える。……外で飲もうか」


 二人は店を出て、湖畔に並んで腰を下ろした。

 満月が鏡のような水面に浮かび、波ひとつ立たない。

 アルノルトは持ってきたポットを掲げ、湯を注ぐ。


 「心を冷ますのも温めるのも、結局は火加減だ。

  でも、火を消してしまえば、もう何も戻らない」


 リシェルは頷き、カップを受け取った。

 湯気の向こうに、昔の工房がかすかに重なる。

 「……先生。私、もう少しこの森にいたいです。

  心の温度を、取り戻せるまで」


 アルノルトは少し笑って言った。

 「構わんよ。茶を淹れられるなら、大歓迎だ」

 「では、明日は私が淹れます」

 「そのときは、味の感想を正直に言わせてもらうぞ」

 「覚悟しておきます」


 二人の笑い声が、風に混ざって湖を渡る。

 その隣で、ミルが丸くなり、しっぽを揺らした。


 ――その夜、森の喫茶店にはふたつの湯気が立ちのぼった。

 ひとつは過去を溶かすために、もうひとつは明日を温めるために。


第3話の少女は、確かにここにも“残っている”存在です。

彼女が語った香りが、弟子を導き、師と弟子を再び結びました。

すべてが繋がったあとも、物語は静かに一夜で完結します。

次回は、翌朝――リシェルが初めて淹れる一杯から始まります。


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