2話 リボンの残香
前回の少女が残した“リボン”が、老賢者の記憶をそっとほどきます。
静かな朝の片づけの中で、過去と今が交わる小さな時間をどうぞ。
朝の光はやわらかく、森の葉裏を透かして床に淡い模様を描いていた。
テーブルの上には、小さな色あせたリボンが一つ。
昨夜、泣き疲れて眠ってしまった少女は、夜明けとともに村へ帰っていった。
扉の前に「ありがとう」とだけ書かれた紙切れと、一緒に――このリボンを。
アルノルトは布巾を手に、テーブルの輪染みを磨いた。
ほのかに花の香りが残っている。
その香りは、紅茶の匂いに似ていて、けれどもっと遠く――思い出の底に沈む香りを呼び起こす。
足元で白い狐のミルが尻尾を揺らした。
丸い目がリボンを追う。
アルノルトは苦笑して、ミルの頭を撫でた。
「気になるか。……そうだな、私も少し、気になっている」
棚の隅、銀のスプーン――“涙の匙”が光った。
それを見た瞬間、胸の奥で長い階段を下りていくような感覚がした。
石造りの塔、若い声、インクの匂い。
――そして、ある日の工房。
『先生、できました! 見てください、“涙の匙”――』
息を切らして駆け込んできたのは、青い石の耳飾りをした弟子だった。
指先に残る火傷の跡を気にせず、彼女はスプーンを掲げる。
宝石の芯に微弱な“温”の魔力をこめるという、彼女の発想だった。
紅茶の湯気と出会って初めて働くように調整したのも、彼女だ。
『泣けない人でも、香りに気づけば、心が思い出します。
――“あたたかかったこと”を、ちゃんと思い出せるように』
あの日の声は、今も正確に耳の奥へ届く。
アルノルトは目を閉じ、指先でリボンの端をつまんだ。
細い織り目は、春に摘んだ花を束ねるための結び癖がついている。
少女の母の指が、何度も結び、何度もほどいたのだろう。
「結んで、ほどいて。……そうして、手の温度は残る」
独り言のように呟くと、ミルが短く鳴いた。
陽の光を受けて、白い毛並みが青くきらめく。
――青。あの弟子の耳飾りと、同じ色だ。
塔を去る朝、彼女は最後まで席を外していた。
見送りに来た若者たちの後ろで、誰かが小さく言った。
『先生のやり方は、もう古いです』
正しい。だからこそ、胸のどこかが静かに崩れた。
怒りはなかった。ただ、長い季節が終わったのだと知った。
「……しかし、終わった季節の茶にも、香りは残る」
アルノルトはリボンを手巾で包み、小さな木箱に収めた。
箱には“忘れ物”と古い文字で彫り込む。
ここを訪れた誰かが、いつか取りに戻るための棚だ。
取り返しのつかないものの代わりに、取り返せるものを用意しておく――それが、この店の約束になると良い。
扉につるした鈴が、風に揺れて鳴った。
客ではない。森を抜けるだけの風だ。
だが、その音に釣られてミルが跳ね、カウンターに前足をかけた。
視線の先、窓辺に小さな影が落ちる。
小鳥が一羽、嘴に細い筒を咥えていた。
脚に巻かれた紐をミルが器用にほどくと、筒がコトリとカウンターへ転がった。
アルノルトは目を瞬いた。
「伝書か。……ずいぶん懐かしいやり方だ」
筒の封蝋には、石の塔の印章――叡智の塔の刻印が押されていた。
記憶が少し背筋を冷やす。
封を切ると、簡潔な文字がひらひらと卓上に舞い落ちた。
――拝啓 アルノルト先生
森にいると伺いました。
もし、これを目にされたなら、どうか一度だけ会ってください。
あなたに返したいものがあります。
それは、私たちが置いてきた“やわらかい手の温度”です。
次の満月の夜、湖のほとりでお待ちしています。
――塔より
読み終えたあと、店の時間が一瞬止まったように思えた。
ミルが鼻先で紙をつつく。
紙の縁が少し波打って、光を拾う。
“やわらかい手の温度”――妙な言い回しだ。
だが、さきほどのリボンの手触りと、弟子の笑顔が、胸の奥で同時に灯る。
「……返したいもの、か」
アルノルトは微笑んで、窓を開けた。
森の匂いが流れ込み、湯気の残り香と混ざった。
棚から新しい茶葉の瓶を取り、蓋を開ける。
花が咲く前の青い香りがふわりと立ちのぼる。
「今夜は淹れておこう。満月を待つ間に、店の支度も要る」
“忘れ物”の木箱を棚のいちばん見える場所へ移し、リボンの上に薄紙をかけた。
誰かが戻ってきたとき、手早く渡せるように。
それから、ミルの皿に水を満たし、自分のカップにも少し茶を注ぐ。
温度を確かめる一口は、古い記憶を焦がさずに温めるための、小さな儀式だ。
鈴が、ほんの少しだけ鳴った。
客か、風か。
アルノルトは「いらっしゃい」と言ってから、ゆっくりと顔を上げた。
――扉の向こうに立っていたのは、旅装束の若い女だった。
耳元で、青い石が細かく揺れている。
忘れ物”の木箱は、この物語で繰り返し使うモチーフにします。
取り返せないものに手を伸ばすのではなく、取り返せる温度から手当てしていく――喫茶店の約束です。
次回は、満月の夜または“青い石の耳飾り”の来訪者から始まります。
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