1話 涙を忘れた少女
森を訪れるのは、涙を忘れた少女。
――紅茶がもたらす小さな奇跡。
静かな朝のひとときをお楽しみください。
朝霧が森を覆っていた。
木々の間を抜ける風が、葉を揺らす。
小屋の煙突からは、かすかな白い煙が立ち上っていた。
老賢者アルノルトは、焚き火の前で湯を沸かしている。
その足元には、一匹の白い狐が丸くなっていた。
名前はミル。
森の奥で出会って以来、ずっと彼のそばにいる。
言葉を話すわけではないが、表情や仕草に不思議な知性が宿っていた。
アルノルトが動くたび、白銀の毛並みが火の明かりをやわらかく反射する。
「ふむ……今日は“風香草”の茶にしようか」
湯が小さく音を立て、香りが立ちのぼる。
その香りに混じって、森の向こうから何かの気配が近づいてきた。
――コツ。
――コツ。
靴音。だが、音は不安定で、怯えているようだった。
アルノルトが扉を開けると、そこに立っていたのは小さな少女だった。
まだ十歳にも満たないだろう。
髪は乱れ、服は泥に汚れ、裸足の足首には小枝が絡んでいる。
けれど、何より目を引いたのは、その手に握られた“もの”だった。
――小さな枯れ花を結んだ、色あせたリボン。
「……においが、したの。あたたかい匂い」
少女の声はかすかに震えていた。
アルノルトは目を細めて頷く。
「そうか。なら、少し休んでいくといい」
彼は椅子を引き、毛布を差し出した。
少女は戸惑いながらも受け取り、そっと腰を下ろす。
ミルが足元に寄り添い、彼女を見上げた。
怯えていた表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
「紅茶、飲めるかい?」
「……飲んでみたい」
ポットに湯を注ぐ。
金色の蒸気がゆらゆらと立ち上り、部屋中に柔らかな香りが広がった。
少女は目を閉じて深く息を吸い込み、ぽつりと呟く。
「この香り……お母さんの匂いに似てる」
アルノルトは手を止めた。
少女の手には、あの枯れた花が握られたままだ。
「そのリボンは……お母さんの形見かい?」
少女はうなずいた。
「うん。花を摘んでくれるたびに、結んでくれたの。
でも、春の日に眠るみたいに……もう、帰ってこなかった」
カップの中で茶葉が静かに沈んでいく。
アルノルトは紅茶を注ぎ、彼女の前に置いた。
「飲みなさい。心が冷えた時には、温かいものがいちばん効く」
少女は両手でカップを包み、そっと口をつけた。
柔らかな甘みが舌に広がる。
それはまるで、母の手の温もりのようだった。
だが、少女の瞳には涙が浮かばない。
彼女は自嘲するように笑った。
「みんな、泣いてたの。村の人も、隣のおばさんも。
でも、わたしだけ泣けなかった。
何も感じなくて……まるで、壊れちゃったみたいで」
アルノルトは黙って彼女を見つめた。
その目は優しく、けれど深い悲しみを含んでいる。
「泣けないのは、心が壊れたからじゃない。
あまりにも痛くて、心が眠っているだけさ。
眠っている間は、涙も夢も出てこない。……でも、少しずつ起きるさ」
そう言って、彼は棚の奥から一本のスプーンを取り出した。
銀色の柄に、青い宝石が埋め込まれている。
「これは“涙の匙”というんだ。昔、弟子が作った。
涙を忘れた人の心を、そっと揺らす道具だ」
彼はカップの縁にその匙を置いた。
紅茶の表面に青い光が滲み、静かに揺れる。
少女は目を見開いた。
「きれい……」
「飲んでごらん。少しだけ、心が温かくなる」
少女はうなずき、もう一口、紅茶を口にした。
その瞬間、カップの中に――ぽたり。
小さな雫が落ちた。
「……あ、れ?」
頬を伝うものを指で触れる。
温かい。
次の瞬間、止めていたものが一気に溢れ出した。
「お母さんに……会いたい……っ」
嗚咽が零れる。
小さな肩が震え、涙が次々と頬を伝って落ちた。
ミルが足元で彼女にすり寄り、優しく鳴いた。
アルノルトは何も言わず、そっと窓を開けた。
朝の風が入り、涙と紅茶の香りが混ざって漂う。
どれほど泣いていたのだろう。
やがて少女は泣き疲れて眠り、ミルが膝の上で丸くなった。
アルノルトは椅子に腰を下ろし、静かに息を吐いた。
「……やれやれ。泣かせるのは、魔法より難しい」
その声に、ミルの尾がゆらりと揺れた。
外では霧が晴れ、木々の間から朝陽が差し込む。
光が少女の頬を照らし、まだ乾かぬ涙がきらめいた。
老賢者はポットを持ち上げ、カップをもう一つ用意した。
眠る少女の前にそっと置く。
香りは、優しく、穏やかに広がっていく。
――その日、森の喫茶店に“最初の笑顔”が灯った。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
アルノルトが誰かを癒すことで、少しずつ自分自身も癒されていく――
この物語の原点のような一話です。




