06菫の庭に咲く
「あ、れ……私」
「お目覚めですか、結様」
浮上する意識。
目の前には淡音がおり、結を心配そうに見下ろしている。頭部がやけに柔らかいが、淡音の姿勢からするに膝枕をされているらしい。
猫蘭と寿斗のどちらがここまで運んでくれたのか、宿の自室に横になっていた。
「心配したのですよぉ?用が済んで戻ってみたら、結様が倒れたと聞いて。人間は脆いのですから、無理はしないでくださいねぇ」
「はい……気をつけます」
「約束ですよぉ?」
「はい」
淡音の配慮か、前髪は横になっても鉄壁を貫いたままだ。もしかすると、結が気を失っている間に何か塗ってくれたのかもしれない。
「……」
「あらあら、まあ。そのように情熱的に見つめられては私、愛したくなってしまいますよぉ?」
「あ……、すみません」
無意識に淡音の目の色を気にして見つめてしまっていたらしい。淡音にそう言われて初めて気付き、結は慌てて体を起こす。
何だかすごい絡まれ方をした気がするが放置だ。
(淡音さんの瞳の色って、本当は水色だったんだ)
どうやらあの時聞いた話は本当らしい。
寿斗と淡音。二人は所作も口調もやたらと共通する部分があるが、古い神様というのは多分そういう時代背景的な物があってああいう育ちなのだろう。
無理はなさらずと話す淡音に大丈夫ですと返しながら上半身を起こす。
(全然、大丈夫なんかじゃない)
知り合いの神様が二柱になっただけで、まだ戻る方法が見つからないのだ。
何を知ったのか寿斗はここでの生活を楽しめと言っていた。何が楽しめだ、はっきりとした目標があってもそこに辿り着く手段がなくて、何を楽しめるというのか。
「ああ、そうでしたぁ。よろしければ結様、現世に戻る手段としてひとつ、私なりに考えてみたのですけれどよろしいでしょうかぁ?」
「本当ですか!?」
「ええ。ですが、あくまでも私が思いついたあいであですから狙い通りになるとは限りませんよぉ。それはお忘れなく」
「いいえ、私は淡音さんを信じていますから。教えてください、何をしたらいいのか」
結はしゃんと背筋を伸ばし、正座になって淡音と向き合う。淡音も膝枕をしていた余韻のまま固まっていたが結より早く背筋を正し正座になり、結の表情を見てかふっと微笑んだ。
「この此岸街は結様同様、未練があって戻りたい方々が大勢いらっしゃいます。中には逆に戻りたくない方、そのまま彼岸に向かいたいと願う方もいらっしゃいますが現世の肉体次第ではどう足掻いても彼岸に渡る他ないのですぅ」
「はい……それはなんとなく、理解しているつもりです」
面と向かって座り合うのが落ち着かない。
彼女の瞳はまたあの色に変わっていないだろうか、また自分の嫌な部分を覗かれたりしていないだろうか。
目を合わせるのが、恐ろしい。
「そこでなのですけれどぉ、どうでしょうか。結様は此岸街から現世に戻る方法として、悩める方々のお手伝いをするというのはぁ」
淡音は結と目を合わせないよう考えてか、目を閉じたまま説明する。
此岸街に流れ着いた人間は彼岸に渡れば亡者という扱いになり、初日に見かけたように此岸に居座る亡者は獄卒が彼岸に連れて行く。肉体を失うと帰る場所を失った事を知らせるように薄羽織が自然と消えてしまうらしく、猫蘭のように住人になるには神様に申し出て新たに与えられなくてはならない。
当たり前だが、現世に戻りたくないと願う人間はそれなりの理由があってそう思っている。思ってはいても、現世でのやり残しなど後悔が無い訳ではない。
それを結にできる範囲で手伝い、擬似成仏的な善行をすれば他の神様からそのうち現世に戻る許可を貰えるのでは?という話だそうだ。
一応、似たようなことをしている人間たちは【叶え屋】と名乗っており、内容はまあ、似たようなものだそうな。
「他に今思いつくとしたら災悪の処理くらいなのですけれどぉ、そちらはか弱い結様には難しいかと思いましてぇ」
「まだ現実的な方でお願いします……」
「あれは下手に扱うと消滅してしまいますからぁ、懸命な判断ですぅ」
困った人を見つけて話しかける、これだけでも実は結にとってハードルが高い。
此岸街の人間の大半は日々の疲れから解放されて遊び呆け、そのうち現世への後悔など忘れてしまうのだとか。そうなるかならないかの境にいるまだ右も左も分かっていない人間、ここが一番の狙い目らしい。
「私がもう少しお力になれたらいいのですが、決まりでしてぇ」
「大丈夫です、全然……!」
とりあえず、やる事はこれで決まった。
「では私はこれで失礼しますぅ」
「は……はい、ありがとうございます」
話を終えると、淡音は丁寧に深々とお辞儀をする。
普通ならそうして平服するのは結を初めとした人間側だろうに、どうもこの女神は本当に育ちがいい。
淡音はすっと顔を上げにこやかに微笑むと、その身を蝶に変えて散り散りになるように部屋のあちこちに飛散した。
(決まったはいいけど、問題なのはそう簡単に困ってるような人が見つかるか……)
結は目の前の畳を意味もなく触り、ボコボコとした質感を楽しみつつ考える。
(他にもいるだろうけど、この宿に泊まってる会ったことある人は人格に問題がありそうだし……藤茶さんとか特に関わりたくないなぁ)
彼の場合、はっきりと自分の口で自殺が趣味などと口走っていたので放置しても問題はないだろう。問題なのはむしろ、あの精神状態の人間が現世に戻れてしまったとしてまた行き来を繰り返しかねない、という事だ。
(ひとまず猫蘭さんのところに行こう。動かなきゃ埒が明かないし)
軽く身なりを整えた結は部屋の戸を開けふと振り返り自室を見渡す。
天井からは過保護な気質のある淡音が用意した蚊に刺されるのを防ぐ為の蚊帳が吊るされ、畳の上に直で敷かれた布団の上には可愛らしい丸みを帯びたぬいぐるみ。夜中に目覚めてしまうと暇だろうという猫蘭の少しばかりの心配りからか行燈には紅葉の絵が描かれていて、結はそれを地味に気に入っていたりする。
出ようとした手前、寿斗がクッションになったとはいえ転んでいるので着替えるかと悩みもしたが、今はやめておく。あまりにたくさん淡音に衣服を用意されたものだから毎日あれこれ着回してはいるものの、全てを着るにはまだまだ日が必要だし一日にそう何度も着替えるのは不自然だろう。
「……行ってきます」
その声に答える者は当然いないが、なんとなくそう言いながら戸に鍵を掛ける。
(これ言うの、かなり久々な気がする。自分のことのはずなのに、どうして色々記憶が抜け落ちてるんだろう)
神様に視てもらえれば相手には分かるのだろうが、それを口頭で説明されるのもなにか違う気がする。
この宿の外見は二階建て。結の部屋は恐らく階段の数からするに五階だが、不思議な力でも発動しているのだろう。木造の階段を降りるのは手すりに触れた時棘が刺さらないか不安でまだ慣れないが、どうにかこうにか一階まで辿り着く。
「お、目が覚めたかにゃ」
猫蘭は通常運転のようで、番台に腰掛けたまま倒れたであろう結の体調を心配する素振りすらなく、呑気に左耳をぴこぴこ動かしながら大欠伸をしていた。
ひょっとして、と寿斗の存在を警戒はしたが部屋にいるのか姿は見えない。
「……はい。それで、帰る方法についてさっき淡音さんと色々話をしたのですが、困ってる人の問題を解決して回ればいいんじゃないかなと思いまして」
「はえー。オレにゃあよく分からんが、まあいいんじゃにゃあか? それに、そうしようと決めたのなら都合がいいにゃ」
「え?」
猫蘭はぷいと顔だけ後ろを向き、結も合わせて番台に乗り上げてそちらを見る。
「ほら、出てくるにゃよ」
「う……」
早くと促され、猫蘭の後ろからこちらを見上げるのは外見からして年齢は小学校に入るか入らないかくらいであろう、いちごの髪飾りをしたおさげの女の子だ。
一応若芽色の薄羽織を身にしてはいるがサイズがかなり大きいらしく、肩に掛けている程度。可愛らしいふりふりレースたっぷりの白とピンクのロリータ風スカートに、両手に持っても抱えきれない大きなレモン色のくまのぬいぐるみを持っている。
どうしてこんなに可愛い子がと誰もが一目見れば嘆いて言いそうな愛らしい子が、そこにいた。
「寿斗がそこらで拾ってきといてここに放置するモンだから困ってんにゃ。良かったら、初仕事としてこの子の協力をしてやるにゃ」
「は、はあ……」
「ここは寺子屋じゃにゃーってのに、カミサマと縁があるとロクなことがにゃあな」
会話をしている最中も女の子はぎゅっとくまのぬいぐるみを抱き抱えたまま、結を警戒しているようで猫蘭から離れようとしない。
「……あと初対面から好かれて困ってんにゃ。たすけろ」
「動物は小さい子に好かれやすいですからね」
「猫はガキ嫌いにゃ。ほれ、早く連れて行くにゃよ」
どちらかといえば男性である猫蘭よりも女性である結の方が懐かれやすいはずだ。それでも離れないのは猫蘭から生えている猫耳のせいだろうが、今は言わないでおく。
どうやって連れて行こうかと悩む結に猫蘭はちょっと耳貸せと思い出したように手招きをする。
「一応言っておくが、寿斗の話はネーチャンの前では禁止だ。いいにゃ? 逆もそうにゃ。やめといた方がいいにゃ、あの二柱に長ぇこと絡まれてるオレが言うんだから違いにゃい」
「はあ……」
そう思う理由は所謂、野生の勘的なやつだろうか。
あーおぞましいと言いながら猫蘭は結から離れると、早く行ったとばかりにしっしと手を振る。
(連れて行くもなにも、私が警戒されてるから動いてくれないんだよね)
困ったなと腕組みをして悩む結は抱き抱えられたくまを見ながら考え、あることが浮かんだ。
「こんにちは、ぼくはくろちゃん」
「!」
結が出したるは風呂敷で作った即席の猫である。
名前は適当に、たまたま持っていた風呂敷の色が黒だったから。これでダメだったらどうしようかと思ったが女の子の反応は思いの外上々で、目をキラキラさせながら身を乗り出している。
「こ、こんにちは、くろちゃん。このこはだいちゃんっていうの。ゆかりちゃんのだいじなおともだち」
「上手いもんだにゃあ」
「だ、黙っててください……!」
作戦は成功。
猫蘭が感心したように茶化してくるのを小声で注意し、結は手の中の猫型風呂敷での人形遊びを続ける。
「ゆかりちゃんね、おきたらここにいたの。ままとぱぱと、もうすこししたらゆかりちゃんにおとうとがうまれるからね、おめでとうっておいわいしてたの」
「弟が生まれるの? それはおめでたいね」
「うん。でもね、ゆかりちゃん……ぱぱにおこられちゃったの」
この子の名前はどうやらゆかりと言うらしい。
話を聞く限り、両親とゆかりの三人暮らし。もうすぐ弟が生まれるなんて幸せの絶頂だったに違いない。
父親に怒られたのが余程怖かったのか、ゆかりは手足を持って遊んでいたくまのぬいぐるみを抱きしめる。
「ぱぱがね、わるいこはここにいなきゃだめって。いいよっていうまで、ここにいるんだよって、ゆかりちゃんをね、くるまにのせたの」
ああ、嫌な予感しかしない。
躾と虐待の境界線というものは、怒りの度合いによっては反転してしまうものだ。特に育児というものは例え両親が揃っていたとしても、疲労が重なれば優しい人間ですらいとも容易く豹変してしまう。
「くるまね、いつもすずしいのにあつかったの。でも、おりたらだめっていわれたからね、ゆかりちゃんまってたの。ぱぱがいいよっていうの、がまんしてまってたの。あつくてあつくて、ままにおこられちゃうけど、ふくもぬいだんだよ。でもあつくて、ゆかりちゃんね、ねむくなっちゃったの」
熱い車内、ゆかりが現世にいた季節は夏だろう。
車内に子どもが閉じ込められ、熱中症や脱水症などにより死亡する。最近、テレビで聞く嫌なニュースのひとつ。
子どもとは素直で純粋だ。七五三という行事も、七歳までは神のうち──即ち、七歳になるまでは神様がまだ預かっている、神に属しているという考えから生まれた言葉でそれぞれ各年齢になった子を祝うイベントである。七歳未満の子は死亡する確率が高いということで、国によっては昔は男児を一定の年齢になるまで女児として扱うところもあったくらいだ。
「ねむってね、そうしたらね、ゆかりちゃんここにいたの。そうしたら、みずいろのおにいちゃんがこっちだよって。ついてきたらね、ねこのおにーちゃんがいたの」
知らない土地、見知らぬ人々。
結ですら動揺したのだから幼いゆかりからすると何もかも恐ろしい物に見えたに違いない。
「ゆかりちゃん、でいいのかな?」
「うん。ゆかりちゃん!」
「ゆかりちゃんは何かしたいことある?」
「えっとね、ゆかりちゃんはおとうとにあいたいの!」
まだ生まれてもいない弟に会いたいとはまた無茶を。
「えっと……他には?」
「うーんとね、うーん……。なんだろう?」
悩み首を傾げるゆかりを今のうちにと結は抱え、番台から下ろしてやる。
何分、先程から猫蘭からの圧がすごいのだ。後ろにいるこの子どもを早く下ろせ、そして今すぐに宿を去れと。
「おねえちゃん、あのね、ゆかりちゃんきめたの」
宿を出てはぐれないようゆかりと手を繋いで歩き、宿から離れた場所にある開けた場所にとりあえず座って改めて話を聞く。
くまのぬいぐるみをぎゅっと抱いてちょこんと座る姿は確かに遠目に見たら可愛いかも?とは思うものの、打ち解けたらしい今口を開けばおしゃべりモードに突入してしまうので立てばナントカ座ればナントカである。
「ゆかりちゃん、ぱぱとなかなおりしたいの。ごめんねって、ぱぱにいうの」
「……」
ゆかりの父親は今、現世にいるだろう。
そもそもゆかりが此岸街にいる原因は話を聞く限りその父親にあり、仮に現世に戻れたとしても母親が事態に気付き適切な対応を出来なければまた同じように父親に殺されかけるに違いない。
「ゆかりちゃんは……その、お父さん……パパが好きなの?」
「だいすき!」
「……そっか」
これが子どもというものだ。
愛は純粋無垢であり、健気で儚く清い希望。その時に何をされたかという疑問よりも、日々積み重ねてきた気持ちが優先される。
「でも、ぱぱ、ゆかりちゃんにまだおこってるかもしれないの。かってにくるまからでたから。でたらだめって、ぱぱにいわれたから」
「パパのこと、本当は怖い?」
極力、この子の願いを叶えたくない。
もしもゆかりが父親に会えたとして、それが本当にしたい事とは限らない。それが今ゆかりの中にある後悔である事は間違いないだろうが、ひとつだけ願いを叶えられると言われたら普通もっと子どもらしい願いを言うのではないだろうか?
真剣な眼差しで問えば、ゆかりは目を泳がせる。
「……わかんないの」
くまのだいちゃんの胴体がぎゅうと腕の中で潰され、苦しそうにその可愛い顔を萎ませていた。
「ゆかりちゃんね、わかんないの。なんでぱぱがおこってたのかも、どうしたらいいかも、わかんないの。わかんなくて、こまってるの」
「分からない……うーん、困ったね。それは」
本当に困った、これでは八方塞がりだ。
ようやく現世に戻れるかもしれない手段を見つけて、記念すべき第一歩を踏み出したというのにこれといった方向性が定まらない。
(ど、どうしよう……)
結は頭を抱える。
せめて、何かヒントをくれるような……そう、例えばゆかりを連れて来た本人なんかが助言をくれたら助かるのだが、寿斗がそうほいほいと都合のいいタイミングで現れてくれるとは限らない。
「寿斗さんがいたらなぁ……」
「ナニナニ、呼んだぁ?」
「!」
「探したんだよぉ? あ、お嬢さんじゃなくそっちの子をね」
なんて言っていたら、本人が現れたではないか。
ひょっこり背後からさも当たり前のように顔を出してくるものだから、うっかり反射的に殴りかかるところだった。瞳の色は今は金色ではないのでとりあえずは安心だ。
「ところで、その、寿斗さんは何をしてるんですか?」
「僕かい? 僕は彼女……いやその子、もうすぐ彼岸に行くからさぁ。そろそろ連れて行ってあげなきゃなと思ってねぇ」
「え?」
今、何か聞き間違えた。いや、絶対にそうだ。
そうとしか思えない言葉が彼から聞こえてしまった。
「なんですか、連れて行くって。まだ生きているからゆかりちゃんは此岸街にいるんじゃないですか?」
「うーん、僕もそのつもりで宿に連れて行って子守……じゃないや。面倒見てもらおうとシたんだけどねぇ? ちょっとね、事情が変わっちゃったんだよぉ」
「事情って……あの、さすがにそれは自分自身すぎませんか?」
「自分自身も何も、お嬢さんはこの子の歳が分かるのかい? 七歳までは神のうち。人間は脆いからすぐに死ぬ。それが幼い子なら尚更、それこそ新芽をぽっきり手折るみたいにねぇ」
まだ寿斗の事は苦手だ。
飄々としていて掴みどころがないし、嫌な言葉をわざと選んだような話ばかり。でも、今は立ち向かわなくてはいけない。
「諦めるにはまだ早いじゃないですか、まだ……」
「何かお嬢さんは勘違いをシているみたいだけどさぁ」
ゆかりは二人の会話の内容を理解できていない様子で、結が持ってきていた猫型風呂敷とくまのぬいぐるみで一人人形遊びをしている。自分の行く末に関わる重大な話を知らず、無垢なまま。
意地悪な神様の手の平の上で、残酷に踊らされている。
「お嬢さんは、ゆで卵を生卵に戻せるのかい?」
「卵……」
それは、熱中症に対してよく言われているものだ。
熱中症──つまり、人間は生きたまま熱により茹でられているような状態。脳を生卵と仮定して、肉体ダメージを茹で時間として考える。後は高熱の場所を沸騰したお湯に置き換えれば、熱中症になった肉体がどうなるか。
「な、んで……」
嫌だ。
目の前のこの健気な命を助けたい。願いを叶えてあげたいだけなのに、それが出来なくなるだなんて。
「頑張ろうとするお嬢さんは偉いし、二人には悪いけれど。紫ちゃんはあのまま現世に戻っても、どの道すぐ彼岸を渡るよ」
神様は、いつだって邪魔をするんだ。




