短編「閉じた部屋の夢」
この物語は、ひとりの女性の夢から始まります。
夢の中に現れるのは、閉ざされた部屋と、その中に座る小さな子ども。
ただそれだけの光景。
けれど、夢は時に心の奥深く、言葉では触れられない場所への道しるべになります。
目覚めたときには忘れられない感覚──
それは誰の心にも潜む「閉ざされた部屋」かもしれません。
この物語は、心理療法を通じて自分自身の部屋を見つめ、扉を開いていく過程を描いています。
理沙が夢の中で出会う子どもは、もしかすると、私たち一人ひとりの心の奥にもいる存在かもしれません。
静かにページを開いて、理沙の旅を共に歩いていただけたら嬉しく思います。
Ⅰ. はじまり
深夜二時。
神崎理沙は、再びあの夢から突き落とされるように目を覚ました。暗闇の中で心臓がまだ早鐘のように打っている。息は浅く、空気が少し重たい。
夢の中で、彼女はいつもの場所にいた。
閉ざされた部屋。窓もなく、淡いグレーの壁が四方を囲んでいる。その中央に、小さな子どもがひとり、膝を抱えて座っていた。
薄いワンピースが床の冷たさを透かし、子どもの素足はかすかに震えている。髪がうつむいた顔を隠し、その表情は見えない。
ドアはあった。だが、まるで絵の中のドアのように、取っ手も鍵穴もなく、開く気配すらない。
理沙は夢の中で、その子の名前を思い出そうとするたび、胸の奥にきゅっとした痛みが走った。指先が名前に触れそうになる瞬間、それは霧のように溶けてしまう。
結局、彼女はいつものように距離を取ったまま、ただ見ているしかなかった。
はっとして目を開けると、現実の天井が見えた。
背中は冷たい汗で濡れており、パジャマが肌に貼りつく。空気がどこかよどんでいて、体がまだ夢の中の閉じた部屋の匂いをまとっているように感じられる。
隣のベッドスペースは、静まり返っていた。
そこにはもう誰もいない。三年前に離婚した夫がいなくなった空白が、夜ごと淡々と広がり続ける場所だ。
月明かりが、空白の上に薄い影を落としていた。
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Ⅱ. セラピーの部屋
週に一度の分析的心理療法。
理沙は、慣れ親しんだはずのドアを開けると、ふっと息を詰めた。
この部屋はいつも静かだ。カーテン越しの光が柔らかく差し込み、厚い絨毯が足音を吸い込んでいく。外界とは切り離された、時間が少しだけ遅く流れる空間。
壁際に置かれたソファに身を預けると、微かな革の匂いとクッションの沈みが、じわりと背中に馴染む。ここに横たわるたび、自分の体が少しずつ現実から遠ざかっていくのを感じる。
分析家の榊は、理沙の足元の椅子に腰かけていた。ノートを手にしてはいるが、ほとんど目を落とさない。その声は、時計の秒針より静かに響いた。
「今日は、何から始めましょうか。」
ただそれだけの言葉なのに、理沙の胸はわずかに締めつけられる。幼い頃、母に話しかけたときの、反応の薄い声をふと思い出す。
息を吸い、吐き、そして言葉を探す。
「……また、あの夢を見ました。」
声が部屋の中に落ちると、空気が少し濃くなったように感じる。
「閉じた部屋の中に、子どもがいるんです。私は、あの子が誰か知っている気がする。でも……名前が出てこないんです。」
榊は静かに頷くだけだった。その沈黙が、どこか夢の中の閉ざされたドアを思わせた。
榊は、無言でふたたび静かに頷いた。視線は理沙に向けられているが、その手はゆっくりと記録ノートの上を滑っていた。紙の上で、わずかな鉛筆の音が小さく響く。それは理沙の言葉の一つひとつを、音ではなく形として留めていく作業だった。
理沙が語る夢は、ここ数ヶ月のあいだに少しずつ変化してきていた。
最初に話し始めたときは、ただ「部屋」があった。灰色の壁と沈黙だけが支配する、何も置かれていない空間。そこで彼女は、ただ“いる”だけだった。
やがて、その沈黙に小さな揺らぎが現れた。部屋の中央に、子どもが現れたのだ。うつむいた顔と抱えた膝。それは静止画のように動かない存在だったが、部屋には初めて「他者の気配」が生まれた。
そして今、理沙は夢の中で“その子どもを見ている自分”を意識し始めている。
これはただの光景の変化ではなかった。榊にとって、それは理沙の無意識が、これまで抑圧の奥深くに沈めていた感情と自己像を、少しずつ認識の表層に近づけてきている兆しだった。
彼女が「見ている自分」に気づいたということは、夢が単なる再現ではなく、自己との関係を描き出す場へと変化し始めているということだ。
榊はそれを言葉にせず、ただノートに短く書き留めた。
──「観察者としての自我の浮上」。
室内の空気がわずかに重くなる。理沙は気づかないふりをしているが、自分の言葉が部屋に響いたことで、何かが一歩、動いた気配があった。
榊は、視線を落としたまま静かに尋ねた。
「……何かを思い出すことに、抵抗があるように思いますか?」
その声は柔らかかったが、理沙の胸の奥で微かな波紋を立てた。
抵抗、という言葉が耳に残る。頭ではそれを否定したくなるのに、体の奥がわずかに反応してしまう。
理沙は呼吸を整え、言葉を探す。
「……ええ、そうかもしれません。」
少し間を置き、視線を逸らすように天井を見上げた。
「でも……怖いというよりは、むしろ……」
自分でも意外な感覚が口をついて出る。
「なんだか、慣れ親しんだ感じもするんです。」
あの閉じられた部屋。
壁の冷たさや、沈黙の重さ。
それは恐怖だけではなく、どこか懐かしい空気をまとっていた。まるで長い間そこに住みつき、外界の騒がしさから身を守ってくれていた避難所のように。
榊は、その言葉を聞きながら短くうなずく。
恐れと同時に安堵がある場所──それは、しばしば抑圧された感情や記憶が隠れ、しかし安全な幻として保たれている心の部屋であることを、榊は知っていた。
理沙がそれを“怖い”と感じないのは、そこが彼女にとってあまりにも長く“自分の一部”だったからだ。
榊はそれを言葉にせず、ただノートに記した。
──「恐怖+親和性:内的対象としての部屋」。
榊は、理沙の言葉を聞きながら、小さな変化に気づいていた。
ここ数回、理沙は夢の中の「子ども」に対して「かわいそう」という言葉を口にしなくなっていた。
以前は、あの子どもをどこか遠くから見ているような口ぶりだった。困っている子を、少し離れた場所から心配そうに眺めているような響き。
それが最近は、あの子どもを語るときの声色や間合いが、どこか違ってきている。
まるで他人を説明するような距離感ではなく、自分の中の何かを思い返すような、微妙な沈黙が混じるようになった。
榊は、その変化が理沙の心の深いところで起きている何かを示していると感じていた。
あの子どもを「かわいそう」と呼ぶ必要がなくなったのは、きっと、その子が“自分とは別の存在”ではなくなりつつあるからだ。
理沙はまだはっきりとは認めていないが、心のどこかで、その子が自分自身とつながっていることを感じ始めている。
榊はそれを言葉にはしない。ただ、記録ノートの片隅に静かに書き留めた。
──「距離が縮まっている」(仮)。
Ⅲ. 反復と裂け目
日常は、表面だけを見れば何も変わらなかった。
朝が来て、仕事へ行き、必要な連絡を交わし、淡々と時間は過ぎていく。
けれど、そのなかで理沙は気づいていた。
自分の中で、同じ感覚が何度も繰り返されていることに。
母と話すたび、その感覚はふいに立ち上がる。
電話の向こうの母の声はいつも平板で、抑揚がない。
「元気にしてるの?」
その問いかけは形式的で、返事を待っているようでいて、すぐに別の話題へ流れてしまう。
切り替わるその瞬間、理沙の胸の奥にかすかなざわめきが走る。
胸の内側で、何かがわずかに震えるような感覚。
それは痛みと呼ぶには弱すぎ、しかしただの不快感というにはあまりにも馴染み深かった。
その感覚が、時おりアルバムの前でよみがえる。
本棚の端に置かれた、少し色あせた背表紙。
指先が触れそうになるたび、まるで見えない膜がそこに張られているかのように、手を引っ込めてしまう。
開けば写真の中の笑顔や景色が、自分に何かを突きつけてくるような予感がある。
だから、触れられない。触れないことが、いつの間にか日常の一部になっていた。
理沙は気づき始めていた。
何も変わらない日常の下で、自分が同じ感情を何度もなぞっていることに。
まるで何かを繰り返し、同じ場所を回っているように。
その円の外側には、まだ足を踏み入れていない場所がある気がしてならなかった。
ある晩、理沙は迷った末に、棚の端に置かれたアルバムを手に取った。
長く触れていなかった背表紙は、薄く埃をまとっていて、指先がわずかにざらつく。ページをめくるたび、古い紙の匂いが空気に溶けていく。
そして、ある一枚の写真で指が止まった。
幼い少女が、白いワンピースを着て立っている。
その視線はまっすぐカメラに向けられ、少しも揺れずにこちらを見ていた。
夢で見た、あの子と同じだった。
「……私だ。」
声が、自分でも驚くほど小さく漏れた。
その瞬間、胸の奥に微かな重さが落ちる。
理沙はアルバムを閉じ、両手で静かに抱えるように持った。
そして、それを手に次のセッションへと向かった。
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Ⅳ. 解凍
「夢の中の部屋に……昨日は、私が入っていったんです。」
言葉を吐き出すたび、理沙の声はかすかに震えた。
セラピー室の柔らかな光が、彼女の横顔を淡く照らしている。榊は静かに耳を傾けていた。
理沙のまぶたの奥には、まだその光景が残っている。
あの閉ざされた部屋。
これまではいつも、遠くから眺めるだけだった。
けれど昨夜、なぜか足が動いた。ゆっくりと床に踏み出し、ひんやりとした空気の中を進んでいった。
部屋の中央、膝を抱えて座っている少女。
その顔が見えた瞬間、理沙の胸が締めつけられた。
長い間、近づくことを避けていた理由が、ようやくわかる。
その子は、自分だった。
「……あの子は、私だった。」
声がかすれる。
榊は何も言わない。ただ、わずかに姿勢を正した。
理沙は両手を膝の上で握りしめる。
「私は……あの部屋に、自分を閉じ込めてたんです。」
夢の中の部屋が、ゆっくりと理沙の内側に溶け込んでいく感覚があった。
それは凍っていた記憶がわずかに解け出すようで、どこか痛みを伴っていたが、同時に不思議な安堵もあった。
榊は、視線をやや下げたまま静かに問いかけた。
「……何のために?」
たった一言。しかしその響きは、理沙の胸の奥の、長い間誰も触れなかった場所に届いた。
理沙は、口を開くまでにわずかに時間を要した。息が浅くなる。目の前には、幼い日の記憶がぼんやりと立ち上がってくる。
「……母が、…わたし、…泣かなかった…。
…静かにしてればいつか終わるって思ったのかも…。」
声が細く、途切れそうになる。
「父が私を叩いても、誰も止めてくれなかった。」
その情景は、色あせた古いフィルムのように浮かぶ。
母の表情は硬く、目線は遠くを見ている。音はなく、部屋の中には自分の呼吸と心臓の鼓動だけが響いている。
「私は、あのとき感じたことを……」
胸の奥に重く張り付いていた言葉が、ようやく形になる。
「閉じ込めた。怒りも、怖さも。」
榊は何も言わず、ただ理沙の声が部屋の中に溶けていくのを見守った。
沈黙が訪れる。
しかしその沈黙は、これまでのような硬く冷たいものではなかった。
部屋の空気がわずかに柔らぎ、時がゆっくりと流れていく。
理沙はふっと息を吐いた。
「……でももう、…」
沈黙。部屋には、時間が静かに流れる。
「でももう、開けてもいい気がします。」
その声は、ほんの少し震えていたが、不思議な軽さがあった。
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Ⅴ. 終わりではなく、始まり
それから理沙は、何度も夢を見た。
部屋はもう、ただ遠くから眺める場所ではなかった。
ある夜、彼女はゆっくりと床に足を踏み入れ、子どもに近づいた。
その子は、以前と変わらず膝を抱え、うつむいていた。
近づくたび、足元の空気がひんやりとし、心臓が高鳴る。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、その背中を置き去りにしてきた年月の重さが胸に広がるだけだった。
理沙は膝を折り、その子と同じ高さまで目線を下げた。
ゆっくりと手を差し出す。
指先が触れた瞬間、その小さな手はわずかに震えたが、やがて握り返してきた。
温かさがあった。ずっと忘れていた、自分自身の温度だった。
そのとき、部屋の空気が変わった。
壁の色がわずかにやわらぎ、長く閉ざされていた扉が静かに軋むこともなく開いていく。
光が、部屋の外から差し込む。
その光はまぶしくも穏やかで、理沙の頬を温かく撫でた。
閉じていた部屋のドアが、音もなく開いていた。
それは終わりではなく、始まりだった。
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物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
理沙が夢の中で閉ざされた部屋の扉を開いたとき、それは彼女だけの解放ではありません。
過去と現在、傷ついた部分と生き延びてきた部分、その両方が一つになる瞬間でした。
心には、誰にも見せていない部屋があるかもしれません。
そこには閉じ込めた記憶や感情が眠っていて、触れるのが怖いと感じることもあります。
けれど、時にはその扉を少しだけ開いてみることで、新しい光や空気が流れ込むこともあります。
理沙の物語が、あなた自身の心の奥にある「部屋」をそっと思い出すきっかけになれば、これ以上嬉しいことはありません。
これからも、静かに、けれど確かに続いていくそれぞれの旅に、穏やかな光が差し込みますように。