そろそろ笑えない静けさです(1)
ドクター・マリアの研究室には、静寂と不協和音が同居していた。
ジョックス本部にある実験区画。組織の中でも限られた者しか立ち入ることを許されない。
そこでは科学と狂気が等価に扱われる。
培養槽に沈む人工臓器、絶え間なく発光する通電試験装置、焦げ付いた壁。
すべてが、倫理という言葉を置き去りにしていた。
壁には奇妙な形状の神経組織がプロジェクターから投影されていた。
複雑に絡み合った光の回路。
それは人間の脳内で感情が生まれる瞬間――怒りや喜び、不安といった情動が走るルートを、線と光で再現したものだった。
“心の動き”を図面みたいに見えるようにした、そんな映像だった。
「ふふっ、反応したわ。今の薬剤による影響、予想よりもいい壊れ方してくれた」
白衣の袖をまくり上げたマリアが、ビーカーの中のエスプレッソに口をつけながら呟く。
薬物中毒者のようなテンションと、医療従事者のような冷静さが、彼女のなかで奇妙に同居していた。
彼女の前には、半透明の培養槽。その中では、脳髄のような物体が小刻みに脈動している。
形状こそ小型だが、それは正真正銘“意識を持つ臓器”――マリアが創り出した“思考試料”だ。
冷蔵庫にはプリンと小型の脳が並んで保存されているが、なぜかラベルはどちらにも「デザート」と書いてある。
「次は……そうね、感情をコントロールする部分を切ってみようか。あ、でもその前に、興奮とかストレスに関係する神経の反応を試しておきたいのよね」
誰にともなく話しかけながら、彼女は器具に手を伸ばす。その指先は迷いがない。
数十通りの配合を同時に思い浮かべ、瞬時に最適解を導き出している。
だが、そんな集中の最中でも、彼女の目の奥には“遊び”があった。
「“感情を科学する”って言うと、笑われるのよね。でもね、わたしは思うの。笑いも怒りも、ぜんぶ……脳味噌の、うねうねのせいなんじゃないかって」
まるで詩人のような語り口でそう呟くと、マリアは再びホログラムに目をやった。
この女がジョックスに加わったのは七年前。
当時は大学の准教授で、“倫理違反ギリギリ”の研究報告で学会を震撼させていた。別名、「魂を煮る女」。
そんな彼女の前に現れたのが、民俗学の准教授を名乗る悪野獄丸――地獄元帥である。
「会話するのは初めてですね、聖川先生。
あなたの研究記録はいつも拝見させてもらってますよ。――とても素晴らしい。社会に拒絶されて当然なほどにね」
そう言うと彼は何の説明もなく、一枚のほぼ無地の羊皮紙を差し出した。署名欄だけが存在し、他には何も書かれていなかった。
普通ならば、その怪しい行動に警戒する状況で、マリアは少しも躊躇わなかった。
「退屈じゃないなら、どこへでも行くわ」
机の上のサインペンを取り、羊皮紙に一筆。
それは契約であると同時に、科学者としての生き方の選択だった。
数日後、彼女は大学から姿を消し、ジョックス創設メンバーの一人となった。
*
同じ階層の反対側――工学研究セクターでも、静かな狂気が進行していた。
ミスター・メタルは無言で端末に向かい、演算結果を次々と記録している。
冷却ガスの噴出音と、パネルのLEDが描く光のラインだけが、この空間の“生命”だった。
彼の眼差しは冷静だが、その裏には常に熱のない執念があった。
彼にも日本名はある。だがその名で呼ぶ者は、今や誰もいない。
彼は自ら望んでジョックスに来たわけではなかった。
初代ミスター・メタルである父親が、地獄元帥にスカウトされて加入。
その息子として半強制的に“連れてこられた”のだ。
卓上には、複雑に入り組んだ銀色の装置。――父の遺した“解読不能な何か”。
「出力変動、依然として不安定……この構造、どこをどう読んでも常識が通じないな。
なぜ、こんな面倒な設計にした……。あなたらしくもない」
ブツブツと独りごちる。だが、そこには苛立ちや焦りはなかった。あるのは理解したいという純粋な欲求だけだった。
この異常な構造を前にするたびに、彼の脳裏には――設計者だった父の、不自然な最期が微かに揺らめく。
「あれは、本当に事故死だったのか……」
彼は父の死に疑問を持っていた。正直なところ、組織への疑惑はある。
だが、今の彼の目に怒りはない。あるのは冷え切った執念だけ。
今の彼の目標は、父が遺した謎の兵器を完成させること――世界征服など、どうでもよかった。
そこへ、通信が入る。
「緊急幹部会議を行う。会議室に集合せよ。作戦通達する」
リザリスの声は冷静かつ毅然としていた。
メタルは端末を手早くシャットダウンし、部屋の片隅のロッカーに目をやった。
そこには、自分専用の強化服が格納されている。
「……久々に現場に出るのも悪くないな」
白衣を整え、研究セクターを後にする。
廊下の角で、ふたりの科学者は自然と合流した。
先に歩いていたのはドクター・マリア。手には研究で使っていたままの何かを持っていたが、特に意味はなさそうだった。
そのすぐ後ろに現れたのが、白衣を纏ったミスター・メタルだった。
彼は歩く速度を変えず、そのままマリアの横に並ぶ。
二人の間に言葉はない。視線も交わさない。
しかし、足並みは揃っていた。一挙手一投足が美しいダンスのように滑らかに。
マリアの呼吸は、淡々とした静けさの中に、不規則な興奮の波を含んでいる。
メタルの足取りは、一分の狂いもない機械のようなリズムを刻んでいた。
正反対の研究領域、正反対の性格、正反対の熱意。
だが、彼らには互いの“狂い方”がよく見えていた。
そして、それが一線を超えた者同士にしかわからない“完成度”であることも。
信頼ではない。だが、評価はしている。
言葉では決して交わさない、そういう無言の肯定が、足音ににじんでいた。
ふたりは黙って、会議室への扉をくぐった。
「神など、我らが前には無力。食らって、進め」
次回、『そろそろ笑えない静けさです(2)』