恋という任務は初めてです(2)
「続いて、研究班の報告を」
ダルフィが目線を送ると、白衣の女が静かに立ち上がる。
ドクター・マリア。ジョックスの化学部門長。その実験的言動は組織内でも一目置かれていた。もちろん悪い意味である。
「例の開発中の薬剤、数値的には安定傾向ね。投与量と方法次第で、作用を切り替えられる設計よ。洗脳導入剤としてもいけるし、必要があれば――そうね、肉体活性とか、攻撃性の増幅モードにも“調律”できる感じ。……まだまだ、生命の遊びがいがあるわ」
「相変わらず、倫理が崩壊しているな」
ミスター・メタルがぼそりと呟いたが、マリアは聞こえないふりをして話を続けた。
「良い報告だ。継続せよ」
地獄元帥の評価に、マリアはにっこりと笑った。
続いて立ち上がったのは、全身を白衣に包んだ青年――ミスター・メタル。
彼は工学部門の責任者であり、ドクター・マリア同様、ホムンクルス怪人でもない、純粋な人間である。だが、その存在感はむしろ組織内でも際立っていた。
「戦術装備〈MZ-09〉の試験運用を完了した」
ミスター・メタルが立ち上がり、簡潔に口を開く。白衣の下で微かに動いた手元には、小型のデータ端末が握られていた。
「出力は、当初の計画値を大きく上回った。――予想より、かなり」
一瞬、場が静まる。淡々とした口調の中に、わずかなためらいがあった。
「試験中、予想外の破壊力に、地下の実験場第三区画の壁が一部吹き飛びかけた。実験場は自動修復システムが作動したが、計測器もいくつか使い物にならなくなった」
「え、それもうほとんど爆発事故じゃん!」
サディーダが椅子の背にもたれながら叫ぶ。半笑いだが、声に焦りが滲んでいた。
「町ひとつを消し飛ばすくらいの威力はある。局地戦闘用としてはオーバースペック。現状では、そのままの実戦投入は難しい」
「私の部屋まで揺れてた"あれ"ですね。お気に入りの香水棚が崩れて……残念です」
ジルカメスが控えめに言ったが、その口ぶりには優雅な苛立ちが滲んでいた。
地獄元帥が目を細めたまま言葉を継ぐ。
「早期の実戦投入は見送るとしても……この力、無駄にはするな。〈MZ-09〉の応用性を探れ。攻撃以外にも使える道があるはずだ」
地獄元帥が指示を下すと、ミスター・メタルは深く一礼した。
「善処します」
彼の声には、失敗の自覚はない。ただ静かに、さらなる破壊を求める気配が滲んでいた。
「期待している」
誰も彼の心の奥を読み取ることはできない。だがその目の奥には、いつも何かを計算し続けるような、静かな光が宿っていた。
「以上が作戦部隊および研究班からの報告です」
ダルフィが締めると、再び空気が沈黙に包まれた。
報告の一つひとつは冷静に進められたが、その裏では、各幹部がそれぞれの責任と成果を背負ってこの場に臨んでいた。
そして、次の瞬間――
リザリスが静かに顔を上げた。
「次期作戦の提示をお願いします、首領」
リザリスが進行を戻すと、地獄元帥が静かに手を翳した。
円卓中央に設置された魔道オーブが赤く光り、空中に立体映像が浮かび上がる。
『次期作戦:”都市恋愛解析計画 《フェロモグラフ・ゼロ》 通称:街コン作戦"』
一拍置いて、会議室に絶妙な沈黙が走った。
「……失礼ながら、街コン……でありますか?」
最初に声を上げたのは、ゴラリラだった。
その口調はいつも通り律儀で落ち着いていたが、その額にはわずかな汗が滲んでいた。
「そうだ」
揺るがぬ声音で即答する地獄元帥。
「人間の恋愛衝動は、感情制御技術の核心である。これを数値化し、行動原理を解析、最終的には全体支配のモデルへと応用する」
「恋愛の……数値化……」
ダルフィがメモを取りながら小さく唸る。
「それってつまり、“恋を理論とか数値で支配する”ってことですか?」
サディーダが手を挙げずに発言した。
「理論的に説明された恋なんて、逆に怖くない?」
「お嬢さん、恋をしたことがあるのかい?」
ジルカメスが茶化すように横目で見た。
「そーいうのは秘密〜。でも少なくともゴラリラさんは絶対にしてないと思う〜」
「否定はしないが……」
ゴラリラが苦み走った声を漏らす。
「そして、この作戦、現場指揮を執るのは……ゴラリラ、お前だ」
会議室全体が、音を失う。
しばしの沈黙の後、ゴラリラはゆっくり立ち上がり、直立姿勢で問い返す。
「……小官が、でありますか?」
当然だが、誰もが内心で思っていた。
――その作戦に、なぜゴラリラを……?
「異論があるか?」
「いえ、ございません。任務、必ずや完遂いたします」
ゴラリラは深々と礼をし、再び無表情で席へ着こうとした――その瞬間。
「……え、マジでゴラリラさんがやるの?」
サディーダが耐え切れず、言葉にしてしまった。
「いや、全然アリなんだけどさぁ……その……ゴラリラさん、恋愛系、マジで不得意そうっていうか……」
「……確かに。作戦指揮としてはやや意外な人選だな」
冷静に口を挟んだのはダルフィだったが、目の奥にはわずかな困惑の色。
「“恋愛”と“戦術”は基本的に相容れない概念だ」
「けれど、ゴラリラには“誠実さ”があるわ」
マリアがふと口を挟んだ。
「恋愛において、誠実さは強力な武器。相手が反応しやすいのは、嘘をつけないタイプよ」
「嘘のデータはすぐバレるからな」
メタルが何気なく頷く。
「――我が命に、理由は不要だ」
低く、だが誰の意見も寄せつけぬ圧で放たれたその一言に、全員が黙した。
「はっ、御意にございます!」
ゴラリラは力強く敬礼し、その眼差しに迷いはなかった。
「我らジョックスは、世界を混沌に染め上げる。
正義に従うのが人間なら、悪に抗うのもまた人間だ。我らは、人の意志そのものだ。
そのために今、恋という不可解なる感情の核心を暴く。
具体的な作戦指示はリザリスとダルフィに任せる」
その声とともに地獄元帥はその場から消えるように姿を消した。
ゴラリラはその場で、静かに襟章を正した。
姿勢は最初から最後まで完璧な直立。背筋を少しでも緩めることすら、軍人としての矜持が許さなかった。
地獄元帥から直々に命じられた任務。現場の指揮官に選ばれた以上、恥を晒すことなど許されない。
だが、その胸中には――未経験の“戦場”に対する、僅かな不安もあった。
(……敵の弾丸や毒ガス、心理戦なら数多く経験してきた。だが、“恋愛”とは一体なんだ……?)
ホログラムに表示された作戦計画書には、「共感力の強化」「聞き上手であれ」「褒め言葉を自然に使うこと」など、得体の知れない文言が並んでいた。
明確な戦術も、罠も、配置図もない。
まるで精神修行のような曖昧なルール――それこそが、“恋愛”の本質なのだという。
理解できずとも、遂行しなければならない。それが、命令だった。
当然ながら、会議室ではざわめきが広がっていた。
「まあ、恋に意外性って大事だけど、“ギャップ萌え”狙いとか……じゃないよね?」
サディーダが呟いた。
彼女は笑っているが、それは本気の侮辱ではない。むしろ心配ゆえの発言だった。
「……任務は任務だ。選ばれた以上、ゴラリラに異論はないだろう」
冷静に返したのはダルフィ。だがその言葉の裏にも、“不安”が滲んでいた。
メタルは隣で何かをぶつぶつと呟いていた。
「……筋肉と恋愛の相関性、未知数……パラメータ設計に難あり……」
「うるさいよ、メタルくん」
マリアが涼しい顔で釘を刺す。
会議室の空気は、いつになくざわめいていた。だが、その中心にいるゴラリラは、ただ静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
静かに、だが確実に――悪の歯車が、またひとつ、音を立てて回り始めた。
「小官にとって、“恋愛”とは未知の戦場であります」
次回、『恋という任務は初めてです(3)』