知られざる者たち(2)
そのときだった。
空気が、揺れた。
否――空そのものが、ひび割れた。
戦場の上空。濁った雲の中央に、亀裂が走った。
瞬間、真っ黒な稲光が空を貫く。
亀裂の中心に、異形の影が浮かび上がる。
地を裂くような雷鳴とともに、その姿が地上に落ちてきた。
だが、それは“落ちる”のではなかった。“降りる”のだった。
重力を逆らうでも、抗うでもない。まるで――この世界が彼を受け入れて当然かのように。
漆黒の軍装。燃えるような紅のマント。
禍々しき威容と、圧倒的な気配。
その存在が地に着いた瞬間、あらゆる音が――死んだ。
地獄元帥、降臨。
誰もが、息を呑んだ。
サディーダが声もなく見上げ、ダルフィが槍を下げた。
ジルカメスは思わず膝をつき、ゴラリラは震える膝を強引に立たせる。
そしてリザリスが、誰にでもなく呟いた。
「首領、お手を煩わせて申し訳ありません」
「――リザリス。状況を伝えよ」
その声に、空気が震えた。
リザリスは杖を立て直し、即座に応じる。
「はい。連携攻撃にて左頭部への集中打撃を行いました。私も“破滅掌”を放ちましたが、――“アレ”を仕留めるには至りませんでした。
むしろその後、反応に異変が出ています。進化した可能性があります」
ラグズグラの傷は、確かに修復されていた。
だが、それだけではない。
表面の質感が変わっている。
焼け爛れたはずの頭部は、黒曜石のように硬質な層に覆われつつあった。
さらには――頭頂部を中心に、装甲のような隆起が形成され始めていた。
ただの再生ではない。
それは“攻撃を想定した強化”としか思えなかった。
メタルのバイザーに情報が流れる。
「反応値に偏りがある。……中心部にエネルギーが集まりすぎている。何かを溜めてる」
幹部たちは、静かに地獄元帥の背後へと集まりつつあった。
誰も指示していない。だが自然と、包囲網のように。
その中で、リザリスがわずかに息を詰める。
地獄元帥の胸元で、常に身につけている魔具――夢幻のアミュレットが、紅く脈打つように光っていた。
本来は沈黙したままのはずのその宝玉が、いまは明らかに内側から赤い光を漏らしている。
それは、封印されていた力が、限界を超えて解放されている証だった。
「……この気配……間違いない。首領は今――超悪魔力を限界まで解き放っている」
その言葉に、空気が一段と重くなる。
ジルカメスが動きを止め、サディーダが本能的に一歩後ずさる。
ゴラリラの拳が無意識に固く握られ、ダルフィは息を飲んだ。
誰もが、圧倒されていた。
ラグズグラの巨体が、音もなく軋んだ。
砕けた瓦礫を押しのけるように、前脚が地を叩く。
その衝撃だけで、周囲の地面がわずかに隆起する。
ゆっくりと、だが確実に、上体が持ち上がっていく。
頭部が完全に持ち上がり、空をなぞるように首が旋回する。
その紅い目が、ゆっくりと地上を見下ろす。
瓦礫の中に、ひときわ強い熱源。
そこに一点、視線が止まった。
――地獄元帥。
ラグズグラの目が、焦点を結んだ。
無数の攻撃を跳ね返し、頭部へ傷を刻んだ者たちではない。
たった一人、確かに“脅威”と呼べる存在がそこに立っていた。
巨獣が――“敵”を認識した。
巨体の右脚が、空高く持ち上げられる。
次の瞬間、地獄元帥めがけて、質量のすべてを乗せて踏み下ろされた。
踏み潰す。それはもはや戦闘ではなく、絶対的な暴力だった。
だが、地獄元帥はただ片腕を掲げたのみ。
それ以外は一切の動きもない。
――衝突。
爆音とともに、大地が揺れる。
幹部たちが息を呑んだ。
瓦礫が跳ね、砂塵が舞い、熱風が押し寄せる。
その中心に、地獄元帥は立っていた。
巨大な足裏と拳がぶつかり合い、力が拮抗する。
巨獣の脚がわずかに軋み、空気が悲鳴のようにうねった。
元帥は、一歩踏み込む。
構えを取るでも、力を込めるでもない。
自然体のまま、ただ――押し返した。
ラグズグラの紅い目が、かすかに揺れる。
ただの反射神経ではない。そこに、一瞬の“怯え”があった。
人の形のまま、怪獣と対等にぶつかり合う存在。
それが、地獄元帥だった。
――互角。
それが、周囲の誰もが目にした現実だった。
怪獣の踏み下ろしを、ただの拳で受け止め、押し返す。
地獄元帥の動きは最小限。力も気配も、すべてが削ぎ落とされている。
だが、その威圧は、確かに怪獣の質量すら上回っていた。
数合の交錯が続く。
拳と脚、衝突と爆裂。
地獄元帥の拳が振るわれるたびに空気が弾け、ラグズグラの巨体がわずかに揺れる。
逆にラグズグラの打ち下ろしは、地を陥没させ、街並みの残骸を吹き飛ばした。
元帥は常に地に足をつけていた。
崩れかけた歩道橋を駆け上がり、斜面から跳躍する。
ビルの鉄骨を踏み台にして加速をつけ、ラグズグラの腹部へと拳を突き立てた。
――ゴゥン!
打ち込まれた拳が、黒曜石のような硬質の皮膚を鈍く震わせる。
「……あれが、首領の“素手”……」
ジルカメスが思わず呟く。目を見開いたまま、拳の軌跡を追っていた。
「まじで、化け物じゃん……」
サディーダが素直に驚きの声を漏らす。
“強い”という言葉では足りない。そこにあったのは、規格外の現実だった。
ラグズグラの尾が回り込むように元帥をなぎ払った。
轟音。元帥の身体が斜めに吹き飛び、瓦礫に衝突する。
「っ……!」
ゴラリラが思わず前に出ようとするが、自制する。
その目には怒りではなく、焦りとも違う感情――畏怖が宿っていた。
土煙が舞い、外套が裂ける。
だが、すぐに元帥は立ち上がった。
腕を軽く振り払い、口元に微かな笑みを浮かべる。
「動きに迷いがない……」
ダルフィの声はかすれていた。
ここまで思考を奪われたことがあっただろうか。
再び駆け上がる。
元帥は足場を刻むように移動し、今度は高架道路の支柱を蹴り飛び、斜め上へ跳躍。
崩れかけた建物の中腹を片足で蹴り、そこからさらに上へ飛んだ。
瞬間、彼の姿がラグズグラの肩口の高さ――地上から50メートル付近にまで達する。
地獄元帥の拳が、鋭く、正確に、ラグズグラの首根っこへと突き刺さるように叩きつけられた。
鈍く重い音。
ラグズグラの頭部が仰け反り、踏ん張る脚が一歩ずれる。
「……まさか、あんな巨体を……後退させるなんて」
リザリスが小さく呟いた。
報告でも分析でもない。ただ、事実として――彼女もまた、驚いていた。
幹部たちは、その光景を見つめていた。
誰もが、呼吸を忘れていた。
これが――ジョックスの首領。
すべての頂点に立つ者の、真の力。
その最中――異変が起きた。
ラグズグラの動きが、ぴたりと止まる。
巨体の表面に走っていた光が収束し、まるで鼓動のように“内側から”震えはじめる。
「……あれは――」
マリアが、戦場の縁から口を開く。
彼女は瓦礫の陰に姿勢を低くしつつ、数名の戦闘員と共に戦況を見守っていた。
「反応が変わった。制御されてない、あれは……また弾ける」




