平穏とは悪の隙間に生まれる(4)
《盤上の悪》 - Endgame Elegance.
ジョックス本部・地獄元帥私室。
禍々しい装飾と荘厳な椅子が据えられた空間。
その中央には、何の因果かローテーブルと古びた将棋盤が置かれていた。
並ぶ駒はすでに中盤戦を超えており、駒台の横には、年代物の新聞の切り抜きが丁寧に折り畳まれている。
「……ここで金か。いや、桂馬の跳ねが生きる手筋があるか」
玉座にもたれ、地獄元帥は眉間にしわを寄せる。
人呼んで“悪の首領”、ジョックスを率いる存在が、今はただ一つの盤面と静かに対峙していた。
将棋、それも詰将棋。
かつてリザリスが何気なく差し出した資料の中に、古い新聞の将棋欄が混じっていたのが始まりだった。
それを見た地獄元帥が「ふむ、思考訓練としては面白い」と口にしたのを、ダルフィは覚えている。
以降、彼は完全にこの謎解きに魅了されてしまったのだ。
それからというもの、空き時間のほとんどを盤面と古文書に費やすようになり、会議にはホログラムでの参加が増えた。
表向きには「業務の効率化」と説明しているが、実際にはこの部屋を離れたくないだけなのだろう――本人にその自覚があるかどうかは、さておき。
とはいえ、これは“趣味”である。地獄元帥にとって、部下の前で趣味にふけるなどあってはならぬこと。
実際には、リザリスもダルフィもとっくに気づいている。
だが、絶対にその話題には触れない。
地獄元帥の威厳を守るために――いや、あえて触れるほうが怖いというのもある。
(……露見してはならぬ。完璧な威厳を保たねば)
そう自分に言い聞かせ、地獄元帥は今日も静かに盤面と向き合っている。
そんな折――
「失礼いたします、ジルカメスです!」
扉の向こうから陽気な声が響いた。
「っ……待て!」
地獄元帥は即座に立ち上がり、新聞と将棋盤をまとめて椅子の下へ滑り込ませる。
駒が一つ転がったが、それすら指先で器用に回収し、ポケットに押し込んだ。
「入れ」
声は平静を装っていた。が、わずかに息が上がっている。
扉が開き、第2作戦隊長・ジルカメスが現れる。
いつもながらの華美な燕尾服に、胸には自作の“詩巻”を抱えている。
「首領! 本日は、ついに完成した“真なる一篇”をお聴きいただきたく……!」
「何用か。要件を簡潔にせよ」
「はい! このジルカメス、悪と美を結ぶ究極の詩を完成させました! 全三十三連の構成で――」
「三行にせよ」
「っ……!」
ジルカメスの口が止まる。
「……承知いたしました。即興で凝縮いたします」
彼はその場に片膝をつき、巻物を開きながら詩を整えた。
「この身に刻む、深紅の情熱――
悪に咲く美、己の姿にこそ宿る――
我が言葉、世界をも染め上げん――」
吟じ終えた瞬間、部屋に沈黙が満ちた。
地獄元帥はしばし目を閉じ、腕を組んでいたが、やがて口を開いた。
「……悪くはない」
「っ、ありがとうございます!」
「だが、“悪の名のもとに”という言葉が足りぬな。芸術もまた、我が理念に通ずるものでなければならぬ」
「お言葉、しかと受け止めました!」
ジルカメスは満面の笑みで深く一礼し、退室していった。
その姿が扉の向こうに消えたのを見届けて、地獄元帥は静かに新聞と盤面を引き戻す。
「……ふう。間一髪だったな。椅子の下にもう少し余裕を設けておくか」
新聞の端を丁寧に伸ばし、再び詰将棋の続きに目を落とす。
「終局因果式 《ターミナル・コーザリティ・ドライヴ》……悪の理論として用いるには、少し捻りが足りぬか。次の作戦名に応用するには……いや、虚無零式 《ゼロヴァース・コラプス》などどうだ?」
彼の脳裏には、いつしかひとつの作戦の構図が浮かび始めていた。
「……この桂馬の跳ね、敵の予測を裏切る三手先の打ち込み……使えるな」
盤上の勝利も、現実の勝利も、意外性と読みの深さがものを言う。
地獄元帥の目に、一瞬だけ光が宿った。
指が盤上を滑り、桂馬を跳ねさせる。
その手つきには、指導者としての威厳も、兵法家としての洞察も、そして――趣味に耽る男の、ほんの少しの楽しさも宿っていた。
*
《午後三時の任務待機中》 - Hearts in Standby.
駅ビルのフードコート。
午後の陽射しが窓際の床に四角く落ちている。
「……ねえメタルさん、あと何分これ続くの?」
ストローをくわえたまま、人間に変身中のサディーダが、頬杖をついて見上げてきた。
制は紺のブレザーに赤いリボンタイ、プリーツスカートはチェック柄。
地味になりすぎないよう小物とカチューシャで“ちょいあざとい女子高生”感を演出しているらしい。
変身時の彼女がどこまで本気でコーデしているかは不明だが、見た目だけなら周囲の高校生と何ら違和感はなかった。
対するメタルは、黒のパーカーにジーンズ、スニーカーという地味すぎるほどの無難ファッション。
その割に着こなしは妙に整っていて、背筋も姿勢も軍人のように真っ直ぐ。
外見は“ちょっと無口な彼氏”で通せるが、会話がなさすぎるので逆に不自然だ。
「対象の出現予定時刻まで、残り一時間五十二分」
メタルは時計も見ずに答える。
コーヒーを口に運ぶ動きですら、訓練されたように無駄がなかった。
「……あと一時間五十二分も、こんなとこで“デートしてるふり”するわけ?」
「潜入任務中だ。設定上の整合性は保たねばならない」
「“リアルな若者カップル”のデートで、会話ゼロとかある!?」
「感情の可視化は不要だと判断しているだけだ」
「ははーん、それって“照れてる”ってことじゃないの~?」
そう言って、サディーダは小さく体を寄せてくる。いたずらっぽい笑顔。
メタルは一拍、視線をそらした。
「……君は、演技に没入しすぎている」
「ふふ、だってメタルさんってさ、こういうの慣れてなさそうで、ちょっといじりたくなるんだもん」
にこにこと笑いながらクリームソーダをすすっている彼女は、どう見てもただの陽気な女子高生だ。
だがメタルにはわかっている。数時間前に戦闘シミュレータでトップ記録を更新したのも、制御訓練でバランス制御装置を壊したのも、彼女だ。
「……足を組むな。視線が集中する」
「えー? “あざとい彼女”って設定のほうが、今っぽくない?」
「想定とは異なる方向のリアリティだ」
サディーダは肩をすくめて笑った。
「はいはい、わかりました~。じゃあ真面目にします、真面目に。……ねえ、メタルさん」
少し声色が変わる。からかいは消え、少しだけ本音のトーン。
「こーいうの、嫌い?」
「……別に」
「ふーん。じゃあさ、任務じゃなくても、一緒にごはん行ける?」
「それは――首領の許可が下りれば」
「……そっかー……ってマジメか!」
サディーダは声を上げて笑い出した。
笑いながらストローをぐるぐるとかき混ぜ、クリームソーダの泡がぺしゃんと弾ける。
――その時だった。
「確認信号。対象接近まで15分。予定より早いな」
メタルの端末が低く振動した。
「……本番か。切り替えよう」
「はいはーい、戦闘モードっと。じゃ、そろそろ“かわいいサディーダちゃん”終了でーす」
彼女はぱたんと紙ナプキンをたたみ、立ち上がった。
その動きは自然で、しかし背筋の伸びた“プロ”のものだった。
「……メタルさん」
彼女はほんの少しだけ振り返る。
「……たまには、こういうのも悪くないね」
メタルは答えなかった。
ただ、隣に置かれた紙コップを静かに持ち上げ、少しだけ――飲んだ。
任務は滞りなく終了した。
例の大臣は、次の会議には出席できないだろう。
彼女は、ほんの少し笑った気がしたが、いつも通り素早く現場を離れていった。
メタルはしばしその背を見送り、手元のカップを握った。
“任務じゃなくても、一緒にごはん行ける?”
彼女の投げた問いが、なぜか頭の片隅に残っていた。
「言葉が並ぶだけで、何も決まらない会議なんて、何度も見てきた。
でも――今回ばかりは、本当に、手遅れになるかもしれないと思った」
次回、『責任の所在が行方不明です(1)』




