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平穏とは悪の隙間に生まれる(3)

《泡沫の境界》 - Purity in Silence.


 ジョックス本部・ドクター・マリア私室。

 実験域に近い位置に設けられたその部屋は、実験装置や冷却棚、試料保管庫に囲まれているものの、中央の扉を開ければ、まるで別世界のような空間が現れる。


 ――バスルームだ。


 白を基調としたタイル張りの壁。低く灯された照明が、猫足バスタブの縁を淡く照らす。

 金の装飾を施した蛇口からは、すでに湯が止められ、湯面に浮かんだ泡がゆっくりと沈んでいた。


 マリアは、静かにその中に身を沈めていた。


 膝を軽く立てて湯に隠し、腕は縁に預けるように脱力している。

 膨らみやすい癖っ毛は濡れて肩に張りつき、普段の爆発したような髪型とはまるで印象が違った。

 艶やかな白肌はどこか冷たげでありながら、湯気にほんのりと色を差し、湯に映る輪郭をゆるやかに揺らしている。


 指先に泡をとって、肩先から首筋へと滑らせる。

 極細のボディブラシで肘の裏や足の甲まで、ゆっくりと円を描くように洗っていく。

 動作は丁寧でありながら、どこか実験的で、感覚の変化を測っているかのようでもあった。


 石鹸の泡がふわりと広がり、白肌に溶けていく。

 薄く紅潮した肩と胸元が湯の中にちらりと沈み、ゆらめく光に包まれる。

 意図せず艶を帯びたその姿も、本人にとってはただの“手入れ”の延長にすぎない。


 マリアにとって、肉体とは自ら観察し続ける対象であり、同時に、日々変化する唯一無二の“(うつわ)”だった。


「……ふぅ」


 マリアが細く息をついた。口元には微笑のようなものが浮かび、天井のシーリングライトをぼんやりと見つめる。


 風呂は、好きだった。


 汚れを落とすだけでなく、雑念を洗い流す行為。体温を整え、神経のバランスを均し、皮膚感覚を敏感に研ぎ澄ませる準備でもある。


 それは同時に、すべての「余分な思考」を取り去る時間でもあった。


 水音が跳ねる。

 マリアが立ち上がると、艶やかな肢体が湯の中から現れ、肩にかかる髪が雫を垂らして落ちた。

 バスタブの外へ一歩踏み出すたび、濡れた肌から生まれた蒸気が周囲に溶けていく。


 湯から上がると、マリアはふわりとバスローブを羽織り、無造作に胸元の合わせを整える。

 タオルで足元を拭きながら、髪の先から滴る雫を軽く払い落とす。

 その動きすべてに計算はなく、だが見ようによっては、どこか挑発的な美しさがあった。

 無造作に見えるその所作も、寸分の乱れなく機械のように正確だ。


 化粧はしない。必要がないからだ。

 鏡に映った顔を見て、特に何かを感じるでもなく、一瞥だけで離れる。


 マリアはそのまま部屋の奥――研究スペースの一角に足を向けた。


 棚にずらりと並んだ無地のビーカー群の中から、彼女は何の迷いもなく一つを取り上げた。

 濃く抽出されたエスプレッソが注がれ、香りが立ちのぼる。


 片手にそれを持って、マリアは自室の椅子へと腰を下ろした。

 白衣の替えを手に取ると、そのまま膝の上でたたみ、目を閉じる。


 しばらくして、彼女はエスプレッソを一口啜ると、デスクに置かれたノートを開き、細いペンで静かに一文だけを記した。


『No.5073:皮膚と熱、知覚の交差領域。入浴後45分間に集中増幅傾向あり』


 マリアはそれを閉じ、無言で棚に収める。

 あらゆる体験も、感覚も、分析可能である限り、記録に値する。

 知識もまた、熱が冷める前に封じるべきである。


 ――明日はまた、知と肉体の境界を探る、精密な一日が始まる。


 湯気の余韻と、カフェインの熱が、ゆるやかに肌と神経を温めていく。


 静かで、整った、美しい夜だった。



《幻海王国》 - Sovereign of the Phantom Tides.


 ジョックス本部・ダルフィ私室。


 ダルフィは静かに水槽に身を沈めていた。

 半透明な膜で覆われたガラスの内側には、スピーカーが仕込まれている。

 アンビエントサウンドが、水の振動を通じて骨に染み渡る。


 微量のテトロドトキシンを溶かした水が、彼の感覚を優しく麻痺させていく。

 音と光と、水の肌触り。

 世界の輪郭が、にじみ、溶け、ほどけた。


 やがて、彼の目の前に――

 見えるはずのない“ゆらぎ”が、淡く現れた。


 視覚でも聴覚でも捉えきれない、なのに確かにそこに“いる”とわかる。

 深海のような沈黙の中、わずかに漂う潮の香りと、脳の奥にしみ込むような“気配”。

 それは、言葉よりも前に、存在としての「声」だった。


 ダルフィはゆっくりと目を閉じ、その虚空に向けて、静かに語りかけた。


「……やっと来たな。蒼の底で眠る“(ふる)(こえ)”。この脳髄に直接ささやけ。今夜は、交信の夜だ……」


 返事はなかった。

 けれど彼には、確かに何かがこちらを覗いているのがわかった。

 言葉ではなく、理解の波動のようなものが、静かに意識を浸していく。

 世界の基調音が、少しずつ別の旋律に塗り替えられていく。


 やがて、ダルフィは無意識に水槽から這い出た。

 びしょ濡れのまま、テーブルの上にあった紙片を取り、

 乱れた字で何かを書きなぐる。

 書き終えると、何事もなかったかのように、また静かに水槽へ戻った。



 ――翌朝。

 水槽の横のテーブルには、しわくちゃのメモが一枚、残されていた。


『注意:第七音階に棲む者たちが、境界振動を超えてきている。メディアン層が融解中。早急に詩的対話手段を確立せよ』


 ダルフィはそれをしばらく無言で見つめた。

 そして、わずかに首を傾げる。


「……?」


 小さな疑問を残しながら、彼はそっとメモをテーブルに戻した。

「一手進めれば、道が閉ざされる。一手留めれば、未来が開く。……愉快なものだ」

 次回、『平穏とは悪の隙間に生まれる(4)』

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