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平穏とは悪の隙間に生まれる(1)

 ジョックスの内部には、意外なほど整った生活環境がある。


 その活動内容は正真正銘の悪であり、社会秩序を破壊し混乱をもたらすことを目的としているが、だからといって内側まで混沌に満ちているわけではない。

 幹部たちにはそれぞれの私室と設備が与えられ、休息や補給のタイミングもある程度自由に設計されている。

 訓練施設、実験区画、風呂、医療ブース、果ては資料閲覧室まで――組織としての整備は意外なほど進んでいた。


 とはいえ、それは秩序が緩いという意味ではない。

 上層の命令は常に優先される。なかでも地獄元帥の一声は、あらゆる予定と私情を飛び越えて絶対だ。

 それでもなお、幹部たちが心身を崩さず任務にあたれるのは、“休める時に休む”という共通認識が組織に根付いているからだった。


 この日は、作戦と作戦の狭間にあたる比較的穏やかな日だった。

 呼び出しもなく、アジト全体に流れる空気も、どこか緩やかさが感じられた。


 ある者は研究に没頭し、ある者は筋力を鍛え、ある者は浴槽の中で思考を沈めていた。

 決して交わらない静かな時間が、地下深くの迷宮を穏やかに満たしていく。


《孤高の味覚》 - Dragon Never Slurps Twice.


 ジョックス本部・資材倉庫。

 その一角に、“使用不可”と書かれた札のぶら下がった部屋がある。

 資材倉庫として登録されたこの部屋に、時おりひとりの幹部が姿を見せることを、誰も口にすることはない。


 ――トカゲ型怪人、いや、いまやその進化系たる“ドラゴンの超級怪人”、参謀リザリス。


 彼女はその日も、静かに扉を開け、優雅に足を踏み入れた。


 身に纏っていたのは、黒を基調としたゴシック調のドレス。高く立ち上がる襟、編み上げのコルセット、袖口にあしらわれたレース。そして裾には深紅の刺繍が、まるで焔のように流れている。これが彼女のアジトでの普段着だった。


 室内には、戦闘員が一人。無言でコンロに火をかけ、寸胴鍋から立ちのぼる湯気を睨んでいる。


「……来たか。今日は予定より少し早いな」


 戦闘員に返事はない。ただ、動作だけが極めて静かに、そして正確に進められる。


 やがてテーブルに(どんぶり)が置かれる。


 琥珀色の鶏白湯(とりぱいたん)スープ。その上に柔らかなチャーシューが二枚、燻製された香りとともにたゆたっている。刻みネギと半熟味玉。軽く炙られた穂先メンマ。全てが、ひとりの怪人のためだけに存在する。


「……完璧だ」


 リザリスはドレスの裾を整えて腰を下ろし、杉の割りばしを割ると、静かにひと口――啜った。


「……っ」


 その瞼が、ほんの少しだけ緩む。


「やはり、塩加減が絶妙だ。今日は昆布出汁が少し強めか……悪くない、いや、むしろ“ありがたい”」


 麺をすすり、スープをひとさじすくい、具材を少しずつ味わう。どの工程にも無駄はなく、だが確かな“悦楽”があった。


 このひとときこそ、参謀として、あるいは“ドラゴン”としての孤高を生きる彼女にとって、唯一心を許す時間だった。


「……あの戦闘員も、なかなか手際がよくなったな」


 ちらりと鍋のほうに目をやり、わずかに目を細める。


 最初は失敗続きだったのだ。湯の温度を間違え、麺を茹ですぎ、ネギを焦がした。だが今は違う。寸分の狂いもない。


「……やはり、学習性能は侮れない。味覚は持たぬくせに」


 皮肉めいた言葉にも、リザリスの声にはどこか柔らかい音が混じっていた。


 完食。


 リザリスは、最後のひとすすりを終えると、残るスープをそっとレンゲにすくい、口元へと運ぶ。


 ――静寂。


 そのまま、瞳を閉じた。


「……っ」


 舌に広がる旨味、喉奥に残る余韻、湯気に包まれた香りが、神経の奥まで染み渡る。


 目元には、まるで官能の波に浮かぶような微細な震えが走り、うっすらとした息が唇の隙間から漏れた。


「……これは、もう……」


 瞳を開いた彼女の眼差しは、いつもの冷徹な輝きをほんのわずかに失い、どこか“満たされた女”の、柔らかな色を帯びていた。


 鋭く整った輪郭を持ちながらも、その顔立ちには確かに“人の美”が残されている――いや、むしろ怪人であることが、逆にその艶を引き立てていた。


 長い睫毛が伏せられ、艶やかな唇がそっと閉じられた。


 首筋の鱗模様がほんのり紅潮し、編み上げコルセットの奥から覗く肩先まで、体温がじわりと上昇しているのがわかる。


「……ふ、ぁ……」


 彼女が小さく伸びをすると、ドレスの袖とレースが微かに揺れ、隙間から滑らかな肌がちらりと覗いた。


 戦闘員は、まるでその姿を見ていないかのように、ただ静かに立っている。


 リザリスは椅子の背にもたれ、肩の力を抜いた。


「……これは、快楽に等しい」


 呟いた声に、自らも苦笑を含ませた。


「この姿を、あの(ひと)が見たら、どう思うだろうな……」


 わずかにレンゲを傾けて、もう一口。けれどそれは、味を確かめるためではなく、幸福の名残を惜しむ行為だった。


 そして、名残惜しげに、最後の一滴を飲み干すと――


「……本当に、美味だった。完璧だった」


 静かに、確かに、そう結論づけた。


 その顔には、戦術も策略もない。ただ満ち足りたひとりの怪人の、心からの満足が浮かんでいた。


 戦闘員が黙って丼を下げようとしたとき、リザリスはふと立ち止まり、静かに言った。


「……次は、味噌ベースにしてみてくれ。合わせ味噌だ。ほんの少しだけ、辛味を足して」


 戦闘員は無言で一礼し、作業に戻った。



 廊下へ出たリザリスは、心持ち足取りを緩めていた。

 満腹の充足感が、彼女の肩の力をやや抜いていた。


 そんな彼女の前に、カツン、カツンという音が近づいてくる。


「おや、これはこれは……リザリス様」


 現れたのは、第2作戦隊長・ジルカメス。

 完璧な燕尾服姿で、いつも通り鏡のような顔を輝かせていた。


「……ジルカメスか。何の用だ?」


「あいにく任務ではありません。今朝、私の“美”があまりに冴えていたもので……一編、詩が生まれまして」


「……またか」


 リザリスは一度、視線を横に流してから小さく頷いた。


「短めにな」


「もちろん。詩というものは、凝縮の美学でもありますから」


 ジルカメスが胸元から詩稿を取り出そうとした、そのときだった。


 ガシャン!


 廊下に待機していた戦闘員の手から、携帯無線機が滑り落ち、床に触れて微かな音を立てた。

 ジルカメスとリザリスが同時にそちらを向く。


 そして――


《ザ…ザザ…次回、味噌ベースにて調整を……》


 録音されたような機械音声が、小さく漏れた。


 一瞬の沈黙。


 リザリスが戦闘員を無言で見つめる。ジルカメスは、何がどうなっているのか理解できない様子で首を傾げた。


「……今のは、なんでしょうか?」


「さ、さあ…何か聞こえたか? それより、お前の詩とやらは」


「ああ……集中が、霧散しましたね。美とは、乱されてはならぬ繊細な“波”ですから……今日は、またの機会に」


「それが正解だ」


 リザリスはひとつ、満足げなうなずきを残して歩き出した。

 ドラゴンの尾とドレスの裾が、静かに揺れていた。


 戦闘員は、何事もなかったかのように、その場から音もなく去っていった。

「戦う筋肉にも、礼節は必要。でしょ、ゴラリラ? あら、私? 私はいつだって整ってるわよ」

 次回、『平穏とは悪の隙間に生まれる(2)』

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