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悪の組織も楽じゃない  作者: 平木直利
プロローグ
2/38

悪になるのに、理由なんていらない(2)

 数日後の深夜。

 悪野獄丸は、再びあの地下室にいた。

 世界から切り離されたようなその空間は、まるで時の流れすら拒絶しているかのようだった。

 彼は階段を一歩ずつ降り、静かに“祭壇”の前へと歩み出る。


 初めて訪れたとき、埃をかぶっていたはずの祭壇は、今や目を覚ましたように、うっすらと紅く光を帯びていた。

 骨製の燭台に、誰が灯したとも知れぬ火がゆらめき、その明かりが魔術陣の縁をなぞっている。

 誰かが先回りして準備を整えたのか。

 いや、そうではない。

 これは――この祭壇自身が、自らを“整えた”のだ。

 そうとしか思えなかった。


 悪野は書物を脇に抱えたまま、ゆっくりとジャケットを脱ぎ、足元へ投げ捨てる。

 首から垂らした黒い紐の先には、太陽を模したアミュレット。

 中央の紅い宝玉が、ゆっくりと脈を打っている。

 儀式の鍵――古文書には、そう記されていた。

 これなくして儀式を行えば、精神は崩壊し、肉体は耐えきれず砕ける。

 つまり、これは力を呼び覚ます“同意書”であり、“覚悟”の証でもあった。

 彼は深く息を吸い込み、書物を開き――そして、口を開いた。

 

「〈カル・ザ・マルク=ト=ヴェズ……アグナ=ラ・ダリエ……〉」

 

 それは“音”だった。

 意味ではなく、響きがこの空間に作用する呪文。

 重く、湿った地下の空気が、じわじわと粘りを増していく。

 冷気が頬を撫で、耳鳴りが響き、視界の隅にはゆらめく影が滲む。

 悪野の声は止まらない。呪文は途切れず、確信に満ちていた。

 彼の言葉が“向こう側”の扉を叩いている――そう思わせるほどの力を持っていた。

 魔術陣の赤い光が強まり、燭台の火がひときわ高く燃え上がる。

 

 だが、悪野の呼吸は乱れなかった。

 むしろ落ち着き、心の底から喜びが滲んでいた。


「……来る。来い……!」


 両手を広げ、天を仰ぐ。

 目を閉じたその瞬間――空気が爆ぜるように弾けた。

 圧倒的な衝撃波が地下室を駆け巡る。

 瘴気が渦を巻き、天井へと昇る。

 魔術陣の光が爆発的に膨れ上がり、床の紋様の間から紅の閃光が噴き上がった。

 アミュレットが、彼の心臓と同じリズムで点滅する。

 それはもはや彼の一部であり、肉体と力が繋がり始めていた。


「これが……“超悪魔力”……!」


 呟きと同時に、世界が歪んだ。

 空気が逆流し、空間が軋み、石壁が震える。

 書棚が倒れ、奥の石像が崩れ落ちる。

 だが、彼は一歩も退かない。

 すべてを、静かに――嬉々として、受け入れていた。

 

 そのときだった。

 背後で、かすかな音が走る。

 誰かが――いた。

 

「……悪野先生、身体が……!」


 駆け寄ってきたのは、儀式への同行を希望してきた、暁月(あかつき)エリザベス。

 大学でも数少ない、彼の理解者にして助手。


 だが今、その顔は恐怖に染まり、目の前の男を“人間”とは認識できていなかった。

 彼の背から噴き出す異形の“何か”を見てしまったのだ。

 圧倒的な存在感――それはもはや、この世界の(ことわり)では説明できない。


「大丈夫……なんですか?」


 声をかけようとした、その瞬間。

 魔術陣の中心から、黒い波が弾け飛んだ。

 

 “それ”は彼女の胸元を直撃し、膝が砕けるように地面へ崩れる。

 スリットの深いスカートの裾が舞い、露わになった肌に、鱗のような紋様が浮かび上がる。

 肌は緑がかり、瞳孔が細く縦に裂け、歯が僅かに尖る。

 ――彼女の肉体が、人間という枠を逸脱し始めていた。


「……わ、私は……!」


 震える声。

 混乱したままの両手が、自身の変化を確かめるように宙を彷徨う。

 悪野は静かに歩み寄り、かつての助手に向けて、別の名を告げた。

 

「お前の名前は、もう暁月エリザベスではない」

 

 その声は、人のものではなかった。

 低く、重く、世界をねじ伏せる力を孕んだ“地獄元帥”の声だった。


「名を授けよう。お前はリザリスだ。混沌の女帝。

 我が右腕。世界征服の叡智を担う者――」

 

 エリザベスの目が、大きく見開かれた。

 そして――その奥に、ひとつの光が灯る。

 理性と混沌の狭間で、彼女の心が形を変えていく。

 数秒の葛藤ののち、彼女は人としての名を捨て、“リザリス”として生まれ変わった。

 

 そして、悪野獄丸もまた、完全な変貌を遂げていた。

 瘴気をまとい、漆黒の外套を纏い、瞳孔の奥から紅い光が迸る。

 知性と狂気、秩序と混沌が交差し、ひとつの姿となった――それは、悪の権化。

 この世界に、“生まれてしまった”存在だった。

 

「名乗ろう。我が名は――地獄元帥」

 

 その宣言とともに、祭壇の光が静かに収まっていく。

 重く、静かに。

 そして、空間は一瞬の完全な沈黙に包まれた。

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