悪になるのに、理由なんていらない(2)
数日後の深夜。
悪野獄丸は、再びあの地下室にいた。
世界から切り離されたようなその空間は、まるで時の流れすら拒絶しているかのようだった。
彼は階段を一歩ずつ降り、静かに“祭壇”の前へと歩み出る。
初めて訪れたとき、埃をかぶっていたはずの祭壇は、今や目を覚ましたように、うっすらと紅く光を帯びていた。
骨製の燭台に、誰が灯したとも知れぬ火がゆらめき、その明かりが魔術陣の縁をなぞっている。
誰かが先回りして準備を整えたのか。
いや、そうではない。
これは――この祭壇自身が、自らを“整えた”のだ。
そうとしか思えなかった。
悪野は書物を脇に抱えたまま、ゆっくりとジャケットを脱ぎ、足元へ投げ捨てる。
首から垂らした黒い紐の先には、太陽を模したアミュレット。
中央の紅い宝玉が、ゆっくりと脈を打っている。
儀式の鍵――古文書には、そう記されていた。
これなくして儀式を行えば、精神は崩壊し、肉体は耐えきれず砕ける。
つまり、これは力を呼び覚ます“同意書”であり、“覚悟”の証でもあった。
彼は深く息を吸い込み、書物を開き――そして、口を開いた。
「〈カル・ザ・マルク=ト=ヴェズ……アグナ=ラ・ダリエ……〉」
それは“音”だった。
意味ではなく、響きがこの空間に作用する呪文。
重く、湿った地下の空気が、じわじわと粘りを増していく。
冷気が頬を撫で、耳鳴りが響き、視界の隅にはゆらめく影が滲む。
悪野の声は止まらない。呪文は途切れず、確信に満ちていた。
彼の言葉が“向こう側”の扉を叩いている――そう思わせるほどの力を持っていた。
魔術陣の赤い光が強まり、燭台の火がひときわ高く燃え上がる。
だが、悪野の呼吸は乱れなかった。
むしろ落ち着き、心の底から喜びが滲んでいた。
「……来る。来い……!」
両手を広げ、天を仰ぐ。
目を閉じたその瞬間――空気が爆ぜるように弾けた。
圧倒的な衝撃波が地下室を駆け巡る。
瘴気が渦を巻き、天井へと昇る。
魔術陣の光が爆発的に膨れ上がり、床の紋様の間から紅の閃光が噴き上がった。
アミュレットが、彼の心臓と同じリズムで点滅する。
それはもはや彼の一部であり、肉体と力が繋がり始めていた。
「これが……“超悪魔力”……!」
呟きと同時に、世界が歪んだ。
空気が逆流し、空間が軋み、石壁が震える。
書棚が倒れ、奥の石像が崩れ落ちる。
だが、彼は一歩も退かない。
すべてを、静かに――嬉々として、受け入れていた。
そのときだった。
背後で、かすかな音が走る。
誰かが――いた。
「……悪野先生、身体が……!」
駆け寄ってきたのは、儀式への同行を希望してきた、暁月エリザベス。
大学でも数少ない、彼の理解者にして助手。
だが今、その顔は恐怖に染まり、目の前の男を“人間”とは認識できていなかった。
彼の背から噴き出す異形の“何か”を見てしまったのだ。
圧倒的な存在感――それはもはや、この世界の理では説明できない。
「大丈夫……なんですか?」
声をかけようとした、その瞬間。
魔術陣の中心から、黒い波が弾け飛んだ。
“それ”は彼女の胸元を直撃し、膝が砕けるように地面へ崩れる。
スリットの深いスカートの裾が舞い、露わになった肌に、鱗のような紋様が浮かび上がる。
肌は緑がかり、瞳孔が細く縦に裂け、歯が僅かに尖る。
――彼女の肉体が、人間という枠を逸脱し始めていた。
「……わ、私は……!」
震える声。
混乱したままの両手が、自身の変化を確かめるように宙を彷徨う。
悪野は静かに歩み寄り、かつての助手に向けて、別の名を告げた。
「お前の名前は、もう暁月エリザベスではない」
その声は、人のものではなかった。
低く、重く、世界をねじ伏せる力を孕んだ“地獄元帥”の声だった。
「名を授けよう。お前はリザリスだ。混沌の女帝。
我が右腕。世界征服の叡智を担う者――」
エリザベスの目が、大きく見開かれた。
そして――その奥に、ひとつの光が灯る。
理性と混沌の狭間で、彼女の心が形を変えていく。
数秒の葛藤ののち、彼女は人としての名を捨て、“リザリス”として生まれ変わった。
そして、悪野獄丸もまた、完全な変貌を遂げていた。
瘴気をまとい、漆黒の外套を纏い、瞳孔の奥から紅い光が迸る。
知性と狂気、秩序と混沌が交差し、ひとつの姿となった――それは、悪の権化。
この世界に、“生まれてしまった”存在だった。
「名乗ろう。我が名は――地獄元帥」
その宣言とともに、祭壇の光が静かに収まっていく。
重く、静かに。
そして、空間は一瞬の完全な沈黙に包まれた。