美学で盗めないものはない(3)
“キィ……”という低い音とともに、奥へと続く通路が現れる。
わずかに下り坂になったその道は、古びた石造りだった。
壁も床も、灰色の石が緻密に組まれ、均整の取れた形状が、逆に不気味な静けさを醸している。
「……この通路、現代建築とは別物ですね」
ロゼリアが呟いた声が、わずかに響く。
空気の密度が、ひとつ上の階とは明らかに違っていた。
「この美術館は、“何か”を覆い隠すために造られた。……あくまで、上物にすぎんのかもしれんな」
ジルカメスが進もうとしたその瞬間だった。
廊下の中央——床の石の隙間から、淡い金光のルーン文字がゆっくりと浮かび上がる。
それはまるで、侵入者の存在を感知して目覚めた“古い記憶”のようだった。
ロゼリアが反射的に止まり、ルーンを見つめる。
「……来ましたわね。これはおそらく誓盟封印 《デュオ・ルクス》です」
その声音はどこか緊張を含みながらも、どこか嬉し気だった。
「聞いたことがある。ふたりでなければ通れず、そして心をひとつにせねば拒まれる——そんな術式だったか」
「さすがはジルカメス様、ご存じでしたか。
“信じ合うふたりのみ通行を許す”という封印術ですわ。古文書で見たことがあります」
ジルカメスは静かにルーンを見下ろす。
「では、ここを越えるには——“ふたり”であることが条件、かつ“そのふたりが心を重ねる”ことが鍵、ということだな」
「ええ。ひとりでは通れません。三人以上も論外です。そして、ふたりいても、意識が乱れれば……」
ルーンの一部が脈動し、微かに空気がきしんだ。
「……魂が永遠にこの空間に封印されます」
「まるで古代の誓約そのものだな。……面白い」
ジルカメスは微かに笑みを浮かべ、ロゼリアの方を向いた。
「できるか、ロゼリア?」
「当然ですわ」
彼女は扇子を閉じ、静かに一礼するように頭を下げた。
「私は特別な術士でもない怪人ですけれども——読んできましたの。必死に、黙々と。こういう時のために、幹部の皆様方の役に立つように、知識だけは詰め込んできました」
ジルカメスが手を差し出す。ロゼリアはためらいなく、それを取った。
「それで十分だ。我が共よ。信じよう、今宵の歩みを」
ふたりはゆっくりと進み出す。
手を取り、呼吸を合わせ、歩幅をそろえる。
ただ足並みをそろえるだけではない。
心拍を、意識を、感情を——あらゆる揺らぎを、共に沈めていく。
もしここが舞踏会の会場であったなら、今まさに優雅なワルツが流れ出し、ふたりの足取りに華を添えていたことだろう。
ルーンが、金の光を強めた。
一瞬、何かが検知された気配。だが——何も起こらない。
「……通じてます。今の私たち、確かに“ひとつ”です」
ロゼリアが静かに言う。
ふたりの影が交錯し、まるで一体の像のように石畳を進んでいく。
やがて、通路の突き当たりに浮かび上がる紋章——二輪の薔薇が交差する古い印章。
ロゼリアが手をかざす。
触れる寸前、彼女はほんの少しだけジルカメスの手を握り直す。
「この術式、失敗したら……問答無用で封印されますわ。なので……絶対に信じてくださいましね」
「信じるとも。我らは今、誓約のもとにある」
指先が薔薇に触れた瞬間——
“カシャ”という金属のような音が空気に染み込んだ。
それは開錠されたことすら疑われるほど静かで、しかし確かに、何かが“許された”音だった。
封印扉を開くと、その向こうには、静まり返った石造りの広間が広がっていた。
荘厳な意匠はなく、ただ厳粛さと沈黙だけが支配する空間。
床には大きく魔術陣が描かれていた。
部屋の奥には、壁一面を利用したショーケースに、一巻の巻物が展示されている。
封印を示す光の結界が、淡くその周囲を脈動していた。
『禍胎録』
そこにあるだけで、空気の密度がわずかに増すのがわかる。
ジルカメスが一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。
「問おう――おまえは、咎を知るか」
空間が揺れた。
ただの音声ではない。“問い”そのものが、空間に“命令”として植えつけられる感覚。
床の紋が光り、魔術式が起動する。
「なぞかけ型の識別結界ですわね。術者の意志が残っているわけではなく、“答え”を持つ構造です」
ロゼリアが即座に口を挟んだ。
「ふむ、なるほど。ならば、この私がその“咎”の真理を喝破してみせよう」
ジルカメスは胸を張り、眼鏡を外してそっと磨く。
回答の“演出”から抜かりがない。
「よろしい、聞くがいい。咎とは“視線”だ」
彼は歩みを進めながら語り始めた。
「他者の目が、善悪を規定する。誰かが見ていなければ、咎も罪もない。
すなわち、咎とは――“視られること”によって発生する!」
ロゼリアは答えに異議があるわけではなかったが、不安そうにジルカメスを見つめた。
ジルカメスの回答は止まらない。
「そして、私は常に見られる存在! 常に美を放ち、観客を魅了してきた!
つまり私は、万象における“咎”そのもの――美そのものが、罪であることを証明している!」
静寂
一拍
二拍
そして床に広がっていた魔術式が、派手に爆ぜた。
「不正解だ」
硬質な音とともに、床の石板が震える。
ロゼリアが慌てて後退する。
「ジルカメス様、回避を!」
だがジルカメスはその場で眼鏡を戻しながら、にこやかに立っていた。
「……ふむ、やはり少し哲学が過ぎたか。どうやら、ここの管理者は芸術に疎いようだ」
「いえ、芸術の問題ではなく、ただの大外れです!」
床が裂けた。
石畳の中央が花弁のように開き、その奥底から、黄金に輝く巨像がゆっくりと姿を現す。
荘厳さと荒々しさを併せ持つ異形。
分厚い装甲は、まるで怒りを湛えた守護神像を思わせた。
背中には三本の腕を備え、顔の中央には闇を宿すかのような黒い窪みが穿たれている。
だがその身には意志の光はなく、ただ静かに――絶対の障壁として侵入者を拒んでいた。
ロゼリアが低くつぶやく。
「防衛式の守護機構……“ガーディアン”。警告ではなく、排除を前提とした迎撃型です」
「美しき出迎えだ。だが惜しいな――せめて質問にもう少し余裕をくれていれば、次はもっと……完璧な答えを」
「次はありません、ジルカメス様。これ、問答一回式です!」
「……なんと無粋なッ!」
ガーディアンが床から完全に姿を現した瞬間、空気が“変わった。
「美しき守護者……その威容は、まるで芸術そのもの。ジルカメス様と私――ふたりの舞台、どうか最後までご覧あそばせ」
次回、『美学で盗めないものはない(4)』




