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美学で盗めないものはない(2)

 深夜、麗峰館(れいほうかん)ミュージアム・搬入口付近。


 誰もいないはずの敷地内に、ふたりの影が静かに姿を現す。


「転送成功。誤差、ゼロ」


 ジルカメスが周囲を見渡し、微かに笑みを浮かべる。

 薄曇りの月明かりが、白壁の彫刻を鈍く照らしていた。


「ここが、今宵の我々の舞台だ」


 美術館の裏手、地下への搬入口。

 鉄製の搬入シャッターは、ただ静かに封を閉じていた。

 だが、ジルカメスの指の先が長く伸びて、鍵穴に滑り込むと、わずか数秒で音も立てず、扉が開いた。

 その隙間をすり抜け、ふたりは一気に館内へと身を沈めた。


 中はひんやりとした空気に包まれていた。

 人目に晒される展示空間とは違い、裏の通路はむき出しの壁材と金属製の床が無骨に延びている。

 油と埃とコンクリのにおいが鼻をかすめた。


 ロゼリアはすぐさま周囲を確認し、次の曲がり角へと滑るように移動する。


「上、カメラ回転。今、死角——三秒」


「了解した」


 ジルカメスはぴたりと角を回り、壁際を這うように移動した。

 タイミングは計算通り。

 無数の小さな監視機器が、この通路を一定のリズムで見張っているが、その全てに盲点は存在する。


 途中、倉庫扉の前で一瞬、空気が動いた。

 わずかに開いたドアの隙間から、靴音と共に差し込む光。警備員の懐中電灯が廊下を照らした。


 ロゼリアが一歩進み、香りを纏わせるように扇子を開いた。かすかな銀の煙が辺りに広がる。


「……展示品への湿気対策は、万全ですの?」


 警備員が立ち止まり、鼻をひくつかせた。


「あ、ああ……もちろん。失礼、どちら様――」


 すでに朦朧としている警備員が精一杯に職務をまっとうしようとする。


「“関係者”。それで十分ですわ。さ、ここでは足音も美術品の一部。静かに参りましょう?」


 警備員が一瞬まばたきをし、そのままふらりと別の方向へと歩を進めていく。

 このことは記憶の隅にも残らないだろう。


 ジルカメスは軽く顎を引き、再び進行方向を示す。


「香気錯覚。思ったよりよく効いたな」


「無用な殺生は私の好むところではございません。

 ただし、“見逃す”のではなく、“自分から立ち去らせる”……が、私の流儀です」


 ふたりは展示フロアへと足を踏み入れた。

 天井から下がる間接照明が、静謐な空気の中に柔らかな光を落とす。

 展示スペースは清潔に保たれ、広く取られた導線に沿って来場者の流れが想定されている。

 壁際や中央のガラスケースには、国内外の由緒ある品々が整然と並んでいた。


 ジルカメスはわずかに指先を上げ、袖口に忍ばせていた薄型の円形デバイスをひねる。

 ごく弱い電磁干渉波が空間に広がり、赤外線センサーと無線通信を数分間だけ攪乱する。

 美術館のセキュリティシステムは非軍事レベルだが、それでも過信は禁物だった。


「作動中。可視カメラ三台、全部スルーコース。レーザーセンサー——照明装飾と一体。切り替え式です」


 ロゼリアが囁きながら、左壁の意匠に視線を投げた。


 古風なアカンサス模様のレリーフ、その端にわずかに埋め込まれた検知装置を見逃さない。

 道中、江戸期の蒔絵細工を施した長櫃が目に入った。

 上に飾られている能面は、女、翁、鬼——どれも保存状態がよく、間接光の角度によって異なる表情を浮かべていた。


「この辺りは、割と“普通”ですね……」


 ロゼリアが小声で呟くと、ジルカメスは答えずに歩みを止めない。

 その視線は周囲の展示よりも、警備パターンの読み取りに集中しているようだった。


 その先には、中東の護符や金細工のペンダントが並ぶケース。

 複雑な幾何学模様が施されているが、中央のシンボルは特定の宗教や文化に属さない抽象的な意匠で、解説プレートには「起源不詳」とだけ記されていた。


 さらに一角には、19世紀末の欧州で描かれた宗教画のコレクションが並ぶ。

 いずれも穏やかな筆致で構成された典礼風景だが、背景の隅に誰かの影のようなものが描かれていたり、鏡に映る人物の姿が実際と異なっていたりと、観察眼の鋭い者だけが違和感に気づく仕掛けが施されていた。


「展示の選定、どうにも不自然ですね。“均整”が取れすぎてます」


「……だが、不均衡よりは美しい」


 ジルカメスの声は静かだったが、その奥に微かな皮肉が含まれていた。

 展示フロアは、表向きこそ一般公開用の文化財エリアとして整っていた。だが配置や導線の妙、過剰とも思えるセンサー群の密度は、ここが“見せる”だけの場所ではないことを匂わせていた。


 ふたりはさらに歩を進め、やがて展示フロアの最奥へと近づいていく。


 展示フロアの最奥――

 一般来館者には公開されない、管理用通路の小さな扉の前に、ジルカメスは音もなく立ち止まった。


「この先が、例の“地下封印区画”でございますね?」


 後ろからロゼリアが囁くように問いかける。

 ドレスの裾をなびかせ、彼女もまた静かに足を止めた。


「――その通りだ。我が美にふさわしき文献が、この扉の向こうに眠っている。

 ならば当然、道すがらも“見目麗しき障害”であってもらわねば困るな」


 ジルカメスが、手袋をはめ直すように片手を振り上げる。

 そして、柔らかな仕草で扉に手を添える。


「開けた瞬間、警報が鳴る可能性が高うございます」


「うむ。だが、扉とは開くためにある。美とは進むためにある」


 ロゼリアがわずかに微笑みを浮かべる。


「……さすがでございます、ジルカメス様」


 彼女は腰のユニットから小型の香気散布装置を取り出し、扉の縁に軽く吹きかけた。

 薔薇の香りがほんの一瞬だけ満ち、その後――小さな“チリ”という音がする。


「簡易的な揮発系センサーが仕込まれておりました。感知層、除去完了です」


「美しい手際だ、ロゼリア。我が従者として、実に誇らしい」


「お任せを。ジルカメス様の道に棘ひとつ咲かせはしません」


 ふたりは目を合わせることなく、完璧な呼吸で頷き合った。

 ジルカメスはそっと扉を押した。

「信じ合う? 問いに答える? ふふ、結構。美とは、常に試されるものなのだよ」

 次回、『美学で盗めないものはない(3)』

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