『希望』は……入ってないかも(5)
ようやく、湿った外気が頬を撫でた。
空は白み始めていた。
冷たい風。山肌の斜面。
世界は変わらず、いつもの空を広げていた。
その場に立ち止まった一行に、ほんの少しだけ安堵の色が浮かぶ。
この空気は確かに“地上”のものだった。
それだけで、呼吸がわずかに深くなる。
メタルが通信端末を取り出し、試すように軽くスイッチを入れる。
ピピッ……ピッ……ピピッ!
「通信、回復」
その一言に、ゴラリラがうなずき、前に出る。
「本部との連絡を開始する」
簡易な音声回線が開かれ、すぐに応答があった。
『こちら本部。状況を報告せよ』
「ゴラリラであります。作戦は予定どおり遂行。目標区域にて“神の箱”とされる物体の存在を確認。敵性個体との交戦を経て、現在は非活動状態。ラブログとの共鳴現象も観測。空間波動は沈静化し、対象は静止中であります」
『了解した。帰還を許可する。詳細は戻ってから報告せよ』
「かしこまりました」
通信が切れる。
短い沈黙が落ちる。
外の空気に包まれているというのに、まだ胸の奥に圧のようなものが残っていた。
ふいに、サディーダがつぶやく。
「……あれってさ、本気でこっちを殺そうとしてたのかな。今思うと、“遊び”みたいな動きしてたような気がするんだよね」
誰も返さない。
だが、誰もその言葉を否定もしなかった。
サディーダは前を見たまま、淡々と続ける。
「強かったけど、怒りとか憎しみとか、そういうのじゃなかった気がする。
あの影、なんていうか……反応を見て、まねして、だんだん慣れていって……
あれ、多分、戦ってたんじゃなくて、遊んでたんじゃないかな」
そして、ふっと笑う。
自分の言葉に、自分でも少し驚いたような表情で。
「ラブログが反応したのも、もしかして……呼ばれてたのかもって思った。
共鳴とかそういう難しいのじゃなくて、ただ、“話をしたい”とか、“友達になりたい”とか」
誰も答えなかった。
だがその沈黙は、拒絶でも無視でもなく――
それぞれが、彼女の言葉をゆっくりと咀嚼していたことの、静かな証でもあった。
アジト帰還後――
地下の作戦会議室。
黒曜石の円卓に、作戦帰還メンバーとリザリス、ダルフィが座っていた。
ゴラリラからの報告。
「作戦は予定通り進行。対象区域にて“神の箱”と呼称される物体の存在を確認。
現地にて敵性存在と交戦し、撃破を確認。終了後、対象とラブログとの間に自律的な共鳴反応が発生しました」
「記録は?」
ダルフィが即座に訊く。
「装備が広域干渉を受け、機器による記録は断片的。詳細なデータは得られておりません。現場では、感覚と目視による判断が主となりました」
ゴラリラが状況を説明する。そこにメタルが補足を加えた。
「箱とラブログの共鳴について補足。蓄積された感情記録――とくに“恋愛”関連の記録が、外部から選択・再生された。……あれは箱に呼ばれていたと見るべきだ」
「呼ばれていた?」
リザリスが目を細める。
「対象はラブログを『自分と同種の存在』と認識し、接続を試みていたように見えた。
誤認か、擬似的な意思疎通かは不明。ただ、反応の傾向は一方的な侵食ではなく、むしろ“対話的”だった」
しばしの沈黙のあと、今度はサディーダが呟くように言った。
「あとさ……箱とラブログが共鳴したあと、大きな地鳴りがあったんですよ。深いところから響いてきた」
ダルフィが顔を上げる。
「地鳴り? それについて詳しく報告を」
サディーダは少し目を伏せて、静かに言った。
「詳しくって言っても、地鳴りは地鳴りですよ。大きな地鳴り、あと大きな音。
あれ。私、たぶん――“何かが起きた音”じゃなくて、“誰かが目を覚ました音”だったと思ってる」
「根拠は?」
「根拠なんてないよ。でも……廊下の途中、曇ったガラスの向こうに、いたんだよ。“目”が。
巨大で、黒くて、でも確かに“見ていた”の。あたしたちのこと」
「“目”……?」
「まばたきとかしてなかったけど、あれは確かに目だったよ」
言い終えて、サディーダは椅子にもたれ直した。
リザリスは軽く息を吐いたあと、深くうなずいた。
「……今の段階では、判断を保留すべきだな。
我々の常識では測れぬ何かが、そこに“いた”可能性は否定できない。
引き続き、周囲の状況と共鳴装置のデータを調査しておくように」
ダルフィが静かにうなずく。
リザリスは立ち上がり、会議の終わりを告げるように静かに言った。
「首領には私から報告しておく」
*
“神の箱”は、再び沈黙の中にあった。
脈動も、光も、情報の波も――何一つ放たない。
あの空間で最初に見たときと同じように、ただ在り続けている。
だがその周囲。
誰の言葉も届くことのない深部で、
“別の何か”が、静かに身じろぎを始めていた。
まるで、長い眠りから――目を覚ましたかのように。
「舞台は美術館。薔薇は咲き、闇を征す――優雅に、完璧に」
次回、『美学で盗めないものはない(1)』




