『希望』は……入ってないかも(1)
メタルの皮肉から、どれほどの時が経ったのか。
誰もが言葉を発せず、動けずにいた。
そして――
”それ”は、あいかわらずそこに在った。
漆黒の立方体。“神の箱”。
どこまでも黒いその表面は、光を反射すらしない。
無音で、無表情で、ただそこにあるだけで、部屋の重力そのものが偏っているように感じられた。
視線を向けるだけで、脳の奥に異物が入り込んでくるような、不快感と好奇心と戦慄が混在していた。
「……なんなの、あれ」
ようやく、サディーダが声を発し、空間に音声が戻ってきた。
思わず、という感じだった。胸元に手を置きながら、彼女は軽く身震いする。
「ただの立方体……だよね? 形だけ見れば。でも、見てるだけで気持ち悪くなる。なんで?」
「“情報過多”なんだ」
メタルが低く答える。
「単純な形なのに、反射も、重さも、熱も……データがぐちゃぐちゃすぎる。脳が混乱する」
「それ……もうちょっと、やさしく言ってくれない?」
サディーダが額を押さえながら半歩引く。
「要するに、“見ただけで酔う”ってことだ」
「それ最悪じゃん」
「だからあまり見るな」
「無理でしょ。めっちゃ気になるんだけど……」
サディーダがぶつぶつと文句を言いながらも、足は止めない。
少しずつ、慎重に、箱のある台座へと距離を詰めていく。
「熱源反応、ゼロ。放射線もなし。音響反射もない……ってとこか、現状、機器では観測できないが」
メタルがまったく意味のない分析結果を小声で説明する。
「なぜか、“在る”って感じは、ものすごく強い」
そのとき――メタルの強化服の格納部で、ラブログがわずかに震えた。
微細な反応だったため、メタル自身もそれに気づいていなかった。
「……接触?」
クロビットからその一語だけが、ポツリと漏れる。接触してもいいかの確認だった。
「まだ早い。まずは外観と周辺の分析だ。ゆっくり近づこう」
メタルの声に、クロビットは軽く顎を引き、再び沈黙に戻る。
「にしても、静かすぎない?」
サディーダが辺りを見渡す。
球形の部屋全体は、ほのかに青白い光に満たされていた。
壁のどこにも照明はないが、すべての面が自発的に発光している。
天井には星のような微光が漂い、底面には太陽のような暖かい明るさが残っている。
だが音が、まったくない。
「壁に反響しない。声や音が一瞬で吸い込まれてる感じ……まるで」
「無響室だな」
メタルが即答した。
「いやだなぁ……音が反響とかしないと、自分がここにいる気がしない」
「逆に、自分の心臓の音だけが大きく聞こえてくる」
「そうそう、それが気味悪いのよ!」
サディーダがぴょんと飛び跳ねて緊張を解消する。
だが、その足音もまた、瞬時に吸収され、すぐに沈黙へと戻っていった。
クロビットは何も言わず、ただ背を丸めるように小さく肩を落とし、箱と台座の“死角”となる位置へと回り込んでいく。
「無駄話はそこまでだ。台座まで、あと五メートル」
ゴラリラの静かな声が、一行の会話を切り上げる。
「見たところ、周囲に防衛ギミックやトラップは確認できないが、心理干渉が強くなる可能性がある。接近は慎重に」
「了解」
全員が一歩ずつ、“神の箱”へと歩を進めた。
呼吸の深さが変わる。心拍数が上がる。重力が傾いていく――ように思える。
「……なんか、やだな。空間が“きれいすぎる”っていうか……。呼吸まで吸い込まれそうな感じ」
サディーダが眉をひそめ、台座を注視しながらぽつりと呟いた。
メタルが無言で頷く。彼のバイザーに映る“神の箱”の映像は、相変わらずノイズの嵐だった。
クロビットが、しゃがみ込むようにして台座の下を覗き込み、わずかに指を差し、首を傾げる。
「……影、違う」
「投光」
メタルがホログラムの照射ユニットを起動する。淡い光が下から回り込み、台座の影を照らす。
だが、何も映らない。クロビットは小さく首を振った。
「……錯覚」
「こういう場所では、脳の誤認識が起きやすい。注意しろ」
メタルの冷静な声が場を引き締めた。
そして、ついに――
一行は、“神の箱”の台座を、手の届く距離まで接近した。
音もなく、空気が変わった。
「……何か、出るぞ」
ゴラリラが低く呟いた直後、“神の箱”の背後にある空間が、じわりと“濃く”なった。
空間から黒い――何かが、滲み出るように現れた。
煙か泥か、重油のような質感。だがどれでもない。輪郭の定まらない、重く濁った存在。高さは約二メートル。形状は人型にも見えるが、不定形。“威圧感”が膨れ上がる。
「防衛システム……!」
「初動、遅い。回避可能」
メタルとゴラリラが同時に判断を口にする。
黒い影は、こちらを“見る”ように、ゆっくりと“頭部”らしき部分を巡らせる。
サディーダ、メタル、ゴラリラ、そして――クロビットの方へ。
「――ッ!」
影が跳ねた。
クロビットが反射的に跳ぼうとしたが、動きの起点を読み誤った。黒い塊が空気ごと彼の身体を打ち、弾き飛ばされた。
「クロビット!」
空中へ舞うその体――その腕を、サディーダが跳躍して掴んだ。
「っとっと……受け取りましたー!」
体勢を崩す前に、彼女の手がクロビットの腕をしっかり掴み、空中でくるりと体勢をひねってから、二人で着地する。
「大丈夫?」
「接触、軽度。対応可」
その一言を残して、再び動き始める。
クロビットは一瞬で、影の背後へと移動していた。
「……回避不可能じゃないけど、あれ、ガチで危なそうなやつ」
サディーダが再び構え直す。
再び、影が跳んだ。
まるで時間が巻き戻されたかのように、今度も標的はクロビット。
高速で踏み込んだその影は、再び空気ごと彼を弾き飛ばす勢いだった。
それを見たサディーダが、即座に跳躍する。
さっきとほぼ同じタイミング、同じ角度。
だが、その軌道に――黒い鞭のような触手が現れた。
「っ……!?」
影の一部が、彼女の介入ルートを遮っていた。
明らかに、前回の“救出行動”を妨害する意図がある。
しかし、今度は違った。
クロビット自身が影の軌道を見切り、身を捻るように回避する。
装甲の表面が掠れ、火花を散らすが、致命打には至らない。
「接近予測、補正完了。損傷軽微」
冷静な声が、先ほどよりも少しだけ早く響いた。
サディーダは空中で体勢を立て直し、息をつく。
回避できたことに安堵しながらも、彼女は言った。
「……完全に見てた。あたしが助けに来るの、知ってた」
「行動パターンを記録されてる。こいつ……“戦場”を学習してやがる」
ゴラリラの声が重い。
「これ、もしかして知能ある系?」
サディーダが眉をしかめる。
「可能性はある。……次、来るぞ」
空間が再び、ねじれ始めた。
「やっぱゴラリラさん、脳筋だけど強ぇわ。……頼りにしてる」
次回、『『希望』は……入ってないかも(2)』




