悪になるのに、理由なんていらない(1)
赤黒い魔術陣が、地下の闇を焦がすように輝いていた。
重々しい鼓動のように、禍々しい光が波打つ。
その中心に、男がひとり、静かに立っていた。
名を――悪野獄丸。
彼は闇の光の奔流を真正面から受け止めていた。
肉体が軋む音すら、彼の集中を乱すことはない。
踏み出したその一歩は、常識と理の境界を踏み越える意思の表れだった。
その瞳には、もはや人間としての影はなかった。
静かに、しかし確かに。
彼は世界を断ち切るように名乗る。
「我が名は――地獄元帥」
轟く声が、魔術陣を走り、空間全体を震わせた。
*
かつて彼は、ただの大学准教授だった。
都内某総合大学に籍を置く民俗学の専門家――それが、悪野獄丸の表向きの顔だった。
白衣姿で講義を行い、研究室で論文を書き、昼は学食、帰りにコンビニ。
その日常は、地味だが堅実で、誰の記憶にも残らないほど“普通”だった。
――ただし、彼の研究対象だけは、異常だった。
曰く、〈悪しき神〉にまつわる古伝。
曰く、禁じられし異界との交信儀式。
曰く、世界の理すら書き換える超常の力――。
誰にも相手にされないようなオカルト文献を、彼は何時間でも読み耽った。
黄ばんだ紙片。筆者不明の手記。異国の密教団が遺したとされる記録。
まともな研究者なら笑って通り過ぎる“狂気の山”に、彼だけは真摯に向き合っていた。
嘲笑されようと、構わなかった。
目指すは“真実”――それだけだった。
そしてある日。
封筒に挟まれていた一冊の古文書が、彼の運命を変えた。
紙は湿気で歪み、文字のほとんどは掠れていた。
だが、その中で、確かにいくつかの単語だけが、彼の目に飛び込んできた。
「継承」
「儀式」
――そして、「超悪魔力」
息が詰まり、心臓が一度だけ跳ねた。
そのすぐ下に書かれていた地名は、さらに彼を震え上がらせた。
その儀式が行われたという場所――それは、彼の故郷の近くだった。
「呪われた場所」として、地元で噂されていた古びた屋敷。
彼は即座に決断した。研究室の仕事も、講義も、すべてを放り出し、現地へ向かった。
確かめなければならない。
その強烈な直感が、全身を突き動かした。
廃屋は、すでに自然に呑まれていた。
塀は崩れ、草木が敷地を飲み込み、門は錆びていた。
数十年前、有力な一族が忽然と姿を消して以来、住む者もなく、誰も近づかない。
否、“近づけない”と囁かれる屋敷だった。
悪野はためらわなかった。
足を踏み入れ、主屋の裏手に目をやる。
風雨を避けるように建てられた、小さな蔵が目に留まった。
鍵は壊れていた。
静かに扉を開き、その暗がりへと身を滑り込ませる。
そして――彼は見つけた。
“偶然を装った必然”のようにして、地下室への隠し扉を。
冷たい石段を降りるたび、空気が歪み、視界がぼやけていく。
異質な何かが、確かにそこにあった。
瘴気。
空気とも霧ともつかない圧力が、肌にまとわりつく。
普通の人間であれば、意識を手放していたかもしれない。
だが悪野にとっては――それは“懐かしい”とさえ感じられた。
地下空間は、外観からは想像もつかないほど広かった。
石壁には奇怪な文様。
誰が置いたかも知れぬ書籍や魔具、薬品が所狭しと並び、
その中央に――祭壇があった。
まるで誰かが今なおここで儀式を続けているかのような、生きた空気が流れていた。
彼は一冊の書物を手に取った。
なぜそれを選んだのか、自分でもわからなかった。
ただ、表紙に記された“その文字”を、彼は読み取ることができた。
〈超悪魔力〉
――それが、すべての始まりだった。