表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/22

9.穏やかな朝

エリオットと共に招待されたパーティーにて、アンナはエリオットと体を寄せて踊った。くるくると回ったり、見つめ合いながら揺れてみたりと、子供の頃憧れていたダンスを経験する事が出来た。


エリオットの少し吊り上がった緑色の目。初めて会った日は冷ややかな顔に見えたのだが、とても優しくて穏やかで、ダンスの最中も優しく微笑みながらアンナを愛おし気に見つめてくれた。


その目を、かつての妻たちにも見せていたのだろうか。もしアンナが子供を産む事が出来なかったら、また離縁をして新しい妻を迎えて同じように優しい目を向けるのだろうか。


それは嫌だ。私だけを見てほしい、その目を他に向けないで。


「ん…」


ダンスをしていた時の事を夢に見ていたアンナは、ふわふわとした頭で薄らと目を開く。何だか温かい。枕がいつもよりも固い事に気が付き、アンナはぱちぱちと何度か瞬きをしてから視線を動かした。


目の前にすやすやと眠っているエリオットの顔がある。どきりと胸が高鳴り思わず悲鳴を上げそうになったのだが、ぐっすりと眠っている夫を起こしてはいけないと慌てて口を閉じた。


眠っている時まで綺麗な顔をしている。なんて羨ましい…と考えながら見つめているエリオットの顔は、長いまつ毛で縁取られた目をしっかりと閉じている。昔弟が寝坊して叩き起こしに行った時はもう少し間抜けな顔をしていた筈。まじまじと見ていてもほう、と溜息を吐いてしまう程綺麗な寝顔を眺めていると、ふいに背中に回っているエリオットの腕に力が籠った。


「ん…」

「っ…」


エリオットの腕にしっかりと閉じ込められているどころか、まるで抱き枕のようになったアンナは、顔を真っ赤にしながらドキドキと煩い心臓の音を聞く。額にエリオットの唇が触れているような気がするが、顔を上げる勇気はない。


「うん…?」


普段と違う事に気が付いたのか、エリオットの目がゆっくりと開く。目の前にくすんだ金色の髪と旋毛がある事に気が付いたのか、「うわ」と小さな声を漏らして腕から力を抜いた。


「あ、アンナ…ああ、そうか昨日は一緒に…」


少し体を離したエリオットは今の状況を理解したようで、ほんのりと頬を染めながらブツブツと呟いている。漸く開放されたアンナはがばりと体を起こして両手で顔を覆っているのだが、「おはようございます」と小さな声で呟く事しか出来なかった。


「ごめんね、何だか随分眠っていたみたいだ」

「ゆっくりとお休みのようでした」


頭から湯気が出そうな程恥ずかしがっているアンナが面白いのか、エリオットはクスクスと声を漏らして笑う。ベッドに寝転んだままアンナの腕を掴むと、そのまま自分の方へ引っ張った。


「ひゃ…」

「アンナは温かいね。何だか安心するよ」

「あ、あの…!」


もう一度腕の中に収まったアンナは、今にも口から心臓が飛び出しそうだった。頭の天辺にエリオットが顔をすりすりと摺り寄せているようで、髪の毛がくしゃくしゃにされている。


何をしているのだろう。どうしてこんなに抱きしめられているのだろう。温かくて安心すると嬉しそうに言われても、男性との触れ合いに慣れていないアンナは、大人しくじっとしている事しか出来なかった。


「君を妻にして良かった」


ぽそりと呟かれた言葉に、アンナは恐る恐る顔をエリオットの方へ向ける。視界いっぱいに広がるのは、穏やかに微笑んでいる夫の顔。どうしてこんなにも穏やかに微笑んでいるのだろう。何故突然、そんな事を言うのだろう。


「何故私だったのかと聞いたね」


そこまで言うと、エリオットはぎゅうとアンナの体を抱きしめて小さく笑った。


「幸せになりたいなぁって、思ったんだ」


アンナの後頭部を何度も撫でながら、エリオットはぽつぽつと話し出す。


あの日エリオットは、新しい妻を見つけなければと焦りながら会場内を見まわしていた。何人か目があった令嬢が居たのだが、誰もがそそくさとエリオットから距離を取った。

誰も好き好んでバツ3伯爵とお近づきになりたいとは思わないだろう。もうこのまま再婚を諦めて、爵位は叔父にでも譲ってしまおうかと考え始めた頃、「婚活令嬢だ」という声が聞こえた。


結婚相手を求めている令嬢がいるのかと、何と無しに視線を向けた。周囲はコソコソと一人の令嬢に向けて嫌な噂話を楽しんでいるというのに、噂の的である女性は、何も気にしていないような顔で真直ぐに前を向いていた。


古めかしいドレスを着て、冷めた顔で何かを見ている。彼女の視線の先には、客人たちが摘まめるように軽食を用意されているテーブルがあった。


「強い人なんだなと思ったんだ。貴族は気位の高い人が多いだろう?あんなに堂々と噂話をされていたら、泣きながら逃げる女性が多い筈なのに、君は逃げる事無く立っていた。君と一緒なら、幸せになれるかなと思って…声を掛けた」

「…お腹が空いていただけなのですけれど」

「そういうところが良いんだよ。あの日の私の判断は間違っていなかった。君がいてくれるだけで私は幸せなんだ」


嬉しそうに笑ったエリオットはゆっくりとアンナから体を離して起き上がる。まだ寝転んだ格好のままのアンナは、困惑した顔でそれを見上げているのだが、コンコンと鳴った扉からバトラーが顔を出した為、話はこれで終わりのようだ。


「奥様、お部屋の安全確認が済みました。グレースがお着替えの支度をして待っております」

「そ、そう。ありがとう」


慌てて起き上がったアンナは、つい先程まで撫でられていた頭を手で撫でつける。話して満足したのか、エリオットは機嫌よさげに微笑んでいた。


「あの…失礼します!」


ベッド脇に置いていたガウンを掴み走り去ったアンナを見送るエリオットは、口元をゆったりと緩ませていた。


「旦那様…」

「ふふ。私の妻は可愛いね。そうだバトラー、近いうちにデザイナーを呼んでくれ。あの子に似合うドレスを作ってやりたいんだ」

「喜ばれますよ」


今日も一日、穏やかな一日が始まる。きっとアンナは暫くの間恥ずかしそうにしているのだろうが、あの日のようにツンと澄ました顔よりも、色々な表情を見てみたい。


笑っているアンナの顔を思い浮かべるだけで、エリオットの胸はほんのりと温かくなるのだった。


◆◆◆


ぼうっと呆けてしまうのはもう何度目なのだろう。朝の夫婦の会話を何度も思い出し、アンナは手に持っている刺繍針の先を見つめたまま動きを止めていた。


幸せになりたいと思った。


エリオットはそう言っていた。名家に生まれ、伯爵という地位を持っており、容姿にも恵まれている。誰がどう見ても恵まれた人だと思うのに、本人は幸せになりたいと思っていたようで、アンナにはその言葉の意味が良く分からなかった。


お腹を空かせた事も無いだろうし、雨が降る度に家中を駆け回って桶や皿を置いたりもした事は無いだろう。いつだって綺麗な服を着て、沢山の使用人に囲まれて何不自由ない生活をしてきた筈。そんな恵まれた生活をしていたのに、求める幸せとはどのような物なのだろうか。


ぼうっとそんな事を考えていると、ふいに部屋の扉がノックされている事に気が付いた。


「あ、はい!どうぞ!」

「失礼するよ」


持っていた刺繍針や布を裁縫箱にしまい込んでいるアンナを見ながら、エリオットは穏やかに微笑む。入って来たエリオットをソファーに座らせると、何か用かと問いかけた。


「手紙が来てね。ピーターが今度遊びに来たいそうだ」

「ピーターさん…先日のパーティーでお会いした方ですね」

「ああ。何でも良い宝石を幾つか持ってくるから、君に好きな物を選んでほしいそうなんだ」


エリオットは持っていた手紙をアンナに差し出し、どうかな?と首を傾げる。

手紙には、今言われた通り幾つか宝石を持って行くから、奥方に選んでほしいと書かれていた。更に読み進めていくと、どうやら婚約者であるソフィアも一緒に来たいと言っているそうだ。エリオットが気まずそうな顔をしているのは、恐らくこのせいだろう。


「ソフィアさんもいらっしゃるのですね。沢山お話が出来たら嬉しいです」

「うん…ちょっと、私は…」

「元奥様ですものね。女同士楽しくお話していますから、殿方同士で楽しんでくださいませ」


視線をうろつかせていたエリオットにそう言うが、まだ何か考えているのか、それとも不安なのか、もごもごと口を動かしている。


「あの…彼女はとても気位の高い人なんだ。悪気は無いのだろうけれど、少し言葉がキツイ事が多くて…」


それは先日のパーティーで話をした時に何となく理解している。項垂れているエリオットはかつての結婚生活を思い出しているのか、片手で額を抑えて溜息を吐いた。


これはアンナの想像でしかないが、恐らくソフィアとエミリーは相当やりあったのだろう。言葉のキツイ女性が二人も同じ屋敷にいたのだから、間に挟まれたエリオットはきっと胃を痛めていたに違いない。


「先日お話をしましたが、私は大丈夫です。気にしませんから」

「そう?でもこれだけは言っておくけれど、彼女は悪い人ではないよ。公爵家の令嬢として育っているから、少し付き合いが難しいというだけで…」

「あまり心配なさらないで。それに、一度は夫婦になったお方なのですからそのように言ってはいけませんわ」

「君は優しい人だね」


眉尻を下げて笑ったエリオットは、ソフィアが一緒に来る事を了承する手紙を書くつもりらしい。用事は済んだだろうに、まだ何か話をしたいのか、エリオットはソワソワと指先を動かして座ったままだ。


「今日は、お出かけはなさらないのですか?」

「もう少ししたら出かけるよ。でももう少し、君と一緒にいたい」


真直ぐに見つめられながら言われた言葉に、アンナの顔がほんのりと熱を持つ。この人はこんな事を言うような人だっただろうか。

一緒に生活し始めて少し経ったが、優しい人であるという印象は持っていても、想いを寄せ合う恋人のような事は言わないと思っていた。


これではまるで、女性として愛されていると思ってしまうでは無いか。期待をしてはいけない。彼に選ばれたのはアンナが強い人だと思われたから。金と引き換えに妻となり、跡継ぎとなる子供を産む為に屋敷に来た。


恋情など抱いてはいけない。彼は自分にそんな感情は持っていない筈なのだから。


「お茶を持ってきてもらいましょうか」

「残念だけれど、そこまでの時間は無いんだ。また今度、一緒にお茶を楽しめたら良いのだけれど」


エリオットは忙しい。いつも誰かに呼ばれているし、反対に呼ぶ事もある。来客が無い時は紳士クラブに顔を出していたりと、屋敷にいる時間はとても短い。

あまり屋敷にいないのだが、少しでも一緒に過ごせるように、帰ってくると必ずアンナの元へ顔を出してくれる。それはとても嬉しい事だった。


「そういえば、刺繍をしていたんだね。得意?」

「実はあまり…何度か指を突いてしまいました」

「ええ?見せてごらん」


心配そうな顔をして、エリオットはそっとアンナの手を取った。指先を何度か突いてしまった為、うっすらと血が滲んでいるのだが、既に出血は止まっている。


「これくらいなら大丈夫かな…気を付けてね」

「はい。お恥ずかしいです」

「母上は刺繍が上手なんだ。もし良かったら教えてもらうと良いよ。母上が何と言うか分からないけれど…」

「あら、そうなのですか?仲良くなる切掛けになるかしら」


エミリーとの距離は少しだけ縮んだと思う。屋敷に来た頃から小言は毎日のように言われているのだが、いつだったかお墓の掃除をしてから少し仲良くなれたと思う。

二人で掃除のついでに庭を散歩する事もあるし、レッスンが終わると二人でお茶をする事もあった。今日はエミリーが外出している為不在だが、機会があれば良き刺繍の先生になってほしいとお願いしてみようと思った。


「母とはどう?上手くやれそうかな?」

「お義母様、とてもお優しいお方です。確かに言葉は真直ぐな方ですが…以前エリオット様が仰っていた通り、間違った事は仰いませんもの」


小言に腹立たしくなる事はある。だが、言われた事は全てエミリーの方が正しかった。一度回りくどいと反撃してしまった事があるのだが、それ以来エミリーは少しだけ言葉に気を付けてくれるようになったと思う。


「驚いたな…そんな事を言われると思わなかったよ」

「ふふ…お義母様、本当はとても可愛らしいお方でしょう?知っているのですよ、小鳥を眺めながらお茶をするのがお好きな事」

「そうだよ、母上は昔から小鳥が好きなんだ。庭にバードバスを置いて、天気が良い日は窓から眺めているし、時々庭の片隅にパンくずを撒いたりして…」


その姿は何度か見た事がある。初めは意外に思ったが、何度か見ているうちに可愛らしい人なのだと思った。

それだけではない。普段あまり食べているところを見られないようにしているつもりのようだが、甘いものが大好きで、中でもチョコレートが一番好きである事。亡き夫から贈られた指輪をとても大切にしている事を。


「お義父様の事が大好きで、エリオット様と同じようにグルテール伯爵家を大切に思っていらっしゃる…素晴らしい方です」

「それ、母上が聞いたら喜ぶと思うよ」

「恥ずかしいので言わないでくださいね」


うふふと小さく笑ったアンナの頭を、エリオットがゆっくりと撫でる。目尻が少し下がった笑顔を見ていると、何故だかアンナの胸がドキドキと高鳴った。


この人の笑った顔が好きだ。優しく触れてくれる大きな手が好き。かつての妻たちにも同じようにしていたのかもしれないと思うと胸が苦しいが、今はアンナだけの特権。


今は、と何度も自分に言い聞かせたが、一度思い浮かべてしまったソフィアの顔は、なかなか消えてくれなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ