18.小さな子供
賑やかな社交シーズンを終え、アンナたちは揃って領地に戻って来ていた。領地を出る時にはローラも一緒だったのだが、実家に帰らせた為一人減っている。
ローラの部屋は綺麗に掃除をされ、私物は纏めて実家に送り帰してある。もうこの屋敷に戻る事は許さない、何があっても門から一歩も入れてやらないと、エリオットは決めたらしい。心配している様子はまだあるのだが、布団に閉じこもるような事は無くなった。
「冷えるわね…」
ぶるりと体を震わせたアンナは、屋敷の中から庭を眺める。久しぶりに戻って来たブルックスは、他の庭師に任せていた庭が気になるようで、戻って来てから毎日のように庭のあちこちを手入れしている。今日もそれは同じなようで、遠くで何か作業をしているのが見えた。
「奥様、肩掛けをお持ちいたしましょうか?」
「そうね、お願いするわ」
グレースは今日も穏やかに微笑んでいる。王都の屋敷で台無しにされてしまった衣裳は、数着破棄したものの、刺繍で誤魔化せそうな物は持ち帰って来た。時間を見つけてはアンナが自分で針を進めているのだが、領地のあちこちを見に行ったり、客人を迎えたりと忙しくしている為、なかなか作業は進まない。
「アンナ、ちょっと良いかな?」
「はい、どうされました?」
ひょっこりと部屋に顔を出したのはエリオットだった。入ってと促すと、嬉しそうな顔をしながら部屋に入り、いつものようにアンナの隣に座る。夫婦になってからまだ一年も経っていないが、二人で過ごす事にはすっかり慣れた。
「聖夜祭の事なんだけれど…大広間を開放してパーティーをしようと思っているんだ。お客は近くに住んでいる領民たち。どう?」
「楽しそうです。子供たちも沢山来るでしょうから、甘いお菓子を沢山用意しましょうね」
エリオットが持って来たメモを二人で覗き込みながら、年に一度のお祭りをどう楽しもうか考える。
玄関ホールに大きなツリーを飾り、大広間には好きなだけ食べられるように大量の料理やお菓子を準備する。エリソンにも相談しているが、腕を振るうと今から気合十分なようだ。
「厨房の人手が足りないでしょうから…臨時で何名か料理人を雇った方が良いでしょうね。適任がいると良いのですけれど」
「町には料理人が沢山いるよ。少しのお礼と、沢山のお土産を用意すれば快く引き受けてくれるんじゃないかな?」
本邸から少し行けば大きな町がある。その町は以前エリオットと共に歩き回った事があるし、今も時折様子を見に遊びに行く事があった。出かける度にブリオッシュを食べるのは、アンナの楽しみの一つである。
「お土産はどうしようか…保存の利く物が良いと思うんだけれど」
クッキーにしようか、それともケーキにしようかと話し合っていると、一度部屋を出て行ったグレースが戻って来た。エリオットに向かって小さく頭を下げ、そっとアンナの肩にストールを掛けた。
「グレース、お土産に持たせるのならどんなお菓子が良いと思う?」
「聖夜祭のお土産ですか?そうですね…シュトーレンはいかがでしょうか?少し時期は遅くなりますが、保存がききます」
「それだわ!」
良いねと嬉しそうに頷いたエリオットは、サラサラとメモに「シュトーレン」と書き込んだ。仲良く話合いを楽しむ夫婦を見つめるグレースの口元がゆったりと緩んでおり、嬉しそうに見える。
「楽団も呼ばなくてはなりませんね。お金がかかるわ…」
ブツブツと呟きながら考えるアンナは、頭の中で一日にどれだけの金貨が必要なのかを考える。
折角領民を招待するのだから、盛大なパーティーにしたい。だが、湯水のようにお金を使うのは何となく勿体ないと思ってしまう。少しでも出費を抑えつつ、楽しいパーティーを作り上げるには?と頭を悩ませるアンナの隣で、グレースがおずおずと手を上げた。
「宜しいでしょうか」
「どうかした?」
「はい。最近町の住民たちが集まって、楽団の真似事をしているのです。ご存知でしょうか?」
「いいえ、知らないわ」
グレースが言うに、町の住民たちは古い楽器を持ち寄って楽団の真似をして演奏の練習をしているらしい。それは毎日の仕事の合間にやっている事で、演奏を極めたいというわけではなく、趣味の集まりのような物らしい。
「子供たちもそれを真似して、合唱のような事をしているようです」
「じゃあ…楽団を呼ぶんじゃなくて、住民たちに演奏を披露してもらうのはどうかな?嫌だと言われてしまったらまた考えるけれど、子供たちの合唱と大人たちの演奏が一緒になったら楽しいと思うな」
楽団が必要ないのであれば、それだけでかなりの金額を抑えられる。目を輝かせるアンナは少々守銭奴的な考えを持っているが、エリオットは純粋に住民たちが楽しく過ごせたら素敵だと考えているようだ。
「これから町に行って提案してくるわ」
「今からかい?」
「今日は予定もありませんし、お散歩したい気分でしたの」
駄目ですか?と小首を傾げたアンナを、エリオットは目を細めて見つめながら頭を撫でた。
「じゃあ支度をしようか。私も一緒に行くよ」
「すぐに。グレース!」
「はい、奥様」
ウキウキと楽しい気分で、アンナはグレースに支度を言いつけて立ち上がる。エリオットも支度をしてくるよと言い残し、部屋を出て行った。
予定になかったエリオットと二人での外出は嬉しい。一緒に過ごす事が出来る時間は、アンナにとってとても大切な時間だった。
◆◆◆
冬が近づいている町は、冷たい風が吹いていた。しっかりと上着を着ていても、頬を撫でる風がアンナの体を冷やした。
突然訪れた伯爵夫妻を、町の長は快く迎えてくれたし、寒かっただろうからと温かいワインを出してくれた。シナモンを効かせたそれは、若い夫婦を優しく温めてくれる。
「聖夜祭の日、屋敷の大広間を開放して住民を招待しようと思っているんだ。食事とお菓子を用意して、お土産にシュトーレンも…」
まだ詳しい事が決まっていないからと、町には何も知らせていなかった。エリオットが今町長に初めて話している内容に、町長は目を見開いて驚いていた。
「宜しいのですか?我々が伯爵様のお屋敷に?」
「ああ。我々は領民のおかげで生活出来ているのだから、年に一度くらい皆で楽しもうと妻からの提案なんだ」
にっこりと微笑むエリオットは、アンナの肩を抱いて言った。町長は更に驚いたような顔をしたが、すぐに感嘆の溜息を吐く。
「奥様…何とお優しいお方なのでしょう」
「大勢で楽しんだら素敵だと思っただけよ」
「今までそのような事を仰る方はおりませんでした。聖夜祭は子供たちにとって特別な日ですから、きっと喜ぶでしょう」
ニコニコと嬉しそうな顔をして、町長はうんうんと何度も頷いている。
楽団を呼ばず、住民たちの演奏や合奏を披露してもらいたいという提案にも、町長は快く頷いてくれた。
「料理人たちも協力してもらえると有難いんだけれど…」
「伯爵様と奥様の為でしたら、皆喜んで腕を振るうと思いますよ」
「そう言ってもらえると助かるよ。食材は全てこちらで用意するから、前日の夜から来てくれると助かるよ」
「伝えておきます」
これで人手の確保も出来る。楽しい一日になりそうだと考えたアンナは、ふと窓の外に視線を向けた。小さな子供の泣き声が聞こえたような気がしたのだ。
「あら…あの子、どうしたのかしら」
「リジーですね。少し失礼を…」
立ち上がった村長が家の外に出ると、小さな子供を抱き上げて戻って来た。泣きじゃくり、涙で顔を濡らした子供は、見慣れぬ大人がいる事に怯えているようで、町長の体にしがみ付いていた。
「母親が仕事に出ているようです。一人で待っているのに飽きて出てきてしまったのでしょう」
「一人で?その子まだ二歳くらいにしか見えないわ」
困惑しているアンナに、町長は詳しい事を教えてくれた。
リジーという名の幼子は、少し前に父親を病で失ったらしい。母親は娘を食わせていく為に仕事に出るようになったのだが、働いている間、リジーは家に一人きりで母の帰りを待っているらしい。
「まあ…お母様きっと不安でしょうね。小さな子供を一人きりで…」
普憫に思ったアンナは、自分のハンカチを取り出してリジーの頬を優しく拭う。こんにちはと優しく微笑めば、リジーはまだ緊張しているようだが泣き止んだようだ。
「夫を亡くし、一人で子供を育てるのは大変でしょうに…」
よしよしと小さな頭を撫でたが、暫く風呂にも入れていないのか、少しベタベタした感触だった。服の袖から覗いている手首もとても細い。頬もふっくらしているとは言い難く、きちんと食事を取れているのか心配になった。
「他にも…その、大変な生活をしている女は沢山いるの?」
「少ないとは言えません」
困ったように視線をうろつかせた町長は、領主であるエリオットの気分を害さないように言葉を選びながら言った。
道端で物乞いをしている者や、リジーの母のように夫を亡くした女もいる。グルテール領は栄えている地方ではあるのだが、領民全員が豊かな生活をしているわけではないそうだ。
「何か助けになれないでしょうか?」
「…私の仕事だね」
困り顔のエリオットは、やれやれと溜息を吐きながら頭を掻く。どうしようかなと考え始めたらしいエリオットは、まだ小さな子供をじっと見つめているのだが、何を考えているのかアンナには分からなかった。
「それにしても可愛い子ね。いらっしゃい」
おいでと手を向けると、リジーは少し迷ったようだがおずおずと腕をアンナに向ける。抱き上げると驚くほど軽く、アンナの細腕でも片腕で支える事が出来てしまった。
「良い子ね。お腹が空いているのではなくて?何か食べる?」
こくりと頷いたリジーの目は、蜂蜜のような色をしていた。キラキラと輝く宝石のようにも見えて、大きくなったらきっととびきりの美人になるだろうと思った。
「クッキー食べる?」
先程道すがら買ってしまったクッキーを、テーブルに置いていたポーチから取り出して差し出すと、リジーはアンナの手からそれを食べた。もぐもぐと咀嚼している頬がもっとふっくらとしたところが見たくなった。
「美味しい?」
うん、と頷いたリジーはもっと食べたいのか、先程クッキーを取り出したポーチを見つめている。
「全部食べて良いわよ。沢山食べて大きくおなりなさい」
椅子にリジーを座らせて、アンナは残っていた数枚のクッキーを全て差し出した。表情は乏しいが、リジーの目は沢山のクッキーに釘付けになり、キラキラと輝いていた。
「奥様は子供の扱いに慣れておりますね」
「弟がいるのよ。ナニーが居なかったから、弟の世話は私の役目だったわ」
幼い弟の為に料理を作り、食べさせるのはアンナの仕事だった。子供の体では大変な仕事だったし、自分の食べる量を少なくして弟がお腹いっぱいになるように、沢山食べさせた事を覚えている。
「子供は宝よ。未来の担い手だもの、大切にしないとね」
優しくリジーの頭を撫でながら言ったアンナの前で、エリオットは目を細める。
子供は可愛い。いくら見ていても飽きない。いつか自分が子供を産む事が出来たなら、大切に慈しみながら、沢山の愛情を注いで育てたい。自分の子供の頃のような、貧乏で苦労をするような生活はさせたくない。
ふっくらとした頬を思い浮かべながら、アンナはツンとリジーの頬を突いた。