14.突然の訪問
ゆっくりとお茶を飲みながら過ごす午後は心地が良い。昨日遅くなってしまったというのに、使用人たちは疲れた顔を見せる事なく、今日もせっせと働いてくれた。
朝食も美味しかったし、今着ているドレスも綺麗なもの。流石優秀な人材を揃えているなと感心しながら、アンナはゆったりとした気分で自分宛ての手紙を開いていた。
お茶の誘いだとか、パーティーの誘いはだんだんと慣れて来た。面倒でしかないが、これを全て断ってしまう事は出来そうにない。社交の場で優雅に笑って見せるのは、貴族夫人の役目の一つなのだから。
「あら…」
手に取った封筒に、見慣れた名前が書かれている事に気が付き、アンナの口元が緩む。弟のダニエルからの手紙のようだ。
ほんのりと嬉しい気持ちになりながら読んでみると、簡単な挨拶と、最近の実家の近況、姉を案じる言葉が並ぶ手紙は、とても優しい文面だった。
「え…?」
手紙を読んでいくうちに、アンナの顔色が変わる。今日は何日だったかと考えているうちに、扉がコンコンとノックされ、顔を出したグレースが困惑顔で言った。
「奥様、チェストル男爵夫人と弟様がお越しです」
「グレース、この手紙はいつ来たの?」
「え…今朝届いた物の筈ですが」
突然の母と弟の来訪は、予告なしというわけでは無かった。アンナが今手にしている手紙にきちんと「この日に行く」と書かれているのだから。
「今朝…今朝ね、そう」
苦い物を食べたような顔、アンナは手紙をテーブルに置いて立ち上がる。グレースは客人が来る予定など知らず、恐らく他の使用人たちも知らないのだろう。
グレースと共に階段を降りれば、下僕たちが慌ただしくもてなしの準備を始めていた。
「申し訳ございません、本日は来訪日ではないので用意が何も出来ておりません」
「そのようね。本当に、さっきの手紙は今朝届いたのね?」
「はい、奥様」
客人が待っている応接間に向かうと、中には既にソファーに腰かけている母と弟がいた。二人とも以前より上等な服を着て身綺麗にしており、男爵家の人間としてふさわしい恰好をするようになっていた。
「お母様、ダニエル、いらっしゃい。待たせてごめんなさい」
「アンナ、久しぶりね!なんだかすっかり伯爵夫人らしくなって…」
ニコニコと嬉しそうに微笑んでいる母は、腕を広げて娘との再会を喜んでいる。ぎこちない動きで母の腕の中に収まると、母からは柔らかく香水の香りがする事に気が付いた。
「姉さん久しぶり。元気そうだね」
「ええ、ダニエルも元気にしていた?」
「元気だよ。姉さんのおかげで使用人を雇う事が出来るようになったし、食事にも着るものにも困らなくなった」
眉尻を下げて笑うダニエルは、自分の着ている服をちょいと摘まむ。母も真新しいドレスを見せるようにくるりと回り、もう一度嬉しそうに笑った。
「グレース、エリオットはまだ二階よね?母と弟が来たって伝えてくれるかしら」
「はい、奥様。失礼いたします」
頭を下げて出て行くグレースを見つめながら、母はにんまりと満足そうに笑う。娘が使用人に指示を出している事が嬉しいのだろう。自宅では自分もやっているだろうに、娘が同じ事をしているのが嬉しいなんてよくわからない感情だ。
「二人共、今日はどうしたの?」
「結婚式の後、ゆっくり話をする事も出来なかったでしょう?ダニエルも貴方の事を心配していたから、顔を見に来たの」
「手紙に書いておいたと思うんだけれど…」
「ああ…ごめんなさいね、どういうわけだかダニエルからの手紙はさっき読んだばかりなの」
ソファーに腰かけながらそう言うと、ダニエルは不思議そうな顔をしながら姉の顔を見る。ダニエルが言うに、手紙を出したのは結婚式の翌日の事。あれから既に一か月程経っているのだから、郵便が遅れたにしても遅すぎると思ったのだろう。
「外出していなくて良かったわ。今日は来客の予定も無かったし…運が良かったわね」
「伯爵家の使用人でもこういう事があるのね。後で叱りつけておきなさい」
「後でね」
ふふんと鼻を鳴らした母は、使用人の躾はきちんとしなさいと言う。つい最近までたった一人のメイドすら雇えなかった貧乏男爵夫人だとは思えない物言いに少し呆れたが、母の隣に座っているダニエルが小さな声で母を咎めた。
「あの…結婚式の時に倒れた女性がいただろ?あの人、大丈夫?」
「ええ、昨日も倒れてしまったけれど、あの人はいつもそうなの。体が弱いんですって」
「そっか…心配だな。良い医者を紹介してもらえると良いんだけれど」
ダニエルは可憐な伯爵令嬢を心配しているようだが、アンナは弟がいつか良くない人に騙されてしまうのではないかと心配になった。
確かに見た目だけならばローラはか弱く病弱な伯爵令嬢で、儚げな見た目をしている。だが、確証は無いとはいえ、ローラは何か隠し事をしている筈だ。
「そうだ、その時に拾った物があってね。式の後に渡そうと思っていたんだけれど、渡せなかったから今日持って来たんだ」
そう言いながら、ダニエルは上着のポケットから小さな布を取り出した。ハンカチで何かを包んでいたようで、掌の上でハンカチを開くと、中から出て来たのは小さな銀のようだった。
「これは?」
「世話係かな?そばかすの女性がいただろう?あの人が歩いている時にブーツから落ちたんだ」
弟が差し出す銀色の何かを摘まみ上げると、それはキラキラと輝く透明の石が嵌った銀細工の欠片のようだ。
何だろうと目を細めて観察しているうちに、アンナの脳裏に無残に壊されてしまったティアラの姿が浮かんだ。
あのティアラは修理に出そうとした。だが、ティアラを作ってくれた工房からは「これだけ壊れてしまっていると直せない」と言われてしまったし、他の工房でも同じような事を言われた。そうして、今はアンナの衣裳部屋の片隅で箱にしまった状態で押し込めてある。
「よく分からないけれど、それって宝石だろう?放っておくのもどうかと思って持っておいたんだ」
「そう…ありがとう、助かるわ」
まじまじと見てみると、銀細工の部分は細やかな透かし細工となっていた。小さな欠片になっていてよく分からないが、ティアラの一部だと考えるとそうだとしか思えなくなった。
「ケリーのブーツから落ちたのね」
「ケリーって言うの?あのそばかすの、茶色の髪の…」
「ケリーだわ」
ふうと溜息を吐いたアンナの前で、今度は母が何とも言えない顔をする。何かあったのかと問えば、母はとても申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。
「今までごめんなさい。貴方には、とても苦労をさせてしまったわ。結婚も…金貨と引き換えになってしまったわ…」
「どうしたの、お母様」
「式が終わって何日か経った頃、母上の訪問日にエミリー様が来たんだよ」
「お義母様が?」
うっすらと目尻に涙を浮かべた母は、エミリーから説教をされたのだと言う。金貨と引き換えに妻として迎えたアンナを気に入った。だがあの子は貴族令嬢らしからぬ事をしすぎる。淑女としての立ち振る舞いもなっていない。貴方は母として何をしていたのだと、数時間に渡って詰問されたそうだ。
「ドレスを泥だらけにして掃除をしたり、使用人たちにも親切にしすぎる。テーブルマナーもなっていなくて、次から次に口の中に放り込む姿は貧乏農家の子供のようだと叱られたわ」
「う…お義母様言いすぎよ」
「僕の事も散々言われたよ。将来男爵になるのだから、もっと礼節を学べってさ」
式の時にダニエルの事も観察していたようで、これでは将来困るのはダニエルだと大層叱られたそうだ。そうして、今ダニエルは遅すぎるが、紳士らしくいられるように家庭教師を呼んで学んでいるらしい。その家庭教師は、かつてエリオットが幼い時にお世話になった先生だそうで、エミリーが手配してくれたのだという。
「とても良い方ね、エミリー様。同じ母親なのにこうも違うだなんて…恥ずかしくなったの」
「少し言葉は厳しいけれどね。でも、お義母様は本当にとっても素敵な方なのよ。前の奥様方はどうだか知らないけれど、私はお義母様が大好きだわ」
エミリーとの事を母と弟に話して聞かせるアンナの顔は穏やかだ。少し言葉は厳しいが、エミリーはアンナが頑張ればその頑張りを認めてくれる。出来るようになればそれとなく褒めてくれるし、将来アンナが伯爵夫人として独り立ちした時に困らぬよう手伝ってくれる。ソフィアたちを迎える為の準備をアンナに任せた時、ソフィアに関わるのは嫌だからとツンツンしていたが、元身内が客人ならば、少しの不手際くらい何とかなると思い、練習のつもりで任せてくれたのだと思っている。
「お義母様ね、可愛らしい物がお好きなの。小鳥が好きで、お庭のバードバスをよく眺めていらっしゃるのよ」
「小鳥がお好きなら、いつかうちの領地にもいらしてほしいわね。森に小鳥が沢山いるし、湖に綺麗な青い鳥がいるの」
「秋になったら王都から離れるし、その時期にお誘いしてみるわね」
待っているわと嬉しそうに微笑んだ母を見ていると、応接間の扉がノックされる音に気が付いた。
振り向くと、入って来たのはエリオットとエミリーだ。
「ごきげんよう、チェストル男爵夫人、ダニエル」
「お邪魔しております」
ぺこりと頭を下げた母のお辞儀は綺麗だった。母の実家は裕福な貴族の家だと聞いていたし、きっと幼い頃から淑女としての教育を叩き込まれていたのだろう。
「いらっしゃると聞いていなかったのですけれど」
不愉快そうな顔をしているエミリーに、アンナが来訪を報せる手紙が届かなかったのだと説明をした。今朝の手紙の中にダニエルからの手紙が交ざっていて、その手紙は結婚式の翌日に出された物である事も。それを聞いたエミリーとエリオットは不思議そうな顔をしたが、エリオットは笑みを浮かべて義母と義弟の来訪を喜んでくれた。
「家族ですから、いつでもいらしてください」
「お心遣い感謝致します」
「ダニエル、元気にしているかい?今度一緒に狩りでも行こう。それか、私の友人を紹介しようかな。ビリヤード仲間が何人かいるんだ」
「楽しそうですね。ですが、生憎ビリヤードの経験が無くて…」
恥ずかしそうにしているダニエルの前で、エリオットは優しく笑う。誰しも初めての事はある、これからやっていけば良いという義兄の優しい言葉に、ダニエルは嬉しそうに微笑みながら「楽しみです」と返した。
「さ、ダニエル。用は済みましたからお暇しますよ。突然の訪問大変失礼をいたしました」
ゆったりとお辞儀をした母は、またねと微笑み、息子を連れて帰って行く。もう帰るのか、もう少しゆっくりして行けば良いと言ったのだが、母は「忙しいでしょう」と笑って、また会いましょうと言いながら馬車に乗って帰って行ってしまう。
ほんの少し、お茶を楽しむ時間すらない再会の時間。手に握りしめたままのハンカチをぎゅっと握り直しながら、アンナは母と弟が乗っている馬車を見つめ続けた。
上等な馬車に乗って外出出来るようになった。二人とも顔色良く、綺麗な服を着て笑っていた。以前とは違う、裕福で満たされた生活を送る事が出来ている。自分の結婚と引き換えに、家族は幸せそうに笑ってくれていた。今はそれが嬉しくて、とっくに見えなくなってしまった母と弟を見守るように、遠くを見つめ続けるのだった。