13.面談
倒れてしまったローラは、エリオットが抱き上げて部屋まで運んだらしい。部屋にいても何も出来ないからと、アンナは一人で談話室に籠っていた。使用人たちは忙しなく動き回り、談話室や遊戯室の片付けを進めていた。
「奥様、ローラ様のご容体についてご報告いたします」
「グレース、どう?お医者様は何と?」
「いつもの発作だそうです。お薬を飲んで、ゆっくり休めば大丈夫だと…」
報告をしてくれたグレースは、いつもの事ですと言いたげな顔をアンナに向けた。
少し前に屋敷に来た医師はいつもの医師だった。十年前から世話になっているにしては少々若いが、それに関して疑問を抱いた事は無かった。だが、ソフィアと話している時に偽の医者なのではないかと疑うような話題が出ていた事で、何となく「あの医者は信用しても良いのだろうか」と思い始めている。
「先生はお帰りになられたの?」
「はい、先程お帰りになられました」
「そう…エリオットは?」
「ローラ様のお部屋に。直に此方にいらっしゃるかと思われます」
「分かったわ。グレース、時間はある?これから一人ずつ面談をするのだけれど、皆忙しそうだから…」
出来れば先に話を聞きたいと言うと、グレースは少し迷ってから「大丈夫です」と言った。姿勢を正してアンナの前に立つと、何を聞きたいのだろうと待っているように見えた。
「この間から不測の事態が多発しているでしょう?衣裳部屋にワインをぶちまけられてしまったし…」
「はい。私の管理不行き届きです」
申し訳ございませんと頭を下げたグレースを責めるつもりは一切無かった。普段しっかりと仕えてくれているグレースが、アンナのドレスを台無しにするような事はしないだろう。
「朝の着替えの時には何も無かったわね。あの後、グレースは何をしていたの?」
「階下に戻り、奥様の寝間着を洗濯部屋に持って行きました。その後、奥様宛ての手紙をお部屋にお持ちし、今夜使う予定の宝石類を確認しながらドレッサーに置いて…お召しになられるドレスを確認しようと衣裳部屋に入った時には既に…」
グレースの言葉を全て信用するのなら、部屋が無人になっている時間はあまり長くはない筈。ワインをぶちまけるくらいの時間はあるにしても、階下の使用人エリアから大量のワインを持ち出し、衣裳部屋に忍び込む時間は流石に無いと思った。
「ワインボトルは何本持ち去られたのかしら」
「バトラーさんが確認したところ、十本程だそうです。全て赤ワインでした」
「私の衣裳部屋にぶちまけられたのは?」
「ラベルを確認する限り、五本程」
「犯人は随分力持ちなのね」
やれやれと息を吐き、ワインだけでどれだけの損害なのかを考える。実家にいた頃の金銭感覚のままでいるせいか、一本だけで悲鳴を上げたくなる程の損害であるとアンナは苛立つ。
「ドレスは何着駄目になったの?」
「まだ正確には数えておりませんが…二十着は。裾だけの汚れたドレスも幾つかありますが、染みが綺麗になるかは…」
「メイドの腕によるわね。分かったわ、もし落ちなくても叱らないってメイドに伝えておいてね」
「畏まりました」
深々と頭を下げたグレースに聞く事は恐らくもう無いだろう。あまり長い時間捕まえていて、仕事が出来ないのは困るかもしれない。行って良いわと微笑んだが、グレースは少し迷ったような顔をしてゆっくりと口を開いた。
「あの、奥様…少し気になる事がございまして」
「何かしら?」
「こちらを」
ポケットから小さな包みを取り出すと、それをアンナに差し出す。それはケリーがいつも持っている筈の、ローラが飲む為の薬のようだ。
「どうしてそれを?」
「衣裳部屋に、落ちていました」
「…何ですって?」
ケリーがアンナの衣裳部屋に入る事は無い筈。入る筈の無い人間の持ち物が、どうして落ちていたのだろう。グレースが差し出した薬を受け取り、アンナは手の中でくるくると包みを弄んだ。包みの端には、ローラが世話になっている医師の印なのか、赤いインクで「バーグ医院」と書かれていた。
「この小さな包みで、どれだけのお金がかかるのかしら」
ぽそりと呟くアンナに、グレースは何とも言えない顔をした。エミリーがいつか言っていた。ローラにかかるお金は、生活費だけでなく医療費すらグルテール伯爵家が負担していると。
薬はとても高価な物だ。倒れるとすぐに呼ばれる医者も、診てもらうだけで大金が必要となる。実家にいた頃は気軽に呼べなかった医師が、何度も呼ばれている事に、アンナは未だに慣れる事が出来ずにいる。
「あら」
弄んでいるうちに、包みが少し開いてしまったようだ。掌に薬が漏れ出てしまい、アンナの掌が粉で汚れた。
「奥様、どうぞ」
「ありがとう」
グレースが差し出してくれたハンカチを受け取ったのだが、アンナはふと薬はどんな味がするのか気になった。実家にいた頃は薬草を煮出した苦い汁を飲むくらいで、医師が処方した薬を飲んだ経験が無かったのだ。
「あっ、奥様!」
「…お薬って、甘いのね」
行儀が悪い事は分かっているのだが、掌に付いた粉をぺろりと舐めてみた。薬草の煮汁があれだけ苦かったのだから、きっとこの粉も苦いと思っていたのに、舌に広がったのは苦みでは無く甘みだった。
まじまじと掌を見つめてみたのだが、見ただけではただの粉だ。まだ持っている包みをそうっと開いてみたが、中にはサラサラとした真っ白な粉が入っていた。指先で摘んでもう一度舐めてみたが、やはりそれは甘い。
まるで、砂糖のように。
「アンナ、待たせた…グレースと話をしていたんだね」
粉を見つめているうちに、部屋の扉が開いてエリオットが入って来た。ソファーに腰かけ、まじまじと手の中を見つめているアンナに気が付いたのか、エリオットは何を見ているのか問いかけながらアンナの手を覗き込んだ。
「薬じゃないか。どうかした?体調が良くない?」
「いえ、これは私の薬ではなくて…あ、グレース、仕事に戻って良いわ。時間を取らせて悪かったわね。戻ったら誰でも良いから一人こっちに来るように言っておいてね」
「はい、奥様。旦那様、失礼いたします」
頭を下げたグレースが部屋から出て行くと、エリオットは心底心配そうな顔をしてアンナの肩を抱き寄せる。
「熱は無い…かな?」
「ですから、これは私の薬ではありません!衣裳部屋に落ちていたそうなのです」
粉を包み直すと、エリオットはそれがローラが普段飲んでいる薬である事に気が付いたようだ。指先でそれを摘んで眉を顰めるエリオットに、アンナは先程グレースから聞いた話をしてやった。
「バーグ医院…ローラの薬がどうしてアンナの衣裳部屋に…」
「さあ…それは分かりませんけれど、お薬って甘いのですね。私初めて知りました」
「え?薬が甘い?」
「ええ。実家の事情でお薬を飲んだ事が無かったので、つい味見を。苦いと思っていたのですけれど、お砂糖のように甘かったです」
薬って美味しいですねと笑ったアンナの隣で、エリオットはまじまじと薬の包みを見つめた。何かおかしな事を言っただろうかと首を傾げたが、本当におかしな事を言っていたようで、エリオットは大きな手の中に薬の包みを握りしめた。
「アンナ、大抵の薬は苦いんだ。私は薬が大の苦手でね。いつも水で流し込んで、すぐに甘い物を食べるんだよ」
それはそれで子供のようだと面白かったが、先程アンナが舐めた薬は確かに甘かった。
「エリオット様、その包み私が預かっても宜しいですか?ローラさんは先程お医者様からお薬を貰ったでしょうし、一包無くなったくらいでは困らないでしょう」
「構わないけれど…どうするつもりだい?」
「具合が悪くなったら飲みます」
「医師を呼んで、君の為に処方してもらえば良いじゃないか」
「お医者様をお呼びしてお薬をいただくのに、一体幾らかかると思っていらっしゃるんですか!」
これだから生まれつきの金持ちは!と内心苛立ったが、アンナはエリオットの手から包みを奪い取り、しっかりと手の中に握りしめた。確信は持てないが、きっとこれは大切な証拠になる、そう思った。
◆◆◆
疲れ切ったアンナは、寝間着に着替えてベッドに倒れ込んでいた。来客の前に大騒ぎをして、客人をもてなした後は使用人全員と面談をした。既に時間は遅くなり、夜会から帰って来た時間と同じような時間になってしまっている。
「つ、疲れた…!」
使用人たちも今頃同じ事を言いながらベッドに入っているだろうが、今日の面談は情報を得るにはなかなか良い時間を過ごせたと思う。
エリソンは言った。一緒に作ったメモを持って町へ行き、チェックを付けながら買い物をして回ったと。メモ自体は捨ててしまったが、全ての品を注文したとの事だった。肉だけが届かなかった理由は分からないが、他の物が届いているのだから発注忘れは無い筈だ。
バトラーは言った。ワインは昨日のうちに選別しており、食事の際に出す物を決めておいた。デキャンタに移すのは客人が来る少し前に行おうと思っていたのだが、朝一番に執務室に入ると、置いてあった筈のワインが消えていたそうだ。
ワインセラーへの鍵は壊されていた。無理矢理こじ開けられており、修理をしないと扉は使い物にならないそうだ。バトラーは責任を取って執事を辞めるとエリオットに頭を下げていたが、「お前がいないと困る」と、エリオットが必死になって引き留めていた。
下僕の一人が言った。最近ケリーが怪我をしていたようだと。結婚式の後、足元を少し気にしている事が気になり、どうかしたのかと聞いてみた。何かに引っ掛けてしまったと言って、ちらりと見えた足首の少し上には、まだ新しい傷が出来ていたのだと言う。
メイドの一人が言った。今朝は何故だかケリーが起きる時間が早かったと。いつもより早い時間にローラの部屋へ向かう姿を見かけ、大変そうだなと見送ったそうだ。厨房に降りて来たケリーは、またローラが熱を出したと慌ただしくしており、水を持って行く為にあれこれ用意していたようだ。
「ケリー…ねぇ」
うとうとと重たくなった瞼を持ち上げようとしながら、アンナはローラの世話係の顔を思い出す。茶色の髪、そばかすの散った顔。どこにでも居そうな若い女性。ローラの事ばかり考えていたのだが、ここにきてケリーの話を聞く事になるとは思わなかった。
明日になったら、ケリーに声を掛けなくては。使用人たちを順番に呼んだのだが、ケリーだけは呼び出しに応じなかった。言い分としては、ローラの世話に忙しい事、そしてケリーを雇っているのはグルテール伯爵家ではなく、ローラの実家であるロージアン伯爵家だからだそうだ。
確かにケリーを雇っているのはロージアン伯爵家だが、給金を出しているのはグルテール伯爵家だ。ローラが来たばかりの頃はきちんとロージアン伯爵家が支払っていたそうだが、そのうち何故だか給金の支払いも、ローラにかかる費用も押し付けられるようになったのだそうだ。
早くどうにかしなくては。グルテール伯爵家は裕福な家だが、いつまでも無駄な金を払っているなんて絶対に御免だ。エミリーに相談をして、ローラを実家に帰す方が良い。そこまで考えて、疲れ切っているアンナは瞼を持ち上げる事が出来なくなり、布団も掛けずに眠りに落ちた。