11.まだ増える問題
夕食を済ませたアンナは、一人で庭に出てしゃがみ込む。荒らされてしまったスイートピーの花を見に来たのだが、見た目が悪いからとブルックスが抜いてしまったらしい。もう何も無くなってしまった一角は、新しい花を植えるつもりなのか、土を耕し整えられている。
荒らされてしまった花壇。消えた塩と届かない肉。客人を迎える前日に起きた問題としてはそれなりに大事だ。本来ならばエリソンは叱らなければならないのだが、あんなに涙を流している姿を見ていたら、叱りつける気にはならなかった。エミリーには甘いと叱られるだろうが、今の所まだ知られてはいないらしい。使用人たちが手早く仕事を済ませてくれたおかげか、それとも大騒ぎになる前にグレースが呼びに来てくれたおかげなのか…。
どちらにせよ、明日は何も問題無く客人たちをもてなしたい。来客時の問題は家の端、おもてなしも出来ない妻であると社交の場で新たな噂の的になる事は避けたかった。
「アンナ?」
「あ…エリオット様」
「どうかした?何も無い所を眺めて」
夕食の後は夫婦の時間。それが日常となっていたせいか、姿の見えない妻を探しに来たエリオットは、アンナの為にストールを持って庭に出て来たらしい。アンナの肩にストールを掛けると、躊躇する事無く隣にしゃがみ込んだ。
「ここ…本当はスイートピーの花が咲いていたのです。明日の飾りつけに使おうと思っていたのですけれど」
「無くなっているじゃないか」
「ええ、昼間ブルックスが確認したら、踏み荒らされた上枯れてしまっていたのですって」
不思議そうな顔をしているエリオットに、アンナは簡単に何があったのかを説明した。皺々になってしまっていた花びらの話をすると、何か薬剤を撒いたのでは?とエリオットは言う。
「それは無いと思います。ブルックスがそんな事をすると思いますか?明日使う花だったのに」
「それもそうだ」
うーんと小さく声を漏らして首を傾げているエリオットの隣で、アンナも同じように溜息を吐いた。何とかなりそうだが、突然起きたトラブルに疲れてしまっていた。
「厨房でも騒ぎが…何故塩が無くなるのかしら」
「塩?貯蔵庫に無かったのかい?」
「エリソンはある筈なのにと言っていました。でも無くなっていたそうで…」
「塩…」
じっと耕されている土を見つめるエリオットは、指先でふかふかの土に触れた。そして、ゆっくりとアンナの横顔を見つめると、小さな声で呟いた。
「塩だ」
「はい?」
「塩だよ。知らないかい?植物に塩水を与えると枯れてしまうんだ」
エリオットの言葉に、アンナは首を傾げる。塩は高価な物であると思っている為、わざわざ植物を枯らせる為に使う意味が分からないのだ。まして、雑草ならまだ分からなくもないのだが、今回枯れてしまったのは庭を彩る花である。誰が何を考えてそんな事をしたのか全く理解が出来なかった。
「だって、一晩で枯れてしまったんだろう?ブルックスは薬剤を嫌うから置いてすらいない。そして厨房から塩が消えた。二つの騒ぎが繋がっているとしたら?」
「…有り得ない話ではない、ですね」
どこでそんな知識を得たのだと不思議に思ったが、どこの厨房にもあるような物でこんな事が出来るという事を初めて知った。凄いなと感心して良いのか、それとも誰がそんな事をと怒り狂えば良いのか分からなかった。
「でもこれは…大変そうだ」
「と、言いますと?」
「土に塩がしみ込んでいると、何を植えても育たないそうだよ。以前知り合いの領地で海が大荒れになってね。近くの畑が被害を受けて、土を回復させるのに数年かかったそうだ」
やれやれと頭を抱えているエリオットは、回復方法を聞いておけば良かったと溜息を吐いた。庭の一角ではあるが、ここだけ何も植えられていないのは不自然だ。きっとブルックスがこれを知ったら悲しむだろう。どうやって伝えようかと考えているうちに、エリオットは他にも何かあったのではと心配そうにアンナを見つめた。きっと、夕方遅くに突然屋敷から飛び出して行った事を知っているのだろう。
「お肉が来なかったんです。明日のお料理に使うお肉なのですけれど、発注した筈なのに届かなかったとエリソンが泣いていて…」
「それは、エリソンが発注を忘れていたわけではないのかな?」
「お肉以外の物は届いていたようです。一緒に発注用のメモを作りましたが、メインの食材であるお肉を発注し忘れる事がありますか?何年もコックをしているエリソンが?」
じとりとした視線を向けたアンナに、エリオットは「それもそうか」と納得したような声を漏らす。
「お肉は何とかしましたが…また何か問題が出てきそうで頭が痛いです」
結婚式の日にも騒ぎが起こり、その後はアンナの部屋に蛇が出た。そして今回の騒ぎ。何故こんなに問題ばかり起きるのだと溜息を吐くと、アンナはそっと立ち上がり、ぐいと背中を伸ばした。
「起きてしまった事は仕方ありませんが、これ以上は困ります。明日のお客様がお帰りになられたら、使用人たちに詳しく話を聞かなくては」
「そうだね。私も一緒にいて良いかな?談話室に一人ずつ呼び出してみよう」
「はい、よろしくお願いします」
屋敷の主夫妻が揃って談話室で待っているとなれば、使用人たちは緊張してしまうかもしれない。だが、これ以上放っておく事も出来ない。むしろ遅すぎるとエミリーには叱られそうだ。
「母上は寝室に押し込めておこう。これは私たち夫婦でやらなければならない事だから」
「そうですね。頑張りましょう」
エリオットの言葉に、アンナはゆっくりと頷いた。夫婦でと言ってくれたのが嬉しいと思ってしまったのだが、今はそんな事で喜んでいる場合ではない。まずは明日、無事に客人をもてなすところから。
何も無くなってしまった花壇を見つめながら、明日は何も起きませんようにと溜息を吐いたアンナの肩を、立ち上がったエリオットはそっと抱き寄せた。
◆◆◆
ドキドキと緊張しながら、アンナは客人を迎える支度が進む屋敷のあちこちを確認する為に歩き回っていた。
掃除はいつもよりも入念に。玄関ホールに飾られている花は、朝早くに花屋が運び入れてくれた物。本当はブルックスにお願いしたかったのだが、大きな花の方が良いと言われて発注したものだった。花は元気かと様子を確認したが、瑞々しく咲き誇っている。
「奥様、ご報告いたします」
「どうかした?」
バトラーが話しかけて来た事で、また何か問題が起きたのかと眉根を寄せた。バトラーは小さな咳払いをすると、恭しく頭を下げながら口を開く。
「ローラ様のお加減が優れません」
「あら大変…お医者様は?」
「必要ないとの事です。本日はお部屋でお休みになられるそうで…」
「そう…分かったわ」
客人を迎える時に一緒に挨拶をしてもらう予定だったのだが、具合が悪いのなら仕方が無い。料理を一人分減らして貰わなければと厨房を目指して歩き出したアンナは、階段を駆け下りてくる女性とぶつかりかけて足を止める。
「あっ…申し訳ございません奥様!」
「忙しそうね、ケリー」
ローラの世話係であるケリーだった。慌てて頭を下げているのだが、何か用事があるのか指先を忙しなく動かしている。その様子を見つめながら、アンナはローラの様子を聞いた。
「少し熱があるようです。いつもの事ですので、少し眠れば下がるかと…」
「そう、分かったわ。必要であればすぐにお医者様をお呼びしてね。お客様の対応中だったら、報告は後でも構わないから」
「はい、ありがとうございます」
「行って良いわ。あまり走るとお義母様に叱られるから気を付けてね」
ケリーはもう一度アンナに頭を下げ、すぐに階段脇にある使用人用通路へ通じる扉を潜る。自分も同じ場所に用事がある為扉を開くと、階下の使用人たちは大忙しのようで、ざわざわと賑やかな声が聞こえていた。
「誰かテーブルクロスがどこにあるか知らない?!」
「洗濯部屋に置いてあるのを見たわ!ちょっと、こっちのティーカップ一つ足りないわ!」
「こっちだ!」
来客に慣れている筈の使用人がこんなに大騒ぎをするものなのだろうか。実家には使用人がいなかった為よく分からないが、グルテール伯爵家は名家であり、客人をもてなす事はよくある事。それなのに毎回こんな大騒ぎをしていては困るだろうと首を傾げながら階段を下りて行くと、バトラーの怒声が響いた。
「何故昨日のうちに確認をしないのだ!」
思わず肩を竦めてしまう程の声量。これでは上まで聞こえてしまうでは無いかと恐る恐る使用人たちの方へ向かうが、バトラーは此方に背中を向けていてアンナの存在に気が付いていないようだ。
「何かあったの?」
突然顔を出したアンナに驚いたのか、バトラーはびくりと体を震わせ、ゆっくりと振り向いた。その顔はいつものすまし顔ではなく、僅かに青ざめているように見えた。
「言って。何が起きているの」
腕を組み、苛々とした表情を隠しもせず、普段より低い声で威嚇した。隠すなとバトラーを睨みつけると、バトラーは一瞬言葉を詰まらせながら説明を始めた。
「不測の事態が…多発しております」
「不測の事態って?」
「昨夜のうちに用意を済ませた筈が…あちこちで物が無くなったり、お客様にお出しする事が出来ない状態に…」
「何ですって?」
ひくりと口元が引き攣った気がする。他の使用人たちも申し訳なさそうな顔をしながら、大きな染みが付いたテーブルクロスを持ち上げたり、割れてしまったティーカップを見せたりと、どうしようか困ったような素振りを見せた。
「これは…」
まだ続くのか!と怒鳴り散らす事が出来たらどんなに良いだろう。こんなにも面倒事が続くと嫌になってくる。エミリーは元妻であるソフィアと顔を合わせたくないからと出かける予定だが、まだ支度中で二階にいる。騒ぎが知れてしまえば何を言われるか分かったものではない。
「何とかなりそう?」
「はい奥様、必ずお客様を完璧におもてなしさせていただきます」
頭を下げるバトラーの拳は震えていた。彼はこの家の執事としてプライドを持って仕事をしている事はよく知っている。玄関ホールに置かれている大きな時計のネジを回す事が出来るのは執事の名誉。そう言って、嬉しそうにネジを巻く姿はいつも見ていた。
そんな彼が、不測の事態とやらを許せる筈が無い。こんな事態になってしまったのは、使用人を纏める自分のせいだと己を責めているのだろう。
「ワインが数本消えております。お客様にお出しする筈の物まで…」
「もう出せるワインは無いの?」
「ありません」
その声は震えている。俯き、頭を抱えるバトラーなどなかなか見る事は出来ないだろう。ついまじまじ見つめてしまったが、今は珍しい姿を楽しんでいる場合では無いだろう。
「誰か!奥様の衣裳部屋に入った?!」
バタバタと足音がした為振り向くと、階段を駆け下りてくるグレースと目が合った。アンナがいる事に気が付いたグレースの顔色は青くなり、腕に抱えていたドレスを背中に隠そうとしたのだが、カチャカチャと甲高い音を響かせながら床に何かが落ちる。
「ガラス…?」
「いけません奥様!」
落ちた物を拾い上げると、それはゆったりとカーブしているガラスだった。仄かに香るワインの香りから、これはワインボトルだったものなのだろう。
「あの…ドレスが数着駄目になりました」
「そう…」
グレースが言うに、衣裳部屋は割れたワインボトルで酷い事になっているらしい。ドレスは何着もワインで汚れ、床も割れたボトルの破片で足の踏み場もない。換気の為に窓は開いて来たが、部屋に充満する酒の匂いはなかなか消えないだろう。
「今朝着替える時には何とも無かったわよね。それなら…衣裳部屋が荒らされたのはついさっき」
ふむ、と声を漏らしたアンナは、こんな事をした犯人は誰かを考えた。使用人たちは階下で大忙しで、二階のアンナの部屋、その奥にある衣裳部屋で暴れる時間など無いだろう。
二階にいたのは、外出の支度をしているであろうエミリーとその侍女。熱が出て寝込んでいるらしいローラと世話係のケリー。そして、手紙の返事を書きに行っているエリオットだ。
「奥様、消えたワインの行方が分かりました」
「衣裳部屋ね」
ラベルの部分を持ってきていたグレースが、報告の為にバトラーにそれを差し出していた。確認を終えたバトラーの言葉を遮るように言葉を挟んだアンナは、小さく舌打ちをして、トントンとつま先で床を叩いた。
「とにかく、あと五時間でお客様がいらっしゃるわ。皆、なんとかおもてなしの準備を済ませてちょうだい。エリソン!ローラさんが体調を崩したから、料理は一人分少なくして、代わりにお腹に優しいものを作っておいて」
「はい奥様!」
「私は上にいるから、まだ何かあったら教えてね。グレース、衣裳部屋に行くわよ」
「はい!」
流石に今着ているドレスで客人を迎える事は出来ない。何とか使えるドレスを見つけ出し、少しでも匂いがマシになるようにしなければ。苛々としているアンナの後ろを追いかけるグレースは、不甲斐ないとうっすら目尻に涙を溜めていた。