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10.問題ばかり

パタパタと屋敷の中を忙しなく動きながら、アンナは次は何をすれば良いのかを考える。エリオットとピーターの二人は酒を楽しみながらビリヤードをするつもりだそうで、既に遊技場の掃除は言いつけてある。その間アンナはソフィアと談話室でお喋りをする予定なのだが、お茶菓子はどうしようかだとか、部屋を飾る花はどうしようかだとか、考える事が多くて目が回りそうだ。


「アンナ、煩いですよ」

「申し訳ございません、お義母様…」


そろそろ叱られそうだと思っていたが、階段の上から厳しい声を上げたエミリーに睨まれ、アンナは大急ぎで足を止めた。


「何を騒いでいるの?」

「あの…明日お客様がいらっしゃるのでその支度をしております」

「ああ…エリオットのお友達と婚約者ね」


嫌そうな顔をしているのは、婚約者がソフィアである事を知っているからだろう。二人の婚約は新聞に掲載されており、エミリーもそれを読んでいた。


ソフィアは財産を食いつぶす気かとエミリーに叱られ、そのまま実家に戻ってしまったと言っていた。恐らくエミリーは、ソフィアに対して良い印象を抱いていないのだろう。顔を合わせたくないからと、明日は朝から出かける予定のようだ。


「食事のメニューは決まったの?それを相談するのも妻の役目ですよ」

「あ!すぐ厨房へ行きます!」

「あ、奥様!…失礼、お話し中でしたか」


ふらりと現れた庭師のブルックスが声を掛けて来たが、階段の上にエミリーがいる事に気が付き、申し訳なさそうに口を閉ざした。


「構わないわよブルックス。私はもう済みました。アンナ、しっかりおやりなさい」


そう言うと、エミリーは気が済んだのか踵を返して二階の何処かへ歩いて行った。恐らく自室か図書室のどちらかだろう。


「ブルックス、何か用事?」

「ええ、その…明日談話室に飾る花の事なんですが」


明日の朝摘むはずだった花が、どういうわけだか枯れてしまったのだとブルックスは困り顔を向ける。手にしていたスイートピーの花は、萎れてしまって元気が無い。


「どうして…」


何がどうしてそうなったのだと苛立ちながら、アンナは玄関扉を開け放ち庭へと飛び出す。スイートピーが咲いていた辺りを目指して走っていると、追いかけて来たブルックスが簡単に説明をしてくれた。


「昨日は何事もありませんでした。でも今見に行ったら…」

「嘘でしょう…」


全滅だ。

目の前に広がる、踏み荒らされたスイートピーの株たち。切り花ではなく鉢植えにしようと、昨日ブルックスとどの株にするか選んだばかりだった。だが、選んだ株どころか全ての株が駄目になってしまっている。


「どうして…!」


スイートピーの花を選んだのは、ソフィアが好きな花だからだった。折角来てくれるのだからと、エリオットにソフィアは何が好きだったか聞いてみたのだ。そうして聞き出した好きな花。それが運良く庭で栽培されていた為、綺麗に飾ってやろうと意気込んでいたというのに。


「一日で枯れてしまうなんて…こんな事有り得るの?」


苛々と爪を噛みながら、アンナは目の前の無残な状況を睨みつける。踏みつぶされている花も、可哀想に枯れてしまっていた。畑仕事をしている時に雑草を枯れさせる為に薬剤を使う事はあったが、ブルックスはそういった類の物を嫌っている為この屋敷に薬剤は無い筈だ。


「何か代わりの花を見繕いましょう。他の花も自信を持ってお出し出来ます」

「ええ、貴方の腕なら安心だわ。でも、こんな事をした犯人を探し出さないと…」


花壇を見つめているアンナはふと気付く。土についている足跡が、自分の足の大きさとそう変わらないのだ。つまりこれをやったのは、女性であると考えられる。


こんな事をやりそうな女は誰だと考えてみたが、残念ながらすぐには思い浮かばなかった。


「奥様!」

「今度は何!」


屋敷の方から走って来たグレースは、少し息を乱しながらアンナの隣に立つ。どうしたのだと顔を向けながら立ち上がると、ぎゅっと拳を握りしめながら言った。


「厨房でトラブルです」


頼むから、もうこれ以上面倒事が起きないでほしい。天を仰いだアンナは、右手で目元を押さえて溜息を吐いた。


◆◆◆


厨房は普段アンナが足を踏み入れない場所の一つである。使用人たちが仕事をするエリアの為、この屋敷の「奥様」であるアンナが来る場所では無いのだ。


グレースに連れられ厨房に降りたアンナの前で、使用人たちはピンと背中を伸ばして立っていた。


「何があったのか教えて」

「塩が無くなりました」

「塩?どうして…」

「それだけではありません。明日の食事用に頼んでいた肉が届かないんです!」

「まさか。一緒に発注用のメモを書いたじゃないの」


客人をもてなす為、アンナは数日前にエリソンと共にメニューを決めた。その時に発注する食材はこれで問題無いかと確認されながら、一緒に買い出しのメモを書いた事を覚えている。

ワッと顔を覆った料理長のエリソンは、どうしようと狼狽えているようでメイドたちから背中を摩られていた。大きな体をしているくせに、どうやら精神的には脆いようだ。


「落ち着いてエリソン。お肉はすぐに肉屋さんにお願いすれば何とかなるかもしれないわ。誰か、すぐに行ってお願いしてきてくれる?」


泣いているエリソンは、無理だと首を横に振る。もう既に時間は午後。明日の朝一番に仕込みを始めなければ間に合わないのに、肉屋には既に殆ど品が残っていないと言われ、アンナは口を噤んだ。


「塩は?そこにあるのは違うの?」

「もう中身が無いんです。今朝朝食を作った時に少ないなとは思っていて…補充しようと思ったら、どこにも無いんです!」

「補充用の塩が無いって事?残量は確認して発注しておいたのよね?」

「勿論です!私はこれでも二十年もこのお屋敷で料理をし続けているんですよ?!何が足りなくなるかなんて把握してないわけがないんですから!」


わあわあと喚いているエリソンを宥めながら、アンナはじっと考える。本人が言うように、二十年も働いている料理人が発注を忘れる事は無いだろう。しかも今回無くて困っているのは調味料だ。絶対に無いと言い張るエリソンの言葉を信用したい。


「塩なら何とかなるでしょう。今から町へ行って、買って来れば良いの。エリソン、他に足りない物は無い?ついでに買ってきたら良いわ、それで何とかなるかしら?」


穏やかに微笑み、アンナはそっとエリソンにハンカチを差し出した。エプロンの端で涙を拭うよりは良いだろうと考えたのだが、エリソンはハンカチを受け取る事は出来ないと涙を流しながら首を横に振る。


「いけません奥様…使用人にそのように優しくするなんて」

「あら良いじゃない。私、エリソンのおかげで毎日美味しいご飯を食べているんだもの。ハンカチくらい幾らでも差し出すわ。さあ皆!他に何かいつもと違う事は?もうこの際だから全部聞かせてちょうだい!」


パンパンと手を叩き周囲を見回すが、誰も何も言わなかった。きっとこれで面倒事は報告されないだろう。そう願いたい。


「お肉は何とかするわ。グレース!出かけるから支度して!」


バタバタと厨房から走り去るアンナを見送った使用人たちは、ぽかんとした表情で追いかけていくグレースを見つめた。


「あれが…伯爵家の妻なのか?」

「威厳も何も無いわね」


ぼそぼそと使用人たちがそう言うが、その場にいたバトラーがじろりと睨むとすぐに言葉は止まった。


「エリソンさん、申し訳ないがすぐに買い物に出てくれないか」

「ええ勿論…あの、私叱られたりしないんでしょうか?」

「後で奥様が叱っていない事に気が付いたら、叱られるかもしれないな」


肩を竦めて笑ったバトラーは知っている。アンナがエリソンを叱りつける事はない事を。


◆◆◆


「奥様!」


グレースの甲高い悲鳴が屋敷中に響いたのは、その日の夕方遅くの事。満面の笑みでただいまと手を振ったアンナの顔は、あちこち泥で汚れていた。


「な…なに、何を…!何をされてきたのですか?!」


あわあわと狼狽えているグレースの前で、アンナは満足げに笑いながら大きな革袋を掲げる。中に何が入っているのか分からないグレースはそれを受け取る事を躊躇していたが、それは正しい判断だと、アンナの後ろにいた下僕がぐったりとした表情で首を横に振って表現している。


「無理矢理連れて行って悪かったわね。戻って良いわ。バトラーには私から言っておくから、休むと良いわ」

「は、はい奥様…」


フラフラになっている下僕は、屋敷の裏手を目指して歩き出す。重たい袋を一度床に置いたアンナは、手をプラプラと振ってそれを見送った。


「エリソンは戻っているかしら?」

「ええ、少し前に戻りました」

「そう、それじゃあ厨房に行きましょうか」

「あ、奥様、お持ちします」

「重いわよ」


袋を持ち上げたグレースは、想像していたよりも重たかったようで僅かに顔を顰めた。袋から漏れる鉄臭い匂いが気になったのか、そっと隙間から中を覗き込むと、「ひっ」と小さな悲鳴を漏らした。


「わ、私は裏から参ります!」

「そう?お願いね」


中身が中身だからなと納得し、アンナは玄関から屋敷に入るとすぐさま厨房を目指す。だが、階段の下で待っていたらしいローラに見つかってしまい、捕まってしまった。


「おかえりなさい、アンナさん」

「…戻ったわ。何か用事?」


仮にもこの屋敷の女主人、伯爵夫人に向かって「アンナさん」と呼びかけるローラは、自分の身分が分かっていないのだろうか。元々の生まれはローラの方が上だろうが、今は伯爵夫人であるアンナの方が上だ。今は時間が無い為黙っておく事にするが、そろそろその辺りをきちんと理解してもらわなければならないだろう。


「明日、ソフィアさんがいらっしゃるのでしょう?あの方、アップルパイが大好きだってご存知?」

「あら…それは知らなかったわ」

「きっと喜ぶでしょうから、教えてさしあげようと思って待っておりましたの」

「そうなのね、ありがとう。でもごめんなさい、今はとっても忙しいの」

「私の用事は済んだわ」


にっこりと微笑んだローラは、機嫌良さげに階段を上がっていく。わざわざソフィアの好物を教えてくれるなんて、良い所もあるのだなと驚いたのだが、すぐにでもエリソンの元へ行かなければと思い出し、アンナは急いで厨房へ向かって駆け出した。


◆◆◆


厨房に辿り着くと、既にグレースは到着していたようで、エリソンと共に袋の中身を覗き込んでいた。


「奥様…この鶏、どうされたのですか?」

「優しい方にお願いして譲ってもらったのよ」


にっこりと笑ったアンナに、顔の汚れを拭くようにとキッチンメイドの一人が濡れた布巾を差し出してくれた。それを受け取り、顔を拭きながら何てことは無さげな顔でそう言うと、エリソンを始め、その場に居た使用人たちはあんぐりと口を開いて固まっていた。


「ちゃんとお代は支払ってきたわ。その子たち卵を産まなくなったんですって。だから新しい鶏を迎えられる程度のお金をお渡しして、自分で追いかけまわして…」

「奥様が…?」


下僕を連れて行ったのだが、お金を渡して貰っている隙にアンナはさっさと庭で鶏を追いかけまわした。止められはしたのだが、聞く耳を持たなかったのはアンナの方だ。呆気にとられた下僕が我に返った頃には、満面の笑みで両手に鶏を握りしめているアンナの姿に再び呆気に取られている事になっていた。


「元々考えていたメニューとは違ってしまうけれど…これで何か別のメニューを考える事は出来る?」

「はい…はい、勿論です奥様!」

「良かったわ。エリソンはとっても腕の良いシェフだもの、信頼しているわ」


袋を抱きしめながら顔をぐちゃぐちゃにして泣いているエリソンは、任せてくださいと声を震わせて言った。


「付き合わせて悪かったわね。付いて来てくれてありがとう」

「いいえ奥様、光栄でした」


お供をさせた下僕に礼を言うと、下僕はピンと背中を伸ばして言った。もしかしたら心の中では厄介事に巻き込まれたと思っているのかもしれないが、それを表情に出さないのは流石良家の使用人である。


「そうだわ、エリソン。デザートなんだけれど、アップルパイに変更する事は出来る?」

「え?ええ…リンゴはありますから、可能ですが…」


デザートは既に別のメニューで決まっているのだが、突然変更してほしいと言い出した事で不思議に思ったのだろう。エリソンは快諾してくれたのだが、それをグレースが止めた。


「いけません奥様、ソフィア様はリンゴはお身体に合いません」

「え…?」


つい先程ローラから「ソフィアはアップルパイが好き」と聞いたばかりだと言うのに、使用人たちは揃って首を横に振った。


「でもさっき、ローラさんから聞いたのよ」

「ローラ様から…?」


怪訝そうな顔をしているグレースは、口元に手をやって眉根を寄せる。厨房の主であるエリソンは絶対に駄目だと言っているし、きっと正しいのは使用人たちなのだろう。


「…他の奥様方の誰かが、アップルパイが好きだったとか?」

「いえ…そのような記憶はございません」

「そう…良いわ、デザートは予定通りにしてちょうだい」


何故ローラはソフィアの好物はアップルパイだと言ったのだろう。わざわざ玄関ホールで待ち受けてまで言う必要があったのだろうか。何がしたいのだろうと眉間に皺を寄せて唸っていると、エリソンが少し明るい声を出した。


「奥様のおかげで問題無く料理を作る事が出来ます!塩も何とか手に入れる事が出来ましたし…」

「そう…それじゃあ、よろしくね」

「はい、お任せください奥様」


何だか腑に落ちない。だがまだまだ忙しい使用人たちを捕まえて、仕事をさせないわけにもいかない。少し考え事をしたまま、アンナは厨房から出て行った。


「ねぇグレース。新しい奥様はとってもお優しいお方だね」

「ええ、とても」

「私にハンカチを差し出すんだよ?そんな事をしてくれる貴族のご婦人が他に何処にいるんだか…それに、顔を泥だらけにして鶏を…」

「ああ、それ凄かったんだよ。ドレス着てるのにあっという間に壁際に追い詰めて首をぎゅっと」


お供の下僕は何があったのかを詳しく話す。手伝おうと思って玄関先に立てかけられていた箒を手にしたが、間に入る間も無かったと笑った瞬間、残っていた使用人たちは口々に「有り得ない」と呟いた。


「でも…何で発注した筈の肉が届かなかったんだろう?確かに奥様と一緒に発注用のメモを作って、肉屋に持って行った筈なのに」


不思議そうに首を傾げたエリソンは、早く鶏の処理をしなければと裏口へ歩いて行った。使用人たちはそれぞれ自分の仕事に戻って行くのだが、グレースはまだ動く事無く、小さく唸りながら考え続けていた。


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