その隙間に降る明朝体
―破られたページで作られた偶像―
「新しいお話が出来たから、読んでほしいんだ」
沙矢は部室に来るなりそう言って、ノートを手渡してきた。なんでもないノートでも、沙矢から渡されると心が弾む。私は沙矢が椅子に座るのも待たずに、表紙を開いて読み始めた。
美しい世界が広がっている。読み進める度に圧倒されていく。ノートの中の世界があまりに綺麗で、それは確かにあなただけれど、そこにあなたはいない気がする。
ふと、言葉の下の消しきれていない痕跡が目に止まる。何か別の言葉が跡になって残っている。重ねられた推敲の過程を思う。
知らない世界を、捨てた言葉を、飲み込んだ気持ちを、至れない領域を、知りたくても私は聞けない。
行きすぎた配慮で隠した臆病を糾弾してほしい。
真実が返ってくる保証がない事が二の足を踏ませ、真実が返ってきた時に保障ができるか分からない事がヒステリー球に変わる。
臆病のふりしたわがままな私を糾弾してほしい。
知らないあなたこそがあなたであり、捨てられた言葉を以てあなたの連続性が証明される。
「沙矢、少し苦しいよ」
「面白くなかった?」
「そうじゃないけど……やっぱり、なんでもない」
あなたの知らない私を私も作り上げていく。
「聞きたいな。どうして苦しくなったの?」
恐れ知らずに、沙矢は私を作る為の材料を集めようとしている。2月の17時半みたいな瞳が私を捉えて、破ったページの在り処を探る。穏やかに。
「……あまりにも綺麗で、苦しくなったんだ」
そう言って、目を逸らしてノートに向き直る。間違ってはいない、けれども曖昧な表現。あなたの解釈に私を委ねたかった。
「……早雪、私はいつでもここにいるよ」
文脈を飛躍した正解が飛び込んできて、私は思わず沙矢の方を見る。表情から何も読み取れなくて、嬉しいはずなのにさっきの苦しさが大きくなる。
「私は早雪が好きだから、早雪は私を見ていればいいよ。見えない世界なんていつまでも見えないんだから」
「それとも早雪は私より、見えないものの方が好きなのかな」
沙矢は眉尻を下げて、少し悲しげな顔を作る。それがあまりに儚げなので、しばし見惚れてしまう。数秒おいて咀嚼された言葉の意味が流れ込んできた。
「そんなことないよ」
湧いてきた焦りのままにそんな言葉が口をついて出る。打ち消してから途端に申し訳なくなった。
「不安にさせてごめん……私も沙矢が好きだよ」
「好きだから苦しくなっちゃったんだ、きっと」
なんて言い訳をする。誤魔化しでしかないその言葉を聞いても、沙矢は優しく微笑んだ。
「感想、聞いてもいいかな」
落ち着いた声色で沙矢が言う。私は沙矢の方に体を向けて、見えない世界を追うように感想を話し始めた。
ーアクエリアスが現れてもー
花火大会。
それは夏の終わりの象徴として、市民に親しまれている。
白いノースリーブに淡い水色のスカートを身に纏う、涼しげな姿の沙矢が前を歩いている。屋台の明かりを背景にしても、その存在の明度が高い。
この日が楽しみでなかったわけではない。
花火大会に一緒に行く約束をした時から、こうして夜の中で沙矢を独り占めできるみたいな、期待と高揚感があった。
それでも、花火が上がるのはこの街では夏の終わりを意味した。泳ぎ続けたかった青を失うのが少し怖かった。
私達は屋台に沿うようにして彷徨っていた。足を進めると流れていく屋台の列に何かを求めて、でもその何かは見つからないまま、繋いだ手の熱と揺れるポニーテール、白く浮かび上がる背中だけ頼りにしていた。過ぎ去る今を噛み締める。
「花火、もう少しで始まるね」
「そうだね」
繋いでいない方の手に巻かれた腕時計に目を落としながら沙矢が言うので、答える。
どこで花火を見るかはおおよそ見当をつけていた。手を引かれるまま屋台の群れを抜け、人気の途切れた神社の近くに並んで腰を下ろした。
今更沈黙に気まずさを感じたりはしないはずだったが、いつもはない緊張感とかそういうものが当たり障りない言葉を私に吐かせる。
「楽しみだね」
「うん。早雪と見に来れてよかったな」
嘘ではないと分かる言葉に少し戸惑う。やっぱりこの瞬間が大切な事を認識して、思考が止まる。気の利いた言葉を返したくて喉に信号を送ろうと焦っているうちに、空に閃光が走り破裂音が響く。
「始まるみたいだね」
結局私が何も言わないまま、沙矢が口を開いた。既に空を見上げている沙矢を見て、私も倣ってそっちを向いた。
光の粒が遊ぶのに遅れて、お腹の底に轟音が響く。生まれてからずっと、この時期には必ず見ているこの光景が、今日は少し特別だった。
隣に沙矢がいるからだと思う。
一瞬だけ夜空に浮かぶまやかしの星達が、私達のようだった。違う色、違う輝きの一つ一つが集まって、何かしらの形を作り出してはふっと消える。ただそれが繰り返されていく。
永遠と一瞬、本当に恐ろしいのはどっちだろう?
「ねぇ沙矢」
「ん」
「きれいだね」
「うん」
呼びかけが滑り落ちて、また当たり障りない言葉だけ生まれた。話しかけたその時ですら『それ』を言おうとは思っていなかった。だから、呼んだからには何か言わなきゃと、月並みな感想だけが残った。
「早雪」
「なに」
「……来年も、一緒に来ようね」
「ふふ、まだ花火終わってないのにもう来年の話?」
「うん。早めに約束しておきたくて」
沙矢の顔に目をやる。鉄紺色の瞳の中に色とりどりの星が散っている。なんでもない事を話すみたいに、夜空に目を奪われたまま沙矢は続けて言った。
「先約が入ったら困るからね」
驚きで沙矢から目が離せなくなる。彼女の真意は多分伝わっている。保証がなくても信じるべきことがあるのだと確信しながら軽口を叩いてみる。
「沙矢はせっかちだなぁ。でも、嬉しいな。来年も一緒に来れるんだ」
今度はちゃんと返せたと思う。証拠に、微笑んだ沙矢がこちらを向いたから。
夏が終わって、アクエリアスが現れて、その水瓶で誘惑してきても。私はもっと清い青を知っていた。だからもう、それでいい気がした。
ー白雪姫にガラスのナイフをー
「この世で一番美しいのは誰?」
「あなただよ」
楽園から出るために
明日がちゃんと来るように
禁断の果実をあなたと分け合った
逃げ出した先で
明朝体の魔法がかかる
あなたが握るガラスのナイフ
いつか机の中にしまったあの文字に似ていた
永遠と束縛のバーゲンセール
沙界のどれかは悠久の夏
黒い天使たちが群がる中を
真っ直ぐ前だけ見て歩いていくあなた
繋がれた手が永遠みたいだった
ネクタルもザクロもいらない
あなたは明日も隣にいると分かっているから
矢こぼれ拾って自分に突き刺す
青い花が揺れる
ガラスのナイフで割るステンドグラス
青い星が燃える
痛みに笑って青を想う
それだけでよかったのに
「私を殺してほしい、私があなたを忘れる前に」
眠ってしまった
天蓋透かす光の中の、清らかが目を閉じている
きっとどこかに在った気もする
きっとどこかで会った気がする
約束の時間なんて呆気なく訪れる予感がしていた
託されたガラスのナイフ
振り下ろし、あなたの胸の前で止まる
あなたがくれた青色が零れ落ちる
私は青に飛び込んで
その塩分濃度を上げていく
懐かしさ呼び起こす波に揉まれ
あなたの見逃した太陽に照らされ
たとえ鐘の音降り注ぐ中で
あなたの白に目を灼かれても
布越しに透ける笑顔に奥歯が砕けても
あなたを殺めるくらいなら
いつかどこかで救けてくれた
あなたの生み出す 泡になりたい
ー終点発、始点行ー
終わりから始まりに遡る。
確かに終わりに進んでいるのに、私達は時が流れるにつれ逆行して始まりに戻っていく。
いつか始まりすら通り越して、車庫に閉じ込められるんだ。そうなった時、それは終わりと呼ばれる。
そんなの、端末に指を滑らせていたあの夜には考えもしなかったのに。
気の置けない友人もろくにいない、というか作らない私にとっては、通知欄に突然現れる吹き出しマークがあなたの証明になる。
不安は消えないけれど、あなたについてきた事は間違いではなかったのかもしれない。
間違いではなかったと、思いたい。
永遠を先に裏切るのはどちらだろう。
そう考えることもあれど、結局彼女は優しいから裏切ったりはしないんだろうなという結論に落ち着く。ただ置いていくんだ。本当に、時折、例えば青を見たりした時に、そっと拾い上げてなんとなく慈しんでは、次の刺激で認識の外に追いやられる。
そんな繊細なガラス玉。
かつては生命線だったもの。きっと。
明日着ていく服を考えよう。
終わりの予感がいつもこちらを見ていても、私には今ある約束がすべてだ。ポイントを置けば、進む方向は如何様にも変えられる。
私達はいつだって、不定形だ。
こんにちは。みいちよです。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
この作品は夜さんの『ハートフルボイス、レターレイン』の二次創作です。
恐れ多くも『ハートフルボイス、レターレイン』は拙作『優美と柚綺』をリスペクトして書いてくださった作品だそうです。
URLはあらすじにあるので、ぜひ読んでみてください。
まだ小説における文章のルールすら分かっていなかった頃に、ただ書きたいだけで書いた拙い物語をきっかけにしてこんなに素晴らしい世界が生まれたと思うと、ゆみゆずを世に出してよかったなと思います。
二次創作するにあたり原作をひたすら読み込んだのですが、いざ内容を噛み砕いて私を通して出力すると、夜さんが慎重に選び包んでお届けしたものを平易にして露骨に白日の下に晒しているような気分になりました。
解釈違いがこわい。
けれど、書いていてとても楽しかったです。
設定がお膳立てされてるのってすごい。
あとがきが長くなりました。
最後に、この機会を提案してくれた夜さん、そして読んでくださったみなさんに感謝の意を表して終わりたいと思います。
本当にありがとうございました。
またどこかで、お会いしましょう。