序章『娑羅双樹が香る島で』
【海陽連邦暦 85年 海陽連邦自治惑星チャンモイ 港宙センター】
〈AM11:38〉
海陽系の惑星内を張り巡らせる超速移動宙路は、この海陽系の星々を繋ぐ宙路は無数に存在する。おかげで数カ月、数年は掛かる移動時間を数日、数時間に短縮することが出来るのだ。しかしその宙路も、約85年前……帝国統治時代には帝国領内の惑星間のみに限られていたという。
ラヴァナロス星からこのチャンモイ星までの移動時間は約二日。それは私にとって久し振りの余暇とも言える時間で、気楽な船旅を二日も楽しめたという事になる。毎日をバイト漬けで過ごす私もこの二日間は豪勢な食事とベットでゆっくり休むことが出来た。
「……そんな船旅も今日で終わりか」
チャンモイ星に降り立った私は少し気怠げに港宙センターを出る。外の日差しは強く、私は思わず手を翳しながら空を見上げた。
蒸し暑さが私の身体を包み込む。このチャンモイ星に来て最初の感想はジュラヴァナ星より遥かに海陽が大きいという事だった。
「海陽……大きいですね」
そう言って私は振り返ると、同じく降り立ったトーマ・タケダ教授も少し暑そうに頷いた。
「そりゃチャンモイ星は海陽系の第一惑星だからね」
タケダ教授が暑そうに扇子で仰ぎながらそう告げる。
しかし、そんな観光気分をかき消すかのように教授は私の隣を横切っていった。
「休憩したいところだけど行こうか。こんな所に立っているとホラ」
教授は扇子を閉じると指示棒のように私の背後を指す。そこには多くのガイドをしようとする客引き達が押し寄せる光景が広がっていた。
「ようこそチャンモイ星へ!」
「ウチなら女神メーアの生誕ルートを巡れますよ!」
「皐会談の場所が良く見える穴場スポットならウチに!」
「それよりも古代の文明を巡りませんか!?」
矢継ぎ早に繰り出される言葉に私は少し圧倒される。そんな中でも教授は慣れた様子で私を手招し、私はガイドたちの間を擦り抜けて何とかその場を退けた。
教授がどこに向かうのかは分からない。私がここチャンモイ星に着くまで教授が教えてくれたのは、帝国軍を滅ぼした現海陽連邦政府の原型、統合軍の基盤を作った中心人物であるヒート・ヘイズ……の事を知る人物がこの星に居るという事だけなのだ。
「教授。その人……クレア・フェスタと言う方にはどこに行けば会えるんですか?」
「安心して。一応連絡は入れてあるからさ」
教授はそう告げると、荷台がある小さなエアカーへと向かっていく。
近付いてくる私たちの存在に気付いたのか、エアカーの扉が開くと、中に居た人物がゆっくりと降りてきた。
「トーマ・タケダ教授とミカン=フランソワ・ナカハシさんでしょうか? 自分はお二人のお迎えを命じられたカシム・ホワイトと言う者です」
ランニングシャツと短パンとは思えないほどの礼儀正しい言葉遣いに私は思わず驚いた。
男性の年齢は私とそこまで変わらないだろう。少し黒い肌と銀髪から、クリオス星人と推測できるが、如何せん肌の血色がクリオス人よりも薄いので、もしかしたらただの日焼けしたヴェーエス星人かもしれない。そんな彼の言葉に教授はニコリと微笑んだ。
「どうも。わざわざお迎えありがとうございます」
「いえ、このようなエアカーしかなく申し訳ありません。心苦しいですがお二人のうちどちらかには荷台に乗っていただく事になるかと」
そう言って彼は教授と私の荷物を荷台に乗せていく。尊敬する教授を荷台に乗せるわけにもいかず、私は反射的に「あ、私は荷台で大丈夫です」と返すと、教授は「すまないね」と言って助手席に乗り込んでいった。
「どうぞ」
紳士的に手を差し出してくれるカシム氏の手を取って私は荷台に乗り込むと適当に腰を下ろす。私の着席を見届けたカシム氏は小走りで運転席に乗り込むと、エアカーが僅かに上昇してゆっくりと進み始めた。
チャンモイ星は海陽系で最も小さな惑星だ。地表は殆ど海で覆われており、陸地は砂時計型の小さな島しか存在しない。そのため飛行船などは存在せず移動手段はエアカーが主流で、外惑星へ繋がる港宙センターも一つしか存在しない。元々、女神メーアが生誕した星であるため、神栄教のメッカとして十数年前までは立ち入りさえ禁じられていた星なのだ。それがこのように観光惑星となった経緯は神栄教の拠点であるジュラヴァナ星の融和政策などが絡んでいるのだが、今その話はいいだろう。私からすると、二日ぶりに感じるこの風の心地よさが説明する気を失せさせるのだ。
それでも重要な歴史的価値のある遺跡が多く存在するこの星では、連邦政府の名の下で立ち入りを禁じられた場所が多く存在する。小さな島の中にある一部の居住区は観光客に溢れ、様々な店舗が立ち並んでいる。
恐らく、この星で最も大きな(と言っても他惑星から見れば小さいが)道を抜けると、舗装されていない小さな道と、生い茂った森、不思議な形の花とその香り、そして遠くまで広がるエメラルドの海だけが広がっていた。
聴覚で風が揺らす木々の音、嗅覚で仄かな甘い香り、そして視覚で美しい海を眺めながらその道を抜けると、小さな丘を上がっていく。丘を上がる道のりではほとんど人の姿は見受けられない。やがて丘の上にポツンと建っている小さな木造の建物が目に入る。私たちを乗せたエアカーはその建物の前で止まった。
「……可愛いお店……」
荷台の上から思わず身を乗り出して私は思わずそう呟く。海が広がる絶壁を背景に立つその小さなお店は、まるでお伽噺に出てくるような装いだったのだ。
「素敵な外観でしょう。築八十五年以上経過しているんですよ」
エアカーから降りてきたカシムはそう言って再び手を差し出してくれる。私は思わず小さく頬を染めながら彼の手を取ってエアカーから飛び降りた。
「そうなんですか。素敵ですね。あれ教授は?」
私は助手席を覗き込むが、そこには項垂れながら何とか降りる教授の姿があった。
私は慌てて助手席の方に回り込む。すると教授は私の肩に手を掛けながら呟いた。
「……酔いました」
「この十数分で? ……非常に格好悪いです」
「手厳しい」
苦笑する教授を見ながら私は一応背中を摩ってあげた。そんな軟弱な教授とは対照的に、ワイルドで逞しいカシムは軽々と二人の荷物を担ぎながら店内へと歩いて行く。
「少しお待ち下さい。すぐ店主をお呼びしますので」
「あ、はい。ありがとうございます……え? 店主?」
その疑問にカシムは気付くことなく店内に入っていく。すると遠くを見て深呼吸していた教授が立ち上がった。
「じゃあ行きましょうか。君の疑問通りですよ」
そう言って歩きだした教授の後を追う際に、私は入り口の上に掲げられた手書きの看板を見上げた。
「……シーウルフ」
変わった名前の店名に私は思わず呟きながら一筋の汗を拭う。すると店内から気品ある声に似つかわしくない口調の言葉が並んだ。
「今日はメガ級に暑いですね。こんな日に取材するなんてギガ級のお馬鹿さんなんですか?」
「すいませんね。でも見どころがある生徒がいるんですよ。あ、ナカハシ君。こちらがクレア・フェスタさんですよ」
先に店内に入っていた教授がゆっくりと振り返る。
店内は柱の数が少なく開けており、奥のバルコニーに繋がる扉も開けっ放しになっている。その先に広がる美しい海から注ぐ風に私は心地よさと同時に少し恐怖心を覚えた。
ホバリングする車椅子に座る底知れない気品を漂わせた老婆が訝し気な表情を向けていたからだ。