ああ彼氏、どうしてあなたは鳥取県民なの?
この世界は微妙なバランスの上に成り立っている。太平洋の小さな島で、ひらりと舞った蝶の羽ばたきが反対側の大西洋でハリケーンを生み出すことだってあるのだ。そして、人の気持ちにおいても些細なことが大きな影響を与えることがある。そう、私――名草巴の心も常に揺れ動いている。なぜか、それは彼――福田正志のせいだ。
私たちは新入社員と教育係という普通の出会をして。普通に恋に落ちた。ただ、違ったのは彼は鳥取県民だったのです。
島根県と鳥取県には宍道湖よりも深い隔たりがある。その歴史は戦国時代に遡ると言う者もいれば、明治維新後の廃藩置県の際にいまの島根と鳥取を合わせた大島根県が誕生した。しかしこの超巨大県は数年で崩壊する。この理由が鳥取側の独立運動によるものだという話は有名である。そんなわけで島根と鳥取は山陰の覇権をめぐって今も争っているのである。このような話をすると山口県を加えようとする不心得者がいるが、あれは本州の端というきちんとした役割があり山陰ではない。ないのである。
そして、私は福田に自分が島根県民だと言えずにいる。
「巴さん、今度の休みには出雲大社に行こう。行ったことないだろ?」
屈託のない笑顔で出雲大社へのデートに誘う。恋愛得点-10。全国的に縁結びの神様と言われる出雲大社だが島根県民のなかではカップルで行くことは「私たち別れましょう」という暗黙のルールである。そもそも運命の相手を神々が選ぶ出雲大社にカップルで行ってどうするのだ。すでに結ばれているのにもう一回結んでもらうのか。そんなことになれば赤い糸の簀巻きで完全に緊縛だ。そんなハードプレイ誰が望むのか。
「え、本当ですか。私行ったことないです」
嘘をついてしまった。そもそも島根県民だということを素直に言えていればと心が痛む。東京の大学を出たあと地元である松江に戻って就職した私を福田は東京から来たお嬢さんだと思い込んでいる。彼が鳥取出身であると言われたとき、つい島根出身だと言いそびれたばかりにこのざまである。せめて交際を申し込まれたときに告白できていればと思うが、そのときは彼に嫌われたくないという思いから言い出せなかった。
「駅から少し歩くから歩きやすい格好がいいよ」
知っている。小学校の遠足以来何度も行った場所である。松江しんじ湖温泉駅という何とも言えない駅から二両編成のオレンジ色の電車に揺られて左に宍道湖を右に田園を眺めながら揺られていくのである。出雲大社には途中の川跡で乗り換えなければ最寄りの出雲大社駅ではなく電鉄出雲市駅に到着することになる。この電鉄出雲市駅から歩いて出雲大社に向かうことはかなりの気合が必要だ。その場合、デートではなく遠足になるので甘い会話は期待できない。
「楽しみにしてますね」
「日曜日の朝に駅前で」
入社二年目の一週間はあっという間で日曜日はすぐだった。天気は爽やかすぎるほどの晴天。空の青はとけるように鮮やかなのに真夏のような鋭さはない。春一番の荒天と梅雨までのわずかな五月の晴れ間は気持ちがいい。私はいろいろ考えた結果、黒のロングスカートに淡灰色のフードパーカーというカジュアルな服装に黒のスニーカーといういかにも公園デートですという服装になった。実家から二キロ、職場まで五百メートルのアパートから駅までは軽で十分とかからない。駅近くの駐車場に車を止めると同じように車を止めたあとの福田の姿が見えた。
デニムジャケットに白Tシャツ。濃赤色のチェックパンツという姿はいつものスーツ姿よりも垢ぬけていて新鮮に見える。それは私も同じで一目でOLですと分かる会社の制服と私服では目新しさが違うだろう。
「おはよう。なんていうか可愛いね」
少し照れた様子で私を褒めてくれる気遣い。恋愛得点+15。にこにこ。
「おはようございます。福田さんも素敵ですよ。お待たせしました?」
「今来たところだよ。ごめんね。わざわざ電車にしちゃって」
島根も鳥取も移動と言えば電車よりも車という世界である。それなのに電車を指定してきた当たり彼にはなにか思惑があるに違いない。乗客が少ないことを良いことにフラッシュモブで結婚を申し込まれるのではないか? いやいや、まだ付き合ってふた月である。それはないに違いない。
「いえいえ、大丈夫です。私結構、電車好きですから」
手を振って微笑む。この場合、電車が好きというのはあなたと一緒に話をしながら目的地に行く電車が好きという意味で電車本体には興味がない。稀に言葉通りに電車が好きなのだと思って車両の説明をしてくれる殿方がいるがおよそそういう方との付き合いは続いた記憶がない。
「良かった。ドライブもいいかと思ったんだけど、電車から見える風景が良いから君にも見てほしかったんだ」
福田はそう言って微笑むと私の手を取って駅の中へ向かう。学食の食券機のような券売機で切符を買うとホームに停まっているオレンジ色の電車に乗り込む。全体的に小さな造りの車内は木が多く使われておりメタリックな都会の電車よりも温かみがある。ほかの乗客は老夫妻の旅行者が一組。部活に向かうのだろうか大きなスポーツバックを担いだ高校生が五人。私たちは横並びの座席に腰を掛ける。少しだけ目測が甘かったのか私と福田の肩がわずかに触れ合う。それが何となく恥ずかしいような。嬉しいような不思議な気持ちになった。
「どう、松江には慣れた? 俺も鳥取から来てまだ四年だから偉そうなことは言えないけど」
バリバリに慣れてます。というかホームタウンです。高校までの十八年間過ごした街ですからと言えればどれほど気が楽なことだろうか。ああ、そうだ。この電車が着いたら正直に言おう。私、島根県人なんです。そして楽になろう。そうしよう。私は小さな決意を心に秘めて彼の質問に曖昧な返事をした。
そうしている間にも電車は進み始める。冬の曇天の宍道湖はどこか灰色がかって物寂しい。だが、五月の宍道湖は透けるような青い空に照らし出される。青は桜や牡丹の花々のような華美さはないが、どこか非現実的で見飽きることがない。
わずかに漏れ出した感嘆に気づいたのか福田が「気持ちのいい風景だよね。この季節じゃないとこの青は見れないんだ」と嬉しそうに言った。が、そのあとで「鳥取砂丘から眺める海もこの宍道湖に負けない美しさがあるんだ。いつか君にも見てほしいな」と付け加えた。
島根県人に鳥取砂丘の話をする。恋愛得点-20。遺憾ながら私も鳥取砂丘に行ったことはある。日本海面した砂の大地には、なぜかラクダがいる。ラクダにはエサや乗ることができる。私はエサをあげたが、エサと一緒に私の指までなめられてなんとも言えないすえた匂いが手に残った記憶がある。そしてなによりもまつ毛が長い。
「ええ、いつか行きましょう。福田さんから見て島根の良いところってどこですか?」
「そうだなぁ。海産物が美味しくて歴史的な遺産が多いところかな」
海産物が美味しいのは鳥取も同じである。歴史的遺産が多いのはそうである。何といっても大国主命以来の出雲大社に最近、世界遺産になったばかりの石見銀山があるのである。私がうんうんと首を縦に振っていると福田は嬉しそうに笑顔を向ける。そのたびにこんな良い人を私は騙しているのかと心が痛い。
「福田さん、実は……」
「あっ、そろそろだよ」
一畑口駅を過ぎたころに福田が窓の外を指さす。この辺りまでくると右手に迫っていた山の緑が消えて平野に変わる。田植えから間もない田はうっすらと苗の新緑が眼にやさしい。両サイドに広がる緑の田畑を通り抜けるのは爽やかな爽快感がある。見たことがあるはずの光景なのに楽しい気持ちになるのはなぜだろう。恋愛得点+25。
「すごい……」
「よかった。この景色が見てほしかったんだ。僕が島根に来て最初に気に入ったこの景色を君にも気に入って欲しかったんだ」
福田がはにかんだように言う。
「はい、私も好きです。この風景。きっと忘れません」
「……来年も見に来れたらいいね」
「福田さん、私……あなたに黙っていたことがあるんです」
意を決して切り出しておきながら次の言葉が出てこない。福田は急にどうしたのだろうと不思議そうな顔と緊張を半々にしたような表情で私をまじましと見つめる。私は「ああ、私はもうだめだなぁ」と思った。
「私、私。実は島根県民なんです。高校までずっと松江で……。だから東京からは大学卒業して帰ってきたっていうか。だから、なんかごめんなさい!」
私が告白を終えると福田は少しだけぽかーんと口を開けるとそのままの様子で笑い出した。それはとても愉快だという様子でことらを馬鹿にしたり嘲笑するようなものではなく、ただおかしいという無邪気なものだった。
ひとしきり笑い終えると福田は「知ってた」とあっさり言った。
今度は私が絶句する番だった。知ってた? いつ? どこで? だれが? 何を? なぜ? どのように? 社会人の心得5W1Hがぐるぐると頭の中を回転する。
「俺は君の教育係だったんだよ。履歴書くらい見てるよ」
「だったらどうして!」
顔が真っ赤になる。彼はずっと知っていたのだ。知っていて私が島根県民じゃないふりをしているのに合わせていてくれたのだ。ああ、穴があったら入りたい。そして宍道湖のシジミのような貝になりたい。
「君が隠してるから島根が嫌いなのかなって。でも、今日ちゃんと教えてくれて嬉しかったよ」
彼氏が鳥取県民なこと恋愛得点-50。
私が言うまで待ってくれる優しいところ恋愛得点+100。私は彼が好き。