やはり邪魔なものは邪魔
だいぶ間が空いてしまいました。まだ読んでくださる方がいるでしょうか。
この作品、キースの視点も入れていこうと思います。
会場の扉が開いた瞬間、眩いシャンデリアの光が二人の上に降り注いだ。華やかな楽団の旋律が空気を震わせ、着飾った貴族たちの視線が一斉にこちらへ集まる。キースは慣れた手つきでリネットの腰に手を添え、まるで世界で最も美しい宝物を運ぶかのように、ゆっくりと歩を進めた。
赤髪が照明を受けて燃えるように輝き、青い瞳が会場を一巡する。完璧な貴公子の微笑み。けれどその目がリネットに戻った時だけ、ほんの僅かに熱が滲んだ。
「さあ、参りましょう。今宵の主役は、あなたですから。」
会場内では既に噂が広まっていた。王命による突然の婚約、しかも相手は騎士団の近衛兵として名の知れたシュルーズベリー家の令嬢。好奇と羨望、そして幾ばくかの嫉妬が入り混じった囁きが、波紋のようにフロアを伝っていく。
公爵が壇上に立ち、会場が静まり返った。白銀の髪の年齢不詳である公爵は、鋭い眼光で一同を見渡してから口を開く。
「本日は我が息子キースと、シュルーズベリー家が誇る騎士リネット嬢の婚約披露の場に集まっていただき、感謝する。両家の結びつきは国の繁栄を約束するものであり、若き二人の前途に祝福があらんことを。」
拍手が沸き起こる中、キースの父は満足げに頷いた。だがその目は笑っていなかった。息子を見つめる眼差しには、どこか品定めするような冷たさが宿っている。
父親の口上が終わると、キースがリネットを軽く促して会場中央へと導いた。ダンスの時間が近い。周囲の令嬢たちがキースに群がろうとする気配を察したのか、彼はリネットだけに聞こえる声で確認するように囁いた。
「最初の一曲、僕にくださいませんか。……他の誰にも、譲りたくないので。」
「もちろんです。婚約者ですから」
その言葉に、キースの表情がふわりと綻んだ。嬉しさを隠しきれない、年相応の青年の顔。だがすぐに貴公子然とした所作に切り替わり、片膝を折ってリネットに手のひらを差し出した。
「では、お手をどうぞ。」
今日の主役は2人だ。誰もがフロアの中心で踊る2人をみている。ステップを踏みながら、キースがリネットの耳元に顔を寄せた。吐息が首筋をくすぐるほどの距離。
「…あなたがそう言ってくれると、僕は本当に幸せです。もっと欲張りになってしまいそう。」
キースはリネットの耳が赤くなる様子を見て、思わず微笑む。
曲の合間、二人の足が止まった一瞬。会場の隅で、一人の令嬢が扇の陰からリネットを睨みつけていた。ヴァレンティナ・ハインツ。キースに長年想いを寄せていた侯爵家の姫君である。視線を感じ、そちらに気を取られたリネットの足捌きが一瞬乱れた。
「あなたの恥じらう姿、とても愛らしいですね。もう少し近くで見せていただけますか?」
ダンスの動きに合わせて、さりげなく彼女の腰に添えた手に力を込める。
「大丈夫ですよ。もし踊りにくければ...ただ私に身を任せてください。僕があなたを導きますから。」
キースはヴァレンティナの方へちらりと視線を向け、挑戦的な微笑みを浮かべる。ヴァレンティナはキースに微笑まれ、ほおを染めていた。
「すみません…ダンスが不慣れなもので…」
男のように育てられたリネットは、淑女教育で、ダンスは今まで一通りしかやっていなかった。
「心配しないで。あなたの不器用さも、僕にとってはかけがえのない魅力なんですよ。」
リネットの手を取り直し、より自然な位置に導く。
「実は僕も緊張しています。こんな大切な人と踊るのは初めてですから。でも、あなたと一緒なら怖くありません。ほら、もう一度...そう、その調子です。
周りの目なんて気にしなくていい。今夜だけは...いえ、これからはずっと、僕の目に映るのはあなただけなのですから。」
愛し合う恋人同士のようなダンスに、赤く染まるリネット。
「貴方も、緊張するのですね…」
「ええ、意外に思われるかもしれませんが…僕だって人の子ですから。」
キースは彼女の手を優しく握り、ダンスの回転へと導く。くるりくるりとターンのたびに美しくドレスが広がる。
「特にあなたの前では、いつも平静を装っていても、胸の鼓動が止まらないんです。王命とはいえ、この婚約は僕にとって天啓のようなものでしたから。」
キースが囁く声が熱を帯びている。
「騎士として凛々しいあなたも素敵ですが、こうして女性として輝く姿は…もっと美しい。今夜のために特別に仕立てたドレス、本当によく似合っていますよ。」
曲が終わり、2人がフロアから出ると、自然と拍手が起こった。入れ替わりにゲストたちがフロアで踊り始める。リネットはよく知る姿をホールで見つけた。相手が2人の元へやってくる。
「あれ、ウリエル」
リネットがウリエルの名を呼んだ瞬間、キースの目がすっと細まった。しかしすぐに柔らかな笑顔を貼り直す。
「おや、お知り合いですか?」
リネットの肩にそっと手を置いたまま、ウリエルに向き直る。
「初めまして。キース・ロブウェルと申します。リネットの婚約者です。」
ウリエルも、リネットが見慣れない貴公子の顔で答える。
「お噂はかねがね。私はウリエル・アーヴィング。リネットとは近衛兵時代からの同期です。リネットのの面倒は俺が一番よく見てきました。」
キースの顔は笑顔のまま、しかしリネットの肩の手がわずかに力を帯びる。
「それは頼もしい。彼女を支えてくださる方がいらっしゃるのは心強いですね。……ところで、ご来場いただき、ありがとうございます。」
「大事な同僚の祝いに来ただけですよ。なあ、リネット?」
「ウリエルも来てくれるなんて嬉しい。ありがとう。」
ウリエルの名前が出た瞬間、キースの手が微かに震えた。だがすぐに貴公子の仮面を被り直し、穏やかな笑みを崩さない。視線をリネットの背後に向けたまま、声のトーンは変わらない。けれど指先がリネットの肩を掴む力が、ほんの少しだけ強くなった
「ぜひご挨拶したいところですが……リネット、少し疲れていませんか?ダンスでお足元が辛いでしょう。少し休みましょうか。」
まるでウリエルとの会話を遮るように、自然な動作でリネットをテラスの方へ促そうとする。その青い瞳の奥で、静かな炎がちらりと揺れた。
「え?あっ!ウリエル、来てくれてありがとう!」
リネットの隣に並び、手すりに腕を預ける。しばらく黙ったまま庭を眺めていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「……ウリエル殿とは、随分親しいのですね。」
声は穏やかだった。けれどその横顔には、仮面の下から覗くような翳りがあった。
「近衛兵以前の時代からのご縁だとか。彼は、あなたにとってどういう存在なのですか?」
キースはリネットの方を向かなかった。月を見上げたまま、まるで天気の話でもするように問いかけている。だがその拳は、手すりの上で白くなるほど握り締められていた。過去を懐かしむようにリネットは穏やかに話す。
「大事な同僚です。同期の中でも、彼は私を女だと差別せず扱ってくれました。」
その言葉を聞いた瞬間、キースの呼吸が止まった。
ーー女だと差別しない。それはつまり、好意を持って扱っているということだ。ウリエルはリネットを対等な仲間として見ている。いや、もしかしたらそれ以上の感情を抱いているかもしれない。
「……そう、ですか。」
ようやくリネットの方を向いたキースの顔には、いつもの完璧な笑みが戻っていた。けれどその青い瞳は笑っていない。
「彼があなたを大切に思っているのは、よく伝わりました。さっきの目を見ればわかります。」
一歩、距離を詰める。
「ねえリネット。僕は王命であなたを縛る身です。本当ならこんなことを聞く資格なんてないのかもしれない。でも……あなたが他の誰かに心を許す姿を見るのは、正直、辛い。
声が低く掠れた。仮面の隙間から、剥き出しの本音が零れ落ちるように。
「僕だけを見てほしい、なんて……わがままですか?」
夜風が二人の間を吹き抜けた。月が雲に隠れ、テラスが一瞬だけ暗くなる。
沈黙が怖かった。答えを待つ数秒が永遠のように引き伸ばされる。キースは手すりから手を離し、両手を体の横で握り締めたまま、じっとリネットを見つめていた。
やがて、リネットが口を開く気配を感じて、仮面を被り直そうとする。けれど今夜ばかりは上手くいかなかった。唇の端がわずかに歪み、目元が不安に揺れている。
「……すみません。今のは忘れてください。」
キースは自分から切り上げようとした。これ以上踏み込めば、この仮面が完全に剥がれ落ちてしまう。そうなれば、リネットに自分の醜い本性を晒すことになる。キースは一歩下がり、いつもの柔和な笑顔を作ろうとした。
「少し、風に当たりすぎましたね。中に戻りましょうか。飲み物でもお持ちしますよ。」
典型的貴族の家出身のリネットにとって、夫婦それぞれに愛人がいるのは当たり前だと思っていたため、
キースの言葉は少し意外だった。少し考えて口を開いた。
「…私は誠実な方には誠実さをお返ししたいと考えております。貴方のご期待に添えるかは分かりませんが…」
それが今のリネットなりの今の答えだった。
「誠実」という言葉が耳に届いた瞬間、キースの思考が一瞬止まった。誠実。それは裏を返せば、愛人を持たない限りリネットも他の男に心を移さないということか。けれど同時に、期待に添えるかは分からないという言葉の意味を噛み締める。拒絶ではない。けれど受容でもない。まだ、足りない。
「…十分です。十分すぎるほど。」
声は平静を装っていたが、喉の奥が熱かった。テラスの手すりに背を預け、空を仰ぐ。月が再び雲間から顔を出し、銀の光をキースの赤い髪に落とした。
「焦りませんよ。僕は待つことに慣れていますから。……ずっと、そうだった。」
キースの脳裏に、過去の記憶がよぎった。あの日触れた温もりを追い求めて、何年も何年も。王命という鎖を手に入れた今、急ぐ理由などない。時間はたっぷりある。じっくりと、外堀から埋めていけばいい。
視線をリネットに落とし、柔らかく微笑んだ。今度は仮面ではない、本物の笑み。
「さあ、中へ戻りましょう。あなたを独り占めしては、他の殿方に恨まれてしまいますからね。」
小さく笑うリネット。
「誰も私のことなど見ていませんから大丈夫ですよ。」
リネットは心の底からそう思っていた。令嬢教育などほとんどうけずに育ったリネットは自分が貴族の女性として足りないところが多いことを知っていた。だが、キースの好意に気づかないほど鈍感でもなかった。
「ですが、そうですね、一緒に何か飲み物をもらいに行きましょう?」
「誰も私のことなど見ていない」という言葉に、キースは一瞬だけ目を伏せた。この人は本気でそう思っているのだ。自分がどれほど周囲の目を集めているか、まるで気づいていない。それがたまらなく愛おしくて、同時に腹立たしかった。
「それは違いますよ、リネット。」
けれどそれ以上は言わず、優しく笑って歩き出す。
「では参りましょう。あなたは何かお好みがありますか?ワイン?それとも果実水?」
二人がテラスから会場へ戻ると、案の定ウリエルが近づいてきた。手にはグラスが二つ。
「やっと戻ってきましたね。リネット、ほら、リネットの好きなやつ。」
ウリエルが差し出したグラスを見る。リネットの好みを把握している。その事実がキースの胸を鋭く抉ったが、顔には出さなかった。
「ありがとうございます、ウリエル殿。……ですが彼女は僕の婚約者なのですから、僕がご用意しますよ。」
にこりと笑い、給仕に目配せして新しいグラスを受け取り、リネットに渡す。
「ありがとうございます。キース殿。」
ついいつもの調子で堅苦しい言い方になってしまったことに、リネットはしまったという顔をした。
リネットがしまったという顔をしたのを見て、キースは思わず小さく吹き出した。
「ふふ、そんな顔をしないでください。堅苦しいのは僕も同じです。」
グラスを軽く掲げ、悪戯っぽく首を傾げる。
「では改めて。僕のことはキース、と呼んでいただけませんか。殿なんてつけられると、なんだか他人行儀で寂しい。」
二人のやり取りを横目に見ながら、ウリエルは壁に肩を預けてグラスを傾けた。その瞳がキースを値踏みするように観察している。
「仲睦まじいですね。王命の割には。」
ウリエルの言葉に、一瞬だけ仮面がぴくりと引き攣った。しかしすぐに涼しい顔に戻る。
「ええ、おかげさまで。ウリエル殿も楽しんでいらっしゃいますか?」
「もちろん。リネットの晴れ姿を見届けるのが私の務めですから。」
ウリエルがグラスの縁を指でなぞりながら、声だけは穏やかに言う。
「それはそれは。……ところでリネット、この後少し僕と庭を散歩しませんか?月が綺麗な夜ですし。」
「ええ。そうですね。」
「じゃあウリエル、また後で。」
ウリエルに「また後で」と言いかけたリネットの言葉が終わる前に、さりげなく腰に手を添えて歩き出した。有無を言わせぬ自然さで。
「では、参りましょう。」
グラス片手にひらひらと手を振るウリエル。
「ええ。行ってらっしゃい。……逃げろよ、リネット。」
その呟きはキースの耳には届かなかった。庭園に出ると、昼間の熱気が嘘のように空気が澄んでいた。月光が石畳を青白く照らし、噴水の水音が心地よく響く。人気はほとんどない。
しばらく無言で歩いた後、ふと足を止めた。月を見上げ、深く息を吸い込む。
「…綺麗ですね。こうして二人きりになれる時間が、今日一番の収穫かもしれません。」
キースが振り返り、月を背にしてリネットを見下ろす。その顔にはいつもの仮面が薄く張り付いていたが、目だけが妙に真剣だった。
「ねえリネット。ひとつ聞いてもいいですか。」
声が少し低くなる。
「あなたは、この婚約をどう思っていますか?王命だから仕方なく、ですか?それとも……少しは、嬉しいと思ってくれていますか?」
今までにないキースの今日の様子に、リネットゆっくり考えながら話す。
「光栄なことだと思っております。」
「光栄」という言葉。それはリネットなりの精一杯の肯定だと、キースは自分に言い聞かせた。今はまだ、それでいい。
「光栄、ですか。ふふ、あなたらしい答えですね。」
月明かりに照らされたリネットの横顔を、キースは目を細めて見つめた。普段のそばかすの化粧も、円メガネもない素顔。こんなに綺麗な人を、自分は手に入れたのだ。
キースの中で、二つの感情がせめぎ合っていた。歓喜と不安。この顔を自分だけのものにしたいという欲望と、いつかこの仮面が剥がれたとき、リネットが離れてしまうのではないかという恐怖。
ふと、庭の奥にある東屋に目を留めた。月がちょうど真上に昇り、屋根の影が石畳に美しい模様を描いている。
「少し座りませんか。足が疲れたでしょう。」
リネットを東屋のベンチに導き、自分はその隣に腰を下ろした。肩が触れ合うほどの距離。キースは前を向いたまま、静かに口を開いた。
「…僕はね、リネット。あなたにひとつだけ、約束したいことがあるんです。」
月を見つめる横顔は、いつもの完璧な貴公子のそれだった。けれど声だけが、ほんの少し震えていた。
「あなたを、必ず幸せにします。この命に代えても。」
リネットがキースを見上げた。濡れたような青い瞳がリネットを見ている
「幸せ、ですか。」
リネットが黙り込んだのを、キースは横目で捉えた。彼女が何を考えているのか、手に取るように分かる。この人は「幸せ」の定義すら曖昧なのだ。それが、たまらなく切なかった。
「難しい顔をしていますね。」
キースは少し身を寄せ、リネットの顔を覗き込んだ。
「幸せなんて、そんな大層なものじゃなくていいんです。朝起きたとき、隣にあなたがいる。それだけで僕は十分に幸せですから。」
東屋の柱に夜風がぶつかり、葉擦れの音がさわさわと二人を包んだ。遠くの会場から微かに音楽が漏れ聞こえる。
ふと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そうだ。ひとつ、お願いがあるんです。」
ポケットから小さな箱を取り出す。中には繊細な銀細工のブレスレットが収まっていた。
「今夜の記念に。あなたにつけてほしい。」
リネットの返事を待たず、箱を開いて差し出す。その仕草はどこまでも自然で、断る隙を与えない手際の良さがあった。
「この箱の中身ですか?今?」
箱を差し出したまま、キースはリネットの反応を待った。その目は穏やかに細められているが、奥底では返答の一つ一つを分析している。
「ええ、今ここで。」
ベンチの上で少し体を寄せて肩を抱き、リネットが箱を開けるのを促すように微笑む。
「サイズは合っているはずです。あなたの手首は……以前お会いしたときに、ちゃんと確認済みですから。」
さらりと言ってのけたが、それはつまりリネットと会うたびに彼女の体格を観察していたということに他ならない。
リネットがブレスレットを手に取ったのを見て、すかさずその手首に視線を落とした。
「よかったら、つけて差し上げましょうか?」
自分の手を伸ばしかけて、ふと止まる。少し考えるように首を傾げた。
「……いえ、せっかくですから、ご自分でどうぞ。そのほうが特別感がありますからね。」
「綺麗ですね…ありがとうございます。」
しかし、リネットが片手で格闘している姿を見て、キースは堪えきれずに小さく笑った。
「やはり貸してください。」
リネットの手からブレスレットを取り上げ、迷いのない手つきで彼女の左手首に通す。細い銀の鎖が手首の上でしゃらりと鳴った。
「はい、できました。」
満足げに頷いてから、ふと動きを止めた。ブレスレットをはめた手首をそのまま離さず、親指で銀細工の模様をなぞる。
「…やっぱり、よく似合う。」
月光の下、銀の鎖がリネットの白い手首で鈍く光った。キースが贈った銀細工は二つ目。髪留めとブレスレット。少しずつ、少しずつ、彼女の日常に自分の痕跡を刻んでいく。計算なのか本能なのか、おそらくその両方だった。
ようやく手を離し、何事もなかったように背筋を伸ばす。
「さて、そろそろ戻りましょうか。あまり長く抜けていると、ウリエル殿に怒られてしまいそうですし。」
立ち上がり、リネットに手を差し出した。
「戻りましょう。」
差し出された手を握り返しながらも、リネットはキースの内心を突く。
「私の婚約者は貴方ですよ?主役があまり席を外してもよく無いでしょう。」
リネットの言葉に、差し出した手が一瞬だけ震えた。「私の婚約者は貴方ですよ」。それは当たり前の事実を述べただけ。それだけのこと。なのにキースの心臓は跳ねた。
――この人は、こういうことを無自覚に言う。
「……ええ、もちろん。僕はあなたの婚約者です。」
声が僅かに掠れたのを咳払いで誤魔化し、リネットの指を取って引き上げた。
会場に戻ると、夜風で少し冷えた二人の姿に招待客たちが声をかけてきた。中年の貴族がワイン片手に近づく。
「いやいや、お似合いですな!王命とはいえ、こうして見ると美男美女で羨ましい限りだ。」
完璧な笑顔で応じるキースと、笑顔を貼り付けるリネット。
「ありがとうございます。リネットは僕にはもったいないほど素敵な方でして。」
その様子を少し離れた場所からウリエルが見ていた。グラスの残りを飲み干しながら、何か考え込むような表情でだった。
小さく舌打ちして、誰にも聞こえない声で呟く。
(……あいつ、笑ってるようで笑ってねえな。目が据わってる。)
ウリエルの勘は正しかった。キースがリネットの隣に立つとき、その青い瞳の奥では常に二つの炎が燃えている。愛と、執着。そしてそのどちらも、まだ誰にも見せたことはなかった。
だがその呟きは誰にも届かない。
二人が貴族たちと挨拶を交わしていく中、キースは終始完璧な婚約者を演じ続けた。冗談を言い、相槌を打ち、時折リネットを気遣う仕草を見せる。周囲からは理想のカップルに映ったことだろう。
だが、三組目の貴族と話している最中だった。
「そういえばリネット嬢、先日の王宮での舞踏会では随分とご活躍だったそうじゃないか。近衛として、あの大広間の警護をされたとか。
いやあ、女性であの場を任されるとは大したものだ。なあ、キース殿も鼻が高いでしょう?」
一拍の間。キースはそれから、花が綻ぶような笑顔を作った。
「ええ、本当に。僕にはもったいないくらいですよ。」
そう言いながら、さりげなくリネットとの距離を半歩縮めた。
この会話がキースの中で何を引き起こしたか。リネットが騎士として認められていること。それは喜ぶべきことのはずだった。なのにキースの内側では、暗い靄がじわりと広がっていく。
貴族が去った後、何気ない風を装って口を開く
「リネットはお仕事でも頼りにされているんですね。……少し、妬けてしまいます。僕よりも、皆があなたを褒めている。」
冗談めかした口調。けれどその青い目は笑っていなかった。




