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汝は人狼なりや。  作者: 独斗咲夜
7/70

肆日目ー前半戦

~あらすじ~

※動画版の概要欄より引用→https://www.youtube.com/watch?v=DgF337jUPu8


少年、漆村昇‐ウルシムラ ノボル‐は苦心していた。日に日に壊れていく母、自分の目に見えない“狼”の存在に苦しめられる姉――どうにかしたくても何もできず、周囲の人間と比べても無力な自身に彼は強い劣等感を抱いていた。

そんなある日、母親の見舞いから帰宅する最中、よそ見をしていたことで同じ見た目をした若者3人組にぶつかってしまう。危うく殴られそうになる昇だったが、偶然にも周囲をパトロールしていた警察官の笹木尚也-ササキ ナオヤ-によって助けられ――

怒号


騒音


破裂音


幼い僕達の生活は、そんな『音』で溢れ返っていた


泣き声


叫び声


許しを乞う声


幼い僕達の生活は、そんな『声』でも溢れ返っていた


切り傷


擦り傷


打撲痕


幼い僕達の生活は、そんな『傷』も溢れ返っていた


幼い僕達の生活は


生活は


――――――



***



大神学園 高等部校舎1階 職員室前――


「し、失礼しました~……お、重い……」


プルプルと震える手で職員室の扉を必死に締めながら漆村幽美(うるしむらかすみ)はそう呟いた。彼女の手には大量のダンボールやらポスター等がこれでもかと山盛りに積まれている。職員室内で不要になった物をゴミ捨て場まで持って行って欲しい、と教師達に頼まれたのだ。幽美にとっては、大量の書類を終わらせて職員室に持って来た矢先の頼み事であった。正直早く帰りたい所だが、生徒会の副会長として断る訳にも行かなかった。その結果、幽美は前も見えないほど大量の廃棄物を1人で運ぶ羽目になったのである。


「う~……流石に、前、見えないと……ちょっと、怖いなぁ……」


1人でゆっくりと荷物を運ぶ幽美。幸いなことに、件のゴミ捨て場は同じく1階にある。一度外に出なければ行けないが、校舎から直で繋がる通路があるため、靴を履き替える必要もない。問題なのは、校舎の端にある故に距離がかなりあるということぐらいか。元々そこまで腕力がある訳では無いので、幽美は若干ふらつきながら、それでも何とか足を踏ん張りつつゴミ捨て場へと向かった。途中で何人かの生徒とすれ違ったが、皆手伝おうとはせず、副会長の行先を邪魔しないように道を譲る事しかしなかった。幽美自身は前がほとんど見えない状態だったので、その事には全く気づいていなかったが。

しばらくした後、幽美の足が段差のある場所にたどり着いた。ゴミ捨て場と校舎を繋ぐ通路の入り口だ。が、前が見えない故に上手く越えられず、つま先が段差に引っかかってしまう。


「……!?きゃっ!」


遅れて段差に気づいた幽美が小さく悲鳴をあげた。荷物が重いせいでバランスを取り直すことも出来ない。このままでは為す術もなく前から倒れてしまう。そう思った幽美は、(きた)る衝撃と惨事に耐えるため反射的にギュッと目をつぶった。

しかし――何時まで経っても転んだ感覚がしない。荷物が落ちた音もしない。ハッと我に返った幽美が目を開ける。すると、彼女のすぐ近くから聞き覚えのある低い声が聞こえてきた。


「大丈夫ですか、副会長?」

「う、宇佐美くん!?何で、ここに……!?」


幽美が慌てて顔を上げると、彼女が転ぶのを止めた張本人――宇佐美翔(うさみしょう)が荷物の一部をヒョイッと抱えた。どうやら、幽美の後ろから滑り込み、すんでのところで荷物と幽美の身体とを受け止めたらしい。長身故に出来た奇跡的なフォローに対し、幽美がアワアワと間を泳がしつつ頬を少しだけ赤く染めた。


「たまたま副会長の姿が見えたんですけど、重たそうな荷物持ってたから手伝おうと思って。そしたら、副会長が倒れそうになってたから、咄嗟に支えたんです……怪我とかはないですか?」


宇佐美がいつもの様に淡々とした口調で幽美に言った。幽美が今持っている荷物の量の2倍ほどを、今の宇佐美は片手で軽々と持っていた。流石は男性の腕力と言ったところか。幽美は怪我をしていない事を伝えるために首を左右に振ると、何度もペコペコと頭を下げながら宇佐美に言った。


「わ、わわ、私は大丈夫!!ご、ごめんね!ちょっと、前が見えてなくて!本当は、1人でも、行けると思ったんだけど……」

「流石にこの量を1人はキツイですよ。俺も一緒に持って行きます……これ全部、ゴミ捨て場で良いですか?」

「……!!う、うん……ぁ、ありがとう……」


宇佐美の優しさに対し、幽美が耳まで顔を真っ赤に染めながら恥ずかしそうに目を伏せる。何故彼女が顔を赤くしているのかは分からなかったが、宇佐美は「気にしなくていいですよ」と答えて幽美と共に歩き出した。

数分後――無事にゴミ捨て場にたどり着いた宇佐美と幽美は、適宜廃棄物を分類する作業に移った。いつもならゴミ捨て場担当の者に任せるのだが、今日は生憎出払って留守のようだった。当初は分類まで手伝ってもらうつもりが無かったので、幽美は終始申し訳無さそうに宇佐美に向かって頭を下げ続けていた。宇佐美はその度に気にしなくていいと幽美に伝え、テキパキとゴミの分類を行っていた。

そして再び数分後――全ての作業を終えた宇佐美達は、2人で一緒にゴミ捨て場を後にした。その最中、幽美が宇佐美に尋ねる。


「宇佐美くん、いつも狗井さんと、一緒に居るイメージあるんだけど……今日は一緒じゃないの?」

「……病院で入院してる奴がいて、そいつとようやく面会が出来るって知らせが、ついさっき届いたんです。ハルの奴、それを聞いた瞬間、病院めがけて先に飛び出して行ったんですよ。授業もほったらかしで。」


宇佐美が苦笑混じりにそう呟く。しかし、その話を聞いた途端、幽美が表情を曇らせピタッと歩みを止めた。それにすかさず気づいた宇佐美も足の動きを止める。場所は丁度下駄箱前。つい先日、謎の爆発事故が起きたせいで立ち入り禁止区域となった場所だ。宇佐美がくるっと後ろを振り向くと、幽美はその場で目を伏せながら静かに呟いた。


「じゃあ……私も、いつかはお見舞いに行かなくちゃ、いけないね。多分……ううん。きっと、その子が入院したのって……私が原因(・・・・)だろうから。」

「……!」


彼女の言葉で何かを察した宇佐美が、神妙な面持ちで目を細める。窓が割れて開きっぱなしの正面玄関から、少し生温(なまぬる)い風が2人の足元を吹き抜けた。

――大神学園にて、特定の教師や生徒が病院送りにされる、通称『魔女伝説』の噂。

入院した者が全員、生徒会室の横にある意見箱に名前を書かれた紙を入れられている、というのが特徴的な噂だ。他にも、全員が中毒症状に罹っている事から、魔女は毒を操る魔法を使うだとか、いかにもオカルトチックな話として一部生徒達の間で話題になっていたのだ。

その魔女の正体が、責任感などのせいで紙を無視できなくなってしまった生徒会副会長、漆村幽美だとは誰も知らずに。

そして彼女が、毒を操る“狼”を従えていることも知らずに――


「その子はきっと、私が犯人だって知らないだろうけど……それでも、このまま黙って無視する訳には行かないから。私も、時間が空いたらその子のお見舞いに行くよ。」

「副会長……そう言えば、腹の傷は大丈夫そうですか?まだ完全には治ってないんですよね?」


宇佐美がそう尋ねると、幽美は一瞬キョトンとした表情を見せ、すぐに小さく微笑んだ。首を左右に振り、ニコッと儚い笑顔を見せながら宇佐美に答える。


「この位の傷なら慣れてるから(・・・・・・)大丈夫。走ったりするのは辛いけど、それ以外でなら特に支障は無いから……」

「……病み上がりなんですから、あまり無理はしないでくださいね。また青春(あおはる)の奴に怒られますよ。」


宇佐美が眉をひそめ、苦笑混じりにそう呟いた。青春とは、幽美と同じく生徒会に所属している風紀委員の少女だ。青春と付き合いの長い幽美が、彼女の顔を思い出してフフッと笑い声を上げる。初めて会った時よりも明るい表情を見せる幽美に対し、宇佐美も安心した様子で口元を綻ばせる。

その時、下校時刻を告げるチャイムの音が校舎全体に鳴り響いた。その音で我に返った幽美が宇佐美に言った。


「あ、ご、ごめんね!勝手に時間取らせちゃって……狗井さんの所に、行かなくちゃいけないんだよね。病院閉まっちゃう前に、早く行った方が良いよ。」

「そうですね……せっかくなら、副会長も一緒に来ませんか?」

「えっと……本当はそうしたい所なんだけど、まだ生徒会の仕事が残ってるから……ごめんね。」

「……分かりました。じゃあ、また明日。」


宇佐美は納得したようにこくりと頷くと、幽美に向かって軽く手を挙げながらその場から立ち去った。下駄箱が使えないので、代わりに別の場所が出入口として利用されているのだ。宇佐美の立ち去る姿をボーッと見つめながら、幽美も軽く手を挙げてバイバイと左右に振った。

すると、まるでタイミングを見計らっていたかのように、突然“彼”の声が後ろから聞こえてきた。


「やぁやぁ!こんな所に居たんだね、幽美さん!てっきり生徒会室で懸命に書類作業に取り組んでると思って、手当り次第に探し回っちゃったよ!」

「……!!み、南本、くん……」


幽美がやや怯えた表情を見せながら後ろを振り返る。壁に凭れながらそこに立っていた青年――南本竜二(みなもとりゅうじ)が途端にニコッと微笑んだ。一体いつからそこに居たのだろうか。どこか怪しさのある彼の笑顔を前に、ビクッと身体を震わせた幽美が咄嗟に後退りをする。


「きょ、今日は……学校来てたんだ、ね……」

「勿論!幽美さん的には、退院してから初めての登校日なんだろ?そんなおめでたい日に学校に来ないだなんて、勿体ないじゃないか!」


幽美の震えた声に対し、南本がいつもと変わらぬ流暢な口調で応える。その間に南本は壁から離れ、ゆっくりと幽美の傍に近づいてきた。幽美が胸の前で手を交差させつつ、こちらに近づきつつある南本から目線を逸らす。


「あ、あの……わ、私、生徒会の仕事があるから……そろそろ、戻らないと……」

「相変わらず仕事熱心だねぇ幽美さんは。素晴らしい向上心だ、尊敬に値する……でも、もう下校時刻も過ぎちゃう頃だし、あまり無理はしない方がいいよ?今の君は病み上がりでもあるんだから……ね?」


南本はそう言いながらくるりと一回転し、目にも止まらぬ速さで幽美の目の前に躍り出た。驚いた幽美が悲鳴をあげてその場から飛び上がる。その間にも南本は幽美の傍に近づき続け、徐々に徐々に彼女との距離を詰めていく。


「ところでさ、宇佐美くんとは仲良くやってるのかい?さっき2人で話してる所、ちょっと見てたんだけどさ。」

「……!う、うん……仲良く、というか、なんというか……たまたま会って、一緒にお話してた、だけなんだけど……」

「宇佐美くんってさ、高身長で成績優秀、運動神経も抜群だし、誰に対しても優しく丁寧に接する……まさにイケメン中のイケメン。全学年の女の子達から熱い視線を受けるほどモテモテなのも納得が行くよね。」

「……?み、南本くん……?」


南本の声が次第に低くなり、先程までの軽快で陽気な雰囲気が、途端に冷たく薄暗いものへと変化していく。彼の青色の瞳がジッと幽美の顔を見つめた。その視線の鋭さと威圧感を前に、幽美の背筋がゾワッと粟立つ。


「でもね、完璧過ぎる(・・・)のもよくないんだ。人間は何かしらの欠点があるからこそ美しい。長所しかない人間が誰からも愛されて尊敬されるとは限らないからね。むしろ、欠けているからこそ、欠点の少ない人間は醜い恨みや妬みを他人から抱かれやすくなってしまうのさ。そして、欠けているからこそ……ちょうど君みたいに、完璧にほど近い人間に心から惚れてしまう人だっているのさ。」

「あ、あの……さっきから、何を言って……きゃっ!」


幽美の顔の両サイドに、南本がダンッと力強く手を叩きつける。いつの間にか壁際にまで追い詰められいたようだ。すぐ目の前で仁王立ちになり、幽美の両サイドに手をつける南本。完全に逃げ道を失ってしまった。南本の酷く冷たい視線を前に、幽美が何も出来ないままその場に立ち尽くしてしまう。


「ねぇ、幽美さん……さっき宇佐美くんに見せてたあの笑顔……僕の前以外で見せないでくれるかな?」

「……え?」

「君の、心の底からの笑顔はとても貴重なんだよ?君はいつも頑張ってて、文字通り身を削って努力し続けている……でも、そのせいで君は笑顔でいる事が減ってしまっているんだ。君自身に、その自覚は無いんだろうけどね。」


そこまで言うと、南本はニヤリと怪しげな笑みを浮かべた。こういう笑顔を見せる時の南本は、大抵ろくでもない行為をしでかしてくる。彼とはそこそこ付き合いの長い幽美にはそれが分かっていた。しかし、ほぼ同じ身長の南本が目の前にいる以上、逃げ場は無いに等しい。時間帯も遅い為、周囲に自分達以外の人の気配は無かった。


「本当、君は罪深い子だね……駄目だよ、あんな子に現を抜かしちゃ。君には僕が居るんだから、僕だけ(・・)を見ててよ。僕にだけ、あの素敵な笑顔を見せてよ……ねぇ、幽美さん。」

「あ……ぁ……」


南本の顔がすぐ目の前まで近づいてくる。吐息が唇に吹きかかり、幽美の背筋にゾワゾワッと悪寒が走り抜けた。抵抗したくても、全身が震えて身動きが取れない。幽美はギュッと目を閉じると、為す術もなく己の手もぎゅうっと強く握りしめた。

するとその時――


「姉さん?」


少し離れた所から、若い少年の声が聞こえてきた。その声でハッと我に返る幽美。南本がその声に釣られて身体を少し離した瞬間、幽美が隙をついて彼の身体をドンッと突き飛ばした。油断していた南本の身体がそのまま後方に倒れるが、幽美はそれを気にすることなく声のした方へ慌てて駆け出した。

そこには、幽美と同じ黒縁メガネに紫色の瞳を持つ少年が立っていた。夏場にもかかわらず、長袖の制服(ブレザー)のボタンをきっちり全て閉じている。見た目からして真面目そうな少年は、幽美がこちらに駆け寄り自身の背後に立った瞬間、眉をひそめて険しい表情を見せた。痛みで顔を顰めていた南本がハッと目を見開く。そして、少年の方に顔を向けると、南本は露骨に彼を睨みつけながら言った。


「君は……弟の、(のぼる)くんだね。いつもの如く、お姉さんのお迎えかな。」

「……あんた、また姉さんに何かしたんだろ?姉さんが怯えてるじゃないか。」


南本の感情のこもってない言葉に対し、少年――漆村昇(うるしむらのぼる)が淡々とそう答えた。南本は乾いた笑い声を上げると、いそいそと立ち上がりながら服の埃を払って言った。


「別に何もしてないよ。ただちょっとお喋りをしていただけさ……ところで君、校内立入許可証はどうしたの?それが無いと、中等部の君は高等部校舎に入れないはずなんだけど。」

「……ちゃんとある。今は、胸ポケットに入れてるけど。」

「校則では首から掛けるのが原則だよ。許可証を持ってるフリして、勝手に入ってくる不届き者な生徒が居るかもしれないからね。疑われたくないなら、君もちゃんと首から掛けておいた方がいいよ。」

「……」


南本にジェスチャーでそう催促され、昇が無言のまま渋々と胸ポケットから1枚のストラップ付きのカードを取り出す。この大神学園では、過去に起きた生徒間での事件のせいで、許可証が無ければ、中等部校舎と高等部校舎の行き来が出来なくなっているのだ。中等部である昇が首から許可証をかけると、南本はフンと鼻を鳴らしながら不満そうな口調で彼に言った。


「それにしても……相変わらず君は怒った表情(かお)ばかり僕に見せるね。そんなに僕の事が嫌いなのかい?」

「あぁ。あんたの事は嫌いだよ。いつも姉さんにちょっかい出して、姉さんを困らせるあんたが、僕は大嫌いだ。」

「……あのね、僕は一応歳上だし生徒会長でもあるんだよ?礼儀正しく敬語を使いなよ。無礼にも程があるよ。」

「はっ。歳と地位だけで僕みたいな人にマウント取って、恥ずかしくないの?あんたみたいな、人を困らせることしか出来ない奴に、わざわざ敬語を使うとか死んでも嫌だよ。」


まさに売り言葉に買い言葉。南本の圧のある言葉に対し、昇は何の躊躇いも無く、弾丸の様に言葉を撃ち返していく。次第に南本の表情も険悪なものになり、二人の間に重たく危険な空気が漂い始める。完全に蚊帳の外になりつつある幽美は、昇の背中に隠れつつも彼を止めようと必死に口をパクパクさせていた。が、昇とは異なり上手く言葉が紡ぎ出せない。そうこうする内に、昇は幽美の手を強く握りしめ、南本の顔を睨みながら言った。


「ともかく、僕はもう姉さんと帰るから。二度と姉さんにちょっかい出さないでよ。また手出したら、今度は絶対殴るから。」

「……随分と強気な事を言ってくれるじゃないか。良いのかい?生徒会長を殴ったりなんてしたら、退学とかは確実に免れないよ?」

「姉さんを守る為ならそれぐらいの覚悟は出来てるよ。そっちこそ、あんたが姉さんにしてきた事、周りにバラされたいの?あんたが長い間築き上げてきた地位を、ぐちゃぐちゃに壊しちゃってもいいの?」

「も、もういいよ昇!ほら、行こう!」


流石に焦りを覚えた幽美が、昇の手をグイグイと引っ張りながらそう言った。昇は南本に向かって最後の最後でべーっと舌を出すと、幽美に連れられながらその場を後にした。1人残された南本が、心底苛立たしげにギリッと歯ぎしりをする。そのまま親指の爪を強く噛むと、誰もいない下駄箱付近で南本は1人恨みがましげに呟いたのだった。


「本当……君の事だけは全く好きになれないよ。このクソガキが……!」



***



数分後

大神町某所 横断歩道付近――



「ね、ねぇ昇……さっきは、助けてくれて、ありがとう。」

「……」

「ごめんね……私、いつも肝心なところで動けなくなっちゃってさ……」

「……」

「で、でも!もう大丈夫だから……本当に、今度からは気をつけるから……」

「姉さん。」


数歩先を歩いていた昇が、不意にくるりと後ろを振り返った。それに伴い、1人で必死に言葉を紡いでいた幽美もピタッと歩みを止める。こちらを振り向いた昇の表情には、怒りと呆れと不安の色が滲み出ていた。ハッと目を見開いた幽美が途端に黙り込んでしまう。


「僕、前にも言ったよね?あの人には気軽に近づかない方がいいって。あの人、いっつも姉さんにばっかりちょっかい出してるだろ?姉さんだって、いつも自分ばっかり狙われるのは嫌でしょ?」

「も、勿論嫌だけど……でも、相手は南本くんだし……」

「姉さん、本当(ほんと)そういう所直した方がいいよ。姉さんがそういう優しさを見せたり油断とかするから、あいつも調子に乗って姉さんにばっかり嫌がらせしてくるんだよ。嫌なら嫌ってハッキリ言いなよ。生徒会長とかそんなの関係無い!嫌がらせをする奴は皆悪い奴なんだから、変な所で遠慮とかしないでよ!!」

「……!!ご、ごめんなさい……」


次第に語尾にも怒りの色が滲み始める昇。そんな彼を前に、幽美は今にも泣きそうな表情で目を伏せながら謝罪の言葉を述べた。その途端、昇がハッと我に返った様にたじろぎ、慌てて自身の口を覆い隠した。そのまま昇は気まずそうに幽美から目を逸らして言った。


「……僕こそ、ごめん。ここまで強く言うつもりは無かった。ただ……どうしても、あいつのしてた事が許せなくて……」

「昇……」


カァーカァーとカラスが呑気に鳴く声が聞こえてくる。2人のすぐ近くに立つ信号機が、青色に変わった合図をメロディーという形で周囲に知らせた。その軽快な音楽とは裏腹に、姉弟(きょうだい)の間には重たく冷たい空気が漂いつつあった。 昇がその空気を振り払う様に、首を左右に振ってから幽美に手を差し出して呟く。


「……姉さん。話は変わるけど、今日こそは僕と一緒に病院に行こう。もうかなりの間、一緒に来てないだろ?きっと母さん(・・・)も、姉さんに会えなくて心配してるよ。」

「……!!!」


昇が『母さん』と呟いた瞬間、それまで憂鬱気味だった幽美の表情が一気に怯えるように引き攣った。昇の手をパシッと振り払い、幽美が本能的に後ろに数歩下がる。手を振り払われた昇が、目を丸くして幽美の顔を見つめた。夕日に照らされた幽美の顔は、煌々とした陽の光を上書きするかのように真っ青に染まっていた。


「……嫌だ。嫌だよ……そんな事したら、お母さん、また暴れちゃうよ。また、叫ばれて、病院の人に迷惑かけちゃうよ……」


幽美が首を左右に小さく振りながらそう言った。彼女の足はゆっくりと後ろに下がっており、今にも帰宅路とは反対方向に逃げ出しそうな雰囲気が微かにあった。それでも、昇は諦めることなく手を差し出しながら彼女に言った。


「姉さん、お願い。今日だけでもいいから……顔を見るだけでもいいから、一緒に行こう?大丈夫、最近は母さんも結構落ち着いてるらしいから――」

「……!!い、嫌だって、言ってるでしょ!?」


歩行者用の信号機が赤になった瞬間、幽美が拒絶する様に大声を出した。昇だけでなく、たまたま近くを歩いていた歩行者達も、驚いた様にビクッと身体を震わせる。幽美は胸の前でギュッと己の手を握りしめると、紫色の瞳を悲しげに歪ませながらぽつりぽつりと呟いた。


「もう……お母さんには会いたくない……会っても、意味が無いから。だから……ごめん、昇。」

「え……あ、姉さん!待ってよ、姉さん!!」


突然、幽美がくるりと身体の向きを変え、脱兎のごとくその場から走り出した。幽美の進んだ先は帰宅路とは真逆だ。数拍遅れて昇も走り出すが、目の前で別の歩行者用の信号機が赤に変わってしまう。幽美は既にこの信号を渡り終えており、少し先で彼女の特徴的な黒髪が風に乗ってふわりと舞い踊っているのが見えた。


「……!あぁ、もう……!」


タイミング悪く赤信号になってしまった信号機を睨みながら、昇がぐっと唇を固く噛み締める。すぐ隣に立っていた年配の老婦人が「僕くん、大丈夫かえ?」と尋ねてくる。先程の幽美達の会話を聞いていたのだろうか。昇は首を振りながら大丈夫ですと答えると、信号の先に消えて行く姉の姿を、為す術もなくただジッと見つめ続けた。

カラスが再び、昇を馬鹿にするように呑気な鳴き声をあげる。明るい夕日が沈むと共に、道の先を見つめる昇の表情も重たく暗く沈んで行ったのだった。



***



数分後

大神町某所 大神総合病院――



「あの……143号室の、面会許可証を……」

「あら、こんにちは。漆村さんの面会ですね、少々お待ち下さい。」


昇が最後まで言うよりも先に、受付カウンターにいた少し年配の女性看護師がテキパキと作業を始める。この病院に何度も訪れている昇の顔を覚えているのだろう。慣れた手つきで機械から1枚のカードを発行すると、看護師はものの数分で昇の元に戻りながら事務的な口調で言った。


「はい。こちらが、143号室の入退室許可証になります。面会が終わりましたら、必ずこちらの許可証を受付カウンターまで返却してください……今日のお母様は、いつもより落ち着いてるみたいだわ。でも、何かあったら遠慮なくナースコールで呼んでね。すぐに駆けつけるわ。」


最後にコソコソと囁くようにそう言うと、看護師は昇の前に淡紅色のカードを差し出した。首にかける為の紐がついており、『143号室入退室許可証』と書かれた文字の下にはバーコードのようなものも刻まれている。件の病室にいる人物をよく知る看護師の顔には、昇に同情する様な哀れみのこもった笑みが浮かんでいた。

昇は看護師に向かってペコッと頭を下げると、許可証を首から下げて受付カウンターを後にした。病室に向かう最中、周囲を歩く複数の看護師に会釈をされ、それに対してもぺこりと軽く頭を下げる。看護師以外にも、数名の患者がリハビリなどの為に歩いたり、椅子に座って休んだりしている。昇はそんな人々の群れの中をまっすぐ歩き続け、ふとある病室の前でピタリと立ち止まった。扉の上に『143』と数字が刻まれている。昇は扉の近くにある小型の機械の前に立つと、先程渡されたカードをその機械にかざした。ピッという機械音が鳴り響き、その直後『バーコードを確認しました。入室を許可します、お入りください』と言う機械じみた声が昇の耳の鼓膜を鈍く震わせた。

この総合病院では、関係者以外の不法侵入等を防ぐ目的で、この様に各病室にカードキー専用の機械が設置されているのだ。最先端のソフトウェアを開発している事で有名な会社が導入した、と言う話を何処かで聞いた覚えがある。入室する時はカードキーをかざし、退室する時は扉を閉めるだけで鍵が施錠される仕組みらしい。が、昇は部屋に入る前のこの機械音声があまり好きではなかった。あまりにも冷たく淡々と言葉を告げられる度に、耳の奥がキンキンとうるさくなってしまうのだ。痛みを誤魔化そうと頭を振りながら、昇が鍵の開いた扉を横にスライドさせて中に入る。

部屋に入った途端、ふわりと香る夏特有の爽やかな匂い。どうやら窓が開いているようだ。真っ白なカーテンが風に乗ってたなびいている。換気のお陰か少し涼しい個室の中で、ヘッドボードが椅子の背もたれのように立てられたベッドの上に――“彼女”はいた。


「……おはよう、母さん。調子はどう?」


彼女――改め、母親の姿を見た瞬間、昇が口元に弱々しい笑みを浮かべながらそう尋ねた。頬だけでなく身体全体の肉が痩せこけ、長い髪もボサボサに乱れている母親。昇の言葉に対し彼女は何も答えない。ベッドに設置された机の上で、1枚の紙に向かってガリガリと鉛筆を走らせている。一心不乱に、脇目も振らず。


「また絵描いてるの?本当に母さんは絵を描くのが好きだね……特に、天使の絵を描くのが。」


昇が近くの丸椅子に腰掛け、鞄を床に置きながらそう言った。母親は何も言わない。ガリガリ、ガリガリと、書いていると言うよりは削っているかの様な音が部屋の中に響き渡る。昇が紙の方に顔を向けると、紙には翼を事細かに描かれた、なんとも美しい天使の絵が描かれていた。パッと見はもう完成しているのではないかと思えるほどのクオリティーだ。しかし、母親はそれでもなお鉛筆を止めなかった。


「……今日もさ、姉さんに“一緒に病院に行こう”って誘ったんだ。でも、姉さんったら……生徒会の仕事が忙しいって言ってきてさ。また、断られちゃったよ。」


少量の嘘を混じえながら、昇が紙から目を離し、顔を俯かせてそう呟く。母親は何も言わない。彼女はただただ、紙の上で鉛筆を走らせ続ける。

ガリガリ。

ガリガリ。


「……母さん。そんなに鉛筆、強く押し付けたら、また机に裏写りしちゃうよ?この前、それで机汚しちゃって、看護師さん達が困ってただろ?」


顔を俯かせたまま、昇が声を震わせながらそう言った。先程までの無理な作り笑いはもう顔に浮かんでいない。浮かべることが出来ないのだ。それでも母親は何も言わない。齧り付く様に机にしがみつき、震える手で鉛筆を動かす。

ガリガリ。

ガリガリ。

ガリガリ。


「……ねぇ、聞いてるの?母さん……鉛筆の音、少しうるさいよ。お願いだから、そんなに音立てるの、やめてよ……」


鉛筆の音に耐えかねた昇が思わず耳を塞ぐ。母親は何も言わない。こちらを振り向きもしない。鉛筆は動き続ける。天使の翼に刻々と線が書き込まれていく。

ガリガリ。

ガリガリ。

ガリガリ。

ガリガリ―――


「ねぇ……静かにしてよ……静かにしてって、言ってるだろ!!!」


音に耐え切れなくなった昇がついにそう叫んだ。そのまま顔を上げると、昇は絵を描いている真っ最中である母親の両手をそれぞれ強引に掴みあげた。その勢いで紙がくしゃりと大きく歪み、細部まで描かれていた天使の翼に太い斜線が生じてしまう。手を掴んだ瞬間、母親の手からは力が抜け、鉛筆が床の上へカタンッと音を立てて落下した。その音で我に返った昇がハッと目を見開く。慌てて母親から手を離すと、彼女は無言のままゆっくりと己の手を見つめた。彼女の細い手の至る所に、黒々とした鉛筆汚れが付着している。長く乱れた髪に隠れてしまっているため、彼女の表情がよく見えない。怒っているのか、悲しんでいるのか。彼女が何も喋らないせいで何も分からない。


「ご……ごめん……絵を、止めるつもりは、なくて……その、えっと……」


昇の心臓が緊張でどくんどくんと高鳴った。どうにか声を絞り出そうとするが、上手く言葉が思い浮かばず、どうしても途切れ途切れになってしまう。足の震えが止まらない。冷や汗が全身からじわっと浮かび上がり、昇の背筋をじっとりと濡らした。

数分後、母親は自身の手を下ろすと、気が遠くなるほどゆっくりと顔を上にあげた。そのまま顔を、これまたゆっくりと昇の方に向ける。ようやく髪の中に隠れていた母親の表情が見えた。が――その表情を見た瞬間、昇が思わずひっと怯えるように悲鳴をあげた。

冷たく淀んだ、濃色(こきいろ)の瞳。その目は昇の顔を見てるとも、虚空を眺めてるとも、どちらとも言い難いものだった。もはや何処を見てるのか分からないほど、焦点が定まっていないのだ。ただ顔の向きは真っ直ぐ昇の方に向いている。しかし、生きていながら死んでいる彼女の瞳を見た昇は、思わず目を塞ぎ耳も塞いでその場に蹲った。実の母親の、こんな死んだ顔を見るために、病院(ここ)に来た訳じゃないのに。相変わらず身体の震えが止まらない。病人ではないにもかかわらず、呼吸が荒くなり、まともに息が出来なくなってしまう。

すると、不意に母親が昇の方に体を向けながらポツリと言った。


「……あな、た?」

「……え?」

「あなた……嗚呼、あなた……また、お酒、飲んだのね?そんな、おこら、怒らないで、吐かないで……ごめん、ごめんなさい……締め切り、締め切りが、近くて……」

「え?か、母さん……?」


突然うわ言の様に言葉を呟き始める母親。まるで自分の事を別の誰かと見間違えているかのような言い方だ。床の上に蹲っていた昇が慌てて顔を上げて立ち上がった。母親はしきりに辺りを見渡す様に、首を縦横(たてよこ)左右にぐるぐると回している。傍から見ればホラー映画で見かけそうなワンシーンだ。が、ここは生憎現実である。狂気じみた行為を繰り返しながら、母親は虚ろな表情のまま続けて言った。


「酔い止め、酔い止め、どこだった、かしら?あなた、また、酔ってるのね。だめよ、だめ、だめ……また、子供たち、殴る気なの、ね?だめよ、それだけ、はだめ……」

「か、母さん?僕、父さん(・・・)じゃないよ?僕は昇、母さんの息子……ねぇ、分かる?」

「あ、嗚呼……昇、昇が何か、イタズラ、したのね……怒らないで、あげて……あの子は、まだ、小さいのよ……幼いから、許して、あげて、あげて……あぁ、ぁああ……あぁぁぁ……!!!」


突然、母親が己の髪を強く掴み、引きちぎらん勢いでくしゃりと激しく掻き乱した。昇の背筋にゾワッと悪寒が走り抜けた。この上なく嫌な予感がしたからだ。咄嗟に彼女を落ち着かせようと昇が手を伸ばすが、それを遮る様に彼の母親が突然大声で叫び始めた。


「ああぁああぁあああぁああ!!!お願いお願いお願い、あなたやめて、やめてお願いやめて怒らないで殴らないで!!!わたし、わたしが悪かった、から、殴らないで!!!あの子たちは、何も悪くないのよ!!!あぁああお願い、もう、もう、お酒、飲まないで!!!また殴るんでしょ?また怒るんでしょ!?またわたしたち、傷つけるん、でしょ!!?嗚呼、嗚呼、嫌、いや、嫌……嫌ああぁああああぁああ!!!!」

「大丈夫ですか、漆村さん!!?」


突然病室の扉が開き、外から2名の女性看護師が入ってきた。部屋の外にも母親の狂気じみた絶叫が聞こえていたらしい。1人が母親の隣に慌てて寄り添い、もう1人が昇の傍に近づいて言った。


「昇さん、大丈夫ですか?昇さん?しっかりしてください!昇さん!!」

「……!!あ、ぁ……」


母親の絶叫に気圧されていた昇が、看護師に呼びかけられたお陰でなんとか正気を取り戻す。一方、母親の方はもはや誰の声も聞こえていないらしく、小太りな看護師がどんなに声をかけても無我夢中でひたすら叫び続けるばかりだった。


「漆村さん、落ち着いてください!私の声が聞こえますか?漆村さん?漆村さん!」

「あぁ、あぁ、はぁ、はぁ……!!嫌、嫌、嫌あああ!!苦しい、苦しい……見えない、どこ?なに、かすみ?おおかみ(・・・・)、おおかみが、どうかしたの?ねぇ、なに、なに?あぁああああぁああ!!!」

「……昇さん、一旦外に出ましょう。荷物は私が持ちますから……昇さん?歩けますか?」

「………」


若い女性の看護師にそう言われ、呆然とした表情を浮かべる昇が無言でこくりと頷く。その頃、母親は近くにいた看護師の体を突き飛ばし、先程まで描いていた精密な天使の絵を手でぐしゃぐしゃに潰していた。看護師がそれを慌てて止めさせようとする。悲鳴と絶叫が止まない病室を、昇はもう片方の看護師に連れられながら後にした。

扉がゆっくりと閉められ、昇が肩を支えられながら病室の外に出る。足元が覚束無い。頭の奥で、母親の絶叫が繰り返し鳴り響いている。母親はまだ落ち着いていないらしく、扉越しに彼女のくぐもった声が外へ響き渡っていた。


「……今日はいつもと比べても、比較的落ち着いていた方だったんですけどね。」


昇を近くの椅子に座らせ、持ってきた彼の荷物を隣に下ろしながら若い看護師がそう言った。彼女は昇の母親の部屋を担当している看護師の1人なのだ。昇にとっては顔見知り程度の仲でしかないが、母親が入院してからほぼずっと彼女の世話をしてくれている。ようやく我に返り心が落ち着いた昇は、ぺこりと頭を下げながら看護師に言った。


「ご、ごめんなさい……僕が、余計な事をしてしまったから……」

「余計なこと?」

「……母さんが、またいつもみたいに、天使の絵を描いていて……でも、僕がそれを、無理やり()めてしまったんです。その……鉛筆の音が、あまりにもうるさくて……」


顔を俯かせ、指を交差させながら昇が事のあらましを簡単に伝える。看護師は昇の隣に座ると、彼の顔を横から覗き込む様に見つめた。看護師特有の薬品に塗れた香りが昇の鼻をついた。昇は冷や汗を拭う様に額に手を当てると、黒縁メガネの奥で紫色の瞳を細めながら続けて言った。


「本当にごめんなさい。いつもなら、僕が一方的に話して、それで終わりになるんですけど……今日はちょっと、姉と喧嘩してしまって、調子が悪くて……」

「あぁ、あの黒髪の……あなたのお姉さん、あの日(・・・)からずっと病院に来てないわよね。元気にしてる?」

「……はい。なんとか。」


昇がそう答えると、看護師は安心したように微笑み小さく息を吐いた。するとその時、母親のいる143号室の病室の扉が唐突に開かれた。病室の中から、先程母親を宥めようと必死に声をかけてくれていたもう1人の看護師が出てくる。彼女の表情には露骨に疲労の色が滲み出ていた。昇が申し訳なさそうに唇を噛み締める中、椅子に座っていた看護師が立ち上がり、もう1人の看護師の元に歩み寄って言った。


「漆村さん、どうだった?落ち着いた?」

「ええ。ようやく静かになってくれたわ。途中で叫び疲れて寝ちゃったのよ。とりあえず今は道具を片付けて寝かせてるわ……また後で様子を見に来ましょう。」


小太りな看護師はそう答えると、椅子に座る昇の顔を少し険しい表情で睨みつけた。昇が荷物を手に取りギュッと抱きしめながら目線をそらす。が、若い方の看護師は彼女のその視線に気づいていないようだ。安心した様にホッと息を吐くと、昇の元に戻って彼の顔を見つめながら彼女は言った。


「今日は色々と大変だったわね。今日はもう帰った方がいいと思うわ。後の事は私達に任せて……お姉さんに、よろしく伝えておいてね。」

「……はい。ありがとう、ございます。」


昇はそう言うと椅子から立ち上がり、看護師2人に向かって深々とお辞儀をした。若い看護師は優しく微笑みながら手を振ったが、小太りの看護師は険しい表情を崩さないままその場で腕を組み続けていた。

病室を後にした昇が受付カウンターに戻る。カードを受付の机の上に置くと、先程カードを発行してくれたあの年配の看護師が心配そうに声をかけてきた。


「あら、今日はもう帰るのね……顔色が悪いわね。もしかして、また怒鳴られたりしたの?」

「……はい。」

「そう……あまり気を病まないでね。貴方は何も悪くないんだから。お母様が少しでも早く退院出来るように、先生方も頑張って治療を進めてるわ。だから、あまり深く悩まないで……またお見舞いに来てあげてね。」


年配の看護師はそう言うとカードを回収し、カウンター越しに昇の顔を優しく見つめた。彼女の優しい声音で心が完全に冷静さを取り戻し、昇が再度看護師に向かって深々と頭を下げる。

病院の外に出ると、外は日が沈みすっかり薄暗くなっていた。鞄の中に入れていたスマートフォンで時間を確認する。時刻は午後の6時半頃。夏場故にまだ辛うじて明るい方だが、もう少し経てば明かりなしでは居られない状態になるだろう。

すると、そんな彼の傍を1人の少女がスタスタと駆け抜けて行った。昇よりもふた周りほど小さい、保育園児程の幼さだ。少女が走って行った方向に昇が何気なく視線を向ける。そこには、車椅子に乗った女性が先程の少女の頭を優しく撫でている光景が広がっていた。彼女の膝の上には明るい色でまとめられた花束が置かれている。退院祝いなのだろうか、彼女の周りには複数の看護師や医師も立ち並んでいる。どうやら車椅子の女性はあの少女の母親のようだ。すぐに父親と思しき男性も昇の横を通り、彼女たちの元に近づいて行った。少女のあどけない笑い声が、車椅子の女性を含む周りを暖かく取り囲む。何ともめでたく賑やかな光景だ。昇にとっては、あまりも眩しく見えてしまうほどに。


(……さっさと、帰ろう。姉さんが待ってる。)


昇はふいっと視線を逸らすと、賑やかな笑い声を背中に受けながら1人でとぼとぼと歩き始めた。姉の幽美が先に帰っているはずだ。きっと、自身のためにご飯を作って健気に待ち続けていることだろう。そんな彼女を待たせる訳には行かないと、昇は鞄を持ち直しながら小さく息を吐いた。ゆっくりと歩いていた足のスピードを少しだけ早くする。

次第に、病院の敷地内に建てられた街灯がチカチカと瞬き、各々明かりを灯し始めた。

大神町の長いようで短い夏の夜が、もう間もなく始まろうとしていた。



***



漆村家の父親は、幽美が丁度中学生になった頃に亡くなった。

自らの飲酒運転による衝突事故によって。


漆村家の父親は、一言で言えば酒乱そのものだった。仕事を終わらせ、家に帰ればすぐさま浴びる様に酒を仰ぐ。イラストレーターとして在宅勤務をしていた母親は、そんな彼の酒癖の悪さに毎日嘆いていた。酒を飲んだ彼は、例外なくいつも酷く暴力的になってしまうからだ。手当り次第に物を蹴散らし、それを止めようとした母親にも殴る蹴るの暴力を振るう。酷い時には、たまたま物陰で見ていた幼い幽美や昇にも手を出していた。幽美に至っては首を絞めるなど、危うく殺人に繋がりかねない酷い仕打ちを与えることも多かった。そのせいで、幽美は幼くして全身に包帯やら絆創膏やらをほぼ毎日つける羽目になった。また、昇自身も幼い頃は特に怪我が耐えなかった。姉同様、ほぼいつも包帯に身を包み、それを同級生達に揶揄されることもしばしばあった。そのせいで一時期不登校になることもあった。

不幸塗れの圧迫された生活。自分たちは一生、この男に暴力的に支配されながら生きなければいけない――そう思っていた矢先に、諸悪の根源である父親が死んだ。

正直、昇としては寂しいなんて感情は微塵もわかなかった。幽美や母親が当時どう思ってたのかは知らない。もし自分の口でこの思いを周りに伝えていたら、不謹慎な子だと叱られたかもしれない。しかし、当時の昇にとって父親の死は本当に有難いことこの上なかった。

ようやく終わった。

あの無駄に酒臭いにおいも。

けたたましい怒号や騒音も。

母や姉が痛みですすり泣く声も。

もう何一つ、不幸な音を聞かなくて済むんだ――そう考えるだけで、昇の心は自然と軽くなった。これからは、3人で仲良く平和に暮らせると、最初の頃はそう思っていた。

しかし、父親が亡くなってから数日も経たないうちに、今度は姉である幽美に異変が起きた。

――私の傍に、変な生き物がいるの――

幽美はある時から、急にそんな事を繰り返し母親に伝える様になった。もちろん、母親の目にも、昇の目にも、件の変な生き物の姿なんて全く見えなかった。が、幽美の目には確かに見えているらしく、頻繁に泣き叫んでは怯えて部屋から出なくなる事が増えてしまった。それと同時に、家の中に奇妙な黒いシミ(・・・・・・・)と嗅いだことも無い悪臭(・・)が時折発生する事も増えた。幽美はそれを変な生き物、改め“狼”の仕業だと母親や昇に必死に説明した。だが、父親の暴力で肉体的に死にかけていた母親にとって、彼女の言葉は到底理解できるものではなかった。幽美の言葉を妄言だと捉えた母親は、次第に精神的にも壊れ始めてしまった。彼女は、父親のせいで娘の頭が狂ってしまったのだと思い込んでしまった。そして、それを引き起こしたのは、彼を止められなかった過去の自分だと(いわ)れも無い責任感を覚えるようにもなってしまったのだ。徐々に徐々に壊れていく母親の姿を、昇は何も出来ずに呆然と見守る事しか出来なかった。そして、謎の狼とやらのせいで毎日身体に生傷を刻まれていく姉も救えないまま、平和になるはずだった漆村家の歪んだ時間は粛々と流れ続けた。

そしてある日――事件は起きた。

父親が亡くなってから1年近くが経ったあの日。

昇が学校から帰って来た時に、部屋のど真ん中で母親と姉が倒れていたのだ。紫色の煙とヘドロが充満した密室の中で。

無論2人は即座に病院へ搬送され、そのまま入院することとなった。警察の調べでは、部屋中が謎の毒ガスで満たされていたらしい。しかし、奇跡的に姉は毒への耐性がついていたお陰で重症には至らなかった。問題は母親の方にあった。耐性の無い母親は数週間ものあいだ生死の境をさまよい続けた。そして、次に目覚めた時には――既に、生きながら死んでいた(・・・・・・・・・・)

昔の記憶をほとんど失い、まともに人と会話が出来ない状態にまで壊れてしまった。息子である昇の事も覚えていないらしく、こちらから話しかけても基本的には無視されてしまう。姉である幽美が退院し見舞いに来た際には、何故か彼女に対して何度も帰れと喚き散らし、看護師達が慌てて止めに入るほど酷く暴れ回った。幽美が母親の見舞いに来たがらないのはそれが理由だった。結局、母親はそのまま現在の病院に長期間入院する事となった。退院できる日は未だ決まっていない。投薬治療やら心理療法やらが毎日行われているが、回復の目処は立っていない。

――こんなはずじゃ、なかったのに。

母親が入院して、幽美と2人っきりになった日。あの日から、昇は己の不幸さを、そして、己の無力さを心の底から呪うようになった。

母親があんなに壊れかけていたのに。

姉があんなに毎日謎の傷を負っていたのに。

何も出来なかった。何もしてあげられなかった。ただ指を食わえて、2人が生きながら死んでいく様を見ることしか出来なかった。

――こんな役立たずな僕なんて、産まれなければ良かったのに――

誰にも言わない、否、言えない思いを胸に抱きながら、無力な少年は今日も生き続ける。

愉快でもあり、不快でもある、あらゆる“音”の数々に溢れた毎日を。



***

ピクシブ版→https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=15186531

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