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汝は人狼なりや。  作者: 独斗咲夜
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参拾伍日目

~あらすじ~


廃工場での騒ぎが起きてから早くも一夜が明けたこの日。

自由を奪われた脆弱な一人の青年による、恨みのこもった悪意の波が密かに伝播していく。

その波の影響を受けたのは、彼に監禁生活を強いる女にだけではなかった。あらゆる者にその命を狙われている、彼女すらも―――




 ―――あの時のことは、今でもハッキリと思い出す。


 あれは、かなり久しぶりに学校に行った日のこと。

 家に帰ると、まだ夕方だったのに、玄関が妙に薄暗かった。久々に友達と会えて、少しばかり高まっていた気分が途端にサァッと冷えた。

 嫌な予感しかしなかった。

 一階には誰もいなかったから、ゆっくり階段をのぼって二階へ。そしたら、お父さんとお母さんの寝室の扉が、ほんの少しだけ開いているのが見えた。緊張してどくどくと脈打つ心臓を押えながら、部屋の目の前まで行って、扉を開けながらそっと中を覗き込んだ。

 そして、あまり躊躇いなく扉を開いたことを後悔した。あの時はもっと警戒気味に、ゆっくり開くべきだった。




 そこにいたのは、それぞれ全身に無数の刺し傷が残ったお父さんとお母さんの死体だった。どっちも白目をむいて、口とか胸とかから血を流していた。もちろん、生きてる様子は全然無かった。周りは血の海で、凶器らしき万能包丁はお父さんの胸に深く突き刺さっていた。

 そんな二つの死体の前で仁王立ちになっていた少女が、眼帯のない左目でギロッとこちらを睨みつけた。そして、一切返り血の付いていない服の袖を振りながら、呆然と立ち尽くす僕に向かってこう言ったんだ。

 なんだ。この家、子供いたんだ。大人しかいないと思ってたのに。なら、これを見ちゃった君も、ちゃんも殺しておかないと―――









「……っ……!!」

 ぼんやりとしていた意識が覚醒し、強い恐怖と驚きによって反射的にガバッと起き上がる。乱れた呼吸を必死に整えつつ、西表麗樹(いりおもてれいき)は慌てて周りを見渡した。

 見慣れたローテーブルに、見慣れた安物の寝台、そして見慣れた天井。間違いない、ここは自身の家の一室だ。しかも、自分の部屋の中である。近くには裁縫針や裁ち鋏などの道具類と無地の布切れとが置かれていた。どうやら作業の途中で寝てしまったらしい。途端にホッと安堵の息を吐いた西表だったが、すぐにハッと目を見開いてブルリと体を震わせた。様々な物がごちゃごちゃに集められた机の上で、ライトに照らされた細い針がギラリと鈍く光っていた。



 自分はつい最近まで、近衛静河(このえしずか)という少女に連れ去られて、KQと名乗る謎の女性が営む店の二階に監禁されていた。

 近衛と出会ったのは、彼女によって両親を殺されたあの日だった。どのような手段で彼女が大の大人を二人も殺したのかは未だに分からない。いずれにせよ、子供なのに容赦の無い近衛に殺される未来を恐れた西表は、彼女の言う通りに行動せざるを得なかった。その果てに、近衛はKQとやらと手を組むようになり、自身もそれに巻き込まれる形で監禁される羽目になったのだ。

 自身が閉じ込められた部屋には多くの廃棄物が詰め込まれており、兎にも角にも腐敗臭が酷かった。脱走を防ぐためにと窓も扉も固く閉ざされてしまい、まともに陽の光を浴びる機会も与えられなかった。自身はそんな悪質な部屋の中で、KQの希望に応えるために、得意の裁縫で様々な衣服を仕立てあげてきたのだ。いや、正確には、KQに捨てられてしまわないようにするためだった。

 近衛に無理やり連れてこられたとはいえ、KQ本人は終始こちらのことを好いていないようだった。むしろ殺気すら感じたので、心底嫌っていたまである。だからこそ、どれだけ劣悪な部屋の中に幽閉されようとも、西表はとにかく死にたくない思いで常に己の心を殺し続けた。KQの指示通りに、己のなすべきことをひたすら行い続けたのである。KQだけではない。話によると狼の能力とやらで自身の親を殺した近衛にも、文字通り消されてしまわないように。

 しかし、そんな非情な監禁生活にも、終わりというものは突然訪れる。

 ある日、西表が過ごしていた例の店がいきなり炎上し、跡形もなく焼け落ちてしまったのだ。

 当時の西表は事実上、部屋から自力で出られない状態にあった。しかし、火事場の馬鹿力とでも言うべきだろうか、彼は室内にあった机などを利用して無理やり扉を壊したのである。お陰でどうにか廊下には出れたものの、その時には既に轟々と燃え盛る炎が建物の二階全体を覆い尽くしていた。しかし、そこからどうやって建物の外に出たのか、あまりにも必死すぎたがゆえにその時の記憶は朧気だ。何にせよ、命からがら建物の外に出た西表は、ようやく手に入れた自由を手離したくない一心でひたすら歩き続けた。が、結局近衛やKQから逃れることは出来ず、最終的にはこの家に連れ戻されてしまったのだ。

 近衛が殺害し、KQが後に“破裂”させて消した両親の残骸がある、この西表の実家に。



(……僕が、何をしたって言うんだよ……僕は、親を殺されて、自由を奪われた被害者でしかないのに……!!)

 ふわふわな髪の毛をクシャリと掻きむしった西表が、その指先を頬に移してガリッと爪を立てる。柔らかながらも痩せこけた皮膚から血が滲むが、西表は構うことなくまばらに伸びた爪で頬をガリガリと傷つけた。黒い卓上ライトの照らす先には、一連の裁縫道具と縫っている最中の布とが未だに中途半端に放置されていた。

 西表の家は彼や両親が不在だったものの、あまり騒ぎにならなかったお陰か、今に至るまで家宅捜索なども特に行われなかったらしい。KQによって両親の死体を消されるまでは、家の中の全てが、奇跡的にほとんどあの日の状態で残されていた。すると、あの火事の中からしれっと生き延びていたKQは、それをいいことに次の根城をこの西表の家にしたのだ。あろうことか近衛もここに住み着くようになり、しかも部屋数が元から少ないので西表と同室ということになった。近所の者から怪しまれる可能性は流石に考慮したのか、KQによって訪問者が来た際には西表が対応するという決まり事が誕生した。だが、西表がそれ以外で外に出ることは決してない。正確には出られないのだ。彼の両親の死を周囲の者に気づかれてしまうのを防ぐために、KQが再び西表のことを監禁したからである。

 KQも近衛も、自身の持つ能力とやらを西表に向けて誇示しながら脅しをかけてきた。自分たちの意思次第で、いつでも西表のことを殺せると。両親たちと同じ末路を辿りたくなければ、大人しく私たちに従えと言ってきたのだ。西表は両親のように、惨たらしい末路は送りたくないと考えていた。だから、二人に逆らう訳にはいかなかった。

 これが、運命だというか。あの女たちに目をつけられた以上、自分は自由に生きることが出来ないと言うのだろうか。

 たしかに自分は元から病弱で、いつも両親の手を煩わせてきた。父親も母親も、表上は優しく振舞ってくれたが、自分を疎ましく思うような視線をひっそりと向けることも何度かあった。せっかく高い学費を払って学校に入学したのに、まともに登校出来ない自分のことが本当は嫌いだったのだろう。それでも、西表は両親のことを普通に愛していた。ストレスの影響で軽い暴力を振るわれることもあったが、弱い自分を助けてくれる両親のことを、彼はずっと信じていたのだ。

 ある時に父親がぶん投げたコーヒーメーカーのせいで、中に入っていた熱いコーヒーが顔にふきかかり、左目付近に大きな火傷を負うことになっても。母親に何度叩かれたり、髪の毛を引っ張られたりしても。

 どれだけ親たちから一方的な怒りを受けても、西表には唯一の親族である彼らに縋ることしかできなかった。それに両親たちも、しばらくしたらすぐに表情を変えて西表のことを慰めくれた。こうして見ると、家庭内暴力の中では典型的な感情の変動が生じているのだが、西表はそのことに対して何一つ疑問を抱いていなかった。それが普通だったのだ、身も心も脆弱で不自由な彼にとっては。

そんな両親たちとの生活が終わりを迎えたのも、元より窮屈だった生活からさらなる自由が奪われたのも、全ては近衛とKQのせいだった。

 近衛は家庭事情などが原因で、元から大人に値する人間をとことん嫌っている少女だった。今でこそKQと手を組んではいるが、ゆくゆくはこの世における大人たちを全て殺すことを夢見ているらしい。彼女曰く、西表の両親を殺したのも、そう言った目的を果たす上での一環に過ぎなかったとのことだ。要は、たまたま近衛に目をつけられたせいで彼らは死んでしまったのである。万能包丁に“憑依”してそれを操ったという、若くて未熟な近衛の手で。

(許さない……絶対に、許さない。僕だって、一人の人間だ。身勝手な理由でお父さんたちを殺されて、黙っていられる訳が無いだろ……でも、僕は弱い。何をやっても、何を言っても、結局あの二人は僕よりもさらに上をいくんだ。そして、僕の意見も主張も、全部無かったことにして……)

 物理的にも精神的にも弱い自身の不甲斐なさに苛立ちを覚えた西表が、目の前に置かれたローテーブルをドンッと強く叩いた。それによって糸と針が通ったままの布切れが、衝撃を受けてパサリと地面に落下する。今は自身の描いたイラストを元に、KQから依頼された服を作成している真っ最中なのだ。KQ曰く、店のための制服ではなく、ある人物に着せるためだけの服を作って欲しいとのことらしい。だが、抑え続けていた怒りがフツフツと湧き上がってきた西表に、引き続き作業に戻る余裕は少しもなかった。針山に刺していない針がカタカタと音を立てても、西表は気にすることなく何度も強く机を叩いた。

 するとその時、不意に部屋の扉からガチャッと鍵を開ける音が鳴り響いた。途端にビクッと体を震わせつつ、西表がすかさず後ろを振り向いて身を縮こませる。扉は間髪入れずすぐに開かれ、そこから長袖のセーターを着た背の高い女性が、何やら不機嫌そうな顔を見せながらズカズカと入室してきた。起きたばかりなのか、本来なら整っているはずの髪の毛がボサボサに乱れている。荒々しく扉を閉めながら、女は怯えて固まる西表を東雲(しののめ)色の目で睨みつつ彼に言った。

「あんた、さっきからガンガンガンガンうるさいのよ。近くにいる住民に聞こえちゃうでしょ?少しは静かにしなさい。」

「……!!KQ、さ……」

 女あらためKQを目の前に、一転して半泣きの状態となった西表が怯えるようにヒュッと息を飲む。しかし、KQは分かりやすくチッと舌打ちをすると、西表の目の前にまで近づきながら続けて言葉を発した。

「その呼び方はもうやめてって言ったわよね?あの店が無くなった今、私はもうKQの名を捨てたの。これからは“亜煌さん”って呼びなさい……本当、物覚えの悪い子ね。頭の悪いあんたを連れてきた近衛ちゃんが可哀想だわ。」

「ご、ごめんなさい……あの、ところで、静河ちゃんはどこに……」

 ツラツラと言葉をまくし立てるKQ―――否、真宵坂亜煌(まよいざかあきら)に対して西表がおずおずとそう尋ねた。薄暗い部屋の中、棚に置かれたデジタル時計の時刻はたしかに朝を示している。この時間帯ならば、亜煌も仕事に行かずこの家にいるし近衛も一緒にいるはずだ。亜煌が近くにいる時の近衛は、大抵ひっつき虫のように彼女にくっつきながら動いている。そのため、どこを探しても近衛が見当たらないことに西表は微かな違和感を覚えたのだ。彼女が亜煌の身につける物品に憑依して、ひっそりと身を隠しているというのなら話は別だが。

 すると、亜煌は眉をひそめながら『やっぱり気になるのね』と言わんばかりに深いため息を吐いた。反射的に西表が驚いて再びビクッと体を震わせる。また理不尽に怒られると考えたからだ。が、亜煌は彼の前で腕を組んだまま、堂々と仁王立ちをしつつ冷たい声音でこう言い放った。

「もう、帰ってこないわ。」

「……え?」

「ついさっき、あたしの知り合いから電話があったのよ。近衛ちゃんは、別の奴らの仲間になったの。食べ物も住む場所も、向こうがちゃんと提供してくれるんですって。私だって、簡単なご飯ぐらいならいつも用意していたって言うのに……住む場所だって、ちゃんとあったって言うのに……!!」

 最初こそ冷静だった亜煌の口調が、次第に語気も強くなりギリッと歯ぎしりをする音すら聞こえてきた。確実にお怒りの様子だ、ヒステリックを起こす直前といっても過言ではない。過去には西表も、仕事などが上手くいかずキレ散らかす亜煌の暴行に何度か巻き込まれたことがあった。今回も本能的に危険を察した彼の体は、亜煌を押しのけてでも逃げようと身構えた。が、自身の髪の毛をグシャッと掻きむしった亜煌に、自身の頭を掴まれる方がずっと早かった。亜煌はそのまま西表の体を髪ごと持ち上げると、裁縫道具などが置かれた例の机めがけて彼の頭を叩きつけた。先ほど西表が叩いた時よりも大きな音が、カーテンの閉ざされた室内に響き渡る。明らかにこちらの方がうるさいのだが、亜煌はそれをさらに悪化させるように大声で狂ったように泣き叫んで言った。

「なんで……なんで可愛い近衛ちゃんがあいつの所に行って、役立ずのあんたがこっちに残ることになるのよ!!?私は、あの子を信じてたのに!!!あの子はずっと、私のそばに居てくれると思っていたのに!!!」

「っ!!い、たっ……やめ、やめてくださ……ぁ、きらさっ……!!」

 頭部への激痛に耐えかねた西表が、細くやせこけた手で亜煌からの暴力を必死に止めようともがく。だが、男女の性差はあれども、腕力だけならば大人である亜煌の方がやはり上だった。しかも叩きつける頻度も早いので、どうにかして介入する暇すらも無かった。次第に机や布切れの一部に、傷ついた西表の頭から流れた返り血が微かに付着するようになる。



 今朝方、亜煌の元に突然入ってきたとある知らせ。それは、端的に言えば近衛が別の者の仲間になったというものだった。

 西表自身は詳しい話を知らないものの、近衛は訳あって亜煌と知り合い、そこからお互いに仲間となったらしい。その時点で両者に共通していたのは、誰かしら人を殺しているという点だった。ゆえに、二人の関係性は手短に言えば、お互いの罪を黙認し合うための共犯者仲間でもあった。亜煌も近衛のことは最初から気に入っていたみたいだし、近衛も大人が嫌いとはいえ、何故か亜煌のことは認めていた。西表の視点では、両者が共に良い関係を築いているように見えていた。

 だが、二人の繋がりは思っていたより希薄だったようである。

 何があったのかは分からないが、この様子だとどうやら近衛の方から亜煌との仲を切り捨てたらしい。要は裏切りにほど近い行為である。しかし、亜煌は近衛のことを深く信頼していたし、彼女の持つ能力に頼ることもあったと聞いている。そんな近衛が裏切ったと言うのだから、元からヒステリック気味な亜煌が強い怒りを覚えるのも無理は無い気がした。それをぶつける矛先に、本当なら無関係なはずの自分が選ばれるのは納得出来ないが。

「あの子は私のしたことを……私が人を殺したことを許してくれたのよ!!?だから、私もあの子が人を殺したことを許したの、見逃してあげたの!!!あの子のためになることなら、私はできる限り何でもしてあげたわ!!!食事も住居も、あの子が好きなものを全部与えてきた!!!なのに……あの子は、あの子の意思で、易々とあいつを選んだの!!!情報屋ぶった怪しいだけの雄猿のくせに!!!あいつは!!!あの子を!!!私から奪ったのよ!!!」

「……っ……」

 一際強く西表の頭を叩きつけた瞬間、亜煌はようやく少しだけ落ち着いたのか、ゼェゼェと息を切らしつつパッと手を離した。頭への攻撃で気を失ったのか、西表はほとんど何も言わないままドサッと床の上に倒れた。机についた返り血の跡は最初よりも一回りほど大きくなっており、床の上にも多少の血が飛び散っていた。仕事のない朝ゆえか、西表の頭を掴んでいた手には指輪がひとつも嵌められていなかった。だが、もう片方の手の指に嵌めた、狼を模した二つの指輪を撫でながら亜煌は掠れた声で呟いた。

「私は、近衛ちゃんのために、そして自分のためにいつも生きてきたわ。でも、あんたはどうなの?いつもいつも、何も言わずに部屋に閉じこもっていただけじゃない。体が弱いからって理由をつけて、ひたすらこの部屋の中にいただけ……人に飼われた子犬でも、もっとマシな動きをするわ。あんたがそんな(てい)だから、あんたの親もあっさりと殺されたんじゃないの?あんたよりずっと歳下の、小さくて可愛い近衛ちゃんなんかに。」

「…………あんたが、服を作れって、僕に言ったんだろ。」

 それまで何一つ反応を返さなかった西表が、おもむろにピクリと指先を動かしながらそう呟いた。彼の声は先ほどよりもずっと暗く沈んでおり、あの弱々しい雰囲気を蹴散らすほどの威圧感すらあった。てっきり気絶しているものだと思っていたので、亜煌は微かに顔を青白くさせながら慌てて後退した。顔を俯かせたままの西表が、机を頼りにゆっくりと起き上がる。

 その時、亜煌の視界が突然激しくぶれ始めた。まるで専用のフィルターを目元に掛けられたように、盛大な色ズレが生じたのだ。同時に頭の中がグワングワンと揺れ動き、強い吐き気も催してしまう。耳鳴りのようなキーンという音が全身を蝕み、耐えかねた亜煌は頭を押さえてガバッと蹲った。

「うっ……!!なによ、これ……頭、が……!!」

「あんたが服を作れって……静河ちゃんが認めたんだから、相応の働きをしろって、言ったんだろ?忘れたの?物覚えが悪いのは、あんたの方じゃないか。」

 自身の目の前に気配を感じ、謎の不快感に耐えながら亜煌がおずおずと顔を上げる。それまで座ったままだったはずの西表が、立ち上がった状態で彼女のすぐ目の前まで来ていたのだ。しかも、彼の傍らには、彼を挟むように二匹の“狼”が鎮座していた。それぞれ胴体に細い十字架が突き刺さっており、目を模したイラストが描かれた布切れを顔に被せていた。美しい瑠璃色の毛並みを持つその狼の頭部には、黒と青の縞模様に覆われた角らしきものがあった。まるでそこから何かを発するように、その角が微かに青白く光っている。突然の頭痛や目眩に襲われたのも、この角から目に見えない電波か何かが飛んできたのが原因なのだろう。西表と距離が近いせいで、能力の効果をもろに浴びてしまったらしい。

 だが亜煌は、実を言うと西表が人狼であることを今の今まで知らなかった。そのため、無様に床の上を這いながら、亜煌は信じられないと言わんばかりに目を大きく見開いて固まっていた。そんな彼女の元にしゃがみつつ、いつの間にか手に持っていた裁ち鋏を彼女の眼前に突きつけながら西表が呟く。かつて亜煌や近衛が、能力を見せつけて西表を脅した時のように。

「なぁ、謝れよ。僕の顔面を、机に叩きつけたことを。両親を、自由を、僕から全部奪ったことを。僕のことを役立ずだって言ったことも……全部、全部、謝れよ。ほら……早く!!!」

「……っ……!!!」

 急に振り下ろされた裁ち鋏の先端が、地面についていた亜煌の手の指先を掠めた。手などに突き刺さりはしなかったものの、代わりに彼女の指と指の間に、裁ち鋏の錆びた刃が深く打ち込まれた。床に小さな穴が空くほどの勢いである。手などにやられたらひとたまりもなかっただろう。しかも、今の西表は完全に怒りに満ちた形相を浮かべている。長いあいだ抑制してきた憤怒の情が、ここに来て爆発しかけているのだ。西表が本気で怒る機会がそもそもなかったとはいえ、彼の醸し立つ殺気は明らかに本物だった。こんなところで呑気に這いつくばっていたら、今まで弱いだけだと思っていた彼に本当に殺されてしまう。

 素早く身の危険を察した亜煌は、地面に突き刺さった裁ち鋏を、指輪を嵌めていた方の手で触った。途端に鋏は風船のようにムクムクと膨らみ始め、ハッと目を見開いた西表も流石にバッと手を離した。その直後、鋏は盛大なラッパの音と共に、キラキラとした無数の紙吹雪を散らしながらパァンッと破裂した。西表はその間、それまで裁ち鋏を掴んでいた手を見つめながら、その場にボーッと座り込むだけだった。いつの間にか、あの狼たちはどちらも消えていた。気づけば頭痛もかなり収まっていたので、亜煌はなけなしの体力を使って懸命に立ち上がりながら彼に向かって叫んだ。

「私……私は、何も悪くない!!あんたを連れてきたのは近衛ちゃんだもの!!私はただ、あの子のために親の死体を消して、あんたを殺さずに生かしてきただけよ……あんた相手に、謝るつもりなんて毛頭ないわ!!!」

「……そう、ですか……」

 いつもの西表ならば、亜煌の怒号に怯えて泣いたり縮こまったりしていたことだろう。だが、西表は特にたじろぐこともなく、冷たい眼差しで亜煌の顔を無言で見つめた。光を失った丸い瑠璃色の目が、亜煌の隠し持つ後ろめたい何かを見透かすように細くなる。本能的な恐怖を覚えた亜煌はゾッと背筋を震わせたが、すぐに首を振ってそれを無理やり抑え込んだ。破裂した裁ち鋏の残骸である紙吹雪を手に取りながら、西表が低く唸るようにこう呟く。

「なら、僕は、許さない。あなたが僕に謝るまで……懺悔するまで、永遠に。」

「じょ、冗談じゃない……もうあんたとはやってられないわ!!私も、ここには二度と帰らない!!何も出来ずに、ひとりぼっちでくたばるがいいわ、この根暗コミュ障が!!!」

 亜煌はそんな捨て台詞を吐くと、よろよろとした足取りで扉に向かい、西表から逃げるように部屋の外へ消えていった。慌ただしくバタンと閉ざされた扉を見つめながら、西表は疲れた様子でふらつきつつ深く息を吐いた。傷こそ浅いものの、机に叩きつけられたせいで頭から出血しているのだ。片手で頭を押えつつ、手探りで救急箱を探し出した西表が自主的に治療を行う。今まで親や亜煌から暴力を受ける度に、多くの怪我を自分で治してきた。そのため、よほど重傷でない限りは自力でどうにか応急処置が出来るのだ。とはいえ、せっかく用意した裁縫中の布には、ポツポツとだが返り血が微かに付着していた。生地は全体的に暗い方だが、最後まで繕ったとしてもかえって悪目立ちする可能性があった。この布はもう駄目だ、新しいのに変えないと。

 あれほど殴られたというのに、西表の脳内はやけに冷静だった。支配の象徴でもあった亜煌に対して、少しでも一矢報いることが出来たからだろうか。貴重な裁ち鋏は失ってしまったが、鋏ぐらいなら普通のものでも何とか代用できる。針が折れ曲がっていたりしてないか確認しつつ、予備に置いていた新しい布を手に取った西表が、何事も無かったように作業に戻る。

 しかし、それから10分ほどが経過した時のこと。

 不意に、家全体にピンポーンと軽快なチャイム音が鳴り響いた。誰かがこの家に来たのだ。近衛や亜煌ならば合鍵を持っているので、インターホンを鳴らさずともいつも自由に出入りすることができる。そのため、この場合は二人以外の別の誰かが家に来たということになる。心当たりがあると言えば、訪問販売とかその辺りが目的の一般人ぐらいだが。

 小さくため息を吐いた西表は再び作業を中断すると、インターホンを押した張本人の姿を確認するため部屋の外に出た。幸いにも部屋の扉に鍵は掛かっておらず、廊下に出て階下に降りても亜煌の気配などは全く感じなかった。まだズキズキと痛む頭を押えながら、外のインターホンと繋がる専用の機器に近づいて操作をする。

「……どちら様でしょうか?」

『あ、西表くん?急に押しかけてごめんね……良かったら、少しお話してもいいかな?』

 機器の奥からノイズ混じりの声が聞こえた瞬間、それまで鬱屈とした表情を見せていた西表が途端にパァッと顔をほころばせた。この声は間違いない。親以外で、病弱な自身に唯一手を差し伸べてくれた、彼女の声だ。

 それまでゆっくりのっそりとしていた足取りが、一転してバタバタと慌ただしくなる。機器を操作して通信を切った西表は、無我夢中で玄関口に向かい素早く扉を開けた。さっきまで薄暗い室内にいたせいで、外の明るい光が容赦なく己の瞳を刺激する。だが、目の前に立つ少女が驚くのも構わずに、西表はキラキラと目を輝かせながら彼女の名前を口にした。

「か、幽美さん!!」

「わわ、わっ……!あ、危ないよ西表くん。私、まだ松葉杖が手放せなくて……」

 少女、漆村幽美(うるしむらかすみ)は目を丸くしながらそう呟くと、危うく転びかけた体を踏ん張りながら苦笑いを浮かべた。彼女は西表のクラスメイトであり、一応だが同じ生徒会に所属する仲間でもあった。最後に幽美と会ったのは、彼女の弟の葬式が行われた時だ。あの時は事前に葬式の知らせを聞いたことで、西表は亜煌や近衛に無理を言って式場へと向かった。幽美は葬式の前に骨折していたとのことで、あの時点ではまだ入院中でかつ車椅子を使って移動していた。しかし、時が経過して順調に回復した結果、松葉杖だけでも歩けるようになったようである。ホッと安堵の息を吐く反面、退院の知らせを全く聞いていなかった西表が、オロオロと焦りながら幽美に向けて頭を下げた。

「ご、ごめんね!いきなりだったから、びっくりしちゃって……退院、してたんだね。」

「うん。症状が元から軽かったのと、リハビリのお陰で、一人でも歩けるようになったの。まだ、松葉杖は必要だけど……ところで、西表くんの方は大丈夫?少し、怪我してるみたいだけど……」

 幽美は途中まで穏やかな表情で答えていたものの、西表の顔を見つめながらどこか不安そうに首を傾げた。西表が頭だけでなく、頬にもいくつか絆創膏などを付けていたからだ。元より心配性な幽美が、怪我をした西表のことを不安に思うのも無理はない。しかし、両親どころか弟も失って孤独であるはずの幽美に、そんな気苦労をかけさせるわけにはいかなかった。亜煌などの気配が無いのをいいことに、玄関の扉を全開にした西表はブンブンと首を振って彼女に言った

「ぼ、僕は全然平気だよ!これは、その、少し転んじゃっただけだから……幽美さんこそ、無理は禁物だよ!?一人でも歩けるからって、あまり無茶とかはしないでね……僕で良かったら、いつでも手伝うから……!」

「……うん、ありがとう。でも、大丈夫だよ。色んな人が助けてくれるから。」

 アワアワと手を動かしていた西表の体が、柔らかく微笑んだ幽美の前で急にピタッと静止する。色んな人、その単語を聞いた瞬間、彼の心の奥底で醜い何かがザワザワと蠢いたのだ。しかし、西表の心の中での変化ゆえに、幽美はそれに全く気づいていないようだった。両の手で松葉杖を支えつつ、私服姿の幽美は西表の顔を見つめながら続けて言った。

「怪我してるのは少し心配だけど、西表くんも元気そうで良かった。でも私、今日は知り合いの人たちに、挨拶とかをしに回ってるところなの。だから、そろそろ行かなきゃ……」

「…………そう…………」

 不意に幽美が己の背後を一瞥したので、西表も低い声で相槌を打ちながらそちらの方に目を向ける。家の玄関から道路の方へ先を進んだ、小洒落た門の手前。そこに、警官の服装に身を包んだ一人の背の高い男が立っていた。黄緑色の髪を軽く一つ結びにしており、何かを警戒するようにキョロキョロと辺りを見渡している。が、時折こちらをどことなく怪しむような目で見つめてもいる。元々死体があったこの家の前に警官がいるのだから、本来ならもっと怯えたりするか、こちらも同じぐらい警戒するべきところだろう。しかし、西表は冷たい眼差しでそんな彼の顔を睨み返すと、軽く顔を俯かせながら家の中に後退した。一転して意気消沈にほど近い雰囲気を放ち始めた西表に対し、幽美が不安そうに眉をひそめながら首を傾げる。

「……?西表、くん?」

「なら、気をつけて、いってらっしゃい。また、会おうね。」

 西表は消え入るような声でそう呟くと、おもむろに顔を上げてニコッと微笑んだ。いや、目が一切笑っていない。光を失った瑠璃色の瞳が、幽美すらも通り過ぎて虚空を眺めている。一抹の恐怖を覚えた幽美は思わず「ひっ……!」と悲鳴をあげて後退りをした。だが、それと同時に彼女の頭の中ではキーンと耳鳴りのような音が静かに鳴り響いた。松葉杖を脇で挟みつつ、幽美が咄嗟に片手で頭を押える。しばらくしてから幽美が再び顔を上げたが、その時すでに西表は玄関の扉を閉めて家の中に入っていた。軽い頭痛と耳鳴りはすぐに収まったものの、心の中では微かな不快感が残り続け、幽美は困惑したように眉をしかめたのだった。

 西表に別れの挨拶をし損ねた幽美が、松葉杖を使いながらゆっくりと外の門に向けて戻る。そして数分ほどかけて、満足に動けない幽美のために彼女と行動を共にしていた笹木尚也(ささきなおや)の元に帰還した。朝ゆえにどこまでも澄み渡る青空の下で、笹木は何故かどことなく苦しそうに眉をしかめていた。

「お、お待たせしました、笹木さん!ごめんなさい、長引かせてしまって……」

「……いいよ、全然待ってないから。ところで、幽美ちゃん。今の子、本当に君の知り合いなの?」

「え?そ、そうですけど……あれ?もしかして私、気づかないうちに、また何かやっちゃいましたか!?」

「あーいや、そういう訳じゃないんだけど……少し、嫌な予感がしてね。」

 そう言いながら警官帽を深く被った笹木の横で、アワアワと目を泳がせていた幽美が再び首を傾げる。しかし、笹木はそれ以上言葉を続けることなく、幽美を連れてまた別の場所へと向かい始めた。足取りの遅い幽美の肩を支えつつ、何かをこらえるように笹木がグッと奥歯を噛み締める。

 幽美と笹木の二人が門の前から立ち去った後、西表は二階にある窓の奥から外の景色をひそかに眺めていた。亜煌が扉に鍵をかけずに飛び出したので、意図せずして自由に動き回れるようになったのだ。しかし、下手に外に出たらまた亜煌などによって連れ戻されてしまうかもしれない。生まれつき鈍足なので逃げることは出来ない。なら、代わりにこちらから向かわせればいいだけの話だ。

「……君は、今まで何度も僕のことを救ってくれた。でも、結局ほかの人たちと一緒で、君もすぐに僕から離れた……許さない。たとえ君だろうと、君が僕に謝るまで、絶対に許さないよ。」

 限界まで顔を貼り付けて外を見下ろしながら、西表がひどく苛立たしげに窓をドンと叩く。それに応じるように、彼の背後にいたあの二匹の狼はコクリと頷いてフッと姿を消した。後に残ったのは、火傷の跡を隠すように前髪を下ろした、一人の気弱ながらも気丈な青年の姿だけだった。



 電気をつけていないので、部屋の中は相変わらず薄暗い。だが、西表はすぐにカーテンをシャッと閉めると間髪入れずその場に蹲った。何かに意識を集中させるように深呼吸を繰り返しながら。そして、何かに対して恨みをぶつけるように目を細くしながら。




***




 一方その頃

 大神町某所 笹木家屋敷内―――




「本当にありがとうね、夜鶴。翔くんと遥ちゃんを匿ってくれて。」

「ええよええよ!幼馴染同士の仲やろ?そんな気にせんでもええって!」

 広大な平屋建ての和風建築、その中でも縁側にあたる場所にて。

 申し訳無さそうな顔で頭を下げる佐倉美桜(さくらみお)に対し、笹木夜鶴(ささきよづる)はニコニコと笑いながら首を振った。彼女の隣に座る狩野護(かのうまもる)、そして真央(まお)の二人も『大丈夫』と言うようにコクコクと頷く。彼らの反応で少しは安心したのか、佐倉はホッと安堵の息を吐いて、隣に立つ狗井遥(いぬいはるか)の頭を優しく撫でた。狗井は佐倉の服の裾をギュッと握りながら、どこか寂しそうに顔を俯かせていた。拗ねた子供のような仕草を見せる狗井に対し、夜鶴たちと同じく縁側に座っていた宇佐美翔(うさみしょう)も同じように目を伏せる。



 狗井が人攫いに巻き込まれ、廃工場で人狼を名乗る何者かに襲われたあの日から、早くも一日が経過しようとしていた。

 安全を考慮して笹木家の屋敷に保護された狗井は、旧友である宇佐美と共に一夜を過ごした。今の宇佐美は訳あって自由に外に出れない身なので、こうして同じ空間に居れたこと自体がかなり久々だ。それゆえか、元の居住区である孤児院に戻ることになったこの日、狗井は終始不安そうな表情を崩さなかった。彼女はこれまでにもすでに何回か、宇佐美などが居ない場所で色々な者に攫われてきたのだ。彼女の境遇を考えると、宇佐美と別れることを寂しく思うのも、安全が約束されたこの屋敷から離れることを恐れるのもたしかに無理はなかった。

 だが、狗井には狗井なりの生活というものがある。宇佐美は前述のこともあって学校には通えないが、狗井は問題なく登校することができる。加えて狗井は、諸々の事件のせいで、人に体を触られることに強いトラウマを抱くようになった。しかし、自分もいい歳なので育ての親である佐倉相手にあまりわがままを通す訳にもいかなかった。佐倉自身は“無理に学校に行かなくてもいい”と言い続けていたが、狗井は佐倉の負担を減らしたい思いから彼女の意見を突っぱねていた。今いる笹木家の屋敷で暮らすという案も提示されたが、狗井は迷惑になるからという理由でそれすらも却下した。けれども、狗井の身を案じていた佐倉も、そして夜鶴も彼女相手になかなか食い下がらなかった。そのため、最終的には孤児院に戻るのはそのままに“保健室登校”という妥協案が採用されることになった。狗井の通う大神学園では、申請さえすれば保健室登校でも出席扱いになるのだ。何故か狗井本人は表情からして不満そうだったが、宇佐美の説得もあって渋々例の提案を受け入れたようだった。

 とはいえ、今日ばかりはまだ安静にして休んでおいた方が良いだろう。昨日の事件の際に受けた心の傷が、完全に癒えたとは限らないのだから。そう考えた夜鶴は、事前に佐倉に連絡をして狗井を孤児院に送り届ける旨を伝えた。すると、佐倉はこれ以上彼女たちに面倒をかけたくないからと、自らの足で直接狗井を迎えに来たのだ。今はそんな佐倉が屋敷を訪ねて、前述以外にも諸々の話を夜鶴たちと交わした後のことである。



「それにしても……こうも立て続けに遥ちゃんだけが狙われるだなんて、なんだか不安だわ。私がいつも一緒に、遥ちゃんの傍に居ることが出来たら良いんだけど……」

 昨日とは一転して青く澄み渡る晴天の中、自身の頬に手を添えた佐倉が不安そうにポツリと呟く。血の繋がりが無いとはいえ、佐倉は狗井が幼い頃から彼女を育ててきた身なのだ。実の娘のような存在でもある狗井が、赤の他人の手で弄ばされ困り果てる姿を見るのが、佐倉としてはとにかく心苦しくて堪らないのだろう。だが、孤児院には狗井以外にも幼い子供たちが何人かいる。要は、狗井一人に割ける時間にも限りがあるということでもあった。狗井はそんな子供たちのことを考慮して、佐倉の負担を避けたいといった思いを抱いていたのだろう。もとより男勝りで短気な性格だが、彼女は心を許した相手にはとことん優しく接する少女でもある。自分の身を自分で守れない子供たちを優先するのも、狗井らしいと言えばらしいような気もした。その選択がかえって、佐倉の中に芽生えた不安を煽ることになったとしても。

 幼馴染ゆえに佐倉の心境を素早く察した夜鶴は、縁側の上で正座になりながら宥めるような口調で彼女に言った。

「安心しぃや、美桜。護の能力(ちから)で、御守り代わりの蝶々を何匹か贈ってあげるから……あ!あれやったら、真央を護衛代わりに連れて行きや。この子元から学ラン着とるし見た目も若いから、普通に学園内にも忍び込めるやろうし。」

「忍び込めるかどうかは別として、僕で良ければ、いつでも喜んで狗井様をお守り致しますよ。」

「……いや、いい。俺のせいで、お前らのペースを乱したくなんかない。もう二度と、情けないヘマとかもしねぇから……」

 真央も軽く身を乗り出して積極的にアピールしたが、狗井は小さく首を振りながら佐倉の服の裾をグイッと引っ張った。そろそろこの場から離れたいようである。単純に夜鶴たち相手に申し訳なさを感じて、居心地が悪くなっているのか。それとも、長居すればするほど、宇佐美と離れることを自覚してしまい嫌な気持ちになってしまうからなのか。なんにせよ、今日は朝からずっとこの調子である。話を聞く限りだと、宇佐美ともあまり会話を交わしていないらしい。真央が寝室に向かった際は、二人仲良く同じ布団の中で眠っていたというのに。

 夜鶴たちが少し不安そうに眉をひそめる中、狗井の意思を汲み取った佐倉は再びペコッと頭を下げて狗井の肩に手を添えた。そのまま彼女と寄り添うように歩きながら、縁側に面した広めの庭を後にする。狗井の要望通りに、そろそろ孤児院に戻った方がいいと察したのだろう。

 するとその時、それまで無言を貫いていた宇佐美がおもむろにスッと立ち上がった。そして、庭先に置かれていた草履を器用に履くと、佐倉と一緒に足早に去ろうとしていた狗井に向かって声をかけた。

「ハル!少し、待ってくれ!」

「……なんだよ、急に―――」

 宇佐美の声に応じて、反射的にピタッと動きを止めた狗井が後ろを振り返る。その直後、いつの間にか二人の目の前にまで近づいていた宇佐美は、狗井の腕を引っ張って彼女の小さな体を強く抱きしめた。突然過ぎる抱擁に、狗井や佐倉だけでなく、真央や護までもが驚きでギョッと目を丸くする。唯一、未来予知の能力を持つ夜鶴だけが、なにやら興奮した様子で子供のようにキャッキャと騒いでいた。戸惑う狗井をしりめに、宇佐美が彼女を抱きしめる己の手に静かに力を込める。

「ちょ、おまっ……いきなり過ぎんだよ、馬鹿……!!」

「……ハル……」

 身長差があるとはいえ、宇佐美の吐息が髪の毛に軽く吹きかかり、狗井が少しくすぐったそうに身をよじった。それでも、宇佐美の手から力が抜けることは無い。まるで永劫の別れを惜しむように、手離したくないと言いたそうに狗井の体を抱きしめ続けている。最初こそ反射的にもがいていた狗井も、宇佐美の熱意を悟ってか、すぐに体を弛緩させてゆっくりと彼の背中に手を回した。宇佐美の着る着物の裾を握りながら、彼の胸の中に顔を埋めた狗井が呟く。

「さ、寂しがり屋な子供かよ、お前。んな強く抱きしめんなよ、暑苦しいっての。」

「……あぁ、子供だ。図体がでかいだけのな。」

「はっ……素直に認めんなよ、馬鹿。」

 苦笑いではあったが、久方ぶりに笑顔を見せた狗井が足で宇佐美の太ももを軽く蹴り上げる。その時点でようやく気が済んだのか、宇佐美は狗井から手を離して彼女の頭を優しく撫でた。隠す気配のない何とも愛おしげな眼差しを前に、狗井の心臓がドキッと不思議な鼓動を奏でた。羞恥と別の何かで赤く火照る頬を誤魔化すように、宇佐美から顔を逸らしつつ狗井は言った。

「あ、ありがとう、ウサギ……俺はもう、大丈夫だから。」

「……無理はするなよ。ここに居るみんなが、お前の味方なんだ。困った時はいつでも頼るんだぞ、いいな?」

「あーもー、分かってるっての!……もう二度と、同じヘマはしねぇから。今度は必ず、自分の手で解決するよ。」

 相変わらず不安そうな雰囲気を放つ宇佐美に対して、狗井は半ばつっけんどんにそう答えながらついに彼の元を離れた。宇佐美の手を引き剥がし、後ろを振り返ることなく佐倉の元に戻る。そして、狗井は耳まで真っ赤になった顔を佐倉の体に押し付けて隠した。佐倉は小さくクスッと笑うと、宇佐美や夜鶴たちに向けて会釈をしながら入り口の門へと向かった。

 ようやく二人が屋敷を後にしてからも、宇佐美は狗井の温もりを確かめるように、拳を強く握りしめながらその場で立ち尽くしていた。そんな宇佐美たちの動向を観察していた護と真央が夜鶴相手にヒソヒソと話をし合う。

「夜鶴様……かねてより気になっていたのですが、あの醜女と宇佐美は、決して恋仲ではないのですよね?」

「そうなんよ~!なんなら、そもそも付き合ってすらないで?めっちゃ純粋で甘酸っぱい関係のはずやのに、お互いが素直やないからもう焦れったくて堪らんのよなぁ~!!」

「……両片想い、という奴でしょうか。でも、少しだけ、羨ましいな……」




 秋の色合いがより濃くなり、紅葉やイチョウの葉が風に乗って舞い上がる大神町。

 そんな町を覆うどこまでも青い空を、数羽の白い鳩たちが美しく悠々と飛び回っていたのだった。




***




 それから数分後―――




「……そう言えば遥ちゃん、私と二人きりだけど、怖いとか感じてない?」

 町内某所、平凡な作りの歩道にて。

 まだ朝も早い時間帯ゆえか、少し人気(ひとけ)の少ない道を歩きながら不意に佐倉がそう尋ねた。狗井はここ数日のあいだに起きた事件の影響で、宇佐美以外の者に体を触られるのをひどく恐れていたのだ。その対象の中には、孤児院の子供たちや佐倉すらも例外なく含まれていた。しかし、今日は特にそれを示す様子がない。以前までならば距離を空けつつ歩きそうなものだが、むしろ佐倉とピッタリくっつくように歩いているのだ。もはや佐倉と離れたくないと言わんばかりの密着具合である。狗井は一瞬驚いたようにピクッと体を震わせたが、佐倉の服を握る手に力を込めながら顔を俯かせたまま彼女に言った。

「その、なんて言うか……ウサギと会ってから、少し気持ちも落ち着いてさ……過敏になり過ぎてたなぁって、思って。」

「過敏に?」

「うん。多分ウサギのお陰で、佐倉さんとか笹木にまで怯えてた自分を、落ち着いて客観視することが出来たんだ。佐倉さんも笹木も、孤児院のガキどもだって、俺にその……ひ、卑猥なこととか、する訳ねぇって思えたんだ。なんでウサギがそのきっかけになったのかは、よく分かんねぇんだけど。」

 頭の中で宇佐美のことを改めて思い出したからか、狗井はまたしても顔を赤く染めながらその熱を追い払うようにブンブンと頭を振った。しばらくポカンと口を開けていた佐倉が、安心したように微笑みながら狗井の頭を撫でる。その手が狗井によって振り払われることはやはり無かった。狗井の言う通り、先ほど述べた例のトラウマが少しだけ緩和されたのだろう。

 人に触られることが怖くても、宇佐美なら許すことが出来た。長年共に過ごしてきた宇佐美ならば、例の人攫い集団などのように、服をぬがしたりなどのみだらな行為をして来ないと信じていたがゆえだろう。とはいえ、そう考えている時点で、無意識のうちに宇佐美を特別視していることに彼女は気づいているのだろうか。少女らしく恥ずかしそうに頬を染めて、彼に対する恋心を必死に隠している(さま)を露呈しているというのに。

(……やっぱり、遥ちゃんも夜鶴のところに預けるべきだったかもしれない。遥ちゃんは夜鶴たちの迷惑になるのを避けたがっていたけど、あそこなら身の安全は確かだし、翔くんもいるわ。子供たちには寂しい思いをさせてしまうだろうけど、また改めて夜鶴に相談しないといけないわね……)

 心の中で悶々と考えを巡らせていた佐倉が、不意に狗井の横顔をチラッと一瞥する。狗井は相変わらず顔を俯かせていたが、全く元気が無い訳ではないようだった。佐倉の服の裾をギュッと掴んだまま、道の途中にある小石を蹴り飛ばしたりしている。幼い頃の狗井もこんな感じだったなと、一抹の懐かしさを覚えた佐倉は穏やかな表情を浮かべながらクスッと微笑んだ。いま孤児院には子供たちしかいない。細かなことを考えるのは後にして、一刻も早く我が家に帰らなければ。

 すると、密かに帰りを急ぐ佐倉たちの前から、見覚えのある影が二人分近づいてきた。ちょうど真正面に見えたので、すかさず存在に気づいた狗井がバッと顔を上げてその二人に声をかける。

「副会長!それに、笹木も!?」

「お、おはよう、狗井さん!いや、えっと……久しぶり、の方が、いいのかな?」

 幽美は松葉杖を支えにしながらそう言うと、慌ててこちらに駆け寄ってきた狗井に向かって優しく微笑みかけた。彼女は骨折が原因で、つい先日まで入院中だった上に車椅子で活動していたはずだ。しかし、こちらが気付かぬうちに退院していたらしい。とはいえ狗井側でも色々ないざこざがあったので、知らせを受け取ることが出来なかっただけかもしれない。いずれにせよ、笹木と共にいるとは夢にも思わず、何でお前も居るんだよと言わんばかりに狗井は笹木の顔をジッと睨みつけた。苦笑混じりに肩を竦めた笹木が、幽美のお供をするまでに至った経緯を狗井たちに向けて簡単に説明する。

「そんな顔しないでよ、ハルちゃん。ほら、幽美ちゃんは今一人で頑張ってる状態でしょ?家の行き来とかも一人でしなきゃいけないからさ、俺が仕事の合間を縫って手伝ってあげてるんだよ。今はリハビリも兼ねて、お世話になった人たちへの挨拶回り中なんだ。まさかこここで、ハルちゃんたちに先に会えるとは思わなかったけどね。」

「私たちもちょうど、孤児院に戻ろうとしていたところなの。あなたのお姉様から色々と話を聞いてね。幽美さんも元気そうで安心したわ……でも、子供たちをみんな、孤児院にお留守番させてるの。お話したいことは沢山あるけど、私たちもそろそろ行かないと……」

 笹木から事のあらましを聞いた佐倉が、狗井の傍に寄り添いながら申し訳無さそうに眉をひそめた。狗井を無事に送り届けることもそうだが、孤児院に残された子供たちのことを心配しているのだ。件の子供たちは多くが10歳未満の幼い少年少女たちである。佐倉の指導のお陰で行儀の良い大人しい子たちばかりだが、備えあれば憂いなしというものだ。狗井も密かに子供たちのことを気にしているようで、先を急ぐように佐倉の服の裾をぐいぐいと引っ張っていた。彼女の持つ例のトラウマが再発してないかと危惧していたが、どうやら杞憂で済みそうである。笹木は心の中でそう考えると、同じく申し訳無さそうに目を泳がせる幽美を宥めながら穏やかな表情で笑って言った。

「オッケー、了解。また後で、暇な時に話そっか。俺もまた、姉さんと話がしたいって思ってたところだし。」

「そう……幽美さん。ひとりぼっちで寂しい思いをしてるだろうけど、困ったことがあったら遠慮なく言ってちょうだい。私にも出来ることがあったら、喜んで手を貸すわ。笹木さんのことも、今と同じように頼っていいからね。」

「わ、わわ……!あ、ありがとうございます!本当に、お気持ちだけでも嬉しいのに……!」

 分かりやすくオロオロと戸惑いながらも、安堵の表情を見せた幽美の目元にジワッと涙が浮かび上がる。その場にいる者からの優しさを受け取った結果、感極まって泣きそうになっているのだろう。ポロリと嬉し涙を流した幽美を、笹木だけでなく狗井も宥めようとしてスッと手を伸ばす。

 だが、その時―――不意に、四人の脳内にキーンと甲高い耳鳴りのような音が鳴り響いた。ほぼ同時に、そして一斉に、それぞれの頭の中で反響したのだ。そのため、その場にいた全員がギョッと目を丸くして慌てて頭を押さえた。いや、自分たちだけではない。周りをよく見ると、たまたま近くを歩いていた一般の通行人たちも苦しそうにふらついている。

 実を言うと、笹木はこの耳鳴りに覚えがあった。つい先ほど、あの青年の家を訪ねた時に感じたものとほぼ一緒だったのだ。笹木は耳鳴りに耐えながら慌てて辺りを見渡そうとした。が、その瞬間から耳鳴りは急激になりを潜めて、完全にピタッと途絶えてしまった。ようやく苦痛から解放された佐倉たちや一般人などが、何が起きたんだと言いたそうにキョロキョロと周りを見渡している。

「さ、笹木……今のはなんだ?なんか、いきなり頭の中がうるさくなって、めちゃくちゃ痛くなったんだけど……」

「俺にも分からない。でも、何だろう……人体に害悪な電波とかを、もろに受け取ったみたいな感覚だ。少なくとも発信源か何かが、どこかにあるはずなんだけど……」

 笹木はそう言って冷や汗を拭うと、戸惑う狗井たちの安全を確認しつつ何度もしきりに周囲を見渡した。しかし、笹木の言う発信源らしき物体などは微塵も見つからなかった。周りにはごく平凡な電信柱や路地の塀などしか存在していなかったのだ。通行人にも被害が及んでいるということは、それぐらい効果の範囲が広いということでもある。そんな電波を放つことが出来るとしたら、専用の特殊な機械か、あるいは。

 またしても嫌な予感を覚えた笹木は、佐倉と狗井に向けて早く孤児院に帰るよう促した。そして、幽美には一旦挨拶回りを止めて家に帰ろうと提案した。笹木が珍しく余裕のない顔を見せていたゆえか、佐倉たちはみな大人しく彼の指示に従うことにした。お互いに簡単に別れを告げて、その場から足早に立ち去る。

 そんな彼らと通行人の姿を、兵の向こう側に植えられた大きな木の隙間から、こっそり覗き込む二匹の“狼”たち。瑠璃色の毛に覆われた狼たちは、目のような模様つきの布、その下に隠された顔をおもむろに狗井たちの方に向けた。そして、周囲が耳鳴りによる騒ぎで少しだけざわつく中、狼たちは器用に枝の上で立ちながら微かに光る角を前後に揺らした。どちらも木から飛び降りることなく、瞬きをひとつ挟んだ瞬間にフッと姿を消す。

 一転して騒然となりかけた、ごく普通の住宅街の一角。突然の耳鳴りで混乱する人々を嘲笑うように、白い羽根の鳩たちは羽根をばたつかせながら遠くに飛び去ったのだった。




***




―――ねぇ、どうして私を殺したんですか?


「…………」


―――私、私たち、あなたのために頑張ってきたのに。何であなたに、消されなきゃいけなかったの?

―――みんな、言われた通りにしただけなのに。ちゃんと指示に従ったつもりなのに。何が間違っていたの?私が間違っていたの?あなたじゃなくて?


「……うるさい。黙りなさい……」


―――いいえ、黙らないわ。あんたは私たちを見捨てた。自分のエゴのために、私たちみたいな子を集めて、道具みたいに扱ったじゃない。

―――私はあなたに目をつけられた。そのせいであなたに殺された。何も悪いことしてなかったのに。家に帰りたかっただけなのに。

―――あなたが、殺した。あなたのせいで、死んだんだ。あんたに選ばれてしまった、あなたに目をつけられてしまったみんなが。


「……違う……私の、せいじゃない……」


―――何言ってんの、違わないでしょ?みんな、あんたのせいで永遠に、家族のみんなに会えなくなったんだよ。

―――いい加減認めなよ、おばさん。そんな強がらないでよ。いい歳して恥ずかしくないの?みんなのことも、自分のことも思いっきり騙してさ。


「違う……違う、違う、違う!!」


―――いいえ、何も違いません。みんなの言う通りです。だから、謝ってください。あなたが殺した、私たちに。

―――なぁ、謝れよ。本当は自分が悪いって、ちゃんと自覚してるんだろ?そこには流石に嘘とかつけれないんだろ?

―――あなた、大人でしょ?ごめんなさいって謝ることぐらい出来るでしょ?私たちだって必死に謝ったんだから、あなたも謝ってよ。

―――謝れ。

―――謝れ。

―――謝れ。

―――謝れ。


「や、めなさい……!!私は!!なにも!!悪くないって……言ってるでしょ!!」


 頭の中に響く呪詛のような、あらゆら少女たちの低い声。それを振り払いたい一心で、亜煌は近くにあったペールボックスを勢いよく蹴り飛ばした。ボックスの中にはそこそこの量の廃棄物が収納されていたようで、倒れた拍子に蓋が外れたことでゴミと共に強い腐敗臭が漂い始めた。その臭いでようやく我に返った亜煌は、ハッと目を見開きながら慌ててボックスの傍を離れた。ボロボロに寂れたコンクリート製の建物の壁にもたれながら、乱れかけた呼吸を必死に整える。すかさず辺りも見渡すが、彼女の周りに彼女以外の人は誰もいなかった。

 ここは町のどこかにある、廃れた路地裏の途中。奥に進んでも行き止まりしかないが、かつてホームレスでも住んでいたのか、明らかに人工的な居住空間がそこに出来上がっていた。細かな物品の多くは持ち去られているようだが、ダンボール製の机や棚と思われる残骸がポツポツと放置されている。とはいえ、亜煌は元より綺麗好きな方なので、土などが付着しているその空間に近づく勇気は微塵も無かった。ならばそもそもここに来るなと言う話かもしれないが、今の亜煌には周りのことをいちいち気にする余裕すらもなかった。西表のいたあの家を離れて以降、先ほどのような幻聴が聞こえてきて仕方ないのだ。

 様子がおかしいと感じたのは、例の家を離れて数分ほどが経過した頃のことだった。体を蝕む不快感に負けて足早に立ち去ったので、その時はすでに元いた家の影すら見えない位置を歩いていた。だが、ようやく気分も落ち着いたと思った矢先に、突然あの幻聴が絶え間なく響き始めたのだ。最初は聞き間違いかと思ったが、そんな生ぬるい考えはすぐに覆された。目を閉じても耳を押えても、こちらを恨むような少女たちの声が頻繁に聞こえるようになったのだ。

 語られる内容から察するに、彼女たちは自分がかつて口封じや躾のために、能力を用いて“消して”きた少女たちなのだろう。しかし、聞こえるのは声ばかりで、肝心の本人たちの姿はどこにも見当たらない。そもそもこの手で確実に殺したのだから居るはずがない。にもかかわらず、まるでこちらを呪い殺さん勢いで声だけが延々と聞こえてくるのである。全ての原因は確実に、西表と共に居た際に現れたあの狼たちだろう。あの時も不愉快な耳鳴りが鳴り響き、のちに今の幻聴に悩まされる羽目になったのだ。おそらくだが西表が隙を見て能力を使い、亜煌相手に何かしらの攻撃を加えたのである。

 体への物理的な影響は無いものの、ここまで絶え間なく幻聴に襲われたら、心が先に狂って壊れてしまいかねない。気付かぬうちに小汚い路地裏に来てしまったのも、この幻聴に脳みそが支配されて周りの景色を見れなくなっていたがゆえだった。それはすなわち、いつ理性を失って発狂してもおかしくない状態に晒されているということでもあった。今はまだ朝ではあるが、胸糞悪い幻聴が残る以上はもはや仕事どころではない。これまでは怪我があっても無理やり仕事場に立っていたが、今回ばかりはどう足掻いても無理だ。兎にも角にも、今は新鮮な空気を吸って気持ちを落ち着かせたい。そう考えた亜煌は冷や汗を拭いつつ、セーターの袖を擦りながらその場を離れようとした。ここは立地の都合上、太陽の光が差し込みにくいようだ。腐敗臭も酷いので、一刻も早く外に出なければならなかった。

 しかし、そんな彼女の足取りは、ほんの数歩も進まないうちにピタッと止まってしまった。止まらざるを得なかったのだ。何故かこの場で懐かしい人物と再会することになったのだから。

「KQ様?……KQ様、ですよね?」

「……香音……」

 逆光こそあったものの、聞き覚えのある声で何者なのかを悟った亜煌がその名を呟く。途端に道端に立っていた少女―――柊木香音(ひいらぎかのん)は、パァッと顔を綻ばせて躊躇いなく亜煌のいる路地裏の奥に駆け出した。どこかに出かける最中だったのか、メイド喫茶で勤務中の制服姿ではなく、全体的にメルヘンチックな可愛らしい私服に身を包んでいる。思わず倒れかけた亜煌の体を素早く受け止めつつ、柊木がひどく嬉しそうにキャッキャと騒ぎながら声を上げた。

「あぁん、私の大好きなKQ様ぁあ~!!こんなところで会えるだなんて、夢にも思いませんでしたよ~!!お元気にしてましたか!?私のお母さんも、お店の方でよろしくやれてますか!?あの火事が起きてから、全然連絡が取れなくて心配してたんですよ~!!」

「あ、あぁ、そう……それより、声のボリュームを抑えてくれないかしら?私いま、少しだけ気分が悪いの。」

 矢継ぎ早に言葉と質問を投げつけられ、流石に困惑した様子で眉をひそめながら亜煌がそう呟いた。途端にハッと我に返った柊木は、ペコペコと申し訳無さそうに頭を下げつつ、亜煌の体を近くの壁に寄りかからせた。ここは明らかに薄汚い路地裏なのだが、どれだけ汚くても亜煌がいさえすればもはやなんでも良いようだった。本当はもう少し遠くに行きたかったものの、歩く気力が無いので結局どこにも動けない。そのため亜煌は大人しくそこに座りながら、休憩がてら深呼吸を何度も繰り返した。そんな亜煌に対して柊木が首を傾げながら彼女に尋ねる。

「たしかにKQ様、なんだかいつにも増して具合が悪そうですね。お腹とか空いてませんか?一応お金は持ってるんで、KQ様がお望みならば可能な限り奢りますよ?あ、でも!俗に言う高級なお店とかはちょっと勘弁して欲しいですね~、借金とかだけはマジでしたくないんで!」

「……別に良いわよ、奢らなくても。それに、そのKQって名前は、もう捨てたわ。あの火に巻き込まれて、燃えて消えたの……だから、これからは私のこと、亜煌って呼びなさい。いいわね?」

 休んだことで少しだけ落ち着いた亜煌が、片手で冷や汗を拭いながら柊木に向けてそう呟く。柊木は一瞬だけキョトンとしたが、すぐにニコッと微笑んで「分かりました、亜煌様!」と潔く答えた。あくまでも“様”をつける姿勢は買えないつもりらしい。そもそもKQという名も、元は同じ風俗嬢でもある柊木の母親から付けられたものだった。とはいえ自ら使う機会はわりと少ない方で、メイド喫茶の責任者を務めていた際に偽名代わりに使用していたぐらいだ。しかし、仲間に裏切られたことで後ろ盾がほとんど無い今となっては、それすらも意味を持たない飾りでしかない。

 相変わらず自分のペースを保っている柊木を少し羨ましく思いつつも、彼女のお陰で冷静さを取り戻した亜煌は壁伝いにゆっくりと立ち上がった。一方、亜煌の周りを軽くうろついていた柊木が、どこか不安そうに眉をひそめながら再び亜煌に尋ねた。

「ところで亜煌様、こんなところで何をしてたんですか?完全に顔がやつれてますし、生気も感じられませんよ。もしかして、お店の方で何かあったんですか?私のお母さんが、また面倒なこと押し付けたとか?」

「……ミナミにも、あたなにも全く関係ないことよ。それに、あなたは私たちとは違って、ごく普通の女の子でしょ。だから、無闇矢鱈に首を突っ込まない方がいいわ……死に急ぎたくないのならね。」

 亜煌はそう答えて首を振ると、再びキョトンとする柊木を置いて速やかに路地裏を離れようとした。いつまでもこんな悪臭に満ちた場所に居続ける訳にはいかない。それに、件のメイド喫茶運営のために柊木を巻き込んだとはいえ、彼女も元は普通の女の子でしかないのだ。彼女の性格は両親のそれを色濃く受け継いでおり、それゆえに普通の人と比べたら少し歪んですらいる。だが、客引き担当だった柊木との接点も、メイド喫茶の建物が燃え尽きた時点で無くなったも当然だった。柊木は亜煌がわざと投函したチラシをきっかけに彼女と知り合っただけの仲なのだから。そして件のチラシを的確に柊木に授けたのも、同じ風俗嬢の実の娘だと知っていたがゆえだった。何もかも都合が良かったのだ、当時の亜煌にとっては。

 しかし、メイド喫茶運営の計画が頓挫した今、いつも通りの柊木と関わりあっている余裕は正直あまりない。そのため、亜煌は乱れてしまった髪を整えつつ足早にその場から去ろうとした。が、そんな彼女の行先を、柊木が後ろから手を引っ張ることですかさず遮った。危うく後ろに倒れかけた亜煌の背後で、がっしりと腕にしがみついた柊木が一気に言葉を捲したてる。

「待ってくださいよ~、亜煌様~!親がどっちもイカレきってる時点で、私も普通なんかじゃないですよ~!むしろ、裏社会の事情なんてドンと来いの精神で毎日を生きてますもん!だから亜煌様、もし私に出来ることがあったら、何でも言ってください!売女でも強盗でも人殺しでも、亜煌様のためならなんだってやりますよ!!」

「……何でも、ねぇ……」

 自身と親が異常である自覚があったことに驚きつつも、柊木の放った言葉を反復した亜煌が不意にニヤリと微笑む。仕事などのせいで精神的に追い詰められていた亜煌としては、かなり久々に見せた純粋な笑顔だった。

 仲間だと信じていたあの少女にはあっさりと裏切られた。彼女が連れてきた根暗な青年とはこちらから決別した。かつて監禁していた少女たちはもういないし会うこともできない。様々な情報を共有してきたあいつとも、今さら良好な関係を築くことは出来ないだろう。

 だが、まだ一人だけ、こちらを崇拝してやまない貴重な仲間が残っているではないか。

「……柊木。私ね、裏切られたの。今までずっと、心の底から信じてた人にね。」

「え!?そんなぁ!?崇高な亜煌様を裏切るだなんて、よっぽどの礼儀知らずですねその人!!あ、なるほど!私がその人に、亜煌様も満足出来るような手痛い仕返しをすればいいんですね!?」

 柊木の意思に変化が無いことを確かめるように、クルッと後ろを振り向いた亜煌がおもむろにそう呟く。途端に柊木は愕然とした様子で口を開けた後、すぐに怒りの形相を浮かべて鼻息を荒くした。亜煌の要求に応えようと、今にもどこかに飛び出してしまいそうな勢いすらある。そんな柊木をすかさず手で制すると、亜煌は先ほどまでの疲労困憊な様を感じさせないほど悠然とした態度で柊木に言った。

「こらこら、話を急ぐんじゃあないわよ……復讐なんて後でいいの。人ってものは必ず、人生の中で一回以上は誰かを裏切り、誰かに裏切られる生き物なんだから。裏切られたとかなんだとか言って、いちいち細かく構ってたら時間も体力も枯れて擦り切れちゃうわ。」

 片手で髪の毛を梳いた亜煌が途中でコホンと咳払いを挟む。亜煌の名言、と言うより迷言じみた言葉に感銘でも受けているのか、柊木は恍惚とした表情で彼女の顔をボーッと見つめていた。やはり、彼女はいつも通りだ。いつも通り、こちらのことになると途端に狂信者のように従順になる。思わずクスクスと笑いながらも、亜煌は何かを確信したような口調で続けて言葉を紡いだ。

「だから、先を行くのよ。今度は私の手であいつを出し抜いてやるの……あの子は、私とは別の奴の仲間になった。あいつの狙いは、私も同じように狙っている、とある女の子なの。だけど、果たそうとしてる目的は、あいつと私とで全く違うわ。あいつはね、あろうことかその子を殺そうとしてるのよ。でも、そんなことは絶対にさせない……私が先に彼女を連れ去って、誰にも見つからない場所で永遠に閉じ込めるの。そして、この世界で一番可愛い女の子にしてあげるのよ、この私の手でね。」

「ほおほお。そこまでして、亜煌様も求めている魅力のある子……もしかして、例のあの子のことですか?」

 亜煌の発言で該当する人物を察したのか、柊木が口元に手を添えながらヒソヒソ声でそう尋ねる。思えば柊木は客引きとして例の少女を連れてきたのだから、彼女のことを知らないはずがないのである。それに、亜煌が彼女の存在を求めていると知れば、亜煌のためにどこまでもその身を尽くすことになるだろう。特定のものに心酔し夢中になった際の柊木は、仮に暴走したとしても亜煌ですら止めることが出来ないのだから。

「香音、あなたに仕事をあげるわ。狗井遥……あの子の住んでる(・・・・)場所を特定してちょうだい。私はまだ、その情報を手に入れることが出来てないの。あの煙草バカが勿体ぶって教えてくれなかったから……」

「ほぉお~!!もちのろんです、お任せ下さい!!亜煌様のためならば喜んで、身辺調査もストーキングも、なんだってやりますよぉ~!!」

 ようやく亜煌の望みを把握した柊木は、すかさず彼女から身を離してひどく嬉しそうにスキップをした。久々に亜煌から明確な仕事を与えられたことで喜びを感じているのだろう。それに、柊木は亜煌からの仕事ならば基本的に何でもそつなくこなせる人間だ。亜煌とは違って人狼ではないものの、孤独の身になりかけている亜煌にとっては十分な戦力になり得る。

 この貴重な存在を逃す訳にはいかない。二度と、同じ過ちを繰り返さないためにも。



 亜煌と柊木はお互いに顔を見合わせると、二人で並んで歩きながらついに路地裏を後にした。腐敗臭に満ちていた空間から外に出た瞬間、新鮮な町中の空気が二人の鼻腔と肺を優しく包み込んだ。

 両者それぞれの心の中で、おぞましく醜い執念が渦巻いていることに、近くを歩く普通の人間たちは誰も気づかなかったのだった。




***




 数日後 とある日の夜―――




 ここは大神町某所にある、平屋建ての孤児院。そこそこの広さを伴うその建物内の一室の中、狗井はいつもの寝巻きに着替えた状態でベッドの上に横になっていた。同じ部屋に住む宇佐美がいないゆえに、相対する位置にあるもうひとつのベッドの上には誰もいない。丁寧にシーツが置かれただけのそれをジッと見つめながら、狗井はため息を吐いてゴロンと寝返りを打った。

 もう夜なのでいい加減寝なければならないのだが、いつもならすでに来ているはずの睡魔が全く来ないのだ。このあいだ久方ぶりに宇佐美と共に過ごしたせいで、日が経つにつれてかえって寂しさが増してしまったのである。なんとも女々しい反応を見せる自分に嫌気が差しつつも、狗井は強引にそれを振り払うように無理やり目を閉じた。宇佐美以外の別のことを考えながら、時間をかけてゆっくりと眠りにつく。そんな狗井の頭上を、護が授けた茜色の蝶々たちが数匹、彼女を守るようにしてフワフワと浮遊していた。

 こうして、また少しばかり時間が経過した頃。

 不意に、建物内の廊下に瑠璃色の淡い光が霧のようにフワッと現れた。それは廊下に足を下ろすや否や、すぐに形を変えて二匹の“狼”へと変化した。お互いに角を生やしており、目を模した模様付きの布を顔に巻いている。狼たちは互いの顔をジッと見つめ合うと、キョロキョロと周りを見渡しながらとある部屋に向けてソロソロと歩き始めた。しかし、両者の歩みは思っていたよりも早くピタッと静止した。目的の場所をすぐに見つけたのだ。周囲に人がいないことを確認しつつ、狼がその部屋の扉をすり抜けて中に侵入する。

 部屋の中には左右対称に置かれたベッドがあり、そのうちのひとつに誰かが眠っていた。肌寒いのかかなり小さく縮こまっており、シーツにくるまっているので顔もよく見えない。だが、狼たちは確信したようにコクコクと頷くと、ベッドで眠る人物の横で隣り合うように座った。そして、二匹が同時にスッと顔を上げた瞬間、彼らの持つ鋭い角が淡い青色の光をボォッと放ち始めた。その直後、目に見えない超音波のような謎の圧が、その部屋の真ん中を中心に孤児院内部全体へと広がっていく。その波はまさに電波の如く何度も周囲に流され、ベッドの上にいる何者かも少し苦しそうにシーツの中で蠢いた。

 しかし、狼たちは最初気づいていなかった。対象となるベッドの上で飛んでいた人物、あらため狗井の真上を十匹以上の蝶々たちが飛んでいたことに。

 周りが暗くて視界が不明瞭だったゆえに気づけなかったのだろう。蝶々たちは超音波が放たれると同時に、狗井を守るように形を変えて狼たちの前に立ちはだかった。そして、一つ目の超音波とぶつかった途端、そのうちの一匹が波に飲まれてピキッとひび割れた。かと思えば、次の瞬間にはハンマーで殴られたように粉々に砕けてしまった。そこでようやく蝶々たちの存在に気づいた狼たちは、流石に驚いたのか一瞬だけビクッとたじろいだ。が、蝶々の破壊が可能だと分かったために、すぐに体勢を直して再び超音波を放ち始めた。その度に蝶々が狗井の周りを守るように飛び回ったが、超音波の圧に巻き込まれて一匹ずつ確実に壊されていった。

 蝶々が壊れるということは、狼たちからの攻撃を受けたために守護の能力が使用された証でもある。だが、(まもる)が操るこの守護の能力は、ご覧の通り永続的なものではない。蝶々が居る限りあらゆる攻撃を防御することができるものの、攻撃の度に効果が消えてしまうし蝶々の数も減ってしまうのだ。ゆえに当初は十匹以上いた蝶々たちも、気づけばほとんどが超音波から狗井を守ったことで完全に消え失せていた。そして、最後の一匹を淡々と葬った瞬間、狼たちの頭から生える角がさらに色の濃い光を放ち始めた。同時に超音波の圧も強くなり、そのせいでポーッという奇妙な音すらも聞こえるようになる。

「……ぅ……くっ……」

 蝶々がいなくなったことで貴重な盾を失った狗井が、仰向けの状態でシーツをギュッと握りしめながら苦しそうにもがく。ここに来て超音波を至近距離からもろに受けてしまったのだ、脳みそなどへの影響は今の時点で少なからず出ていることだろう。次第に呼吸も乱れ始め、寝返りを打った体からも冷や汗がダラダラと流れていた。

 それを見てようやく満足したのか、狼たちは角から光を放つを止めてスッと顔を俯かせた。うなされるようにボソボソとうわ言を呟く狗井を横目に、いそいそと立ち上がった狼たちが再び霧のごとくフワッと姿を消す。



 真夜中の大神町にて、突然現れた謎の狼たちが企てた行為に気づく者は誰もいない。

 奇妙な超音波に晒されていたのは、必ずしも狗井だけではなかった。

 その日は建物内にいた佐倉や子供たちを中心に、超音波の届く範囲にいたほぼ全ての者が、各々悪夢にうなされて苦しんでいたのだから。




***







「……っ……くそ……ちくしょう……!!」

 狗井は走っていた。足元の床と左右の壁以外、ほとんど何も見えない暗闇の中を。

 何故か服装は黒のインナーに白い袖無しのワンピースと、いつもならほとんど着ない実に女の子らしいものだった。スカート類を着る時は常に黒のタイツを履いているはずなのだが、今回はそれすらもない。靴下も履いてないので、床の冷たさが足の裏から直に伝わってきてしまう。しかし、今はそんなことに戸惑っている場合ではなかった。逃げなければならないのだ。聞き慣れた声で四方から紡がれる、呪詛のようなおぞましい言葉の数々から。

―――あんたは私を殺した。見殺しにした……ねぇ、おチビ。あんた、いつになったら気づくの?自分の犯した罪から、いつまで逃げるつもりなの?

「やめろ……やめてくれ、宮葉……」

―――俺は命を懸けて華子を守ろうとしたのに、美味しいところだけ奪って救世主のフリしてたっすよね、狗井パイセン。結局華子は別の男に預けて、自分は宇佐美パイセンを探しに行って……どこまでも自己中なんすね、狗井パイセンって。

「くそ……菊彦まで……!」

―――僕も菊彦と一緒です。僕も、姉さんを……みんなを救いたくて、命を捨てました。でもあの日、あなたは一体何をしたって言うんですか?馬鹿みたいに死にに行った僕のことを、地上で密かに笑ってたんでしょ?

「違う……違うんだ、昇……俺はあの時、お前を、止めたかったんだよ……!!」

 本来ならば聞こえるはずのない幻聴だと分かっていても、言葉の一つ一つに掠れた声で返事をする狗井。逆にそうでもしないと、心が罪悪感などに押し潰されて自我を見失いそうになるからだ。それに、背後からは鬱蒼とした暗闇が静かに迫ってきている。進める道は前にしか無いし、暗闇の進行が止まる気配もなかった。ゆえに、今がどういう状況なのかよく分からずとも、狗井はがむしゃらに走り続けた。先を進めば進むほど、聞こえてくる呪詛じみた言葉の数がますます増えることになっても。

―――そうやって不幸な私たちからは目を背けて、宇佐美くんのことばっかり考えるんだね……宇佐美くんのことが好きな人は、狗井さん以外にもたくさんいるんだよ?それなのに、狗井さんが宇佐美くんの全てを奪い取ってるんだよ。とても悪いことしてるって、思わないの?

―――私、狗井先輩みたいに強くなりたいって思ってたんです。でも、先輩は私の思いを、願いをとことん否定しましたよね……どうしてなんですか?私はただ、狗井先輩に憧れていただけなのに。あの日先輩が私の思いを受け入れてくれたら、私は頭を撃たれなかったし、きぃくんたちも失わなかったかもしれないのに。

「や、めろ……やめて、くれ……もう、聞きたくない……!!」

 最初はもう死んでしまった友の声ばかりだったのが、徐々に幽美や華子と言った存命中の者の声すらもハッキリと聞こえるようになる。いずれにせよ、この奇妙な空間の中では聞こえるはずのない声ばかりだ。しかも、その内容はどれも最終的には狗井を責めるようなものである。まるで狗井に向けて、犯した罪を悔いて改めろと言わんばかりの圧力すらあった。周囲の状況の奇怪さとおぞましい声の数々に、いつもは気丈な狗井の心も流石に追い詰められていた。暗闇と声から逃げるために、途中で耳を塞ぎながら必死に走り続ける。

 その時、不意に道の先に一枚の扉が立っているのが見えた。取っ手などは無く少し古びてはいるが、見た目はごく平凡な作りの扉だ。ここまで来てしまった以上、この扉の奥に進むしかない。狗井はグッと奥歯を噛み締めると、疲労感に満ちた体を叱咤させて一心不乱に駆け抜けた。そして、半ばタックルするような形でその扉を無理やり押してこじ開けた。扉は思っていたよりも素直に開き、勢い余った狗井が足をもつれさせて転んでしまう。同時に扉は、誰も手をつけていないのに盛大な音を立ててバタンと閉じてしまった。

「うわぁっ!?いってぇ……!さっきからなんなんだよ、一体……え?」

 床の上にうつ伏せで倒れた狗井が、よろよろと起き上がりながら独り言を呟く。だが、その言葉はおもむろに顔を上げた瞬間ピタッと途絶えてしまった。というのも、狗井の目の前にある壁にもたれながら、これまたいるはずの無い人物が力無く項垂れていたからだ。色々な意味で汗が止まらない狗井の口から、目の前にいる彼の名前が自然とこぼれ落ちる。

「……うさ、ぎ……?」

 青年、宇佐美は何も答えない。疲れているのか終始顔を俯かせており、狗井の存在に気づいている様子もない。何故ここに彼がいるのかは分からないが、知人と出逢えたことで少しだけ安堵した狗井はすかさず彼の元に駆け寄った。懸命に彼の肩を揺さぶりながら、焦燥感に満ちた声音で狗井が宇佐美に何度も声をかける。

「ウサギ、おいウサギ!!お前、こんなところで何やってんだよ!?お前もこの変な空間に迷い込んだのか?俺もさっき、暗闇から逃げてきたところで……な、なぁ、頼むからなんか言えよ!いや、それより早くここから離れるぞ!こんなところに居続けたら、マジで気が狂っちまうから……!!」

「…………」

 狗井がどれだけ彼の肩を揺さぶろうとも、宇佐美は返事ひとつすらせずに無言を貫いた。気を失っているのだろうか。周りがやけに暗いのもあって、何度覗き込んでも宇佐美の顔がよく見えない。次第に強い不安を覚えた狗井が、脈があるかどうか確認するために彼の首元にそっと手を添える。

 しかし、その時、それまで微動だにしなかった宇佐美の両手が突然バッと上にあがった。そして、ギョッと目を丸くした狗井の首をグッと掴んだ。そのまま狗井の息の根を止める勢いで、宇佐美の両手が彼女の首を力強く絞め上げる。

「っ!?うさ、ぎっ……なに、して……ぅ、ぐっ……!!」

「……ハル……どうして、俺の傍を離れたんだ?」

 両手が動いてもなお俯き続けていた宇佐美の口から、不意にそんな言葉がこぼれ落ちた。しかし、首を絞められていたせいでそれを上手く聞き取れなかった狗井が、ひどく困惑した様子で眉をひそめる。

 すると、宇佐美はついに顔を上げて狗井のそれにグイッと近づけた。彼の目は何故か白目ごとくり抜かれており、空っぽになった瞳孔付近からダラダラと赤い血が流れていた。純粋な恐怖でヒュッと息を飲んだ狗井に対し、両目を失った宇佐美が低く唸るような声で続けて言葉を連ねた。

「お前は、今までずっと、俺の傍に居てくれたじゃないか。いつでも俺を守ってくれたし、俺のことを頼ってくれただろ?夜鶴さんのところで過ごしたあの日だって、離れる必要は決してなかったはずなのに……どうして、佐倉さんの方を選んだんだ?お前は俺の全てを受け止めてくれるんだろ?心の底から信じているのも、俺しかいないんだろ?今さら、俺のことを裏切るつもりか?捨てるつもなのか?唯一無二の、お前の味方である俺を。」

「……ぁ……」

 実際の宇佐美ならば、そんな恨みがましい口調で、そんな嫉妬と独占欲に満ちた言葉を言うはずがない。頭の片隅ではそう思いつつも、宇佐美から漂う不気味な雰囲気に飲まれた狗井の心は完全に追い込まれていた。首を絞められているのもあるが、それ以前に返すべき言葉が思い浮かばない。今の狗井には、ひたすら怯えるように、カタカタと体を震わせることしか出来なかった。

 そうこうするうちに狗井の体は床の上に押し付けられ、宇佐美が彼女の上に馬乗りになった。それに応じて首を絞める手にも力がこめられ、目を見開いた狗井が必死に彼の手を離そうともがく。

「っ……!!や、めて、ウサギ……おねが……!!」

―――お前は俺を見捨てようとした。お前は大切な家族だと、俺に言ってくれたのに。都合が悪くなると、すぐに捨てるのか。たとえ相手が俺だろうと。

―――本当、どこまでも愚かで恥知らずなのね、おチビって。見損なったわ。

―――私、先輩のこと、ずっと信じてたのに……宇佐美先輩のことも捨てちゃうんですか?あの時の私と同じように。

「ぁ……あぁ……!!」

 恐ろしいほどの暗闇が、おぞましいほどの呪詛の声が、四方八方からじわじわと迫ってくる。そのどれもが、狗井の持つ視覚と聴覚をこれでもかと刺激してくる。物理的にも精神的にも、上手く呼吸ができなくなってしまった。徐々に視界も朧気になり、狗井は恐怖で唇を震わせながら目に熱い涙を浮かべた。

 違う、違う。見捨てるつもりなんて無い。みんな大切な友達なんだ、裏切るつもりも毛頭ない。

 そう言いたくても、首を絞められているせいか、そもそも言葉自体を発することが出来ない。代わりにポロポロとこぼれ落ちるのは、目元から流れ落ちる恐怖と罪悪感に満ちた涙だけだった。口を金魚のようにパクパクと動かす狗井の周りで、後に無数の声は何度も何度も同じ言葉を繰り返し始めた。

―――なぁ、謝れよ、ハル。俺を裏切ろうとしたことを。宮葉と菊彦、そして昇を見捨てたことを。謝りたいと思ってるなら、さっさと謝れよ。

―――そうだよ、謝った方がいいよ、狗井さん。その方がずっと、楽になれるよ。

―――お願いです、狗井先輩。謝ってください。菊彦と、華子のためにも。

―――謝れ。

―――謝れ。

―――謝れ。

―――謝れ。

―――謝れ。

                  ―――遥ちゃん。

「……!さ、くら、さ……」

 不意に聞こえてきたまた新たな声に対し、ハッと目を丸くした狗井がビクッと体を震わせる。慌てて目線を横に動かすと、少し離れた場所に淡い白色の光があるのが見えた。どうやら、彼女の声はそこから聞こえてきているようだ。この終わりなき悪夢から逃げたい一心で、狗井は自身の手をその光に向けて必死に伸ばした。首を絞められているし宇佐美が体の上にいるので、身動きの取れない狗井の手では光に触れることすらままならなかった。それでも、狗井はその光が悪夢から抜け出す鍵になると信じて手を伸ばし続けた。

 徐々にあの呪詛の声たちも消え始め、代わりにこちらの名を呼びかける彼女の声が大きくなる。同時に狗井の視界も、眩しいほど白く光り始めた―――










「遥ちゃん!!!」

「っ!!は、ぁ……!!」

 一際大きく彼女の、佐倉の声が狗井の耳を容赦なくつんざく。そのおかげでようやく我に返った狗井は、途切れかけていた息を吹き返してゲホゲホと盛大に咳き込んだ。首の周りが何故かジンジンと鈍く痛む。恐る恐る周囲を見渡せば、そこはいつもの見慣れた寝室の中だった。開かれた部屋の扉の外が明るくて眩しい。いつの間にか朝になっていたようだ。そして佐倉は、ベッドから床の上に落ちていた自分を起こそうとしていたらしい。最初こそ焦りを見せていた佐倉も、狗井が目覚めたと分かった瞬間ホッと安堵の息を吐いていた。

 しばらくして咳が鎮まり心も落ち着いた狗井が、佐倉に肩を支えられながらシーツをギュッと握ってボソボソと呟く。

「さ、佐倉さん……俺、なんか、不気味な夢を見てて……マジで、死ぬかと思ったんだ。起こしてくれて、ありがとう。」

「そうだったのね……私が来た時には、あなたが床の上でうなされていたからビックリしちゃったわ。それに、寝ていたのに自分で自分の首を絞めていたもの。あまりにも力が強すぎて、私一人じゃ離すのも少し大変だったわ。」

「……え?俺が、首を……?」

 佐倉から放たれた『自分で自分の首を絞めていた』発言に驚いた狗井は、すかさずギョッと目を丸くしつつ慌てて首元に手を添えた。たしかに、誰かの指が皮膚に食いこんだ跡らしきものが残っている。だが、その跡の大きさから察するに明らかに佐倉などがやったものではない。彼女の言う通り、自分が無意識のうちに自分の手で首を絞めようとしたのだ。あの悪夢の中では宇佐美に首を掴まれていたのだが、夢と現実とがごちゃ混ぜになって判別が付けれなくなっていたらしい。

 もし佐倉があの時、必死に声をかけて止めてくれなかったら。最悪の末路を予想した狗井が、思わずシーツを固く握りしめながらゾッと背筋を震わせる。

「何はともあれ、遥ちゃんが目を覚まして本当に安心したわ。とりあえず立てるかしら?朝ごはんがもう出来てるわよ……顔色も悪いから、今日はもう学校を休んだ方が良さそうね。先生たちと真央さんには私が連絡しておくわ。」

「お、おう……ありがとう、佐倉さん。」

 佐倉がテキパキとシーツを片付けつつ、腰が抜けて立てない狗井の手をそっと握りしめる。嘘偽りのないその手の温もりで安心した狗井も、ホッと息を吐きながら佐倉の手を借りてようやく立ち上がった。全身から溢れた冷や汗に不快感を覚えつつ、着慣れたパジャマの裾を握りながら佐倉と共に部屋を後にする。

 しかし、部屋の扉をパタンと閉めた瞬間、佐倉は心做しか青ざめた顔でゴクリと唾を飲み込みながら独り言を呟いた。

「えぇ、大丈夫よ……本当に、大丈夫だから……」

「?佐倉さん……?」

 怪訝そうな表情を浮かべた狗井が、ひどく心配するような眼差しで佐倉の横顔を見上げる。自身を救ってくれた佐倉の顔色も、こちらと同じぐらい、下手すると狗井以上に悪かったのだ。しかし、佐倉はすぐにニコッと微笑みながら『大丈夫』と言うように首を振った。多少の不安感は拭えずとも、佐倉に肩を支えられた狗井が大人しく廊下を歩いてリビングへと向かう。



 透明なステンドグラスで作られた窓の外から、朝特有の柔らかな日差しが煌々と差し込んでくる。しかし、その暖かくも眩しい光が佐倉の目に届くことは無い。

 佐倉の視界の周りでは、薄暗く鬱蒼としたモヤのような何かが、頻繁にその存在を主張し続けていたのだから。まるで、彼女に対してのみ、恨みに満ちた何かを訴えかけるように。




***




 数時間後

 孤児院敷地内 古びた教会の中―――




「……はぁ……」

 朝食を終え、少しだけ孤児院の子供たちと遊んだ後のこと。

 沈んだ気分がなかなか拭えなかった狗井は、気分転換も兼ねて建物の裏にある教会の中で休んでいた。佐倉は現在買い物に出かけており、子供たちはみなリビングに集まって遊んでいる。本当は彼らの面倒を見なければならないのだが、狗井の顔色が悪いことに目ざとく気づいた子供たちが彼女のために気を遣ったのだ。佐倉の丁寧な世話や指導のおかげで、全員が年齢のわりには融通が効く良い子たちである。最初こそ断ろうとしていた狗井も、結局彼らの純粋な優しさに大人しく甘えることにしたのだった。

 佐倉の両親はどちらも宗教家であり、今住んでる孤児院も元はその信者たちが寝泊まりするための建物だった。のちに孤児院として大幅に改築されたものの、この教会は特に壊されたりすることなく、ずっと裏庭に残されているのだ。教会自体は煉瓦で造られた孤児院と異なり、全体的に石とコンクリートだけで構築されていた。経年劣化によるひび割れなどは一部あるものの、佐倉が常に手入れをしているお陰で目立つ埃などは見当たらない。カラフルな色合いのステンドグラスからは太陽の光が差し込み、広々とした教会の中を優しく照らしていた。ほかの窓にも厚めのガラスが埋め込まれているが、扉は無いのでいつでも出入りが自由である。しかも中には礼拝用の長椅子が規則正しく置かれており、狗井もそのうちのひとつに深く腰掛けていた。火の消えた蝋燭と錆びた燭台が飾られた、少し大きな祭壇のすぐ目の前にある長椅子だ。狗井は幼い頃からこの場所がお気に入りだった。時間帯にもよるが、ほぼ常に陽の光が十分に差し込むし、何より教会自体が庭の奥にあるのでとても静かなのだ。物思いに耽ったり無心になりたい時には、必ずと言っていいほどここに来ていた。今日も今日とて優れない気分を少しでも変えようと、椅子に深くもたれた狗井が何度もため息を繰り返す。

 だが、一人になった途端に脳裏に蘇るのは、今朝方見たあの悪夢のことばかりだった。それを忘れたいがためにここに来たというのに。全身に鳥肌が立ってしまうものの、それを鎮めようと狗井がひたすら両腕をさする。

 この間まで見ていたものよりも、さらにおぞましく非現実的な悪夢。混沌の日に死んでいった者だけでなく、今でも生きている友たちですら、こちらを恨むような声でこちらを責めるような言葉ばかりを紡いできた。犯した罪を認めろだの、とにかく謝れだのと、どれもこれも威圧的でひたすら不気味なものばかりだった。

 なぜ今になって、あんな悪夢を見るようになったのだろうか。つい昨日までは、たしかにいわゆる悪夢こそ見てはいたものの、その内容は今回のよりもまだ優しい方だった。元より登場する人物が少なかったからこそ、よりそう思えるのだろう。だが、今回の悪夢に出てきたのは一人だけじゃない。なんなら狗井にとっての知り合いがほぼ余すことなく登場していた。居ない者も無論いたと思うが、その理由は不明だ。何にせよ、またあの悪夢を見ることになったら、また気付かぬうちに自分の首を絞めたりしてしまうかもしれない。その場合だと、今度こそ無事では済まない可能性すらあった。自分でも気づかないうちに、迷いなく自分を殺そうとしていたのだから。

 現実と虚構の区別がつかなくなった時、人は本当の意味で心が壊れて狂ってしまう。そんな考えを根底に宿していた狗井は、絶対そうならないようにしなければと、意思を固めるように己の頬を軽く叩いた。今の服装はいつものパーカーに短パン、黒タイツにローファーと全て着慣れたものばかりだ。遠出する予定は無いので、お気に入りのキャスケットは部屋に置いてきた。髪は佐倉によっていつものように二つに結ばれている。

 後味の悪い恐ろしい夢は見たが、結局現実(こちら)はいつも通りだ。宇佐美が傍に居ないのが少しだけ寂しいが致し方ない。ようやく心が落ち着きを取り戻した狗井は、綺麗に整えられた祭壇をボーッと見つめながら少し眠たそうに大きな欠伸をした。あの悪夢のせいで結局まともに寝ることが出来なかったのである。あとでまた昼寝でもしようかと、呑気なことを考えながら狗井がどっこいしょと頬杖をつく。

 すると、不意に(ひら)けた外の出入口から、白くて小さな鳥が数羽ほど中に飛び込んできた。鳩にしては小ぶりだし、雀のような色合いでもない。名も無き小鳥たちはそのまま、背の高い女神像が飾られた祭壇付近に止まって羽根を休めた。こうやって鳥が何羽もこの教会の中に入ってくるのは、別段珍しいことでもない。裏庭全体が多くの木々で囲まれているし、扉も無いので鳥だって出入りが自由にできる。小鳥たちは決して人懐っこい訳では無いが、特にこちらを警戒する様子もなかった。常に止まりたい場所に止まって、翼を休めたりピィピィと鳴いたりするだけだった。狗井がチラッとそちらを一瞥すると、その視線に気づいた小鳥たちはピィと可愛らしい鳴き声をあげて首を傾げた。小さいゆえの愛くるしさを前に、狗井が思わずフフッと声を上げて微笑む。


 だが、そんな微笑ましい時間も、いつかは必ず終わりを迎えるものだ。しかも、予期せぬタイミングで、尚且つ唐突に。


 不意にカツンと音がした。固い物が落ちた、と言うよりは、それで地面を踏みつけたような音だった。途端に小鳥たちもギョッと体を震わせて、慌てて出入口の方に向けて飛び去ってしまった。佐倉でも来たのかと、祭壇の方に顔を向けていた狗井が何気なく後ろを振り返る。しかし、そんな彼女の体は出入口付近に立つ人物の姿を前に、本能的にギクリと強ばった。

「お久しぶりねぇ、可愛子ちゃん……今日も相変わらず可愛い顔をしてるわね。気持ちいいお薬で虐めたくなっちゃうぐらいに。」

「……だれ、だ?お前……」

 見覚えがないはずなのに、なんだか既視感のある謎の女。煤竹色の長い髪を片方の肩にまとめて流しており、胸元が大きく開いた灰色のニットワンピースを着ている。顔や足の一部に小さな絆創膏などが貼られているが、女の立ち姿は堂々としていて迷いなどが少しも無かった。どうやってここに来たのだろうか。建物の外にある門は、佐倉が出かけた際にちゃんと鍵をかけていたはずである。ピッキングなどでこじ開けたとでも言うのだろうか。なぜか無意識のうちに背筋がゾッと震えたものの、狗井は意を決して椅子から飛び降り彼女と相対するように立ち上がった。そんな狗井の元に近づくようにゆっくりと歩きながら、女―――真宵坂亜煌(まよいざかあきら)は妖艶な笑みを浮かべて彼女に言った。

「あらぁ?可愛子ちゃんったら、私のこと忘れちゃったの?あなたを懇切丁寧にお世話したことも。あなたがトロトロに、甘ぁく蕩けるまで愛してあげたことも。」

「はぁ?お前、さっきから何言って……」

 亜煌の口から放たれる謎の言葉の数々に、状況が飲み込めない狗井が怪訝そうな表情で眉をしかめた。苦虫を噛み潰したような不快感が露骨に顔に出ている。しかし、亜煌を睨みつけていたその赤い瞳は途中で唐突にグラリと揺らいだ。同時に頭の奥がズキッと激しく痛み、それに耐えかねた狗井が慌てて頭を押える。

 なんだろう。思い出してはいけないことを、思い出してしまいそうな気がする。

「まぁ覚えてないのも無理は無いかもしれないわね。あの日はあなたを可愛くするために、気持ちよくなる薬をあなたの体にたっぷりあげたもの。もう頭の中で気持ちいいことしか考えられなくなるぐらいにねぇ。」

「だ、まれ……それ以上、喋るな。こっちに、来るな……!!」

 すぐに嫌な予感を察した狗井が、亜煌の前で静止するように呼び止めながら必死にそう呟く。だか、亜煌は一切足を止めることなく狗井の元に近づき続けた。狗井も反射的に後ずさりしたものの、すぐ背後には祭壇があるのでその歩みも途中で止まってしまった。相変わらず頭の奥が痛いし、脳内ではノイズを奏でながら不鮮明な映像が断片的に流れている。その一部に、今目の前にいる亜煌の姿を微かに映しながら。

「やぁねぇ、そんなに怖がらなくてもいいのよ?あの日のことを忘れちゃったって言うんなら、お姉さんがまた丁寧にお世話してあげるから。あなたが素直になるまで、甘く熟れた果実になるまで、じっくり丁寧に……」

「さっきから、なに変なことばっか言ってんだよ、くそ野郎が!!俺は、お前のこと、少しも知らねぇってんだよ……!!」

「あらあら。それはつまり、記憶が全部ぶっ飛んじゃうぐらい気持ちよかったってことかしら?でもその様子だと、私に火傷とかの怪我をさせたことも覚えてないみたいね……流石にそれはいけないわ。悪いことをした子には、ちゃあんとお仕置をしなきゃいけないもの。」

「……は?あんたを、火傷させた……?」

 不意に紡がれたそんな言葉を前に、必死に亜煌から逃げようとしていた狗井がビクッと体を震わせる。自分にとっては初対面であるはずの相手が、こちらのせいで怪我をしたと言ってきたのだ。どういう経緯でそうなったのかが全く分からず、狗井の頭の中はさらなる混乱状態へと陥ってしまった。

 だが、狗井の中で亜煌に関する心当たりがほとんど無いのも無理はない。なぜなら、亜煌の手でとある建物に監禁された時の記憶は、他でもない佐倉によって全て“奪われて”いるのだから。

 奪われた記憶を取り返せない以上、今の狗井が亜煌のことを完全に思い出すのは至難の業だった。とはいえ体に残っていた本能的な記憶はかろうじて存在していたらしく、戸惑い続ける彼女の脳みそに向けて、先ほどから『逃げろ』とか『この女は危険だ』などと訴え続けていた。しかし、あいにくこの教会から外に出れる場所は、亜煌が立っている場所の後ろにある出入口だけである。あとは無理やり窓を突き破って出るしかない。思い切って一か八かの手段を取ろうと狗井が移動しかけたその時、亜煌はハイヒールの踵で地面を強く踏みつけながら冷たい眼差しで彼女の顔を睨みつつ言った。

「言っておくけど、せっかく私から来てあげたんだから、変に逃げたりしちゃあ駄目よ?あなたがそのつもりだって言うんなら、私だって容赦しないんだから……こんなふうにね。」

 一転してニヤリと不敵な笑みを浮かべた亜煌の右手が、すぐ近くにあった長椅子のひとつに触れる。本当に何気なく、背もたれの不文を掴んだだけだ。その手の指に嵌められた複数の指輪が、窓から差し込む光を受けて鈍くギラリと光った。

 しかし、その直後のことだった、

 亜煌の触った長椅子が、まさに風船の如くムクムクと膨らみ始めたのだ。狗井が呆気に取られて思わず黙り込む最中にも、長椅子はどんどん膨らみ続け、ついには近くにあったほかの椅子たちすらも押しのけるほどの大きさになった。すると、流石に限界を迎えたのか、膨張した長椅子は数秒足らずで一気に破裂した。軽快なおもちゃのラッパの音が鳴り響くと同時に、ラメの入った薄い黒色の細かい紙切れがバラバラと散らばる。破裂時の音とそこそこの風圧に驚いた狗井は、反射的に顔を両腕で覆いながら防御した。

 だが、そのせいで狗井は亜煌が駆け足でこちらに向かってくるのに、すぐに気づくことが出来なかった。気配に気づいてハッと目を見開いた時には、離れた場所にいた亜煌も、狗井の目と鼻の先にまで接近していた。亜煌はそのまま、間髪入れずに狗井の首を掴んで背後の祭壇に力強く押し付けた。油断していた狗井の背中が台の上に倒され、首への圧迫感と微かな痛みに耐えかねた狗井が眉をしかめる。

「い゛、でっ……!!」

「うふふ。やっと捕まえたわ……大丈夫よ、可愛子ちゃん。大人しくしてくれたら、さっきの椅子みたいに、あなたの頭を破裂させたりとかはしないから。」

「は、あぁ!?冗談、じゃねぇ……離せよ、この……!!」

 やけに上機嫌な様子の亜煌から放たれた不穏な言葉に、狗井が青ざめた顔で彼女を見上げながらチッと舌打ちをする。亜煌の手から逃れようともがいているのだが、予想以上に強い力で首を押さえられているので上手く動けないのだ。さらに亜煌が体を祭壇に押し付けるせいで、いつの間にか両足すらも地面から浮いてしまった。自身の背の低さを内心で呪いつつ、亜煌から離れるために彼女の太ももやふくらはぎを何度も蹴り上げる。しかし、亜煌は痛みに顔をしかめながらも、決して狗井の首から手を離そうとはしなかった。その手の指に嵌められた指輪がどれも厚みがあるゆえに、狗井の柔らかな皮膚にそれらが容赦なく食い込む。

「ぁが、はっ……!手、離せ、ってば……!!」

「駄目よ、可愛子ちゃん。私の言うことをよぉく聞いてちょうだい……こんな寂れた廃屋の中なんかにいないで、今から私と一緒に来なさい。またあの時みたいに、とことん可愛くしてあげるから。」

 それまでずっと首を絞めていた亜煌の左手が、不意にそこから離れて狗井の頬を艶めかしく撫でる。その瞬間、狗井はビクッと体を震わせてギクリと肩を強ばらせた。目の前にいるのが大人とはいえ、狗井ほど戦い慣れた者ならば余裕で押し飛ばせるはずである。それなのに、彼女の体は氷漬けにされたかのように動かなくなり、亜煌に対してひどく怯えるようにビクビクと震え続けた。早く、早く抵抗しなければ。慌ててそう指示を出す脳みそをしりめに、狗井の体は変わらずカチコチに固まったまま亜煌からの妖艶な愛撫を耐え忍んでいた。狗井の見せた反応から、少し何かを勘違いした様子で亜煌がニコニコと笑いながら言葉を紡ぐ。

「あぁ、心配しないで!美味しいご飯もちゃんとあげるし、あなたに似合いそうなお洋服だってたくさん繕ってあげるわ。あなたのために、広くて快適なお部屋も用意してるの。ここにいるよりはずっといい暮らしを、可愛いあなたに提供してあげるわ……ねぇ、悪くない話でしょ?」

「ふ、ふざけんな……!俺は、どこにも行かねぇぞ。この孤児院が、俺の家だ……見ず知らずのお前なんかに、ついて行く訳、ねぇだろうが……!!」

 喉から無理やり絞り出すような声を震わせながら、ギリッと歯を食いしばった狗井が必死にそう反論した。なかなか言うことを聞かない体に悩まされながらも、亜煌から逃れたい一心で祭壇の上に座りながらもがく。しかし、亜煌は途端に目をスッと細めると、おもろに狗井の胸ぐらを掴んで自身の方にグイッと引き寄せた。怒りと余裕の無さに満ちた東雲色の瞳と視線がかち合い、思わずヒュッと息を飲んだ狗井の全身にゾワッと鳥肌が立つ。

「私の顔と体に傷をつけておいて、よくそんなことが言えるわね……そもそも、あなたに拒否権なんてものはないのよ。いいから、大人しく私についてきなさい。それで全てが丸く収まるの。あなたも死なずに済むのよ、殺されずに済むのよ?分かってるの?」

「……ぅ……ぁ……」

 光の無い冷たい目が、至近距離に見える狗井のそれを真っ直ぐ覗き込む。狗井を一方的に責め立てるようなその目は、今朝方見た悪夢の光景を否応なしに思い出させた。狗井の頭の中が真っ白になり、上手く言葉が紡げなくなってしまう。抵抗する気力すらも失われてしまい、狗井は口をハクハクとさせながらひどく掠れた呼吸を繰り返した。

 それまでおざなりになっていた亜煌の右手が、ゆっくりと狗井の顔に近づく。嫌な予感がした。なのに体は動かない、動かせない。頭の中だけが感じたこともないほどの凄まじいパニックに陥っていた。

 しかし、その時、狗井が思わず後ろに下がろうとしたことで祭壇の上に飾られていた燭台と彼女の背中とがガタンとぶつかった。それによって燭台が設置されていた蝋燭ごと倒れてしまうが、その音でようやく我に返った狗井が拳をグッと固く握りしめる。

「っいい加減に……しやがれっ!!!」

「!!!」

 狗井が怒りに任せてそう叫んだ瞬間、亜煌の目の前が赤と橙色の鮮やかな光に包み込まれた。いや、光にしてはひどく熱いし轟々と音も鳴り響いている。遅ればせながら光の正体が炎であると気づいた途端、亜煌はギョッと目を丸くしつつ慌てて手を離した。狗井の周りで燃え盛る炎に巻き込まれぬよう、半ばふらつきつつも彼女から一定以上の距離をあける。狗井の放った炎は勢いが凄まじかったせいで、木製の祭壇を丸ごと一気に燃やしてしまった。が、狗井はすぐにそこから下りて亜煌と対峙するようによろよろと立ち上がった。恐怖で危うく歪みかけていた狗井の真っ赤な瞳が、戸惑いと苛立ちを隠しきれていない亜煌の顔をギロッと睨みつける。

「あぁ……そうよ。その火よ、その炎よ!!あなたのそれが、私の全てを燃やして消し炭にしたんだわ!!あぁ、とても可愛いのになんて罪深い子なの!!可愛子ちゃんじゃなかったら、とっくの昔に殺していたっていうのに!!!」

「うるせぇ、黙れ!!このクソ野郎が……俺の前から、とっとと消えやがれってんだよ!!」

 ストレスが頂点に達した狗井は、先ほどとは別の意味で我を忘れた状態になりながらそう叫んだ。狗井の周りで真っ赤な炎が轟々と燃え盛り、亜煌を牽制するようにわずかにだがザワザワと蠢く。炎に包まれた祭壇は燭台ごと燃やされ、元から古びていたせいですぐにガタンと音を立てて崩れ落ちた。危うく木製の長椅子にまで引火しそうになっているが、今の狗井にそんな細かいことを考える余裕は微塵もなかった。流石の亜煌も、怒りの感情に支配された狗井を前に手の出しようが無かった。こちらは触れるだけで能力が発動するとはいえ、熱く燃え盛る炎に触れたらこっちが先に怪我をしてしまう。一転して苛立たしげに眉をしかめながら、亜煌はどこか悔しそうにチッと舌打ちをした。

 するとその時、不意に教会の出入口付近から、焦りに満ちた“彼女”の声が聞こえてきた。

「……!!遥ちゃん!!」

「あっ……佐倉、さん……!?」

 買い物に出かけていたはずの佐倉の声が耳に届き、狗井が出していた炎の勢いが一気に半減する。帰ってきた際に教会で起きた異変に気づいてここに来たのだろう。だが、無我夢中だったとはいえ、自分は佐倉が日々丁寧に手入れをしていた祭壇を燃やしてしまった。それに対する罪悪感を覚えた狗井が本能的に一筋の冷や汗を垂らす。そんな中、自身の後ろを振り返った亜煌はハッと鼻で笑いながら佐倉に向けて言った。

「あら、あなたがあの建物を管理してる人かしら?思っていたより美人さんねぇ……でも、ごめんなさい。私、年増の御婆様に興味は無いの。」

「……家の前の門が、ちゃんと鍵をかけていたのに、跡形もなく壊されていたわ。残っていたのは、細かい無数の紙切れだけだったけど……あなたの仕業だったのね。」

 元々長椅子があった場所に散らばった紙切れを一瞥しながら、佐倉がそう呟いて狗井たちの元に近づいた。どうやら長椅子に向けてしたのと同じように、亜煌は大胆にも門を破裂させて中に侵入したようだ。とはいえ孤児院の中にいる子供たちにも、あの特徴的な破裂音は少なからず聞こえたはずである。外に出た子などは居ないのかと狗井が内心不安を覚える中、佐倉は悠然と立つ亜煌と距離を詰めながら彼女に向けて続けて言った。

「中にいた子供たちも、外から変な音が聞こえてきたって言ってひどく怯えていたわ。それなのに、わざわざこの教会まで来て……遥ちゃん相手に何をするつもりだったんですか?」

「あなたも彼女と同じような質問をするのね……決まってるじゃない。この可愛子ちゃんを連れていくのよ、私の家に。まぁ、今は行儀の悪い駄目な子になっちゃってるんだけど、別に構わないわ。私がこの手で教育し直してあげるもの。あなたなんかには絶対に出来ない方法でね。」

 亜煌が相変わらず悠々と答えながら、脅しをかけるように右手を突き出してグッと拳を握りしめる。その手の指に嵌められた、狼を模した指輪が窓からの光を反射して再びギラリと瞬いた。

 思えば孤児院の子供たちには、佐倉などの保護者が近くにいない時に不用意に外に出てはいけないという決まりが課せられていた。佐倉の言葉からも、外に出た子供は一人もいないようだ。そのことを知ってホッとする反面、己の身を顧みずにまっすぐ近づいてくる佐倉を、危険な目に遭わせたくないという思いも狗井の中で湧き上がってくる。しかし、佐倉は決して足を止めることなく、亜煌の言葉を受けてスッと目を細めながら恨めしそうな口調でポツリと呟いた。

「……あぁ……あなたが、あの事件の時に、遥ちゃんを追い詰めた犯人なのね……」

「あら、私のこと知ってたの?少し意外だわ。でも、その様子だと詳しくは知らないみたいねぇ……せっかくだし、私のことをほんのちょっとだけ教えてあげましょうか?お近づきの印も兼ねて―――」

 亜煌がどこまでも余裕に満ちた声音で佐倉を嘲笑うかのように言葉を紡ぐ。しかし、佐倉はそれを遮るように、亜煌のそれよりも低いヒールの靴でガンッと地面を強く踏みつけた。彼女の萩色の目が、亜煌たちの姿を鋭く睨みつける。

 これは完全に怒っている。普段はなかなか見ることの出来ない、佐倉なりの本気の怒りだ。亜煌が狗井を監禁した例の事件の犯人だと知って激怒しているのだろう。狗井は思わず反射的にビクッと体を震わせたが、炎による微かな煙と灰とが舞い上がる空間の中で、亜煌は無言でニヤニヤと不敵な笑みを浮かべ続けた。祭壇を燃やした狗井を特に責めることなく、目の前に居座る敵にのみ集中しながら佐倉が淡々と言葉を言い放つ。

「いいえ、結構です。今すぐお引き取りください。そしてこれ以上、遥ちゃんに関わらないでください。その子にはその子なりの生活というものがあります。赤の他人のあなたが、わざわざ介入する必要は全くありません。」

「赤の他人だなんて、ひどいこと言うじゃない……あなただって、元を辿れば他人なんでしょ?」

 亜煌が肩を竦めながらそう呟き、いつの間にかすぐ近くにまで来ていた佐倉を前にため息を吐く。その言葉の意味がよく分からず、それまで警戒気味に身構えていた佐倉はすかさず怪訝そうに眉をひそめた。

 だが、出入口に背を向けていた佐倉とは異なり、亜煌の後ろで立ち尽くしていた狗井はすぐに気づくことが出来た。

 扉などのない開けた教会の出入口から、誰かが忍び寄っていたことに。そしてその人物が、手に金属バットらしき凶器を持っていたことに。

「!!!佐倉さん、後ろ―――」

「え……っ!!」

 それまで亜煌にばかり意識を向けていた佐倉が、狗井の声につられてすかさず自身の背後を振り返ろうとする。しかし、こっそり侵入してきた何者かがバットを振りかぶる方が、それよりもずっと早かった。

 ゴッという鈍い音と共に、頭を横から殴られた佐倉が声にならない悲鳴をあげて軽く吹き飛ぶ。佐倉はそのまま近くの長椅子に向かって倒れてしまい、炎の音をかき消さん勢いでガタガタとけたたましい騒音が鳴り響いた。呆然と目を見開く狗井がヒュッと息を飲む中、佐倉を金属バットで殴り飛ばした張本人が愉悦に満ちた声でひどく楽しそうに呟く。

「あっは♡ごめんなさ~い、亜煌様と同じぐらい素敵な奥様ぁ~!近くの木の陰に隠れて、こっそりやり過ごしてたんですよぉ~!でも、これも全ては亜煌様のためなんです!だから、あまり悪く思わないでくださいねぇ?」

「お、お前……佐倉さんに、なんてことを……!!」

 何者かの正体が分からずとも、佐倉に危害を加えられたことで狗井の心の中に再び強い怒りが湧き上がる。だが、バットを後ろ手に持ち直した人物はクスクスと笑いながら、クルクルと巻かれた長いツインテールの髪の毛を揺らしつつ狗井に言った。

「お久しぶりですぅ、可愛らしいお客様ぁ!あ、でもあの日のことは全部忘れてるんでしたっけ?なら実質、今回が初めましてですね!私、柊木香音(ひいらぎかのん)って言います~!昔は客引きやってましたけどぉ、今は亜煌様の(つか)え人を担当してるんですよぉ。改めて、よろしくお願いしま~す!」

「香音、いちいち名乗らなくてもいいわよ。名前なんて知らなくても、普通に生きていけるもの。鳥籠の中にいればね。」

 その場に倒れた佐倉の髪を無造作に掴みながら、彼女を外に引きずり出した亜煌も柊木と同じようにクスクスと笑う。最初からやけに余裕綽々な雰囲気を放っていたが、別の場所に待機していた柊木という切り札を隠し持っていたからだろう。諸々の侵入に気づけなかった自身を内心呪いつつ、狗井は佐倉だけでも助けねばと思い、亜煌たちに向けて足を踏み出した。だが、それを遮るように亜煌が佐倉の髪を掴んだまま、彼女の体を前に突き出しつつ狗井に言った。

「時間はあまりないわ、可愛子ちゃん。そろそろ選びなさい……私たちと一緒に来るか、それとも来ないか。でもね、さっきも言ったけど、結局あなたに拒否権なんてものはないの。どうしても嫌だって言うものなら、この女をさっきの椅子みたいに破裂させて殺すだけだから。」

「!!?ま、待ってくれ!!佐倉さんには手を出すな!!」

 破裂させて殺す。その言葉に嘘偽りが無いとすぐに悟った狗井が、まとわせていた炎の勢いを弱めつつピタッと足を止めた。亜煌たちの本来の目的は狗井一人のはずである。それなのに、自身を助けに来てくれた彼女まで巻き込むわけにはいかなかった。相変わらず佐倉が目を覚ます気配はない。よほど強く殴られたのだろう。心優しい彼女のことだ、もしいま意識があれば、狗井が亜煌側に従うのを必死に止めてきたに違いない。一転攻勢で佐倉を人質に取られてしまった狗井が、ひどく悔しそうにギリッと歯を食いしばる。そんな両者の傍らで、柊木は呑気に佐倉の頬を撫でながら狗井に向けて言った。

「この美しい奥様、あなたにとってもすっごく大切なお方なんですよね?私、この日のために色々と調べたから、実はあなたのことなら何でも知ってるんですよね~!狗井様、あなたにとってこの方は、血は繋がってなくても実の母親のような存在なんですよねぇ……そんな方の貴重な命を、こんなところであっさりと見捨てるつもりですかぁ~?」

「……!!そんな、わけ……」

 こちらの不安をとことん煽るような柊木の言葉を前に、怒りの色が滲んでいた狗井の表情も強い緊張でギクリと強ばってしまう。柊木の手には、見るからに硬そうな金属バットがまだ握られているのだ。今の佐倉は亜煌によって髪を掴まれているし、仮に起きて動けたとしても、またすぐに柊木によって殴られてしまうのがオチである。本当は一思いに両者を殴り飛ばしたいところだったが、佐倉が人質となっている以上、これからの行動は全て慎重に選ぶ必要があった。背後でメラメラと燃える炎の音を聞き流しながら、佐倉の髪を握る手に力を込めつつ亜煌が柊木のそれに言葉を足していく。

「なら、あなたが言うべき答えはひとつよね?あなたがイエスとさえ言えば、彼女の命はそれだけで救われるのよ?これはあなた絡みの問題だもの。端的に言えば、あなた一人だけが犠牲になれば済む話でもあるわ……分かるかしら?」

「…………」

 それはもはや、亜煌から狗井に対する最後通牒でもあった。たまたまここに来た佐倉を都合のいい餌にして、こちらに強い揺さぶりをかけてきている。苛立ちと共に一抹の恐怖を覚えた狗井は、少し躊躇いがちにグッと唇をかみ締めた。

 前述の通り、亜煌たちの狙いはあくまで狗井だけである。要約すれば狗井をこの孤児院から連れ出すというのが、亜煌たちが目指している一番の目的だった。一体全体、どこに連れていくつもりなのかは分からない。それでも、彼女たちに大人しくついて行ったところで、ろくな目に遭わないということも容易に想像することが出来た。体が本能的に、亜煌たちに従うなとさっきからずっと訴えているのだ。そのため、狗井は苦しそうに眉をひそめながら、返答を迷うようにグッと拳を握りしめた。

 巻き込まれただけの佐倉を、自分勝手な理由で見捨てる訳にはいかない。だが、突然現れた亜煌たちの命令に安易に従いたくもない。極限までせばまれた二者択一の選択肢を前に、追い詰められた狗井はどう答えるべきなのか分からなかった。

 すると、亜煌は少し痺れを切らした様子で、掴んだ佐倉の髪を軽く揺すりながら言葉を紡いだ。

「思っていたより優柔不断な子ね……そう言えばここ、たしか孤児院なのよね?彼女も言ってたけど、あの平屋建ての家の中にあなたたちが面倒を見てきた、可愛くて幼い子供たちがいるんだったわね……なら、あなたが私たちのお願いを拒否した責任を、彼女の代わりにその子たちに負わせるってのはどうかしら?その方がより残酷だし、流石のあなたも私たちに従わざるを得なくなるでしょ?」

「!!待て……ガキどもにまで、手を出すつもりか!!?あいつらは何も関係ねぇだろうが!!!」

 亜煌による容赦ない発言を前に、流石の狗井もサァッと顔を青ざめさせながら首を振ってそう叫んだ。亜煌はもはや佐倉だけでなく、孤児院の子供たちにも手をかけようとしているのである。それこそ、狗井にとっては最も避けたい最悪の未来だった。子供たちは全員がまだまだ幼いし、当然だが狗井のような誰かと戦う力なんてものも持っていない。そんな彼らを襲おうとしている相手は、触れるだけであらゆるものを破裂させる力を持つ亜煌と、金属バット片手に彼女に従事している柊木の二人だ。どちらも、人を殺す上では何の躊躇いも持っていない者たちである。そんな両者を無害な子供たちの元に行かせてしまったら。最悪のパターンを想定した狗井の背筋が恐怖でゾッと震えた。

 これ以上、下手に亜煌たちに逆らってはいけない。本能的にそう考えたせいか、それまで燻り続けていた炎の勢いも少しずつ減衰してしまう。それに対して、狗井の反応でこの脅しが効くと察したのか、亜煌と柊木はお互いにクスクスと笑いながらトドメを刺す勢いで言葉をまくしたてた。

「ほらほら。そんなに子供たちを傷つけて欲しくないのなら、黙って私たちについてきなさい……あなたが私のところに来てくれれば良いだけの話なのよ。あまりこっちの手を煩わせないでちょうだい。」

「そうですよぉ!無駄に大勢の人と関わっちゃうから、守らなきゃいけないものも責任の量も増えるし、その人たちに足を引っ張られたりもするんですよぉ?逆に亜煌様と二人きりで楽しく遊ぶ生活の方が、今よりもずっと有意義に違いないですって!ね、ね?」

「……俺、は……」

 狗井の口から、ひどく掠れた声がボソッとこぼれ落ちる。しかし、狗井の手や周りを覆っていた炎は、彼女がガクンと膝を着くと同時にフッと消え失せた。祭壇を覆っていた炎も、危うく長椅子に蔓延しかけた火も、全てがあっという間に姿をくらましたのだ。

 そして、正座の姿勢をとった狗井はそのまま深く頭を垂れると、地面に頭を押し付けながら亜煌たちに向けて必死に懇願した。

「頼む……ちゃんとお前たちについて行くから、佐倉さんと子供たちには、手を出さないでくれ……俺の大切な家族なんだ、みんなを巻き込まないでくれ……!!」

「あらやだ。そんなわかりやすい土下座までするだなんて……本当、乱暴なわりには健気な子ねぇ。でも、そういうギャップがあるの、私はたまらなく好きだわ。」

「あっはは!良かったですねぇ、亜煌様!念願のお気に入りの子を、ついにげっちゅしましたね!早速家の方に連れて帰りましょう、周りに色々と勘づかれてしまう前に!」

 亜煌が狗井の無様な姿を嘲笑うように、佐倉の頭を乱暴に前へ投げ飛ばす。佐倉は無抵抗のまま地面の上に投げ出されたが、やけに上機嫌な柊木はそんな彼女の横を素通りして狗井の元に近づいた。気配を察して顔を上げた狗井が、その場に倒れ伏す佐倉を一瞥してハッと目を見開く。

 苦し紛れについて行くと言ったはいいものの、このまま佐倉を放置するつもりは毛頭なかった。せめて、孤児院の方に戻って手当をしなければ。そう考えた狗井が、こちらの腕を掴もうとした柊木の手を払い除けつつ、佐倉の方に身を乗り出して亜煌に言った。

「ま、待ってくれ!俺を連れていくのはいい。でもその前に、佐倉さんを介抱しないと……」

「残念だけど、そんな時間は無いわ。いいから大人しくしてなさい。変に逆らったりしたら、すぐに香音を子供たちのところに向かわせるわよ。」

「お任せ下さい、亜煌様!相手が子供だろうと、この金属バットでとことんぶん殴ってやりますよ!」

「!?やめろ!!本当に、それだけは……」

 ニコニコと満面の笑みでバットをブンブンと振り回す柊木に対し、途端にギクリと身を強ばらせた狗井は、愕然とした様子で肩を震わせつつ首を左右に激しく振った。こちらの放つ言葉次第で、無関係な佐倉や子供たちに再び被害が及んでしまうのだ。それだけはどうしても避けたいと、最初からずっと考えているというのに。

 狗井が佐倉に向けて伸ばしかけていた手を渋々引っ込めると、柊木は不意に金属バットの先端を彼女の後頭部にグッと押し付けた。いつでも盛大に殴り飛ばせるほどの距離感だ。後頭部から伝わる冷たい感触を前に、狗井が思わずゴクリと生唾を飲み込む。

「無駄に小言が多いと、性別問わずみんなから嫌われちゃいますよぉ~?それに、私としてはこのバットの耐久値をあまり減らしたくもないんですよぉ……私のこれで殴られたくないなら、亜煌様の言う通り家に着くまで大人しくしてくださいねぇ~?」

「……っ……」

 一転して冷酷な色を孕んだ目で狗井の姿を睨みつつ、柊木は金属バットをグリグリと彼女の頭に押し付けた。いつもならば、この程度の圧に負けることなく周りにいる敵を全員殴り飛ばしていたことだろう。しかし、今は意識を失った佐倉が近くにいるのだ。もし隙をつかれて佐倉が襲われてしまったらひとたまりもない。破裂の能力の凄まじさも、バットを振り回す柊木の躊躇の無さも、この目でしかと見てきたのだ。こんなところで佐倉の貴重な命を失いたくはなかった。

 冷や汗を垂らしつつもゆっくりと立ち上がる狗井の腕を、再びニコニコと笑顔を浮かべた柊木がグイグイと強く引っ張る。亜煌は余裕に満ちた顔でこちらを見つめながら笑うだけだ。狗井の心の中で、亜煌たちに対する殺意がひそかに高まる。しかし、逆らう訳にはいかない。佐倉と子供たちの命を守るためにも。戦うことの出来ない、実の家族のような存在である彼らを守るためにも、今は耐えなければならないのだ。

―――あんなに意気込んで戦おうとしていたのに、結局簡単に諦めるんだね。誰かの命がかかっているっていうだけで……君がそんなに弱い子だなんて、僕、知らなかったよ。君はあの時、瀕死の僕を救おうとしてくれてたのに。

 どこからか、昔懐かしい誰かの声が聞こえた。それは、初めて人を殺してしまったと感じた時の、心優しい彼の声だった。だが、それもあの悪夢で聞いたのと、同じような恨みのこもった声をしていた。夢の中でしか聞こえないと思っていたのに、このタイミングで現実にまで介入してきたというのか。精神的に心臓を締め付けられた狗井が、その痛みと苦しみを誤魔化すように小さく首を振る。

 数分後、いとも容易く狗井を連れ出した亜煌と柊木は、堂々とした足取りで颯爽と孤児院を後にした。気絶した佐倉が残された教会の中には、燃えてただの屑と化した祭壇の残骸と残り香だけが燻っていた。

 だが、孤児院の建物内に残っていた子供たちも、外で起きた異変に全く気づいていない訳ではなかった。

 佐倉の言いつけを守って、子供たち全員が大人しく室内に待機していた。しかし、悠然とした歩みで立ち去る亜煌たちの姿は、中庭に繋がる窓越しに数人の子供たちによって目撃されていたのだ。

 見たことの無い不審者が、みなにとって姉のような存在である狗井を連れて、何処かに行ってしまった。

 そう理解した子供たちは、亜煌たちが立ち去ったと同時に慌ただしく動き始めた。緊急事態が起きた時に使う専用の電話帳を開きながら、幼い子供たちが数人がかりで警察などに電話をかける。残りの数人は外に出て、狗井たちがいたはずの教会に慌てて駆けつけた。それは佐倉や狗井による丁寧な指導が行き届いていたがゆえの、子供らしくないなんとも迅速な行動の数々だった。

 しかし、そんな子供たちでもすぐに気づけなかったことが一つだけあった。

 本来ならば八人いるはずの子供たち。しかし、中にいる者と外に出た者とを合わせてもなぜか七人しかいなかったのだ。一人だけ欠けていたのである。残された子供たちがそのことに気づいたのは、教会で倒れていた佐倉を発見した直後のことだった。



 一人だけ孤児院から離れたその子供は、己の能力(・・)を用いて、ひそかにこっそり歩き続ける。狗井を連れ去った亜煌たちの跡を、彼女たちに気づかれることなく、どこまでも静かに。

 その小さな手のひらに、使い古したお気に入りのビデオカメラを握りしめながら。







――参拾伍日目 終幕――

~キャラ紹介~


♂西表麗樹-いりおもて れいき-(17)


大神学園所属の高等部2年生であり、元生徒会書記長。かつてはいじめ防止対策委員会なる会の委員長を務めていたこともあった。近衛によって両親を殺害され、亜煌に監禁されて以降は特に、学校にも行けていないし外にも満足に出ることができていない。特技は絵を描くことと裁縫。顔の左半分にできた火傷の跡を前髪で隠している。

幼い頃からかなりの病弱かつ寒がりで、密かに両親から軽い暴力を受けてきた過去がある。元は自己主張が苦手で気弱な性格。しかし、怒りやうっぷんなどによるストレスを溜めやすい一面もあり、それが抑えきれなくなると人が変わったようにひどく冷酷な性格に豹変する。自分に対して常に優しくしてくれた幽美に、前々から強い想いを寄せているようだが・・・


役職名:懺悔の人狼…狼の角から放つ特殊な電波を相手に浴びせる能力。この電波を浴びた対象は、浴びる頻度が増すほどに特定の相手(一人の時もあれば複数人の時もある)に対する強い罪悪感を覚えるようになる。症状が悪化すると幻聴や幻覚という形で現実世界にも能力の影響が現れるようになる。最悪の場合、気づかぬうちに自殺未遂を引き起こしてしまうことも。また、電波の届く範囲内にいれば誰にでも能力の効果が発動する。加えて、西表本人が意識を集中させることで、狼たち単体を遠距離で操作することも可能。

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