参日目ー後半戦
***
数日前 大神町某所――
「ご、ぁ、あがっがっが……が、ぁ……!!」
太陽の光が沈み、夕暮れの日差しが優しく町を包み込む頃。建物の陰に遮られ、陽の光がそもそも当たらない建物の裏。その場所で、一人の男が突然苦しそうにもがき出した。口から涎と泡を吹き出し、首元を手で押さえながらその場に倒れる。視界は次第に激しくぼやけ始め、体験した事の無い息苦しさが男の体を襲った。周囲に人の気配はない。助けを呼びたくても、喉が締め付けられるせいで声が出せない。
男は縋る様に壁に手を近づけると、無我夢中で壁の一角を爪で引っ掻いた。無意味な行動ではあったが、顔面を紫色の煙に包まれ、ほとんど身動きの取れない男にはそれしか出来なかった。
数分後、男の手がパタリと地面の上に力無く落ちた。それと同時に、あれだけもがいていた男の身体もピクリとも動かなくなる。顔の周りを漂っていた煙がゆっくりと霧散し、まるで最初から何も無かったかのような静寂が建物裏の空間を包み込んだ。
そんな彼の身体に近寄る、一人の少女。
顔を俯かせているせいで、彼女の表情を窺うことは出来ない。
動く気配のない男の身体をボーッと見つめると、少女はおもむろに鞄から1枚の紙を取り出した。両面とも真っ白なその紙には、ペンによる手書きの文章と人の名前が書かれていた。その人の名前も、その人の顔も、少女はよく知っていた。
なんせ――その人は、今目の前で倒れている、自分のクラスの担任教師なのだから。
そして彼が、他の女子生徒達に対して、散々セクハラ紛いの行動をしていたことも彼女は知っていた。
「ごめん、なさい……ごめんなさい、先生……」
少女がそう言いながらその場に泣き崩れる。少女と男以外に人のいない空間で、少女のすすり泣く声が虚しく響く。
罪悪感に塗れた紫色の瞳からは、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちたのだった。
***
「……ちょう……副会長!!」
「!!!」
聞き覚えのある声でそう呼ばれ、ハッと目を覚ます。少し眠ってしまっていたようだ。慌てた様子で漆村幽美が顔を上げると、彼女の目の前に座る青春が心配そうにこちらを見つめているのが見えた。
「大丈夫ですか、副会長?うたた寝していましたよ……少しだけ、うなされてもいました。」
「……!ご、ごめんね。ちょっと、疲れちゃって……」
「あまり無理はしないで下さいね。活動熱心なのは勿論いい事ですけど、あなた自身が倒れてしまったら元も子もないんですから。」
青春はそう言うと、一旦止めていたペンの動きを再開させた。スラスラと滑らかに動くペンをボーッと見つめながら、幽美が小さく息を吐く。自分の目の前にも、今日中に確認しなければならない大量の書類があるのだ。幽美もペンを手に取り、青春ほどのスピードではないがゆっくりと紙にチェックマークとサインを刻んでいく。
「にしても……今日は書類の量えぐいですよね。魔女伝説のせいで教師や生徒達が運ばれて、学園中が少し騒ぎつつあるのは分かりますけど。」
青春がペンを走らせながら顔を上げることなく淡々と話す。その瞬間、幽美はビクッと身体を震わせペンを持つ手を止めた。そのまま微動だにせず、身体を微かに震わせる幽美。しかし、青春はそれに気づかないまま1人で勝手に話を続けた。
「それにしても、例の魔女とやらは本当に迷惑な存在ですよね。最近は私の学年でも話題になってて、悪ふざけのつもりで意見箱に近づく人が増えたらしいんですよ。一応そういう人を見かけたらその場で注意喚起をしていますが、もし私の知らないところで紙が投函されていたらと思うと……もう、気が気じゃないですよ全く。」
「そ、そうだね……悪ふざけで、便乗しちゃうのは、ダメだよね……」
幽美は若干震え声でそう応えると、深呼吸を1つ挟んでから再びペンを動かし始めた。平然を装うように、チラチラと青春の方を確認しながら書類に色々と書き込んでいく。青春は書類を少しでも無くそうと奮闘しているらしく、幽美の視線には全く気づいていないようだった。
「あと最近、生徒会長なかなか学校に来ないですよね……私、あの人が例の魔女伝説に関わってるんじゃないかって思ってるんですよ。」
「……!?ど、どうして……?」
「考えてみてくださいよ。意見箱の鍵は、生徒会長か副会長が管理してますよね?きっと、生徒会長が鍵を持ち出してて、私達のいない時間帯に箱を開けては、中に紙が入ってるかどうかの確認をしてるんですよ。そして、紙があったらすぐにその人を見つけ出して毒で傷つける……あの人なら、その程度のこと平然とやりかねません。」
「で、でも……それじゃちょっと、常識外れな気が……」
「自由奔放なあの人に常識なんて通用しないと思いますよ。あの人、本当に何でもするタイプなんですから……副会長もそれで散々悩まされてきたじゃないですか。」
そこまで言うと、青春は小さく息を吐き、ようやく顔を上げた。途端に幽美とバッチリ目が合ってしまう。幽美は慌てて顔を背けると、あわあわと手を動かしながら青春に言った。
「わ、私は全然平気だよ!もう、慣れてるから……それより書類、すぐに終わらせるね!口より手を動かせって話だよね、ごめん……!」
「いや、あの……私もまだ終わった訳では無いので、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ。」
青春が宥める様にそう呟くが、聞こえていないのか幽美はバタバタと慌ただしくペンを走らせ続けた。青春がため息を吐き、自身も同様にペンを走らせる。鳩時計の時を刻む音が、机の上でペンが踊る音と重なり、静かなメロディーを奏でていた。
そして数十分後――幽美が最後の書類にチェックとサインを書き込んで、深く息を吐き出した。青春の方も終了した様で、んーと伸びをしながら幽美に声をかけた。
「お疲れ様です、副会長。とりあえず、今日の分は終了しましたね……全く、生徒会長が居てくれれば、少しは仕事押し付けれたのに。」
「あはは……でも、下校時刻にまで終わって良かったよ。後は、私がまとめておくから、青春ちゃんもう帰っていいよ。」
「そんな!こんな量を副会長1人に任せる訳には……」
青春がそう言って慌てて立ち上がるが、幽美は小さく首を左右に振ってニコッと微笑んだ。聖母の様に優しげな視線に見つめられた瞬間、申し出を断ろうとした青春が途端に口ごもってしまう。
「大丈夫。青春ちゃんも、書類の書き込みで結構疲れちゃったでしょ?まとめるだけなら、私1人でもできるから……ね?」
「ふ、副会長……」
青春は一瞬躊躇うようにわなわなと身体を震わせたが、感極まった様子でぐっと拳を握ると幽美に向かって深深とお辞儀をした。そのまま自身の鞄を手に取り、わざわざ机を回って幽美の目の前にまで近づく。
「分かりました。副会長の優しさに甘えさせて、今日はもう上がらせて頂きます。副会長も無理はなさらずに!では、お疲れ様でした!!」
青春はそうまくし立てると、再度深くお辞儀をしてからそそくさと幽美から離れた。幽美がバイバイと手を振ると、こちらを振り向いた青春も手を振り返し、ゆっくりと扉を閉める。
その途端に正真正銘一人だけになる幽美。顔に浮かべていた柔らかい笑顔は、青春が居なくなった瞬間どんよりと暗く曇った。ふぅとため息を吐き、椅子から立ち上がる。机の上の書類はそのままに、幽美はフラフラとした足取りで、生徒会室から外に出ようと扉に手をかけた。しかし、幽美が扉に手をかけた瞬間、外から女子生徒と思しき複数人の声がくぐもって聞こえてきた。
『……あいつ行ったかな?戻ってきてない?』
『あの子のせいで全然近づけなかったよね、意見箱に。もう、やっと紙入れられるよー。』
“紙”と聞こえた瞬間、幽美の身体がビクッと大きく跳ね上がった。扉にかけた手を止め、外から聞こえる生徒達の声に耳を傾ける。
『ねぇ……本当にやるの?相手はあの子だよ?魔女に任せて、大丈夫なのかな……』
『もう!また怖気付いちゃったの?この間の宮葉さんの時は上手くいったじゃん!大丈夫だって、魔女なら絶対倒せるから。』
『暴力とかそういうの苦手な私達にとっちゃ、魔女って正義の味方みたいなもんでしょ?だからさ、前みたいに魔女の力信じてみようよ。』
「………」
女子生徒達から紡がれる魔女という言葉。その言葉を聞く度に、幽美の心臓がどくんどくんと激しく脈打った。少しばかり呼吸も荒くなってしまう。聞こえてしまってないだろうか、と幽美が不安に思うが、女子生徒達は会話に夢中で気づいていないらしい。ケラケラと笑い合う声と共に、スコンッと意見箱の中に紙が入れられる音が微かに聞こえた。幽美がヒュッと息を飲み込む。
『よーし。これでいいかな……じゃ、帰ろっか。』
『明日からが楽しみだね!』
『『ねー!』』
女子生徒達の声が次第に遠のいていく。パタパタという足音が聞こえなくなった頃に、幽美は恐る恐る扉を開けて外に出た。警戒する様に辺りを見渡しながら、生徒会室の横に置かれた意見箱の前に立つ。意見箱の上には、学園における様々な情報が載ったチラシ類が掲示板に貼られていた。本来はカラフルな装飾の施されたそれらも、今では全て色褪せて見えてしまう。
幽美は制服のポケットから小さな鍵を取り出すと、それを意見箱の蓋に付けられた南京錠に挿した。そのまま右に捻る事でカチャッと音が鳴り、すんなりと南京錠が開かれる。
箱の蓋を開けて中身を確認する。殆ど空っぽな箱の中に落ちている、1枚の紙。幽美はそれを震える手で取ると、慌ててポケットにそれを突っ込み南京錠をかけ直した。少しもたつきつつも、南京錠を元通りにした幽美はそのまま急ぎ足で生徒会室に戻った。息を切らしながら素早く扉を閉め、誰も入れない様に内側から鍵をかける。幽美は一旦そこで心を落ち着かせようと、扉に背中からもたれかかり深呼吸を繰り返した。鳩時計の針を動かす音がやけにうるさく聞こえた。
しばらくしてから、幽美は冷や汗を拭って扉から離れた。書類まみれの机を通過し、壁に沿うように置かれた収納棚へと向かう。手慣れた様子で壁にかけられたキーフックから鍵を取り棚の扉を開ける。幽美はそこから、少し手を震わせつつ1冊の本を取りだした。表紙上部には形だけの金箔で『生徒名簿』と文字が記されている。漆村はその本を机の空いているスペースに置くと、先程ポケットに突っ込んだ紙を取り出した。少しくしゃくしゃになったそれに書かれている文字を見つつ、生徒名簿のページをパラパラと捲る。生徒名簿には五十音順で生徒の情報が1人ずつまとめられている。そのため、漆村は紙に書かれたとある人物の名前と一致するページをすぐに見つけ――その瞬間、思わずギョッと目を丸くした。
「……この、子って……」
再び紙に書かれた名前と、同じ名前の生徒のページを見比べる。分かりやすいようにひらがなで書かれた名前は、完全に該当のページに載っている名前と一致した。そして、そのページに載せられた顔写真は、漆村にとってはあまりにも見覚えのある顔でもあった。
「……この間、青春ちゃんと、一緒にいた子じゃ……?」
漆村の手から紙が滑り落ちる。はらりと落ちたその紙は、開かれた生徒名簿のページの上に静かに落下した。
そのページに載せられた“狗井遥”という名前以外の情報を隠すように。
「………」
まるで時が止まったように、漆村は微動だにせずその場に立ち尽くした。鳩時計が午後5時を告げるためにけたたましい音を鳴らした。その音さえも、今の漆村にはひどく遠くから聞こえてくる様な気がした。
――ついに私は、大切な後輩の友達までも、手にかけなければいけないのか。
鳩時計の音が止んでも、漆村は全く動かない。
まだ明るい光を放つ夕日が、窓越しに書類の山を煌々と照らし出していた。
暗く沈んだ表情を浮かべる漆村とは対照的に。
***
翌日 放課後
大神学園 下駄箱付近――
「……はぁー……」
「大丈夫か、ハル?やけに疲れてるな。」
自身の靴箱から靴を取りだしつつ、宇佐美が狗井に尋ねた。彼の隣では、狗井が疲労困憊と言った様子でしきりにため息を吐いている。狗井は気だるげな瞳で宇佐美の顔を一瞥すると、靴箱の扉を強く閉めながら彼に言った。
「そりゃ疲れるだろーよ!今日は一日中、あのうるせー連中から妙な視線で睨まれ続けたんだぜ?授業中も休み時間中も、ことある毎にこっちを見てきてさ……もう気が散って仕方がなかったぜ。」
「あぁ、どうりで……午後の体育の授業中、いつもより動きが鈍ってたのはそれが理由か。」
狗井の言葉に対し、宇佐美が納得したように頷く。“うるせー連中”と聞いて、真っ先に同じクラスの女子生徒3人組の顔を思い出したのだ。
ちなみに、この大神学園での体育の授業は、基本的には男女別々で行われている。しかし、時折男女混合で行われる事もあり、今日が丁度その混合での授業だったのだ。宇佐美にしっかり当時の様子を見られていたことを知り、狗井が心底嫌そうに眉を顰める。
「俺からは何もしてねぇってのに、マジで勘弁して欲しいぜ……そろそろ先公共にチクった方がいいかもなぁ。」
「その視線とやらが気になって仕方がないんなら、早い内に話すのもひとつだとは思う。アレなら、俺から話しておこうか?」
「あーいや、それはいいや。睨まれてるのはお前じゃないしな。気が向いたら話しとくよ。」
狗井はそう言うと、地面に置いた靴に足を入れ、慣れた様子で靴を履いた。つま先をトントンと地面につけ、肩にかけた鞄をよいしょと持ち直す。宇佐美も靴を地面に置くと、狗井と同じように履いて立ち上がった。そのまま下駄箱を離れようとした2人だったが、不意に宇佐美がピタッと足の動きを止めた。自身の背後から、何やら妙な視線を感じたからだ。咄嗟に後ろを振り返るが、時間帯が少し遅いのもあって、下駄箱周辺に人の姿はほとんど無い。宇佐美が小さく息を吐くと、少し先を歩いていた狗井が彼の元に近づいて尋ねた。
「ウサギ……?おい、どうした?なんかあったのか?」
「……いや、なんでもない。そろそろ帰ろう。佐倉さんにまた怒られる前に。」
宇佐美は首を左右に振ると、狗井の背中を押して外に出ようと催促した。狗井が少しだけ怪訝そうに宇佐美を見つめるが、まぁいいかと思い宇佐美と共に外へ出ようとする。
その時だった。2人の耳に、突然ゴポリと奇妙な音が聞こえてきた。途端にビクッと身体を震わせる狗井達。本能的に身体が危険性を察知した。咄嗟に振り返ると、2人の目の前には1匹の狼が座っていた。先程まで狗井達が靴を取り出していた付近で、ジッとこちらを静かに見つめている。狼の身体からは紫色の煙とヘドロが常に体中から溢れ出ていた。ヘドロが身体から落下する度に、コンクリート製の地面が溶かされジュワッと歪な音を鳴らした。狼の姿を見た瞬間、狗井が警戒するように拳を構え、彼女を守るように宇佐美が前に立つ。
「……おいおい。この狼、まさか……」
「あぁ……この妙に毒々しい臭い……こいつが、魔女伝説の正体かもしれないな。」
片手で鼻と口付近を覆い隠しながら宇佐美が言った。狼はなんの反応も示さない。しかし、宇佐美の言葉に対しまるで御明答とでも言うようにニヤリとほくそ笑んだ。ヘドロと煙のせいで威圧感のあるその笑みを前に、狗井達の背筋がぞくっと震え上がった。
2人の頭の中では、魔女伝説と宮葉が魔女に襲撃された際の情報が、パズルのピースの様に過ぎっては芋づる式に一つずつ繋がっていった。
扉には鍵がかかってなかっのに、当時の宮葉は何故逃げられなかったのか。それは、宮葉が人狼ではない故に、狼の姿が見えなかったためだ。狼の姿が見えるのは人狼同士だけである。そして、宮葉が倒れてしまった原因は、毒ガスをもろに身体に浴びてしまったから。目の前の狼からも、異様な悪臭と地面を溶かす程の刺激物が垂れ落ちている。魔女伝説では、魔女は毒を使って相手を追い詰めると言われていた――2人の中にあった疑念が、一気に確信に変わった。魔女伝説の犯人、もとい正体が目の前に現れたのだ。狼故に狗井達同様主人が居るはずだが、生憎その者の姿は見当たらない。しかし、狗井にとってその事はどうでもよかった。今はただ、目の前に現れた敵に対し強い怒りと殺意しか沸いていないのだから。
「てめぇのご主人様が何処にいるか知らねぇが……てめぇが宮葉傷つけた張本人なんだろ!?えぇ!!?」
狗井はそう叫ぶように声を荒らげると、前に立っていた宇佐美の身体をぐいっと押しのけた。その瞬間、狗井の足元に彼女の従える狼が現れた。燃え盛る炎の如く毛の逆立った狼が、ぐるると低く唸りながら目の前の狼を睨みつける。紫色の狼も体勢を変えると、ヘドロに塗れた口を大きく開けた。口の中から濃い紫色の球体が生じ、最初はピンポン玉サイズだったのが一気にサッカーボール程の大きさに変化していった。狗井の狼も口を開けると、口から同じくサッカーボール程の大きさの炎の球体を生み出した。お互いの生み出した球が、ほぼ同時に狼達の口から放たれる。その瞬間、宇佐美がハッと目を見開き狗井の身体をグイッと引っ張った。驚いた狗井が宇佐美の方に顔を向ける。
「ハル、待て!!毒ガスなら、このままだと引火する――」
宇佐美の言葉が途中で遮られてしまう。放たれた球体同士が微塵のズレもなく真っ直ぐぶつかりあったのだ。そして、毒の塊と炎の塊が衝突した瞬間――凄まじい爆発音と衝撃波が下駄箱と入口玄関全体に広がった。扉のガラスがことごとく割れて破裂し、狗井と宇佐美の身体が外へ勢いよくはじき出された。大量のガラス片と共に2人の身体が外の地面と転がるように落下する。
それはほんの数秒の間に起きた、あまりにも早すぎる大惨事だった。
「……っ……!!げほっげほっ……う、ウサギ!大丈夫かよ、おい!?」
「だ、大丈夫だ……ハルこそ、怪我はないか?」
しばらくしてから意識を取り戻した狗井が慌てて顔を上げる。宇佐美が咄嗟に狗井の身体を守るように抱きしめたお陰で、狗井は殆どガラス片を身に受けずに済んだのだ。しかし、代わりに宇佐美の身体には背中を中心にガラス片が刺さってしまったらしい。狗井の身体を抱きしめたまま、宇佐美が苦しげに表情を歪ませている。狗井達が身を離してよろよろとしゃがみこむと、2人の周囲から生徒や教師達の悲鳴やどよめきが聞こえてきた。
「お、おい!?なんだよ、何が起きたんだよ!?急に爆発音聞こえてきたぞ!!?」
「やばいって、煙出てるって!ガラスも割れてるし!ちょ、レアだから写メ撮ろうよ写メ!!」
「誰か、消火器を持ってきてくれ!!あと、生徒の皆はすみやかにこの場から離れるんだ!!写真は撮らなくていいから……ってこら!押すんじゃない!!」
「おい、君達!大丈夫か……って、傷だらけじゃないか!?今すぐ保健室に……いや、救急車の方がいいか!?とにかく、早くそのガラス片を抜かないと……」
体育会系の部活の面子や、たまたま外を歩いていた生徒達などが、一斉に下駄箱の入り口付近へと集まってくる。教師の1人が狗井達の元に駆け寄り、宇佐美の背中に刺さったガラス片を見てギョッと目を見開いた。慌てて保健室へ連れていこうとするが、混乱状態にあるこの場で迷惑をかける訳には行かないと、宇佐美は頑なにそれを拒んだ。困惑する教師をしりめに、宇佐美が狗井と共に生徒達の大群に紛れてその場から離れる。
周囲のざわめきは風船の如くどんどんと膨らみ、野次馬の如く生徒達が騒ぎを聞きつけてやって来ていた。緊急事態故に集められた教師達が、そんな生徒達をあまり近づけさせないよう慌ただしく対応に追われていた。
爆発が収まった後の下駄箱周辺には、中に入れば視界が悪くなるほどもくもくと黒い煙が立ち上っていた。下駄箱はどれも幸いなことに倒れこそしなかったものの、扉の多くが半壊し、靴や傘立てなどが四方八方に吹き飛んでいた。もしここに狗井達以外の人間がいたら、その者にも大きな被害が及んでいたことだろう。自分たち以外に被害が無さそうな事に安堵しつつ、少し離れた場所に隠れながら、狗井は心配そうに宇佐美の顔を見つめて言った。
「ウサギ、ごめん……俺が、何の考えもなしに、火ぃぶち込んだせいで……」
「いや、ハルは謝らなくていい。俺がもう少し早く止めていれば良かったんだ……毒ガスなら爆発する可能性があることに、気づくのが遅かった。」
「そんな……!つーか、さっさとガラス片抜いた方がいいって!背中とか、特にやばいんだろ!?」
「だから大丈夫だ。この程度なら、そのうち勝手に抜け落ちるから……ん?」
オロオロと視線を泳がす狗井を宥めながら、手についたガラス片を抜きつつ宇佐美がふと顔を上げる。彼の視界の端に、見覚えのある顔が写ったからだ。その女子生徒は、コソコソと何かに怯える様にゆっくりとその場を歩いていた。が、近くの木陰に潜んでいた宇佐美達の姿を見つけた瞬間、見てはいけない物を見てしまったかのように表情を引き攣らせた。黒縁メガネの奥で、紫色の瞳が恐怖と絶望の色に染まり大きく歪む。
――まさか――
宇佐美がハッと目を見開き、咄嗟にその場から立ち上がった。すると、少女はビクッと怯える様に身体を震わせ、その場から脱兎のごとく走り出した。黒い長髪が風に乗ってふわりと舞い上がる。狗井は宇佐美の怪我に意識を集中させているらしく、彼女の存在には気づいていないらしい。突然立ち上がった宇佐美を座らせようと手を伸ばすが、宇佐美はそれを制しながら狗井に言った。
「ハル、悪い……ちょっと行ってくる。」
「え!?いや、何処にだよ!?まだガラス片残ってんじゃねーかよ!!」
「それはもう気にしなくていいって言ってるだろ……安心しろ。すぐに戻る。」
宇佐美はそう言い残すと、動揺する狗井を置いてその場から走り出した。狗井が慌ててその後を追いかけようとするが、宇佐美を探していた先程の教師にうっかり見つかってしまい、すぐにその場で呼び止められてしまう。
「ちょっと君!さっき大きな子と一緒にいた子だろ!?あの子はどこだい?保健室への道が確保出来たから、君も一緒に来るんだ!さぁ!」
「だぁあああっ!!気安く触んな、邪魔すんな!!畜生……勝手に先走ってんじゃねーぞうさぎぃいいいいいっ!!!!」
***
およそ十分後
大神町郊外 某所――
(……この辺り、か?)
ややふらつきつつも、とある建物の前までやってきた宇佐美。彼女――改め、漆村幽美がこの建物の中に消えていくのを見たのだ。何かの施設だったのだろうか、掠れ過ぎてほとんど読めない文字が壁に刻まれている。そして、入口の門を塞ぐように、立ち入り禁止のテープが縦横無尽に張り巡らされていた。が、その一部分には何者かが乗り越えたような跡が残っていた。ここから中に入ったと考えた宇佐美が、テープをまたいで敷地内へと入っていく。
釘付け事件の時のあばら家よりはまだマシだが、この建物も空き家になってからだいぶ経つ様だ。カーテンで固く閉められた窓ガラスは埃を被り、壁には所々ヒビが入っている。古風なデザインの扉を開けて中に入ると、微かに薬品の様な独特なにおいが宇佐美の鼻腔をくすぐった。元々病院の様な施設だったのだろうか。少し薄暗いが、床には空き瓶や包帯がゴロゴロと転がっている。よくよく目を凝らすと、点々と黒いシミが刻まれているのも見えた。
この建物に何があったのかは知らないが、今は中に入ったと思しき幽美本人を探すのが先だ――そう考えると、宇佐美は懐からスマートフォンを取りだしライトをつけた。室内の蛍光灯はほとんどが欠けており、無論電気も通ってないのでスイッチを押してもつかなかったのだ。外も日が沈み、暗くなり始める室内を慎重に歩き続ける。
ふと、宇佐美の鼻が感じたことの無いほどの酷い悪臭を感知した。明らかに直接嗅いではいけないにおいだ。咄嗟に片手で口と鼻を覆い、においの強まる方へゆっくり近づいていく。そして、ライトでその行先を照らした瞬間、包帯を巻いた特徴的な腕が、診察台と思しき物の隙間から垣間見えた。明かりの示す先で気づいたのだろう、そこに隠れていた少女の身体がビクッと跳ね上がった。
「……!」
「副会長……こんな所に居たんですね。」
あくまで敬語口調は崩さず、ライトで照らしながら幽美の傍に近づく宇佐美。しかし、幽美は小さく悲鳴を上げると、診察台から飛び出し再び走り出した。その後を追うように、紫色の狼もその場から飛び出てくる。狼が走る度に、床には先程見かけた黒いシミが浮かんでいた。宮葉が襲われた際も部屋に同じ様な跡があったという話を思い出し、宇佐美がぐっと唇を噛み締める。
「やっぱり……あんたが、魔女の正体なんだな。」
宇佐美は一人そう呟くと、ライトを掲げたまま幽美の後を追って走り出した。幽美は一心不乱に走っている様で、あまり先の見えない暗闇の奥から何かを蹴飛ばしたりする音が頻繁に聞こえてきた。宇佐美も暗闇で足元を掬われないように走っているため、なかなか彼女に追いつけない。が、距離は次第に狭まっており、ライトの明かりが彼女の足元を移す程度は維持できるほどになった。
そして、数分も経たないうちに、幽美の姿は少し明るい階段前付近に躍り出た。幽美は一瞬こちらを一瞥すると、狼と共にその階段を慌てて上って行った。階段付近には窓ガラスがあり、丁度月明かりも差し込んでいるので周囲よりは明るくなっているのだ。一旦ライトをしまい、宇佐美がその後に続いて階段を上ろうとする。
しかし、その時ふと、幽美の従える狼が足を止めた。そのままくるりと後ろを振り返り、階段下にいる宇佐美の姿を見下ろす。幽美は少し先に居たが、狼が来ないことに気づきすぐにその場で立ち止まった。宇佐美も警戒する様に足を止めて狼の姿を見つめ返す。
狼は口をぐぱっと開くと、そこから紫色のおどろおどろしいヘドロを生み出した。顔を上げて、そのヘドロを天井めがけて勢いよく吐き出す。宇佐美が慌てて上を見ると、一部天井の壁が剥がれて、支柱となる鉄骨がむき出しになっているのが見えた。ヘドロがその鉄骨にことごとく付着し、煙を吐きながら凄まじいスピードで鉄骨を溶かしていく。
「……!!!」
嫌な予感を察知した宇佐美が咄嗟に後ろへ飛び降りようとした。が、溶かされた鉄骨はそれとほぼ同時に彼の元めがけて落下していく。宇佐美の目の前が途端に錆びた鉄骨で溢れかえった。
けたたましい轟音と土煙を放ちながら、溶かされた鉄骨の多くは宇佐美の居た階段下に崩れ落ちた。階段の壁越しにそれを見ていた幽美が悲鳴をあげ、身体を震わせながらよろよろと後退した。壁に背中をもたれさせ、今にも泣きそうな顔で自身の髪をくしゃりと掻き乱す。
「あ……あ、ぁあ……!!」
しばらくその場から動けなかった漆村だったが、自身の狼が近くに戻ってきた瞬間、ひくっと表情を引き攣らせてバッと立ち上がった。怯える様に狼を見つめたあと、階段を上って上の階へと消えて行く。満足気な表情を見せていた狼は、漆村が走り去った瞬間神妙な面持ちで目を細めた。仕方ないと言わんばかりにゆっくりと彼女の後を追って歩き始める。
辛うじて落下しなかった鉄骨から残っていたヘドロが滑り落ち、下に落ちた鉄骨の上に雫の如くぽとりと垂れた。それにより生じた煙が、窓から差し込む月明かりの下で静かに照らされていた。
***
――してやられたな、翔。
逃げるのが遅かったら、全身がペチャンコだったな。流石のお前でも回復間に合わなかったンじゃねェのか?
やっぱお前は、昔から変わんねェな。
優し過ぎるが故に、敵を前にして油断しちまう。その油断が隙になって、敵に追い詰められる。
そういやあの時もそうだったなァ……おっと、今のお前は覚えてねェのか。あの時のことを……まァいい。
何はともあれ、今はあの巨乳女を殺せ。
あいつはお前に対して敵意を向けた。なら、消しても問題はねェよなァ?
それにあいつは毒を使うらしいじゃねェか……傷を受けても回復するお前なら、持久戦になりャあ勝てるだろ。
安心しろ。俺の事を思い出してくれたら、お前に代わって俺がアイツを処す。
だから、早く思い出せ。
思い出さない限り、お前は俺から逃げられねェンだ。
お前が死ぬまで、一生な―――
「………っ!!!」
唐突に意識が戻り、途切れかけていた酸素の供給が急速に再開される。荒い呼吸を必死に整えながら、宇佐美はよろよろと上半身を起こした。仰向けに倒れたせいで、背中に僅かながら残っていたガラス片がより深く食いこんだ感覚がする。が、宇佐美はそれを気にすることなく、自身の足元に広がる光景を見て絶句した。自身の両足が、崩落した鉄骨に挟まれているのだ。少しでも後退するのが遅ければ、全身が鉄骨の下敷きになっていただろう。意識が覚醒した事で痛覚も戻ってきてしまい、ぼんやりとしていた宇佐美の脳みそが激痛によっていよいよ目を覚ます。
「く、そ……早く、退かさないと……」
ぐっ…と鉄骨を掴み、無理やり上へ押し上げる。両足はちぎれてはいないものの骨が折れているらしく、動かそうとすると激痛が全身を走り抜けた。仕方がないので、片手で鉄骨を支えながらもう片方の手で片足ずつ引きずり出した。痛みに耐えながらゆっくりと足を鉄骨から抜いていく。
その後、少し時間はかかったが、何とか両足を引きずり出す事に成功した。支えを失った鉄骨がガラガラと落下するが、宇佐美は這いずる様にそこから離れ近くの壁に寄りかかった。どくどくと高鳴る心臓を、深呼吸をすることでどうにか抑えようとする。その時、宇佐美の肩から白い光を放つ小さな狼がひょこっと現れた。宇佐美の従える狼で、宇佐美自身の身体の傷を癒す能力を持っている。狼は心配そうに宇佐美の頬を舐めると、首周りに浮いていた白い球体を複数解き放った。球体が宇佐美のボロボロになった両足全体を包み込んでいく。優しく暖かな光に足を包まれながら、少し落ち着いた宇佐美は深く息を吐き出した。頬に浮かんでいたかすり傷は、狼が舐めたお陰でか既に消え失せていた。
(……また、あの声が聞こえてきた……)
宇佐美が狼の頭を優しく撫でながら例の声を思い出す。狼は嬉しそうに目を細めると、慈しむ様に擦り傷塗れの彼の手をぺろぺろと舐めた。
――釘付け事件の際にも聞こえてきた、自分にそっくりなあの声。殺意に満ちた声でしきりに“思い出せ”等と言ってくるが、宇佐美自身はその声の主に関して何一つ身に覚えがない。相変わらず声だけなので姿が見えないのもあるが、自分とそっくりな声をした人間に出会った記憶は少なくとも1度も無かった。それ故に、余計に“彼”に対しての謎が深まっていく。
あいつは一体何者なのか。
どうして自分が気を失ったタイミングでいつも話しかけてくるのか。
そして――何故彼のことを思い出さなければいけないのか。
(……いや。今はそんなこと、どうでもいいな。傷が治ったら、すぐに副会長を追わないと……)
宇佐美は首を左右に振ると、己の両手を見つめながら開いたり閉じたりを繰り返した。狼のお陰で、手は傷が全て癒えて問題なく動かせた。足の方ももう少しで治りそうだ。前回とは異なり、骨折で済んだ為か治りが早いらしい。狼が宇佐美の肩の上で頬に軽くキスを落とした。とても穏和で友好的な性格の狼だ。宇佐美が労る様に顎を撫でれば、真っ白な毛の狼は子犬の如く鳴き声を上げたのだった。
***
――始まりは、いつだったのでしょう。
何気なく、意見箱の蓋を開けた時でしょうか。
それとも、中に入っていた1枚の紙切れを見つけた時でしょうか。
『2年D組の担当教師の○○からセクハラ行為を受けています。体を触られたり、性行為を迫られたりして、もう限界です。助けてください。』
名も無き生徒の、助けを求める声。
細い線で書かれたその文字に、私の胸は酷く苦しみ締め付けられました。
その当時、確かにその教師は女子生徒に対するセクハラ行為が多い事で有名でした。しかし、彼はあらゆる手を使ってアリバイを作り出し、“それはあくまで噂でしかない”とシラを切り続けていました。他の教師達もやけに頭の切れる彼には太刀打ち出来ず、そのせいもあって長い間多くの女子生徒達が苦しめられていました。
もし私が何も出来ない無力な人間であれば、こんな事にはならなかったのかもしれません。もっと平和的に、話し合い等で解決しようと思ったことでしょう。
でも、私は――残念ながら私は、化け物の力を持っていました。
もし話し合いになれば、きっとあの男性教師は気づいてしまうでしょう。この文字を書いた生徒が、生徒会の人間に自分の悪行を告発したと。もしそうなれば、生徒に恨みを持った男性教師がその子に危害を加えるかもしれません。再びその子にセクハラ行為を繰り返すかもしれません。
ならば、本人自身を静かにさせればいい。
そう考えた私は彼を校舎裏に呼び出して、彼に猛毒を浴びせました。毒を浴びて苦しむ彼の姿を、こっそり物陰に隠れながら見ていました。人を傷つけるために、自分の意志でこの力を使ったのは、これが初めてでした。それがとても怖くて、後から罪悪感がどんどんと沸いてきてしまって……私は動かなくなった先生の元に近づいて、その場で泣き崩れました。正直、その後どうやって家に帰ったのかはよく覚えていません。ただ、先生はあの後別の人の通報で病院に運ばれた様です。後遺症が酷いらしく、結局そのまま彼は教師の職を辞める事になりました。
ようやく終わった。皆の悩みがまたひとつ消えた。先生には悪い事をしてしまったけれど、これで皆平和に暮らせる――最初はそう思っていました。
でも、実際は違いました。
様子がおかしくなり始めたのは、彼が入院してから数日後の事でした。
その日を境に、意見箱の中にあの日同様、誰かの名前が書かれた紙が投函される事が増えたのです。
最初の頃は、詳細にその者がどのような悪行をしたのかも記されていました。でも、次第にはそれさえも無くなり、挙句の果てには名前だけが記された紙ばかりになりました。当初、私は詳細に悪行が記されていない紙は無視していました。名前だけでは、その人が悪い人か判断出来なかったからです。でも最終的に、紙に詳細に記してくれる人は1人も居なくなってしまいました。
そして当初、紙は全て生徒会の一角に隠していました。元はと言えば私が始めたようなものなので、大切な生徒会の人達を巻き込みたくなかったからです。でも、枚数が増えた事でかさばるようになり、それでも紙を隠す為に自分の鞄も使わざるを得なくなりました。
日に日に増えていく、名前しか書かれていない紙の数々。
いつの間にか『魔女』と称され噂される様になってしまった私の行い。
そんな大多数の期待と、やらなければならないという責任感に耐えきれず――私は遂に、名前しか書かれていない人間に手を下してしまいました。
ひらがなで分かりやすい様に『みやばりん』と書かれた生徒を、生徒名簿を使って探し出しました。生徒会の一員で、尚且つ副会長だからこそ、誰にも怪しまれることなく探すことが出来てしまいました。そして、彼女の同級生から、彼女は訳あって学校を休んでいることを知りました。生徒名簿には住所も記されていたので、彼女の家を探すのも容易でした。実際に尋ねた時に、彼女の家の前に他の人が居たのは予想外でしたが。
早く。早く彼女を追放しなければ――私の頭の中はそんな焦燥感の様な物でいっぱいになっていました。でも、実際に狼が彼女を襲い終えた後、私は我に返ってその場から逃げ出しました。
私は酷く後悔しました。わざわざ家まで押しかけて彼女を傷つけてしまった、それに対する罪悪感で胸がいっぱいになりました。今までどうやって平然を装って暮らしていたのか、分からなくなってしまうほどに。
私は酷く弱い人間です。
そして愚かな人間です。
人を傷つけても、影で怯えて泣く事しかできない、そんな人間です――
「……でも、殺すつもりは無かったの……」
建物最上階――月明かりに照らされた部屋の中で、幽美はそう嘆く様に呟いた。元は病室だったのだろう、ボロボロのベッドが乱雑に壁に寄せられており、破れたシーツの欠片があちらこちらに散らばっている。天井は階段同様大部分の壁が崩れており、こちらも支柱の鉄骨が剥き出しになっていた。そんな埃塗れの空間で、幽美は懺悔する様に窓の前でしゃがみながら1人呟き続けた。
「私は確かにたくさんの人を傷つけてきた。でも、たとえ相手が悪い事をしていても、その人を傷つける事も悪い事だって分かってた……だから、その人を“殺す”って事は絶対にしなかったんです。誰かの指示に従って、人を傷つけることしかできない私に、そこまでする権利は無かったから……なのに、どうして、こうなってしまったの……」
幽美の紫色の瞳からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。涙は絆創膏やガーゼで覆われた頬をつたい、しゃがむ彼女のスカートの上にぽとりぽとりと垂れ落ちた。
「あの人まで、巻き込むつもりは無かったのに……あの時も、まさかあの子が、私と同じ様に狼を連れてるなんて、夢にも思わなくて……ごめん、なさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
消え入るような声でそう呟きながら、幽美はスカートの裾をギュッと握りしめて蹲った。包帯を巻いた手や腕に埃がつくのも厭わず、我も忘れて大声で泣きじゃくる。この上ない罪悪感に苛まれた少女を慰める者はいない。彼女の連れる狼でさえ、素知らぬ顔でそっぽを向くばかりだ。月明かりが幽美の姿を静かに照らす。1人で孤独に懺悔し続ける彼女を止める者はいない。
ただ1人――彼女の背後から、物音を立てつつ室内に入ってくる青年を除いて。
「ようやく見つけましたよ、副会長。」
「……!!?宇佐美、くん……!?」
「……名前、覚えてくれてたんですね。」
室内に入った宇佐美はそう言うと、スマートフォンのライトを消して懐に戻した。月明かりのお陰で部屋の中が比較的明るかったのだ。宇佐美がゆっくりと幽美の元に近づく。しかし、幽美はひっと悲鳴をあげると、しゃがんだ姿勢のまま慌てて窓側に背中を押し付けた。本当は逃げたいところだが、部屋の出入口は宇佐美の真後ろにしかない。何も出来ないまま幽美が愕然とした様子で宇佐美の顔を見つめる。
「ど、どうして……鉄骨の、下敷きになったんじゃ……」
「確かに、下敷きにはなりましたよ……でも、俺はそう簡単にはくたばりません。そう言う人狼ですから。」
宇佐美が淡々とそう言い放った瞬間、宇佐美の右肩に白い毛の狼がぴょこっと現れた。呑気に前足で毛繕いをしつつ、静かに幽美の顔を見つめている。それを見た瞬間、幽美は全てを理解したように目を細めてから項垂れた。顔を手で覆い、身体を震わせながらぽつりぽつりと呟く。
「……そっか……君も、私と同じ……化け物なんだね。」
「化け物……嫌な響きですね。俺は嫌いですよ、そう呼ばれるのは。」
「……何も知らない人達に、勝手に魔女って呼ばれる方が、私は嫌だよ……」
幽美が壁を伝いながら、フラフラとその場で立ち上がる。窓を後ろにしているため、月明かりが逆光となり表情はあまりよく見えない。が、彼女の特徴的な紫色の瞳は暗闇の中でも不気味なほど輝いていた。
「魔女伝説の犯人……やっぱり、あなただったんですね。どうして、こんな事をしたんですか?どうして、罪も無い人達を人狼の能力で苦しめてきたんですか?」
「……宇佐美くんはさ、誰かの為に、自分の身を犠牲にする事ができる人?」
宇佐美の冷静な問いかけに対し、逆に幽美が質問で返していく。宇佐美が若干戸惑う様に口ごもると、幽美は彼からの答えを待たないまま続けて言った。
「私は、中学生の時からずっと生徒会にいてね……最初は風紀委員から始まって、書記長から副会長になって……いつも、皆のために頑張り続けたの。皆が少しでも学園生活を楽しめる様に、色んな事をやってきた。それが、私の役目。私の役割。私の……使命みたいなものだから。」
「………」
「そんな時に、意見箱に助けを求める声が届いて……私は、その声に応えようと思って、狼に頼ったの。無力な私だけじゃ、何も出来ないから……そうするしか、無かった。あの人を完全に学園から追い出すためには、狼の力に頼るしか、方法がなかったの。」
「……それが、魔女伝説の始まり……」
宇佐美が神妙な表情でそう呟き、ぐっと唇を噛み締める。幽美は黒縁メガネの奥で目を伏せると、己の体を抱きしめるように腕を組みながら宇佐美に言った。
「でもね……あなたが何て言っても、私はもう止めないよ?意見箱に名前の書かれた紙が入る度に、私はその人が悪い人じゃなくても、その人を傷つける……もう、そうする事に決めたの。」
「……!?それはどうして――」
「だって、皆が、望んでるの……魔女の存在を。魔女が、大神学園の皆を、救ってくれるって、期待してるの……だから、続けなくちゃいけない。魔女を死なせてはいけないの……それは、私の存在意義が死ぬ事と、同じだから……!!」
幽美が震える声でそう言った瞬間――彼女の足元にあの紫色の狼が現れた。と同時に、彼女の周りを取り囲む様に、紫色の巨大な煙が舞い上がる。幽美の狼が遠吠えの様な声を上げた。それにより視界の悪い煙の奥で無数のヘドロが浮かび上がる。危険を察した宇佐美が、咄嗟に近くで倒れていたベッドの後ろに隠れた。その直後、狼の放ったヘドロが煙の奥から四方八方に飛び散り、壁や地面に付着する度にその箇所をことごとく溶かした。 幽美が頭を抱えながら途切れ途切れに泣き叫ぶ。
「私、私は……本当は、無能で、無力で、何も出来ない子で……でも、皆は、私の事を信用してくれて、大切にしてくれて……だから、みんなに、嫌われたくないの……見捨てられたくない、死にたくない……いや、嫌、嫌……!!!」
「……っ!やめてくれ、副会長!!こんな毒塗れの中じゃ、あんたが死んじまう!!」
ベッドを防護壁代わりに構えながら宇佐美が必死に叫んだ。幽美の元に近づきたいが、ヘドロが飛び交うのと煙が周囲を覆ってるのとで容易に近づけなかったのだ。しかし、毒に囲まれているということは、幽美自身にも毒の効果が及んでしまっていることにもなる。狗井の狼の能力も同様に、使い過ぎると狗井自身に多大な負担がかかってしまうのだ。それを危惧した宇佐美は、どうにかして幽美の暴走を止めようと必死に思考を巡らせた。幽美は完全に錯乱状態にあるらしく、苦しそうに頭を抱えながらしきりに泣き叫んでいる。次第に毒の勢いは部屋全体に及ぶようになり、ベッドに隠れていながらもひどい息苦しさを覚えるようになってしまう。
その時ふと、宇佐美の脳内にあの男の言葉が過ぎった。
――傷を受けても回復するお前なら、持久戦になりャあ勝てるだろ――
「………」
宇佐美がギリッと歯を食いしばる。宇佐美の肩の上で狼が怯える様に耳を伏せた。ベッドに付着したヘドロが、その脚についた金属製の滑車や骨組みをどんどん溶かしていく。このベッドももうもたないだろう。他に隠れられそうな物は見当たらない。皆壁に寄せられており、幽美の元に近づくにはまっすぐ進むしか方法はなかった。
「……分かったよ、あんたの意見に従う。」
宇佐美はそう呟くと、ベッドから飛び出し幽美の元めがけて走り出した。途端に無数のヘドロと煙が宇佐美の身体に襲いかかる。宇佐美は咄嗟に両腕で顔を守ると、煙の勢いに気圧されつつもゆっくりと幽美の元に近づいた。皮膚にヘドロが付着する度に、その箇所から焼けるような激痛が全身に走り抜けた。が、狼の能力により光る球体がその箇所に近づき、直ちにヘドロによる傷を癒していく。毒の中でも止まることなく歩き続ける宇佐美に気づいた幽美がハッと目を見開いた。顔を上げて、煙の奥に見える宇佐美の姿を愕然とした様子で見つめる。
「う、そ……どうして……どうして……!?」
「副会長……頼む。これ以上、自分の狼の能力に飲み込まれるな。自分で自分の事を、殺すことになるぞ……!!」
「……!!ま、待って……それ以上、こっちに来ないで……来ちゃ駄目っ!!」
不意に幽美はそう叫ぶと、宇佐美の元めがけてバッとその場から走り出した。毒の煙もかき分けて突き進むが、それにより幽美の身体にも大量のヘドロが付着してしまう。驚いた宇佐美が慌てて彼女の歩みを止めさせようとするが、幽美はそのままの勢いで宇佐美の身体を後方へ突き飛ばした。油断していた宇佐美の身体が、バランスを崩した幽美諸共後ろに倒れてしまう。その瞬間、部屋中を覆っていた煙が一気に霧散し、大量のヘドロも途中で塵となって消えてしまった。毒の影響でゴホゴホと咳き込みながら、宇佐美が少しよろけつつ上半身を起こす。彼の身体に抱きつく様に倒れた幽美も共に身体を起こすと、宇佐美の顔を見つめながらホッと安堵の吐息をついた。
狼はこちらを明確に殺そうとしていたのに、どうして幽美は自分を庇ったのか――突如として浮かび上がった疑問に、宇佐美が思わず目を丸くしながら幽美の顔を見つめ返した。
「ふ、副会長……なんで、俺を突き飛ばしたんですか?あんたの狼は、確実に俺を殺そうとしてた。それに……あんたにも毒の影響はあるんだろ?」
「あのね……私自身は、あなたのことを、殺したくないの。臆病な私に、人を殺すなんて事は、出来ないから……それに私、こう見えて、毒には結構、強いんだよ?慣れてる、から……」
宇佐美の問いかけに対し、幽美が弱々しく微笑みながらそう応えた。制服がところどころヘドロのせいで擦り切れてしまっている。宇佐美も少しだけ破れた自身の服を一瞥し深く息を吐いた。治癒の能力のお陰で傷はほとんど無いが、毒ガスの影響で体は気だるく少し息苦しいのだ。一刻も早くこの場から離れようと、幽美の手を引きながら宇佐美は立ち上がろうとした。
しかし――穏やかな表情を見せる幽美とは対照的に、彼女の従える狼は怒り狂った様子でぐるると唸り声を上げた。その声に気づいた幽美がすぐさま自身の後ろを振り返る。その瞬間、月明かりに照らされた狼が口を大きく開き、新たにおどろおどろしい紫色のヘドロを生み出した。それを幽美の身体めがけて勢いよく解き放つ。逃げ遅れた幽美の身体にヘドロが付着し、毒を浴びた幽美が声にならない悲鳴をあげた。
「―――――っ!!!!」
「!?おい、何やってんだ!!?」
ギョッと目を丸くした宇佐美が、慌てて幽美の身体を狼から守る様に抱きしめた。幽美の狼が再び口を開けようとするが、咄嗟に白い毛の狼が宇佐美の肩から飛び乗り、相手の耳を噛む事で行動を阻害する。
ヘドロをもろに受けた幽美は、制服の前部分を溶かされ腹の皮膚にダメージを負っていた。幸いにも、服のおかげで軽い火傷程度の傷で済んだらしい。が、激しい痛みを感じたことに変わりはない。幽美の額には脂汗が浮かび、表情は酷く苦しそうに歪んでいる。腹部以外にも、包帯を貫く勢いで腕や手にも傷が浮かんでいた。
まさか、主人にここまで歯向かう狼が居るだなんて――予想だにしなかった展開を前に、動揺しきった宇佐美が声を荒らげながら幽美に言った。
「副会長、大丈夫か!?おい、しっかりしろ!!」
「だ、だい、じょうぶ……わたし、の事は、いいから……宇佐美くん、だけでも、逃げて……」
幽美はそう言いながら、弱々しく宇佐美の身体を押しのけようとした。しかし、毒とヘドロによるダメージで、縋るように彼に抱きつくことしか出来なかった。宇佐美が唇を強く噛み締めながら幽美の身体を抱きしめる。
するとその時、部屋の天井からガタンッと何かが揺れるような音が聞こえてきた。宇佐美がすぐに顔を上げる。剥き出しになった鉄骨がヘドロによって溶かされているのが見えた。時間差で接合部分の崩壊が進んでしまったらしい。このままでは、階段の時同様鉄骨の下敷きになってしまう。が、今は負傷した幽美を抱きかかえている状態にある。崩落から逃れるのには間に合いそうになかった。
「……くそっ……!!」
宇佐美が舌打ちをして幽美の身体をより強く抱きしめた。彼女を庇うように身をかがめ、崩れ落ちる鉄骨を己の背中で受け止める。
鉄骨の崩落するけたたましい轟音が鳴り響いた。宇佐美の狼と乱闘していた幽美の狼が、ハッと目を見開き音の鳴った方に視線を向ける。毒の煙を上書きする程の土煙が、埃まみれの部屋の中に広がった。パラパラと土が舞い落ち、煙の奥から崩落した鉄骨の残骸がゆっくりと現れた。宇佐美達の姿は見えない。宇佐美の従える狼がキャンキャンと甲高い鳴き声を上げた。幽美の狼は声を上げることなく、ただジッと鉄骨の山を見つめている。
すると――突然、鉄骨の山が揺れ動き、中からゆっくりと宇佐美の身体が現れた。幽美の身体を守るように抱きかかえながら、頭と背中で強引に鉄骨を押し上げているのだ。彼の頭からはドロドロと真っ赤な血が垂れていた。それを見た白い毛の狼が、咄嗟に首周りに浮かぶ球体を宇佐美の頭めがけて放つ。それを見た宇佐美は小さく微笑むと、頭の治療を球体に任せながら鉄骨の山を足で無理やりかき分けた。
やや這いずる様に外に出ると、宇佐美は幽美の身体を抱えながら、壁に寄せられたベッドを1台引っ張り出した。組み立てるのは面倒なので、とりあえずそのまま床の上に寝かせる。宇佐美は片手で埃を払うと、そのマットレスの上に幽美の身体をそっと乗せた。一旦自由になった宇佐美がごほっと咳込む。それにより口の中から血が微かに出てしまうが、宇佐美はそれを手で拭い強引に振り落とした。
幽美はしばらく気を失っていたが、次第にゆっくりと目を覚ました。そして、傍に居る宇佐美の顔を見るや否や、驚いた様子で目を見開きながら彼に言った。
「……!宇佐美、くん……怪我、は……」
「俺は大丈夫です。それよりも、副会長の方が重傷ですよ……少し休んだら、すぐに病院に行きましょう。」
落ち着いた口調で宇佐美はそう言うと、自身の上着を脱いで幽美の身体に被せた。袖などが少し破れているが、わりかし問題なく着れる。幽美は呆然とした様子で上着の裾を握りしめると、唐突にボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。ギョッと目を丸くしながら宇佐美が慌てて幽美の背中をさする。幽美は宇佐美の身体にそっと寄りかかると、子供のように泣きじゃくりながら彼に言った。
「どうして……どうして、私を守ってくれたの……?」
「え?」
「私、人を傷つけたんだよ?自分の狼の力を使って、誰彼構わず人を傷つけてきた……こんな私を、どうして身を呈して守ってくれたの?」
「………」
泣き続ける幽美の身体を優しく抱きしめながら宇佐美が目を伏せる。頭の治療は既に終わったらしく、彼の頭から血が流れ落ちることはもう無かった。宇佐美は幽美の身体を抱きしめたまま、窓の外に浮かぶ月を眺めて彼女に言った。
「……副会長、最初に俺に質問しましたよね?“誰かの為に、自分の身を犠牲にする事ができる人か”って。」
「え……?う、うん……」
「俺は、そういう人間です。」
宇佐美が淡々とそう言い放った瞬間、幽美が黒縁メガネの奥でハッと目を見開いた。宇佐美は一旦幽美の身体を引き離すと、彼女の涙で濡れた目をまっすぐ見つめながら続けて言った。
「俺は昔からそう言う奴なんです。誰かが困ってたりしたら、よほど相手が悪人じゃない限りは、本能的に相手を助けようとすぐ動いちゃうんです。ハルにも……相方にも、よく言われます。お前は誰に対しても優し過ぎるって。」
「……」
「それに、俺は副会長もそう言う人間だと思いますよ。」
「えっ」
「副会長だって、学園の生徒達の事を第一に考えて活動してるんですよね?魔女の件だって――やり方はどうあれ――結局は生徒の為に頑張ろうって思ったから行動したんでしょ?さっきだって、自分の身を顧みずに俺を毒から守ろうとしてくれた……生半可な気持ちじゃできない、すごいことだと思います。」
宇佐美の言葉を前に、幽美の心から重りの如くのさばっていた負の感情がじわじわと消えていく。思わず呆然とした表情を見せながら、幽美は宇佐美の顔をじっと見つめ続けた。
今まで自分は、生徒達という他人の為に必死に頑張り続けてきた。しかし、彼ら彼女らから感謝や労いの声が返ってくることは、副会長になりたての頃を除けば殆ど無かった。幽美の懸命な活動を受け止めてくれたのは、せいぜい青春ぐらいしか居なかった。皆が皆、“副会長ならそれぐらい当然だろ”と言わんばかりに、幽美に対して何の反応も見せなかったのだ。それが逆に幽美の心を鎖の如く縛り付けていた。皆が無視をすればするほど、嫌われることを恐れた幽美は自分をとことん追い詰めてしまったのだ。自分の頑張りに対する見返りが欲しいあまりに、優しさを忘れてがむしゃらに行動してしまった。その結果、罪悪感に苛まれつつも狼の力に溺れて人を傷つけてしまったのだ。
しかし今――青春とは違う別の人間が、面と向かって自分の行動を受け止めてくれた。今の幽美にとって、それ以上に嬉しいことは無かった。
「確かに人を傷つけるのは悪い事ですけど、勝手に魔女とか言って副会長を追い詰めた奴らにも責任はあります。だから、副会長1人が悩む必要は無いんですよ。」
「……!で、も……」
「副会長。あんたは十分頑張ってきた。自分のやってきた事も、ちゃんと悪い事だって振り返れてる……今は、それだけで十分ですよ。」
宇佐美が真剣な眼差しで幽美の顔を見つめる。幽美の頬がほのかに赤く染まった。彼の言葉で感極まったのか、幽美の心臓はドキドキと不思議な鼓動を刻んでいた。
「とにかく、今はここから離れましょう。お互いにボロボロだし、時間も遅いから……副会長、歩けそうですか?」
「……うん……うん……!歩ける、よ……!」
再び幽美の目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。しかし、それは悲しみや絶望によるものではなく、宇佐美に対する強い感謝の念に溢れた涙だった。
幽美は宇佐美に支えられながら立ち上がると、しきりに彼に向かって泣きながら「ありがとう」と「ごめんね」という言葉を繰り返した。宇佐美が“気にしないでください”と言うように背中を擦りながら、幽美と共に散らかった部屋の中を後にする。
幽美の狼はいつの間にか姿をくらましており、狼のいた跡だけがシミとなって月明かりの下で照らされていた。
***
十数分後――
「いや~それにしても、宇佐美くんも大変だったねぇ。人狼の子を相手に、まーたあんな人里離れた場所で戦っちゃってさ。」
ハンドルに顔を乗せながら信号待ちをする笹木がそう言った。バックミラー越しに見える宇佐美の顔には若干疲労の色が見えている。隣に座る幽美が申し訳無さそうに目を伏せるが、それを見た宇佐美は首を左右に振りながら幽美の背中を優しくさすった。
あの後――幽美を連れて建物の外に出た宇佐美は笹木に連絡をし、車を出してもらえないかと彼にお願いをした。スマートフォンのマップで調べてみた結果、ここから病院までの距離がかなりある事が分かったからだ。幽美を支えながら徒歩で向かえば余裕で間に合わない程の距離だった。丁度勤務中だった笹木は事情を知るや否や、直ちにパトカーを出して宇佐美達の元に駆けつけた。幽美と共に車に乗った宇佐美は、取り急ぎ狗井にも連絡をし、事のあらましを彼女に伝えた。しかし、狗井は宇佐美の行先を知らなかった上に、建物内の電波が悪いせいで電話もなかなか繋がらなかったのだ。そのためか、電話が繋がった途端、狗井は電話越しに激しく怒号を響き渡らせ宇佐美相手に容赦なく怒鳴り散らかした。その声は笹木や幽美にも聞こえてしまったため、運転中だった笹木が思わず苦笑を浮かべていた。どうにか電話を終えた後、幽美は何度もペコペコと謝るように頭を下げていた。宇佐美が大丈夫だと言うように慌てて彼女を宥めて――現在に至る。
「そんでもって、毒を操る能力か。そういや午後のニュースで、大神学園の爆発事故みたいなのが報道されてたね。もしかしてあれ、君……というか、ハルちゃんと君の仕業だったりする?」
「……!!」
笹木から例の爆発の話を挙げられ、幽美がビクッと怯える様に身体を震わせる。その反応から図星なのだなと察した笹木が納得したようにウンウンと頷いた。
やはり規模が大き過ぎてテレビに取り上げられてしまった様だ。笹木によると、爆発の原因はガスに引火したからだと報道されているらしい。ガスがどこから出たのか、火はどこから生じたのか等はまだ捜査中らしいが、多分迷宮入りになるだろうねと笹木は言った。結局は人間の目に見えない狼の能力同士が衝突して起きた爆発なのだ。物理的証拠は恐らく一生見つからないだろう。宇佐美もその事を悟り、目を伏せながら眉をひそめた。
すると、それまで俯いて黙り込んでいた幽美が、不意に顔を上げて笹木に言った。
「あの、警察官さん……」
「笹木でいーよ。」
「さ、笹木さん……私は、とても悪い事をしました。爆発事故だけじゃありません。私は、自分の狼の力で、色んな人を傷つけてきました。ほとんどの人が病院に入院してて、まだ退院出来ていない人もいます。」
「……!副会長……」
「だから、笹木さん……私を、逮捕してください。罰を受ける覚悟は出来ています。刑務所に入る覚悟も出来ています。治療が終わった後でも構いません……私を、逮捕してくれませんか?」
幽美からの唐突な告白と懇願に、宇佐美だけでなく、笹木も運転をしながら思わず目を丸くする。幽美の顔はどこまでも真剣で、冗談を言っているような雰囲気は微塵も感じられなかった。が、笹木はすぐに首を左右に振ると、バックミラー越しに幽美の顔を見つめながら言った。
「悪いけど、ちゃんとした証拠が無い限り、お巡りさんは君の事を現行犯逮捕する事は出来ないよ。人狼って存在はただでさえ知名度低いし、人によっちゃ御伽噺上の存在だって言われる始末なんだ。それに、証拠ですって言って君が狼を出したところで、普通の人間の目には見えないし……ともかく、人狼だからって理由だけでお縄に付くのは難しいよ。」
「そ、そんな……」
「いやいや、そこまで驚くことかな?むしろ、こういう時って捕まらない様に動くのが普通じゃない?悪い事をする人狼はほとんどがそんな感じなんだけど……君も宇佐美くんと同じで、本当はとっても優しい子なんだね。」
笹木はそう言うと小さくニコッと笑い、ハンドルを操作して近くの駐車場に入った。病院からはほど近いが、病院の敷地内にも一応駐車場はある。何故そこに停めないのかと宇佐美が尋ねると、パトカーで入って下手に騒がれるのが嫌だからと笹木は答えた。
「俺はここで待ってるから、宇佐美くんはその子を病院まで送ってくれるかい?警官服の俺が一緒に行っちゃったらアレだしさ。戻ったら孤児院まで送ってあげるよ。」
「……分かりました。ありがとうございます、笹木さん。」
宇佐美がペコッとお辞儀をして、幽美を連れながら駐車場を後にする。幽美も去り際に笹木に向かって深深とお辞儀をしながら、宇佐美と共に病院の敷地内へと向かった。
数分後――笹木のいるパトカーに宇佐美が戻ってきた。幽美の方はどうしたのかと笹木が聞くと、治療の為しばらく入院する事になったと宇佐美は答えた。入院といっても期間は1、2日程度で後は通院という形になるらしい。それを聞いた笹木が不意にフフッと小さく笑う。目ざとくそれを見逃さなかった宇佐美が、少し不服そうに笹木を睨みながら言った。
「……なんすか、急に笑いだして。」
「いや……宇佐美くんがハルちゃん以外の子を守って気にかけてて、珍しいなぁって。」
「馬鹿にしないでください。俺だって、ハル以外の人を守ることぐらい普通にありますよ。」
「ごめんごめん、分かってるって……でもねぇ、お巡りさん的に君はもうちょっと他の子にも意識を向けるべきだと思うよ。一人の人間にばっかり固執してると、周りからの視線を見落とす事だってあるからね。」
「………」
宇佐美が険しい表情を見せ、無言のままパトカーに乗り込む。笹木は笑顔を崩さないまま運転席に乗ると、宇佐美を乗せてパトカーを発進させた。向かう先は、狗井の待つ孤児院だ。到着した瞬間狗井がブチ切れて怒鳴り散らかすであろう姿を想像し、笹木が心の中で宇佐美に向けて合掌する。
大神町の夜空に浮かぶ満月が、宇佐美を乗せたパトカーを静かに照らし出していたのだった。
***
翌日
大神町某所 総合病院――
「狗井さん、本当にごめんなさい!!」
「え、開口一番に謝罪!?つーかなんで謝られてんの俺!?」
「本当ですよ!!いきなりどうしたんですか、副会長!?」
電動の病院ベッドの上で頭を下げる幽美を前に、狗井がギョッと目を丸くしながら後退りをする。先に幽美の見舞いに来ていた青春も驚いた様に椅子から飛び上がっている。狗井と共に病室に入った宇佐美が、真実を受け止める覚悟があるかを青春に聞いた上で、彼女に事のあらましを伝えた。
魔女伝説における魔女の正体が幽美であること。
意見箱に投函された紙は全て幽美が1人で管理していたこと。
爆発事故を引き起こした原因にも幽美が絡んでいるということ。
そして、爆発事故の後に起きた出来事等々……
一連の話を聞いた青春は、愕然とした様子で幽美の顔を見つめた。幽美はそれらの事を最初から青春に話そうと思っていたらしく、代わりに話してくれた宇佐美に向かってお礼の言葉を投げかけた。昨日の夜に予め宇佐美から話を聞いていた狗井が呟く。
「にしても、マジであんたが魔女本人だったとはな……本当、人って見た目によらねぇ生き物なんだな。」
「なんなんだ、その言い方は。まぁ、それはいいとして……奇跡的に軽傷で済んで良かったですね、副会長。明日には退院出来るらしいし。」
「うん……宇佐美くん、ごめんね。夜遅くまで、私に付き合わせちゃって。狗井さんも、爆発事故に巻き込んじゃって、本当にごめんなさい。」
幽美がそう言いながら申し訳なさそうに顔を俯かせる。狗井が「いいっすよ、もう。とっくに終わったことだし、そんなに怪我もしてないし」と答えるが、幽美の表情は曇ったまま晴れることは無かった。幽美はそのまま青春の方に顔を向けると、呆然と椅子に座る彼女の顔を見つめながら言った。
「ごめんなさい、青春ちゃん。ずっと私の事を傍で支えてくれたのに、恩を仇で返す様なことしちゃったね……本当に、ごめんなさい。」
「……いえ……私こそ、ごめんなさい。」
青春がそう言いながら幽美の手を優しく握りしめた。幽美がえっと言いながら目を丸くする。狗井達が少し不安そうに見守る中、青春はいつもの真面目な表情を見せながら幽美に言った。
「私こそ、自惚れていました。実は、副会長の事を一番理解しているのは私だと、心の中で常々思っていたんです。でも、本当は何も分かっていなかった……1人で悩み苦しんでる副会長に、気づくことができなかった。こんなんじゃ私は、風紀委員どころか生徒会の一員とて失格です。もう私に、あなたの傍にいる権利なんて無いんです……!」
「……!!そんな事ないよ!青春ちゃんは、何も悪くないよ!!」
幽美がバッと青春の手を振り払い、彼女の身体に抱きついた。驚いた青春がピシッと身を強ばらせる。狗井達も思わずどよめくが、幽美は気にすることなく青春の身体を抱きしめながら言った。
「あなたは、私が風紀委員の時からずっと一緒に居てくれたでしょ?いつも、ずっと私の傍に居てくれた……私にとっては、最高の後輩で、最高の友達なんだよ。そんなあなたが、自分のせいだって言って、私から離れるだなんて……そんなの、私は嫌だ。私、青春ちゃんと離れたくないよ……!!」
「ふ……副会長……!!」
幽美の目から大粒の涙がこぼれ落ち、青春の目にも涙が滲み出る。感極まった様子で青春も幽美の身体を抱き締め返し、ここが病室なのも忘れてお互いにワンワンと泣き始めた。そんな2人を見つめながら、苦笑いを浮かべた狗井がため息混じりに呟く。
「やっぱりこいつら、めちゃくちゃ仲良いんだな。宮葉を襲った魔女って聞いたからどんなクソ野郎かと思ってたけどよぉ……こんなん見せられたら責めたくてもなんか責めきれねぇよな。」
「そうだな……副会長だけの問題じゃなさそうだし、副会長本人もかなり反省してるしな。」
「宮葉の奴が聞いたらぶち切れそうだけど……まぁ、とりあえず今は、あいつらだけで放っておこうぜ。生徒会内の積もる話には、わざわざ首突っ込まねぇ方がいいしな。」
狗井はそう言うと、宇佐美の脇を小突きながら病室を後にしようと目で催促した。宇佐美も頷き、狗井と共に歩き出そうとする。
しかし、2人の歩みは1歩も進むこと無くその場に留まることになった。というのも――
「いやぁ、大団円で結構!先輩と後輩の間で紡がれる、何とも美しい愛と絆……やっぱり素晴らしいよ、君達2人は!生徒会の一員にふさわしい美しさだ!生徒会長として、僕はこの上なく誇りに思うよ!」
「「!!??」」
突然2人の背後から、やけにご機嫌な様子の青年の声が聞こえてきたからだ。あまりにも唐突に響いたその声に対し、狗井と宇佐美が同時にビクッと身体を震わせる。慌てて後ろを振り返ると、いつの間に入ってきたのだろうか、群青色の短髪が特徴的な青年が病室に入り口付近に立っていた。大神学園の制服を着ているため、狗井達と同じ学校の出身らしい。が、狗井達にとっては見覚えのない人物なので、2人揃って警戒気味に青年の顔を睨みつけた。すると、先程まであんなに泣いていた青春が涙を引っ込めて、恨みがましそうに青年の方を睨みながら言った。
「……生徒会長。なんでこんな所に居るんですか?」
「ちょっとちょっと、そんなに怖い顔をしないでよ。アレかな?僕の登場のせいで、感動の瞬間を邪魔しちゃったのかな?だとしたらすぐに謝ろう。美しい瞬間を自らの手で潰すのが一番タチの悪い事だからね。」
青年は流暢な口調でそう言うと、器用にくるりと一回転しながら狗井の目の前に躍り出た。驚いた狗井が思わず後退りをするが、青年は気にすることなくニコニコ笑顔を崩さないまま彼女に言った。
「あぁごめんね、唐突にお邪魔しちゃって。君と直接会うのは初めてなんだっけ?だったらちゃんと自己紹介をしなきゃいけないね。僕は南本竜二、大神学園で生徒会の生徒会長をしているよ。よろしくね!」
青年――南本がそう言いながらパチンッと露骨にウインクをした。狗井が、嫌悪感が最高潮に達した表情で南本の顔を睨みつける。しかし、南本は気にすることなくケラケラと笑うと、狗井の顔をジロジロと舐め回す様に見つめながら言った。
「あはは!面白い表情をするねぇ君!怒った表情もいいけど、嫌悪に満ち溢れた苦い表情も可愛くて仕方がない。もっと見てみたいなぁ、君のそういう表情。ねぇ、見せてくれないかな?ねぇねぇねぇ?」
「な、なんだよコイツ……気持ち悪っ……」
苦虫を嚙み潰したような顔を見せた狗井が思わずそう呟いた瞬間、宇佐美が狗井を庇うように南本の前へ躍り出た。宇佐美の嫌悪感と怒りに満ちた表情を前に、一瞬ポカンとしつつも南本が乾いた笑い声を上げて呟く。
「あっは!そっか、専属のSP付きだったか……これはどうも失礼。それにしても、君のその兎耳頭巾可愛らしいね。兎は寂しいと死んでしまうと言うから、ご主人様にぴったり連れ添う君にはとってもお似合いだね!素敵だと思うよ!」
「………」
南本の揶揄う様な言葉に対し、宇佐美の表情がより険悪なものになる。それを見た南本は降参と言わんばかりに両手をあげると、今度は幽美達の方に顔を向けて言った。
「あ、そうだそうだ。今日は幽美さんのお見舞いに来たんだった!明日には退院出来るんだってね、良かったね幽美さん!君が怪我をしたって聞いた時は、僕のこの小さな心臓が勢い余って止まってしまうかと思ったよ。でも、元気そうで本当に安心した!あまり無理はしないでね?君は大神学園のこの上ない希望なんだからさ!」
「あ、えっと……ありがとう、ございます……?」
饒舌に語る南本を前に、幽美はオロオロと目を泳がせながらも、首を傾げつつお礼の言葉を述べた。青春が咄嗟に「答えなくていいですよ!」と突っ込み、慌てて幽美の口を軽く塞ぐ。
明らかに病室内に気まずい空気がのしかかるが、それを呼び出した張本人は全く気にすることなくクルクルと回りながら病室の入り口まで戻った。そして、恭しくお辞儀をしながら――南本は最後の最後でとんでもない言葉を放ったのだった。
「まぁ今日はお見舞いついでの顔合わせって事だから、そろそろお暇させてもらうよ。それじゃあまた会おうね――狗井遥さん、宇佐美翔くん。」
「……!?ちょっと待て、なんで俺達の名前を知って――」
唐突に、名乗った覚えの無い名前を呼ばれてギョッと目を丸くする狗井と宇佐美。驚いた狗井が慌てて呼び止めようとするが、南本はすかさず片手間で部屋の扉を開き、あっという間に外に出て行ってしまった。取り残された4人の間に、なんとも言えない微妙な空気が漂い始める。すると、それを払拭する様に青春がコホンと咳払いをし、呆然と立ち尽くす狗井に向かって言った。
「狗井さん、先程の方……生徒会長は、何でも知ってる方なんです。いっつも自由奔放で掴み所がない、まさに幼い子供みたいな人です。そのくせして頭の回転は無駄に早いから、私達生徒会の役員全員が彼に散々振り回されているんです。」
「……俺的には、ただただ気持ち悪い奴にしか見えなかったけどな。」
青春の話を聞いた狗井はそう呟きながら、疲れたと言わんばかりに深く息を吐き出した。生徒会長の顔を見るのは先程のが初めてだが、まさかあそこまでウザったらしい人物だとは夢にも思わなかったのだ。宇佐美が心配そうに狗井の顔を覗き見るが、狗井はぶんぶんと顔を左右に振って彼に大丈夫と応えた。
その後、少し雑談を挟んだ狗井達は、2人に別れを告げて病室を後にした。本当は同じ病院で入院している宮葉の見舞いにも行きたいところだが、本人が誰とも面会をしたがっていないらしく、受付に行っても門前払いされてしまったのだ。
仕方がないので、狗井達はそのまま病院を後にした。帰り際に、狗井が病院の方を振り返る。宮葉と再び会えるのはいつなのだろうか。会えたら、また今まで通りにやかましくも賑やかに会話ができるのだろうか――そんなことを考えながら、狗井が少し寂しそうに目を伏せる。先を歩いていた宇佐美が狗井の名前を呼んだ。狗井がそれに応えて宇佐美の元に駆け寄る。
大神町の夏の夜は、少し肌寒い。
背筋に薄ら寒い何かが走るのさえ、突風のせいだと思いたくなるほどに。
***
「おかえりなさいませ、坊っちゃま。お見舞いの方は如何でしたか?」
病院の敷地内に停められた、1台のワゴン車。その中に入るや否や、運転席に座っていた女性――羽純がそう尋ねてきた。南本は後部座席に横になると、肘掛の上で足をブラつかせながら羽純に言った。
「えー、わざわざ聞くぅ?どうせ僕のこと盗聴してるんだから、聞かなくても良くない?」
「生憎ですが、本日は盗聴器の類を使用していませんよ。先日の大規模な電波障害で、院内の警戒度が上昇している様ですので。」
「あー、そう言えばそうだったね……でもあれ凄かったよね!病院全体がほとんど機能停止してさ。流石は僕の義父の遺した最新技術って感じ!この調子で今の社長さんには頑張って欲しいねー。」
「……ついでですので、帰宅ついでに義父様の墓参りは如何ですか?」
「やーだよ。もうお墓の場所忘れたし、思い入れも特に無いし……さっさと帰ってお風呂入りたい。」
「かしこまりました。車を出しますので、ちゃんと座ってシートベルトを掛けてください。」
羽純にそう催促され、渋々と言った様子で南本が椅子から起き上がる。そのまま南本がシートベルトをかけるのを確認すると、羽純は車を発進させて病院の駐車場を後にした。運転の最中、南本が羽純に向かって話をし続ける。
「そうだ羽純、聞いてよ……さっき見舞いに行ったら、たまたま狗井さん達に会えたよ。」
「おや、それは運がいいですね。どのようなお話を?」
「んー特に何もー。意外と無口な子達でさぁ。会話が盛り上がらなかったからすぐに病室飛び出しちゃったよ……でも、幽美さんと狗井さん達の間に関わりが出来てるだなんて意外だなー。パッと見は鎖国系だと思ってたから余計そう感じちゃったよ。」
「……関わりが出来るように仕向けたのは、紛う事なきあなた自身でしょうに。」
「あれ、バレてた?羽純には何も言わなかったつもりなんだけどな。」
「坊っちゃまの行動は全てお見通しです。漆村幽美が人狼だと判明した瞬間、当時話題になっていた教師を利用して、架空の生徒を演じながら紙を入れた。そして、彼女が紙の指示通りに行動をした際に、騒ぎに便乗して魔女伝説とやらを勝手にでっち上げて広めた……違いますか?」
「やぁーだぁー!俺の身近な人にストーカー居るんですけどぉー!?洞察力にステータス振りすぎじゃない?」
「……私は坊っちゃまのお世話係ですよ。あなたがウッキウキで、それっぽく紙に文字を書いていたのを見逃すとでも?」
「……まぁ、人狼同士はいつしか繋がり合う運命だからね。僕はその結びつきのお手伝いをしてあげただけさ。」
「坊っちゃまらしい慈悲深い行いです。その御心、いつまでも忘れないで下さいね。」
「はいはい、分かりましたよ。お世話係さんのお望みのままにー。」
――大神町の通りを、1台のワゴン車が走り抜ける。
何の変哲もないその車内に、予想だに出来ない大番狂わせを狙う青年達を乗せているとは、誰も気づかないまま。
――参日目 終幕――
*キャラクター紹介*
※一部動画版のコメント等より引用→https://www.youtube.com/watch?v=qvAaALh4uoA&t=4s
♀漆村幽美-うるしむら かすみ-(17)
大神学園高等部2年で生徒会副会長。狼の影響で怪我を負いやすく、常にほぼ全身に包帯や絆創膏をつけている。気弱な性格で自己主張が苦手。自由奔放な南本にほぼいつも振り回されている。
幼い頃に弟の昇と共に父親から虐待を受けていた。現在は母が入院しており、昇と共に2人で暮らしている。
役職名:毒牙の人狼…毒を操る人狼。固体・液体・気体と、様々な形状の毒を自在に排出することができる。毒の効果は幽美自身にもある上に、狼が幽美に対して非常に攻撃的な性格をしていることもあり、幽美本人の体には生傷が絶えない。狼の体からも毒が常に排出されているため、安易に近づくのは大変危険である。
♀青春翼‐あおはる つばさ‐(16)
大神学園高等部1年で生徒会風紀委員。誰に対しても基本的に敬語で話すほど真面目な性格。副会長である幽美とは中学生時代からの知り合いで、彼女の事を他の誰よりも深く尊敬している。宮葉同様人狼ではないため狼の姿は見えない。