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汝は人狼なりや。  作者: 独斗咲夜
21/70

拾日目ー後半戦

***



数日後

大神学園中等部校舎5階 中等部図書室―――



「え!?暇部(いとまぶ)の設立がガチで決まった!?嘘だろ、マジかよ!!」

「ちょ、きぃくん声大きいよ!!シーッ!シーッ!」


思わずガタッと立ち上がる猿道菊彦(えんどうきくひこ)を慌てて宥めながら、少女――大塚華子(おおつかはなこ)はオロオロと視線を泳がせた。菊彦だけでなく華子の声もそこそこの大きさがあるため、周囲に座る他の生徒たちが一斉にこちらに視線を向けてくる。我関せずと言わんばかりに新聞紙を読んでいた少年――漆村昇(うるしむらのぼる)は、無言のまま菊彦と華子に向かってジェスチャーで『静かにして』と注意した。菊彦と華子がお互いに恥ずかしそうに眉をひそめながら椅子に座り直す。

事の発端はほんの数分前。

午前中で終了した授業の後、菊彦と昇は隣のクラスに所属していた華子によって、急遽図書室へと集合をかけられた。何事だと集まった2人の前で、何やらソワソワし続けていた華子は堂々と言い放ったのだ。

―――先日、例の書類を提出した暇部の設立が、担当の教師によって正式に認められた―――

無論その知らせを前に、菊彦や昇が驚きを隠せる訳もなくて。たまたま新聞を読んでいた昇は辛うじて表には出さなかったが、菊彦は思わず反射的に声を上げてしまい――現在に至る。


「でも、マジですげーじゃん!正直2次審査で切り捨てられると思ってたのに……良かったな華子!お前の夢が遂に叶ったな!」

「うん!きぃくん、昇くん、本当にありがとうね。2人がいなかったら、絶対に実現出来なかったから、凄く助かったよ~!」


先程興奮しすぎたことを反省したのか、菊彦と華子がお互いに顔を近づけながら小声で言葉を交わし合う。静かにしろとは言ったが、そこまで細々(ほそぼそ)と話せとは言っていない。昇は読んでいた新聞紙から顔を上げると、かなりの小声でヒソヒソと話す菊彦と華子の近くに身を寄せた。


「協力したのは僕達だけじゃないよ。後で狗井先輩とか宮葉先輩とか、あと生徒会の人達にもお礼の言葉言っておかないと。」

「あ、そうだよね!高等部の方もそろそろ授業終わってるだろうから、後で行かなきゃ……んーでも、先に部室棟の方にも行きたいなぁ……例の部室の下見とかしておきたいから……」

「え?もう部室も決められてんの?なんか色々とやけにスピーディーだな。」


菊彦がそう呟きながら肘をついて首を横に傾げた。この間までは頚椎カラーをつけていたが、怪我の治療が進んだお陰で今は包帯を軽く巻く程度にまで回復している。そんな彼の横で、昇も怪訝な表情を見せながら華子の顔を見つめて尋ねた。


「たしかに、書類を出したのは一昨日のはずなのに、部室まで決まるなんてかなり早いよね……華子、先生達になんか圧でもかけたの?」

「違うよ、全然違う!全然使われてない空き部屋があるから、そこを暇部の部室にしようって先生達の間ですぐに決まっただけだよ。私に設立決まったこと教えてくれた先生がそう言ってたもん!でも……」

「でも?」

「その決められた部室がね……いわゆる、訳あり(・・・)の部室なんだよね。2人は知ってる?部室棟(ぶしつとう)の1階の一番奥にある、呪われた部室の話。」


少し怯えたように目を伏せながら眉をひそめる華子。昇は知らないと言う様に首を横に傾げたが、菊彦は合点がいった様に目を見開きながらポンッと己の手を叩いて言った。


「あー知ってる知ってる!軽音楽部の先輩から聞いたことあるわ。」

「そっか。そういや軽音楽部の部室も部室棟にあるんだっけ……で、僕は全然知らないんだけど、呪われた部室って一体なんなの?」


訝しげな表情を見せる昇の前で、華子は周囲をキョロキョロと見渡してから声を潜めて話し始めた。


「部室棟の1階の一番奥に、今は全然使われてない部室があるの。元々は美術部の部室だったらしいんだけど、1年ぐらい前にある事件があってから、生徒どころか先生すらもその部屋に近寄らなくなったんだって。」

「事件?」

「そう……なんかね、1年ぐらい前に美術部に所属してた3人の生徒が大怪我を負ったんだって。その後、学校側が部室棟の中を一斉にリフォームしようとした時にも、片付けに向かった生徒会の人達が何人か怪我をしたの。それぞれ人達の話によると――美術部の人達も生徒会の人達も、部屋の中にあった1枚の絵を運ぼうとした時に、急に周りにあった備品たちが宙を舞って(・・・・・)襲いかかってきたんだって!椅子とか画材道具とか、もうとにかく色んな物が部屋中を飛び回ったんだって!それぞれの事件の後、先生達も部屋に向かったらしいんだけど、そこでも同じ現象が起きて数人が軽い怪我をしたんだって。そのせいで、その部室だけしばらくの間立ち入り禁止になってたの……今はもう普通に入れるらしいけど。」

「そんないわく付きの部屋を、暇部の部室にするの?本気……と言うか、正気なの?」


嫌悪感をあらわにしながら露骨に眉をしかめる昇。華子はうぐっと一瞬言葉を詰まらせたが、グッと己の両手を握りしめながら昇の顔を見つめて言葉を返した。


「の、昇くんの言いたいこともわかるよ!私も本当は怖いもん!物が宙を舞うなんて、もう完全にただのポルターガイスト現象だもん!でも……そこ以外に空いてる部屋が無いって先生に言われたから、こればっかりはもう妥協して諦めるしかないよ。夏休み前に部活自体を設立する事は出来たから、それぐらいの我慢はしなくちゃ……」

「まぁ何はともあれ、少なくとも1回はその部室の中身とか見ておかねぇとな。噂話の通りだったら、中の片付けとかまともに進んでなさそうだし。」


菊彦が苦笑混じりにそう言いながら、後頭部に手を回し椅子の背もたれに深く身を委ねる。昇もため息を吐くと、読んでいる最中だった新聞紙を再び手に取りながら淡々と言葉を紡いだ。


「だったら菊彦と華子の2人で行ってきなよ。僕はここで勉強してるから。」

「えー!昇くんも一緒に行こうよ!きっと昇くんのお姉さんも見に来てると思うよ?部室の片付けする時って、必ず生徒会の人達も来るらしいから……」

「い、や、だ!怪我人が出た危険な部屋に自分から行くなんて、そんな自殺行為みたいなことは絶対にしたくない!行くなら2人で行ってきて……もし姉さんがいたら、僕が図書室に居ること伝えておいてね。」


昇は強調する様に冷たく言い放つと、新聞紙を大きく広げながら視線を華子達から逸らした。宣言通りこのままここで勉強――正確には新聞を読むだけなのだが――をするつもりらしい。華子が眉をひそめながら不満そうにぷくぅと頬を膨らませる。すると、菊彦はそんな彼女に向かって小さく微笑みながら、どこか申し訳無さそうにウインクをして呟いた。


「悪いな華子。俺も首の怪我があるから、実はそろそろ病院に行かなきゃなんねぇんだよ……だから、今日は悪いけどパスで!」

「えー!?きぃくんも来れないのぉー!!?そんなぁ……!!」


絶望したように大声を上げながら、華子が椅子からガタッと勢いよく立ち上がる。その瞬間、再び周囲に座る他の生徒たちが華子の方に視線を向けた。受付にいる図書委員と思しき生徒も、疎ましげにこちらを睨みつけている気がする。昇と菊彦が慌てて『座れ』とジェスチャーを送ると、華子はハッと我に返ってアワアワしながら椅子に座り直した。


「うぅ……しょうがないなぁ。いいもん、私1人で行くもん!どんなに呪われた部室でも、ぜ、全然怖くないもん!」

「いや、普通に狗井先輩達とか連れていけばいいんじゃないの?」

「やだ!もし事件の時と同じ現象が起きたら先輩達が怪我しちゃうでしょ?私の我儘(わがまま)のせいで、大切な先輩達を傷つけたくはないもん。前に皆を守れるぐらい強くなるって決めたし……私、1人でも立ち向かえるように頑張るよ!呪いとかが実際にあっても、全部私1人で退治しちゃうんだから!」


華子はそこまで言葉を捲くし立てると、強い決意を抱いた表情で3回目の勢いある起立をした。そのまま持ってきていた鞄を手に取り、菊彦達に向かって手を振りながら足早に図書室を後にする。思わず菊彦も立ち上がってあとを追いかけようとしたが、周囲の生徒達からの視線に気圧されてしまい少しだけ出遅れてしまった。菊彦が図書室の外に出た時には、既に華子の姿はどこかへと消えていた。


(1人で退治するって……あいつ、戦える力なんてほとんど持ってないのに、大丈夫なのかよ……)


図書室の入口付近で立ち尽くしながら、菊彦は心底困ったと言わんばかりに頭をかいた。本当はあとを追いかけたい所だが、この後すぐに病院に向かわなければならない。もし行かなければ、家にいる母親にバレてこっぴどく叱られてしまうのだ。

密かに心の中で葛藤する菊彦をしりめに、昇はその場に座ったまま静かに新聞を見ていた。読解力を身に付けるために読んでいた新聞だったが、誰かの死亡を綴った不穏な記事を見かけた瞬間、昇は眉をひそめながらすぐにその記事から目を逸らしたのだった。



***



大神学園高等部体育館横 部室棟1階―――



「あれ?副会長!」

「大塚さん!?どうして、ここに……?」


とある部屋の前に立っていた少女――漆村幽美(うるしむらかすみ)。生徒会所属の副会長でもある彼女の傍に駆け寄ると、華子はニコニコと満面の笑みを見せながら幽美に言った。


「暇部の部室が決まったみたいなんで、下見をしに来ました!副会長はどうしてここに?」

「あ、あの……私も、暇部の部室を確認しに来たの。丁度ここが、その部室になるんだけど……」

「……あっ……」


ひどく申し訳無さそうに幽美がそう言った瞬間、華子の笑顔が途端にピシッと強ばってしまう。そのまま華子は本能的に後退りをしながら顔を上に向けた。部活動の名前が刻まれた表札に掠れた文字で『美術部』と書かれている。扉はひどく古くなっており、周囲の改築された部屋や廊下と比べても明らかに雰囲気が異なっている。幽美は己の胸の前で指を交差させると、オドオドとした口調で続けて言った。


「実は、さっき先生に、この部室の中の片付けをして欲しいって頼まれたんだよね。本当は複数人でやる仕事らしいんだけど、手が空いてたのが私ぐらいしかいなくて……」

「それで1人でここに立ってたんですね……ところで、副会長は知ってますか?例の、この部室にまつわる噂話を。」

「うん……美術部の生徒達と、生徒会の人達が大怪我を負った事件のこと、だよね。生徒会の人が怪我をした時、私はたまたま現場に居なかったんだけど……あの時、皆が口を揃えて“物が浮いてた”みたいな事を言ってたから、正直今少し怖くて……」


幽美が怯える様に身を縮こませながら紫色の目を伏せる。副会長と言えども、やはり怖いものは怖いと感じているらしい。例の事件の被害者達が所属する生徒会の一員なのだから恐怖もひとしおだろう。それでも、副会長故に仕事を断りきれなかった彼女を前に、華子の中に芽生えていた正義感がむくむくと頭をもたげた。

困っている人が目の前にいるのだ、同じようにビクビクと怯えている場合ではない。

華子はぐっと拳を握りしめると、己の胸元をドンッと強く叩きながら言った。


「大丈夫です、副会長!私がここに居ます!一緒に中に入って片付けを進めましょう!」

「……!大塚さん……いいの?本当は私が、1人でやらなくちゃ、いけない仕事なのに……」

「私は全然平気です!むしろ、副会長のお手伝いをさせてください!1年近く放置されてるのなら、きっと中は埃だらけで1人じゃ手に負えないですよ!二人でやった方がきっとスムーズに進みますよ!ね?」


華子はそこまで言うと、申し訳なさそうな表情を見せる幽美の手をギュッと握りしめた。固い決意を抱く華子の目に真っ直ぐ見つめられ、幽美が少し恥ずかしそうに頬を赤らめながら微笑んだ。


「う、うん……そうだね。1人よりは2人の方がいいよね。ありがとう、大塚さん。お世話になります。」

「いえいえ!こちらこそよろしくお願いします!」


お互いに手を軽く握りながら、幽美と華子が柔らかな笑顔を見せる。2人はそのまま扉の前に立つと、それぞれ目を合わせてから意を決して扉を開けた。

――室内はカーテンが閉められており、午後の早い時間帯にもかかわらず薄暗かった。幽美が恐る恐る部屋の中に1歩踏み出す。ゴミなどが散乱してるのでは、と予想していたが思ったよりも床は汚れていないらしい。幽美が半ば手探りで部屋の中に入ると、華子もその後に続いて室内にお邪魔した。


「えーっと……電気、どこだろう……カーテンまではちょっと、距離があって行けそうにないなぁ……」

「あ、副会長!多分電気のボタンこれですよ……押します!ポチッとな!」


壁伝いに歩いていた華子が、手元から伝わる感触を頼りにボタンをカチリと押し込む。その瞬間、薄暗かった室内が途端に蛍光灯の明かりで少しだけ眩しくなった。明かりがついたことで、部屋の中の全貌が遂に明らかになる。

部屋の端に寄せられた木製の机と椅子達。その上に重ねるように、使われなくなったキャンバスや様々な道具類が置かれている。古ぼけた棚の中には、絵の具やら筆やらバケツなど、様々な画材道具が乱雑に突っ込まれていた。その上には埃をかぶった小さな彫像が何体か並べて置かれている。

そんな乱雑かつ埃まみれの部屋の中でも一際目立つのが――窓を背にする様に立てかけられた1枚のキャンバスだった。木製のよくあるイーゼルの上に置かれている様だが、薄汚れた不透明の布が被せられているため絵自体は全く見えない。幽美がそのキャンバスの前に立つと、それに気づいた華子が彼女の隣に立って首を横に傾げた。


「あれ?こんな所に絵とか飾ってたんですね。長い間立ち入り禁止になってたから、見に来る人とか居ないと思うんですけど……」

「そうだよね……椅子とかがどかされて開けた場所に、しかも分かりやすく目立つ様に置かれてるなんて……なんか、変だよね。」

「ふむふむ……これは何だか怪しいにおいがプンプンしますね。ちょっとこの布、どけてみましょうか?」


華子は上機嫌な様子でそう言いながら、今にも布に触りたそうに胸の前で手を動かした。幽美は「え!?」と声を上げて首を振ると、絵に近づきつつある華子の身を制しながらひどく慌てた様子で彼女に言った。


「ま、待って!一旦待って、大塚さん!もしかしたら、何かしらの事情で美術部の人達がここに保管してるだけかもしれないから……その、安易に触るのはやめた方が、いいんじゃないかな?」

「えー!まぁ、副会長がそこまで言うなら……と見せかけて、隙あり!!」

「あ……!待って、大塚さん――」


幽美の一瞬の隙をついて、華子が彼女の脇をくぐり抜けながら絵の傍へと近づく。咄嗟に幽美が体を捻って手を伸ばそうとしたが後の祭り。華子の手は、その時既にキャンバスに掛けられた布をがっしりと掴んでいた。


「美術部の皆さん、失礼します!いざ、ご開帳ー!!」


華子は高らかにそう言うと、手を引いて布をバッと上に引きあげた。幽美が『これはまずい』と言わんばかりに慌てて両手で目を塞ぐ。

華子が布を外した瞬間――2人の目の前に1枚の“絵”が現れた。

色褪せた布製のキャンバスに描かれた、1人の女性の絵。椅子のようなものに座った体勢で描かれており、膝の上で己の細い手を重ねている。元の色は分からないが上品さのある和服に身を包み、長い髪を三つ編みにして肩にかけている。絵の中の女性から見て左側の目の上には、明らかに鋭い刃物か何かで深く抉られた様な跡がキャンバスに残っていた。傷のついていない右目は固く閉ざされている。経年劣化故か、元の色が分からないほど古びているものの、そこにあったのは普通に美しい顔を持つ女性の絵だった。左目の傷さえ無ければ素直に綺麗な絵だと褒められた事だろう。華子が悲痛な面持ちで眉をひそめながら、躊躇いなく素手で女性の絵に触れて呟く。


「これはひどい……一体誰が、こんな深い傷をつけたんですかね?こんなに綺麗な絵なのに傷をつけられちゃって……これは流石に可哀想ですよ。どうにか直せないかな……」

「お、大塚さん……あまりベタベタと、触らない方がいいと思うよ。手に汚れとか、ついたらアレだし……」


おずおずと両手を離し顔を上げた幽美が、少し怯えながらも断続的にそう呟いた。ハッと目を見開いた華子が咄嗟に絵から手を離す。絵の中にいる女性は無論何も言わない。頑なに右目を閉じたままキャンバスの中で座り続けている。

華子は心底悲しそうに目を伏せたが、自分ではどうしようもないので、片付けに集中しようと頭を左右にブンブンと振った。不安そうな眼差しでこちらを見つめる幽美の方に顔を向けながら、華子が絵の方に布を戻そうと手を伸ばして言った。


「ごめんなさい、副会長。そろそろ片付けの方に取りかかりましょうか!この絵は後で美術部の部室の方に持っていきましょう。もしかしたら単純に忘れ物の可能性もありますし――」

「え、あの……大塚さん、布……浮いてる(・・・・)よ?」


華子の言葉を途中で遮りながら呟く幽美。何故か彼女が酷く青ざめた表情をしているのに気がつき、華子は咄嗟に顔を動かして己の手元に視線を動かした。

その瞬間、華子は目撃してしまった。

キャンバスにかけようとしていた布が、華子の手元を離れてふよふよと浮いていたのを。


『……布はもう結構よ。久々に外の世界を見れましたもの。もう暫くの間、(わたくし)に外の世界を堪能させて下さいな。』


突然、部屋の中に響き渡る凛とした女性の声。それと同時に、宙を舞っていた布は不規則に動きながら華子の頭上に移動した。そして、丁度華子の頭全体が隠れる様にバッと広がると、布は重力に従う様にばさっと華子の元めがけて落ちてきた。唐突に視界を奪われてしまい、驚いた華子がくぐもった悲鳴をあげて後ろに倒れてしまう。


「もぎゃああああ!!!?」

「お、大塚さん!!?」

『うふふ……御仁(ごじん)、なかなか面白い反応を見せるわね。あなたの様な感情表現の豊かな()、私は嫌いじゃないわ。』


慌てて華子の元にしゃがみこむ幽美。そんな2人を嘲笑う様に言葉を紡ぐ謎の女性の声。幽美が布を外しながらキョロキョロと辺りを見渡すと、声の主は痺れを切らした様子で幽美に向かって声をかけた。


『御仁。黒髪の御仁……貴女のその本紫(ほんむらさき)の瞳は飾りなのかしら?私はこちらよ(・・・・・・)。』

「……え……」


無事に布を外し終えた幽美が、ハッと目を見開きながらキャンバスの方に目を向けた。布が無くなり視界が開けた華子も、必死に瞬きを繰り返しながらキャンバスに顔を向ける。

2人が見たのは――まるでキャンバスの中で生きている(・・・・・)かのように動く、あの女性の絵だった。閉じていたはずの右目はしっかり開かれており、御所染(ごしょぞめ)の瞳が幽美と華子の姿をジッと見つめていた。女性が己の右手を軽く挙げながら小さく微笑んで呟く。


『ようやく私の方を向いたわね。初めまして、御仁。私に出逢えたこの奇跡、両者共々光栄に思いなさい。』

「え……え、絵が!絵が、喋ってるううぅううう!!!??」


絵の中の女性と目が合った瞬間、華子がギョッと目を丸くしながら後ろに飛び上がった。その(さま)がよほど滑稽だったのか、女性は左手で己の口元を隠しながらクスクスと静かに笑い続けた。幽美の手で華子から退かされた布が、再びふよふよと浮きながらキャンバスの傍に近づく。


『本当に面白い娘だこと。見てて全く飽きが来ない。御仁の様な方とは、出来ればもっと早い時期に会いたかったわ。』

「……あ、あの……あなたは一体、何者なんですか?どうやって、喋ってるんですか?」


華子の体を背中で庇いながら、しゃがんだままの幽美は女性の顔を見つめてそう尋ねた。その途端、女性はそれまで浮かべていた笑顔を消し去り、冷たい眼差しで幽美の顔を見つめ返した。幽美の背筋にゾワッと悪寒に近い震えが走り抜ける。


『黒髪の御仁。貴女、この場に()いても(いた)く冷静なのね。その肝の強さには敬意を表しましょう。でも、私は後ろの御仁の様な、感情を包み隠さない娘の方が好きよ。』

「あ、あの……今は、私の質問に答えてください!あなたは一体誰なんですか?何時からここにいるんですか?どうやって、私達と会話をしてるんですか?」


どこまでも冷静な口調の女性に対し、幽美は内心微かな恐怖を覚えつつも屈する事無く質問を投げかけた。すると、女性はため息を吐きながら右手で己の三つ編みを軽く弄りつつ淡々と呟いた。


『黒髪の御仁、そうやって矢継ぎ早に問いかけるのはおやめになって。一度の問いに対して一気に二つ以上の解が得られるとお考えなのかしら?一度の問いにつき得られる解は一つだけ。問いと解にも順番というものがありますのよ……お分かりになって?』

「……えっと、その……ど、どうしよう。会話が、しづらいな……」


余裕綽々と言わんばかりに言葉を紡ぐ女性を前に、次第に幽美がおどおどしながら視線を泳がすようになってしまう。絵と会話するなんて経験は今まで1度もないし、こんなに毅然(きぜん)とした態度を保つ人とも話したことが無いのだ。ただ、機嫌を損なう様な事をしてしまえば、途端に彼女の怒りを買ってしまうであろうことは流石の幽美でも予想ができた。幽美が頭の中で必死に言葉を選ぶ中、彼女の後ろに隠れた華子はキャンバスを真っ直ぐ見つめながら不意にポツリと呟いた。


「あの、副会長……あの女の人、両手は凄く動いてますけど、頭は全然動いてないですよね。やっぱり、あの傷が原因なんでしょうか?」

「……え?……あ、確かに。頭だけ、全然動いてないね……」


華子の言葉を受けて、ハッと目を丸くした幽美が改めて女性の方に視線を向ける。華子の言う通り、キャンバスの中の女性は先程から頭だけを全く動かしていない。右目は瞬きこそしているものの、本格的に動かしているのは細い両手だけだ。それが何に関係しているのかは不明だが、もしかしたら彼女の正体に関係しているのではと考えた幽美が注意深くキャンバスを観察する。

だが――華子の呟いた言葉は、女性の耳にもしっかりと届いていたらしい。女性は華子と幽美の顔をそれぞれ冷たく睨みつけると、辛うじてほぼ無傷な己の左頬を(さす)りながら淡々と呟いた。


『御仁……この世の中には、触れてはいけない事柄というものが沢山ありますのよ。私のこの左目に関してもそう……御仁は、他人の傷口に平気で塩を塗り込む方なのかしら?嗚呼、なんて恥知らずな娘だこと!』

「ち、違うよ!ただ、あなたのその傷……出来ることなら直してあげたいなって思ってるの。あなたがどうしてそんな傷を負ったのか……その理由を知りたいだけだよ!」


華子はそう言うと、幽美の肩を掴んで支えにしながらガバッと勢いよく立ち上がった。どちらも床の上にしゃがんでいたが、華子が先に立ち上がった事で出遅れた幽美がアワアワと意味もなく両手をばたつかせてしまう。そんな状況下でも、女性は冷たい口調を崩さないまま華子に向かって言った。


『御仁。私の全ては、御仁にとっては何もかもが無関係。そして、今となっては全て過去の出来事……赤の他人の隠したい事情に、気安く首を突っ込むのはおやめになって頂戴。』

「……い、嫌だ。私、できることならあなたの事を救いたい。あなたも本当は、その頭を動かしたいんじゃないの?両手は自由なのに頭は不自由なんて、そんなの不公平だし不便だよ!」


華子は半ば捲し立てる様にそう尋ねると、何の躊躇いもなくスタスタとキャンバスの傍に近づいた。幽美とは異なり、華子の中から恐怖心というものはもはや無くなっていた。自分以外の人間を守れるほど強くなりたい――そう望んだ少女の純粋な優しさが、熱い正義感へと変化し彼女の歩みを促していたのだ。

だが、これ以上近づくのは危険だと判断した幽美は、慌てて立ち上がり華子の肩を掴んで歩みを止めさせようとした。それでも華子は彼女の手を無理やり(ほど)きながら、絵の中の女性に向かって言葉を投げかけた。


「ねぇ、絵のお姉さん。私に何かできることは無い?絵の中だから、私達みたいにあんまり自由には動けないだろうけど……お姉さんのためになる事があったら、私頑張ってやってみるから……!」

『………』


絵の中の女性が神妙な面持ちで華子の顔を見つめる。本能的に嫌な予感を察した幽美は、華子の背中に隠れるように立ちながら不安そうに目を伏せた。

そして、長い様で短い沈黙の後――女性は己の右手を軽くヒラヒラさせながら、口元に小さく笑みを浮かべて華子に言った。


『そうね……では一つ、御仁に問いましょう――御仁、絵はお上手かしら?』

「え……絵?」

『そうよ。油彩画、水彩画、水墨画、ペン画等々(とうとう)……如何なる技法でも、如何なる画材でも構いませんわ。兎にも角にも、絵を描く才能はございまして?』

「えぇっとぉ……び、美術の成績は……2とか、その辺り、です……」


女性からの問いかけに対し、途端に一転してダラダラと冷や汗を垂らし始める華子。その瞬間、辛うじて温もりの残っていた女性の表情が、一気に無情かつ冷酷な物へと変化した。危機感を覚えた幽美が、慌てて華子の服を引っ張って彼女の体を後ろに引き寄せる。

次の瞬間――元々華子がいた場所にガンッと硬い何かが突き刺さった。よく見ると、それはよくある形のパレットナイフだった。ある程度錆びてはいるが、先端の少し尖った部位が深々と床の上に刺さっている。あと少しでも離れるタイミングが遅ければ、確実に華子の足が射抜かれていた事だろう。華子がサァッと青ざめた表情を見せる中、女性は冷たい眼差しで2人を睨みながら己の右手を軽く振り上げた。その仕草を合図に、筆や絵の具、鉛筆やバケツ、さらには彫像までもがそれぞれ宙を舞い始める。


『私の願う技術を持たぬ素人は不要。第三者の目線でしか同情を語れない部外者も不要……速やかにこの部屋から退室しなさい。』


絵の中の女性は冷たい声音でそう呟くと、(こぶし)を作るように右手をギュッと握りしめた。その瞬間、筆や鉛筆などはそれぞれ先端を、彫像は頭部を華子と幽美に向ける様に固定された。まるでこれから2人を襲撃すると予告するかのように、殺意の込められた無機物達が静かに華子たちの姿を見下ろす。


「ま、まま、待ってよお姉さん!私、絵は確かに苦手だけど……それでも描いてって言われたら、私頑張って描くから!」

「大塚さん、それ以上近づいたら危ないよ!今はとにかく逃げよう!!」


幽美がそう叫んで華子の手を掴んだーー次の瞬間、宙を舞っていた様々な画材達が一斉に2人の元めがけて突っ込んできた。走り出すのが少しでも遅ければ、パレットナイフや鉛筆などが全身に突き刺さったりした事だろう。一部の画材達はそのまま地面に落下し、先端が鋭い物は深々と床の上に埋め込まれた。彫像は落ちた瞬間に粉々に砕けたが、今度はその破片達が浮かび上がり、幽美と華子それぞれに向かって投げつけられた。華子の体をぐいぐいと扉の方に押しながら、幽美が必死に攻撃を避けつつ大声を上げる。


「大塚さんは先に外に出て逃げて!これは私が、どうにかしておくから!」

「で、でも……」

「いいから行って!あと……外に出るまでは、直接息を吸わない様にして!」


幽美はそう言って華子の体を押し飛ばすと、くるりとキャンバスの方に体を向けて右手を振り上げた。その瞬間、幽美の右手からヘドロ状の()が画材たちめがけて投げつけられる。“人狼”である幽美の持つ狼の能力だ。毒を生み出す度に幽美の右手の皮膚が軽く(ただ)れてしまうが、痛みや毒にある程度耐性を持つ幽美は止めることなく毒をぶつけ続けた。

諸に毒を浴びた無機物達は、小さいものはそのまま融解して塵となり、大きい物は一部が溶けて力無く床の上に落下した。毒を振り撒いた事で、次第に部屋の中に鋭い刺激臭が広がるようになる。絵の中にいるので嗅覚等はないはずなのだが、女性は口と鼻を手で隠しながら憤怒一色に染まった表情を見せて叫んだ。


『まぁ、なんて穢らわしい娘だこと!!薄汚いその手で、声無き生命(いのち)達を(たぶら)かすだなんて信じられない!!お前()私を……私と主様(あるじさま)の過ごしたこの部屋を、全て否定して破壊するつもりなのね!?』

「私と、主様……?」

「ふ、副会長!!大変です、扉が開きません!!」


突然、幽美の後ろから華子の狼狽した声が聞こえてきた。幽美がバッと振り返ると、出入り口である部屋の扉を開けようと懸命に踏ん張る華子の姿がそこにはあった。入室した時には鍵など掛けたりしていないし、そもそも閉めた記憶も無い。一応扉はもう一つあるが、そちらの方は机や椅子が重なって置かれているので近づくのは困難だ。

つまり――この部屋から出るには、今華子が開けようと必死になっている扉を開けるしか方法が無いのである。


(そんな……!扉が開かないなら、多分窓も全部閉まってる……このままじゃ、密室の中で毒が充満しちゃう!そしたら、大塚さんが……)


幽美が無機物達を毒で制しながら、焦った様子で華子と絵の中の女性を交互に見比べる。ありとあらゆる画材が残されていた様で、何回撃墜してもまた新たな画材が現れるのでキリがない。華子は悪臭を覚えて手で口元を隠しつつ、扉を開けようと必死になっている。

――この場において確実な戦力を持っていないのは、人間である華子だけ。

ならば今優先すべきなのは、華子をこの場から逃がすことだ。


「大塚さん、そこどいて!隠れて!!」

「え……!?きゃあああっ!!!」


幽美が叫んだ瞬間、華子がガバッと顔を上げてギョッと目を丸くする。こちらを向いている幽美の目の前に、サッカーボール程の大きさを持つヘドロ状の塊が浮いていたからだ。ゴポゴポと泡を立てており、色からしても明らかに人体にとって有害でしかなかった。驚いた華子が慌てて扉から離れ、言われた通り近くにあった机の影に隠れる。

その瞬間、幽美は足元にいた己の“狼”の顔を見下ろした。ヘドロ状の塊を口の上に有していた狼が、顔を勢いよく振り下ろして塊を投げつける。塊は風の勢いを受けながらも、開かない扉の下半分めがけて突っ込んだ。扉と衝突すると同時に、ヘドロがべしゃりと広がって容赦なく扉を溶かしていく。それにより、扉の下半分にちょうど人一人分の空洞が生まれた。身を屈んで進めば難なく外に出れるだろう。ドロドロと溶けた扉の残滓が垂れる中、絵の中の女性はギリッと歯ぎしりをして己の拳を固く握りしめた。彼女のすぐ近くに置かれていた、女性が描かれているのと同じサイズのキャンバスがゆっくりと浮き始める。扉に出来た空洞を覆い隠すのには十分な大きさだ。女性のせんことを察した幽美が、隠れていた華子の手を引いて扉前に近づけながら言った。


「!大塚さん、こっち……急いで!」

「……!は、はい!!」


幽美に背中を押され、華子がアワアワと戸惑いつつも空洞をくぐり抜ける。毒の残滓はほとんど無くなっており、異臭はしたもののほぼ無傷で通り抜けることができた。廊下は自然の暖かな光で包み込まれており、部屋の中とは打って変わって静寂に満ちていた。


「ふ、副会長!副会長もこっちに――」


先に外に出た華子が、慌てて後ろを振り返りながら手を伸ばそうとする。が、幽美が彼女に続いて外に出ようとした時、華子は彼女の後ろで無地のキャンバスがぐるぐると横に回転し始めたのに気がついた。そのままキャンバスが、しゃがんでいた幽美の元に向かって凄まじいスピードを出しながら近づいてくる。


「副会長、後ろ!!」

「……!!」


幽美がバッと後ろを振り向き、咄嗟に横に体をそらす。その直後、回転していたキャンバスがバァンッとけたたましい音を立てて扉の空洞部分に衝突した。空洞を隠す様に覆ったキャンバスの周りに、複数の椅子がガタガタと音を立てながら集まってくる。容易にキャンバスを外せない様にしているのだろう。華子は外からキャンバスを押してどかそうとしたが、固定された椅子のせいでほとんど動かすことが出来なかった。


「そ、そんな……副会長!待ってください、今助けますから……!」

「だめ、大塚さん!走れそうだったら、そのまま真っ直ぐ逃げて!」


無地のキャンバス越しに幽美のくぐもった声が聞こえてくる。この期に及んでも、自分よりこちらの方を心配するというのか。華子はイヤイヤとかぶりを振ると、何度もキャンバスを外から押しながら必死に声を荒らげた。


「嫌です!!副会長を見捨てて、私だけ逃げるなんて、そんなこと出来ませんよ……!!」

「大丈夫……私は大丈夫だよ。大塚さんが無事でいてくれたら、私はそれでいいから。」


幽美は静かにそう呟くと、避けた反動で転んでしまい、微かに痛む尻をさすりながらゆっくりと立ち上がった。その間にも画材達が襲いかかってくるが、幽美と彼女の連れる狼が毒を放つ事でことごとく撃墜され床の上に落ちていく。扉の向こうから、華子がドンドンと扉を叩きながら何度も副会長と呼ぶ声が聞こえてきた。


『……嗚呼、本当になんて穢らわしい娘なの。生命を冒涜する行為を、私の前でこうも平然と行い続けるだなんて……!!』


絵の中の女性は苦しげに眉をひそめながら唸る様にそう呟いた。直接毒を受けた訳ではないようだが、残滓が時折キャンバスに付着してしまったのだろう。彼女の絵の端に、先程までは見られなかった小さな腐敗の跡が微かに生じていた。

怒りと苦しみに満ちた彼女の表情を見た瞬間、幽美は一瞬だけ毒を投げるのを止めようかと考えた。絵の中の女性がどう言った仕組みで動いているのか分からないし、周囲の無機物達も何故自由に動いているのか不明だ。が、幽美の心の中にある優しさが、これ以上彼女を傷つけることを躊躇ったのだ。

しかし――絵の中の女性は無傷な右目で幽美の顔を睨みつけると、再び右手を軽く振り上げながら冷たく言い放った。


『でも、これであなたは外に出られなくなった……罪深き穢れた娘よ、その身をもって償いなさい。声無き生命(いのち)達を傷つけ、私とあの人の過ごした思い出を破壊しようとした……深淵よりも深く、(おも)りよりも重たきその罪を。』


壁などの端に置かれていた椅子達が続々と部屋の中で浮かび上がる。いよいよ小物が少なくなり、そこそこ大きさのある物ばかりに囲まれた幽美が密かに冷や汗を流す。流石にこの大きさ且つこの量を一斉にぶつけられたら、己の毒でも全ては防ぎ切れないだろう。幽美の心臓が緊張でドクドクと高鳴る中、絵の中の女性は不敵な笑みを浮かべ、己の右手をギュッと握りしめようとした。

するとその時――突然、固く封鎖されていた扉の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「副会長!!扉から離れてろ!!!」

「!?狗井、さん――」


幽美が反射的に後ろを振り向き、声の主の名前を声に出す。乱暴さの隠れていないその声は女性にも勿論聞こえていた。思わず握りかけていた右手をピタッと止めて目を丸くする。

その直後――何者かの掛け声と共に、封鎖されていた扉が外側から勢いよく蹴破られた(・・・・・)。固定用に置かれていた椅子と蓋代わりのキャンバスが四方八方に飛散し、床や壁にことごとく激突する。扉ごと蹴り飛ばされたので、幽美の目の前に空洞ができた扉の残骸が倒れてきた。幸いにも扉前からある程度離れていたので、反射的に手で顔を防御した幽美は奇跡的に無傷で済んだ。


『!!?一体、何が起きたというの……!?』


流石の女性も困惑した様子で右手をおろし、怯えた眼差しで幽美の背中越しに入り口を見つめた。そんな中、扉を蹴飛ばした張本人は、躊躇いなく部屋の中に入りながら幽美に向かって言った。


「副会長、大丈夫か!?一体全体、何があったんだよ!?」

「狗井さん……それに、宇佐美くん!?どうして、ここに……!?」


少女――狗井遥(いぬいはるか)に続いて入ってくる青年、宇佐美翔(うさみしょう)。狗井の話では、しばらくの間休みになっているはずだったのに――まさか来てくれるとは思わなかった2人を前に、幽美は思わずその場に跪いてしゃがみこんでしまった。張り詰めていた緊張の糸が一気にほどけてしまったのだ。咄嗟に宇佐美が幽美の傍に近づき、よろけかけた彼女の肩を優しく支えながら尋ねる。


「副会長、大丈夫ですか?怪我とかしてませんか?」

「あ……う、うん。私は大丈夫……でも、何で宇佐美くん達がここに……?宇佐美くんは特に、学校休んでたんじゃ……」

「ちょうど今日から復帰しましたよ。暇部(いとまぶ)の話をハルから聞いてたんで、帰る前に部室を見に来たんですけど……こんなに大量の毒を放つなんて、一体何が――」


宇佐美がそう呟いて顔を上げた瞬間、彼の目の前に砕けた彫像が勢いよく投げつけられた。咄嗟に宇佐美が手でそれを払い除けようとしたが、それよりも先に狗井の足が彫像を蹴飛ばした。元から欠けていた彫像は、狗井の蹴りにより壁に激突し粉々に砕けてしまった。


「……悪い、ハル。助かった。」

「礼とかはいいから、お前はとりあえず副会長連れて外出てろ。宮葉と華子に副会長預けてこい。」


狗井にそう指示され、宇佐美が幽美の体を支えながら外に出る。外の廊下では、何やら呆れた表情を見せる宮葉燐(みやばりん)と、彼女の背後でぐすぐすと泣きじゃくる華子が立っていた。幽美が2人の存在に気づいた瞬間、華子は目に大粒の涙を浮かべながら彼女の体に抱きついて叫んだ。


「うわぁああん副会長ぉおおお!!!ごめんなさい、ごめんなさい!!私のせいで危険な目に遭わせちゃって……うわぁああああん!!」

「お、落ち着いて大塚さん!私は全然平気だから……宮葉さんも来てたんだね。3人で、部室を見に来てくれたの?」

「まぁそんな所よ。でも、近くに来た瞬間にそこのおカッパ娘を見つけてね。副会長が中にいるから扉を開けてくださいって、その子に何回も泣きながらお願いされたのよ。まさかおチビとノッポが、2人で一緒に扉ごと蹴り飛ばすとは思わなかったけど……」


宮葉が腕を組みながら、無惨な姿になった部屋の扉を見つめてため息を吐く。よく見ると、彼女の足元にはいくつか鞄が放置されていた。おそらく狗井達の物だろう。彼女達がこの部室に来てくれたのも勿論奇跡だが――きっと華子が外にいなれけば、3人は部屋の中にいる幽美たちの存在にすぐには気づけなかったことだろう。わんわんと泣き続ける華子を宥めるように、幽美は小さく微笑みながら彼女の頭を撫でた。

一方、幽美を外に出し狗井の元に戻った宇佐美は、狗井と並ぶ様に立ちながら例のキャンバスを見つめた。入り口部分が大きく開けた事で、室内に充満していた悪臭はほとんど消え去っていた。先程まで部屋の中に浮いていた椅子などは、いつの間にか無造作に床の上へ落下していた。


「ハル、この絵は……」

「あぁウサギ……どうやらこいつが、副会長を閉じ込めて色々と物を投げ飛ばしてたみたいだぜ。原理はよく分かんねぇけど、こいつ俺達と普通に会話も出来るらしい。」

『……嗚呼、御仁……御仁を見ていると、なぜだか不思議な気持ちに駆られるわ……これはもしかして、懐旧(かいきゅう)の感情……?』


絵の中の女性がそう呟き目を伏せながら、己の膝の上で静かに手を重ねる。彼女の言った言葉の意味が分からず、狗井はその場で仁王立ちになりながらキョトンとした表情を見せた。すると、ボロボロに擦り切れたキャンバスの中で、先程までとは異なり落ち着いた表情を見せた女性は2人に向かって尋ねた。


『御仁、ひとつ問いたい事があるの。どちらか片方だけでも構わないわ……絵はお上手かしら?』

「……絵、か?」

『そう……油彩画、水彩画、水墨画、ペン画等々(とうとう)……如何なる技法でも、如何なる画材でも構いませんわ。兎にも角にも……絵を描く才能はございまして?』


御所染(ごしょぞめ)の瞳が狗井と宇佐美それぞれの顔を真っ直ぐ見つめる。怪訝な表情を浮かべたまま、狗井はふと宇佐美の方に視線を向けた。『任せてもいいか?』と尋ねるような視線だ。宇佐美は狗井に向かってコクリと頷くと、絵の中の女性の方に体を向けながら逆に尋ねた。


「簡単なラフ画でもいいならすぐにでも描けるが……それでもいいのか?」

『えぇ、構わないわ。私が求めているのは、あの人と同じ様にある程度の絵が描ける人ですから……』


絵の中の女性はそう答えると、先程とは打って変わって柔らかな表情を見せながら小さく微笑んだ。入り口付近からこちらを窺う様に、宮葉達3人がヒョコッと顔を覗かせる。すると、宇佐美はそちらの方を振り向き、彼女達の元に近づきながら言った。


「宮葉、俺の鞄を取ってくれ。1番端に置いてある奴だ。」

「鞄?えぇと、これかしら……何するつもりなの?そもそも、この部屋の中で一体何があったのよ?おカッパ娘の話だと、この部屋が呪われた部室だって聞いてるんだけど……」

「詳しい事は副会長から聞いた方が早いと思う……宮葉、副会長と華子のことは頼んだぞ。」

「はぁ!?ちょ、勝手に押し付けないで頂戴!ノッポ、聞いてるの!?……もう!!」


鞄を受け取るや否や、そそくさと部屋の中に戻る宇佐美。そんな彼の背中を入り口から見つめつつ、宮葉は盛大にため息を吐いた。幽美が申し訳無さそうに視線を泳がせる中、ようやく泣き止んだ華子は赤く腫れた己の目を手で擦りながら言った。


「宇佐美先輩、もしかして絵を描くつもりなんですかね?あのお姉さん、絵を描いて欲しいみたいなこと言ってたから……」

「うん。多分、そうじゃないかな……宇佐美くん、絵とか得意なのかな?あまり見たりした事は無いけど……」

「ちょっとちょっと!あんた達も、私を置いて勝手に話進めないでよ!お姉さんって誰の事よ!?」

「えっと、信じられないかもしれないけど……見えるかな?あのキャンバスに描かれてる絵の女性……あの人の事だよ。」

「……え?」


入り口付近で宮葉達がそれぞれ言葉を交わす中――鞄を持って戻ってきた宇佐美は、近くで倒れていた椅子を手に取り正しい形に置き直した。その上に座り、鞄からスケッチブックとシャープペンシルを取り出す。手慣れた様子で準備を進める宇佐美を前に、絵の中の女性は己の頬に手を添えながら微笑んで言った。


『あら、用意周到ですこと。お話の分かる方で安心したわ。』

「……そりゃどうも。で、何を描けば良いんだ?言っておくが、何の見返りも無しに絵を描くつもりはないぞ。」

『ふふ。やはりどこまでも抜かりの無い方ですこと……いいでしょう。私の描いて欲しい物を描いて頂く代わりに、御仁には全てをお話致しましょう。私の事も、私の主様の事も。』


絵の中の女性はそう言うと、ひどく懐かしむ様な眼差しを宇佐美に向けながらスッと体勢を整えた。左目の傷が無ければ、凛とした美しい姿を2人の前に見せつけていたことだろう。狗井が宇佐美の隣に椅子を運び、背もたれ部分を前にしながら座り込む。宇佐美がパラパラと開くスケッチブックの中では、様々な動物の絵や狗井の顔の絵(など)が事細かに描き込まれていた。

宇佐美が真っ白なページで手を止め、指でシャープペンシルをくるりと一回転させる。準備が済んだ事を察した女性は、早速自身の描いて欲しい物を宇佐美に向かって指示した。宇佐美がペンを使ってすかさずリクエストに応える。

ペンが紙の上を走り抜ける音が響く中、絵の中の女性は静かに話し始めた。

自分自身のことについて。

そして何より――自分自身を生み出した“主様”のことについて。



***



およそ一年前―――



「やぁ、おはよう。今日はとてもいい天気だね。」


柔らかくて優しげな声と同時に、被せられていた布が外されて視界が明るくなる。

目を開けると、(わたくし)の目の前にはいつも通り彼――主様(あるじさま)がいました。椅子に座りながら、ニコニコと満面の笑みを浮かべて私の姿を見つめています。下品さの全くない、純粋無垢な笑顔でした。目を開けた私は、ふわぁと欠伸をひとつ挟んでから彼に向かって言いました。


『ご機嫌よう、主様。私は窓が背中にあるせいで、そもそも天気なんて微塵も気にしていませんでしたわ。』

「あ、そっか……そうだね。君は水彩画だから、あんまり長い間太陽光の下には置けないんだ……ごめんね。」


彼は少し申し訳無さそうにそう言うと、椅子から立ち上がって1人用の机を私の傍に運んできました。ルンルンと上機嫌な様子で机の上に鞄を置きます。その中に、彼が使い古した画材道具一式が入っているのを私はよく知っていました。

少し雑多に物が置かれた部屋の中には、私と彼以外誰もいませんでした。この部屋は彼が所属する“美術部”という名前の団体が使っている様でした。私も一応、彼ら彼女らの顔は見た事があります。大抵は布を被せられているので、顔よりは声の方がよく聞き慣れているのですけれど。

彼はそんな団体の人々の目をかいくぐって、一人で静かに絵を描くのが好きでした。部屋に誰もいない事を確認してから、布を被せられた状態で飾られた私を近くに引っ張り出す。そして布を外すと、私に向かって声をかけながら絵を描く準備をする――それが、彼がほぼ毎日私の前で行う一連の習慣でした。

ただ、私は分かっていました。私はあくまで絵の中にいる(・・・・)女なのだと。だから、私自身が彼と話せる事も、彼が私に向かって話しかけるという行為自体がおかしい事も、ちゃんと理解していました。それでも、その事を問い詰めると、彼はいつもニコニコと笑いながら答えるのです。

―――おかしい事なんて何も無いよ。僕が君に生命いのちを吹き込んだんだ。君が自我を持つのも当然の事なんだよ。―――

正直、私には彼の言っている事がよく分かりませんでした。でも、彼があまりにも自信満々にそう言うので、まぁそういう事もあるんでしょうと納得せざるを得ませんでした。

彼以外の人間が、自分の描いた絵に向かって1人話し続ける彼の姿を見たら、きっと彼の事を不気味に思いとことん馬鹿にしたことでしょう。実際、団体の人と思しき者共が、彼に向かって色々と罵倒の言葉を投げつけていたのを見たことがあります。最初の頃こそ彼は人前でも平気で私に語りかけていました。しかし、その一件のせいで彼は流石に人の目を気にするようになった様でした。今では人気のないこの頃合を利用して、私の前で毎日一人で絵を描き続けていました。


「よーし……今日も沢山絵を描くぞー!」


準備を終えたのか、彼は椅子に座り直しながらやる気を出すように腕まくりをしました。男性にしては酷く細い腕。よく見ると、以前見かけた時よりも頬が若干痩せこけている気がしました。ちゃんとご飯などは食べているのでしょうか。お節介のつもりでは無いのですが、純粋に心配になった私は彼に向かって言いました。


『主様。張り切っていらっしゃる所恐縮ですが、絵を描く前に軽く食事でも取られたら如何です?今にも折れそうなそんな細い腕では、まともに筆すらも持てませんわよ。』

「あはは。心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ……ご飯はその、前もって食べてきたからさ。」


彼は少し歯切れの悪い様子でそう答えると、画用紙の上で黒い色のペンを走らせ始めました。今日は簡単なイラストでも描くつもりなのでしょうか。いつもなら、彼が得意とする水彩画を描くと思っていたのに。しかも、下書きのひとつも無しに描こうとするだなんて。


『……主様。私のいない所で、何かございましたでしょう。』


私が少しキツい口調でそう呟くと、ペンを走らせていた彼は途端にギクッと身を強ばらせました。誤魔化したりはぐらかしたりはよくしますが、彼は隠し事をするのが苦手なのです。一旦ペンを止めると、彼は弱々しく微笑みながら答えました。


「いやぁ……やっぱり君にはお見通しなんだね。僕なんかよりもずっと観察力に優れてて、なんだか羨ましいなぁ。」

『お世辞はもう結構よ。今この場にいるのは、私と主様のみ……故に、遠慮なく話して下さいな。何があったんですの?』

「……」


彼はしばらく黙り込むと、引き続きペンを動かしながらボソボソと話し始めました。その時の声が、彼にしてはやけに静かで生気が失われていたのをよく覚えています。


「少し前に、美術の授業があってさ……部活とは別の、普通の授業だった。その時にクラスメイトの顔を題材にして絵を描こうって話になってね……」

『……続けて。』

「僕、その……実は、前から気になってた子がいたから、その子と一緒に絵を描いたんだ。その子、クラスの中でもかなりの人気者でね。僕以外にも色んな子達が彼女の顔を描いてたよ。あの時はめちゃくちゃ緊張したなぁ……僕が人の顔描くの苦手なの、君もよく知ってるよね?だから、その子をガッカリさせたくなくて、僕は下手くそなりに集中して必死に描いたんだ。」

『なんとまぁ、良い心がけではありませんか……それで?』

「……それで、その……何とか時間内に描き終えて、渾身の作品をその子に見せたんだけど……その絵を見せた瞬間、こんな変な顔してないってその子に言われちゃってさ……他の人達からも散々馬鹿にされて、挙句の果てには絵を破り捨てられちゃったんだよ。流石に先生には怒られたけどね……おまけにその子が結構人気者の子だったから、それがきっかけで皆のヘイトを集めちゃったみたいでさ……はは。僕、馬鹿だよね。どこまでも下手なのに、無理して好きな子の絵を描いちゃったんだ。あの子だけじゃなくて皆から嫌われるのも、当然のことだよね。」

『……』


私は何も言いませんでした。彼にかけるべき言葉が、すぐには思いつかなかったからです。彼は疲れきった様子で顔を俯かせると、無言で紙とにらめっこをし始めました。描き始めてからそんなに経ってないはずですが、彼はもう既にペンを動かすつもりが無いようでした。

私はキャンバスの中でため息を吐くと、自分の右手を軽く振り上げてギュッと拳を握りました。その瞬間、彼の手もとにあった画用紙がフワッと宙を舞い上がり私の目の前にやってきました。驚いた彼が目を丸くしながら、慌てて紙を取り返そうと立ち上がります。しかし、紙はまるで自我を持った様にふわふわと舞い踊り、ことごとく彼の手を()け続けました。

この力は、今の私が生まれた日――その日から少しずつ扱えるようになった、不思議な能力でした。私が生まれる直前に、1匹の()のような獣が、意識の中に入ってきた感覚がしたのをよくおぼえています。おそらく、その獣が私に取り憑いているからこの能力が使えるのでしょう。私が物を直接操る――というよりは、物に生命が吹き込まれて動いている、という方が正しい気がしました。現に、宙を舞う画用紙は華麗に彼から逃げ切ると、私の元に近づいてペラッと片面を私の方に見せてきました。それを見た私が眉をひそめると、彼は遂に画用紙を取り戻し酷く慌てた様子で言いました。


「ちょっと、やめてよ!せっかく描いてた絵なのに、奪おうとするなんて……」

『お黙りなさい!そんな黒いペンで塗り潰しただけの駄作を、主様は“絵”と主張するおつもり?』

「……!!」


私の言葉でハッと我に返った様子の彼が、取り返した画用紙の片面を見つめました。紙のど真ん中には、ぐしゃぐしゃに描き殴られた黒い円がありました。特に意味の無い、何とも虚しい絵でした。彼はこんな抽象的な絵を描く人間ではありません。彼の傍で彼の描く絵を長い間見てきた私には分かります。


『無知なる者共に、散々心の無い言葉を浴びせられてお疲れなのでしょう。今日はもう作業を切り上げて、早めに帰宅した方がよろしいのでは?』

「……」


私は彼の事を思い、そして彼の身を案じた結果そう提案しました。が、彼は何も言わないまま、画用紙を丸めて近くのゴミ箱に投げ捨ててしまいました。嗚呼、なんて哀れな紙なのでしょう。あの子にも私の手で声無き生命が与えられていたというのに。

彼は私の傍に戻ると、再び画用紙を1枚取り出してペンを握りしめました。今度は私の顔をチラチラと一瞥しながら。何度も何度もこちらを見つめてくるので、視線に耐えかねた私は彼に尋ねました。


『主様、何をしてらっしゃいますの?私の顔に何か汚れでもついてます?』

「僕、決めたよ……もう一度君を(・・)描く。人の顔を描くのが苦手な僕が生んだ、奇跡の作品である君自身を。」


彼は意志のこもった声音でそう言うと、そこから先ずっと一心不乱にペンを走らせ続けました。私は思わず面食らってしまい言葉を失いました。

確かに私は、紛う事なき彼の手によって生まれた存在です。無機物を描くことの多い彼が、苦手ながらも描き上げた美しい顔の人間の絵――それが私でした。

そんな私の絵をもう一度描くなど、自分で言うのもアレですが、それは無謀な行いでしかありませんでした。奇跡というものは、容易く繰り返して起きる様なものではないのですから。彼もそのことはちゃんと分かっていたはずです。

それでも彼はその日以降、私の前で私の絵を描き続けました。何回も何回も。完成したかと思えば、私本人と絵を見比べた瞬間、その紙を丸めて捨てるの繰り返し。そして同時に、彼の姿はどんどん痩せ細り目も当てられないほど弱々しくなっていきました。以前聞いた事があるのですが、彼の母親は彼が幼い頃に亡くなっており、父親にも捨てられたので今は親戚の家で居候しているそうです。きっと、その親戚の家とやらで十分な食事をとる事が出来ていないのでしょう。ですが、私が何度心配する様な声を上げても、彼は“大丈夫”とか“気にしないで”の一点張りでひたすらに絵を描き続けました。

今思えば、きっと再び私の絵を描きあげる事が、彼にとっての大きな目標であり、救いだったのかもしれません。

どれだけ周囲の者から罵倒されようとも。

どれだけ周囲の人間達から孤立しようとも。

私の絵を描く時に本物の私さえ傍に居てくれれば、もうそれだけでいいと彼は考えていたのでしょう。

――私だって、彼と一緒にいるだけで、それだけで十分幸せだったのですから。



***



「……確かに遠目だったり素人目で見れば、あんたの顔は普通に綺麗だ。でも、よく見ると所々でパーツの位置が微妙にズレたりしてる……本当に人の顔を描くのが苦手だったんだな、その主様とやらは。」


宇佐美が淡々とそう言いながら、絵の中の女性の顔を一瞥しつつシャープペンシルをサラサラと走らせる。彼の隣に座る狗井は“何処が変なんだ?”と言わんばかりの表情でキャンバスの中にいる女性の顔をジッと見つめていた。あまり絵を描かない狗井から見ると、女性の絵は普通に完成度の高いものにみえるからだ。いつの間にか幽美達も宇佐美の傍に来ており、それぞれ座ったり立ったりしながら宇佐美の手元を見つめていた。ギャラリーが増えた事に気づきつつも、特に指摘することも無く絵の中の女性は言った。


『えぇ。彼は生きている人間の顔よりも、声を持たない無機物などを描く方が得意でしたわ。あと、彼は水彩画も得意でしてね……よく花や果物の絵を描いて私に見せてくれました。貴方達にその絵を見せられないのが非常に残念ですわ。』

「そうか……それにしても、生まれる直前に狼のような獣と出会った、か。その主様とやらが人狼だった可能性は十分にあるな。」

『人狼?まぁ、何の事かは存じませんが……貴方、なかなか絵がお上手ね。細部まで凝って描いてくださるなんて、私としても嬉しい限りですわ。』


絵の中の女性がそう言ってニコッと満足気に微笑む。彼女の言う通り、宇佐美がペンを進める紙の上では、キャンバスに描かれたのと同じ女性の絵が描かれていた。元からある程度美しい絵だが、宇佐美が描き直すことで更に磨きがかかっている。それを見た幽美が目を輝かせながら小声で呟いた。


「宇佐美くん、絵とっても上手なんだね……シャーペンで描いたとは思えないぐらい、凄く綺麗……」

「本当ですね!なんか、宇佐美先輩の意外な一面を見た感じがします!」

「ウサギの奴、これでもちっさい頃からずーっと絵描いてるからな。俺が外で遊ぼうぜって言っても、絵の方を優先することなんて昔は特にしょっちゅうあったんだぜ……な、ウサギ?」


狗井がそう言って苦笑い混じりに首を傾げると、宇佐美は一瞬狗井に向かって“悪かったな”と言うように眉をひそめた。感嘆の眼差しで幽美達がスケッチブックを見つめる中、絵の中の女性は目を伏せながら少し苦しそうに己の手を握りしめて言った。


『嗚呼……ようやく分かりましたわ。貴方とそちらの御仁、2人を見た時に感じた懐旧の感情の正体が。貴方達2人はよく似てる……あの日が来るまで、静かながらも平和に過ごしてきた、私と主様に。』

「……あの日?」


耳ざとく聞き逃さなかった狗井が、咄嗟に彼女の放った言葉を反復する。宇佐美もその一言が気になったらしく、一旦シャープペンシルを動かしていた手を止めて女性の方に顔を向けた。幽美や華子も、どことなく心配そうな眼差しをこちらに向けてくる。

絵の中の女性は小さく息を吐くと、己から見て左側の頬に手を近づけながら、ポツリポツリと吐き出すように話し始めた。


『そう、あの日……あの日が来なければ、私と主様は、ずっと一緒に居られるはずだったのに……』



***



一年前

大神学園高等部体育館横 部室棟1階―――



布を被せられ、真っ暗になった世界に、下品さを有した複数の男女の声が響き渡る。


「なぁ、聞いたか?美術部の部室の場所、ここから変わるらしいぜ。」

「聞いた聞いた!部室棟自体のリフォームと一緒に変わるみたい。他の部活の人も言ってた。」

「ここ無駄に日当たり悪いもんねー。私物残り過ぎだし、掃除もしてないから埃っぽくて(わたし)嫌だったんだよね。」

「じゃあ物とか今のうちにある程度どかさないとな……ところで、この絵何?」

「あー!それずっと前から置いてる奴。ほら、高等部1年の、両目泣きぼくろのガリガリな子いるでしょ?その子が『その絵だけはどかさないで!』ってしつこく言ってくるから置きっぱなしにしてんのよ。」

「でもそれ邪魔だよね?壁とかにも寄せないで、こんな堂々と置かれても普通に邪魔なんだけど。」

「そういやあの子、この間までこの絵に向かって話しかけてたらしいよ。天気がいいねとか、今日も綺麗だねとか言ってたんだって!」

「うわ、マジかよきもっ!二次元のキャラクターに話しかけるキモオタクじゃねーか!」

「その例えウケる~!でもさ、マジでこの絵邪魔だからちょっとどかそうよ。適当な場所に置いといても別にいいでしょっと……あ、やば。」


ガタッと音を立てながら、私の体がぐらりと揺れ動きます。その瞬間、キャンバスにかかっていた布がずれ落ちてしまい、私の視界が急に明るくなりました。

途端に目の前に現れる、1人の男と2人の女。全員が私の顔を見てポカンと口を開けています。

今この場に、主様はいません。

ここに居るのは、きっと――いや、確実に主様にとって敵でしかない者達。

女はどちらもけばけばしい化粧に身を包み、男に至ってはだらしなく服を着崩しています。嗚呼、そんな見た目だけでも私には分かります……なんてふしだらで無礼な者達だこと!

ですが、今は主様がいないので、私は微動だにせず“ただの1枚の絵”として外の世界を眺めていました。そんな時、不意に男が言いました。


「ぶっ……あっははは!何だよこの絵、つまんねー!色とかすげー地味だし!」

「ねぇ、本当!あの子が描きそうな絵だけどさ、私たちみたいな美術部の部員の絵にしちゃ全然映えないよねぇ。」

「よく見たら顔のパーツとかガッタガタじゃん。そういやあの子、人の顔描くの苦手なんだっけ?授業中にメイメイ(・・・・)の顔描いて、本人からめちゃくちゃ怒られたらしいって風の噂で聞いたよ。」


途端にゲラゲラと下品な笑い声をあげる男女達。

私の心の中では、知らず知らずの内に強い怒りの感情がこみあがっていました。

確かに、人によっては認められない芸術を有する者もいます。芸術を扱う者全員が報われるほど、この外の世界が優しく出来ていないことも分かっていました。

――それでも、私は主様を馬鹿にする彼ら彼女らの事が、どうしても許せませんでした。

だから、私は禁忌を犯してしまったのです。

以前、主様は私にとあるお願いをしてきました。

―――自分と2人きりの時以外に、君の持つ不思議な能力を使わないで欲しい―――

心優しい主様は、私の能力などを知らない愚か者達を驚かせたくない一心で、無闇矢鱈に能力を扱う事を止めさせようとしたのです。私は主様の思いに応えたくて、本当はあまり乗り気では無かったのですが、能力を使わないと固く約束しました。

ですが、もう限界でした。

どこまでも純粋無垢で、愚かな程に優しくて……私をとことん愛してくれた、素敵な主様。

そんな彼をこけにする愚か者共を、これ以上野放しにする訳にはいきません。


『その無礼な口を、本質を見抜けぬ役立たずな目を閉じなさい、この不躾者(ぶしつけもの)が。』

「……え?」


突然聞こえてきた私の声に、流石の男女達も驚いて辺りをキョロキョロと見渡します。そちらに私は居ません。私はこの、お前達が笑い飛ばしたキャンバスの中に居るのですから。


『あなたのその無駄に着飾った瞳は飾りなのかしら?私はこちらよ。』

「!?お、おい……その絵、喋ってるぞ!!」


ようやく私の存在に気づいた男がそう叫びました。皆が皆、驚きと恐怖で引き攣った表情を浮かべていました。嗚呼、なんて滑稽な表情なの!先程まであれ程(あざけ)る様な顔をしていたというのに!


『御仁、あなた達に罰を与えましょう。私の主様を馬鹿にした……深淵よりも深く、重りよりも重たきその罪を、今この場で償いなさい。』

「な、なんなのよこれ……ちょ、マジでヤバいって!早く逃げよう!!」


女の1人がそう言うと、全員が一斉に入り口の扉に向かって走り出しました。ですが、私はすかさず己の右手を軽く振り上げて、迷い無くあの能力を使いました。まずは手始めに、床に落ちていた布に声無き生命(いのち)を与えました。浮遊した布は女の1人の頭上に飛びかかると、彼女の視界を奪う様に頭から(かぶ)さりました。男が慌てて布を外そうとしますが、すかさず彫像やパレットナイフが周囲を飛び交い彼の救助を妨害します。

その間にも、私は部屋の中にある様々な無機物達に生命を与え、彼ら彼女らに攻撃するよう仕向けました。生命を得た無機物達は、みな私に対してとても忠実でした。女が開けようとする扉は頑なに口を開けず、彫像は何度砕けても破片を飛ばして男の顔を殴り続けました。布はもはや明確な殺意を持って、視界を奪った女の首を絞めようとしていました。

部屋の中は一気に阿鼻叫喚の地獄と化しました。私の強い怒りが形になり、人間である3人の男女を苦しめたのです。あの時の私は、心が愉悦を覚えた為に高笑いをしていました。

所詮人間とはこういうもの。見栄を張って高慢に振舞おうとも、結局人智を越えた未知なる力の前ではみな無力なのです。

――だから、あの時の私は知りませんでした。

どれだけ危機的状況に陥っても、果敢に立ち向かう人間だって少なからず居るのだということを。


「こ、の……ふざけんじゃねぇぞ、この野郎!!!」

『……え……』


ハッと気づいた時にはもう手遅れでした。

彫像によって頭を殴られ血を流す男。いつの間にか私の目の前まで来ていた彼の手には、既に役目を終えていたパレットナイフが握られていました。

男がパレットナイフを持った手を振り下ろします。

その瞬間――私の左目から、激しい痛みが走り抜けました。

私は絵なのに、痛みを感じるなんて――そんなことを考える余裕もなく、キャンバスを貫通するほど深く左目を抉られた私は思わず叫びました。客観的に見ても分かるほど、痛みと苦しみそして絶望に満ちた絶叫でした。

それと同時に、部屋中を飛び回っていた無機物達が、みな力無く床の上に落ちました。よほど体力が奪われていたのでしょう。男は途中でナイフを抜くと、ふらついた後にパタリと後ろ向きに倒れました。女達も全身に傷を負った状態で、微動だにせずその場に倒れていました。


「▲▼!!!」


不意に扉が開かれ、主様が現れました。主様は普段あまり呼ばない私の名前を呼んだ後、ギョッと目を丸くして部屋の中の惨状を見つめました。


「▲▼……君が、やったのかい……?」


主様が愕然とした表情を見せながらそう尋ねました。私は左目の痛みが激しいせいで、まともに答える事が出来ませんでした。それでも、主様は恐る恐る部屋の中に入り、真っ直ぐ私の元へ来てくれました。

聞いて、主様。違うの、これは違う。

私は確かに約束を破りました。あなたがいないところで、能力を使って人を傷つけてしまいました。

でも、これはいわば正当防衛というもの。私は主様を守りたかっただけなの、信じて。


「ぼ、ぼくの、せいだ……僕が、ちゃんと君の事を、見ていなかったから……!!あ、あぁ、あぁあ……!!!」


痛みのせいで声を出せない私の前で、主様は大声で泣きながら膝から崩れ落ちました。

どうして、どうして主様が謝るの?

謝るべきなのは私の方よ。

ねぇどうして、どうして。

どうして、以前の様に声を出すことができないの―――

















その日以降、私の前に主様は現れなくなりました。

きっと、私の事が嫌いになったのでしょう。遂に愛想を尽かしてしまったのでしょう。

ですが、それも無理はありません。固く結ばれたはずの約束を破ったのは、間違いなく私の方なのだから。

私の左目に刻まれた傷は、(つい)ぞ修復される事はありませんでした。

主様がどこに行ってしまったのかは分かりません。

私が傷つけたあの男女達がその後どうなったのかも分かりません。

ただ、一つだけわかる事があります。

私は自分自身のせいで、天涯孤独の身になってしまったのだと。

高慢だったのは、見栄を張っていたのは、彼ら彼女らではない。

紛う事なき私自身だったのです―――



***



「じゃあ……生徒会の人達が怪我をしたのも、あなたの仕業なの?」


重たく冷たい沈黙を打ち払う様に、幽美は眉をひそめながら恐る恐るそう尋ねた。諸々の話を終えた絵の中の女性が、己の胸元に手を当てながら静かに呟いた。


『えぇ、そうよ。あの事件の後に、また別の人間達がこの部屋に来たの……おそらく、あなたの言う生徒会の人達とかいうものね。その時に、私を運ぼうとした人間が、このイーゼルからキャンバスを誤って落としてしまったの。その時の私はまだ左目の痛みを引きずっていたから、混乱して思わずまた能力を使ってしまったわ。ほぼ反射的に使ってしまったから、事件の時よりは被害が少なく済んだ様だけれど。』

「そういうことだったんだ……ごめんなさい。さっきは、ちゃんと話も聞かずに助けたいとか勝手な事言っちゃって……」


華子は申し訳無さそうに目を伏せると、そう呟きながらペコッと頭を下げた。華子達の事情を詳しく知らない宮葉が、思わず目を丸くして華子の横顔を見つめる。すると、絵の中の女性は諦念のこもった表情でフフッと微笑み、宇佐美の方に視線を向けながら言った。


『御仁……白髪の御仁。もう1つ、私のお願いを聞いて下さらないかしら?』

「……なんだ?あんたの絵なら、もう少しで完成するぞ。」

「ありがとう。でも、もういいの……貴方が絵のお上手な方だってことはよく分かったから。もう1つ他に、描いて欲しい絵があるの……そちらを描いて下さらないかしら?」


絵の中の女性はそう言うと、右目を愛おしそうに細めながら続けて言った。


『私を産んでくれた……私の大好きな、主様の絵を描いて欲しいの。主様はいわゆる自画像というものを描いた事がないのよ。少なくとも、私の前ではね。だから、主様の顔を代わりに貴方に描いて頂きたいの……頼めるかしら?』

「別にいいが、俺はあんたの言う“主様”とやらの顔を知らない。両目に泣きぼくろがある事以外で、他に顔の特徴とかは無いのか?」

『そう言われましても……それ以外の点では、兎にも角にも平凡なお顔でしたからねぇ。』


宇佐美の言葉に対し、絵の中の女性は己の両手で三つ編みを軽く弄りながらそう答えた。宇佐美が少し困惑した様子で顔をしかめる中、何かに気づいた様子で幽美が突然ハッと目を見開いた。トントンと宇佐美の肩を軽く叩きながら幽美が呟く。


「あの、宇佐美くん!主様の名前とか知る事はできない、かな?名前さえ分かれば、生徒会室にある生徒名簿で、顔写真とかが見れるかもしれないんだけど……」

「!そうだ、その手があんじゃんか!おい女、お前の言う主様の名前は覚えてるか!?長い間一緒に居たんだから、勿論知ってるよな!?」

『……申し訳ないけど、私は生まれた時から彼の事を“主様”と呼び続けてるわ。彼自身も本当の名前を名乗らなかったから、名前までは分からないの。ごめんなさいね。』


絵の中の女性はそう言うと、困ったと言わんばかりに眉をひそめながらため息を吐いた。途端に盛り上がりかかっていた女性陣のテンションが目に見えて一気に下落する。宇佐美は呆れた顔で女性陣の顔を見渡した後、ではどうやって描いてやろうかと考えながら首を横に傾げた。

するとその時――不意に開けた入り口付近から、若い少年の声が聞こえてきた。


「あ、姉さん!やっぱりここに居たんだ……ってか、この状況何?みんな揃って何してんの?」

「昇!?」「昇くん!?」


幽美と華子が思わず同時に名前を呼ぶ中――少年、漆村昇(うるしむらのぼる)はキョロキョロと部屋の中を見渡しながら全員の元に近づいた。椅子から立ち上がった狗井が、座部に膝を乗せながら昇に向かって尋ねる。


「お前、何でこんな所にいんだよ!?お前も暇部の部室観察か?」

「違いますよ。姉さんを迎えに生徒会室に行ったら、役員の人に『副会長なら部室棟に行ったよ』って言われて……思い当たる場所がここしか無かったからたまたま見に来ただけです。」


狗井からの問いかけに対し、昇はいつも通り冷淡な口調でそう答えた。彼の言い方が気に食わなかったのか、狗井がかなり不貞腐れた様子で唇を尖らせる。すると、昇は遅れて絵の中の女性の存在に気づき、キョトンとした表情を見せながら首を傾げて呟いた。


「ところで、この絵は何?何でみんなこの絵の前に集まってるの?」

『……御仁。あなたとお会いするのはこれが初めてね。ふふっ……こんなに多くの人に囲まれたのは初めてよ。なんとまぁ賑やかなこと!』

「……しゃ……喋った!絵なのに喋った!!?」

「えぇと、説明するとちょっと長くなるんだけど……」


途端にギョッと目を丸くする昇の横で、幽美は彼を落ち着かせるような声音で事のあらましを伝えた。大まかにだが、彼ら彼女らの事情を知った昇が何やら考え込む様に頭を傾げながら呟く。


「両目に泣きぼくろの男子生徒……なんだろう。なんか見覚えのある気が……」

「はぁ!?マジかよお前!?おいおい、そういうのは先に言えっての!」

「昇くん、その顔何処で見たか覚えてる!?私たち、今その主様って人の顔が分からなくて困ってるの!わかる事があったら全部教えて!!」

「うわわっ!華子まで一斉に詰め寄らないでよ!ちょっと待って、今思い出すから……」


途端に椅子から立ち上がり、ぐいぐいと迫ってくる狗井と華子を前に、昇は思わず後退りをしながらそう答えた。絵の中の女性がフフッと柔らかな笑みを浮かべる。彼女の見せる穏やかな表情を前に、幽美は密かにホッと安堵の息を吐いたのだった。

しばらくの間うんうんと考え込んでいた昇だったが、不意にハッと目を見開き顔を上げながら言った。


「たしか……そうだ。図書室で新聞を読んでた時に、みんなの言う人の顔を見た気がする。両目に泣きぼくろ、だよね?うん……多分、間違いない。」

「図書室の、新聞?てっきり、学校以外のどこかで見たのかと思ってた……でも、何で新聞に載ってるんだろう?」

「あれじゃないですかね。その人の絵がなんかの賞を受賞したから、その事が軽いニュースになったとか!」

『主様からはそんな話聞いた事がありませんが……まぁでも、主様の顔が分かるのであれば、それに越したことはありませんわ。御仁、出来ればその新聞をここに持ってきて下さらない?』

「……確かに、その方が手っ取り早いな。頼めるか、昇?」


全員からの期待に満ちた眼差しを受け、昇は一瞬たじろぎつつも頷きながら「わ、分かりました」と答えた。彼からの了承を得た女性が、キャンバスの中で満足げにニコッと微笑む。

話し合いの結果、宇佐美達高等部組は部屋に残り、昇と華子の中等部組が例の新聞の回収に向かうことになった。昇が読んでいたということは、中等部校舎の方にある図書室にその新聞があるということだ。必然的に、別校舎に所属する高等部組はその場で待機することとなった。


「黒メガネ、おカッパ娘、気をつけて行ってらっしゃい。途中で怪我とかしても、私達には何も出来ないんだからね……分かった?」

「はい、宮葉先輩!お姉さんの方はお願いしますね!」

「僕の名前、黒メガネじゃないんですけど……まぁいいや。行こう、華子。」


宮葉などに見送られながら、眉をひそめた昇と満面の笑みを見せる華子が部屋を後にする。昇と華子が外に出た後、幽美は密かに惚けた表情で宇佐美の横顔を見つめた。そんな彼女の顔を一瞥した絵の中の女性が、あらあらと言うように己の頬に軽く手を添える。スケッチブックの中に描かれた女性の顔は、凛々しさを湛えつつもどこか優しげな眼差しを有していたのだった。



***



大神学園中等部校舎5階 中等部図書室―――



「えっと……確かこの辺りの新聞だったはず……」


昇が入り口近くにある新聞コーナーの前でブツブツと独り言を呟く。華子は読書するためのスペースに座りながら昇が来るのを待っていた。午前授業で終了にもかかわらず、勉強熱心な生徒達が未だに何人か図書室に残っている。それぞれ参考書や教科書を開いて勉強したり、見るからに難しそうな分厚い本を読んだりしている。みんな真面目だなぁ、と華子は少し暇そうに机に突っ伏しながらそう考えた。その直後、ようやく目的の物を見つけた様子で昇が華子の元に戻ってくる。しかし、何故かその表情は曇っており、あまり見たくないと言わんばかりに新聞を机の上へ放り投げた。華子がキョトンとしながら顔を上げて呟く。


「昇くん、何か顔色悪いよ?大丈夫?」

「僕は大丈夫……ただ、思い出したくないことを、思い出しちゃっただけ。」


吐き捨てる様に言葉を紡ぐと、昇は怪訝な表情を見せる華子の隣で新聞をパラパラと捲った。重要なのは例の主様とやらの顔だ。それが掲載されている部分を、華子が昇と一緒に探そうと身を乗り出す。

だが――それまでニコニコと笑顔を見せていた華子は、目的のページを見つけた瞬間さぁっと青ざめた表情を浮かべた。信じられないと言わんばかりに目を見開きながら、華子が昇におずおずと声をかける。


「の……昇くん、これ……」

「うん……最初に見かけた時は、僕途中で見るのを止めたんだ。ひどく、嫌な気分(・・・・)になったから。」


昇がそう呟きながら、探していた記事の上にそっと指を乗せる。新聞の下半分、その中でもかなり端っこの少し狭いスペース。そこに乗せられた見出しの文字を昇がなぞる中、華子は思わずその文字を声に出して読み上げた―――



***



大神学園高等部体育館横 部室棟1階―――



「……あ、帰ってきた!おかえり、昇、大塚さん。」


入り口付近で椅子に座っていた幽美が、すかさずバッと立ち上がって2人を出迎える。昇と華子は何故か神妙な面持ちで部屋の中に入ると、キャンバスの前に座っていた宇佐美と狗井の傍に近づいた。昇の手には1枚の新聞紙が握られている。目的の物は持ってこれたようだが、何故どちらも悲しげな顔をしているのだろうか。

別の場所に座っていた宮葉が、訝しげに昇たちの顔を見つめながら2人に尋ねた。


「ちょっと、何で2人揃ってそんな暗い顔してんのよ?何かあったの?」

「その……なんて言えば良いんですかね……新聞は無事に見つかったし、みんなが探してる人と思しき顔の写真も見つけました。」

「なんだよ、普通に予定通りじゃねーか。とりあえず見せてくれよ、ウサギなら見るだけでちゃちゃっと描けるから……」

「ま、待ってください狗井先輩!その前に……お姉さんに、言わなきゃいけない事があるんです。」


こちらに向かって手を差し出した狗井を、華子がバッと身を乗り出す事で無理やり遮る。狗井が訝しげに華子の顔を見つめる中、昇は新聞を持ったままゆっくりとキャンバスの前に立った。絵の中の女性もキョトンとした表情で昇の姿を見つめている。昇は新聞を広げると、ガサガサと音を立てながら新聞を1枚ずつ捲って言った。


「あの……先に言っておきます。この記事をあなたが見たら、多分物凄く怒るかもしれません……それでも、この記事を見たいですか?」

『御仁、先程から何をそんなに怯えていらっしゃるの?怒るも何も、その新聞とやらのお陰で、主様の顔が公衆の下に広められているのでしょう?とても素晴らしい事じゃない。是非とも見させて頂きたいわ。主様の残した、偉大なる功績とやらを!』

「……」


絵の中の女性が上機嫌な様子で笑いながらそう呟く。気まずそうな顔を見せた昇は目的のページにたどり着くと、躊躇いがちにその記事をキャンバスの前に差し出した。

それを見た瞬間――絵の中の女性の表情は、一転して絶望した様に青ざめた。狗井や宇佐美などが思わず驚いてギョッと目を丸くする。

昇は自分の方に新聞を向け直すと、華子と一瞬目を合わせた後、静かに件の記事を読み上げた―――










【虐待か 男子高校生死亡 親戚を名乗る男女を傷害致死容疑で逮捕

●日午後■時ごろ、大神町北区の近隣住民から「鈍器で殴る様な音と少年の悲鳴が聞こえる」と119番通報があった。通報を受け、大神学園高等部1年、菱灘百合信ひしなだゆりのぶ君(16)が病院に搬送されたが死亡した。警察は暴行及び傷害の疑いで、百合信君の親戚を名乗る男女を逮捕。両者が常日頃から百合信君を虐待していた疑いもあるとして、警察は慎重に捜査を進めている。

容疑者はおよそ2年前に百合信君の父親から百合信君を預かっており「いつも黙々と絵を描いたり、その絵に向かって話しかけたりしていたから不気味だった。だから距離を置いていた」等と供述している。容疑者はどちらも百合信君への暴行を認めているが、虐待の容疑については否認している。

〖中略〗

近隣住民の話によると、百合信君の体は見かける度にやせ細っていたが、百合信君本人は「大丈夫です」と答え、近隣住民からの食事の差し入れを常に断っていたという。学園関係者の話では、百合信君はクラスの中でもかなり孤立していたとされており、警察は百合信君が学園内で虐めを受け、精神的に疲弊していた可能性もあるとみて今後の捜査を進める方針だ・・・】










『……主様が……死んだ……?』


絵の中の女性が、愕然とした様子で目を見開く。記事を読み終えた昇は、隣に座る宇佐美の前に新聞を差し出した。宇佐美がそれを受け取り、先程聞いた記事を見てぐっと唇を噛み締める。その記事の横には、両目の下に泣きぼくろがある若い少年の顔写真が掲載されていた。絵の中の女性の言う“主様”本人と見て間違いないだろう――彼女の反応からして、それが真実なのだと思わざるを得なかった。


「本当は、お姉さんにこの記事を見せようか迷ったの……でも、やっぱり嘘とかはつきたくないから、言わなきゃいけないと思って……」


華子が今にも泣きそうな表情を見せながら、顔を俯かせてそう呟く。絵の中の女性は何も言わない。目を見開いたまま、膝の上で拳をギュッと固く握りしめている。宇佐美や狗井なども、彼女にかけるべき言葉が見当たらず沈黙を貫いていた。

しばらくした後――不意に絵の中の女性がポツリと呟いた。


『嘘よ……こんなの、嘘よ……この顔は確かに、間違いなく主様の顔だわ……でも、死んだなんて、嘘に決まってる……』

「嘘なんかじゃ、ないよ……だって、新聞にしっかりと載ってるんだよ!?お姉さんの言う主様の顔も、その人の顛末も……」

『嘘よ。嘘、嘘……全部嘘よ!偽りよ!!紛い事よ!!!』


絵の中の女性がそう叫んだ――その瞬間、突然周囲に乱雑に放置されていた画材道具などが一斉に浮遊した。まるでコントロールのきかなくなったドローンの様に、椅子やら彫像の欠片などが部屋中を四方八方に飛び回る。驚いた狗井達が慌ててそれらを避けると、無機物達はそのまま床や壁に激突したり、時には物同士でぶつかることもあった。


「おいおいおいおい、待て待て待て待て!!この量は流石にシャレになんねぇっての!」

「お姉さんお願い、落ち着いて!気持ちはわかるけど、こんなに暴れちゃったら部屋が壊れちゃうよ!!」

『嫌よ、嫌……信じたくない……主様がもういないだなんて、私……信じたくないわ!!』


絵の中の女性の叫びに呼応するように、無機物達が縦横無尽に部屋の中を飛び交う。もはや誰を狙ってるかも分からないし、一部はそもそも狙ってすらもいない。完全に制御が出来なくなっているようだ。

主様とやらが既に死んでいたと知った悲しみ、そしてやり場のない激しい怒りの感情に心が満たされてしまったが故に――


「華子、流石に危ないよ!一旦外に出よう!」

「黒メガネの言う通りよ!おチビもノッポも、全員でさっさと逃げるわよ!」

「で、でも……待って!お姉さん……!」


キャンバスに向かって近づこうとする華子の手を引きながら、昇は狗井達と共に慌てて外に脱出した。どうやら無機物達は、この部屋の中でしか自由自在に動けないらしい。外に出た瞬間、狗井達はそれぞれ入り口の両サイドに分かれて身を潜めた。狗井が部屋の中に少しだけ顔を覗かせながら宇佐美に向かって言った。


「おいウサギ、これどうすんだよ!?このままじゃマジで収拾つかなくなるぞ!!」

「俺に言われても困る……とにかく、今はどうにかして、あいつを落ち着かせるのが先決だ。」

「落ち着かせるって言っても、どうやって落ち着かせるっていうのよ!?あんなに物が飛び回ってる中を走り抜けるつもり!?流石に危険過ぎるわ!」

「わ、私たちみたいな、ご主人のいない狼なんて初めて見たけど……本当に、止められるのかな?もう私達の言葉とか、届きそうにないよ?」

「……いざとなったら、姉さんとか狗井先輩達の手で、あの絵を壊すしかないかも。そうでもして止めないと、部屋全体が取り返しのつかないぐらい滅茶苦茶になっちゃうよ。」

「……」


それぞれがこの状況をどう打開しようか話し合う中――華子だけは何も言わないまま、己の胸元でギュッと手を握りしめていた。顔を俯かせながら、何かを考える様に目を閉じている。そんな彼女に気づいた昇が、訝しげな口調で華子に声をかけた。


「は、華子?どうかしたの?」

「……ごめん、昇くん。私、行ってくる(・・・・・)。」


華子はそう言うと、固い決意を抱いた様子で目を開き勢いよく立ち上がった。昇達が驚いて目を丸くする中、華子はあろう事かそのまま部屋の中へと戻って行った。部屋の中では未だに様々な物が飛び回っている。狗井が入り口の外から慌てて手を伸ばして叫んだ。


「おい華子!!馬鹿野郎、戻って来い!!」

「待てハル、危ない!」


宇佐美がそう言って狗井の体を引っ張った瞬間、元々狗井のいた場所に椅子がけたたましい音を立てて衝突した。あと少しでも回避が遅ければ激突していたことだろう。狗井がチッと舌打ちをする最中も、華子は顔を腕で防御しながらキャンバスの元へと向かった。あらゆる画材道具が華子めがけて襲いかかり、小物などが時折彼女の体に容赦なくぶち当たる。それでも華子は屈する事無く、遂にキャンバスの目の前までたどり着いた。華子の後ろが、宙を舞う椅子によってことごとく封鎖されてしまう。もはや入り口からでは華子と絵の中の女性の様子が窺えない。狗井はギリッと歯ぎしりをすると、入り口の正面に立ちながらスッと身構えた。その瞬間、彼女の足元に彼女の従える赤い毛の狼が現れる。炎を操る能力を持つ狼だ。このままでは華子の身が危険だと悟り、宙を舞う無機物達を全て焼き尽くそうと考えたのだ。それは流石に強硬手段過ぎると判断した宇佐美が慌てて止めようとする。が、それを振り切りながら狗井は華子に向かって叫んだ。


「華子、できる限り部屋の端に隠れてろ!まとめて全部、焼き付くしてやる!!」

「待ってください、狗井先輩!……少し、時間を下さい。」


華子は懸命に声を張り上げながらそう答える。狗井が思わず呆気に取られる中――コントロールを失った小物が当たってしまったのだろう、先程よりもボロボロに欠けてしまったキャンバスを、華子はそっと優しく抱きしめた。絵の中の女性はその瞬間まで大声で泣き叫んでいたが、華子に抱き締められた瞬間泣くのをやめて右目を大きく見開いた。


『ご、じん……?』

「分かるよ、お姉さんの気持ち……大好きな人がもうどこにも居ないって気持ち……私にも分かるよ。」


キャンバスの中の女性を守ろうとしたのか、華子の後ろで複数の錆びたパレットナイフが空中で刃を向けた。完全に絵の中の女性の意思に反した行動だ。先に気づいた女性が止めようとするが、どれだけ右手を握りしめてもパレットナイフは止まる気配がなかった。


「私もね……大好きなパパとママを亡くしたの。1年前に、交通事故で。」


パレットナイフが華子の背中めがけて飛びかかる。それでも華子は言葉を紡ぎ続けた。

絵の中の女性と同じ様に、大切な人を亡くしてしまった者として。


「私も泣いたよ。今のお姉さんみたいにいっぱい泣いた……でもね、人は死んだら、もう二度と帰って来ないの。どれだけ泣いても、悲しんでも……最後には、もう会えないって事実を、受け入れるしかないんだよ。」


――殺意を抱いていたパレットナイフは、華子がそう言った瞬間すんでのところで停止した。刃先が華子の背中や頭のギリギリ手前で止まっている。それと同時に、華子とキャンバスの周りを取り囲んでいた椅子などの無機物達も四方八方に散らばった。

華子の目から一筋の涙がこぼれ落ちる。


「辛い事を言ってごめんなさい。悲しい事実を突き付けちゃってごめんなさい……でも、大丈夫。主様が居なくても、私達がいるよ。」

『……!』

「私ね、本当は少し前までずっと寂しい気持ちを隠してたの。パパとママにはもう会えないのに、ずっと会いたいって思い続けてた。でも、皆が居てくれたから……1人じゃなかったから、立ち直れたの。」

『あ……ぁあ……!』


先程とは打って変わって静かに浮遊していた画材道具などが、突然力無く床の上に落下し始めた。異変を察した狗井達が、慌てて部屋の中に入り華子の傍に近づく。


「だから、お姉さんは1人なんかじゃないよ。私が……私達が傍に居るよ。だから、もう泣かないで。お姉さんの悲しい気持ちは、私達が慰めて癒してあげるから……ね?」

『……嗚呼、御仁……ごめんなさい……ありがとう……』


絵の中の女性がそう呟き小さく微笑んだ。彼女の右目は色が滲んで歪んでおり、まるで本当に涙を零したように、一筋の濡れた跡が彼女の頬を伝っていた。

全ての物がバタバタと落下し、途端に静まり返る部屋の中。不意にキャンバス全体が淡いピンク色の光を放ち始めた。傍まで来ていた宇佐美が咄嗟に華子の体を後ろに引っ張る。光はキャンバス全体を包み込んだ後、絵のど真ん中でドッジボール程の大きさの球体へと変化した。次第に光が弱まり、その中から丸くくるまった()が現れる。尻尾が絵筆の様な形をした狼は、光が消えた瞬間重力に従う形で床の上に落ちた。


「!!おい、お前……」


狗井と宇佐美、そして幽美が慌てて狼の傍に近づく。狼の姿が見えない昇と宮葉の2人はキョトンとした表情を見せながらその場に立ち尽くした。華子の目にも見えないはずなのだが、華子はまるで最初から見えているかのように目を丸くしながら狼の目の前でしゃがみ込んだ。

御所染(ごしょぞめ)の色を有した毛の狼は、横向きに倒れたまま弱々しく目を開けた。周りを取り囲む狗井達の姿を見つめた後、狼はほんの微かにだが口角を上げた。狗井達人狼の視点では、まるで狼が微笑んでいるかのように見えた。

狼の姿が次第に透けて見え始める。宇佐美が手を伸ばして触れようとした頃には、既に姿そのものが消え去っていた。唖然とした様子で華子がゆっくり顔を上げる。キャンバスの中に残された女性は、何一つ言葉を発さない。滲んだ右目と傷のついた左目で、全員の顔を静かに見つめるばかりだ。


「……お姉さん?」


華子が絵の中の彼女に向かって静かに声をかける。無論、返事はかえって来ない。

様々な物が散らばり、すっかり荒れ果てた部屋の中に冷たい沈黙がのしかかる。いつの間にか時刻は夕方に差し掛かっており、静まり返った部屋の入り口側から、夕日の柔らく暖かな光が差し込んでいた。



***



数分後

大神学園高等部校舎4階 美術準備室―――



「おやおや……これは、菱灘くんの絵ですねぇ。すっかりボロボロになってしまって……」


そこそこ歳を召した美術教師はそう言うと、(しわ)だらけの手で丸眼鏡を軽く上にあげた。夕日の光が優しく差し込む準備室の中で、華子を隣に引き連れた宇佐美が彼に尋ねる。


「その絵を描いた人の事、ご存知なんですか?」

「えぇ。よくこの準備室に来ては、黙々と彫像を相手に顔を描く練習をしていましたよ。聞いてみたら、どうも彼にはどうしても描きたい顔があったみたいでね……」

「もしかして、それがこの絵のお姉さんなんですか?」


華子がそう尋ねると、美術教師はニコニコと笑いながらコクコクと頷いた。そのまま椅子から立ち上がり、雑多に様々な物が置かれた棚へと近づく。

幽美のお陰で、華子は中等部所属でありながらも高等部校舎に立ち入ることが出来ていた。それでも、許可証が無いのが不安なのか、華子はしきりに胸の前で指を交差させている。ちなみに、昇や幽美などの残りの面子は、現在荒れてしまったあの部屋の片付けに取り掛かっている。

宇佐美が華子を宥めるように彼女の肩を優しく叩いた。すると、老年の美術教師は何やら大きめのケースを抱えながらキャンバスの前に戻って言った。


「菱灘くん曰く、この絵の女性は菱灘くんの実のお母様をイメージして描いたんだそうですよ。物心がつく前にお母様が亡くなられたそうで、辛うじて残っていた写真や微かな記憶を頼りに描いたそうです……お母様の姿を自分の手で再現したくて、一所懸命描いたんでしょうね。」

「そうだったんだ……顔を描くのがどんなに苦手でも、きちんと思いを込めて描いた絵だから、最後まで描き上げることが出来たんですね……」


華子がそう呟きながら、ふと隣に立つ宇佐美の顔を見上げた。宇佐美が自然と彼女の顔を見つめ返す。華子の水色の瞳には、宇佐美に向かって何かを懇願する様な色合いが滲み出ていた。彼女の言わんとすることを察した宇佐美は、華子に向かってコクリと頷きながら美術教師に言った。


「あの、先生……画材道具とか少し借りても良いですか?」

「もちろん良いですよ……何か描きたい物がおありで?」

「はい。折角なら、彼自身の存在も、絵という形で残したいと思って……」


宇佐美がそう答えると、美術教師は皺だらけの顔で満足そうに微笑んだ。こいこいと手招きをして、宇佐美と共に画材道具の揃った棚へと近づく。

華子は近くにあった丸椅子を引き寄せると、諸々の道具を借りてきた宇佐美の隣にストンと座った。予め持ってきていた鞄を開き、その中からあの新聞紙を取り出す。それを見た宇佐美は、一瞬目を丸くした後、小さく微笑みながら彼女に言った。


「やけに用意周到だな……予想してたのか?」

「えへへ……宇佐美先輩なら、きっと描いてくれると思ったので!」


華子がニコッと微笑みながら宇佐美に新聞紙を差し出す。宇佐美はそれを受け取ると、あの記事の乗ったページを開いて机の上に置いた。丸椅子に座った彼の前には、イーゼルに掛けられた真っ白な1枚のキャンバスがある。美術教師があの絵の修復作業に取り掛かる中、宇佐美は新聞紙を一瞥しながらキャンバスの上でサラサラと鉛筆を走らせた。

下書きを描く鉛筆の乾いた音が粛々と響き渡る。見るからに使い古されたパレットの上では、色鮮やかな絵の具の跡が窓から差し込む夕日に照らされ、微かにだが美しく輝いていた。



***



翌日

大神学園高等部体育館横 部室棟1階―――



「華子お前ー!!まーた俺のいない所で危険な目に遭いやがって!!このやろっこのやろっ!」

「きゃーあははっ!昇くん、きぃくんがいじめてくるよー!くすぐったーい!」

「……先輩達がいる前で、何小学生みたいな事してんの。」


時刻は午後に差し掛かって間もない頃――幼なじみである猿道菊彦(えんどうきくひこ)の手で体をくすぐられながら、華子がひどく楽しそうな笑い声をあげる。椅子に座り文庫本を読んでいた昇は、ドタドタと駆け回る菊彦と華子の姿を見つめながら盛大にため息を吐いた。そんな彼の隣に座っていた宮葉が、頬杖をついて鼻を鳴らしながら言った。


「全く、一体誰のお陰でそうやって走り回れてると思ってるんだか……昨日の片付け、全体的に中が荒れてたせいで本当に大変だったのよ!」

「まぁまぁ、適度な運動にはなったから別にいいだろ。それに、扉はまだねぇけど、立ち入り禁止とかにならずに使えるんだから無問題だろ。」


宮葉と向かい合う位置に座っていた狗井が、堂々と机の上に足を乗せながらそう呟いた。宇佐美が彼女の頭を軽く小突いて、視線だけで机から足を下ろすように促す。宮葉が呆れた様子で息を吐くと、まだ扉の設置されていない入り口から幽美がひょこっと顔を覗かせた。その後ろには風紀委員である青春翼(あおはるつばさ)も立っている。


「あ、やっぱり皆ここに居たんだ。あと……あの絵、ここに飾ってるんだね。」

「はい、そうなんです!すっごく綺麗に修復されてますよね!」


幽美がそう呟きながら部屋の中に入ると、駆け回っていた華子は途端にピタッと足を止めてニコッと微笑んだ。彼女の指さす先には、窓を背にしてイーゼルの上に飾られたキャンバスが2個、隣合って並ぶように置かれていた。片方は上品な色合いの着物に身を包んだ、長い三つ編みが特徴的な女性の絵。御所染の色を(たた)えた、ほとんど傷やシミの無い両目がこちらを見つめている。もう片方の絵は、両目の下に泣きぼくろを有した優しげな表情の青年の絵。水彩絵の具で描かれた彼の目の色も御所染で、にこやかに微笑みながら暖かな眼差しをこちらに向けていた。感嘆の目でそれぞれの絵を見つめながら幽美は言った。


「凄い……あんなにボロボロだったのに、新品みたいに綺麗になってる。こっちの男の人の絵も、表情だけでも優しさが伝わってくるね……もしかして、こっちの絵は宇佐美くんが?」

「その通りです!高等部の美術の先生が絵を修復してくれた間に、宇佐美先輩が例の主様の絵を描いてくれたんですよ!やっぱり宇佐美先輩、絵すごく上手ですよね!なんだか絵のお姉さんも嬉しそう!」

「俺はあの写真を頼りに描いただけだ。髪の色とかが合ってるのか分からないし……むしろ凄いのは、絵を修復した先生の方だと思うんだが。」


キャッキャッと分かりやすくはしゃぐ華子と、少し恥ずかしそうに目を伏せる宇佐美。狗井がニヤニヤと笑いながら肘で軽く小突くと、宇佐美は咄嗟に彼女の頭に拳骨を1発お見舞した。予想以上の痛みが頭部から走り抜け、驚いた様子で狗井が悲鳴をあげて机から足を下ろす。宮葉が『何やってんのよ』と言う様に再びため息を吐く。すると、幽美の後ろに立っていた青春が腕を組みながら淡々と言った。


「昨日の午後、あなた達に何があったのか詳しくは知りませんが……とりあえず、暇部(いとまぶ)の正式な設立、おめでとうございます。まさか短期間で部室まで用意されるとは思いませんでしたが……」

「いやぁ、本当にありがとうございます風紀委員さん!風紀委員さんが居なかったら多分この暇部は出来てなかったかもしれません……これからも暇部の部員として、どうぞよろしくお願いします!」


華子は朗らかに笑いながらそう言うと、青春の前に立って勢いよくペコッと頭を下げた。が、青春としては単純に名前を書いた――正確には書かざるを得なかった――だけで、部員になるという意思を持っている訳では無い。そのため、華子によって勝手に部員として扱われた青春は、すかさず険しい表情を見せながら反論した。


「ちょっと、勘違いしないでください!私はただ、書類を通過させるために署名の手伝いをしただけです!あなたの言うように、正式に部員になった訳では――」

「え!?わ、私、てっきり青春ちゃんも、私と一緒に暇部の部員になったんだと思ってたけど……違うの?」

「ごめんなさい副会長、前言撤回します!!私も副会長と同じく、暇部の立派な部員です!!」


途端に気まずそうな表情を見せた幽美に対し、青春は一転して慌てた表情を見せながらそう言い放った。幽美がホッと安堵の息を吐き、2人のやり取りを見た昇や宮葉、さらには狗井までもがすっかり呆れた表情で青春の顔を見つめた。


「……まぁ何はともあれ、今日は暇部の正式な設立記念日っつーことで、何か曲1発歌っちゃおうかなー。昇も華子も先輩達も、リクエストとかあったらどんどん言ってくれ!何でも歌ってやるぜ!」

「わぁー!きぃくんの生ライブだー!やったー!」

「ちょっと!この部屋、リフォームが行き届いてないから防音対策とかされてないんですけど!?歌うならせめて軽音楽部の部室でやってくださいよ!!」

「ど、ドアが無いから思いっきり声漏れちゃうよね……でも、猿道くん歌すごく上手らしいから、私もちょっと聴いてみたいなぁ……」

「姉さんがそう言うなら僕もここで聴くよ。でも菊彦、思いっきりギター鳴らすのだけは止めてよ。耳痛くなっちゃうから。」

「なになに?金髪、あんたアカペラで歌うつもりなの?音痴だったりしたら承知しないわよ!?」

「……なんで皆、揃いも揃ってそんなにノリノリなんだよ。」


ワイワイと賑やかになる部屋の中、机に突っ伏した狗井が吐き捨てるようにそう呟く。狗井の小さい声は楽しげな会話の声を前にほとんどかき消されてしまった。が、隣に座っていた宇佐美にはしっかりと聞こえていた様だ。宇佐美が狗井の横で珍しくフフッと小さく微笑む。宇佐美はあまり人前では笑ったりしない。そのため、怪訝に思った狗井がキョトンとしながら宇佐美に向かって尋ねた。


「なんだよ、ウサギ?なんか俺、変な事でも言ったか?」

「いや……ハルの顔を見てたら、満更でもないって言ってる気がしてな。」

「は……はぁ!?な、何だよ急に!馬鹿にしてんのか!?」

「そんな訳ないだろ。昔からハルは、俺と2人だけでいる事が多かったから、最初はどうなるんだろうって心配してたんだ。俺も、こんなに人が大勢いる中に放り込まれたら、どう振る舞うべきか分からなくなるもんだと思ってた……でも――」


こうやって沢山の人に囲まれるのも、悪くは無いな――宇佐美はそう言うと、優しげな笑みを浮かべながら狗井の方に顔を向けた。菊彦は宣言通りにアカペラで歌い始めており、ホウキをギターに見立てながら軽快なステップを繰り返していた。華子は彼の歌に対して合いの手を入れ、幽美もどこか楽しそうに手拍子をしていた。青春と宮葉は眉をひそめつつも幽美などに合わせる様に手拍子をし、昇は椅子に座ったまま引き続き文庫本を読んでいた。どこか恥ずかしそうに狗井が顔を俯かせ、宇佐美が彼女の頭を優しく撫でる。

陽がまだ南の空高くに浮かぶ頃――扉の無い部室の中から廊下全体へ、若き少年の迫力ある歌声が響き渡る。キャンバスの中に描かれた男女は、明るく賑やかになった部屋の中でお互いに楽しそうに微笑んでいたのだった。

その後、菊彦の歌声を聞きつけた教師が部屋に駆けつけ、騒音問題になりかねないという理由で菊彦達は彼から厳重な注意を受けたのだが――それはまた、別のお話。












――拾日目 終幕――

~キャラクター紹介~


♂菱灘百合信-ひしなだ ゆりのぶ-(16)


大神学園高等部1年。美術部所属。物心がつく前に母親を亡くしており、父親にも2年ほど前に捨てられた。親戚の家で暮らしていたが、かねてより奇行が目立つ菱灘に嫌気がさした彼らの手で過剰な食事制限を強いられていた。後に精神的にも身体的にも衰弱し、親戚の者たちの暴力が致命傷となって死亡した。自身の狼の存在は幼い頃から把握しており、能力についてもある程度熟知していた模様。

どこまでもお人好しで優しい性格。狼の能力を使うために絵だけでなく様々な無機物に話しかける癖を持っており、それが原因で周囲からはよく孤立していた。


役職名:依代-よりしろ-の人狼…生き物以外の無機物に命を吹き込む能力。菱灘の従える狼が物に取り憑くことで能力が発動する。通常の無機物でも軽い意思疎通は可能だが、人を模した物(人形や人物画など)であれば会話も可能になる。また後者の場合、菱灘の代わりに別の物へ新たに命を吹き込むことができる。命を吹き込まれた無機物は、命を吹き込んだ本人に対し忠誠的で基本命令に背くことはない。但し、命令を遂行した時点で吹き込まれた命はどれも消失してしまう。


♀(推定)▲▼


菱灘によって生み出された『最後の』人を模した無機物。元は菱灘がキャンバスに描いた、菱灘の母親をモデルに描かれた女性の絵。菱灘の狼が憑依したことで明確な意思を持つようになり、孤立していた菱灘の数少ない友達として彼と幸せな生活を送っていた。1年近くの間、菱灘の死を自覚することなく過ごしていたが、華子達の手で彼あらため主人の死を知り、後に受け入れたことで存在自体が消失することとなった。少し高慢な性格だが菱灘のことを誰よりも尊敬し心の底から愛していた。

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