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汝は人狼なりや。  作者: 独斗咲夜
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壱日目ー後半戦

翌日


大神学園 高等部校舎――



「……マジでいた。」

「そりゃ居るだろうよ、同じ学園なんだし。」


時刻は昼時。束縛された授業時間から解放された生徒達が、各々食事をとるために行動し始める頃。ある者は友人と教室で手作りの弁当を並べ、ある者は購買部にある菓子パンや弁当等を買いに財布を握りしめーー多くの生徒達の行き交いで賑わう校舎の中、宮葉燐(みやばりん)はとある教室の前で2人の生徒と出くわしていた。1人は小柄な少女、狗井遥(いぬいはるか)。もう1人は大柄な体格の青年、宇佐美翔(うさみしょう)。夏だと言うのに長袖のインナーに黒のタイツという服装の狗井そして長袖長ズボンの宇佐美は、やはりいつ見ても暑そうに見えてしまう。当の本人達は特に気にする様子もなく、各自弁当箱が包まれた風呂敷を持ってどこかへ向かおうとしていた。

狗井の制服からして同じ学校の生徒なのは既に分かっていた。本当は朝方に会えれば良かったのだが、登校のタイミングが合わず、おまけに同学年かの確認も取れていなかったため今の今まで会えなかったのだ。が、いざこうして会ってみると、昨日の衝撃的な出会いを思い出してしまい、宮葉の心が複雑な感情に包み込まれる。


「宮葉も今から飯か?一緒に食う?」

「え……あ、えっと……い、良いの?私、結構少食なんだけど。」


突然狗井の方からそう誘われ、宮葉が思わずしどろもどろな返事をしてしまう。実は宮葉にはまともに話せる友達が居ないのだ。顔見知り程度の仲のクラスメイトなら少なからずいる。が、それ以上の関係の、しかも同年代の友達は全く居なかった。彼女の性格や家庭事情が災いしての結果だった。宮葉自身も、今に始まったことでは無いので長い間あまり気にしていなかった。故に、急に食事の誘いを受けてもすぐに良いよとは言えなかったのだ。躊躇うようにその場に立ち尽くすと、狗井は素早く宮葉の後ろに回り、彼女の肩をガシッと片手で掴みながら言った。


「良いも悪いも、今日からお前のボディーガードしなきゃいけないんだろ?ちょっとはお互いの事知っといた方が良いじゃんよ。ま、とりあえず行こうぜ。俺達のお気に入りスポットがあんだ、そこでゆっくり話しながら飯食おうぜ。」

「ちょ、ちょっと!?そんな押さないでよ!ちゃんと歩くから……!」


狗井にグイグイと背中を押され、宮葉が軽く足をもつれさせつつ何とか体勢を整える。宇佐美は特に何も言わず、2人に寄り添う様に並んで歩いた。狗井達に連れられてお気に入りスポットとやらに向かう最中、周りの女子生徒から妙に威圧感のある視線を向けられた気がした。が、気のせいだろうと思い、歩みを止めることなく宮葉は2人と共に進み続けた。

次第に3人は屋上へと繋がる階段の前にたどり着いた。5階建ての校舎の、しかも屋上前故か、周囲に自分たち以外の人の気配はほとんど無かった。今では最早意味をなさないほどボロボロな立ち入り禁止の看板が階段前に放置されている。狗井はそれを躊躇いなく片隅にどかすと、階段に積もった埃を手で払い除けそこにストンと座り込んだ。まさか、ここが例のお気に入りスポットだと言うのか。確かに人気はなく静かに食事は出来るが、階段は埃まみれだし、上の段には用具類も乱雑に放置されている。お世辞にも好き好んで食事を取るような場所には思えなかった。宮葉が躊躇うように後退りをすると、階段に座った狗井は自身の隣をポンポンと叩きながら彼女に言った。


「何ボーッとしてんだよ宮葉。さっさとここ座れって。空いてるぜ?」

「い、いやいやいや!!空いてるとかの問題じゃないでしょ!?こんな汚い所でご飯食べる気なの!?嘘でしょ!!?」

「気にすんなって。ここいい具合に日差しかかってるし人もいないしで絶好のスポットなんだぜ?良いから座れよ……あーウサギ、もうちょいそっち寄ってくれ。ちょっと狭ぇなこれ。」


狗井が弁当箱を膝の上に置きながらそう言うと、彼女から見て右側に座った宇佐美が大人しく横に身体をずらした。それにより狗井の左側がより広く空いたが、それでも宮葉はそこに座る気になれなかった。本来なら立ち入り禁止区域なのに、そこに座って大丈夫なのかと言う不安もあったのだ。それでも狗井達は気にすることなく風呂敷の結び目を外し、各々弁当箱の蓋を外した。しばらくその様を呆然と見ていた宮葉だったが、流石に本能的な身体の空腹には勝てなかった。露骨に腹の虫が鳴り響き、宮葉が途端にかぁあっと顔を赤く染める。宮葉は盛大にため息を吐くと、黙々と食事を取り始めた狗井達の隣に大人しく座った。彼女達の背中に、屋上に繋がる扉の窓から陽の光が優しく差し込む。階段の構造上、この周辺だと光はここからしか差し込んでいないらしい。階段周りは不思議と肌寒い事が多いので、確かにこのぐらいの明かりは丁度いい気がする。階段が少し固いのが心残りだが、座りやすさで言えばまぁ少しマシな方だ。夜ご飯の余りを詰め込んだだけの弁当箱を開き、狗井達と同様に宮葉も昼の食事を取り始める。

狗井の弁当箱はかなり厚みのある正方形で、白米とオカズの比率がほぼ同じになるように仕切りで分けられていた。オカズの大部分が唐揚げやウィンナー等の肉類に偏ってるのが気になるが、本人は気にすることなくパクパクと美味しそうに頬張っている。小柄な体格に見合わず大食いなのかなと、宮葉が心の中でふとそう考える。ただ、宇佐美に至ってはもはや重箱レベルの大きさだ。2段に構成された弁当箱の片方には白米がこれでもかと敷き詰められている。それを見た宮葉が思わず頬をひきつらせると、こいつ米好きすぎんだよと狗井が苦笑混じりに呟いた。無心で白米を頬張っていた宇佐美が狗井の顔を横目で睨みつける。もう片方の重箱には米の代わりにオカズがこれでもかと敷き詰められているが、量は狗井の倍近くあった。大食いなのは宇佐美の方なのだと、宮葉が否応なしにその事実を見せつけられてしまう。すると、狗井が宮葉の方の弁当箱を見ながら彼女に尋ねた。


「宮葉の弁当はそれ手作り?親父さんが作ってんの?」

「そんな訳ないでしょ。あの人、ずっと工房で寝泊まりしてるもの。朝起きて作るのも面倒だから、夜ご飯の余りを詰め込んだだけよ。」

「マジかよ!なんか量少なくね?腹減らねぇのそれ?」

「少食だからこれで十分なの!ってか、あんた達の方こそ多過ぎない?それ全部食べ切れるの?」

「当たり前だろ。佐倉さんの飯は全部美味ぇし、そもそも食えないほどの量は絶対作らねぇからな。」

「……あんた達にはお弁当作ってくれる人がいて良いわね。その、佐倉さん?とはどういう繋がりなの?母親みたいなもん?」


宮葉がふとそう尋ねると、黙々と箸を進めていた狗井の手がピタッと止まった。狗井はそのまま小さく息を吐くと、目を細めながら顔を上げて呟いた。


「そうだな……俺達にとっちゃ、正真正銘育ての親だよ。血の繋がりは無いけど、もう長いこと一緒にいる。だよな、ウサギ?」

「……少なくとも、10年近くは一緒だな。」

「10年!?思ったよりは長いのね……」


宮葉が目を丸くしながらそう言うと、狗井は小さく笑いながら再び箸を進めた。狗井の笑った顔を見るのは何気に初めてだ。常に怒ってるか無表情のほぼ二択なので、その笑顔が尚更特別なもののように思えた。それ程までに、佐倉の存在を大切に思っているのだろう。宮葉が心做しかどこか羨ましそうに狗井の横顔を見つめる。すると、それまで殆ど自発的に喋らなかった宇佐美が宮葉に尋ねた。


「そう言えば、宮葉さんの家は父子家庭なんですよね。お母さんとかはいないんですか?」

「……そっか。昨日はその話、あんた達にはしてなかったんだっけ。」


宇佐美に尋ねられた瞬間、宮葉の表情に曇りが生じる。聞いてはいけないことを聞いてしまったと悟った狗井が、肘で宇佐美の脇腹を軽く小突いた。しまったと言わんばかりに眉を顰める宇佐美だったが、宮葉は静かに笑いながら懐かしそうに目を細めて言った。


「もうとっくの昔に亡くなってるわよ。私が幼稚園児ぐらいの頃に、事故でね。しかも場所は、お父さんが今引きこもってる工房の中よ。高い所に勝手に登った小さい私を降ろそうとして、梯子から足を滑らして落下したの。頭の打ちどころが悪くてね……手術も虚しく、そのまま亡くなったわ。」

「…………」

「まぁ、全部大きくなった後でお父さんから聞かされた話なんだけどね。お陰でお父さんは工房に引きこもるし、私とは殆ど会話しないし……自業自得よね。当時のことはよく覚えてないからアレだけど、事故の原因は私だって言うんだもの。そりゃ仲違いもするわ。」


宮葉はそこまで言うと、目を伏せながら深く息を吐き出した。狗井達が不安げな様子で宮葉の顔を見つめる。宮葉は何かを振り払う様に頭を左右に振ると、一転してニコッと笑いながら二人に言った。


「あーあ。お母さんの話をちゃんとしたの、いつぶりだろ。なんか普通に話しちゃったわね。こんな辛気臭いこと言うつもり無かったのに……ごめんなさい。」

「……いや、いいよ。俺らこそ、ごめん。無神経なこと聞いちまって。」


謝罪の言葉を述べる宮葉に対し、狗井達もすかさず頭を下げる。宮葉としては予想外の反応だったので、思わず目を見開き2人の顔を見つめ返した。が、すぐに目を伏せ、止めていた箸を再び動かし始める。

本当は、母親の事はあまり思い出したくないので、長年他人に話す事を宮葉は避けていた。自然と言葉が漏れてしまったのは、同年代の相手が話を静かに聞いてくれたからだろうか。大抵はこの話をすると、可哀想とか同情に満ちた言葉を投げかけられるのに。思えば、狗井達にも血の繋がりのある母親が居ないのだ。更にいえば父親もいないのだろう。幼い頃から血縁上の両親がいない2人にとって、親のいない悲しみや辛さは身に染みて分かる様だ。自然と母親の事を話せた理由が何となくわかった気がして、宮葉は安堵するかのようにホッと息を吐いた。


「……今日の夜はよろしくね、おチビ。」

「おう……っつーか、おチビ呼びやめろって!狗井でいいってば!」

「えぇー?おチビの方がお似合いだし覚えやすくていいと思うんだけど。ねぇ、ノッポもそう思うでしょ?」

「……まぁ、悪くは無いと思います。」

「はぁぁぁあ!!?何軽く賛同しちゃってんの!?馬鹿なの、馬鹿なのお前!!?」


宇佐美のさり気ない反応を前に、目を丸くして声を荒らげる狗井。それを見た宮葉が思わず笑うと、狗井は顔を赤くさせながら笑うなと叫んだ。こんな風に自然と笑えたのも久しぶりだ。同じ歳の子と対等に話すのが、こんなにも楽しいだなんて。

しばらくお互いに話をしながら食事を終えた3人は、予鈴が鳴ると同時に各々教室へ向かって戻り始めた。生憎クラスは別々だ。別れ際に再度夜の事を確認しつつ、宮葉は少し名残惜しそうに狗井達と別れた。自分のクラスに戻れば、顔見知り程度のクラスメイト数名がこちらを一瞥する。無論、一瞥する程度だ。声をかける者はいない。恨まれたり虐められたりしてる訳では無いのだが、こういう無関心さが逆に宮葉の心の中で孤独感を煽っていた。


――……早く、放課後にならないかしら。


そんな思いを心の中に浮かべながら、宮葉が自分の机に座り頬杖をつく。自分の席が窓側で助かった。思い出し笑いをして微笑む自分の顔をクラスメイトに見られなくて済む。見られたところで何の反応も来ないだろうが。

昼休み終了を告げるベルの音が鳴り響いた。いつもなら憂鬱な後半戦の始まりを告げるその音も、今の自分にとってはあまり不快に思えない。彼女のいる窓辺から、夏の日の眩しい明かりがザワつく教室の中を煌々と照らしていた。



***



その日の夜ーー



「……おーい、宮葉ぁー。あとどんぐらいで着くんだよぉー……」

「んー……あと1時間ぐらいかしら。なによ、もうバテてんの?」

「そういう訳じゃねぇよ……ただ、家から徒歩で片道3時間かかるとか聞いてねぇんだけど!?」


狗井がそう声を荒らげながら、近くに落ちていた空き缶を蹴飛ばす。空き缶は高い曲線を描きながら、蛍光灯の明かりが届かない闇の中へと消えていった。そんな彼女の後ろに立っていた宮葉が髪を指で弄りながら狗井に向かって応えた。


「昨日帰る前に言ったじゃない!家から工房までがちょっと遠いって。」

「片道3時間はちょっとのレベルじゃねぇんだよ!!くっそぉ……こんな事なら自転車持ってくれば良かったぜ……」

「私が持ってないからそれはダメよ!言っとくけど、2人乗りは嫌だからね。バランス取れなくて落ちたりしたら危ないでしょ?」

「かぁー!どんだけ我儘なんだよお前……めんどくせー奴。」


宮葉の方を向きながら後ろ向きに歩く狗井が、うんざりと言わんばかりに頭を抱える。宮葉は憤然とした態度のまま狗井を睨みつけると、自身の後ろを歩く宇佐美に声をかけた。


「ところでノッポ、そっちは大丈夫そう?あんた無口過ぎるから、ストーカーが来てないか気になって仕方がないんだけど。」

「……今のところは大丈夫そうです。なんかあったらすぐに言うんで、安心してください。」

「あっそ。じゃあ後ろは任せたわ……ほらおチビ、ちゃんと前向いて歩きなさい!あんたも一緒に後ろ向いてたら意味か無いでしょ?」

「お前なぁ……しゃーねぇーなぁ。分かったよ、大人しく前向いときますよーだ。」


狗井はそう言って宮葉に対しべーっと舌を出すと、くるっと体を前に向け直して歩いた。二つ結びの長い髪がふわりと風に舞って軽く踊る。くせっ毛の多い宮葉とは異なり、狗井の髪は何処までも真っ直ぐ綺麗に整えられていた。少し羨ましさも覚えつつ、宮葉が引き続き髪を弄りながら小さく息を吐く。

出会ってから一日足らずではあるが、既に宮葉は狗井相手にすっかり打ち解けていた。暴力的なところは多いが、なんだかんだで彼女がこちらに殴りかかったりすることはない。すぐ近くに宥め役がいるのも一因だろう。同年代の者と話す機会に長年恵まれなかった宮葉にとって、狗井達は貴重な話し相手でもあった。故に、事ある毎に宮葉は狗井に話しかけ、狗井も疎ましげに対応しつつ素直に彼女に応えていた。宇佐美は周囲の監視も兼ねて後ろについていたが、宮葉から話しかけられない限りは特に何も言わなかった。

しかしながら、会話だけで片道3時間の道のりを凌ぐのにはやはり限界があった。いつもならイヤホンで音楽を聴きながら歩くので、時間の経過をあまり感じずに行くことが出来ていた。が、今回は生憎ポータブルプレイヤーを持ってきていない。工房までの道のりは途中から住宅街の中に伸びているため、景色も変わり映えが無い。次第に会話の数も減ってしまい、最終的には3人全員が無言の状態で歩く事態になってしまった。狗井達は特に気にしていない様だが、宮葉としては何処か妙にソワソワとした気分が拭えなかった。会話の糸口を探そうと辺りを見渡す宮葉を、後ろに立つ宇佐美が静かに眺めつつ頭巾を深く被る。

その時、突然宇佐美は背後から妙な気配を感じ取った。

思わずその場で足を止め、宇佐美が素早く後ろを振り返る。が、点々と建つ街灯と、それに照らされたアスファルトの歩道、そして明かりの届かない場所に広がる暗闇しかそこにはなかった。自分達以外の人の気配はどこにも感じない。ではさっきの気配は一体何だったのか。そう考えながら宇佐美がその場に立ち尽くしていると、少し先を歩いていた狗井と宮葉が彼に声をかけた。


「おーいウサギー?何やってんだよ、さっさと行くぞー!」

「そんな所で突っ立ってないで早く来なさいよ!置いてかれたいの!?」

「……」


2人の声で我に返った宇佐美が、首を左右に振りながらその場から歩き出す。彼のすぐ近くに建つ民家の庭から1羽のカラスが飛び出してきた。きっとカラスの視線を人の気配と間違えてしまったのだろう、と宇佐美が心の中で結論付ける。

そんな彼が歩き去った後――先刻まで宇佐美の立っていた場所の近くにある、1本の街灯。その明かりに照らされていない暗闇の中から、ひとつの()が不自然に伸びてきた。明かりの位置からしてもありえない角度から伸びている影だ。正面を向いて座る狼の様な形の影から、間髪入れずに一人の人間が(・・・・・・)ひょこっと(・・・・・)頭を出す(・・・・)。暗闇と同じぐらい真っ暗な髪の人間は、遠くに消えて行く3人の姿を見つめながらチッと舌打ちをした。

先程飛び出したカラスがガァガァとけたたましい鳴き声をあげる。その時には既に、人の頭も、影から伸びる影もすっかり消えていた。

3人はまだ気づいていない。

彼らのすぐ後ろから、自分達を飲み込もうとする巨大な影が近づいてきていることに。



***



歩き始めてからおよそ3時間後――



「着いたわ、ここよ。」


宮葉がそう言って狗井の服の裾をグイッと引っ張った。前を歩いていた狗井の身体が自然と後ろに引っ張られる。ぐぇっと奇妙な声を上げながら狗井がその場に立ち止まった。引っ張られた服を整えつつ、宮葉の方を睨みながら狗井は目の前に建つ建物を見つめた。

そこにあったのは、コンクリートで出来た二階建ての平凡な建物だった。経年劣化で錆び付いたトタン製のシャッターには『宝石工房 MIYABA』とペンキで文字が書かれている。が、文字自体もかなり昔に書かれたものらしく、部分毎に掠れていて遠目ではよく見えない。傍から見ても年季の入ったその建物の1階、シャッターの向こうから微かに何かの作業をする様な音が聞こえてきた。どうやらこの向こうに宮葉の父親が居るようだ。では早速入ろうかと狗井が歩き出した瞬間、宮葉が彼女の前に素早く躍り出ながら言った。


「ちょっと待って!おチビとノッポは外で待ってて頂戴。言っとくけど、勝手に帰ったりしたら承知しないわよ!」

「何だよ、一緒に行っちゃダメなのかよ?」

「私のお父さん、仕事絡みじゃない限り私以外の人を工房に入れることを禁止してるのよ。勝手に入ったらあんたもこっぴどく叱られるわよ……だから、ノッポと一緒にここで待ってて。直ぐに戻るから。」


宮葉はそう言うと懐から小さな鍵を取りだし、シャッターのすぐ隣にある小さな扉にそれを差し込んだ。どうやらここが玄関口にあたる場所の様だ。宮葉は目線だけで2人にそこに居るよう念を押すと、素早く中に入り扉を静かに閉めた。カチャンと扉が閉められ、外に残された狗井達がポカンとした表情でお互いの顔を見つめ合う。


「なんだよ!宝石職人の親父さんなら、要らねぇ宝石の一つや二つ譲ってもらえると思ったのによぉー!」

「他人の親から勝手に集ろうとするな……とりあえず、ここで待っておこう。佐倉さんに帰りが遅くなる事、伝えておかないとな。」


残念そうに唇を尖らせる狗井を宥めながら、宇佐美がすぐ近くの街灯の下にしゃがみこんな。そこには丁度石レンガの花壇の様な物が置かれており、ひとまず座っておくには十分な高さでもあった。狗井が宇佐美のすぐ隣に座り、宮葉の消えていった工房のシャッターをボーッと見つめる。

しかし、その数秒後――ある程度防音が効くはずのシャッターさえも貫通するほど、大きく野太い男の怒号が2人の耳に聞こえてきた。


『いい加減にしろ!!俺の仕事を邪魔するなと何回言えば分かるんだ!!』

『ち、違うのよ!私、お父さんの様子を見に来ただけなの……!ほら、お弁当も持ってきたわ。ちゃんとご飯食べないと、仕事にも支障が出るでしょ?』

『やめろ、俺の傍に近づくな!!』


くぐもって聞こえる宮葉の声に続いて聞こえてきた、ガシャンッと何かを倒すような音。驚いた狗井達がすかさずシャッターに近づき耳を澄ます。それにより、父親と思しき男の声に混ざって宮葉の声もより鮮明に聞こえてきた。


『ねぇ……どうして?どうしてこんなことするの!?私、一所懸命に作ったのに……!』

『そんな事も分からないのか、この無能め!!母さんを殺した事を忘れたのか!?気安く俺の工房に入るな、この殺し屋!!さっさと出ていけ!!二度と来るな!!!』

『……!!お、父さん……』


その後も宮葉は喉から声を張り上げる様に何回も父親に声をかけた。が、彼はいずれも同じような怒号で跳ね返し一切話を聞く様子はなかった。次第に宮葉の声にも覇気が無くなり、父親の怒号も止まなくなり始める。時間帯も遅いので、これ以上騒いだら近所迷惑になりかねない。そう思った狗井が止めに入ろうかと宇佐美に尋ねようとした瞬間、出入口の扉がバンッと開かれ勢いよく宮葉が飛び出してきた。そのまま扉をバタンッと閉めた宮葉の顔は酷く青ざめており、身体は怯える様にカタカタと震えていた。咄嗟に宇佐美と狗井が彼女の元に近づき、今にも倒れそうな宮葉の身体を支える。


「お、おい宮葉!大丈夫かよ、しっかりしろって!」

「だ、大丈夫……私は、大丈夫よ。ちょっと、タイミングが悪かったみたい。」


宮葉はそう言って弱々しく微笑むと、フラフラとした足取りでその場から歩き始めた。すぐさま宇佐美が支えようと傍に寄り添うが、それを拒絶するかのように宮葉が彼の手を振り払う。そのまま狗井達を置いて先に進む宮葉の後を、狗井と宇佐美が慌てて追いかけた。ボディーガードとして来たのに、護衛される側の人間が先に行ってしまえば無意味も同然だ。まるで一刻も早く工房から離れたそうな宮葉の身体をガシッと掴み、その場に留めさせながら狗井が言った。


「待てって言ってんだろ、宮葉!先走るなよ!!」

「……!!」


狗井の真っ赤な細い瞳が宮葉の顔を真っ直ぐ見つめる。どこか怒っているようなその表情を前に、ハッと目を見開いた宮葉はたじろぐ様に視線を下に向けた。震えを抑える様に己の身体を抱きしめながら、宮葉は喉から吐き出すように途切れ途切れに呟いた。


「……本当に、大丈夫だから。怒鳴られるのは慣れてるし、あぁいうのも、いつもの事だから……」

「本当に大丈夫な奴は、わざわざ自分から“大丈夫”なんて言わねーよ。お前、顔色も最悪じゃねーか……とりあえずここら辺で一旦休もうぜ。」


狗井はそう言って眉を顰めると、近くのガードレールに宮葉の身体を軽くもたれかけさせた。歩道と車道を隔てるために建てられたそのレールは、上が丸みを帯びている上高さも程よく、人が寄りかかる分には何の問題もなかった。宇佐美と狗井が宮葉の身体を左右から挟み込む様にガードレールにもたれる。相変わらず狗井の表情は険しく、無表情の多い宇佐美も心配そうな眼差しで宮葉の顔を覗き込んでいた。各々の視線に耐えかねたのか、宮葉が首を左右に振りながら2人に言った。


「あーもう!おチビもノッポも変な顔しないでよ!私はもう大丈夫だから、気にしないで頂戴!!」

「嘘つけ!あんなに怒鳴られて大丈夫な訳ないだろ!?しかも、自分の娘を殺し屋呼ばわりとか……いくらなんでも、言い過ぎだろ。」

「……やっぱり聞こえてたのね。それももう慣れたわよ。亡くなった日からずっと言われてるの……あの人、お母さんのことが大好きだったから。」


宮葉がそう言って息を吐き、虚空を眺めるように天を仰いだ。彼女の瞳から来訪前の生き生きとした光がすっかり無くなっていた。歩いている最中はあんなに話しかけてきたのに。それ以降、宮葉が自分から何か言葉を発する事はなかった。すぐ近くに建つ街灯の光に蛾がまとわりつき、蛍光灯に当たる度にジジッと耳障りな音を奏でる。しばらくお互いに無言の状態が続いたが、痺れを切らしたのか、狗井がチッと舌打ちを挟んで宮葉に言った。


「あぁもう!ただのボディーガードの仕事なのに、なんでこんなに胸糞悪ぃ気持ちにならなきゃなんねぇんだよ!ウサギ、財布出せ!持ってきてんだろ?」

「……なんで急に財布?」

「ちょっと飲み物買ってくる!イライラして喉渇いちまったんだよ……宮葉、お前の分も買ってきてやる!」

「え!?い、いいわよ。私は別に……って、ちょっとおチビ!どこ行くのよ!?おチビぃー!!」


宇佐美が財布を取り出すや否や、素早い動きでそれをかっさらいながら、狗井がどこかへ駆け出してしまう。あっという間に暗闇の中へ消えた狗井の背中を、宮葉が思わず呆然とした様子で見つめる。すると、宮葉の隣に立っていた宇佐美がため息を吐きながら彼女に言った。


「すいません、慌ただしい奴で……根は優しい奴なんです。困ってる人見かけたら放っておけないぐらいに。」

「……そう。ってか、あんたまだ敬語なのね。同い歳なんだから、タメ口でいいわよ。」


宮葉の言葉に対し、ハッとした表情を見せた宇佐美が苦笑混じりに「そうだな。」とだけ答える。すると、宮葉は不意に何かを思い出した様に顔を上げ、ガサガサと己の服のポケットを漁った。そこから取り出されたのは、不揃いな形の宝石が縦に並べられたキーホルダーのようなものだった。色も形も疎らで、お世辞にも綺麗とは言い難い見た目をしている。しかし、街灯の明かりに照らされてキラリと瞬くそれを、宮葉は手のひらに乗せながら心底大切そうに握りしめた。


「宮葉、それは……」

「お守りよ。お母さんがまだ生きてた頃に、お父さんが作ってくれたの。要らなくなった余り物の宝石を、適当に繋げただけの粗悪品だけどね……そう言えば、これを持ってきてるの忘れてた。どおりでいつもより調子が悪い訳だわ。」


宮葉はそう言って深く息を吐くと、宇佐美によく見せるようにお守りを手のひらにかざした。宇佐美もそれに応えて視線をお守りの方に向ける。子供用のビーズよりもキラキラと美しく輝く光が宮葉の手のひらの上で踊っていた。

しかし、お守りに視線を向けていたせいか、宇佐美達は気づくことが出来なかった。暗闇の向こう、2人の影が伸びる歩道の上に、不自然な()が忍び寄っていた事に。そして、影が宮葉のそれと融合した瞬間、影の中から人間の手が(・・・・・)にゅっと(・・・・)飛び出てきた(・・・・・・)。その手は宮葉の両足首をガシッと掴み、すぐさま影の中に引きずり込むように引っ張った。驚いた宮葉が悲鳴をあげる。それにより彼女の手からお守りが滑り落ちた。お守りは彼女の足元に落下したが、そのまま影に飲み込まれて(・・・・・・・・)沈んで行った。まるで影自体が底なし沼の様になっているのだ。若干遅れて異常事態に気づいた宇佐美が、猫のごとく咄嗟にガードレールの上に飛び上がった。片手でガードレールを掴み、影の中に沈みつつある宮葉めがけてもう片方の手を伸ばす。


「宮葉!掴まれ!!」

「……!!」


ズブズブと沈みゆく己の体を懸命に伸ばし、宮葉が宇佐美の手をどうにか掴んだ。両手で必死にしがみつき、影から逃れようと必死にもがく。が、宮葉の足は先程伸びてきた手でがっしりと掴まれており、どんなにじたばたともがいても離れることは無かった。もし足を踏み外せば宇佐美も共に沈みかねない。そのため、宇佐美は地面に足をつけないよう、ガードレールを強く握りながら宮葉の身体を引き上げようとした。


「ね、ねぇノッポ!お願いだから離さないでよ!?どんどん、沈んじゃう……た、助けて!助けてぇ!!」

「分かってる!宮葉も、絶対に手、離すなよ!!」

「……あー……もう鬱陶しいなぁ。さっさと飲み込まれろよ、楽しくねぇだろ?」


宇佐美と宮葉がお互いに声をかけ合う中、突然影の中から(・・・・・)若い男の声が聞こえてきた。驚いた2人がすぐに影の方へ視線を落とす。すると、宮葉の沈む影の中から一人の男がにゅるりと顔を出した。右目に黒い前髪が長く垂れており、右頬には何やら生々しい痣が出来ている。黒一色のパーカーに身を包んだその男は、宮葉の身体にしっかり抱きつくと宇佐美の顔を睨みながら彼に言った。


「なぁ、そこのお前。めちゃくちゃ邪魔だから手離せよ。俺は今からこの子()遊ぶところなの、分かるよなぁ?ん?」

「何、言ってるんだ……離す訳、無いだろ……!!」

「はぁ……最近の若い奴って強情だよなぁ。じゃあしょうがねぇや、この子の方から離してもらおうか。」

「え……あ、あぁ……!待って、やめて!触らないで!!」


黒髪の男の手が宮葉の手に伸びる。嫌な予感を察した宇佐美が途端に表情を引き攣らせた。そんな彼をよそ目に、男は宇佐美の手を掴む宮葉の手を剥がし始めた。宮葉が身をよじったりして必死に抵抗するが、沼の様な影の中に己の足がある以上、体に上手く力を込めることが出来ない。


「や、やだ……やめて!やめてって言ってるでしょ!?」

「あーいいねぇ……その反応、その顔、その声!強気な子が急に弱気になるの、本当癖になる。」


男がニヤニヤと不気味な笑みを見せながら宮葉の指を1本ずつ引き剥がす。女性である宮葉が男の力に反抗しきれる訳もなく、ゆっくりと宮葉の指が宇佐美の腕から離されていった。焦燥感を覚えた宮葉が、目に大粒の涙を浮かべながらイヤイヤと必死にかぶりを振った。宇佐美のガードレールを掴む手も次第に限界が近くなり、手汗のせいで少しずつ位置がズレ始める。足元の影はどんどん拡大し、最終的に巨大な狼を正面から見た様な形に広がった。このまま足を下ろせば宇佐美も宮葉同様影の中に沈んでしまうだろう。宇佐美は悔しげに歯を食いしばると、足元の影を強く睨みながら呟いた。


「く、そ……!こいつ、やっぱり人狼か……!!」

「もう嫌!!お、お願いだから、やめて……誰か、助けてぇええっ!!!」

「うるせーなぁ、そう叫ぶなよ。耳がキンキンしちまうだろ……あ?」


宮葉の指を離していた男が、不意に手の動きを止めて顔を上げた。ぶぉんっ、と何かを投げる様な音が聞こえたからだ。どこからだ、と男が周囲を見渡した瞬間、彼の後頭部めがけて何かが勢いよくぶち当てられた。驚いた宇佐美が慌てて顔を上げる。街灯の明かりに照らされたお陰で、男に当たったのがよくある形の炭酸飲料入りペットボトルだと分かる。ペットボトルは男の頭に当たった衝撃で蓋が外れ、飛び上がると同時に泡まみれになった中身が一気に溢れ出た。


「いでぇえっ!!?な、ん……ぶぼぁあっ!!」


何を当てられたのか分からなかった男が空を見上げた瞬間、ペットボトルから吐き出された炭酸飲料の液体が男の顔面にばしゃばしゃと降りかかった。甘ったるく刺激的な茶色い液体が、男の目や鼻の中、更には口の中にまで容赦なく流れ込んでいく。


「うげぇえああっ!!なんだ、何が、起きて……あぁああ目ぇ痛ぇええ!!鼻も痛ぇええ!!!」


先程まで余裕綽々だった様子の男が、一転して慌てふためきながら影の中に消えて行く。それにより地面に広がっていた影が一気に消え去り、宮葉の身体が発射台から飛び出るが如く外にはじき出された。それに引っ張られる形で宇佐美の身体も地面に滑り落ちてしまう。


「い゛っ……!!」

「きゃあぁぁあ!?……た、助かった、の?」

「宮葉!!ウサギ!!大丈夫か!!?」


歩道の上で倒れる宇佐美と宮葉の元に、ペットボトルを2本腕の中に抱えた狗井が慌てて駆け寄る。どこかの自販機で買ってきたのだろう、そのペットボトルの中身はどちらもミネラルウォーターだった。狗井が片手を宮葉に差し出すと、宮葉はその手を掴みよろよろと立ち上がりながら彼女に言った。


「お、おチビ……あんたが、助けてくれたの?」

「助けたっつーより、お前らがやばい目にあってたから、思いっきりコーラ投げただけなんだけど……おいウサギ、お前も大丈夫か!?」

「……俺は大丈夫だ。それより、ハル。さっきの奴は……」

「人狼だろ、分かってる。遠目で見た感じだと……影の中に潜む能力ってところか。」

「え!?あれが、人狼!?私には、ただの人間にしか見えなかったわよ!?」


宮葉がすかさずそう指摘すると、狗井はため息混じりにミネラルウォーターのペットボトルを1本彼女に渡しながら言った。


「あれのどこがただの人間だよ?普通に考えて、地面の中からいきなり人の頭が出てくると思うか?」

「そ、それは確かにそうだけど……でも……!」

「お前なぁ、この期に及んで無理やり否定しようとすんなよ。その身で実際にあいつの能力体験したんだろ?……そういやウサギ、あいつの狼は見えたか?」

「あぁ、一応な。影そのものが狼の顔をしてた。」

「なんだよ、てっきり俺の見えない所にいるもんかと……あーいや、今はそんな話してる場合じゃねぇな。さっさと宮葉ん家に行こうぜ!こんな所で長居する訳にはいかねぇし。」


宇佐美にもペットボトルを渡しながら狗井が苛立たしげに髪を掻きむしる。宇佐美はそれを受け取ると、足元に落ちていた宮葉のお守りを素早く拾い上げた。影が消えたお陰で宮葉と共に出てきた様だ。それを宮葉に渡し、未だにふらつく彼女の身体をそっと優しく支える。宮葉は渡されたお守りをギュッと握りしめると、狗井達に連れられて共にその場から走り出した。先程の怪奇的な現象を前に、脳みそは未だに現実離れした感覚に苛まれていた。が、少しふらつきつつも宮葉は2人と一緒に懸命に走り続けた。その最中、狗井が宇佐美の方に顔を向けながら彼に言った。


「あいつの能力が影使うんなら、あんまり暗い所とかに居ねぇ方がいいよな?もっと明るい場所に移動しようぜ、ウサギ。」

「……確かに、そうだな。公園寄りの道を行こう。あそこはここより明かりが多い。」


宇佐美の提案を受け入れた狗井が、車道を素早く横断し向かい側の公園前に躍り出た。宇佐美も宮葉を連れて彼女の後を追う。時刻は既に夜の10時を回っている。場所が町の中でも郊外にあたる故か、周囲には人の気配がほとんど無く道路を行き交う車も全く見当たらない。狗井は辺りを警戒するように見渡すと、宇佐美に『先に行け』とアイコンタクトを送った。宇佐美がそれに応じて宮葉の手を強く握りしめる。恐怖心のあまり心の拠り所がほとんど無い宮葉も、すがる思いで宇佐美の手をぎゅっと握り返した。そのまま3人が縦に並ぶ様に歩道を走り抜ける。すぐ隣に大きな公園が広がるその道は、宇佐美の言う通り眩い光を放つ街灯が等間隔に置かれていた。そのため、先程まで居た道と比べても圧倒的にこちらのほうが明るい。影が完全に無い訳でもないが、他と比べても数が少なく色も薄い為、彼の影から逃げる上では好都合だった。狗井がしきりに辺りを見渡し、近くに怪しい影が無いかを何度も確認する。

その時、不意に狗井の足首から人間の手の感触が伝わってきた。そのままぐいっと引っ張られ、油断していた狗井の身体がうつ伏せの状態で倒れてしまう。狗井が転んだことに気づいた宇佐美が咄嗟にその場で走るのをやめた。宮葉と一緒に慌てて振り返り、狗井の元に駆け寄ろうとする。


「ハル!?」

「おチビ、なにやってんのよ!?早くこっちに……」

「馬鹿野郎、こっちに来んな!!い゛っ……!?」


急いで起き上がろうとした狗井の髪が、背後から伸びた手に掴まれ強く握られる。それによる痛みで狗井が顔をしかめると、彼女を捕まえた張本人――先程宮葉を影の中に引きずり込もうとした、あの男が狗井の身体を背後から押さえつけた。片手と頭を地面に縫い付けられ、そのまま背中の上に馬乗りされてしまう。


「はっ……ようやく、捕まえたぜ。さっきはよくも、コーラぶつけてくれたなぁ、えぇ?」

「て、めぇ……!どっから、出てきやがった……!?」

「影の中からに決まってんだろ?俺があそこから逃げてたとでも?影の中で(・・・・)ずっと待ってた(・・・・・・・)んだよ……最初は建物の、次にお前の影ん中にな。」


男はそう言うと、狗井の髪を握ったまま彼女の頭を上にあげた。狗井がギロッと男の方を鋭く睨みつける。恐ろしい形相をした彼女の視線を前に、流石の男も一瞬喉をひきつらせたじろいだ。が、すぐに自分のペースを取り戻し、懐から1本の折り畳みナイフを取り出した。脅す様にそのナイフをくるりと回すと、男はその刃先を狗井の首筋に押し付けた。狗井の柔らかな皮膚に、微かにだがナイフの刃がくい込む。


「これでも結構苦労したんだぜ?お前の走る影に違和感無く溶け込むのはよぉ……おいそこの!そっから動くなよ?俺の玩具(おもちゃ)は今からこいつに変更する!そっちの女は好きにしろよ、俺はこいつで沢山遊ぶからよ!」

「お、玩具ですって!?あんた、人をなんだと思ってるの!?人狼だかなんだか知らないけど、常識外れにも程があるわ!!」

「よせ、宮葉!下手に相手を刺激するな!ハルが人質になってるんだぞ!」


男が下品な笑い声をあげる中、思わず宮葉が声を荒らげて狗井達の元に近づこうとする。それを宇佐美が制すると、宮葉は掴まれた己の手を振り回しながら彼の手を解こうと抵抗した。が、無論宇佐美の方が腕力が上なので離すことはできなかった。


「なによ、離して頂戴!!このまんまおチビを、あいつの好きな様にさせちゃっていいの!?」

「頼む、宮葉……今は、ハルを信じろ。」


悔しそうに叫ぶ宮葉に対し、宇佐美がやけに冷静な口調で淡々と呟いた。思わず呆気に取られてその場に立ち尽くす宮葉。すると、狗井を押さえていた男はニヤニヤと笑いながら


「どうしたどうした?仲違いか?お友達がナイフ首に当てられてんのに、何もしねぇつもりか?それだったらこのまま本当にお持ち帰りさせてもらうぜ?いいのか?あぁ!?」

「……お前さぁ、さっきからぺちゃくちゃうるせぇんだよ。」


それまですっかり黙り込んでいた狗井が不意に口を開いた。微かに怒気を孕んだその声音に、男がナイフを構えたまま「はぁ?」とだけ応える。しかし、素っ頓狂な表情を見せていた男の顔は、次の瞬間驚きと恐怖で一気に引きつった。


「気安くベタベタと俺の体に触りやがってよぉ……おまけにナイフの先っちょ、ちょっとだけ皮膚食い込んだぞ、この野郎……」


狗井の身体に、オーロラのような赤い光がまとわり始める。それと同時に、狗井の身体の体温が不自然なほど熱く(・・)なり始めた。その熱さは、髪を掴んでいた男の手でさえ耐えかねるほどのものだった。男が慌てて彼女から手と体を離す。その間にも狗井の身体の周りの光は強くなり、まるで高温のストーブの近くに居るような暑さを錯覚するようになる。一体なにが起きているというのか。完全に腰を抜かしてしまった男が、せめてもの抵抗として、素人の如く震える手で折り畳みナイフを狗井に向けた。


「てめぇが、宮葉のストーカーしてた奴だよなぁ?そう確信しても問題ねぇよなぁ、えぇ?」

「な、な……!?お、おおお前、俺に何をする気だ!?」

「何を……?決まってんだろ……てめぇを焼く(・・)んだよ。今、ここで。」


顔を俯かせたまま男に背中を向けていた狗井がゆっくりと後ろを振り向いた。血の如く真っ赤な瞳が男の姿を真っ直ぐ捉える。

その瞬間、男の目の前が、視界の全てが真っ赤(・・・)に染まった。比喩でもなんでもない。まさしく赤、赤、赤一色に包まれたのだ。それと同時に、男の顔面を中心に猛烈な()が全身へ広がっていく。激しい熱と痛みに男が慌てて顔を覆うが、その熱と赤みは手にも伝染し、かえって悪化することとなった。そこで男はようやく気づいた。

――自分は今、燃え盛る本物の炎に包まれているのだと。


「ぁ、あっ……あがあぁああああっ!!!?」


あまりにも唐突過ぎる発火現象を前に、反応が完全に遅れてしまった男が火を消そうと必死に暴れ回る。が、どんなに身体を振り回しても、地面でのたうち回っても、男の身体にまとわりついた炎は全く消えなかった。熱い、とにかく熱い。視界が赤い。熱すぎてまともに呼吸も出来ない。


「ひ、ひぇあああっ!!ひ、火ぃ!消して、消しくれぇぇぇ!!あっつぁあああぁあ!!!」

「……こいつマジでくっそうるせぇな。これでストーカーとか正気かよ。」


男の身体が炎に包まれる中、彼の手から滑り落ちたナイフを足で踏み潰しながら狗井が呟いた。生憎宮葉には見えなかったが――いつの間にか立ち上がっていた彼女の足元には、大型犬サイズの狼が彼女に寄り添うようにして座っていた。全身が赤く、まるで蝋燭の火の如く毛が逆立ち燃え盛っている。口の隙間からも火が軽く吹き出ており、狼の姿が宮葉にも見えていたら、近づくだけでも熱いであろう事が嫌でもわかったことだろう。残念ながら、宮葉に見えたのは突然不自然に燃え上がった男と、謎の赤いオーラに包まれた狗井の2人だけであった。

狗井は狼と共に男の傍に近づくと、彼のそばにしゃがみこみパンッと1回手を叩いた。その瞬間、あれだけ燃え盛っていた炎があっという間に消え去り、苦しみ悶えていた男の身体がパッと街灯の元にさらけ出された。男の着ていた服はすっかりボロボロになっており、皮膚の一部も焼けて爛れている。それでも身体の一部は奇跡的に軽傷で済んでおり、それに気づいた男が目を丸くしながら己の手を見てたどたどしく呟く。


「は、はぇ?あぇえ?い、生きて、る……生きてる……?」

「おう、生きてるぞ。俺は人殺しになるつもりはねぇから、一応(・・)加減しといたぜ。」


狗井がそう言いながら、焼けて縮れた男の髪の毛をぐいっと引っ張った。男が途端に情けない悲鳴をあげて手をばたつかせる。


「ひぃいいいっ!!!ま、待ってくれ!!あやま、謝るっ!!謝るから、許してくれぇぇぇっ!!!」

「謝る、ねぇ……ごめんて済んだら云々かんぬんって言うべきなんだろうけどよぉ……」


狗井はそう言って深くため息を吐くと、男の髪を掴んだままニヤリと怪しげな笑みを浮かべた。男の背筋が途端にゾワッと粟立つ。本能的に嫌な予感を察した男が慌てて逃げようとするが、狗井の腕力を前に衰弱しきった彼が逃げられるわけもなかった。


「とりあえず……1発殴らせろっ!!!!」


狗井がそう叫ぶと同時に、男の顔面からまた新たな激痛が走り抜けた。炎に包まれた時とは異なる熱さと痛みだ。おまけに鼻の骨が折れる音も聞こえた。彼女に殴られたのだと認識すると同時に、男の身体は後方へ勢いよく吹っ飛んだ。数秒間宙を舞った後、男のズタボロな身体はアスファルト舗装の歩道上にべしゃっと落下した。背中から伝わる落下の衝撃が、炎や殴打に比べると優しいものに思えてしまうのは気のせいか。悲鳴をあげる暇もなく、男は天を仰ぎながら身体をピクピクと痙攣させた。そして、そのまま男の意識は正真正銘暗闇の中へと引きずり込まれた。


「……っ……やっば、ちょっとやり過ぎた……」


男の姿を最後まで見届けた狗井がポツリとそう呟く。その体はフラフラとふらつき、すぐにその場にガクンッと倒れた。完全に蚊帳の外だった宇佐美と宮葉が慌てて彼女の元に近寄る。宮葉は目にも止まらぬ速さで狗井のそばにしゃがみこむと、彼女の肩を掴み前後に激しく揺さぶりながら言った。


「お、おチビ!おチビ、大丈夫!?生きてる!?今の炎、あんたが出したの!?どうやって出したのよ、教えなさいよ!!」

「あー待て待て待て!一気にまくし立てんな、頭に響く……ウサギ、水まだ持ってるか?ちょっと貸してくれ、熱くなりすぎた……」


狗井は宮葉に身体を揺らすのを止めさせると宇佐美に向かって弱々しく手を伸ばした。宇佐美がペットボトルを差し出すと、狗井はその蓋を開けて水を勢いよく頭の上に流し始めた。まるでシャワーを浴びる様な勢いで水をかける狗井を前に、宮葉が唖然とした様子でその光景を見つめる。


「あぁ、もう……非現実的な事が一気に起き過ぎて、頭が追いつかないわ……で、あいつどうするのよ?流石に放置はまずいわよね?」

「っはぁー……あとは全部笹木に任せるよ。あいつなら上手いこと話まとめてくれるだろ……とりあえず、これでお前のストーカー被害も無くなるだろうよ。良かったな。」


水を全て浴び終えたのか、狗井が犬のように頭を振りながらそう言った。辺りに散らばる水しぶきを両手で慌てて避けながら、宮葉が今度は宇佐美に問いかける。


「ねぇ、ノッポ……やっぱり今のが、人狼の能力ってものなの?何も無い所から人が飛び出たり、何も無い所から火が出たり……全部、人狼の……狼の力のせいで起きたの?」

「……あぁ。やっぱり、宮葉には見えなかったんだな。あいつとハルの従える狼の姿が。」


空のペットボトルを渡された宇佐美が、濡れきった狗井の髪をハンカチで拭きながらそう答えた。その間に狗井がスマートフォンを取り出し、素早く操作をして誰かに電話をかける。恐らく笹木をここに呼び出すつもりなのだろう。宮葉が無意識的にお守りを握りしめると、狗井の髪や肌を拭きながら宇佐美が彼女に尋ねた。


「……怖かったか?」

「え?」

「ハルの狼の能力は、見てもらった通り……炎を操る能力なんだ。それを見た大抵の奴は、ハルの事を化け物とか悪魔とか言って恐れるんだけど……お前はどうなんだ?ハルのこと、今でも怖いと思ってるか?」


宇佐美がハンカチで拭くのをやめて狗井から手を離す。笹木と電話が繋がったらしい狗井はその場から立ち上がると、まだ濡れている己の服を軽く叩きながら2人から離れた。そのままの足取りで倒れた男の傍に近づき、電話をしながら彼の頭を足で軽く小突く。その姿を一瞥した宮葉は、まだ持っていたペットボトルとお守りをそれぞれ握りしめながら小さく息を吐いた。

突然影の中から足を掴まれた時、そして影の中へ引きずり込まれた時、宮葉の心は恐怖一色に染まっていた。怖い以外の感情が浮かばず、無我夢中で宇佐美の腕にしがみつく事しかできなかった。しかし、狗井が助けてくれた瞬間、宮葉の心は一気に安堵の温もりに包まれた。そして、今度は狗井が捕まった際には、恐怖よりも怒りの感情が火山の噴火の様にこみあがった。狗井が男をあっという間にねじ伏せた時には、歓喜のあまり思わず心の中でガッツポーズをしてしまった。

ここまでの顛末を思い返しても、狗井に対して恐怖の感情を抱く自分はどこにもいなかった。


「そうね……正直、怖かったわよ。でもそれ以上に……かっこよかった。」

「……!」

「私、こんなワクワクした気持ちになるの、初めてなの。現実離れしたことに出くわすのって……頭はこんがらがるけど、こんなに楽しいことなのね。全然知らなかったわ。」

「……宮葉……」


柔らかく微笑む宮葉の顔を見つめながら、宇佐美が心底安心した様に目を細める。長年の付き合いにある狗井が化け物呼ばわりされるのを恐れていたのだろう。当の本人は相変わらず男の頭を小突きながら何やら声を荒らげているが。

時刻は夜の11時を回り、静まり返っていた公園前が救急車やパトカーのサイレン音及び赤い警告灯で少し騒がしくなる。それよりも先に狗井達と合流した笹木は「後は俺がどうにかしとくよ」と言って3人に早く家に帰るよう催促した。宮葉としては、笹木1人に任せて大丈夫なのかという気持ちで正直いっぱいだった。が、狗井達がそそくさとその場から離れたので渋々2人について行くことになった。3人はそのまま宮葉の家に向かい、親切にも宮葉を家の玄関前まで送り届けた。また明日ね、と宮葉が言うと、狗井は何も言わないまま手を振ってその場から立ち去った。1人残された宮葉が、手の中にある例のお守りをそっと握りしめる。今まで感じていたあの視線は、今では何処からも感じなかった。


――本当に、終わった……のよね?

――まさか初日から解決するとは思わなかったけど……まぁ、いいわ。

――これであの視線に悩まされる事が、本当に無くなればいいんだけど……


すっかりぬるくなったミネラルウォーターのペットボトルを抱えると、宮葉は玄関の扉を開けて家の中へと消えて行った。鍵とキーチェーンを丁寧にかけて、色々な意味で高ぶったままの身体を休めるべく、二階にある自室へと急いで歩いて行く。

――そんな彼女の消えていった家の前を、ふらつきながらゆっくりと歩くひとつの人影。もし宮葉がもう少し遅く家の中に入っていれば、彼女の目にもその人影が見えた事だろう。丸眼鏡の奥で虚ろな表情を見せる彼は、宮葉の家の門を一瞥した後、その門の前にふらふらと近づいた。お洒落な装飾こそあるものの、見た目はごく平凡な金属製の門だ。そんな門の隣にある壁、そこに貼られた表札を舐め回す様にジッと見つめる。その後、彼は門めがけて鋭く尖る1本の釘を突き立てた。門と釘がぶつかり合い、カンッと小さな金属音が鳴り響く。軽い力で打ち込まれたにもかかわらず、釘は淡い国防色の光を放ちながら門の中に深くめり込んだ。


「……次はお前だ、宮葉燐。」


彼はそう呟くと、ニヤリと怪しげな笑みを浮かべながらその場を後にした。彼の行為を見た者も、釘の刺された音を聞いた者もいない。密かに、静かに行われた彼の行為は、誰にも認知されることなく文字通り闇の中へと消えて行った。

当然宮葉はまだ知らない。今回のとは異なる、新たな脅威が自分の元に近付きづつあることを。



****



――続いてのニュースです。



大神町在住の女子大学生に対するストーカー行為の疑いで指名手配されていた容疑者が、先日未明に○○公園前の通りで発見されました。

発見されたのは住所不定無職の小原御影(おはらみえい)容疑者(23)で、当時現場付近には火器等が一切無かったにもかかわらず、小原容疑者は全身大火傷の重傷を負った意識不明の状態で歩道の上に仰向けに倒れていたとの事です。通報を受けた警察は直ちに小原容疑者を病院に搬送し、意識が戻り次第事情聴取を行う方針です。また警察は、小原容疑者が火傷を負っていた原因について、人体自然発火の可能性も考慮した上で今後も調査を続行するとのことです……












ーー壱日目 終幕ーー

*人物及び役職名紹介*

※本作では各人狼の能力を『役職名』という形で称しています

※動画内やコメントに載せているキャラ紹介より引用→https://www.youtube.com/watch?v=CR4uFIt_paI&t=2s


♀狗井遥-いぬい はるか-(16)


大神学園高等部1年。小柄で華奢な体格だが、それに似合わぬほどの怪力を持つ。男勝りかつ短気な性格で金の亡者。肌を露出する事を極端に毛嫌っており、夏場でも長袖のインナーを着る。宇佐美と共に孤児院に住んでいる。寝相が凄まじく悪い。


役職名:火焔の人狼-炎を操る人狼。炎は狗井の意思で任意に点けたり消したりすることができる。僅かではあるが温度も調節が可能。が、高温になるほど狗井本人の体に負担がかかってしまう。狗井の怒りの感情に合わせて狼の体の大きさが変化する。


♂小原御影‐おはら みえい‐(23)

宮葉をストーカーしていた張本人。女性に対して強い加虐性欲を抱いており、特に気の強い女性を屈服させることに強い快感を覚える異常性癖を持つ。流産によって精神状態が不安定になった母親から虐待を受けた過去があり、右側の頬にその時に受けた痣が残っている。


役職名:暗躍の人狼-あらゆる影の中に潜伏することができる。小原の影と融合することで、その影を踏んだ人間を引きずり込むこともできる。影という概念上、影自体を壁や床から立体的に浮かばせることはできない。また、狼は小原の影と同化する形で平面上にしか存在できない。

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