陸日目ー後半戦
***
翌朝
大神町某所 とあるアパート3階廊下――
「千石寺の奴が人狼、か……まぁ、あんなに堂々と目に見えない香り振りまかれたってんなら、そう疑っても問題無いよな。」
「一応本人にも直接聞いてみたんだが、反応が少し吃っていたからほぼ確実だろう……問題は狼の姿が見当たらない事だ。単に姿を隠してるだけなのか、あるいは出てきていないだけなのか……」
「それだったら、お前が自分の狼肩に乗せてあいつにカマかけりゃ良かったのに――っと、着いた着いた。宮葉ー!おーい宮葉ー!
!」
古びたアパートの一番端に位置する部屋。狗井はその扉の前に立つと、ドアをドンドンと力強く拳で叩いた。以前ここに訪れた際にはインターホンを何度も鳴らしていたが、時間帯が朝故かノックで我慢しているらしい。いずれにせようるさいことに変わりはないのだが。
狗井が何度もノックを繰り返す。しかし、宮葉からの応答はない。とある事件が原因で宮葉が入院している間、彼女の家の周りには立ち入り禁止のテープが貼られていた。宮葉が退院した後には既に剥がれており、昨日狗井が家に送った時には跡形もなく回収されていた。朝も早い時間帯なので、狗井達は普通に宮葉が中にいると思ったのだが――
「……?宮葉の奴、寝てんのか?」
「それにしては反応が無さすぎるだろ。インターホン鳴らしてみるか?」
「おい、朝からうるせーぞ!何回注意すりゃ気が済むんだ!!」
突然、隣の部屋の扉がバンッ!と力強く開かれた。驚いた狗井達がギョッと目を丸くする中、そこから出てきたのは灰色のジャージに身を包む何ともズボラな見た目の男だった。しかし、憤然とした表情を浮かべていた男は、狗井達の姿を見た瞬間何故かキョトンとした顔を見せた。その反応の変わり具合に、狗井達も思わずポカンと口を開けてしまう。
「んぁ?なんだ、あの口うるさいガキじゃないのか。またあいつかと思って出てきちまったよ、ったく。」
「あいつ?おっさん、あいつって誰のことだよ?」
「んぁ?なんか短いタイツみてーなの履いたガキだけど、流石に名前までは知らねーよ。今朝執拗に隣のその部屋のドアを叩いてたからうるせー!って注意したんだよ。それでも無駄にでけぇ声で“学校行こう”っていって隣の奴の名前を呼ぶからまたうるせーって注意して……あーもう、お陰で眠たくて眠たくてたまんねぇよ。」
腹をボリボリとだらしなく掻きながらそう答える男。しかし、彼から話を聞いた瞬間、狗井と宇佐美は互いに顔を見つめて表情をさぁっと青ざめさせた。
男の話す“あいつ”に関する特徴について、思い当たる人物が1人しか居ないからだ。
「「……千石寺……!!」」
狗井と宇佐美はほぼ同時にその名を呟くと、気だるげな男を押しのけて慌ただしくその場を後にした。押された男が怒りで声を荒らげるが、切羽詰まった顔を見せる狗井達にその声が届くことは無かった。
――こちらが宮葉を迎えに行くよりも先に、千石寺が宮葉を連れて学校に向かった――
千石寺の狙いや理由は全く分からない。だが、千石寺が散々宮葉を虐めた事実や昨日の宮葉の様子がおかしかった事、そして漆村幽美から聞いた話など――それらを考慮しても、宮葉を千石寺と2人きりにさせたらろくな事にならない事を狗井達は既に分かりきっていた。今は一刻も早く学校に向かわなければ。
「畜生……何で宮葉ばっかりこんな目に遭うんだよ、畜生!!」
宇佐美と並んで全力疾走しながら狗井が舌打ちをする。どちらの表情も酷く焦っており、珍しくあまり余裕はなかった。昨日の夜、実家でもある孤児院に帰った直後、謎の連続自殺未遂事件が密かに町で起きてきた話を2人は聞いていたのだ。不穏な事態が続く中、そこそこ長い付き合いである宮葉の身にも何が起きるのではないか――そんな考えが狗井達の脳裏を過ぎって離れなかった。
「頼む……どうか、無事でいてくれ。宮葉……!!」
狗井と共に走りながら、宇佐美も眉をひそめて切実に祈る。
朝を迎えて間もない大神町では、夏にもかかわらず薄ら寒い風が町の中を霧の如く覆い尽くしていた。
***
大神学園高等部校舎五階 屋上――
「ねぇ……何で朝から屋上なんかに連れてきたの?」
朝方特有の少し冷たい風が、屋上に佇む宮葉と千石寺の足元を吹き抜ける。本来屋上は立ち入り禁止区域なのだが、鍵がかかってないのをいい事に、千石寺が勝手に扉を開けて外に出たのだ。宮葉より少し前を歩いていた千石寺が、くるりとこちらを振り向いて呟く。
「何でって、締めに十分な舞台はここしかないなって思ったからだよ。」
「締め?締めってどういう事よ?」
千石寺の言いたい事が分からず、宮葉がしきりに首を傾げながら彼女に尋ねる。すると、千石寺は背中の後ろで指を交差させながら、宮葉の顔を真っ直ぐ見つめて言った。
「本当に唐突でごめんね、宮葉ちゃん……僕、もう宮葉ちゃんと友達でいるの、辞めようと思うんだ。」
「――……は?」
屋上に一際冷たい風が吹き抜ける。宮葉の鮮緑色のツインテールと、千石寺の薄い桃色の短髪がふわりと揺れ動く。
「だって宮葉ちゃん、宇佐美くんと狗井さんと一緒に居ること、辞めてくれなかったんだもん。僕だけが友達だってあんなに言ったのにさ。昨日の事もう忘れたの?狗井さんと一緒に2人で家に帰ったんだよね?唯一の友達である僕を置いてさ。」
「……!ち、ちが……あれは、仕方なく……」
「嘘つき!!何が仕方なくなの!?僕、何回も何回も“君の友達は僕だけ”って話したじゃん!!本当失望した……宮葉ちゃん、いい子だと思ってたのに、思いっきり勘違いしてたみたい。君を信じた僕が馬鹿だったよ。」
そう言いながら千石寺が冷たい目で宮葉の顔を睨みつける。今までの宮葉であれば、なにを馬鹿なことを等と言って千石寺を怒鳴りつけた事だろう。あるいは千石寺を置いて無理やり屋上から退出した事だろう。
しかし、今の宮葉は違った。絶望の色に染まった表情で目を見開き、何も言えないままふらふらとその場に蹲ってしまったのだ。心の中では『千石寺に捨てられた』ということによる負の感情がぐるぐると渦を巻いていた。別段寒い訳でもないのに、身体がカタカタと震えてしまう。そんな彼女に追い討ちをかける様に、宮葉の近くに歩み寄りながら千石寺が冷たく言い放った。
「お前の味方はもうどこにもいない。結局、ちゃんと狗井さんとかには聞いたの?自分は本当の友達かどうかって……どうせ聞いてないんでしょ?宮葉ちゃんやけに意固地なところあるからね。本当、とことん馬鹿だよね宮葉ちゃんは。」
「……!!ま、待って……違うの、全部違う……私は……!!」
「言い訳なんて聞きたくない。もう僕に話しかけないで、あと触らないでよ……体も心も汚いくせに、調子に乗らないで。」
千石寺がその場にしゃがみこむ宮葉の横を颯爽と歩いて通り過ぎる。そのまま屋上の扉前に立つと、千石寺は誰にも聞こえないほどの声量でポツリと呟いた。
「ああ、本当に楽しい……散々甘やかした相手を貶めるのは、いつになっても楽しくて仕方がないね……」
千石寺が屋上の扉を開けて中へと入っていく。宮葉は土埃塗れの屋上でしゃがんだまま何も言わない。彼女の表情はすっかり青ざめており、額には冷や汗が、暗く淀んだ瞳には大粒の涙が浮かんでいた。
――捨てられた。千石寺に、あんなに友達だって言ってくれた千石寺に、捨てられた――
――違う!千石寺は友達じゃない!あいつは敵で、虐めの主犯格で……――
――じゃあ私の友達は誰?本当の友達は、誰?――
――誰?誰??誰???だれ、も、いない……?――
宮葉がフラフラとその場から立ち上がる。膝やスカートの裾にはすっかり砂がこびり付いている。が、それをいちいち振り払う余裕もなく、覚束無い足取りで屋上を囲うフェンスへと向かう。
――私には千石寺しかいなかった。千石寺しかいなかったのに、その千石寺に捨てられた――
――違う!気づいて、思い出して!私には、千石寺以外に大切な人がいるでしょ!?――
――いない。いない。いないよ、そんなひと。――
――わたしには、さいしょから、あの人しかいなかった。いなかったのに、すてられた――
宮葉の手が錆び付いたフェンスをガシャンッと掴む。飛び降り防止の為にと周囲に張り巡らされており、高さもそこそこある上に上部には有刺鉄線らしきものも張られている。それでも、宮葉の手はフェンスを掴み、足もかけて上へとのぼっていく。頭の中がぐわんぐわんと大きく歪み、諦念に満ちた思考とそれに抗う思考とがごちゃごちゃに混ざってしまう。
――やめて、やめて!!どうして、言うことを聞いてくれないの!?私はそんなこと、少しも思ってないのに!!――
――あきらめよう。わたしはすてられたんだ。だいすきだったのに。しんじてたのに。――
――すてられたわたしに、いきるいみなんてない。しにたい、しにたい。――
――やめて、嫌だ。死にたくない!死にたくない!!――
宮葉の手が、足が、身体が、少しずつ上へ上へとのぼっていく。顔をあげれば刺々しい有刺鉄線がフェンスの上にあるのが見えた。素手で触ったら確実に傷つくであろうほどの鋭さだが、今の宮葉に躊躇う余裕は無かった。心の奥底に辛うじて残る理性が、必死に脳みそと身体に停止信号を送ろうとする。しかし、宮葉の手は止まらない。有刺鉄線すら乗り越えようと、理性による意思に反して自然と手が伸びていく。
――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!!死にたくない!!何も出来ない私だけど、それでも生きていたいの!!――
――いやだ、いやたいやだいやだ。しにたい。なんのとりえもないわたしなんて、いきてちゃ、だめなんだ。――
宮葉の震える手が有刺鉄線のすぐ手前にまで伸びる。目から堪えきれずに一筋の涙を流しながら、思考回路が崩壊寸前になった宮葉は、ひどく掠れた声であの2人の名前を呟いたのだった。
「……たすけて、おチビ、ノッポ……」
「宮葉っ!!!!」
後ろから聞こえてくる大きな声。
その直後、後ろに強く引っ張られる宮葉の身体。
上部の有刺鉄線に伸びていた手が、体ごとフェンスから離れていく。
地面に仰向けで倒れるかと思ったが、すぐに誰かの暖かな腕の中に横向きで抱きかかえられる。
我に返った宮葉が慌てて顔を上げた。彼女の身体を上手いことキャッチした宇佐美が、盛大に安堵に満ちた息を吐いた。彼の隣で狗井も深く息を吐きながら大声で怒鳴り散らす。
「宮葉てめぇ!!何勝手に先に学校行ってんだよ!?んでもって、なに急に屋上から飛び降りようとしてんだよ!!?また千石寺のクソ野郎に唆されたんだろ!?俺達のいない所で厄介事に巻き込まれてんじゃねーよ、馬鹿野郎!!」
「……ぁ……お、ちび?のっぽ……?」
「あぁ、俺達だ。何があったのかは知らないが、もう大丈夫だ。」
呆然とした表情を見せる宮葉の身体を、宇佐美がそっと地面の上に座らせる。しばらく状況が飲み込めず愕然としたままだったが、狗井と宇佐美が自身の顔を心配そうに覗き込んだ瞬間、宮葉の目から大粒の涙がボロボロとこぼれおちた。唐突の号泣にギョッと驚く狗井をしりめに、宮葉がわんわんと大声で泣きながら彼女の身体に飛びつく。
「うぉおおっ!?ちょ、危ねぇな!急に抱きつくなよ、びっくりするだろーが!!」
「おチビ、おチビ……嗚呼良かった……私、生きてる……おチビと、ノッポのお陰で、生きてる……!!」
「なぁ宮葉……千石寺に一体何を言われたんだ?昨日ハルと帰った時にも話してくれなかったらしいじゃないか。いい加減教えてくれ、俺達なら力に――」
そこまで言った宇佐美の顔が途端に険しく強ばる。そのままバッと顔を上げて、屋上の扉をジッと見つめる宇佐美。異変を察した狗井が咄嗟に泣きじゃくる宮葉の肩を抱き寄せる。宮葉も涙を流しながら、怯える様に狗井にしがみつく。
「ウサギ……まさか、奴か?」
「ああ、多分な……ハル、宮葉を頼む。今度こそ、あいつの正体を暴いてくる。」
「分かった。お前まであいつに惑わされるなよ。あのくそ甘い匂いには気をつけろよ、いいな?」
「分かってる……宮葉、千石寺の事なら俺に任せておけ。その代わり、ハルには話せる事を全部話してやってくれ……できるか?」
宇佐美がそう言いながら宮葉の頭をポンッと優しく撫でる。宮葉がコクリと大人しく頷くと、宇佐美は安心したように微笑みながらすっと立ち上がった。兎耳付きの暗い頭巾を深く被り、唯一の出入り口である屋上の扉へと駆け足で向かう。
扉が開かれ、宇佐美の姿が中へと消えて行く。その瞬間、狗井は宮葉の肩を抱きかかえてフェンスから離れた。土埃や雑草の生えた床を通り抜け、扉の隣にある壁に並んで腰掛ける。まだ扉の向こう側に千石寺がいる可能性を踏まえて、一旦この場に留まろうと考えたのだ。宮葉が体育座りで蹲る中、狗井が彼女の隣であぐらをかきながら尋ねる。
「宮葉、大丈夫そうか?ごめんな。最近は何かと忙しくて、お前のこと放置し過ぎてたよ。今日からはまた前みたいに一緒に帰れるし、なんなら朝学校に行く事もできるから、安心してくれよ。」
「……」
宮葉は何も答えない。膝に顔を埋めて、涙で赤く腫れた鮮緑色の瞳を覗かせるばかりだ。狗井が心配そうに宮葉の横顔を見つめた。すると、宮葉は目を閉じ膝で涙を拭くように顔を俯かせながら狗井に尋ねた。
「おチビ……あんたは、私の友達?」
「あ?なんだよ急に。」
「お願い、答えて……私、あいつに散々言われたのよ。私の本当の意味での友達は、千石寺しかいないって。心の中ではちゃんと違うって分かってたのに、千石寺に言われる度にあの甘い匂いを思い出しちゃって……そしたら、頭の中がぐちゃぐちゃになってもう訳が分からなくなったのよ。千石寺に捨てられたって変なショックを覚えて、頭の中は悲しいって気持ちでいっぱいになって……」
「だからさっき、錯乱して屋上から飛び降りようとしたってことか?……あぁくそ!その話聞いたら、昨日起きた連続自殺未遂事件を思い出しちまったぜ。」
狗井が苛立たしげにそう呟き、拳で壁を軽く叩いた。その音でビクッと身体を震わせた宮葉が「ご、ごめん」と呟く。狗井が自分に対して怒っていると思ったのだろう。狗井は慌てて「大丈夫だ、気にすんな」と言って宥めると、足元に生えた雑草を手でむしり取りながら続けて言った。
「で?質問は何だっけか?俺がお前の友達かどうか、だっけ?」
「!そ、そうよ……あんたは、ずっと……いや、ずっとは我儘過ぎるわよね。少しの間だけでも、私の友達でいてくれる……?」
宮葉が顔を上げて狗井の方を向きながらそう尋ねた。涙はすっかり消えているが、酷く不安そうに歪んだ瞳が狗井の顔を真っ直ぐ見つめてくる。狗井は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに神妙な顔を見せて目を伏せた。しばらくの沈黙が二人の間に重たくのしかかる。
やはり、友達ではないのか――宮葉がそう考え唇を噛み締めたその瞬間、突然狗井が宮葉の肩を掴んでぐいっと身体を抱き寄せた。唐突に狗井側に頭を寄せられた宮葉が愕然とした様子で目を丸くする。狗井はそのまま宮葉の頭を手のひらで優しく叩くと、宮葉の方には顔を向けないまま言葉を紡いだ。
「友達でもねぇ奴の自殺を止めてやるほど、俺はお人好しじゃねーぞ。」
「……!!」
「いいか、宮葉?生憎俺はウサギみたいに誰彼構わず優しくするつもりは全くねぇからな。“こいつは信用出来る”って思った奴にしか優しくしてやらねぇって決めてるんだ、俺は。」
「お、おチビ……」
「友達かどうかなんていちいち聞くんじゃねぇよ。お前の事が千石寺並に嫌いだったら、最初からここまでお節介かけてねぇし、お前の家に見舞い目的で押しかけたりもしねぇ。つーか、いつ俺達がお前の友達じゃねぇって言ったんだよ?そうやって勝手に1人で思い込んで1人で悩んでんじゃねーよ!お前がわがままで素直になれねぇ性格だってのはちゃんと知ってる。でも……少なくとも、俺達のことは信じて欲しい。今すぐにとは言わねぇけど、嫌な事とか苦しい事とかがあったら、遠慮無く話してくれよ。友達……だからさ。」
長々と話した狗井の言葉が途絶え、少し温もりを取り戻した朝の風の音が静かに響き渡る。少し躊躇いがちに友達と狗井の口からこぼれた瞬間、彼女の頬が少しだけ赤く染っていたのは気の所為だろうか。
しばらくお互いに黙り込んだ後、再び宮葉の目から大粒の涙がこぼれ始めた。そんな彼女の頭を優しく撫でながら、狗井は苦笑いを浮かべてからかうように呟いた。
「おいおい、まためそめそ泣いてんのかよ……相変わらず、態度は強気なくせに根っこは泣き虫だよなお前。」
「う、るさい……おチビの、くせに……生意気なのよ、あんたは……!」
「へいへい。生意気で悪うございましたね。」
子供のように泣きじゃくる宮葉と身を寄せ合いながら、狗井がそっぽを向きつつも小さく笑う。宮葉の心の中では、先程まで抱いていた強い負の感情がとっくに消え去っていた。屋上周辺を囲う冷たいフェンスが、風に揺らされてカタカタと小刻みに揺れていたのだった。
***
一方その頃
大神学園高等部校舎五階 とある廃教室――
「諦めろ、千石寺。もう逃げ場は無いぞ。」
教室の扉を背後にして仁王立ちになった宇佐美がそう声をかける。生徒会室の横にある、今では全く使われなくなった埃まみれの教室の奥ーーこちらに背中を向けて窓の外を眺めていた千石寺が答える。
「宇佐美くんって案外勘も鋭いんだね。バレない様に扉の外から見てたはずなのにさ。」
「悪いが警戒心は人一倍ある方だからな。それより、今は黙って俺の質問に答えろ……お前の目的は何だ?宮葉が飛び降り自殺を図ったのも、お前が元凶で差し金なんだろ?」
「あー……宮葉ちゃんの事はもうどうでもいいよ。ついさっき捨てたばっかりだもん。宇佐美くん達が邪魔したせいで、全部台無しになったけどね。」
「……なんだと?」
宇佐美が怪訝な表情を見せながら、いつ相手から攻撃が来てもいい様に身構える。相手が人狼である可能性が高い以上、そして能力の全貌が読めない以上、彼女が何をしでかしてくるのか予想出来なかったからだ。
端に使わなくなった椅子や机などが寄せられた教室の中では、窓から差し込む光の元で微細な埃が静かに舞っている。それは千石寺がくるりと宇佐美の方を振り返るだけでも途端にその量を増した。使われなくなってからよほど期間が空いているのだろう。千石寺は少し疎ましげに手で顔を仰ぐと、冷たい眼差しを宇佐美に向けながら淡々と呟いた。
「狗井さんといい宇佐美くんといい、本当に空気読めないところあるよね。あのまま宮葉さんを見捨てておけば良かったのに。その方が、悩みに悩みまくってた宮葉さんも救われたと思うよ?」
「ふざけるな。宮葉をあそこまで追い込んだのはお前だろ。俺達が目を離した隙に、宮葉を惑わしてあいつを精神的に追い詰めた……違うのか?」
「違うよ。僕は最終的に本当の事を宮葉ちゃんに言っただけ。僕の嘘を勝手に信じ込んだ宮葉ちゃんに、現実って名前の真実を見せてあげただけだよ。ほら、本物っぽい話を嘘でしたって言う時ってなんか楽しくない?何かを信じてた人が嘘に裏切られて絶望する顔を見るのって、凄く楽しいことだと思わない?」
「……」
千石寺の怒涛の質問に対し、宇佐美が無言のまま静かに首を左右に振る。その顔には隠しきれないほどの怒りと呆れの感情が滲み出ている。千石寺は不満げにチッと舌打ちをしたが、すぐにニコッと笑顔を取り戻し胸の前で手を組みながら言った。
「まぁいいや。さっきも言ったけど、宮葉ちゃんの事はもう捨てた。だから次は宇佐美くん……君の番だよ。君の、狗井さんに対する熱い思いを、偽物にしてあげる。」
「何を言って……っ!!」
宇佐美の言葉が途中で遮られる。埃の舞う部屋の中――突然、千石寺の身体の周りが淡い桃色の煙に覆われたからだ。正確には、あの甘い香りに埃がまとわりつき、光が差し込んでるのもあって、本来なら目に見えないはずの煙がはっきりと見えているのだ。今まで香りの発生源などを見つけることが出来なかったが、宇佐美は今この瞬間にその理由を把握することが出来た。煙は千石寺の周囲だけでなく、彼女の身体を覆い尽くすようにもまとわりついていた。千石寺が眉をひそめながら再び舌打ちをして呟く。
「あぁ……ここは埃ばっかりで汚くて嫌だな。僕の渾身の仕掛けがバレちゃったじゃん。本当今日は最悪。この間の配信のとこよりももっともっと最悪だよ。」
「やっぱり、お前も人狼だったか。能力はさしずめ、目に見えない妙な香りを使って、人を惑わす……と言ったところか。」
「あのさ、探偵気取りに推理してるところ悪いんだけど……宇佐美くん、今の状況ちゃんと理解出来てる?なんで僕が、わざわざこんな狭くて汚い教室の中に入ったと思ってるの?」
千石寺が宇佐美に向かってそう尋ねた瞬間、淡い桃色の煙が一気にぶわっと部屋の中全体に広がった。咄嗟に宇佐美が腕を上げて口元を覆い隠す。埃のせいで、霧がかった煙という形であの香りが部屋の中に充満していくのが良く見えた。その煙の中心にいる千石寺が酷く愉快そうにきゃははっと甲高い笑い声を上げる。宇佐美は千石寺を追い詰めるために、煙を振り払い彼女に掴みかかろうとした――が、足を1歩踏み出した瞬間、宇佐美の身体がガクッと大きく揺れ無条件でその場に跪いてしまった。宇佐美が驚きで目を丸くする中、彼の姿を見下ろしながら千石寺が呟く。
「ほら。情けなく膝から崩れ落ちちゃった……僕の狼ちゃんが出すこの匂いはね、量を一気に増やすと、一時的に相手の意識を奪うことも出来るんだよ。直接吸わないようにお口を隠しても無駄だよ。こんな密閉した部屋の中じゃ、どう足掻いてもこの匂いを吸わなきゃいけないからね。」
「……っ!!」
「ねぇ宇佐美くん、そろそろ頭が重たくなって眠たくなってきたんじゃない?でもまだ寝ちゃ駄目だよ?寝るなら、僕のお話をちゃんと聞いてから寝てね。」
千石寺はそう言うと、上手く立ち上がれない宇佐美の元に近づいてしゃがみこんだ。宇佐美が必死に立とうとするが、あまりにも濃い匂いと煙を前に視界が定まらず体にも力が入らない。そうこうするうちに、千石寺によって口元を隠していた腕をそっと解かれた。体に力が入らないせいで抵抗することも出来ない。
こんなに甘ったるく濃い匂いを嗅いだことは、無論今まで1度もなかった。ずっとこの部屋の中にいれば精神が崩壊するような錯覚さえも感じた。それなのに、身体は言うことを聞かずどんどんと床の上に崩れ落ちてしまう。もはや宇佐美が起き上がることも出来なくなった頃、彼の上に馬乗りになった千石寺が静かに言葉を紡いだ。
「宇佐美くん、狗井さんのことはもう捨てちゃいなよ。暴れん坊な狗井さんにいつも手を焼いて困ってるんじゃないの?あんな子のことをいちいち気にかけてたら、宇佐美くんの貴重な時間が全部無くなっちゃうよ。」
「……っ……や、めろ……」
「僕ならあの子みたいに暴れたりしないし、君の為の時間もちゃんと作ってあげる。僕の事を好きになってくれたら、君は今よりもっと自由になれる。それってとっても素敵な事じゃない?」
「そんな、わけ……」
視界がぼやけ意識がぼんやりと霞む中、宇佐美の脳裏に狗井の横顔が過ぎる。
駄目だ、流されるな。正気を保て。
心が必死にそう指示を出すが、強過ぎる香りに支配された脳みそはそれらを全て切り捨てた。無意識の内に千石寺の顔に宇佐美の手が伸びていく。朧気な視界の中、千石寺がニヤリと怪しげな笑顔を浮かべたのが見えた。千石寺はその笑顔のまま宇佐美の手を握ると、恍惚とした表情を見せながら宇佐美に言った。
「ほら、僕の顔を見てよ……狗井さんよりもずっと可愛いでしょ?僕の顔、魅力的で素敵でしょ?好きになっちゃうでしょ?」
「……」
「ねぇ、答えてよ宇佐美くん。君が本当に好きなのは狗井さん?違うよね……僕、だよね?」
「……」
宇佐美は何も答えない。煙は量をどんどんと増しており、発生源である千石寺の視界すらも霧がかって不明瞭になっていた。何かに気づいた様子の千石寺が、宇佐美の手から自身の手をそっと離す。その瞬間、宇佐美の手が彼女の元から滑り落ち床の上に落ちた。煙を手で払って、慌てて彼の顔を覗き込む千石寺。宇佐美の赤い瞳はいつの間にか瞼の裏に隠れていた。煙を吸い過ぎて気を失った様だ。千石寺が満面の笑みを見せながら手をパンッと1回叩く。その途端、あれほど部屋の中を覆い尽くしていた煙が消え去り、匂いも殆どなくなってしまった。千石寺の身体を覆う煙だけが目に見える形でその場に残る。いつの間にか足元に現れていた自身の狼の頭を撫でると、目を覚まさない宇佐美の額に軽くキスを落として呟いた。
「悪い子だねぇ宇佐美くんは。可愛い可愛い僕を前に寝ちゃうだなんて……でも、逆に都合がいいや。教室の扉に鍵をかけて、君が起きるまで沢山愛の言葉を囁いてあげるよ。起きた後もずっとずっと、君が僕の事を好きになるまで言ってあげる。そして、君の狗井さんに対する思いを、僕に対する物に変えてあげるよ……僕に惚れられた事に感謝してよね、宇佐美くん。」
千石寺が上機嫌な様子で笑いながら立ち上がる。そのまま教室の扉前に立つと、千石寺は中から鍵をガチャンッとかけてしまった。この教室には出入り口となる扉が2つある。もう片方もちゃんと閉めようと千石寺が歩こうとした、その瞬間――千石寺は背後から薄ら寒い気配を感じてピタッと歩みを止めた。彼女について歩いていた狼も歩くのをやめて後ろを振り向く。千石寺も同じように後ろを振り向いたが、その途端彼女の喉からヒュッと声にならない悲鳴が上がった。
狼の放つ香りで意識を失っているはずだった。目は固く閉じており、身体にも力が入っていなかったはずだ。
しかし、千石寺が寝ていると思っていた宇佐美はいつの間にか起きていた。上半身だけを起こし、無言のまま顔を俯かせている。だが、その姿を見た瞬間千石寺は激しい違和感を覚えた。宇佐美の座る場所には朝の光が窓から煌々と差し込んでいる。故に逆光などの現象は起きないはずだ。なのに、真っ白なはずの宇佐美の髪がやけに黒く見えるのは気の所為だろうか。見間違いかと思った千石寺がぱちぱちと数回瞬きを繰り返す。が、どんなに瞬きをしても、目を擦っても、宇佐美の髪の色に変化は無かった。戸惑う千石寺をよそに、宇佐美がむくりとその場から立ち上がる。そのままくるりと千石寺の方を振り向いた瞬間、千石寺は再び喉から声にならない悲鳴をあげることとなった。
「う、宇佐美くん?君、髪の毛そんなに黒くなかったよね?君の髪って、真珠みたいに凄く白くて綺麗なはずだよね?」
千石寺が震える声で宇佐美にそう尋ねる。宇佐美は何も答えない。ただゆっくりと千石寺の元に向かって近づいてくる。
「そ、それに……そんな変な目もしてなかったよね?そんな、白目が真っ黒みたいな、ありえない目とかしてなかったよね……!?」
千石寺が声だけでなく身体もガタガタと震わせ始める。目の前から迫る宇佐美に対し、完全に恐怖心を抱いてしまったのだ。宇佐美は何も答えない。瞳の部分はいつもの様に赤く、本来なら白いはずの白目が黒く染まった宇佐美は、何も答えない。
「お、お前……お前、誰なんだよ!?宇佐美くんじゃないだろ!?宇佐美くんは、そんな髪じゃない!そんな目もしてない!!お前は……一体誰なんだよ!!答えろよ!!!」
千石寺が例えようのない恐怖に耐えかねてそう叫ぶ。すると、主人が危険な目に遭ってると判断したのか、千石寺の従える狼が宇佐美の手に噛み付いた。千石寺の頭を掴むように伸ばされた手が、狼によってすんでの所で止まる。虚ろな表情を見せる宇佐美は、しばらくそのままの体勢でジッと狼の姿を見つめていた。主人から下がれと言わんばかりに、可憐な姿を持つ狼がぐるぐると低く唸る。
すると、不意に宇佐美が空いていた方の手で狼の身体を掴んだ。同じ人狼であれば、普通の人間では触れない狼も触る事ができる。が、人狼に関する知識には少し疎い千石寺はその事を知らなかった様だ。千石寺が思わずその場で目を丸くする中、宇佐美が狼のちょうど首根っこをガシッと手で掴んだ。引き離されると思った狼が、離れるもんかと言わんばかりに宇佐美の手を噛む力を強くした
しかし、次の瞬間――狼は叫び声もあげる暇もなく、まるで風船が弾ける様にパチンッと音を立てて消えた。あまりにも一瞬で、あまりにもあっという間の消失だった。呆気に取られた千石寺が愕然とした表情を見せる。狼の噛みつきから解放された宇佐美が、再び千石寺に向かって手を伸ばす。が、その手は再び途中で止まり、突如として宇佐美が苦しげに唸り始めた。頭を抱え悶える様にふらふらと動いた後、宇佐美の身体が再び床の上へと倒れてしまう。千石寺にそれを止める余裕はなかった。突然変貌した宇佐美に恐れを生したからではない。狼が突如として消えた事に驚いていた訳でもない。
理由はただ1つ――狼がいなくなった瞬間、千石寺自身の顔や身体が大きく変化したからだ。
潤沢だった頬は乾燥し痩せこけ、シミひとつ無かった顔に色の濃いそばかすがポツポツと浮かび上がる。カールのかかった可愛らしい髪は途端に元の色を失い、その多くがボロボロと面白い程抜け落ちた。ピカピカに磨かれ整っていた歯が、噛み合せる度にガタガタと揺れ動く感覚がする。千石寺が慌てて己の手を見つめる。均等に切られ整っていたはずの爪はどれも無造作に伸びており、手の皮膚も顔同様乾燥し所々ひび割れていた。
「い……い、い……嫌ぁああああああ!!!」
唐突に訪れた自身の身体の変化に対し、千石寺が思わず悲鳴をあげる。あれほど甲高く可愛らしかった声は、今やガラガラに低く枯れきっており、少女らしさは微塵も感じられなかった。床の上にボロボロと抜け落ちる髪を見つめながら、千石寺が身体をガタガタと震わせて途切れ途切れに呟く。
「な、なんで、なんで!?僕の肌、こんなに汚いわけが無い!狼ちゃんのお陰で、可愛くなって、綺麗になってる、はず……ねぇ、狼ちゃん?狼ちゃんどこ?どこに行っちゃったの!?早く煙を出してよ!!あの煙が無かったら、ぼ、僕は……あ、あぁ、ああああああああぁぁぁ!!!!」
完全に錯乱状態に陥った千石寺が、鍵をかけていない方の扉を開けて外へと飛び出す。無我夢中で廊下を走り抜ける中、偶然にも生徒会室に入ろうとしていた漆村幽美と青春翼の傍を通り過ぎる千石寺。しかし、幽美と青春が彼女の事を千石寺と認識することは無かった。酷く慌てた様子で走り去った千石寺の後ろ姿を見つめながら、幽美と青春がそれぞれ言葉を交わし合う。
「……?青春ちゃん、今の子……誰?」
「さぁ?女子生徒の制服着てましたけど、完全に顔が男でしたよね。それに、なんか隣の廃教室から出てきてたような……」
青春が怪訝な表情を見せながら、幽美と共に廃教室の前に向かう。するとその時、タイミングが良いんだか悪いんだか、宮葉を連れた狗井が青春達の向かい側から歩いてきた。2人の姿を見た青春が目を丸くして2人に声をかける。
「狗井さん、宮葉さん!朝からこんな所で何をしてるんですか?」
「え?あーえーっと……ちょっと色々ありまして……」
「それより2人とも、ノッポ見なかった?千石寺の事を追ってどこかに行ったはずなんだけど……」
「ノッポ……あぁ、宇佐美くんのこと?ごめんね。宇佐美くんは見てないけど、さっき変な子がこの廃教室から出てきたのは見かけたよ。」
「変な子?」
「そうです。女子生徒の制服を着た男の人で……あれ?なんでこの扉、鍵がかかってるんでしょう?廃教室の鍵は紛失してるはずなのに……」
青春が扉に手をかけながら首を傾げてそう呟く。扉はガタガタと重たい音を奏でるだけで開く気配はない。仕方なくもう片方の扉を開けて中に入った瞬間――青春は中で倒れている宇佐美の姿を目撃して悲鳴をあげた。それを聞いた狗井達が慌てて室内へと続けて入る。
「青春どうした!?」
「い、いい狗井さん!!う、宇佐美くんが……!!」
「え……う、宇佐美くん!?」
「ノッポ!?こんな所で何してんのよ!?」
青春に続くように、皆が一斉に床に倒れたままの宇佐美の傍に駆け寄る。すると、宇佐美の指がピクリと動き、重たく閉ざされていた瞼がゆっくりと開かれた。白目の部位は白く瞳は赤く――正常な目をした宇佐美が顔を上げる。そして、こちらを心配そうに見下ろす狗井達の姿を静かに見つめて声を上げた。
「ハル……宮葉……副会長に、青春も……?」
「ウサギ!!おい、大丈夫かよ!?千石寺はどうした!?追いかけてたんだろ!?」
「……!そうだ、千石寺……千石寺?どこに行ったんだ、あいつ?」
狗井の言葉でハッと目を見開いた宇佐美が途端にガバッと起き上がった。その衝撃で床から埃が舞い上がり、青春と幽美が思わずケホケホと軽く咳き込んでしまう。宇佐美が謝る様に頭を下げると、青春は彼の体についた埃を手で払いながら彼に尋ねた。
「何でこの場で千石寺さんの名前が出てくるのかは知りませんが……宇佐美くん、ここは本来立ち入り禁止の廃教室ですよ!鍵が紛失してるので外から施錠はできてないんですけど……どうしてこんな所にいるんですか?」
「その、千石寺を追いかけてたらここに来て……でも、追い詰めようとした矢先にあいつの能力を受けて気を失ったんだ。でも……あぁくそ。その後の記憶がほとんど無い。思い出せない……」
青春に対しそこまで答えると、宇佐美は心底困惑した様子で頭を抱えた。状況を飲み込めない女子組4人はお互いに首を傾げたが、とりあえず部屋を出ようと宇佐美を連れて廊下に出た。最後に出た青春が扉を閉めたその時、狗井に身体を支えられた宇佐美が、彼女にしか聞こえないほどの小声でポツリと呟く。
「声が……したんだ。」
「声?」
「ああ……千石寺の狼の力で眠らされた直後に、俺にそっくりな声で“変われ”って言われたんだ……でも、その後のことはよく覚えてない。気づいたら、意識を失っているあそこで眠っていたんだ。前にも、似たような事があった気がするんだが……だめだ、本当に思い出せない。」
「……?なんかよく分かんねぇけど、千石寺の奴が人狼なのはもう確定なんだな。だったら今度は俺がとことん責め立てねぇと。」
「ああ。悪いな、ハル……ところで、宮葉は大丈夫そうか?」
「あぁ、大丈夫だよ。俺がちゃんと慰めておいた……もう千石寺に惑わされることは無いと思うぜ。」
狗井が小さく笑いながらそう答え、宇佐美がホッと安堵の息を吐く。先を行く宮葉達には2人の声が聞こえていない様だ。とりあえず宇佐美達から話を聞きたいと考えた青春の計らいで、全員がすぐ近くにある生徒会室へと向かった。
しかし、この日の翌日――狗井達は意図せずして知ってしまうこととなる。
宮葉を苦しめ、宇佐美を己の物にしようと企んでいた、千石寺冥の末路を――
***
動画サイト『MeTube』――
「や、やっほ~……みんな、お久しぶり~……皆のアイドル系MeTuber、メイメイだよぉ~……」
【は?誰だよお前】
【気持ち悪い顔でメイメイちゃんの名前騙るなよ死ね】
【なんかメイメイのチャンネル乗っ取られてない?誘拐された?】
【↑でも後ろの部屋いつものメイメイちゃんの部屋だよ】
「そ、そうだよ!みんな、変な事言わないでよ~……メイメイは、いつも通り、だよ?いつもの、可愛いメイメイだよ?ねぇ、信じてよ……!」
【嘘だ!絶対嘘じゃん!】
【はいダウト~はい嘘乙~】
【こんなブスで顔も声もキモい人がメイメイとか信じたくない】
【メイメイのすっぴんキモすぎワロタw】
「……なん、で……なんで、みんな揃って、そんなこと言うの……?メイメイは、メイメイなのに……嘘なんて、ついてないのに……!」
【鏡で自分の顔見てから言えよゴミ】
【やっぱりメイメイはブスペテン師だったんだ、何か前にそう言うコメあったよね?】
【過去のアンチコメに預言者いて流石にワロエナイ←】
【純粋にキモい】
【思いっきり騙されたわ。ポイチャの金返して欲しい。】
「…………!!!」
流れてくる罵倒の言葉達に耐えかねて、慌てて配信停止ボタンを押す千石寺。配信が止まるその直前まで、今の千石寺の容姿を馬鹿にするコメントが止むことは無かった。
千石寺がスマートフォンを手に取り、カメラアプリを開いてインカメに設定する。途端に液晶画面に写るのは、この世の物とは思えないほど醜く歪んだ自身の顔だった。千石寺が悲鳴をあげてスマートフォンを放り投げる。千石寺はそのままパソコンで自身の名前を打ち込んでエゴサーチをかけた。先程の配信がきっかけとなったようで、早くもMeTube以外で千石寺、改めMeTuberメイメイに関する話題がトレンドに上がっていた。無論、そのどれもが悪い意味で。
パソコン版のSNSサイトを立ち上げログインする。自身のアカウントに対するリプライが怒涛の勢いで溜まっていくのが確認できた。そのどれもが、罵詈雑言を孕んだ無慈悲な言葉の羅列だった。千石寺が信じたくないと言わんばかりに首を振りながらサイトを閉じる。そのままパソコンの電源を切ると、千石寺は震える手で先程放り投げたスマートフォンを再び手に取った。自身の所属するグループチャットの通知音がポンポンと鳴り止まない。恐らく、配信を見た仲間達が一斉に千石寺を問い詰めようとしているのだろう。退紅色の瞳に絶望の色を滲ませた千石寺が頭を抱える。
「ち、違う……こんなの、全部、嘘だ……おかしいもん、こんなの……僕は、メイメイは、こんな醜い子じゃない……炎上するような子じゃない……こんな、こんな……もう、いや……嫌あああああああああああぁぁぁ!!!!!」
部屋の中にも関わらず、家の外にも聞こえんばかりの声量で千石寺が叫ぶ。その悲痛な叫びは、リビングで寛いでいた彼女――否、彼の父親の耳にも当然届いた。驚いた父親が階段を上って慌てて彼の部屋に向かう。しかし、その時既に、鍵のかかっていない部屋の中に千石寺の姿は無かった。残っていたのは、通知音の止まないスマートフォンと、ベッドの上で無惨にも抜け落ちた細い髪の毛の残骸だけだった。そんなベッドの上で堂々と開かれた窓では、白いレース状の可愛らしいカーテンが静かに風にたなびいていた。
全世界に哀れな醜態を晒したMeTuberメイメイのその後の行方を知るものはいない。
その代わり――翌朝のニュースでは、町内に住む男子高校生が夜に家の窓から飛び降り、搬送先の病院で死亡したという報道があった。
警察は前回の連続自殺未遂事件と何かしらの関係があるのではないかとみて、捜査を進めている――
***
「『大人気MeTuberメイメイ、実は男だった!?顔出し配信で醜態を晒して大炎上!!』……分かりやすいほど馬鹿っぽい見出しだねぇ。人の目は引きやすいけど、もっと賢い言い方をして欲しいものだよ、全く。」
ごく平凡なワゴン車の中――後部座席で横になる南本竜二が、タブレット片手に満面の笑みを浮かべてそう呟いた。タブレットの液晶画面には、仰々しいタイトルと共に、昨日の生配信で見られたMeTuberメイメイの醜態に関する情報が乗っていた。知名度の高いメイメイの醜い容姿は、このインターネット社会の波に乗ってあっという間に各方面に晒されたらしい。MeTube以外のSNSやニュースでも彼女、改め彼の話が散々取り上げられていた。ニコニコと笑う南本をバックミラー越しに観察しながら、運転席に座る女性、羽純が淡々と呟く。
「不満を仰る割にはやけにご機嫌ですね、坊っちゃま。前回の釘付け事件の時よりも生き生きしていますよ。」
「そりゃあもちろん!電話を使ってあの子をからかった時とか、もう楽しくて仕方が無かったんだよ。嘘がバレてしまうかもしれない境界線にいた彼を追い詰める上では程よいスパイスになったんじゃないかな?……まぁ、ちょっと刺激が良過ぎたのか、結局彼自身は嘘を本当にできずに失敗しちゃったんだけどね。」
「メイメイ改め千石寺冥……嘘を吐く力自体は平均よりも上でしたが、坊っちゃまとは比べ物にもなりませんでしたね。たとえ坊っちゃまが手を差し伸べずとも、彼の嘘が暴かれて炎上するのは必然だったのかもしれませんよ。」
羽純がそう言うと、南本はよいしょと起き上がり持っていたタブレットを羽純に渡した。羽純がそれを受け取るや否や、運転席の後ろ側に凭れながら南本が淡々と呟く。
「あぁそうだ羽純……言うの忘れてたけど、あの子の本当の名前は『メイ』じゃないよ。」
「?」
「正確には冥土の『冥』と書いて『くらい』って呼ぶんだよ。千石寺『めい』じゃなくて、千石寺『くらい』なんだってさ。あっはは!可哀想だよね!赤ん坊として産まれた時から、彼は一生暗い子だって事が確定していたんだよ!自分の醜い顔だけじゃなく、そのことも誤魔化すために、彼は狼の力を使って多くの人を騙したんだ。そして自分自身も思いっきり騙したんだ。素晴らしいよ!彼は嘘をつき過ぎた結果、どれが本当かも区別がつかなくなっていたんだ!そして、長い間自他共に誤魔化し続けた結果、久しぶりに自分の本当の姿を見てしまった彼は、絶望してそのまま――」
「坊っちゃま。そろそろ車を発進致します。上機嫌になるのは良いですが、危険ですのでいつもの様にシートベルトをしてください。」
恍惚とした表情で運転席に乗り出す南本を片手で宥めながら、羽純が深く息を吐いてそう指示を出した。途端に南本は不満げに唇を尖らせたが、渋々後部座席に戻ってシートベルトを締めた。バックミラーでそれを確認した羽純が、宣言通りに車を発進する。
「そう言えば、坊っちゃまは彼が人狼だとよく見抜きましたね。幻覚作用のある煙を纏い、相手を惑わしたり偽りの姿を見せる能力だと推測されていましたが……そうお考えになった理由は?」
「そんなの単純明快だよ……初めて会った時に、彼の周りには小汚い埃が舞っててね。場所が悪かったんだろうけど、そのお陰で隠れてた彼の狼がほんの少しだけ見えたのさ。どんなに目に見えない煙でも、時と場所と場合によっては形となって見えてしまう……どうやら彼は人狼でありながら、その事にはあまり気づいていなかったらしい。まぁわざわざ指摘するのもあれだったから、特に僕からは何も言わなかったんだけどね。」
「成程、流石は坊っちゃま。素晴らしい観察眼をお持ちですね……では、千石寺冥が能力を失った原因はどうお考えで?」
「……悪いけど、僕は名探偵じゃないんだよ。そこまではまだ分からない。ただ、やっぱり狗井遥か宇佐美翔……あの辺は怪しいとみて間違いはないと思うよ。」
「前々より坊っちゃまが目をつけている人狼の2人組ですね。確かに藤原の件と言い千石寺の件と言い……坊っちゃまがそれぞれの意識を例の2人に向けさせた瞬間、最終的にどちらも自身の身を滅ぼしましたからね。」
「……あの2人に絡めば絡むほど、何だか面白い事が起きそうで正直ワクワクしてるよ。」
「坊っちゃまが楽しんでいらっしゃるのなら、私としても喜ばしい限りです……今後も可能な限り、彼らへの接触は繰り返しましょう。つつがなく無理もなく……坊っちゃまの素性がバレない範囲で。」
――羽純と南本を乗せたワゴン車が悠々と大神町の中を走り抜ける。彼らの隠す秘密に気付いている者は誰もいない。
時刻は既に夜も遅い頃。ワゴン車は夜の闇に紛れてどこかへと消えていく。誰にも気づかれず、誰にも知られる事なく――満月の明かりさえ届かない場所を目指して、車は静かに消えていったのだった。
***
動画サイト『MeTube』――
【こんばんはリトルK!メイメイ炎上で好きな配信者さんに飛び火喰らってたから逃げてきました!】
【メイメイ炎上の件、めちゃくちゃ話題になってるよね。リトルKは大丈夫そう?】
「んー?俺は全然大丈夫っすよ!つーか、俺は無名の弾いてみた系男子だし、配信も顔出しはしてないから問題無いっしょ。」
【流石に無名ではないと思う(笑)】
【リトルKの若いのに大人な余裕持ってるの凄い羨ましい】
【さっすがはビッグKの息子~!】
「えへへ。皆さんあざっす!あ……やっべ。そろそろメシの時間だから配信一旦切りますー。また後でー。」
【はーい!】
【ばいならー】
【乙です!】
「……ああごめん、配信中だった?ご飯できたから呼びに来たけど、邪魔しちゃったね。」
「良いよ母ちゃん、気にしないで……また後でね、父ちゃん。」
そう言いながら少しだけ古びたギターを肩から下ろす少年。彼が歩くたびに、頭に巻いたバンダナから見える金髪がさらりと揺れ動く。
整理整頓がされた小さな車庫の中では、配信を停止するボタンの軽快な音がポロンッと鳴り響いたのだった。
――陸日目 終幕――
*キャラクター紹介*
♂千石寺冥-せんごくじ くらい-
齢16。動画サイト『MeTube』にて『メイメイ』という名で人気を集めていた動画配信者。そして、大神学園に不定期的に登校していた女子生徒――ならぬ男子生徒。産まれた時から醜い容姿を持っており、それを隠すために小学生の頃から狼の能力に頼るようになった。幼少期に母親が自殺しており、現在は父親と2人暮らし。普段は明るく元気一杯な少女を演じているが、虐めを影から主導したり人目のつかない所で相手を責めたりなど根は冷酷で醜悪な性格。ある出来事がきっかけで宇佐美にひどく執着するようになる。
役職名:虚飾の人狼…強い幻覚と催眠効果のある無色透明(※甘い香りはする・埃などが付着すると見えるようになる)の煙を吐き出し相手を惑わしたりする能力。常に一定量が千石寺の体中にまとわりついている。そのため、煙が消えない限りは千石寺本人でさえも“本当の”姿を見ることができない。能力の効果は男女問わず発動し、体にまとっているおかげで離れた場所にいる相手にも無条件で効果が及ぶ。煙の量を一気に増やすことで相手の意識を奪うことも可能。1度でも煙の効果を受けた相手は、千石寺と共にいる時間が長くなるほど千石寺本人に強く依存するようになる。その状態で千石寺から冷たい対応をされると、精神疾患に陥り最悪の場合自殺を図るようになってしまう。