陸日目ー前半戦
~あらすじ~
動画サイト『MeTube』で名を馳せる動画配信者メイメイ改め千石寺冥。可愛らしい見た目で人気者となっていた彼女は、青年宇佐美翔の存在を知り、彼が同級生である宮葉燐と共にいる場面に遭遇する。己の可愛さを利用してどうにか宇佐美の興味を引こうとする千石寺。
だが、彼女には誰にも言えないある秘密があって――
動画サイト『MeTube』――
「やっほ~!皆のアイドル系MeTuber、メイメイだよ~!みんな元気にしてた~?」
【メイちゃんこんばんはー】
【ばんわー】
【こんばんめい~☆】
「わーい!みんな元気そうでなによりだよ~!そうそう、今日は皆様に重大なお知らせがございます!」
【なになに?急にかしこまるじゃん】
【引退とか言わないよね?】
【引退?嘘でしょ、引退するの!?】
「違う違う!引退じゃないよ!実はね、私メイメイ……明日から学校に戻ろうと思いま~す!」
【マ?】
【あんなに学校嫌いって言ってたメイメイが学校に戻るだと!?】
【ってかメイメイ学校行ってなかったんだ】
【今北!なんかコメント欄ざわついてるけどどしたの?】
「わ~!みんな沢山のコメントありがと~!メイメイ、実は最近学校休んでたんだけど~明日からまたちゃんと登校しようと思うの!メイメイ、こう見えて根はマジメな子だからね!そろそろ出席日数とか、そういうのが結構激ヤバめな感じなの~!」
【あーなるほ。そりゃ大変だ】
【つーかメイメイちゃん今いくつなの?】
【↑いつかの配信で高校生とか言ってた希ガス】
【高校なら夏休み近くね?もう7月入ってるし】
【勉強とか追いつかなくて大変かもしれないけどメイメイちゃん頑張って下さい!応援してます!】
「わぁ!黒サンドラちゃんポイチャありがと~!応援メッセージ助かります~!という訳で、明日から学校に行くので、今後の配信は早くても18時以降になると思いま~す!これアーカイブ残るから、同じ質問とかしちゃダメだよ~?メイメイとの約束だからね~」
【はーい】
【おkです☆】
【把握しました!】
「はーい!みんないいお返事ですね~!じゃあ、今日はかなり早いけど、明日の準備があるから配信はここまで!週末は予定空いてるから、ゲーム実況の生配信する予定だよ~是非遊びに来てね~!それじゃあばいば~い!」
――マウスを操作してカチリと『配信停止』のボタンを押す。配信の為の録画が切れたことを念入りに確認すると、少女はやけに上機嫌な様子で椅子から立ち上がった。そのままフカフカのベッドの上にボスッと飛び込み、サイドテーブルから自身のスマートフォンをかっさらう。そして立ち上げたのは、自身も所属するグループチャットのアプリ。特定の部屋に入るや否や、手慣れた様子で適宜文字を打ち込み送信していく。
『宮葉帰ってくるってマ?』
〖マジらしいよ。先生言ってたもん。〗
《あんなにイジメられてて戻ってくるとか命知らず過ぎて草生える》
『それなーこりないよねーあの子も』
〔でもなんか最近ダチ出来たらしいよアイツ。〕
『まじで?誰だれ?』
〔A組の狗井と宇佐美くん。〕
《宇佐美くん友達とかマジウケるw絶対調子乗ってんじゃんw》
〖クラスの女子も言ってたわそれ(笑)狗井と同じで宮葉もくっつき虫なんでしょどーせ〗
「……」
液晶画面上を滑らかに動いていた少女の手がピタリと止まる。画面上に写る“宇佐美”という人名を前に、少女の顔が酷く険しい物へと変化して行った。少女が何も語らなくても、少人数で行われているチャットはどんどん盛り上がっている。少女はスマートフォンをベッドの上に投げ出すと、眩い部屋の明かりをジッと見つめながら1人ポツリと呟いたのだった。
「宇佐美くん、か……噂だとめちゃくちゃイケメンらしいけど、ちゃんと会ったことはないな……でも、宮葉の奴が付きまとってるってのは本気で気に食わないな。明日になったら、ちゃんと顔とか見ておかないと――」
***
7月某日
大神学園 正門前――
「……はぁああ……」
「そんな盛大にため息吐くなよ。俺達がいるから大丈夫だって!」
鮮緑色のツインテールに黒マスクという見た目の少女――宮葉燐の横で、彼女の肩をバシバシと叩く狗井遥。憂鬱そうな表情を見せる宮葉が痛そうに顔をしかめると、狗井の横に立っていた宇佐美翔がすかさず狗井の手を掴んで叩くのを止めさせた。
狗井達が笹木に頼まれて昇の護衛を任される数日前――しばらくの間入院していた宮葉は遂に退院し、ここ大神学園に戻ってきた。実に数週間ぶりの学校だ。戻った所で歓迎してくれる同級生は狗井達以外にいないので、宮葉としてはあまり登校に乗り気ではなかったのだが。
宮葉が再びため息を吐く。朝方、事前に登校する日を聞いていた狗井達が迎えに来た時からこの調子である。宮葉がクラスの中で孤立しており、尚且つ陰湿な虐めの対象になっている事を狗井達は知っていた。そのため、宮葉が鬱屈とした表情を浮かべるのも仕方がないと分かっていた。しかし、宮葉と同じクラスにいる青春翼は、出席日数が足りないせいで補習を受けなければいけない可能性を不安視していた。宮葉も補習を受けるのは嫌だったらしく、狗井伝いでその話を聞いた瞬間、信じられないと言わんばかりに頭を抱えたのだった。
そこで狗井は当時入院中だった宮葉に対し、保健室登校という方法を提案した。同居人である佐倉美桜に相談した際に彼女から示された案だった。大神学園では保健室登校でも手続きをしておけば出席扱いになるらしい。そのため、退院してそのまま不登校になるよりはずっとマシだし補習も避けれるだろうと狗井は考えたのだった。当時の宮葉も、勉学に厳しい父親に不登校がバレるのは嫌だと思った様で、素直に狗井の提案を受け入れた。宮葉1人に任せるのは荷が重いということで、狗井達は退院後いつ登校するかという事を事前に決めておいた。余計なお世話だと当初宮葉は言っていたが、いつもより真剣に話を進める狗井と宇佐美を前に、いつもの我儘が通用するとは到底思えなくて。
そして今日が運命の登校日――狗井は顔を俯かせる宮葉の背中をポンッと優しく叩くと、宇佐美と挟む様に彼女の隣に立って言った。
「保健室の担当教師の人、俺何回か会った事あるけど、めちゃくちゃ優しい人だから大丈夫だよ。手続きとかの手伝いが必要だったら、俺とウサギがいるからどんどん頼れよ、な?」
「……あんたたち、2人揃って本当に世話焼きなんだから。こんな私相手に、何でそこまで協力してくれるのよ?」
宮葉がそう呟き、不意にゴホゴホと激しく咳き込む。大神学園の『魔女』の手で身体に猛毒を浴びた彼女は、後遺症として身体の免疫力が以前より低下しているのだ。夏場にもかかわらずマスクをしているのは、マスク無しで呼吸するよりもずっと楽だったからだ。咳き込む宮葉の背中をさすりながら狗井が眉を顰める。
「何でって言われても、お前みたいに弱ってる奴見たら放っておけねぇってだけだよ!ほら、さっさと保健室行くぞ。来て早々体調崩されても困るしな。」
「……」
狗井と宇佐美に連れられ、無言で正門をくぐる宮葉。途中身だしなみチェックという名目で正門に立っていた青春と目が合った。青春はハッと目を丸くすると、安心した様に微笑んでペコッと小さく会釈をした。そんな彼女と対になる様な位置には、生徒会副会長の漆村幽美が立っている。幽美は宮葉の顔を見るや否や、ギョッと目を見開いてペコペコと激しく頭を下げた。彼女は大神学園における『魔女』として、宮葉を病院送りにした張本人なのだ。入院中に宮葉と会って激しく謝罪していた姿を狗井達はしっかり覚えていた。当の宮葉は事件当時の記憶が無い上に犯人の顔を見ていないので、終始状況が飲み込めていない様だったが。
身だしなみチェック中故にその場を離れられない幽美に向かって、宮葉が「気にしないで」と言うように小さく首を振る。幽美は申し訳無さそうに目を伏せたが頭を下げる事はしなくなった。狗井と宇佐美が神妙な面持ちで宮葉の横顔を見つめる。しかし、宮葉は再度首を左右に振ると、2人の手を引いて先を急ごうとした。狗井達がそれに引っ張られる様に歩みを進める。
するとその時――突然3人のすぐ後ろから歓声に近いざわめきが起こった。
「おい見ろよ、あれメイメイじゃね?」
「え、マジ!?うわぁ本物だ、超可愛い!!」
「メイメイちゃんだ、すごーい!大ファンなの、握手してー!」
「……メイメイ……?」
途端に男女問わずきゃあきゃあと騒ぎ始める正門周辺。突如として各々から発せられた“メイメイ”という人名を前に、後ろを振り向いた狗井と宇佐美は揃ってキョトンとした表情を浮かべた。しかし、宮葉だけは酷く青ざめた顔で何故かジリジリと後ずさりをしている。目が明らかに嫌悪と絶望の感情を抱いているのだ。狗井がギョッと目を丸くして宮葉に声をかけようとするが、それを遮る様に可愛らしい少女の声が正門周辺から響き渡った。
「みんな~おはメイ~!!皆のアイドル系MeTuber、メイメイだよ~!!久しぶりの学校だけど、皆元気そうでメイメイ安心~!」
「め、メイメイちゃん!いつも楽しく配信見させてもらってます!つつつ、付き合ってください!!」
「メイメイちゃん、この間の配信で言ってたお菓子めちゃくちゃ美味しかったよ!また新しいスイーツ情報あったら教えて!」
「メイメイちゃん握手!握手して!!」
「はいはーい!メイメイは皆のアイドルだからね!握手はちゃんと1人ずつしてあげるから、順番守ってね~!」
そう言いながら生徒一人一人に握手をしていく、メイメイと呼ばれる少女。そんな彼女の熱烈な人気っぷりを見た狗井が「なんだあいつ」と言わんばかりに眉をひそめた。すると、身だしなみチェックをしていた青春が、生徒達の群れを押し退けて少女の前に躍り出た。アワアワと幽美が生徒達を押さえる中、青春は容赦なく少女の肩を掴み、生徒の群れから離して言った。
「ちょっと、千石寺さん!!今は生徒の身だしなみチェック中なんで、握手会とかは後にしてください!他の生徒達の登校の邪魔にもなりますから!」
「きゃ~!風紀委員さんに怒られちゃった!メイメイったら悪い子!」
少女――千石寺はそう言うと舌をペロッと出しながら片手でコツンと頭を軽く小突いた。「反省してないですよね!?」と怒りの表情を見せる青春。すると、思わずその場で棒立ちになっていた狗井達の姿を千石寺がめざとく発見した。途端にぱぁっと顔を明るく輝かせてこちらに駆け寄ってくる千石寺。ひっと悲鳴をあげた宮葉が咄嗟に狗井の背中に隠れた。先程から怯えた表情を全く崩していない。狗井が宇佐美とアイコンタクトを取り合い、宮葉を庇う様に彼女の前へ出る。
「やっほー、宮葉ちゃん!久しぶりだねぇ、元気にしてた?ってか黒マスクしてるー!カッコイイ~!すっごく似合ってるね~!」
「……なんで、こんな日に限って、学校に来てんのよあんた……!」
自分よりも小さい狗井の背中に隠れながら、恨みがましげに宮葉が呟いた。一瞬だけ千石寺の目が鋭い光を放つ。が、すぐにニコッと満面の笑みを浮かべると、千石寺はジッと狗井と宇佐美の顔を交互に見比べた。まるで品定めをするような目付きに対し、狗井だけでなく宇佐美も少し動揺する様に目を伏せる。すると、千石寺はクスクスと小さく笑いながら狗井達に向かって尋ねた。
「えーっと……もしかして君達が狗井遥ちゃんと宇佐美翔くんかな?合ってる?合ってるよね?ね?」
「!?何で俺達の名前知ってんだよ!?お前、俺達と会ったこと無いだろ!!」
「えー!だって君達2人、大神学園じゃ有名な子達なんでしょ?話は他の人からよく聞いてるよ……あ、そうだ!メイメイうっかりしてたー!ちゃんと自己紹介しておかなくっちゃね!僕はメイメイ――千石寺冥だよ!メイメイって呼んでね!」
千石寺はそう言うと、狗井達に向かってパチンッとウインクをした。仰々しい挨拶と仕草を前に、狗井が露骨にげんなりとした表情を浮かべる。こういう風に積極的に話しかけてくる人間が正直苦手なのだ。今は怯えた表情を見せる宮葉もいるので、狗井は千石寺に対して強い疑心を抱いていた。どうやら宇佐美も同じらしく、訝しげな顔を崩さないまま千石寺の顔を見つめ返した。それを見た千石寺がふーんと言いながら狗井と宇佐美そして宮葉を交互に睨みつけて呟く。
「宮葉ちゃん、本当に2人と友達なんだねー。宮葉ちゃんの友達は、てっきり僕だけだと思ってたのになー。なんかしょんぼりって感じー。」
「……!だ、誰があんたなんかと、友達になるっていうのよ!?ふざけないで頂戴!!」
宮葉がそう言って千石寺の顔をギロッと睨み返した。口調こそ強気だが、狗井の服を掴む手はガタガタと震えている。一刻も早くここから立ち去った方がいい――そう悟った狗井は宇佐美と目を合わせると、宮葉を連れてさっさと保健室に向かおうとした。しかし、咄嗟に千石寺が宇佐美の手を掴み、3人に向かって淡々と呟く。
「ねぇ待って、もう行っちゃうの?まだ僕とお話し足りないでしょ?もっと僕とお話しようよ。まだまだ本鈴まで時間もあるしさ。」
「……悪いが、俺達にも急ぎの用事があるんだ。話ならその後にしてくれ。」
宇佐美が千石寺の手を振りほどきながらそう答えた。容易く離された自身の手をジッと見つめる千石寺。先程までの明るく元気な姿はどこへやら。静かな怒りと恨みの篭った退紅色の目が3人の姿を残さず捉えた。その視線の鋭さに、宮葉が再びヒッと悲鳴をあげる。
すると突然、むせ返るような酷く甘い香りが3人の周囲を漂い始めた。驚いた様子で狗井達が辺りを見渡すが、煙のような物などは見当たらない。そうこうする内に視界が少しずつぼやけ、千石寺の姿がよく見えなくなってしまう。狗井が瞬きをしたり目を擦ったりするが視界は全く改善されなかった。ぼんやりと霞み始める頭の中に、千石寺の言葉が反響して聞こえてくる。
「駄目だよ、宇佐美くん。君も、君達も、僕の……メイメイの虜にならなきゃいけないんだよ?僕の事がとことん好きになるまで、絶対、ぜぇーったい、離さないんだから。好きになって?好きになってよ。ねぇ、好きになってよ。ねぇ、ねぇ、ねぇ――」
「っ……!よせ、やめろ!!」
「!?きゃっ!!」
突然宇佐美が千石寺の身体を強く押し飛ばした。途端にあの甘い香りがパッと消え去り、3人の視界も元に戻った。ハッと我に返った狗井と宮葉が宇佐美の方に顔を向ける。危機感を覚え香りに抗った宇佐美が2人を助けたのだ。押された千石寺はバランスを崩したのか、地面に尻もちをついて倒れていた。そのままの体勢で、千石寺はわざとらしくメソメソと泣きながら叫んだ。
「うわ~んみんな~!体の大きい宇佐美くんに突き飛ばされちゃったよ~!メイメイ怖いよ~助けて~!!」
「!?なんだと、メイメイちゃん大丈夫か!!?」
「メイメイちゃん傷つけるとか最っ低ー!!たとえ宇佐美くんでもそれだけは許せないよ!!」
「……これ、ヤバいんじゃねーの?」
狗井が額に冷や汗を浮かべてそう呟く。千石寺が叫んだ瞬間、幽美が必死に押さえつけ宥めていた生徒達が、彼女を押し退けて一斉に狗井達の元へ走り寄って来たからだ。流石に焦りを覚えた狗井達が脱兎の如くその場から走り出す。去り際に、泣き真似をする千石寺がニヤリと怪しげな笑みを浮かべたのを、宇佐美はめざとく見逃さなかった。
「やばいやばいやばいやばい!!!ちょっと、思ったより生徒の数やばいんだけど!!?ノッポ、あんたなんて事してくれてんのよ!!お陰で助かったけど!!」
「だぁああああああ!!この人数はマジでシャレになんねぇって!!一旦撒くしかねぇ!!宮葉、絶対転ぶなよ!!」
靴を脱ぐ余裕もなく、土足で校舎内を走りながらお互いに叫び合う狗井と宮葉。そして、校舎全体が揺れる程の勢いで走る多くの生徒達――無論彼ら彼女らの暴走を教師達が無視する訳もなく、数分後には全員が教師達の手で無理やり押さえつけられる羽目になった。そして狗井達は一旦校舎裏に隠れた後、騒動を掻い潜ってこっそり保健室に向かう事を強いられる羽目になったのだった。
一方その頃、すっかり静まり返った正門周辺でうつ伏せに倒れる幽美。そんな彼女の傍にしゃがみながら、慌てきった様子で必死に彼女に呼びかける青春の姿がそこにはあったという。
――そんな朝方の一連の騒動を、屋上から眺めていたとある人物。
自殺防止の為に周囲に張り巡らされた高いフェンス。それ越しに下の世界を覗いていた青年は、高らかに笑いながら群青色の髪を軽くかきあげて言った。
「これはまた、とても面白そうな子が出てきたね……今度は君を主役にしてあげるよ、メイメイさんとやら。」
***
大神学園高等部校舎一階 保健室――
「ありゃー。朝からそんな事があったのねー。道理で外が騒がしいと思ったわー。」
少し肥満気味な保健室の担当教師がそう言いながら、1枚の書類に判子をぽんっと押した。保健室登校を許可した事を示す証明書だ。これを別の教師に提出する事で、宮葉の保健室登校が晴れて認められる事になる。疲れきった表情で椅子に座る宮葉が、机に顔を突っ伏して呟いた。
「本当、色んな意味で神経すり減るかと思ったわ。おチビ……あーえっと、付き添いの2人が居なかったら、私冗談抜きで死んでたかもしれないわ……」
「ありゃー。それは怖い思いをしたねー。でももうお外は静かだしー、あたしもいるから死ぬ事はないねー。」
担当教師がそう言いながら書類片手にニコニコと微笑んだ。冒頭に「ありゃー」と言ったり、語尾を少し伸ばしながら話すのが癖らしい。肥満体質なのでノソノソと歩く彼女の姿をボーッと見つめながら、宮葉は保健室の出入り口にある扉を一瞥した。
何とか無事に保健室に到着した頃――既に教師達の手で騒動は収まったらしく、騒然としていた校舎内はすっかり静まり返っていた。その事に安堵しつつ、保健室にやってきた狗井は慣れた様子で担当教師と話をし始めた。他生徒と喧嘩した時や、体育の授業中に熱くなりすぎて怪我をした際に保健室によく来るんだ、と狗井は宮葉に言った。宇佐美は怪我をすることがなく――正確には、怪我をしても“狼”の能力で自然治癒が可能なので――保健室には宮葉と同じく事実上初めて来たらしい。興味深そうに周囲を見渡す宇佐美の姿を、宮葉は少し物珍しそうに見つめたのだった。
狗井と顔馴染みの担当教師は、彼女から諸々の話を聞いた後快く宮葉の保健室登校を認めてくれた。提出しなければならない書類には、担当教師の同意を求めるサインと判子が必要になる。狗井は安心した様子で担当教師に宮葉の事を任せると、授業があるからという理由でそそくさと保健室を後にした。1人残されるのは正直寂しいが、狗井の言っていた通り担当教師はとても優しい人だった。事ある毎に宮葉の事を気にかけるように話しかけてくれる。父親以外で年の離れた人と話す経験はあまりないが、宮葉は比較的リラックスした状態で保健室に留まる事ができていた。
「じゃあ、あたしは先生に書類出してくるからねー。宮葉ちゃんだっけー?入口に『担当者不在中』って看板立てておくからー、多分あたし以外に人は来ないと思うよー。休みたかったらベッドで寝てていいからねー。」
「え、あっ……ありがとう、ございます。」
ハッと目を見開いた宮葉が、慌てて顔を上げてぺこりと頭を下げる。担当教師はニコニコ笑顔のまま手を振ると、ノソノソと歩きながら扉を開けて外に出た。静かに閉められた扉の外から、何かを立てかけるコトンッと言う音が微かに聞こえてくる。
途端に静まり返る部屋の中――宮葉はしばらくボーッと椅子に座っていたが、気を抜いた瞬間どっと押し寄せてきた疲労感に耐えかねてフラフラとその場から立ち上がった。空いているベッドのひとつに近寄ると、宮葉は天井から吊られたカーテンを閉めてベッドに腰かけた。生憎靴箱には戻れず、履きっぱなしだった外靴は狗井に戻してもらったきりだ。それ故に現在宮葉は上履きを履けず靴下だけの状態にあった。そのままゴロンと横になり、疲れきった足を投げ出して天井を見上げる。
千石寺冥――宮葉と同じクラスに所属する生徒の1人。そして彼女は、宮葉を虐めの標的にした真犯人でもある。
元クラス委員の藤原与一という男を虐めていたのも彼女だった。正確には密かにグループを作り、同級生達を煽って虐めを実行したのだ。自分の手は汚さず、他人を使って特定の相手を追い詰める――それが千石寺の基本的なやり口だった。藤原がまだ学校に来ていた頃、宮葉がクラス内で孤立する様に仕向けたのも彼女だった。コミュニケーション能力の高い彼女は、周囲にバレないよう特定のグループを作るのが得意だった。気づかない内にグループから弾かれた宮葉は、意図せずして孤立する羽目になったのだ。藤原が居なくなった後に標的がこちらに移った事から、次のターゲットを逃さない為の下準備として千石寺がそう仕向けたのだろう。可愛い見た目をしているが、その裏に隠された醜い一面を宮葉はよく知っていた。基本的には他の生徒に虐めを実行させる彼女だが、時折自分の手で相手を追い詰めることもあったのだ。宮葉は過去に何度か、藤原が千石寺に責められている場面を目撃したことがあった。恐らく青春でさえもその事は知らないだろう。全ての虐めの主犯格だとバレたくないからか、千石寺はごくたまにしか学校に来ない。そのせいで、風紀委員である青春でもグループのリーダーの特定に至れていないのだ。本当は青春に千石寺がリーダーだと話したい所だが、もしその密告が彼女にバレてしまえばどんな仕打ちを与えられてしまうことか。それを想像するだけで、宮葉の体がこの上ない吐き気を催してしまう。
(……おチビとかノッポにでも話せてたら、また何か変わってたのかしら……)
天井を見るのをやめて、横向きに寝返りを打つ宮葉。脳裏に過ぎる狗井達の顔を思い浮かべながら、眠るためにそっと目を閉じる。
狗井と宇佐美は普通の高校生ではない。2人はどちらも“人狼”と呼ばれる、特別な能力を持つ人間だ。人狼は“狼”と呼ばれる、普通の人間の目には見えない霊的存在を従えている。その狼のお陰で、狗井は炎を操る能力を、宇佐美は自身の身体の傷を癒す能力を持っている。初めて会った日から、宮葉は数回ほど2人が能力を使っている場面に遭遇していた。生憎宮葉自身は人狼ではないので、狼とやらの姿は見えなかったが。
もしそんな2人に、千石寺の裏の顔について話していたら。暴力を好まない青春とは対照的に、暴力に物を言わせる様な狗井ならどんな反応をするのだろうか。彼女なら千石寺相手に太刀打ち出来ないだろうか――そこまで考えた後、ふと宮葉は狗井や宇佐美に頼りっぱなしな自分が居ることに気がづいた。
前述の通り、宮葉は人狼ではない。故に、無論狗井達のように何かしらの能力が使えたりなどはしない。むしろ、2人が能力を使って人を助けたりするのを、指をくわえて見つめることしか出来ない。それでも宮葉が2人の傍に居るのは、単にその姿を隣で見ていたいのと、2人が宮葉を拒絶しないでいてくれるが故だった。宮葉にとって拒絶されないことは、この上ないほど有難く嬉しいことでもあった。そのためか、今では2人と一緒に居ないと時折不安な気持ちに苛まれてしまう事も増えてしまった。
自身の家庭事情や性格のせいで、小さい頃から今の様に孤立するのには正直慣れている、はずだった。しかし、狗井達という同年代の話し相手と出会ってからは、以前よりもずっと寂しいという感情を覚える様になってしまったのだ。入院中は当時の記憶が混濁し状況が飲み込めなかったのもあって、宮葉は誰とも面会をしたがらなかった。しかし、少し経ってから気持ちが落ち着いた頃、真っ先に会いたいと思ったのが狗井達だった。それはどうやら狗井も同じ気持ちだったらしい。こちらから面会を希望した瞬間、狗井は授業そっちのけで宮葉の元に見舞いに来てくれたのだ。宇佐美も少し遅れはしたが、最終的には狗井同様宮葉の元へ見舞いに来てくれた。工房に篭もりっぱなしの父親は1度も見舞いに来なかった。
宮葉が学校に再び行く決心が出来たのも狗井達のお陰。トラウマでもある千石寺から守ってくれたのも狗井達で――思い返せば思い返すほど、自分ばかりが2人に助けられているような気がして止まなかった。一方的に助けてもらってばかりの身になるなんてことは、宮葉の中のプライドが絶対に許さなかった。
(恩返しなんて、正直私らしくないけど……何かしらのお礼とか、2人に言った方がいいのかしら……)
そんなことをぼんやりと考えながら再びゴロンと寝返りを打つ宮葉。少し身体が重たい感じがする。走り回った事もあって、免疫力の低い身体が限界を訴えているのだろう。細かい事を考えるのは後にしようと思った宮葉が、本格的に眠ろうと思考を放棄し身体を弛緩させる。
――しかし、彼女の眠りを妨げる様に、突然出入り口の方から扉を開ける音が聞こえてきた。そして、続けざまに響き渡る奴の声が、宮葉をいよいよ眠りの世界から遠ざける事となった。
「宮葉ちゃ~ん?居るんでしょ~?僕だよ~メイメイだよ~!遊びに来たよ~!」
「……!!!」
ギョッと目を丸くした宮葉が、本能的に身を隠す様にシーツを深く被った。そのまま口元を手で覆い隠して息を止める。身体の震えが止まらない。冷や汗が背中にじわりと滲み出てしまう。
(なんで……なんであいつがここに……今、授業中でしょ!?)
途端に怯えた表情を見せた宮葉が、目に薄らと涙を浮かべながら内心そう呟く。一瞬担当教師が帰ってきたのかと思ったのに、よりによって千石寺が来るとは夢にも思わなかった。入口に看板があったはずなのに、それを無視して入室したというのか。
コツ…コツ…と聞こえてくる足音。千石寺が確実にこちらに近づいてきてるのが分かった。ホラー映画などで、主人公が殺人鬼や化け物などから身を隠す場面を思い出してしまう。あの時の主人公の気持ちはこんな感じなのだろうか。心臓がばくばくと高鳴り、思考回路がショート寸前まで追い込まれるような感覚が宮葉の脳みそを容赦なく襲った。
「……あれれ~?ここだけカーテンがぴっちり閉まってるねぇ~……宮葉ちゃん、ここにいるのかな~?」
不意に足音が止まり、千石寺がわざとらしく言葉を伸ばしながらそう言った。ビクリと跳ね上がる宮葉の身体。カーテンが開けられるのではないかと思い、必死の思いでギュッとシーツを握り締める。
だが――いつまで経ってもカーテンが開かれるような音がしない。まさか、目の前まで来て諦めたのか。そんな訳がないと思いつつも、シーツの中にいる限り真偽の程を確認することは出来ない。嫌な気持ちの方が上だったが、宮葉は確認のため恐る恐るシーツをどかし、ゆっくりと顔を外に出した。その瞬間、宮葉は心臓が止まるかと思ってしまうほど、愕然とした様子でその場に固まってしまった。なぜなら――
「み~や~ばちゃ~ん……あ~そ~ぼ~?」
カーテンを少しばかり開けた場所から、千石寺が顔だけを出してこちらを覗いていたのだから。
「い……嫌ぁあああっ!!!」
思わず脊髄反射で悲鳴をあげる宮葉。シーツをガバッと被り頭を隠すが、彼女の姿を見た千石寺の前では無意味な行為であった。千石寺がニコニコと笑いながらカーテンを開けて宮葉の傍に近づく。
「あっはは!ごめんごめん驚かせちゃって!映画のシャイニングって知ってる?あれの超有名なワンシーンっぽく登場してみたんだけど、どうだった?怖かった?悲鳴あげちゃうぐらいだから怖かったよね?ねぇねぇねぇ?」
「ひっ……!い、嫌……来ないで……こっちに、来ないで頂戴!!」
千石寺の執拗な問いかけを前に、宮葉は顔をひきつらせながら彼女に背中を向けた。今は狗井達が傍にいない。虐めの主犯格である千石寺を前に、1人でどうにか対処しなければならないのだ。宮葉がどうしようかと必死に考えを巡らせる中、千石寺は躊躇いもなく彼女の肩に手を乗せて言った。
「宮葉ちゃん、本当に大丈夫?とっても具合悪そうだよ?そう言えば、人間って舌だけでも健康状態が分かるんだって、どこかのサイトで見た事あるよ!保健室の先生居ないみたいだし、僕が代わりに宮葉ちゃんの舌診てあげるね!」
「……!!気安く触らないで!!」
宮葉はそう叫ぶと、肩に掴まった千石寺の手を勢いよく振り払った。一瞬驚いた様に手ごと身体を離す千石寺。その目は途端に、今朝方狗井達に見せた冷たく鋭いものへと変化した。まるで穢らわしい物を見るかのような視線を前に、それを垣間見た宮葉が再度小さく悲鳴をあげる。
「……宮葉ちゃん。どうしてそんなに僕の事を嫌うの?僕は君の友達なんだよ?友達に嫌われるのって凄く残酷な事なんだよ?分かる?」
「だ、だから……私はあんたと友達なんかじゃ――っ!!?」
突然千石寺が宮葉の言葉を遮る様に、彼女の両頬をガシッと掴んだ。そっぽを向こうとした宮葉の顔をそのまま自身の方へ向き直し固定する。千石寺の細い指が宮葉の口につけられた黒マスクへと伸びた。するりと手慣れた様子でマスクを下ろされ、その下に隠されていた宮葉の口元が露わになってしまう。
「宮葉ちゃん、忘れないで。宮葉ちゃんの友達は僕だけ。あんな子達と友達になっちゃ駄目だよ。あの子達、本当はとっても喧嘩が強くて危ない子達だって噂で聞いたよ。そんな子達と宮葉ちゃんが一緒にいたら、宮葉ちゃんが危ない目に遭っちゃうかもしれないんだよ?」
「ぁ……あ……」
千石寺が宮葉の至近距離に顔を近づけながらそう呟いた。マスクを下ろされ両手で顔を固定された宮葉は、物理的にも精神的にも千石寺から目を離すことが出来なかった。次第に今朝方感じたものと同じ甘ったるい香りが宮葉の鼻腔をくすぐり始める。今朝方はマスクをしていたためか、ここまで強い香りは感じなかった。が、今はマスクが下ろされているせいで、不可抗力で香りを嗅がなければいけなくなってしまっている。
意識が混濁し視界もぐにゃぐにゃと大きく歪み出す。まるで頭の中に直接マイクを突き刺された様に、千石寺の声が脳内で反響しながら聞こえてきた。
「君には僕しかいない。僕だけが、本当の意味で君を救う事ができるんだよ。あの2人なんかに頼っちゃ駄目。宮葉ちゃんには、僕しか頼れる子が居ないんだから。」
「わ……私、には……あなた、だけ……?」
「そう。君は僕だけを好きになってくれればいいんだよ。僕を……メイメイの事、もっと好きになってよ。ねぇ……宮葉ちゃん。」
不明瞭になる視界の中、千石寺がニコッと微笑んだのが辛うじて見えた。宮葉の心が『やめて』と必死に叫ぶが、それに逆らう様に脳みそが千石寺へ心を許す様に全身へ命令を下し始める。宮葉の口角が無意識の内に笑うように上へあがった。そのまま宮葉の口は、心に反して千石寺の名前を――
「うわっ!ありゃー、なんだろうねーこのにおいー。凄く甘い香りがするねー。」
「!!?」
突然、保健室の出入り口の扉が開かれる音が鳴り響いた。それに続くように、担当教師の特徴的な声が聞こえてくる。驚いた様子の千石寺がパッと宮葉から手を離した。その瞬間、あの甘ったるい香りがあっという間に消え去り、宮葉の視界と意識が元に戻った。ハッと我に返った宮葉が慌ててマスクを戻しケホケホと咳き込む。
「ありゃー。君きみー、だめだよー先生いない時に勝手に保健室入っちゃー。看板ある時は原則無断で入っちゃだめなんだよー。」
「あーいっけなーい!看板見るの忘れちゃってた!メイメイったらうっかりさん!」
ノソノソとやってきた担当教師がそう言うと、千石寺はわざとらしく舌を出しウインクをしながら片手でコツンと頭を軽く叩いた。いつものおどけた姿を見せる千石寺とは対照的に、宮葉が荒い呼吸を必死に整えながら千石寺の顔を睨みつける。
「それに今は授業中でしょー。早く教室に戻りなさーい。それとも、君も保健室登校の許可を頼みに来たのかなー?」
「ううん、宮葉ちゃんに会いに来ただけだから大丈夫!ごめんなさいね先生、お邪魔しました~!」
千石寺は首を左右に振りながらそう言うと、担当教師の脇を抜けてそそくさとその場から立ち去った。青ざめた表情をまだ崩さない宮葉の傍にノソノソと近づきながら担当教師が彼女に尋ねた。
「宮葉ちゃん顔色悪いねー。大丈夫ー?あれだったら早退届出しておくけどどうするー?」
「え……えっと、その……大丈夫、です。少し寝たら、マシになると、思います……」
宮葉はそう言うと、不安そうな顔を見せる担当教師から顔を逸らし、素早くシーツの中に潜り込んだ。今はもう誰とも話したくない。鼻に微かに残った甘い香りが鬱陶しくて仕方がないのだ。
担当教師はしばらくその場に佇んでいたが、放っておこうと考えたのか「熱とかあったらすぐに言うんだよー」と言ってその場から立ち去った。カーテンを閉める音がシーツ越しに聞こえてくる。宮葉はシーツの中で膝を抱える様に横になると、今度こそちゃんと寝ようと目を閉じた。最初こそ千石寺の顔が脳裏を過って離れなかったが、次第に身体の疲労が増して自然と眠りにつく。
宮葉の眠るベッドを一瞥しながら担当教師が自身の作業を淡々と進める。換気のために窓を開けると、部屋の中に漂っていた甘い香りが完全に消え去り、代わりに夏特有の青々としたにおいが室内を覆い尽くしたのだった。
***
昼休み――
「やっほー、狗井さんと宇佐美くん!そんな早足で何処に行くつもりなの?」
「うげ……出たな、ぶりっ子野郎……」
教室から出た瞬間、千石寺と鉢合わせてしまう狗井と宇佐美。2人の手には各自弁当箱が握られていたが、宇佐美の空いている方の手には誰かの鞄が握られている。今朝方の騒動の混乱により、宮葉によって鞄を預けられたままだったのだ。時間の長い昼休み中に宮葉に渡そうと2人は考えていたのだが、その事情を知らない千石寺はニコッと微笑みながら宇佐美に言った。
「あれれ?宇佐美くんその鞄どうしたの?もしかして、その鞄の中にまた別のお弁当箱が入ってるのかな?宇佐美くんって結構食いしん坊さんなんだね、可愛いな~!」
「……これは別の奴の鞄だ。朝教室に持っていく暇が無かったから、今からそいつに渡しに行く。それだけだ。」
宇佐美は淡々とそう答えると、狗井と共に足早にその場を立ち去ろうとした。が、咄嗟に千石寺が2人の行先に躍り出て道を塞ぐ。3人の周囲は多数の生徒達で賑わっており、千石寺の知名度が高いせいか殆どがこちらに熱い視線を注いでくる。その視線の圧力に内心気圧されつつも、狗井は苛立たしげに眉をひそめながら千石寺に言った。
「おい、退けよ。俺達今から行かなきゃいけない場所があるんだよ。邪魔だからさっさと退けっての!」
「えーやだー。僕、もっともぉーっと君達のこと知りたくってさ。君達と沢山お話がしたいの!ねぇ、お話しようよ~!」
「話ぐらいなら放課後とかでも十分出来るだろーが!良いから退けよ、邪魔くせぇ!!」
イライラが頂点に達したのか、狗井は千石寺の肩を掴むと強引に横に押しのけた。バランスを崩した千石寺が「きゃっ!」と言いながら身体をふらつかせる。咄嗟に男子生徒の数名が彼女の身体を支えたので倒れるまでは至らなかった。しかしその瞬間、あれ程賑やかだった廊下内が一気に冷たい空気に包まれた。多くの生徒が、千石寺を押しのけた狗井を睨みつけてきたのだ。ここまで連携して睨まれると、流石の狗井でも背筋に薄ら寒い何かを感じざるを得なかった。宇佐美に目配せをして廊下をズカズカと歩き始める狗井。生徒達の異様な視線は無論宇佐美も感じていた。狗井と並んで歩くや否や、宇佐美は不安そうに狗井の横顔を見つめがら彼女に言った。
「ハル……他の奴らがいる前で、あいつに堂々と歯向かう姿はあまり見せない方がいい。朝のあの騒ぎを忘れたのか?下手に動くと、また容赦なく襲われるぞ。」
「んな事いちいち気にすんなよ、ウサギ。ああ言うのに構ってたら時間の無駄だっての。さっさと宮葉の所行くぞ……ついでに、あのぶりっ子野郎の事についても聞き出そうぜ。あいつのあんな怯えた顔、見たこと無かったしな。」
狗井が小声でそう答えながら宇佐美の脇腹を肘で軽く小突く。宇佐美は小さく息を吐きつつも、こくりと頷いて狗井と共に先を急いだ
一方その頃――倒れかけた千石寺を支えた男子生徒は、羨望と好意の眼差しを向けながら彼女に一斉に話しかけた。
「メイメイちゃん、大丈夫!?危なかったよ、俺達が居なかったらメイメイちゃんが怪我しちゃうところだったよ!」
「あの狗井って奴、学園内一キレやすい子らしいよ。だからメイメイちゃん気をつけてね。殴られたりなんてしたら大変だからさ。」
「そ、そうだよ!もしメイメイちゃんの顔に傷がついたりしたら……あぁ考えるだけで鳥肌が立っちゃう!狗井さんに殴られそうになった時は、僕達が一生懸命守ってあげるからね!!」
「えへへ~ありがとう、みんな――でも、そんな汚い手で気安く僕に触らないでよ。今日のために折角新調した僕の大切な制服に、シミとか汚れとかが付いたら大変でしょ?そんな事も分からないの?可哀想な人達だね。」
ニコニコ笑顔で答えたかと思いきや、突然鋭い視線で男子生徒を睨みながら冷淡な声音かつ早口でそう呟く千石寺。それを見た男子生徒達が思わずひぇっと情けなく悲鳴をあげて後ずさりをしてしまう。千石寺は埃を払う様にパンパンとスカートを叩くと、ふんっと鼻を鳴らしながらその場を後にした。颯爽と立ち去る千石寺の背中をボーッと見つめる男子生徒達。その目には微かな恐怖だけでなく――先程同様、彼女に心酔しきったが故の羨望及び好意の色が濃く滲み出ていたのだった。
ほんの少しだけ静まり返っていた廊下内が再び賑やかになる。そんな廊下の様子を教室の窓越しに見ていた青春は、不気味な気分を覚えながらも手作りのサンドイッチを静かに頬張ったのだった。
***
大神学園高等部校舎一階 保健室――
「はぁ!?あのぶりっ子野郎が、お前を不登校に追い詰めた真犯人だぁ!?」
椅子の上でばくばくと白米を頬張っていた狗井がそう叫んだ。その声の音量が大き過ぎたのか、ベッドに腰かけた宮葉が慌てて狗井の口元を手で覆い隠した。幸いにも、担当教師は狗井達が来た直後に、仕事があるからと言って再び退室している。故に、部屋の中にいるのは狗井と宇佐美そして宮葉の3人のみだ。それでも警戒気味に周囲を見渡しながら慌てた様子で宮葉は言った。
「あんた声でかすぎなのよ!外にまで聞こえちゃったらどうすんのよ!!」
「もが……わ、悪かったよ。ちょっとびっくりして声抑えられなかったんだよ。つーか、さっきの話マジなのか?話せる範囲でいいから、もう少し詳しく教えてくれ。」
狗井は口の中に残っていた食い物をごくんと飲み込むと、宮葉の手を離しながら彼女に言った。宮葉は今朝自分の手で作った小さなおにぎりを1個摘むと、それを口の中に放り込みながら2人に向かって話し始めた。
「本当はあんた達に話そうか少し迷ってたけど、もう覚悟を決めて話すわ……千石寺はね、私と同じクラスになった時からずっとあんな感じなのよ。いっつも周りに媚び売って仲間作って、気に入らない相手は疎外してとことん虐めるのよ。私だけじゃない、藤原だってそうだった。」
「……あぁ、あいつか。そういえば、あいつもクラスの奴に虐められてたって話だったな。」
宇佐美が唐揚げを口に含み咀嚼してからそう呟く。窓が開いているお陰でにおいは籠らず、涼し気な風が部屋の中に静かに吹き込んでいた。
「そもそも、千石寺が狙った最初の獲物が藤原だったのよ。藤原が居なくなったから、千石寺は新しく私を獲物として狙った……ただそれだけのことよ。きっと、私があの日に死んだりしてたら、また新しい獲物を狙うつもりだったんでしょうね。」
「おいおい、縁起でもねぇこと言うなって。それにしても、メイメイか……なーんかどっかで聞いた事ある様な無いような……」
狗井がそう言ってうーんと首を傾けると、不意に宇佐美がハッと目を開けて懐から自身のスマートフォンを取り出した。そのまま素早い手の動きで何やら操作をし始める。狗井と宮葉がなんだなんだと顔を覗き込むと、操作を終えた宇佐美は液晶画面を2人の目の前に差し出した。そこには、何やら見覚えのある顔がサムネイルに乗った数多くの動画が写っていた。宇佐美が画面をスワイプさせながら狗井達に言った。
「これじゃないか?MeTuberとか言って顔出しで生配信してる奴。俺も見覚えがあったから、騒ぎが収まった後でこっそり調べてみたんだ。」
「あ、これだこれ!タイムラインに時々動画出てきてたから、見る度に邪魔くせぇなって思ってたんだよ……改めて見ても、やっぱ化粧とか色々盛ってんなぁこいつ。」
「あいつ、高校生なのに生配信とかしてたんだ……そういうの全然見ないから知らなかったわ。あんまり学校に来ないのもそのせいなのかしら……」
千石寺――改め“MeTuberメイメイ”の姿を見ながら狗井と宮葉が各々異なる反応を見せる。MeTubeと言えば、知らない人は居ないであろうほど世界的に有名な動画配信サイトだ。全然見ないなんて意外だな、と狗井が言うと、宮葉は少し不満そうに通信制限のせいで見れないだけと答えた。
「虐めの隠れた主導者であり、人気の動画配信者でもある女か……なんかきな臭ぇな。あいつ、今日俺達と会ったばっかりなのにやけにしつこく絡んで来たし。」
「そうだな。俺もあいつを見た時から嫌な予感はしてるんだ……ただ、何を企んでるのかは検討もつかない。しばらく、あいつには安易に近づかない方がいいかもしれないな。」
「もぉー!あんた達のそういう勘って、大抵悪い意味で当たるから嫌なのよね……ん?」
悩ましげに頭を抱えながらため息を吐く宮葉。そんな彼女はふと顔を上げると、視線をバッと保健室の出入り口付近に向けた。それに釣られて狗井と宇佐美もそちらに顔を向ける。すると、突然保健室の扉が開き、そこから散々見慣れた顔がひょこっと現れた。その瞬間、狗井は嫌悪感に満ちた表情を見せ、宮葉はヒッと叫びながら怯える様に身体を震わせた。
「やっほー!やっぱりここに居たんだね!僕ね、君達にどうしても会いたくってさ!校舎の中さっきまでずぅっと探し回ってたんだよ!また会えて嬉しいなぁ~!」
顔を出した張本人――千石寺はそう言うと、上機嫌な様子でステップをしながら3人の元に近づいた。生憎今はカーテンを全開にしているため、宮葉達の姿が筒抜けだ。咄嗟に宮葉は己の弁当箱を抱えながらベッドの端に逃げ込んだ。それを庇う様に狗井と宇佐美が千石寺の前に身を乗り出す。またしても宮葉にちょっかいが出されると思ったからだ。
しかし、千石寺は宮葉には目もくれず、突然宇佐美の腕にギュッと抱きついた。驚いた狗井と宮葉が思わず口を揃えて「「え!?」」と声を上げる。腕に抱きつかれた宇佐美もそう来るとは思わなかったのか、少し戸惑うように眉をひそめている。そんな彼の事はお構い無しに、千石寺はニコニコ笑顔を崩さないまま宇佐美に言った。
「えへへ!宇佐美くんゲットだぜ!なんつってね。あはっ!宇佐美くんのお弁当箱大きいね~!やっぱり食いしん坊さんなんだ、可愛いなぁ~!」
「……さっきから何がしたいんだ、お前は。とりあえず離れてくれ。」
宇佐美はそう言うと、ぎゅうぎゅうと執拗に抱きつく千石寺の身体を強引に引き剥がした。宇佐美の腕力を前に、痩せた体型の千石寺が逆らえるはずもなかった。いとも容易く離された千石寺は、ぷくぅと不満げに頬を膨らませて彼の腕をポカポカと軽く叩いた。狗井が宮葉と目を合わせて怪訝な表情を見せる。先程から、まるで宇佐美にしか興味を持っていないかのような素振りが多いからだ。今朝方会った時は宮葉に対して執拗に話しかけていたはずなのに。
「もう!宇佐美くんの意地悪~!もっと僕に構ってよぉ~!僕は君の事が大好きなのにさ~!!」
「好意を持ってくれるのは有難いが、何で会って間も無いお前にそこまで構わなきゃいけないんだ?まだ飯の途中なんだ、頼むから帰ってくれ。」
「……」
「宮葉?大丈夫か?顔色悪いけど……」
不意に狗井が宮葉にそう尋ねる。宮葉の表情が、今朝方よりもずっと深く青ざめていたからだ。またしても千石寺に対して恐怖の感情を抱いているのかと、狗井が心配そうな顔で宮葉の背中をさする。
しかし、実際の所は違った。宮葉の心の中には、恐怖の感情ではなく――燃えたぎるような嫉妬心に近い苦痛がこみ上がっていたのだ。
(なによ、この感情……あいつが、ノッポにちょっかい出してるだけなのに……何でこんなに、胸が苦しくなるの……?)
(私、捨てられる……?いや、捨てられるって誰によ!?あいつ、あいつ……千石寺に捨てられ……いや、違う!元からあいつとは友達じゃない……友達じゃないのに、なんで、こんなに、苦しくなるのよ……?)
時折自身にツッコミを入れつつも、次第に頭の中がぐるぐると渦を巻き考えがまとまらなくなってしまう。宮葉の呼吸は少しずつ荒くなり、思わず縋るように狗井の身体にしがみついた。一瞬驚いた狗井だったが、すぐに宮葉の身体を抱き締め返し、背中をポンポンと優しく叩いた。そんな2人を見た瞬間、膨れっ面だった千石寺がニヤリと微笑んだのを、宇佐美はめざとく見逃さなかった。ガシッと肩を掴み、怒りの籠った眼差しで千石寺を見つめながら宇佐美が尋ねる。
「お前……一体何が目的なんだ?宮葉に、何をした?」
「何の事かなぁ?宮葉ちゃんは勝手に苦しんでるだけで、僕は何もしてないよ?本当だよ?信じてよ。」
千石寺がニコッと微笑みながら、肩を掴む宇佐美の手に自身の手を置いた。その瞬間、宇佐美の鼻腔を、朝に感じたあの甘い香りが微かにくすぐった。危機感を覚えた宇佐美が咄嗟に千石寺から手を離す。軽く突き飛ばされる様に身体を離された千石寺は、よろよろとよろめきつつも怪しげな笑顔だけは全く崩さなかった。宇佐美の背筋にゾッと悪寒のような震えが走り抜ける。狗井は宮葉を宥めるのに必死で、宇佐美達の動きには殆ど気づいていないようだった。
そして、不意に鳴り響く予鈴のチャイム。その音にびくりと宮葉が肩を震わせる。すると、千石寺は手をヒラヒラと動かしながら華麗なウインクを挟みつつ3人に向かって言った。
「ごめんね~宮葉ちゃん、宇佐美くん。僕、そろそろ授業に戻らなくっちゃ!宇佐美くんも授業に遅れないようにね……じゃあね、ばいばーい!」
「おい!ナチュラルに俺の名前省くんじゃねぇよ!おい、待ちやがれ!!……クソっ!!」
慌てて狗井が立ち上がろうとするが、自身に抱きつく宮葉が離れなかった事で立つことは出来なかった。狗井が悔しげに舌打ちをする中、千石寺が軽快な足取りで扉を開けて外に出ていく。宇佐美は何かを振り払う様に首を振り、大きくため息を吐いた。宮葉が狗井の腕を強く掴みながらポツリと呟く。
「ごめん、おチビ……私が、止めたせいで……」
「あぁ?もういいよ、別に。また後でとっ捕まえりゃいいだけの話だろ。つーかウサギ、大丈夫か?あんなぶりっ子野郎に目ぇ付けられるとか、流石のお前でもキツイんじゃねぇの?」
「……いや、俺は大丈夫だ。それより、どうする?このまま教室に戻るか?」
宇佐美が再度首を振りながらそう尋ねると、狗井もすぐに同じように首を左右に振った。そのまま宮葉を落ち着かせるように頭を撫でると、狗井は残っていた昼飯のウインナーを空いている方の手で摘んで言った。
「宮葉が落ち着くまで俺はここに残る。あいつのせいで飯食い終わってねぇし、こんなに弱りきったこいつ放っておくのもなんか嫌だし……ウサギはどうする?お前だけ先に帰ってても、俺が残ってるから問題無いけど。」
「いや、いい。ハルが残るなら、俺も一緒に残る……また千石寺の奴が来ても、俺がどうにか追い返してやるから。」
「……ごめん。ありがとう、2人とも……」
狗井のお陰で少しは落ち着いたのだろう、宮葉は弱々しく微笑みながら小さく頭を下げた。狗井が「気にすんなって」と言いながらウインナーをパクッと口の中に放り込む。
その後――結局宮葉の心が落ち着くまで、狗井と宇佐美は彼女の傍に居続けた。心優しい保健室の担当教師は特にそれを咎めることも無く、他の生徒があまり宮葉達に近づかないよう配慮もしてくれた。
各人の優しさに包まれながらも、宮葉の心には漠然とした不安な気持ちがぐるぐると渦を巻いていた。
それは千石寺に対する恐怖の感情か。それとも、先程抱いた謎の嫉妬心か――その答えはまだ、今の宮葉には分からないのだった。
***
十数分ほど前
大神学園高等部校舎五階 屋上前階段下
それは、千石寺が狗井達のいる保健室に向かうより前の事――
「はぁ~……結局、あの二人とは何の話も出来なかったなぁ……」
千石寺はため息混じりにそう呟くと、足元に転がる何かの部品を軽く蹴り飛ばした。埃まみれの階段下で、部位がカランコロンと音を立てながら壁めがけて転がっていく。千石寺は階段側の壁に凭れ掛かると、再びため息を吐きながら屋上に続く扉をボーッと見つめた。窓ガラスにヒビの入った錆だらけの扉から、夏の太陽の暖かな光が微かに差し込んでいる。そのせいで、小さな埃の煙が舞っている様が良く見えてしまう。人気がないので気分転換になると思ってここに来たのだが、生憎場所が悪かった様だ。埃を払う様に顔の前で手を振りながら千石寺が呟く。
「あーあ。やっぱ学校ってつまんない……本当はもっと楽しい事がしたいのになぁ。」
「君が望むもっと楽しい事……折角なら、僕が提供してあげようか?」
不意に千石寺の元に届く何者かの声。千石寺がギョッと目を丸くしながら慌てて横に飛び退いた。彼女のすぐ隣、そこにいつの間にか立っていた青年は、群青色の短髪をかきあげながらニコニコと笑って千石寺に言った。
「おっと失礼、驚かせちゃったかな?君があまりにも物憂げな表情を見せるから、僕の中のお節介な心が先に動いて、思わず声を掛けてしまったよ。僕の悪い癖が出てしまったね、誠心誠意思いを込めて謝罪させてもらうよ。」
「え、え~っと……どちら様?学ラン着てるから、大神学園の人?」
突然現れた見ず知らずの青年を前に、いつもは余裕綽々な表情を見せる千石寺も、流石に動揺した様子で視線を泳がせた。そんな彼女の目の前で仰々しく頭を下げながら、青年はニコッと微笑んで言った。
「これまた失礼。自己紹介を忘れていたよ……僕は南本竜二。大神学園で生徒会長をやらせてもらっているよ。よろしくね。」
「!?生徒会長さん!?やだ、僕ったら『どちら様?』なんて失礼な事言っちゃった!」
青年ーー南本の正体が生徒会長だと分かった瞬間、千石寺は表情をコロッと変えて驚いた様に頬に手を当てた。まるでムンクの『叫び』の絵画に出てくる人物の様な反応を前に、南本がクスクスと笑いながら階段側の壁に凭れ掛かった。丁寧に手入れされているのであろう群青色の髪がさらりと横に揺れる。南本はそのまま人差し指を己の口に当て、千石寺の顔を見つめながら言った。
「そんな些細な事は気にしなくて良いんだよ。なんせ君は学校にあまり来ていないんだからね。生配信とかで忙しいんだろ?……メイメイ、改め、千石寺さん。」
「……!!な、なんで僕の苗字知ってるの?あ、もしかして、生徒会長さんも僕の、メイメイのファンだったりする!?やだ~!ファンの中に生徒会長さんがいるだなんて、メイメイ幸せ者だぁ~!!」
一瞬驚きつつも、勝手に自己解釈をした千石寺が恥ずかしそうに目を伏せる。すると、南本は壁から立ち上がり、再度仰々しく両手を広げながらまるで演説でもするかのように堂々と言葉を言い放った。
「あぁ勿論!僕は君の大ファンの1人さ!いつも君の素敵な配信を欠かさず、残さず見ているからね。君の事なら何でも知ってるよ!君の好きな食べ物や好きな映画……君の住所も、正体も……そして、君の本当の名前も。」
「……は?」
先程まで上機嫌だった千石寺の顔が、途端に険しく強ばる。好きな食べ物やら映画ならば、配信で話した記憶があるので知ってると言われても違和感はない。しかし、彼はその後に何と言った?住所、正体、本当の名前――千石寺の中で、南本に対する警戒心が一気に跳ね上がった。千石寺は距離を取るように階段に上ると、上から見下ろすようにギロッと南本の顔を睨みつけた。が、対する南本は変わらず笑顔を崩さない。大抵の生徒は自身の怒りの籠った鋭い睨みを前に怯むというのに。
南本が続けて千石寺に言葉をかける。
「おやおや。急にどうしたんだい、千石寺さん?そんな埃塗れの階段に上っちゃって……そんな所にいたら、君が丹精込めて作り出した嘘まみれの綺麗な身体が汚れちゃうよ?」
「……お前、何者だよ?さっきから何言ってんだよ?僕の……何を知ってるっていうの?」
次第に千石寺の心臓がどくどくと激しく脈打つようになる。本当は平然を装いたいのに、いつもの様に上手く笑うことが出来ない。人知れず緊張する千石寺を見上げながら、南本は追い討ちをかけるように彼女に向かって答えた。
「言っただろ?僕は何でも知ってるんだよ。君の本性だけじゃない……君の本当の顔もね。君の本当の顔は、とっても、とぉっても……それはそれは、もはや目も当てられないほどの――」
「やめろ、黙れっ!!!」
突然千石寺が大声でそう叫んだ。今朝方宇佐美に押されて嘘泣きをした時よりも、倍に近いほどの大声。ビリビリと周囲の空気に痺れが走り抜けた。冷や汗の止まらない千石寺がはぁはぁと荒い呼吸を繰り返す。が、南本は笑顔のまま何も言わない。今では彼の笑顔にさえ恐怖を覚えてしまう。
見抜かれてしまう。
自分の本性を。
何より、自分の本当の姿を。
こんな、初対面の相手に――
「まぁまぁ、とりあえず落ち着きなよ。僕は何も、君を責めに来た訳じゃないんだ。なんなら僕は、君を救いに来たんだよ。」
「……救う……?」
思わずその場にしゃがみこみ頭を抱えた千石寺。そんな彼女に対し、南本はただ静かにそう呟いた。コツン、コツンと音を立てながら階段を上ると、南本は顔を俯かせる千石寺に向かって続けて言った。
「嘘ってものはね、重ねれば重ねるほど、いつかはボロが出て破綻してしまう。隠せば隠すほど、隠しきれない分がいつかは溢れて零れてしまう……それ故に、嘘をつくという行為はとても繊細で難しい事なんだよ。息絶えるその瞬間まで、とことん嘘を貫き通した人間はそう多くはない。死んだ後に嘘がバレる事とだってざらにあるからね。世知辛い運命だよ、全く。」
「……」
「それじゃあ、そんな嘘を上手く隠し通すにはどうすればいいのか。大丈夫!難しく考えることは無いよ。答えは単純明快……嘘を本当にすればいいんだよ。」
「う、嘘を……本当に……?」
怯える様に体を震わせていた千石寺がおずおずと顔を上げる。その瞬間、こちらに身をかがめ顔を近づけながらジッと見下ろす南本と目が合った。思わず喉からヒュッと声にならない悲鳴をあげてしまう。南本は怪しげな笑顔を見せながら、顔だけを千石寺の耳元に近づけて囁いた。
「そう。『嘘から出たまこと』って諺があるだろ?それを自分の手で実行するのさ。とは言っても、急にそんな事を言われた所で、今すぐに出来るとは限らないよね?だから手始めに“練習”をしようじゃないか。嘘を本当に……つまりは『嘘から出たまこと』を形にする。嘘を本当にしてしまえば、それは紛うことなき真実となる。結果的に嘘は消えて、本当であるという事実だけが残るのさ。それは君にとって、非常に喜ばしい事だろ?」
「……確かに、嘘ついてる事が、誰にもバレずに済むのは、僕的には凄く嬉しいよ……でも、練習ってなに?何を使って練習しろっていうの?」
千石寺はそう問い返すと、己の制服の裾をギュッと握りながら南本の顔を睨みつけた。怒りが篭っているというよりは、警戒するような若干恐れの混じった目付きだった。南本は楽しげに目を細めると、千石寺から顔を離し再び仰々しい口調で答えた。
「そう!僕はそれを提案する為に君の元にやってきたのさ!嘘をつく上で重要になるのは、嘘をつく相手だ。ひとりぼっちで嘘をついた所で、それに反応してくれる人が居ないと、それは嘘にはならない。それはただの自己暗示だ。“嘘”というものは、それを信じる相手がいて、初めて嘘と呼べるようになるのさ。」
「つまり、他人を使って、さっき言ってた練習をしろって訳?……なんだよ、いつも通りのことをすればいいだけじゃん。練習もクソもないよ、そんなの。」
千石寺は少し拍子抜けした様子でそう答えると、冷や汗を拭いつつ口元に苦笑を浮かべた。色々と意味深なことを言われたが、要は今まで通りのことをすれば良いだけだと理解したからだ。しかし、南本は静かに首を振ると、しゃがむ千石寺の隣にストンと座りながら続けて話した。
「いやいや。君が思っているほど、これは容易な話じゃないんだよ。嘘をつく事自体は誰にだってできる。子供にだってできるさ。でも、それを正真正銘紛うことなき真実にすり替える事は出来るかい?子供の嘘はすぐにバレる。子供故に考えがまとまらないから、どうしても詰めが甘くなってしまうのさ。大人の嘘だっていつかは必ずバレる。子供よりは頭が回るから、バレることを遅らせることは可能だ。だけど、さっきも言ったように嘘はいつしかボロが出て明るみになってしまう……君の今の状況は後者に限りなく近い。今は何とか誤魔化せているけれど、最近は正直厳しいとか苦しいとか感じてるんじゃないのかい?」
「……!!」
千石寺が驚いた様にハッと目を見開く。その反応で自身の推測が的中したことを察した南本は、心底愉快そうに笑いながら続けて言った。
「その様子だと図星だね!そう、だからこそ!君には特に、嘘を本当にさせる能力というものが必要になるのさ。その力を身につけさえ出来れば、君の周りに敵は居なくなる。君を疑う奴は居なくなる、そして君を嫌う人間もいなくなる!という訳で……ここまで長々と話しちゃって申し訳無いけど、本題といこうか。この僕が特別に、君にとっておきの提案をしてあげよう。」
南本はそこまで言うと、ヒョイッとその場から立ち上がり、華麗なステップで階段を下まで降りた。そしてくるりと千石寺の方を振り向くと、上に向かって差し出すように手を高く掲げながら彼女に尋ねた。
「君、宇佐美翔って子は知ってるよね?今日の朝に、正門の近くで話しかけている姿を見かけたよ。名前自体は知ってたけど、会うのは初めてなんだってね。あまり学校に来ないくせに、何処で彼の名前を知ったのかな?徒党を組んだクラスメイトさんが教えてくれたのかな?」
「……!そ、そうだけど……それは今はどうでもいいだろ!それより、宇佐美くんが何なの?もしかして、彼を利用しろっていうの?」
「答えを急ぐにはまだ早いよ……宇佐美翔が学園一のイケメンでモテ男なのは知ってるかな?数多の女子生徒達が彼に強い恋愛感情や羨望の眼差しをいつも向けているんだ。でも、彼はそのどれにも絶対答えない。どんなにラブレターを貰っても、どんなに愛の告白を受けても、彼は全てひとつ残らず断るんだってさ。それは何故か?単純明快……彼には既に居るのさ、彼にとってかけがえのない相棒が。」
「……!!もしかして、狗井……?」
千石寺がそう呟くと、南本は「その通り」と言いながら両目を閉じて指を鳴らした。彼の所作言動を見ていると、まるで喜劇俳優を見ているかのような錯覚を感じてしまう。胡散臭くも真実を見透かすかの様な口調が余計にそう感じさせるのか――南本は閉じていた目をゆっくりと開けると、再び階段下から千石寺を見上げて言った。
「宇佐美翔は狗井遥と常に行動を共にしている。もはやその頻度は友人の域を超えて、生涯のパートナー、一生の伴侶とも言えるレベルだ。そこで僕は思った……宇佐美翔の狗井遥に対する思いは、本物なのかってね。」
「……駄目。全然話が見えない。要するに、僕は何をすればいいの!?勿体ぶらないでさっさと教えてよ!!」
痺れを切らした様子で声を荒らげると、千石寺はバッとその場から立ち上がり南本のすぐ近くにまで降りてきた。そのままガッと南本の胸ぐらを掴みあげる。南本は特に抵抗してこない。相変わらず怪しげな笑顔を浮かべたまま、こちらを睨みつける千石寺に向かって彼は静かに呟いた。
「そう焦らないで……要は誘惑するんだよ、宇佐美翔を。そして揺さぶるのさ――本当に好きな相手は、狗井遥なのか、それとも自分か……ってね。」
「……!!」
「散々人を騙して惑わして来た君になら、それぐらいは朝飯前だろ?でもそこで終わってはいけないよ。宇佐美翔が狗井遥に対し抱いている思いを、千石寺さん……君に抱いているものだとこっそりすり替えるのさ。そしてそれが“真実”だと彼に思い込ませる……そこまで出来て、初めて完成するのさ。嘘を本当にする力ってものがね。」
千石寺がゆっくりと南本の胸ぐらから手を離す。フラフラと覚束無い足取りで壁に凭れた千石寺は、顔を俯かせしばらくの間黙り込んだ。しかし、数分も経たない内に、千石寺は顔を上げてニヤリと怪しげに微笑んだ。それはとても楽しそうで、この上ない愉悦に満たされ、醜く歪んでいた。南本も同じように笑いながら青色の目を細める。
「それは、とってもとぉっても素敵な話だね……僕も宇佐美くんの事は気になって仕方がなかったんだ。彼を誘惑して、狗井から遠ざけて、僕の物にする……なんだろう。想像するだけで、すっごく楽しそう。」
「あっはは!そう言ってもらえて、僕も凄く嬉しいよ!あとの事は君に任せるけど、君にならきっと出来るって信じてるよ、頑張ってね!」
南本がそう言うと、千石寺は突然楽しそうにステップをしながら、くるくると南本の周りを走り回った。そして、とある場所でピタッと立ち止まると、派手なウインクをひとつ挟んでから――いつもの明るい営業スマイルを見せて南本に言った。
「ありがとう、生徒会長さん!やっと目が覚めたよ。僕は――メイメイは、欲しい物とか好きな物には一直線のひたむき前向きガール!欲しい物とかはとことん求めなきゃ勿体無いよね!なんでこんな大切な事を忘れちゃってたんだろう、メイメイのお馬鹿さん!……よぉーし、今日から早速メイメイ頑張っちゃうぞ~!!」
「そうそう、その意気だよメイメイさん!ファンの1人として、僕も陰ながらに応援しているからね!」
いつもの調子に戻った千石寺を前に、南本が笑いながら煽てる様にぱちぱちと手を叩いた。それによって余計にテンションがあがったのか、千石寺は再びウインクをしてから南本に手を振ってその場から立ち去った。大方、有言実行ということで早速宇佐美の元に行ったのだろう。
お膳立ては無事に終えた。後は彼女がどう動くのかを影から見届けるだけだ。
千石寺の姿が完全に消えた頃ーー南本は深くため息を吐きながら肩を回し、苛立たしげにポツリと呟いたのだった。
「あーあ。本当……あの子と話してると肩が凝る。あぁいう奴に構えるオタク達の気持ちが全然理解できないよ、全く。」
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今回は文量が多いので、前半戦・中盤戦・後半戦の三部構成で行こうと思います。