第32話 潤滑油×オリーブ油
仕事で上司に嫌なことをされたけど、優しい友達と楽しく飲み食いして元気になりました。
「だから私は今日もお仕事を頑張るのです。なぜなら、私はデキル女だからなのです」
「……シア先輩、何をブツブツ言ってるんです? 正直、不気味ですよ?」
職場の更衣室から出ると、私と同じ白衣を着た後輩の獅童と出会った。
昨日私の身に起きた悲劇を知らなかった獅童に、懇切丁寧に事のあらましを説明していたら、この奇行の理由も理解してくれたみたいだけど。
「だって、感情を失くさないと……また怒りのボルテージが……」
「そ、そうっすね。これからその人達がいる薬剤部に行くわけですから……」
本当なら本人を目の前にして文句の一つも言いたいのだが、円滑な人間関係の潤滑油である私はそんなことはしない。
就職面接の時にそう自己紹介したからね。有言実行しなきゃだからね……ははは。
それが今から私が、猪田先輩に何日も掛けて作成した資料たちを無条件で渡さなくちゃいけないとしてもだ。
「私はオリーブなオイル。スベスベでサラサラした上質なバージンオイルなのだ……」
「バージンって……なんかそれだと別の意味に聞こえるんですが。しかも簡単に怒りが発火炎上しそうですけどね」
む、失礼だな。オリーブは健康的で万能なんだぞ~?
あ、オリーブオイルと言えばアヒージョが食べたくなったきたな。
暑い日にアツアツのオイル煮もオツなんだよな~、それをちょっと冷やしたワインでクイっと……。
そんな感じで嫌なことをなるべく頭から追い出すようにしながら、私と獅童は薬剤部の中に入っていく。
「おはようございます~」
「……おはよう」
「あっ、根津課長。おはようごさいます。当直お疲れさまっす」
「お疲れ。……飯野、猪田が探してた」
げっ、あの人もう出勤してたのか。
――って危ないあぶない。
辰巳師長に散々顔に出やすいって言われてたんだから、ちゃんと気をつけなくっちゃ。
負の感情が顔に出ないように頬っぺたをムニムニして顔の表情筋をほぐす。
伝言を教えてくれた根津課長にお礼を言ってから、憂鬱な気分で猪田先輩のデスクへ向かった。
先輩は自分のイスでボーっとしながら天井を見ているけど……ホントいつもこの人は何をしているんだろう?
……はぁ、どうしても気が乗らないなぁ。
「猪田さん、おはようございます」
「あぁ、遅かったな。で? 安全対策の勉強会資料は?」
「え? あ、あぁ。どうぞ、こちらです。それで「ったくさぁ、もっと早く持って来いよな。こっちも暇じゃないんだからさぁ」……すみません」
こ、こいつ……。
そもそも散々先延ばしにした挙句、私に丸投げしたのは貴方でしょうが!
前日になって資料だけ寄越せとか、いったいどんな神経してるのよ!?
「ふ~ん、どれどれ? ミスの事例を挙げて対策、ねぇ。そういえば勤続5年目ってミス起こしやすいらしいよ? 緊張感って大事だよな~、ハハッ」
「……ハイ、ソウデスネ」
私の教育係だった貴方なら私が5年目って知ってるでしょう……!?
ワザとらし過ぎて、嫌味が嫌味になってねーんだよ!
「せ、先輩? 顔、かお!!」
「おっと。ありがとうね、獅童君?」
「あ……はい!? すみません!」
なによ? ちゃんと笑顔でお礼を言ったのに、後ずさって逃げることないじゃない……。
ふふふ、それにくらべて何年勤めても緊張感のない人って嫌よねぇ~。
「ま、いいや。簡単な内容だし、この台本読むだけでいいだろ。っつーことで、これ印刷しといて?」
「アァ!? ……っと。わ、私が、ですか……?」
「なに? 当たり前だろ? ったく、誰が作った資料だよ?」
私だよ!!
知ってるよ!
お前こそ分かってるのかよ!!
ぜーんぶ、一字一句までソレを作ったのは、わ、た、し!!
「すまん、猪田。ちょっと頼みたい監査業務あるから飯野借りていいか?」
「え? 根津課長!? あ、はい。仕方ないですね。チッ。おい、獅童ー! これ印刷頼むわー!」
「すんませーん、三虎ドクターに呼ばれてるんで行ってきまーす」
「ハアァ!? んだよ、どいつもこいつも使えねーなぁ! なら昼までに印刷してキチンと俺に届けとけよォ!?」
猪田先輩は苛立たしげにそう言い放つと、点滴の入った段ボール箱を蹴飛ばして薬剤部から出て行ってしまった。
……流石に私のことが可哀想になったのかな?
あまり他人に干渉しない根津課長が、珍しく助け舟を出してくれた。
そして「あんまり気にするな」と言って、特に仕事も振らずに自分の業務に戻って行ってしまった……。
くぅ~、クールなイケオジ過ぎるぜ根津課長!!
薬剤部イチ、頼りになる漢……飯野、いつまでもついていきます!!
ちなみに一番下っ端の獅童に無茶ぶりしたみたいだけど、それは残念だったね。
天然が入ってる獅童に、あの手のパワハラはほとんど通用しない。
獅童も獅童で「じゃ、病棟に薬を配達してくるっす」と言って、何も気にした感じも無く薬剤部から出て行ってしまった。
――ていうか猪田先輩、あの場で使えないとか言っちゃうんだぁ。
私、知らないよぉ……?
「――ふぅん、『どいつもこいつも使えない』……ねぇ?」
「それは自分も含めてなのかしらァ?」
「随分といい度胸だよねぇ……そんなに自分が偉いとでも思っているのかな?」
ほら~、言わんこっちゃない……!!
調剤課長、薬剤管理主任、そして副薬剤部長が薬棚の影から聞いていたのだ。
ちなみにこの3人のうち、薬剤管理担当の猿谷主任以外は女性です。
猿谷主任の心は女性なのかどうかは……たぶん誰も知らない。
……って、今はそれどころではない。
猪田先輩の暴言が、調剤室の実質上の支配者である三大巨頭の耳に入ってしまったのだ。
確かに役職で言えば田貫部長がトップだけど、あの人は実務は一切しないからね……。
実際の調剤業務の指揮を執っているのは、副薬剤部長の龍鳳寺さんやその部下の人達で、普段からスタッフへの気遣いや仕事の出来がすっごく良い。
だから薬剤部や他の部署からの信頼度は、部長と比べてもかなり高いんだ。
そんな人達を敵に回すという事は、この薬剤部ではやっていけなくなる訳で……。
「飯野ちゃん? 今回のこと、ちょっと詳しく聞かせてくれる?」
「ふ、副部長……」
「そうそう、5年目の飯野さんよりよっぽど緊張感のない人について、是非とも知りたいわね」
「こんなに可愛らしい子があんな奴にいびられてるのはちょっと見逃せないわァ」
「烏丸課長……猿谷主任まで」
主任の可愛いは本気かどうかは取り敢えず置いておくとして……いつの間にか3人に囲まれ、凄い笑顔でプレッシャーをかけられている私。
マズい、今はニコニコ顔だけど、明らかに怒っていらっしゃる。
これ、事情説明なんてしたらヤバいんじゃ……?
「「「さぁ、全部吐きなさい?」」」
嗚呼、これは猪豚さん、終わりましたわ……。




