第21話 残業×牛
「はぁ……疲れた」
数日休んだ後の仕事は、容赦なく私の心身に深刻なダメージを喰らわせてくれた。
もう、いくらやっても、次から次へと仕事が舞い込むのだ。
緊急で入院してきた人や退院の決まった人の準備にも追われ、病棟全体が慌ただしかった。
白衣の天使であるはずの看護師さんたちも、途中から白い亡霊のようにフラフラしていたよ……。
「んぁ、もう夕方じゃない。私のお昼ご飯は……どこにあるのですか」
右腕にある時計を見れば、短針は既に5の文字を過ぎてしまっていた。
窓の外からは茜色の夕陽が差し込んでいて、疲れた目にギラギラと刺さる。
ぐうぅ、めっちゃ痛い。
「ははは、あと1時間で業務終了時間じゃん……残業確定だね、これは」
ちなみに病棟の先輩である猪田さんは、いつの間にか居なくなっていた。
頼んだ仕事は……何故か終わっている。
仕事をしていたようには見えなかったのに……解せぬ。
「私って要領が悪いのかな。それとも、仕事が遅い……?」
そうだとしたら、さすがにへこむ。
これじゃただの先輩に対する嫉妬みたいで、自分が嫌になってくるよ……。
「そんなことないですよ! 飯野さんにお願いした仕事は丁寧で、素早くパパパーっと終わらせてくれてるじゃないですか」
ナースステーションの片隅にある薬剤師専用の作業用スペース。
そこでパソコンのキーボードをカタカタ打ちながら弱音を吐いていたら、看護師の牛尾ちゃんが私に声を掛けつつ隣りに座って来た。
「なんか、すっごい久々に褒められた気がする……!」
「えー? そうなんですか? 私、いっつも飯野さんは気が利くし、カッコ良くて、頭も良いからデキるオンナってイメージでしたけど」
「う、牛尾ちゃぁん……」
ここが職場じゃなかったら、滂沱の涙を流しながら牛尾ちゃんに抱き着いていただろう。
病院の職員規定ギリギリの明るい茶髪をしている牛尾ちゃん。
彼女の花の咲いたような優しい笑顔で、激務で疲れた私をほわぁあっと癒してくれる。
ちなみに看護師さんは動きやすいピッタリ目の白衣を着ているんだけど、牛尾ちゃんの場合は……。
私はチラ、と視線を牛尾ちゃんの顔から下に移動させる。
……ううむ。やはり、彼女の《《とある部分》》がドドーンと強調されている!
女の私でもこれにはドキドキするんだから、男の患者さんがコレを見ちゃったらいろいろと大変なんじゃないかなぁ。
――っていうか、胸はどうだっていいのよ!!
牛尾ちゃん優しい!! 好き!!
天使や……ここにホンモノの白衣の天使がおる……。
「きっと他が無能ですから余計にそう思えるんでしょうねぇ」
「う、牛尾ちゃん!? 誰が聞いてるか分からないんだからそんなこと言っちゃダメ!!」
そ、そうだった。
この子、ゴールデンハムスターみたいな可愛いらしい見た目をしているクセして、言動がちょっとキツイところがあるのだ。
まぁ肉体的にも精神的にもキツい仕事だし、メンタルが強くないとやっていけないのかもしれないけど……。
もう一度牛尾ちゃんの顔に視線を戻すと、ニコッと微笑みを返してくれる。
――可愛い。たしかにすっごく可愛いんだけど……。
愛嬌のある八重歯の見える笑顔が、なんだか獰猛な肉食動物に見えてきた……!
私の方が身長も20cmくらい大きいのに、まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
「――だから私、飯野さんが居なくなっちゃったら寂しいです」
「えっ? あ、うん。まだ居なくはならないとは思うよ?」
「急に消えちゃった人はみんなそう言うんですよ? お願いですから、あんまり根を詰め過ぎて身体を壊さないでくださいね?」
「コレは周りにバレないように隠れて食べてください♪」と言って、彼女は個別包装された小さなチョコレートを私の掌に乗せると、私に小さく手を振ってから再び仕事に戻っていった。
「えっ……なにこのシチュエーション。私が男だったら絶対に惚れてるやつやろ」
牛尾ちゃんは私よりも年下なのに、さり気ない心配りもできるし性格もイケメンなんて……これが女子力というものなの?
さすがデキるオンナ代表! 恐ろしいわ……。
でも牛尾ちゃんのお陰で、ちょっと元気が出てきた。
残りの仕事も頑張って終わらせよう!!
◇
――そして数時間後。
「ああぁぁああぁっあっぁぁあっ! 終わったあぁああぁ!!」
思わず喉の奥底からゾンビのような叫び声が出てきた。
だけど漸く今日の仕事にキリをつけられたよ……。
「あっ、もう10時過ぎてる! 閉店時間までにスーパー寄れなかった……けど、これはもう仕方がないかぁ」
日付が変わる前に終わっただけ有り難いと思わねば、社畜神のバチが当たる。
今日は諦めて、コンビニに寄ってお弁当を買って帰ろう。
ナースステーションは既に夜勤の看護師さんにバトンタッチしており、チョコをくれた牛尾ちゃんももう帰宅してしまっている。
あぁもちろん、猪田先輩は定時で帰宅していたみたい。
ステーションでの片付けを終わらせて、再び薬剤部へと帰還する。
そこでは本日の当直である獅童が、休憩室のテーブルで遅めの夕飯を食べていた。
「あ、シア先輩お疲れさまです。……やっぱり今日は残業になっちゃいましたね」
「うん。でもまぁ、これはある意味予定調和かな? だけど休んでた間の遅れは取り戻せたから良かったよ」
不在時に入院してきた患者さんのデータ収集や薬の準備、お薬の説明なども問題なく終わらせられた。
明日以降の業務予定も何とか見通しがついたし、今日の自分には花丸をあげたい。
「それより、先輩。今日一日ずーっと院内で見かけませんでしたけど、ご飯ってもしかして……」
「あはは。お察しの通り、食べ損なっちゃった。でもお腹ペコペコを通り過ぎて、もはやお腹が空いているのか良く分からない状態だわ」
途中で水分補給の為にスポーツ飲料は飲んでいたぐらいで、固形物は口にしていない。
お昼過ぎ辺りまではずっとお腹が鳴っていたような気がするけど、今はもう収まっちゃった。
「仕方ないから帰り道で適当にご飯買って帰るよ。明日も仕事だしね~」
「うわぁ、あんまり無茶して身体壊さないで下さいよ?」
「うん、看護師の牛尾ちゃんにも同じこと言われちゃった」
「あぁ、彼女ですか……」と納得顔の獅童。
彼女はこの病院ではアイドルだから、ほとんどのスタッフが知っている。
獅童も彼女みたいな可愛い子が好きなんじゃないかなぁ。
「あ、そうだ。これ、良かったら帰って食べてください。昨日、大将からお土産として貰ったんで」
獅童が冷蔵庫から取り出したのは保冷材付きの小さめのタッパー。
中には薄い茶色の、小さくカットされた何かが入っているようだけど……。
「ん~? これってなんだろう? 昨日の刺身の残り?」
だとしたらこの夏の暑さで悪くなってないか心配なんだけど。
「たぶん大丈夫だと思いますよ。たしかシロギスを昆布締めにして、軽く炙ったのを冷凍保存しておいたらしいっすから」
「おおっ、そうなの?? 今はまだ半解凍みたいだし、帰るころには溶けてるかな?」
渡されたタッパーはかなり冷えていて、保冷材があれば家に着くまでちゃんともちそうだ。
「詳しいことは分からないっすけど、大将が味は保証するって言ってましたよ~」
「ありがと~!! さっそく今晩のオカズにするね!」
やったぁ、これで夕飯に豪華な一品が増えたぞ~。
侘しい思いをせずに済みそうだ。
獅童もオカズが増えて喜ぶ私を見て、同じように嬉しそうにしている。
いやぁ、これは頑張った私に対する神様からの思し召しかな?
もう一度お礼を獅童に伝えると、シロギスが楽しみで仕方がない私は急いで帰宅した。
……急ぎ過ぎて、帰りにコンビニに寄るのを忘れるぐらいに。
「ま、マジで……!? どれだけ浮かれてたのよ私は」
独り暮らしの家のドアを開けた瞬間にハッと気付いたんだけど、もう後の祭り。
既に日付も変わっちゃっているし、今更買いに戻るのはもう遅い。
玄関で靴を脱ぎ、疲れ果てた私は廊下に倒れ込んだ。
「私は……私は……やっぱり駄目な女なんだ……」
昨日まで実家に帰省していたため、冷蔵庫の中はほぼ空。
スーパーにも行けず、コンビニに寄るのもウッカリ忘れた。
手元にあるのは、シロギスの切り身のみ。
――果たして、満身創痍の紫愛はあったかご飯にありつけるのか!?
「ううぅ、お腹空いたよぉ……」




