後編
「愚かだとは思っていたが、ここまで愚かとは。よりにもよってミコトを攻撃するなど」
声が昔の主さまだ。
私の記憶のままの主さま。
目の前に座り込んだ女が咄嗟に札をかざす。
私を抱え直した主さまは、耳元でハッと笑った。
「私を攻撃するか? 好きにすれば良い。人間の術程度、効かぬがな」
「だ、誰よ、アンタ……、怨霊じゃないの」
「さてな。怨霊とさして変わらぬかもな、そちらからしたら」
そうして、それ以降主さまは本格的に女に興味を失ったようだ。
表情も声色も全てがらりと変えて私に向き合う。
「帰ろうか、ミコト。早く2人になりたい」
「あ、え、でも主さま。あの主さまは? キヨタカとよばれていた、あの」
「ああ、今はもうただの抜け殻だよ。本体は私。だからもうそちらを見る必要などないよ」
「え? え?」
「可愛いなあ、戸惑って。けれど、そちらにばかり目を向けられると拗ねてしまうよ」
「す、拗ね?」
「千年ぶりの再会なんだ、私だけを見てくれないと嫌だよ」
千年ぶりの再会。
そう、私達は千年後の未来にいる。
土の色が減り灰だらけの色と化した、未来にいる。
人の身では、もうとっくに天寿を全うしているはず。
それくらいの時間が経ったはずだ。
ぐるぐると思考が絡まりほどけない。
主さまの言動、年月の違和感、昔と比べて違うところがひとつずつ見えてくると不安になる。
主さまの身に一体何が起こったのか。
それが心配になってしまう。
「主さま、手が冷たい」
「うん、そうだね。けれどさしたる問題ではないよ」
「今はもう、千年も経っています」
「ああ、その通り」
「主さまは、人間……では、ないのですか?」
一つ一つ確認しながら、気付いてしまった事実を問う。
主さまは、柔く笑んだまま答えをくれない。
けれど変わりに、私を一度地面に下ろしてから何かを手繰り寄せるように手をかざした。
そうして引き寄せられたのは、淡く光る球体。
これが何かを、私は知っている。
「人、魂……」
ぽつりと呟けば、一切変わらぬ笑みのまま主さまがそれを飛ばした。
行先は、清隆……主さまがさっきまで入っていた“抜け殻”だ。
「……っ、げほっ、がはっ!!」
するりと体に入り込んだ瞬間、その抜け殻は派手に咳込みその場に起き上がる。
起き上がって、胸元を抑えたまま主さまを睨みつけた。
「この、死神がっ」
暴言のようなそれに、主さまがにたりと笑う。
ぼんやりと主さまの目の前だけ、少し空間が歪んだ。
ぼやけてきたかと思えば、そこに現れたのは大鎌だ。
そういえば、主さま……髪目も爪も真っ白い。
対して服や鎌は真っ黒。
「当たり。中々優秀なようで何よりだよ、遠い末裔殿」
「……なぜ堕ちた、邪悪な存在に」
「堕ちたとは随分と傲慢なことを言う。私からすれば人間の方がよほど邪悪だ」
「なんだと」
「ミコトを、消えかけた魂を呼び寄せるには人間の身では不都合だった。が、いざその時がきたらかつての私に流れた血と力が必要になってね。悪いが君を使わせてもらったよ、清隆」
「……悪いと、思っているのか本当に」
「いいや、思ってないね。何せ私は、人でなしだ。ミコト以外、どうでも良い」
さあ、と主さまに手を差し出される。
片手に大鎌を抱えたまま、柔い笑みのまま。
……頭が絡まる。その変わり様に絶句する。
けれど、引き寄せられるようにその手に縋ってしまうのは、主さまと過ごした想いが勝ったから。
私にとって主さまは存在意義以外の何物でもない。
「いい子だ、ミコト」
「主、さま」
「……怖いかい? 私が」
初めて表情を崩し、その笑みに苦みが浮かぶ。
くにゃっと曲がった眉毛は、昔何度も見た。
心細いと、孤独だと、そう呟いた時の主さまの顔。
ああ、変わったこともあるけれど、変わらないこともある。
主さまは、どんな主さまでも、主さまだ。
そう思った。
首を横に振って、目を閉ざす。
気を巡らせ私は再び紙へと戻った。
そうして主さまの胸元にひしりとしがみつく。
「ずっと、一緒です。主さまが望んでくれるなら」
それが私の存在意義だ。
そう宣言すれば、主さまがふわりと今までで一番柔らかく笑った。
それから、どれだけの時間が経っただろうか。
「どうして晴明は死神になったの?」
聞くこと自体を忘れていた疑問が不意に頭をよぎる。
清明は少し錆びれてきた鎌を手入れしながらきょとんと目を丸めた。
「なぜ、とは?」
「文献で調べたの。晴明って後世に名が遺るほどものすごい天才術師だったって。別に死神になんてならなくたって、時間をかければ私を蘇らせることが出来たでしょう?」
長い年月の間に私も少しずつ知識を溜め込んでいる。
相変わらず脆弱な紙っぺらだけれど、もう昔のように無知ではなくなった。
晴明の言葉にだって、もうそう簡単には騙されたりしない……はずだ。
晴明の目の前に正座をして聞く体勢を整えれば、畳の縁を挟んで晴明もまた苦笑して正座する。
そっと傍に置かれた大鎌は今日も不気味に光っていて、けれどもうそれを怖いとは思わない。
「では、なぜお前は人間になりたかったのだい?」
「……質問に質問で返すのは駄目と、本に書いてあった」
「人間如きの本、参考にしなくて良いよ」
「……うう」
“主さま”と呼ばれるのも敬語も嫌だと拗ねられて、数十年をかけて今の関係性になった私達。
けれど結局いつだって私は晴明には敵わない。
私にとって晴明はいつまでたっても主さまであり、存在意義だ。
逆に問い返された私は、その答えを考える。
けれど考えるまでもなくそれはすぐに出て来るのだ。
「……知っている、くせに」
拗ねた様に言えば、晴明はからからと楽しそうに笑った。
知ってると、そう言いたげに。
「私も、同じだよ」
そうして告げられた言葉に私は目を瞬かせる。
瞬間手を引かれ、スポッとその腕の中に入り込んだ。
「どちらがどちらに合わせるかなど、大した問題ではないだろう? お前が人間になれなかったのならば、私がお前に合わせれば良いだけだ」
「……その理屈だと、晴明が式神ではなくて死神なのおかしい」
「人間に仕えるなど反吐が出るからねえ。どうせなら狩る側が良い」
「……合わせてない」
「細かいことは良いじゃないか。大事なのはこうして共にいられることなのだから」
今日も晴明の手は冷たい。
髪目も爪も全て真っ白で、血の気は皆無。
歳を取ることも、息を吸うことすら、なくなった。
私と、同じだ。
その背に手を回しぎゅっと抱きしめる。
返ってくるのは同じくらい強い抱擁。
人間はこうやって互いに熱を分け合うのだと、これも何かの本で読んだ。
なのだとしたら、この行為は私達にとっては無駄以外の何物でもないはず。
けれど、こうしていると心が落ち着く。
脈の打たない体の中心が痺れてじわじわと広がる。
ああ、幸せってこういうことなのかと、そう理解できるのだ。
「ずっと一緒だ、ミコト。これからも、ずっと」
「うん、晴明」
人間になりたかった式神と、人間を辞めてしまった死神。
それでも望み続けた未来が、ここにはあった。