サイドストーリー・時空の約束
ジュチ・ボルジギン。
ザールの親友にして『この世で最も高貴で有能なハイエルフ』。
ホルンの軍師として活躍した彼と、『稀代の魔女』ゾフィー・マールとの交流と秘密を描きます。
(まったく、最初から最後まで、ボクはあの人に引きずり回されっぱなしだったな……)
ジュチは、叫び声を上げて騒ぐロザリアをしっかりと抱き留めながら、緑色に光る転移魔法陣の外を見つめている。
「お師匠、どこに行くのじゃ! 私も連れて行ってくれ!」
ロザリアは聞き分けなくそう叫んでいるが、魔法陣の外にいる少女はニコリと笑って言った。近くの店にお遣いに行くような気安さだった。
「うむ、女王様が私を必要とされておるのじゃ。ロザリア、そなたはもう私から学ぶものは何もない。身体を大事にしろよ」
そう言うと、転移魔法陣が発動すると同時に、外の少女は見えなくなった。
「ジュチ、私も戻る。私を元の所に飛ばしてくれ!」
血相を変えて迫ってくるロザリアを、ジュチはゆっくりと眺める。その腹部は朱に染まっている。ホルンを女神アルベドから守った時に受けた傷だった。
ジュチは透き通った笑顔をして、ロザリアに静かに言った。
「キミのお師匠様は、運命を動かしに行かれた。おそらくゾフィー殿なしでは女神ホルン様は覚醒しないらしい。ロザリア、キミは素晴らしい方から魔法の手ほどきを受けていたということさ。そのことを誇りに思っているがいい」
「何じゃ、それはどういうことなのじゃ? ジュチ、そなた何か知っておるのか? 知っていたら教えてくれ!」
ロザリアがジュチにつかみかからんばかりの勢いで訊いてくるが、ジュチは優しい笑顔をして首を振り、自分の首根っこを押さえているロザリアの手を優しく握ると、
「ボクには何も言う資格はない。けれど、そのうち真実が分かるさ」
そう言って、ポロポロと涙をこぼすロザリアの髪を優しくなでた。
(摂理から外れたお方が、摂理の中に戻ろうとされている……それが運命というものなら、ボクはあなたの負託に応えられるようにアルベドを封印しなければならないな、ゾフィー殿)
ジュチはそう思うと、バビロンに到着したことによって先ほどまでの激戦の緊張から解き放たれてぐったりしているみんなに向かって言った。
「みんな、ゆっくりしたいのは分かるが、まず、負傷者の手当だ。それから主要な部隊長は一刻も早く魔力を回復させてくれ。ボクらが戦列に復帰すれば、女王様やザールたちの勝ちが確定するからね」
★ ★ ★ ★ ★
「ほう、おぬしがハイエルフのジュチか。噂には聞いていたが、なかなかの美男じゃのう」
ホルンの依頼(『20 反逆の兇刃』をご参照ください)でドラゴニュートバードに戻り、『妖精の軍団』の出師準備を進めていたジュチに、そう言いながら近づいて来る少女がいた。
少女は、どう見ても14・5歳にしか見えない。身長は140センチ程度で、長く伸びた真っ黒な髪が風に揺れ、その下に黒曜石のような瞳が輝いている。ベージュのワンピースの下には黒いタイツと黒い靴を履いていた。
「こら、お嬢ちゃん。ここは軍議の場だ。子どもが入っていい場所じゃないぞ」
ジュチの隣に座っていた副将格のサラーフが、葡萄酒色の髪を揺らして立ち上がり、その少女を外に連れ出そうと歩み寄ったが、
「待て、サラーフ。手荒な真似はするな」
ジュチはそう静かに言って立ち上がり、少女に笑って会釈した。
「初めまして、ボクがこの世で最も高貴で有能なハイエルフ、ジュチ・ボルジギンです。あなたはトリスタン侯国公認の魔導士、ゾフィー・マール殿ですね?」
すると少女は、上機嫌でうなずいて答えた。
「うむ、さすがは自分で言うだけあって私のことも知っていたようじゃの。いかにも私はゾフィー・マール、トリスタン候アリーの依頼でここに来たのじゃ」
その名乗りを聞いて、サラーフはじめその場にいた全員は、ジュチを除いてびっくりした顔になった。ゾフィー・マールは見た目は少女だがすでに3百年は生きていると噂されていて、20年ほど前にいなくなったアルテマ・フェーズやルーン公国にいるアニラ・シリヴェストルと共に『希代の魔女』と呼ばれていた大魔導士だったからだ。
ジュチはうなずくと、笑顔でゾフィーに席を勧める。
「サラーフの非礼はお許しください。どうかゾフィー殿も座って私たちにお知恵を貸していただければ幸いです」
ゾフィーは遠慮もなしにちょこんと椅子に座ると、ジュチだけをまっすぐ見つめて言った。
「うむ、それは気にしておらん。それよりアリー殿はホルン王女の依頼に同意されたぞ。兵力は3万、別にシンが率いる魔導士部隊が5千じゃ」
「それはありがたい、いい知らせです」
ジュチは喜びを顔に表すと、真顔に戻って訊く。
「……ではもうロザリアとも話はしておられますね?」
ゾフィーはゆったりした表情で答えた。
「ロザリアは『七つの枝の聖騎士団』のことを心配しておった。確かに奴らが出てくる可能性は高い。じゃから、トリスタン候の厚意でシンとは別に魔戦士部隊2千を準備しておる。ロザリアに指揮を執ってもらうことになるじゃろう」
「お心遣い、ありがたく頂戴いたしますよ。時にゾフィー殿に相談がございますが……」
ジュチが言うと、ゾフィーは一つうなずいて言った。
「心配するな。私は『神聖生誕教団』の総主教も兼ねておる。法王への協力依頼も済ませておいた」
それを聞いて、さすがのジュチも驚いた顔をする。そんなジュチを見て、ゾフィーはニコリと笑って言った。
「簡単な推量じゃ。おぬしが私を見て私に期待することといえばトリスタン侯国がどうするか、その兵力はという部分と、法王や『神聖生誕教団』を政治的にどう利用するかということじゃろうからな。トリスタン侯国の意思と兵力はすでに伝えた。となると残りは後者しかありえんではないか」
それを聞いて、ジュチはにこやかに笑ってゾフィーに言った。
「いやあ、こんなにも他人に思考を読み取られたのは初めてですよ。そこまで手を打っていただけるとは思いませんでした」
するとゾフィーは目を細めてジュチを見つめ、
「うむ、素直なのはいいことじゃ。素直さは謙虚さに繋がり、それはやがておぬしの求める道を助けることじゃろう。王女様の発向はいつじゃ?」
そう訊く。ジュチは一言答えた。
「そう遠くない未来……ですよ」
それを聞くとゾフィーはサッと立ち上がり、
「では、その時が来たらロザリアに伝えさせてくれ。出陣の場で会おうぞ、未来の大宰相殿よ」
そう笑顔と共に言うと、忽然と姿を消した。
「よかったですね、ジュチ様」
少しの沈黙の後、ディアナがジュチにそう言う。ジュチは肩をすくめるとディアナだけでなくその場にいたみんなに向かって答えた。
「サラーフ、ヌール、アルテミス、そしてディアナ。相手にもあの位の人材がいるかもしれない。軍団の選抜には十分に気をつけてくれ。特にこの戦いの意義について疑念がある者は遠慮なく辞退させてくれ。ボクは、この戦いはそれだけ厳しいものがあると覚悟している」
そして、いよいよ蹶起の日が来た。ジュチはサマルカンド郊外にある『神聖生誕教団』の教会に『妖精の軍団』2千人を集め、最後の装備チェックなどを行っていた。
「姫様とザール様が着陣されたら、我らはすぐに発向する。不時遭遇戦があるかもしれないから、装備はちゃんと確認しておくんだ」
サラーフとヌールがそう言って全員を確認して回っている。ディアナとアルテミスを連れてその様子を見ていたジュチは、不意に部隊から離れ、部隊の左に広がっている草原へと歩き始めた。
「ちょ、ちょっとジュチ、どこに行くのよ?」
アルテミスが慌てて訊くのに、ジュチはゆっくりとした調子で答えた。
「ロザリアの部隊がもうすぐここに着くようだ。ゾフィー殿を迎えに行こう」
ジュチがそう言った瞬間、三人の前方100フィートほど離れた場所で空間が歪み、そこからぞろぞろと紫色のマントを着た集団が現れる。全員が黒い髪を肩まで伸ばしていて、同じく紫色のボンネットを頭にかぶっている。誰が誰やら見分けがつかない、没個性的な集団だった。
「なにあれ、キショ……」
アルテミスが言うが、ジュチには全員の『魔力の揺らぎ』が見えていた。人間にしてはその量と質は段違いに多く、濃密だった。
「あれがトリスタン侯国が誇る『魔戦士団』さ。ほら、ゾフィー殿がこちらに向かって来ている」
アルテミスとディアナがジュチの指さす方向を見ると、なるほどゾフィーがロザリアともう一人の女性を引き連れてこちらに向かってくるところだった。
「ゾフィー殿、遠路はるばるお疲れさまでしたね。姫様とザールはまだサマルカンドです。主力軍はあそこから出撃しますからね」
ジュチがにこやかに出迎えると、ゾフィーはディアナを見て少し目を細めたが、すぐに笑って答えた。
「なに、かえって都合がいい。実は法王様が『神聖生誕教団騎士団』を援軍として差し向けてくださった。その第6分団がシャロン・メイル司教に率いられてこちらに向かっておる。王女様が見えたら目通りさせていただきたいな」
「おお、重ね重ねありがたいお知らせですね。では、ご要望に沿うように手配いたしますよ」
ジュチがそう言いながら、形のいい手で金色の前髪をかき上げる。そのしぐさを見て、ゾフィーはハッとしたように、
「リュート……」
そう小さくつぶやいた。
「え? 何とおっしゃいました?」
ジュチが訊くと、ゾフィーは我に返ったように
「何でもないぞ。手配していただければありがたいのう。ところでこちらはこの部隊の副指揮官であるマルガリータ・ルージュという。ロザリアの初めての弟子じゃがなかなか筋が良い。役に立つであろう」
そう言って20歳そこそこの女性を紹介した。マルガリータは固い表情で少し顔をうつむけ、ジュチにあいさつする。
ジュチもニコリと笑うと、ゾフィーに不思議そうに訊いた。
「あれ、ゾフィー殿は参加されないのですか?」
「いや、私はどうも戦闘が苦手での、副将というより軍監として参加するのじゃ。作戦指揮全般はロザリアとマルガリータに任せるじゃによって、ジュチ殿にもそのつもりでいていただきたいのう」
ジュチがそれにうなずいて自分の部隊に戻ろうとすると、ゾフィーがそれを押し留めた。
「軍師殿、少し話がある。私について来てくれんか」
ゾフィーはそう言うと、ロザリアとマルガリータに、
「装備を点検後、部隊を所定の場所に整列させておいてくれ」
そう言ってすたすたと歩き出した。
ジュチもアルテミスとディアナに、
「ロザリアと協議して、魔戦士団を所定の位置に誘導しておいてくれ」
そう命令すると、速足でゾフィーの後を追った。
ゾフィーは、自分の部隊から200ヤードほど離れた森の入口まで来ると、くるりと振り返ってジュチを見た。その目は見た目の14・5歳とはかけ離れた艶めかしさで、ジュチを思わずドキリとさせた。
「何でしょう? わざわざこんな所まで連れて来られるとは?」
ジュチが訊くと、ゾフィーはつつとジュチに近づいて来て、
「ジュチ殿が連れておられた女子のうち、あのおとなしそうな娘は恋人かの?」
そう訊く。ジュチは眉をひそめて
「ディアナはボクの婚約者ですが、それが何か? 今度の作戦に関係があるのでしょうか?」
逆に訊き返した。ゾフィーはうなずくと、黒曜石のような瞳に強い光を込めて、ジュチに驚くべきことを告げた。
「あの娘を殺したくなければ、今度の作戦には参加させぬ方が良いぞ」
余りのことにジュチが言葉を失っていると、ゾフィーは一つうなずいて続ける。
「私は誰と誰が恋仲であるとか、そういうことは基本的に興味がないが、そなたは別じゃ。そなたはホルン王女様の軍師。そなたが動揺し、感情的になったらこの作戦の成否に関わるし、ひいては私が求めているものまで頓挫する。だから理由をつけてディアナをドラゴニュートバードに戻すがいいぞ」
ジュチは考える顔になった。これが他人に言われたのであれば、ジュチは一笑に付しただろう。けれど言っている人物は他でもない、その魔力の高さと術式の精緻さで満天下に知られた人物である。
(ゾフィー殿の言うことは軽視できない。けれどディアナは何を言っても聞かないだろうし、アルテミスも納得しないだろう。ディアナを気にかけておくしか仕方ないな……)
「……考えておきましょう。気にかけていただき、光栄です」
ジュチはそう言ってゾフィーに背を向けて歩き出した。のちにジュチはこの時の決断を生涯後悔し続けることになる。
「……後悔がそなたに定められた運命かのう……またそなたが苦しむことになるのを見るのはつらいぞ、リュート」
ゾフィーは、遠くなっていくジュチの背中にそう語りかけた。
やがて、各部隊は作戦行動に移る。その中でジュチは『色欲のルクリア』との戦いでディアナを失った。
(あの時、ゾフィー殿の意見を容れてディアナを後送していれば……いや、姫様ではないがこれも運命と受け入れねば……見ていろ『七つの枝の聖騎士団』め、この落とし前はきっちりとつけてやるからな)
ジュチは『色欲のルクリア』を斃した後、唇を血が滲むほどかみしめてそう考えていた。
「ジュチ殿の心中察するぞ……今度は運命が別の軌跡を描くかと思っておったが、自分で許嫁を処断するとは、運命は輪をかけてそなたに厳しいようじゃのう、リュートよ」
ゾフィーは、『妖精の軍団』からの
“『七つの枝の聖騎士団』副団長『色欲のルクリア』を討ち取った。こちらの被害はディアナほか2名戦死、ジュチ様負傷”
という『風の耳』を直接傍受してそうつぶやいた。
そしてグムダグの町でホルンの遊撃軍は全軍が再び集結した。
ディアナの遭難は主要幹部みんなが知っていたことであるが、ジュチは一見いつもと変わりなく見えたので、
「ジュチが気落ちしているかと思ったけれど、大丈夫みたいね」
ホルンなどはそう言って安心していたし、ロザリアも最初はそうだった。
けれどゾフィーは、鬱屈したジュチの気持ちを敏感に感じ取っていた。
「軍師殿の様子はどうじゃったか?」
ゾフィーは、部隊が合流すると開口一番そうロザリアに訊く。ロザリアはニコと笑い、
「思ったよりも元気そうで安心したところです。前ほど冗談は出ませんでしたが」
そう答えて自分の天幕へと戻って行った。
「そうか……それはいかんのう。まだジュチ殿はこれほどの打撃を受けたことはなかったと見える」
ゾフィーはゆっくりと立ち上がると、天幕から外に出る。夜の砂漠の風は昼間とは打って変わって身震いするほど冷たかった。
ゾフィーは空を見上げて、
「……あの時もそうじゃった。けれどリュート、そなたは私を失っても立ち上がったではないか。運命の流転の中で、いかに過酷な出来事が繰り返されようと、そなたはそれに抗って成長してきた。今度もきっと成長するじゃろう」
そう言うと、ゆっくりとロザリアの天幕へと歩き出した。
「ジュチ殿の心の傷は思ったよりも深い。まず彼の心を落ち着かせる必要があるぞ」
ゾフィーからそう言われてびっくりしたロザリアは、思わず訊いた。
「お師匠、なぜそんなことが分かるのじゃ?」
ゾフィーは、真剣な目をしてロザリアに訊き返した。
「そなたは『妖精の軍団』がカザンジクを攻撃した時の戦闘詳報を読んでおらんのか?」
「はあ、読みました。120マイル(この世界では約220キロ)をわずか半日で移動し、敵を引き付けるとはさすがはジュチじゃと思いましたが?」
「そこではない。戦闘終了後の敵兵の処置の部分じゃ!」
ゾフィーはしびれを切らしたように戦闘詳報の綴りを持ってきてロザリアに指し示して言う。
「見ろ! 『カザンジクを守備していた敵兵力は約2千。当部隊は約1刻(15分)の戦闘で当地を確保せり。当隊の損害、負傷23名、死者0。敵の損害、遺棄死体約千、降伏5百。降伏した敵兵はすべて処断せり』とある。長距離の移動によって敵の意表を突いたジュチ殿の手腕は認める。しかしハイエルフなら同数の人間相手に負傷者を出さずに勝てそうなものじゃし、降伏した敵兵をすべて処断するとは軍師のすることではない。ホルン王女様の威徳を傷つけるようなものじゃからのう」
さすがに聡いロザリアは、ゾフィーの言わんとするところを読み取った。
「……確かに、今までのジュチじゃったら不意を突いた相手は殺さずに眠らせて捕虜にしているところじゃ。それをわざわざ自隊に損害を出してまで戦わせる必要はなかったはずじゃ……」
ロザリアはそうつぶやくと、ゾフィーを見て言った。
「お師匠の心配は分かりました。すぐにザール様にお知らせして善処していただきまする」
「そうしてくれ。まだ戦は始まったばかり、この時点で王女様の威徳を損ねるような真似をしていては、その後の戦いが不利になるからのう」
ロザリアがザールに注意を喚起している間、ゾフィー自身はジュチの幕舎を訪れていた。
「ああ、ゾフィー殿、ちょうどよかった。あなたに相談したいことがございましてね?」
ジュチはいつもと変わらぬ笑顔でゾフィーを迎え入れたが、その顔にまだ翳があることをゾフィーは見逃さなかった。
「何であろうかのう?」
ゾフィーはとぼけたように訊く。本来なら、まず自分がなぜここに来たのかを訊くジュチであるはずだが、いきなり相談とはどういうことだろうか。
「ホルン姫とザールのことです。ザールが『嘆きのグリーフ』という者に襲われて記憶を無くしたことはご存知と思います」
ゾフィーはうなずいて言う。
「そのことなら、私はあまり心配はしておらん。記憶というものはどこかで宇宙とつながっておる。記憶を無くした状態とは、その記憶につながることが困難な状態のことじゃから、カギになる出来事を思い出させれば自然と記憶は戻ってくると思うがのう」
するとジュチは莞爾とした笑顔で言った。
「おお、お師匠様もそうお思いですか? ザールとホルン王女様が今のようなギクシャクした状態では、今後『七つの枝の聖騎士団』との戦いの時に不覚を取ると思います。ですから今のうちに二人をドラゴニュートバードに送って、この状態を改善したいのです」
それを聞いてゾフィーは微笑と共に言った。
「それは賛成じゃ。まだ今の段階なら、お二人が居らんでも戦いの方は大丈夫じゃ。けれど……」
「けれど?」
ジュチが訊き返してくるのに、ゾフィーは斬り込むように訊いた。
「そなた自身も、気持ちを整理する必要があるのではないか? カザンジクでの戦いはそなたらしくなかったぞ」
それを聞くと、ジュチは黙って不思議な笑いをした。哀しいような、諦めたような、嬉しいような、何とも言い難い笑いだった。そしてゾフィーには、その笑いに見覚えがあった。
ゾフィーはジュチに近寄ると、いきなりジュチに抱き着き、その胸に顔を埋める。
「ど、どうされたんですかお師匠様? ボクにはロリコン趣味はございませんが」
ジュチらしくなく慌てて言うが、ゾフィーはジュチを見上げて笑い、
「ふふ、そなたらしい冗談じゃな。私が何者かは既に知っておろうが?」
そう言うと、淡く黄色い光と共にジュチの腕の中の少女は消え、ゾフィーがもと立っていた位置に20歳くらいの女性が姿を現す。金髪と金色の瞳をしており、その身体の周りには薄く『魔力の揺らぎ』がまとわりついていた。
「……女神、ホルン?」
ジュチが喘ぐように言うと、ゾフィーは首を軽く横に振って言う。
「そうではない、これは私の半身じゃ。女神ホルン様ご自身は、ホルン王女様の中に眠っておられる……」
そして、微笑と共にジュチを優しく見つめて続けた。
「女神ホルン様はなかなかこの世に現れてはくださらなかった。けれど一度だけ、目覚めのチャンスはあったのじゃ。もう千年ほど昔になるかのう、リュートよ」
ジュチは『リュート』と呼ばれて、なぜか無性に懐かしくなった。この名前に自分は覚えがある……なぜかそう確信したジュチだった。
「私は知っている、そなたが常にこの世の真実と摂理を追い求めてきたことを。そしてそなたが生まれ変わるたびに、その核心に近づいていることを。そなたの求道の旅の始まりを思い出して、そなたの今後を照らす道標とするがよい」
そう言うとゾフィーは、ジュチの心の中に温かい光と共に沁み込んでいった。
★ ★ ★ ★ ★
今から千年ほど昔、ファールス王国がまだ『ファルス』と呼ばれていた時代、その首都であるバビロンから遠く隔たった地域にその男は住んでいた。
男は金髪碧眼で、誰もが見とれるほどの美貌を持っていた。けれど、彼は自分を見て騒ぐ女性たちをしり目に、日々を野山の探索や思索に耽ることで過ごしていた。
「リュート、日々の鍛錬も結構だが、そなたももう25歳だ。そろそろ妻を娶らんといかんぞ。プロトバハムート様と女神ホルン様を血を引く我が種族が絶えてしまうと困るのでな」
ある日、いつものように薬草を取りに行こうと身支度しているリュートの背中に、父であるファルサイが声をかけた。
「ははっ、ボクのような男に嫁ぐ女性は不幸になりますよ。この種族の後継ぎは、ゾフィーにさせればいい」
リュートは笑ってそう言うと、出かけて行ってしまった。
「……困ったものだ。兄を飛び越えて妹を結婚させるわけにもいかんし……」
ファルサイが困り切っていると、部屋に金髪翠眼の美女が入って来た。
「おおゾフィー、そなたの兄にも困ったものだ。日がな一日野山を駆け巡っているかと思うと、何日も部屋に閉じこもって出て来ない時もある。そなたの友だちにリュートの心を掴めるような女性はおらんか?」
するとゾフィーは、頬を染めて答えた。
「お兄さまのような素敵なお方には、誰も似合わないと思います。強いて言えば、女神ホルン様とか……」
ファルサイはそれを冗談と受け取ったらしい、笑い声を上げてゾフィーに言う。
「はっはっ、そなたも小さい時から兄にべったりだったからな。けれどそれを本気で思っているとしたら、あいつがいつまでも妻を迎えないのも理想が高すぎる故だな」
「……お兄さまは、興味があることが多すぎて女性にまで手が回らないんだと思います」
ゾフィーの言葉に、ファルサイは困り切った顔で言う。
「まあ、あいつの『研究』とやらも、愚にもつかぬことからこの里の役に立つものまで幅広いから、一概に止めさせるわけにもいかないからのう」
実際、リュートは
『この世界の成り立ちは何なのか?』
と哲学的な問題を考えているかと思えば、麦の刈り取りに役立つ器械や灌漑の道具を創ったりして、ドラゴニュートバードの里人からは
「発明家の御曹司」「理論屋の御曹司」
と言われている。半分は揶揄だが、半分は感謝の意を込めてつけられたそのあだ名をリュート自身も気に入っていて、そう呼ばれることを好んですらいた。
「とにかく一度お前からも意見してやってくれ。可愛い妹から『素敵なお姉さんがほしい』と言われたら、あいつの気も変わるかもしれないからな」
ファルサイの言葉に、ゾフィーはニコリと笑ってうなずいた。
「ねえ兄さま、お父さまが心配していらしたわよ。お兄さまが結婚しないとハイエルフの首領である我が家が絶えてしまうと」
その夜、ゾフィーはリュートの部屋を訪れ、机に向って何か書き物をしているリュートにそう言った。
リュートは、その言葉も聞こえぬげに一心に何かを書き連ねていた。ゾフィーはクスリと笑うとリュートのベッドの上に腰かける。
やがてひと段落したのか、リュートは筆をおいてこちらを振り向くと、初めてゾフィーの存在を知ったようにびっくりして言った。
「おや、ゾフィーじゃないか。どうしたんだい、こんな夜中に?」
するとゾフィーは呆れたように笑うと、
「私が入ってくるのにも気づかずに夢中になっているなんて、お兄さまらしいわ」
そう言うと、父ファルサイの言葉を伝えた。
リュートは、腕を組んでそれを聞いていたが、ため息と共に腕組みを解き、つぶやくように言った。
「ボクは別に女性に興味がないんじゃない。それ以上に『この世の摂理』と言ったものに対する興味が大きいだけだ。だからいつの日かボクが納得すれば、結婚も考えなくもない。ただし……」
「ただし?」
オウム返しにするゾフィーに、リュートはこう告げた。
「ただし、相手はお前のような女性でなければと思っている」
「ふえっ!? お、お兄さま、私たち兄妹ですけれど?」
顔を赤らめて慌てるゾフィーに、リュートは笑って言う。
「分かっている、けれどボクはある体験をしたんだ。まだボクが小さい頃だったが……」
そう言うと、昔話を始めた。
ボクらが幼い頃、ボクたちは一緒の部屋で寝ていたね。
ボクはある夜、ふと目覚めてしまったんだ。そんなことはよくあることだから、ボクの好きな星空でも観察しようとベッドを抜けだしたら、キミのベッドから何やらボウッとした光が差してくる。
不思議に思ったボクは、キミには悪いが寝顔をのぞき込んでみた……。
「えっ、の、覗かれたんですか?」
赤くなるゾフィーに、リュートは苦笑して
「さすがに今はそんなことはしないさ。でも、可愛らしかったことは覚えている。そして……」
リュートは言いよどんだ。言って良いか悪いかを考えあぐねているらしい。
「そして? 何か変わったことでもあったんですか? まさかお化けとか」
ずいぶん昔のことなのに、怖気を揮ったように言うゾフィーを見て、リュートはただ一言、
「女神様だった……」
と言ってうなずいて続ける。
「……そう、あれは確かに女神様だった。金色の髪に金色の瞳で、この世のものとは思えない美しさだった。その女神様の顔が、キミの寝顔に重なって見えたんだ」
「……」
ゾフィーは、何を思ったのか黙り込んだ。リュートは強くうなずくと
「信じてくれなくてもいい。でも、ボクはあの時確信したんだ。キミは女神ホルン様の半身だとね。昔話によれば、女神アルベドは英雄ザールから封印されたとき、女神ホルン様の身体を二つに引き裂いたという。そして二つの半身と三つの力が揃う時、女神ホルン様は再び降臨されるという」
リュートは何かに取り憑かれたように、黙っているゾフィーに向かって話し続けた。
「……とすれば、もう半身がいるはずだし、三つの力はこの世の摂理の秘密につながるに違いない……幼いボクはそう思った。だからボクは摂理を研究しているし、ボクの妻となる女性はキミのような『女神ホルン様の半身』でないといけないと考えている」
随分と長い時間が流れたように思えた。考えがやっとまとまったらしいゾフィーは、ニコリと笑ってリュートに言った。
「えっと……私が女神ホルン様の半身だなんてことは想像つきませんが、兄さまがなぜ研究に打ち込まれているのかは分かりましたし、兄さまの理想の女性も分かりました。お父様にそのことをお話ししてもいいでしょうか?」
するとリュートは、肩をすくめて答えた。
「それは止めた方がいいな。ボクが『理想が高すぎる』と言われるだけだろうから。やれやれ、こんなことで時間を取られるのなら、いっそのことしばらくの間カッパドキアにでも行って女神アルベドのことでも調べようかな」
★ ★ ★ ★ ★
「……その後そなたは、言葉どおりカッパドキアに出向き、数か月も帰ってこなかった。随分と心配もしたが、やがてそなたは帰って来て私に告げたのじゃ。『摂理の秘密を知りたいのなら、プロトバハムートを調べるようにとの女神アルベドのお告げを受けた』と」
ゾフィーは懐かしそうに目を細めて言う。それを見ながらジュチは、
(女神アルベド? なぜ女神アルベドがそんなことを? プロトバハムートを調べさせて、その秘密を我がものにしたいとでもいうのか?)
そう思った。
その考えが伝わったのだろう、ゾフィーはうなずいて言う。
「その時リュートも、そなたのような疑問を口にした。女神アルベドは人間創造の時にプロトバハムートから選ばれなかった女神、女神ホルンならともかくとな……」
★ ★ ★ ★ ★
「女神アルベドは、女神ホルンと共にプロトバハムート様が創造された存在。女神アルベドと女神ホルン様の違いを調べてみたらどうかしら?」
カッパドキアから戻ってきて半年、リュートの部屋は旅の中で手に入れて来た文物で一杯だった。それらに埋もれるようにしてリュートは研究を続けていて、ゾフィーは資料を整理したり、リュートの思索の話し相手になったりしていた。
「違いか……確かに双子として産まれたけれど、その後の二柱の女神は違った軌跡をたどっている。どちらも封印を受けたが、アルベドは封印しているものがなくなればいつでも復活できるのに対し、女神ホルン様は二つの身体と三つの能力が揃わないと復活できないという違いもあるな」
ゾフィーの言葉を聞いて、リュートは天啓を受けたような顔をして言った。
「ゾフィー、すまないが少し一人にしてくれないか? キミが言ってくれたことを少し深く考えてみたい」
「分かりました。あまり無理しないでくださいね、お兄さま」
ゾフィーはそう言って部屋を出た。
それから毎日、ゾフィーはリュートの部屋に食事を運び、彼の安否を確認していたが、3日目の昼に異変が起こった。
「朝の食事に手が付けられていない……お兄さま!」
ゾフィーは慌ててドアを開けて部屋に飛び込んだが、部屋の中にリュートはおらず、書きかけの羊皮紙が数枚、机の上に乗っかっているだけだった。
「お兄さま、どこですか?」
ゾフィーはそう言いながら、部屋の中を見回す。そして部屋の片隅にリュートの魔力の残滓が揺蕩っているのが感じられた。そんなに時間が経っているわけでもないらしく、つい先ほど『転移魔法陣』を発動したものだと分かった。
「これは?」
ゾフィーは、幾枚かの羊皮紙に書きなぐられた文章を読んでみた。その中に、
『空間や時間、物質といったものの摂理を整備したのはプロトバハムート様であろうが、時空間や意識というものを生み出した過程が分からない。一つの仮説はあるが、それを確かめるためには女神ホルン様か女神アルベドに訊いてみるしかない。カッパドキアのあの場所に行けば、女神アルベドに会えるだろうか』
と書いてあるのを見て顔色を変えた。女神アルベドは封印された神である。なぜ封印されたのか、それは破壊神としての性質があったからだと言われる。そんな神と会うことは、まかり間違えば戻って来られなくなるだろう。
「お兄さま、なんてことを。あと少しでもう一人の女神ホルンの半身と出会えるというのに」
ゾフィーはそう言うと、自分も『転移魔法陣』を発動させてリュートの後を追った。
★ ★ ★ ★ ★
リュートが部屋からカッパドキアに向かったのは、ゾフィーが来るほんの数分前だった。
「……その時の運命は、リュートの行動が私の行動より『数分』先んじることで成就したのじゃ。それ以上早ければ世界は滅んでおったかもしれんし、それ以上遅ければ今のそなたやホルン王女様が生まれるべくもなかった。本当に運命というものは面白く、そして恐ろしいものじゃ」
ゾフィーがそう言うと、ジュチの頭の中にまたイメージの続きが浮かんできた。
★ ★ ★ ★ ★
その頃、すでに『神聖生誕教団』は結成されていて、カッパドキアのアルベドの神殿は彼ら教団の管理下におかれていた。
神殿は近くにある町の人々が日常的に利用していたが、それは神殿の内部、『礼拝区域』だけであり、さらに教団の者と研究者に限って立ち入りが許される『制限区域』、そして法王や総主教などの他は立ち入りが禁止されている『禁止区域』に分けられる。
特に『禁止区域』は、『結界区域』でもあり、何らかの天変地異によって仮にアルベドの封印が解けたとしても、それより外には出られないような強力な結界がかかっている。
無論、『結界区域』には普通の人間は物理的に入ることは不可能だ。結界に押し戻されるのである。法王などが『封印の剣』を確認するために結界内に入るときは、一旦結界を解き、内部に入って結界を張り直す。出るときも同様である。
しかし稀に、術者の中では結界に対する『親和性』を示すものがいる。つまり、どのような術式で張られた結界であるかに関わらず、その結界による排除作用を受けない者である。
リュートが、まさにその『結界親和性体質』だった。
彼は、教団の者たちの監視をかいくぐり、『禁止区域』の前までやって来た。この区域は結界と共に分厚い大理石で囲まれた部屋になっていた。
「……さすがに、凄い結界だな。肌がピリピリする」
彼はそう言いながら、右手の人差し指と中指を立てる。そしてそれを見えない結界の壁に押し当てると、
「ちょっとお邪魔させていただくよ。『真空への誘い』!」
リュートがそう言うと、彼の身体は一瞬、霧のように分解し、刹那の後に彼は結界の向こう側にいた。
「ふん、これが『禁止区域』で……」
リュートは、物珍し気に部屋の中を眺めた。部屋は10ヤード四方で高さは5ヤード程度であり、外の光は何一つ入って来ない造りになっていた。
けれど、その中で淡い光を放っているものが二つあり、そのおかげで内部のものはある程度見ることができた。
リュートは、部屋の中央に突き立っている剣を見てつぶやいた。
「これが『封印の剣』……つまり『クリスタの剣』か……そして」
彼は、剣が突き立っている場所から3ヤードほど奥に、大理石の玉座に座って眠っている女性を見つけてつぶやいた。
「あれが、女神アルベドというわけか」
アルベドは、自分の名が呼ばれたことに気付き、金色の髪を揺らしながらゆっくりと目を開けた。金色の瞳だった。
「……運命の時はまだ先だと思っておったが……」
アルベドは、川面を吹き渡るそよ風のような声で言うと、リュートを見て微笑んだ。
「どうやら運命の奴は粋な悪戯をするらしいの」
リュートは、アルベドの正反対の位置に立って語りかけた。
「私はリュート・ボルジギン。この世で最も高貴で有能なハイエルフです。本日は女神アルベド様に訊きたいことがあってまかり越しました」
するアルベドはうなずいて答えた。
「そなたの知りたいことは判っておる。この世の摂理とその根源であろう」
「おお、さすがは女神様だ。私はずっとその謎を考えて参りました。一つ私に仮説がございますが、それは女神様と答え合わせする必要がございましてね?」
そう言うリュートの背中には、ボウッとした緑色の淡い光と共にアゲハチョウのような羽が現出した。女神アルベドはそれを見て、静かな笑みを浮かべたまま言った。
「さようなことをせずとも、そなたがその剣を抜いてくれれば、わらわが答えを見せて進ぜるが?」
リュートは一瞬逡巡したが、
(何かあれば、『封印の剣』でまた封印してやればいい)
そう考えたリュートは、
「あなたがそう言うことは、想定内でしたよ」
そう言って、『封印の剣』に手を伸ばしかけた。その時である。
「お兄さま、それはいけません!」
そう言いながら、ゾフィーがこの場に現れた。
「ゾフィー、どうやってここに?」
驚いて訊くリュートに、ゾフィーは厳しい顔をして言った。
「そんなことはどうでもよいことです。お兄さま、その剣を抜いてはいけません」
そんなゾフィーを見て、アルベドはニヤリと笑ってリュートに言う。
「妹さんの言うことは気にしないことだね。真理が知りたいのなら、その剣を抜くことさ、坊や」
「言うには及ばん」「ダメですっ、お兄さまっ!」
ジャリンッ!
リュートはゾフィーの叫びも聞こえぬげに、力いっぱい『封印の剣』を引き抜いた。
ズバンっ!
「ぐっ!」「きゃっ!」
その途端、物凄い魔力の風が二人を吹き飛ばし、壁に叩きつけた。
「ぐ……ゾフィー、無事か?」
背中を壁の突起に強かに打ち付けたリュートは、苦しげにそう言いながら体を起こした。周りにはもうもうと砂塵が渦を巻いている。
やがて、砂塵が薄れると、リュートの目にはほんの数ヤード先に転がっているゾフィーが見えた。
「ゾフィー、しっかりしろ」
リュートがにじり寄ってゾフィーを抱き起すと、彼女は唇の端から血を流しながらか細い声で言った。
「早く、逃げてください」
その時、女神アルベドがゆっくりと玉座から立ち上がり、リュートたちへ向き直った。
「ありがとう、坊や。いかに玉座が座り心地がいいと言っても、500年も座っていたら飽きるというものでな」
「アルベド、ボクを謀ったな。その報いは受けてもらうぞ!」
リュートはそう言うと、両手からアゲハチョウの大群を解き放って叫んだ。
「行け、ボクのトモダチよ。あの堕ちた女神を食らいつくせ」
アルベドは、まとわりついて来るアゲハチョウの大群を憫然たる目で眺めていたが、
「鬱陶しい、下がれっ!」
そう言うとともに、右手をリュートに向けて魔力を解放した。
ドバンッ!
「がはっ!」
アゲハチョウの大群は、魔力の圧で一匹残らず消し飛び、リュートは再び壁に叩きつけられる。
アルベドはゆっくりとリュートに近づくと、足先でリュートの顎をくいッと上げ、
「ふん、女神に楯突くだけあって魔力は素晴らしいの、坊や。わらわは嘘は言うておらんぞ? ちゃんとそなたにはこの世の摂理とその根源を見せて進ぜるぞ。そなた自身を使ってな?」
そう言うアルベドの額には、どす黒いタトゥーのような文様が浮かび上がった。『破壊の制約』である。
(しまった! 早く『封印の剣』を……)
アルベドから踏みつけにされたリュートは、『封印の剣』を手に取ろうと足掻くが、
「往生際が悪いね。自分で蒔いた種だよ、自分で刈り取らないとね?」
アルベドは『封印の剣』をチラと見て、その魔力で部屋の隅に放り投げた。
ジャラン!
『封印の剣』が立てる音を聞きながら、リュートは観念の目を閉じる。それを見てアルベドは心地よさげに
「さあ、ちゃんと理解するのじゃぞ? もっともその時にはもう、そなたの魔力はわらわのものじゃがのう」
そう言うと、右手に『崩壊の序曲』のための魔力を集め始めた。
その時、
ドスッ!
「うぐぇっ!?」
不意にアルベドが悲鳴を上げ、玉座に倒れ込む。リュートが目を開けると、ゾフィーが、アルベドの横腹に『封印の剣』を突き立てていた。
「ゾフィー!」
「お兄さま、早く逃げてください!」
ゾフィーは、身体から金色の『魔力の揺らぎ』を発しながら言う。
「だめだ、お前も一緒に逃げないと!」
リュートが言うと、ゾフィーは駄々っ子を見るような優しい目で彼を見て、信じられないことを言った。
「早くしなさい! アルベドは私が再び封印します」
リュートは、その顔を見て驚いた。それは幼い頃に見たことがある記憶の中の顔だった。
「……女神、ホルン様?」
「ぐおおおっ、ホルンッ! 貴様はまたわらわをっ!」
アルベドも初めて気づいたのだろう。目の前で自分に刃を突き立てている少女に驚愕の瞳を向けて呻いた。
「おとなしく封印されなさい。私たちの時間はまだ先のようですから」
ゾフィーはそう言うと、『封印の剣』を力いっぱい押し込む。
ガッ!
剣先が玉座に食い込む音がして、アルベドは
「くおおっ、今度目覚めた時には、きっとそなたをっ!」
そう叫んで再び永い眠りについた。
「……ゾフィー」
リュートがようやく立ち上がってそう言うと、ゾフィーは困ったような顔でリュートを見つめて言った。
「もう少しで、私の半身とあなたが出会う時が来るはずでしたが、これも運命でしょう」
リュートは、その言葉に違和感を覚えた。何だ、『あなた』とは……今まで一度もそんな呼び方をしたことがないゾフィーだったのに。
憮然として立ち尽くすリュートに、ゾフィーは理解のうなずきをして言う。
「あなたが感じていたとおり、私は女神アルベドの半身……もう一人の半身は、『ホルン』という名であなたのもとに現れるはずでした。しかし、今、運命は別の軌跡をたどり始めました……」
「……女神ホルン様、ボクは取り返しのつかないことをしてしまったのですね?」
そう言うリュートに、ゾフィーはニコリと笑って軽く首を振った。
「……そうでもありません。女神アルベドとはいつかは決着をつけねばなりませんが、その時世の中は大混乱に陥るでしょう。その混乱が今回避けられたということでもありますから……ただ……」
「ただ?」
「……ただ、私の目覚めが遅れれば遅れるほど、目覚めにかかる時間は長くなります。次にいつ、こんなチャンスが来るかは分かりませんが、その時にまたあなたは私と出会うでしょう。その時までに……」
リュートは、そう言うゾフィーの姿が薄く消えて行くのが分かった。慌ててリュートは叫ぶ。
「待て、ゾフィー、どこに行くんだ?」
けれど、ゾフィーはその言葉も聞こえないように、
「その時までに、あなたの言う『摂理の真実』を見つけておいてください。約束ですよ?」
そう言うと、微笑みながら消えて行った。
「ゾフィー、ゾフィー、ボクはどうしたらいいんだ。ゾフィー!」
リュートは、明かりのなくなった部屋でいつまでもゾフィーの名を呼んでいた。
★ ★ ★ ★ ★
「おや、泣いておるのか?」
ジュチは、ゾフィーの声でハッと我に返った。そして碧眼からこぼれる涙を拭きながら、照れたように言う。
「ふふ、何か胸を締め付けられるような思いがしてね? こんな感じはディアナを失って以来だ」
それを聞いて、ゾフィーは優しい瞳でジュチを見つめて微笑む。
「そなたはあの後どうなったか、覚えておるか?」
ジュチは顔を両手で覆って、しばらくじっとしていた。そしてやがて顔を上げると、
「ボクの事だ、思い出は思い出として、『摂理の真実』ってやつの探究に戻ったんじゃないか?」
そう言ってゾフィーの目をじっと見つめた。
ゾフィーは、ジュチの瞳には悲しみは残っているものの、迷いは消えていることを見て取ると、莞爾としてうなずいた。
「やはりそなたは、あの時より成長しておったな。それでは約束を果たしてもらわんといかん。今度こそは私も決着をつけたいからのう」
ジュチは肩をすくめて答えた。気負いのない、いつもの彼の言い方で。
「それは請け合いますよ……ただ一つ、ボクは謝らねばならないことがあるけれどね?」
するとゾフィーは、機嫌よく笑って言った。
「はっはっはっ、『摂理の真実』がそう簡単に理解できてたまるかというものじゃ。それについては、そなたの残りの人生でおいおいと探究すればよい。私はそなたが答えを探し当てて私のもとに来るのを待っておるからの、約束じゃぞ?」
★ ★ ★ ★ ★
「やれやれ、あれからもう10年か……」
王都イスファハーンにある宮殿の一室で、ジュチはそうつぶやいて窓を開けると空を見上げた。空はオレンジから深い紫紺のグラデーションとなり、そこには宵の明星がひときわ明るく輝いていた。
王国暦1587年、ホルンやザールと共に挙兵して11年が経った。この間に、ホルンの即位、ザッハークの誅滅、女神アルベドの封印とアンティマトルの討伐と、一生の間に経験するにはあまりにも大きな出来事の連続だった。
「まさか即位半年でホルン陛下が退位されるとは、ボクも予想できなかったけれどな。けれど姫様もズルいな、ボクだってまだやらねばならぬ大切なことがあるのだが……」
その後即位したザールから大宰相に任じられて10年。
公的なジュチは、王国の状況を把握して適切な施策を強力に推進したり、ザールとロザリアの仲を取り持ったり、ザール即位のごたごたに乗じて攻め来たったローマニア王国を撃退したり、長年の係争地だったマウルヤ王国との『緩衝地帯』を王国に編入したりと、10年で一生分働いた気がしていた。
私的な部分でも、心ならずもアルテミスと結婚し子どもももうけ、
(アルテミスはいい妻、いい母だが、公人として、そして族長の継嗣としてボクがすべきことは、すべてし終えた気がするな……)
近ごろ、とみにそんな気持ちが膨らんできた彼であった。
そんな気持ちと共に、ジュチの心を騒がせるのは、
『私はそなたが答えを探し当てて私のもとに来るのを待っておるからの、約束じゃぞ?』
という、あの日のゾフィーとの約束だった。
(今でもあの声は、耳の底にこびりついている……パラドキシアとの戦いで彼女の罠を乗り切れたのも、ゾフィーの声のおかげだったな)
あの時、致死性の毒に身体を冒され、死を覚悟したジュチだったが、とっさに『次元の収縮』を使うとともに自らを23次元空間の下次元へと退避させたのも、ゾフィーの言葉で無意識にした行動だったのだ。
「もうボクは、昔のボクの夢、ゾフィーとの約束を果たす時かもしれないな」
そうつぶやくと、彼はまた椅子に座り、何かを書き始めた。
ファールス王国大宰相ジュチ・ボルジギンの突然の失踪が発覚するのは、その日の深夜のことだった。
「ジュチがいなくなっただって!?」
侍従から起こされたザールは、そう聞かされて眠気も吹っ飛んだように叫ぶ。
「なぜだ? ジュチは僕のいい友達だったし、『すべての種族が互いを尊重し、分け隔てなく暮らす世界』を共に夢見て追いかけて来たはずだ。その夢が指呼の間に迫った今、なぜ彼がいなくなるんだ?」
突然の出来事で、さすがのザールも取り乱している。それを見てロザリアは、ザールの代わりに侍従に訊いた。
「誰がそれを知らせて来たのじゃ?」
すると侍従は、汗を拭きつつ答えた。
「大宰相様の奥方様です。大宰相様がいつまでも屋敷に戻られぬので、心配になった奥方様が官房を訪れたところ、そこに大宰相様の姿はなく、置き手紙だけがあったとのことです」
それを聞いて、ザールが侍従に命令する。
「何、置き手紙が? アルテミスをここに案内して参れ。来ておるのだろう?」
侍従は慌てて、アルテミスを連れに駆けだした。
「陛下、気を鎮めてください。手紙を読めばジュチが何を考えていたのか分かるはずじゃ」
ロザリアがザールの背中をなでながら言う。ザールは少し落ち着いてうなずき、ポツリと言った。
「僕は、ジュチの心が分からなくなった。僕の夢は夢で終わるのだろうか?」
ロザリアは強く頭を振って言う。
「そんなことはない! ザール様の夢が間違っているなんてことはないぞ。私はザール様の夢を理解し、その実現を強く望んだ一人じゃ。ほかにもホルン陛下はじめリディア、ガイ、ヘパイストスもおるし、リアンノン殿もその夢のために斃れたのじゃ!」
力強いロザリアの言葉に、ザールの顔色が戻ってくる。そしてザールは落ち着いた様子でつぶやいた。
「そうだな……ジュチのことだ。何か考えがあるに違いない」
連れられてきたアルテミスは、案外と落ち着いた様子だった。
「ジュチがいなくなっても不思議ではありません。彼は少し前から落ち着かない様子でしたから。ただ、この手紙のおかげでその理由が判って、私は少し安心しています」
アルテミスはそう言うと、手紙をザールに差し出す。ザールはそれを受け取って読み始めた。長い手紙だった。
まず、ジュチはアルテミスに突然いなくなることを詫び、チャガタイとオゴタイの二人の子どものことを託していた。
『ボクはきっと帰る。その時期は約束できないが、帰ってきたらキミに『摂理の真実』を聞かせてあげるつもりだ』
そう書いたジュチは、自分とゾフィーとの約束について触れて、
『ボクがゾフィー殿のことを好きだったかなんて勘繰らなくていい。相手はボクなんかより数段上手のお方だ。ボクは彼女の手の中で転がされているだけだった。まあ、それも心地よかったが……』
そう綴り、続いてザールに
『ザール、ボクはキミとの夢を忘れていない。ただ、ボクが探している答えが、キミとの夢の行方を指し示してくれるだろうと考えた。だから長い旅に出ることにしたが、キミとの友情はお互いが死ぬまで健在だ。そのことを誓うから、ボクの勝手を許してくれたまえ……』
と呼び掛け、王国の今後については、
『大宰相はボオルチュ殿に任せたまえ。彼は少し他人を見下す風もあるが、宰相職の重さを知ればそれも治るだろう。才気煥発だが常識もあるポロクルを録尚書事として、彼を補佐させるといい』
『この手紙はリディアやガイにも見せてくれて構わない。そしてリディアの大将軍とガイの驃騎将軍を免じて、大将軍はジェルメに、驃騎将軍はムカリに任せたまえ。この世は人間の方が多いし、彼らはボクたちハイエルフやジーク・オーガ、アクアロイドより短命だ。人間を優遇するそぶりを見せたまえ。その方が王国としては長続きするだろう』
『リディアとガイにはそれぞれ征虜将軍、破虜将軍としてジョージア伯とシェリル伯を申し付け、それぞれの種族の統治を任せると良い』
などと彼らしい観察と思慮をもとに書いていた。
そして最後に、
『アルテミスのことを頼んだよ。キミなら仲間でもある彼女を粗略には扱わないと信じて安心している。ボクの旅がいつ終わるか分からないが、ゾフィーとの時空を超えた約束を果たしたら、必ず戻ってくる。お互い存命なら、ボクの体験談を肴にまた仲間たちで集まろうじゃないか。その時が楽しみだよ。では、みんなお元気で』
そう結ばれていた。
長い沈黙の後、ザールが安どのため息とともにつぶやいた。
「……ジュチらしいな。僕も長生きして、彼が見つけた『摂理の真実』ってやつを聞きたいものだ。その時を楽しみにしているぞ、ジュチ」
(サイドストーリー・時空の約束 完)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ジュチは、最も気に入っているキャラクターの一人です。
有能な求道者なのにチャラさでそれを韜晦し、それでいて翳がある……とらえどころのない彼ですが、そんな彼はやはり、自分の使命に忠実でした。
前回『追憶の道標』をお読みになった方はご存知でしょうが、これが彼とザールの今生の別れとなります。
心酔した親友との別れの先に、彼が求めるものを手に入れたのかが気になります。
次回は、『青春の軌跡』として、ホルンがデューン・ファランドールと死別した後の話を書く予定です。
お楽しみに。




