サイドストーリー・追憶の道標(みちしるべ)
ガイ・フォルクス。
リアンノンの弟にしてアクアロイドの闘将。
今回は、103歳になった彼が、ホルンやザールなど仲間たちのその後を語ります。
ファールス王国の北方にある『蒼の海』の南岸に、その男はたたずんでいた。
吹いてくる風は男の深い海の色をした髪の毛を揺らし、その下で輝く青い瞳を見え隠れさせている。
男は革鎧を着て、後ろには剣や槍を持った数百人の集団がいるので、この部隊の長であろう。
「あの日から、もうすぐ100年か……」
男が何度目かのつぶやきをもらした時、後ろから部下が声をかけて来た。
「将軍、小休止の時間を終了します。行軍を再開します」
その言葉に、男は物思いの沼から引き揚げられたように顔を上げ、右手に持つ長大な蛇矛を肩に担ぐと、部下を振り向いてうなずいた。
「よし、今日はチャールースまで行って宿営だ。明日は山越えになる、装備はしっかりと準備しておくのだ」
そう言うと彼もモアウにまたがり、『蒼の海』を右手に見ながら行進を始めた。
「将軍、将軍はすぐる昔、『光輝聖女王』陛下の王国立て直しの挙兵に参加されたと聞きましたが?」
隣でモアウを駆る若い副官が、そう男に訊いてきた。
「……そうだな。それもずいぶんと昔のことになってしまったが」
「私は、幼い時に光輝聖女王陛下や開明洪武王陛下、そして振武平安王陛下のお話を聞いて育ちました。けれど実際に諸王陛下とともに活躍された方のお話を聞きたいのです。宿営地でお話をしていただけないでしょうか?」
副官がそう懇願する。将軍は彼の顔を見て訊いた。
「……私の話なぞ詰まらぬぞ? 巷間に流布されている伝記物や戦記物の方がよっぽど面白いのではないか?」
すると副官は首を振って真剣な顔で言った。
「いえ、伝記物などは誇張された表現が多いと感じています。『終末竜アンティマトル』などは物凄い強敵をドラゴンとして表現したものでしょう? 私は実相が知りたいのです。その頃のことをご存知であるガイ将軍なら、人間味のある諸王陛下の話が聞けると思いましてお願いしているのです」
それを聞いて、ガイと呼ばれた将軍は少し考えるふうだった。
(なるほど、ザール陛下やロスタム陛下の時代に、この国から『辺境』は消えた。当然、魔物たちの姿も今の兵士たちが目にする機会もほぼなくなった。だからあの苛烈な戦いもすでに『神話』に近いものになってしまっているのか……)
やがてガイは、副官の顔を見て笑って言った。
「分かった。歴史の真実の一端を語り残すことは、長く生きる者の務めだろう。イブン、君には信じがたいこともあるかもしれんがな」
その夜、ガイの幕営にはイブン以下数名の若い指揮官たちが集まった。ガイはみんなの顔を眺めてから、静かに訊いた。
「君たちは、私のような人間ではない種族がこの国にいることについてどう考える?」
「それは、開明洪武王陛下の願いだったと聞きます。『すべての種族が互いを尊重する世界をつくる』、そのお考えを光輝聖女王陛下もお持ちだったと」
打てば響くようにイブンが答える。その答えに、ガイはうなずいて言った。
「そのとおりだ。アクアロイドである私は、人間と比べて長生きだ。私は今103歳だが、私の種族の平均寿命が300歳程度なのを考えると、君たち人間で言うとまだ30代の半ばといったところだ。自然、ホルン陛下やザール陛下、そしてロスタム陛下の御代も体験してきたことになる」
イブンが手を挙げて訊く。
「将軍、最初に将軍と共に挙兵に参加した6人の英傑たちは、その後どうなっているのですか? 巷間に伝わるとおりでいいのですか?」
ガイは、逆にイブンに訊いた。
「君たちが知っている6人の英傑のその後、私やザール陛下以外ではどう理解している?」
イブンは、少し何かを思い出すかのようにしていたが、
「……巷間の伝記ではいくつかの説が言われている方もいらっしゃいますが、私が最もありそうだというものでお答えいたします」
と前置きして、
「まず、光輝聖女王陛下です。本名はホルン・ジュエル。簒奪無策王と言われているザッハーク2世が弑逆した治国光武王であるローム3世陛下の姫で、『王の牙』筆頭だったデューン・ファランドールに育てられ、彼の死後は用心棒として諸国を遍歴されました。当時トルクスタン侯国の世子だった開明洪武王たるザール2世陛下と邂逅され兵を興し、2年でザッハークを討ち、王国を復興へと導いた後、在位半年でお亡くなりになったと聞いています」
それを聞いて、ガイは苦笑した。
「そうか、巷間にはそのように伝わっていたか。そなたは『蒼炎の竜騎士』の話は聞いたことがあるか?」
「えっ? は、はい。ザール2世陛下の治世の初めごろに、シュバルツドラゴンを従えた槍遣いの女性が活躍したという伝説は聞いたことがあります。人によってはそれがホルン陛下だという者もいますが、まさか……」
ガイはうなずいて答えた。
「そのとおりだ。ホルン陛下は『救国の預言』に従って自ら王位をザール陛下に譲られ、以降は再び用心棒として活躍された。齢50の声を聞かれて用心棒を引退され、とある村で静かに暮らしておられたが、ザール陛下が崩御された年に70歳でお隠れになっている。今から30年前のことだ」
「そのことはどうしてご存じなのですか?」
不思議そうに訊くイブンに、ガイはさらりと答えた。
「ジュチが知らせてくれたのだ」
「ジュチとは、6英傑の一人で名軍師と呼ばれ、ホルン陛下やザール陛下の許で大宰相を務められながら、女癖の悪さから浮気相手の女性に刺殺されたと言われる方ですか?」
イブンの言葉に、ガイは珍しく声を上げて笑った。
「アッハッハッハ、そんな風に伝わっているとはジュチも不憫な奴だな。彼は確かにチャラかったが、不真面目な男ではなかった。この王国の復興は、彼の存在がなければあり得なかっただろう。今やこの国の統治の根幹をなす地方の『住民会議』や、軍の基幹である『参謀本部』の設置は、彼が行ったことだからな」
「それほどの方だったんですか」
「うむ、『この世で最も高貴で有能なハイエルフ』というのが彼の口癖だったが、それが嫌味に聞こえぬくらいの実力者であり、物事の根幹を深く考えていた。だからこそ、大宰相職10年の節目に突然いなくなったのだろう。奥方であるアルテミスが気の強い女性だったから、巷間にあるような伝説になったのだろうな」
「では、殺されたわけではなく、行方不明になったと?」
イブンの問いに、ガイはうなずく。
「彼は後継者としてボオルチュ殿とポロクル殿を推薦して行ったから、少なくとも自分の意志で大宰相職を捨てたのは確かだ。その後彼がどこに行き、何をしていたのか私は知らないが、ただ一度、ホルン陛下がお隠れになった時だけ、彼は私のもとに現れて、あのころと変わらぬ姿で一晩語り合って行ったよ」
ガイはしばし、遠くを見る目をした。
ガイの気持ちを考えて、しばらくイブンたちもそんなガイを見つめていたが、やがてガイは静かに、そして少しの憤りを込めた眉をして言った。
「リディア・カルディナーレ殿のことは、巷間でどう言われているか知っている。彼女は確かにザール陛下のことを好きだったと思う。しかし、お妃の座をロザリア殿に奪われたことで気落ちして亡くなったわけではない。彼女はありきたりのヒロインのような性格ではないし、ロザリア殿もリディア殿の評判を落としてお妃の座に納まるなどという陰湿で姑息な手口を使う女性ではなかった。古き仲間としてそれは声を大にして言っておきたい」
「では、リディア殿は?」
イブンたちが固唾を飲んで訊くのに、ガイは微笑んで答えた。
「まだ存命だぞ。彼女は国難を救った戦いで負傷し、それがもとで大将軍職を辞したが、ヘパイストス殿との子どもたちと共に今ものんびりと暮らしている。戦いの後ぷっつり消息が絶えたから、世の人々はそう噂するのだろう」
そしてガイは、その時のことを話し始めた。
「ザール陛下の御代21年目、王国はキルギスを越えて来たダイシン帝国の軍と衝突した。相手の軍は号して100万、実数で70万という大軍だった。ザール陛下は9個軍27個軍団、54万の兵でそれを迎え撃たれた」
★ ★ ★ ★ ★
その時のことを、ガイはまるで昨日のことのように思い出せる。
『ダイシン帝国軍来たる』の方は、キルギスにいた守備隊の伝令によってタシケントにもたらされた。守備隊は2千ほどだったので、数十万の敵には到底抗えず、瞬時にして壊滅したものと思われた。
急を聞いたザールは、自ら第6、第7、第12軍を率いるとともに、第2、第3、第4軍を大将軍リディアに、第1、第5、第9軍を驃騎将軍ガイに委ねて王都イスファハーンを出撃した。西への備えには大司馬イリオン将軍を残し、対マウルヤ王国としてはトリスタン侯国軍を展開させていた。
「ダイシン帝国はここしばらく、キルギス方面に小部隊を出しているということだったが、まさかタクラマカンを越えてこれほどの大軍を持ってくるとは意外だったな」
とりあえずサマルカンドに軍を留めたザールは、敵が西進してジャララバード方面に来るか、北進してビシュケク方面に出るかを推し量りかねていた。
「こんな時、ジュチがいてくれたらな……」
思わず弱音をもらすザールに、王妃ロザリアが声を励ました。
「私もそう思うが、今は仲間たちを信じることじゃ。『守らざる所なければ、薄からざる所なし』という。敵は大軍で、しかもその破砕力は長途の行軍にも関わらず衰えておらん。キルギス方面からの続報は何もない。最も守らねばならぬところを全軍で守り、敵がかかってくれば跳ね返すしかないと思うがのう」
「そうなると、ジャララバードだな。あそこが破られればタシケントが落ち、このサマルカンドにまで戦火が及ぶことになる」
ガイがそう言う。
「敵がビシュケクやタラズに向かったらどうするのさ? あそこは先年、王国の版図に入ったばかりの所だよ? 見殺しはまずいと思うけれど」
リディアが言うが、ロザリアは首を振って、
「あと1個軍でもあれば、タラズに防御線を進めてもいいのじゃが、この兵力でそれをやるとジャララバードも守れず、タラズも突破されるという虻蜂取らずになりかねん。軍を分けるとしたら、敵がタラズを取ってシムケントに向かってきた時じゃな」
ザールはロザリアの言葉を入れて、全軍でタシケント東120マイル(この世界で約220キロ)にあるナマンガンに布陣し、ジャララバードにはリディア直率の第3軍を送り出した。
出発時、リディアはいつになくじっとザールの顔を眺めて、
「ザール、歳を取ったね」
とつぶやいた。ザールはニコリと笑って答える。
「リディアはあの頃のまま、変わらずに可愛らしいが、僕は人間だからね。もう45歳になった。けれど君たちのおかげで『すべての種族が互いに尊重し合う世界』に一歩ずつ近づいて行っている気がするよ」
するとリディアは、こちらも可愛らしい顔をほころばせて言った。
「うん、そだね。けれどザールって狡いなあ、そんなこと言われたら、アタシは嬉しくていつ死んでもいいって思っちゃうよ」
そして、不意に真顔に戻ってザールに言った。
「じゃ、出発するね。敵が想定外の動きをしても、アタシがジャララバードにいる限りは大丈夫だからね」
しかし、敵将はザールたちの常識を超えていた。ダイシン帝国の大将軍である趙飛は、
「曹平、20万をやるからここで敵を釘付けにしろ。攻勢に出て敵の本軍までジャララバードに引き付ければ、回り込んだ私の軍で完全包囲ができる。頼んだぞ」
そう言うと、自らは50万を率いてビシュケク方面へと軍を進めた。
そして曹平は、第3軍が守るジャララバードに強襲を仕掛けた。
「敵さんが来たよ。ここを取られたらタシケントまで危なくなる、絶対に守り抜くよ」
リディアは第31軍団2万を引き連れて自ら先頭に立ち、曹平軍の先陣を強かに叩くとサッと軍を退き、後はジャララバード東方に設置した陣地に依って抵抗の構えを見せた。
曹平は、自らの軍がリディア軍を超える兵力を持つことに安心してはいなかった。
「うむ、さすが諸国にその名を轟かせた『炎の告死天使』だけあるな。緒戦でこちらの出端を叩いてきたか」
曹平は、リディア軍の戦意の高さを知り、趙飛に伝令を出した。
「当方面には『炎の告死天使』あり。そちらも『紺碧の死神』には注意されよ」
一方、趙飛の方は行軍3日にしてファールス王国の最前線基地であるビシュケクを落としていた。ここには守備隊として1個コホルス隊3千ほどの軍しかいなかったため、趙飛としては拍子抜けしていた。
「どうやら敵は防御に徹するようだな。『白髪の英傑』ともいわれる王も歳を取ると消極的になるものだな」
彼はそのまま、50万の兵を街道沿いに南西方面にあるタラズに向けた。
「タラズ、シムケントを落とし、タシケントで曹平軍と合同したら、次の戦略目標はサマルカンドだ」
趙飛の号令一下、50万の軍は錐を揉むようにしてファールス王国軍の防衛線を次々と突き破り、3日目にはタラズの前面にまでやって来た。
しかし、ここで趙飛の軍の進撃はいったん止まった。タラズの守将はジェルメだったのである。
「どれだけ数が多かろうと、相手も人間だ。ホルン陛下やザール陛下と共に魔軍と戦ってきた我らを舐めるなよ」
凄まじい笑顔と共にそうつぶやいたジェルメは、
「敵の出端を挫け!」
と、麾下の驍将ジェベに1個軍団を与えて出撃させた。ジェベは期待に応えて趙飛の先陣に夜襲をかけ、少なからぬ損害を与えたのち、無事にタラズへと帰還した。
「関昧が討たれただと?」
趙飛は、先陣の将・関昧の戦死を聞いて嚇怒した。
「おのれ、関昧は曹平とともに我が莫逆の友、帝国の良将だった。許せん、タラズを落としたら皆殺しにしてやる」
趙飛は、いつもの彼に似合わず、取るものも取りあえずタラズに到着すると、関昧軍の指揮を自ら執って号令した。
「こんな城、一揉みに揉みつぶせ!」
『怒りで戦を起こすべからず』……趙飛はこの失策によってシムケントで敗れることになる。
一方、ジャララバードを攻めている曹平軍は、リディアの見事な指揮に翻弄されていた。
「もう1週間になるぞ。早くこの陣を突破しないと、趙飛のタシケント攻略に間に合わなくなるぞ」
曹平は焦って攻撃を仕掛けたが、王権、憲侃、李遂といった将を失うばかりでどうにもらちが明かなかった。
「ここはアタシが第3軍と共に守る。アンタたちは陛下の許に行き、敵の本軍をぶっ叩いてやりな」
リディアはそう言うと指揮下にある第2軍、第4軍を分離し、ナマンガンからシムケントへと移動を開始したザールの後を慕わせた。
「なに、リディアが?」
2個軍の到着を聞いたザールは、先任軍司令官にリディアからの言葉を聞かされて驚いた。いかにリディアに万夫不当の勇があるとはいっても、20万をわずか6万で押し留めるには無理がある。
「……陛下、明日にはシムケントに着く。敵の本軍は明日にはタラズを落とすじゃろう。ここ2・3日で敵の本軍との決戦が生起する確率は非常に高い。ここでこの2個軍をリディアの下に戻しても遊兵となるだけじゃ。リディアの気持ちを受け取って、この2個軍に大いに暴れてもらおう」
ザールの側近くにいるロザリアがそう言って、先任軍司令官に命令した。
「大儀じゃった。すまぬがその方らには先陣を申し付ける。リディア兵団の名に恥じぬように奮闘してたもれ」
そしてガイを呼び出すと、
「ガイ、すまぬがその方、リディア兵団の第2、第4軍も併せ指揮して、敵の本軍に正面からぶつかってくれ。我が君は第6、第7、第12軍を指揮して敵の側面を叩くじゃによって」
そう命令する。ガイは海の色をした瞳を持つ目を細めてうなずいた。
「承知した。早く敵を叩けば、それだけリディアの苦労が減る」
こうしてガイは、第1、第2、第4、第5、第9軍の5個軍30万を率いて先行した。
「……これでよし。陛下、我らは一旦北に抜け、敵の側面に噛みつくのじゃ」
ロザリアはザールにそう言うと、第6、第7、第12軍に命令を下した。
タラズはわずか2万5千の兵で趙飛の50万を3日間も押し留めた。
これはジェルメの粘り強い指揮があったためだが、最終的には衆寡敵せず落城し、趙飛の旗が城頭に翻った。
「世界の中心たるわが帝国に刃向かうとどうなるかを見せてやる」
趙飛の怒りは、ジェルメとジェベを取り逃がしたことでさらに増幅されていた。
彼はタラズの町を徹底的に破壊し、血に飢えたオオカミのように住民をなぶり殺しにしたうえで、
「次は、シムケントだ!」
そう、疲れた兵団を休みもなく動かした。
「今までのファールス王国の奴らのやり方から考えると、奴らは我らが着陣した夜に攻撃を仕掛けてくるぞ。全員、気を抜くなよ」
趙飛はそう言って、夜間の見張りも厳重にした。
その頃、遠く敵陣を見つめていたガイは、
「将軍、夜襲を掛けますか?」
そう副将のバズやアルムから訊かれて、笑って言った。
「ジェルメ殿も、リディアも、おそらく陣に閉じ籠る前に敵に一撃を与えているはずだ」
「そうでしょうね。ただ閉じ籠るだけでは士気が上がりませんからね」
そう言うバズに、ガイは優しい目を向けて、
「敵はそれが我らのやり方だと思っている。とすると今、夜襲をかけても待ち構えている敵を襲うことになる。それより敵に不寝番をさせておいて、明日の明け方に奇襲をかけよう。バズ、アルム、その方らに5千ずつ与える。疾風のように襲い、稲妻のように退け。敵の心胆を寒からしめるだけで良い」
と命令した。
次の日の払暁、敵陣から炊煙が上がるころ、バズとアルムは炊煙目がけて襲い掛かった。
昨夜に襲撃がなかった敵は、疲れと安心から眠っている者も多く、とっさの襲撃に対応ができなかった。
さらに、バズとアルムが敵の兵たちを襲っている頃、ガイはアクアロイド部隊5千を自身で率い、敵陣後方の糧秣部隊を襲撃していたのだ。
時ならぬ攻撃に驚いた趙飛は、後方に上がる黒煙にさらに顔色を変えた。
「いかん、すぐに兵をまとめて陣を固めよ。敵は後方にも手を伸ばしている。楊民、状況を見てこい」
趙飛は、部将を後方に出すと、自らは騒いでいる各部隊の収拾に乗り出した。
「このまま敵を崩せそうだな」
機を見るに敏なガイは、敵陣の騒ぎ具合と自らの攻撃の効果からそう判断し、
「火矢を上げよ。フラグとカサルたちにも出てきてもらおう、総攻撃だ!」
そう叫んだ。
敵陣の後方に、真っ赤な光を放つ火矢が打ち上げられた。
それを遠望したフラグ将軍とカサル将軍は、
「おお、総攻撃の合図か!」
そう勇躍して、シムケントに残っているすべての部隊が、雪崩れるように動き始めた。
「くそっ! 敵の総攻撃かっ」
朝風の中、嚠喨と響く角笛の音に、一瞬なすすべもなく立ちすくんだ趙飛だったが、さすがに大帝国の最高指揮官である、すぐに立ち直った。
「このまま攻撃を受けるのはまずい。各隊長は部下を掌握し、とりあえず連携できる部隊ごとに連携して退け。バラバラで逃げると殲滅されるぞ」
そして彼自身も、供回りを連れて近くの部隊を糾合し始めた。
シムケントの戦いは、ファールス王国の勝利に終わった。
ファールス王国の参加将兵は48万、うち戦死戦傷2万5千だったのに対して、ダイシン帝国軍は参加将兵50万のうち戦死だけでも3万を数え、戦傷や行方不明を合わせると損害は10万に達していた。もちろんタラズやビシュケクもファールス王国が奪還した。
趙飛は、たった一瞬の油断でそれまで築いてきた勝利の果実をすべて失ってしまった。
けれど趙飛は、敗軍の悔しさの中、
「曹平たちを助けなければ。我々が潰走すれば曹平は『炎の告死天使』の餌食になるぞ」
と、とりあえず手中にした10万を率いてジャララバードの戦線へと向かっていた。
一方でファールス王国軍の方も、
「苦戦しているリディアを助けよ」
と、ガイは15万を連れて趙飛軍を追いかける形でジャララバードに向かっていたし、ザールは本隊30万を率いてナマンガン経由で西側からジャララバードに向かっていた。
『趙飛軍、シムケントで敗れる』
その報は、時を措かずジャララバードで対峙していた両軍に届いた。
その報を聞いた時の曹平将軍の第一声は、
「趙飛は無事か? 彼が無事ならわが帝国軍は何度でも再起できる」
だったという。
曹平は、青くなっている部下を見て笑って言う。
「勝敗は兵家の常だ。負けたからと言って青くなっていると、部下が動揺するぞ。部下の動揺は即、軍の統制が取れなくなることを意味する。みんな落ち着け」
そして側にいた主簿に
「高興、急ぎ10万を引き連れてカザルマンの陣地に入ってくれ」
そう命令して後方に下がらせ、自らも馬湯、馬黄の二人を引き連れて転進準備を始めた。
「曹将軍、単に引き下がるだけでは詰まりませんな」
引き上げの準備でごった返している帷幕で、馬湯が曹平に言った。馬黄が続けて言う。
「せっかくの機会です。趙飛将軍を撃ち破った仕返しに『炎の告死天使』を討ち取りませんか?」
曹平は歩みを止めて二人を振り返ると、
「……私もそう思っていた。このままなすところなく帰還しては、陛下に対して申し開きができぬとな。何か策はあるか?」
と訊いた。
「本隊敗戦の報はすでに敵も受け取っているはずです。わが方が退却すれば追撃してくると思います。そこを罠にかけましょう」
馬黄が言うと、馬湯も
「すでに高興の隊には指示を出しました。食料は後送しますが、炊事用具の類はそのまま打ち捨てて下がってもらうことにしています」
そう笑う。曹平は二人にうなずくと言った。
「では、その方らの作戦を実施してみようか。私が最後にこの陣を払う、埋伏地で待っていてくれ」
その頃リディアは、目を凝らして敵陣を見つめていた。
「……敵の兵士たちの動きが慌ただしい。旌旗にも動揺が見える。ザールがシムケントで敵の本軍をやっつけたって言うのは本当らしいね」
リディアは、その可愛らしい顔をゆがめてつぶやき
「よし、追撃だよ」
と張り切って言うと、後ろに控えていた副将のムカリがそれを止めた。
「我が方も今までの防御戦で無視できないほどの損害を受けています。それに『帰る師を止めるなかれ』ともいいます。撤退の仕方が余りに鮮やかすぎますから、恐らく途中で伏兵にやられるでしょう。大将軍は国の要、何かあったら陛下が心配されるどころじゃありません。ここはおとなしく奴らを見逃しましょう」
けれどリディアは、
「奴らがビシュケクやタラズで何をやったか知っているかい? アタシはあんな事した奴らを許せないんだ!」
そう言うと、第3軍団を率いて出撃してしまった。
「こうしてはいられない。リディア大将軍を討ち死にさせるわけにはいかない」
ムカリが慌てて第32軍団を呼集していると、この陣地に第61、第122の2個軍団が到着した。
「ムカリ将軍、リディア大将軍はどうされましたか?」
第61軍団司令部からトゥルイが出てきて訊く。
「大将軍は敵を追撃に出られた。お止めしたんだが聞かれなかったので、私も援護に出るところだ」
ムカリが答えると、
「それはいけない! 追えば必ず敵の謀に中る。陛下はそれを心配されていたのだ」
バトゥも慌ててそう言った。
3将は、取るものも取りあえず部隊を率いてリディアの後を追った。
奮迅、また奮迅、リディアは2万の軍の先頭に立って、あっという間に敵陣に躍り込んだ。
しかし、敵陣はすでにもぬけの殻だった。あちらこちらには炊事用具までほっぼらかしてある。
「ふん、よほど慌てて逃げたんだね。逃げ足だけは速い奴らだ」
リディアは敵陣の様子を眺めてそう言うと、自分の部隊を振り返り、
「ビシュケクやタラズでの蛮行を許すな! 奴らにはきっちりと落とし前つけてもらうんだよ」
そう、泣く子も黙る大青龍偃月刀『レーエン』をかざして突進を再開した。
やがて、四半時(約30分)も追撃したろうか、山間の小道に敵が固まっているのを見つけたリディアは、風のようにその集団にモアウごと躍り込み、
「お待ちッ! この国で働いた分だけご褒美を受け取って帰りなっ!」
と、『レーエン』をぶうんと振り回した。
「わっ」「ぎゃっ」「げえっ」
ドズバン!
敵兵が数人まとめて首と胴体を異にし、さらに数人は衝撃波で地面に投げ出される。ジーク・オーガであるリディアが揮う大青龍偃月刀は、重さが82キッカル(この世界で約2・78トン)もある。その斬撃が当たったらもちろんのこと、その強烈な斬撃波でも生身の人間には命取りになる。
「出たっ! 『炎の告死天使』だっ」
敵兵がそう叫びながら逃げ出す。それをリディアは、
「待てっ、せっかくここまで来たんだ。ファールス王国に来た記念に、首だけでもここに置いて行きな!」
と、追いかけ出した。彼女の余りの速さに、供回りはわずかに100騎程度が続いているに過ぎない。
しかし、彼女が逃げる敵を追って谷間へと入った時、
ズドン!
大きな音を立てて岩が落下してきて、谷間の出口を塞いでしまった。
「しまった!」
リディアは、その音を聞いただけで何が起こったのかを知った。そしてこれから何が起こるのかも。
「みんな、戻れっ! 急いでこの谷から出るんだよっ」
リディアが『レーエン』を振り上げてそう叫んだ時、
ザザザザッ!
周囲から雨のように矢が降り注ぎ始めた。
「うっ」「ぐっ」「うーむ」
彼女の周囲では矢を受けた将兵が次々と倒れていく。リディアは
「しゃらくさい」
と、『レーエン』を水車のように振り回して矢を弾きながらモアウを駆けさせていたが、
ズドッ! ギエッ!
「わっ!」
モアウに矢が突き立ち、彼女は地面へと振り落とされた。そこに、
ドスドスドスドスドスッ!
「ぐわっ!」
仰向けになったリディアが跳ね起きる間にも、数十本の矢が彼女の身体に突き刺さった。
「……こんな、ことで……」
ズドズドズドズドッ!
『レーエン』を杖に立ち上がったリディアに、雨霰と矢が突き立って行く。
「……参るアタシじゃ、ない……」
もはや全身をハリネズミのようにして立っているリディアが余りに動かないのをいぶかしんだ敵兵は、弓に矢をつがえながら近寄ってくる。
その時、
「うおーっ!」
リディアは、身長2・7メートルの『オーガ形態』に戻るとともに、全身から紅蓮の炎に似た『魔力の揺らぎ』を噴出させ、身体に突き立った矢をすべて弾き飛ばした。
「アタシは、こんな所じゃ終われない」
ぶうん!
リディアの叫びと共に、畢生の魔力を込めた『レーエン』が縦横無尽に振り回される。リディアを遠巻きにしていた敵兵たちは次々とその餌食になっていった。
「下がれっ! 下がって弓で仕留めろ!」
隊長がそう言うと、敵兵はリディアから距離を取り矢を射かけようとする。
「そうはいかないよっ」
リディアは、最も敵兵が蝟集している部分に躍り込んで『レーエン』を揮った。
「味方に当たっても仕方ない、『炎の告死天使』をここで仕留めろ!」
もはや身近に一兵も味方がいなくなったリディアは、敵兵の海の中で雨と降り注ぐ矢になぶられている。
(アタシももう終わりだね。ザール、さよなら)
リディアが戦死を覚悟した時、敵兵の包囲が突然崩れた。
「大将軍、しっかりしてください!」
「援軍に参りました!」
「みんな、大将軍を包囲している敵を踏みつぶせ!」
そう叫びながら、ムカリ、バトゥ、トゥルイが得物を振り上げ襲い掛かって来た。
「まずい、みんな退けっ!」
敵の隊長は、形勢が不利になったと見て取ると、全員に退却の命令を出した。敵兵は潮が引くようにあっという間にいなくなった。
「待てっ、まだみんなの恨みは晴らしていないよっ!」
リディアはそう言って駆けだそうとしたが、急に身体の力が抜けて倒れてしまう。
「あっ、大将軍!」
「リディア将軍、気をしっかり持ってください!」
「陛下がお待ちですよ」
リディアは、ムカリたちの声を聞きながら気を失った。
リディアが目覚めたのは、サマルカンドの城内であった。
「目覚めたか。随分と長い眠りだったな」
「あ……ヘパイストス」
リディアの側に座っていたヘパイストスは、眉に怒気を含みながらも心配顔で言った。
「あまり心配をかけないでくれ。俺はお前に戦死してほしいがために『レーエン』を鍛えたわけじゃない」
しんみりというヘパイストスに、リディアは神妙な顔で答えた。
「……ゴメン、ビシュケクやタラズでのことを思ったら、ついね?」
「……お前の性格上、仕方ないんだろうが、俺たちにはヘルメスやワルキュリアがいることも忘れないでくれ」
その時、ザールがロザリアとガイを連れて入って来た。
「目覚めてくれたか。心配したぞリディア」
「あ、ザール……」
身を起こそうとしたリディアをザールは押し留めて言う。
「そのままでいい、楽にしておいてくれ。リディア、今回はよくやってくれた。君がわずか6万で敵の20万を食い止めてくれたおかげで、主力決戦の方は双方の兵力が伯仲し、敵を駆逐できた。今回の戦役第一等の勲功だ」
ザールの言葉を聞いてリディアは嬉しそうにしていたが、へパイストスは渋い顔をしていた。恐らく、猪突して危地に陥った妻を心配しているのだろう、ヘパイストスらしいとロザリアは思って微笑む。
「そこでじゃ、私と陛下で話し合った結果、リディア殿には断絶したジョージア伯を継いでもらい、大将軍の職を免ずることにした。あそこはヘパイストス殿の郷里も近い、二人で力を合わせてしっかりと守ってもらいたい」
「えっ、でも……」
突然の宣告にびっくりするリディアに、ザールが優しく言い添えた。
「リディア、ここにいる仲間はこの国を立て直した者ばかりだ。ホルン陛下とジュチはいなくなったが、僕はこの仲間を天寿以外の理由でもう失いたくない。君が大将軍でなくてもなお『炎の告死天使』ありと聞こえれば、敢えて諸国は我が国を侵さないだろう。ヘルメス殿やワルキュリア殿も大事にしてやるといい」
「ありがたき幸せです。きっと陛下の御意に沿い奉ります」
リディアが何か言うより早く、ヘパイストスがそう答えた。リディアは仕方なくうなずくと、ニコリと笑ってザールに訊いた。
「まったく、ザールはずるいよ。そういう風に言われたら断れないじゃんか。でもザール、アタシ、時間ができたら王都に来てもいい?」
ザールは笑って答えた。
「もちろんだ。王都はいつでも君を歓迎する」
★ ★ ★ ★ ★
こうして大将軍となったガイだが、その後も黒枠の歴史事項と戦争は続いた。
ザール在位23年には、大司馬として軍令を司っていたイリオン・マムルーク将軍が死んだ。イリオンはザッハーク朝で驃騎将軍だった男だが、守備していたバビロンを神聖生誕教団法王から説かれて放棄し、故郷のアンカラに戻っていたものをホルンが呼び出したものだった。
まだ57歳だったイリオンは、新年の祝賀会の席で前年にローマニア王国から亡命してきていたカラス・ガリニチャホフという将帥に刺殺されたのだ。これによってにわかに王国西方に暗雲が立ち込めた。
「速戦即決、『威の位』で敵の戦意を拉ぐに限る」
ザールはそう決断し、大将軍ガイに第11、第10、第13の3個軍9個軍団と『不死隊』や南スロベニア国軍を含めて20万余の大軍を与えてビザンティウムに配備し、ローマニア王国に外交的圧力をかけた。
この時の陣容は、大将軍ガイのほか驃騎将軍ジェルメ、車騎将軍ムカリが軍司令官として連なり、『不死隊』の指揮はアロー・テルが執り、南スロベニア軍の指揮は乞われて70歳の老雄『餓狼のガルム』たるガルム・イェーガーが執っていた。
軍団長クラスにもバトゥ、トゥルイ、ジェベ、バズ、アルム、フラグ、カサルといった『終末預言戦争』を戦い抜いたベテランたちが揃っており、ファールス王国の最盛期ともいうべき盛観だった。
結局、ローマニア王ヴラド6世はファールス王国の勢威を恐れて逃亡し、モルダエ河右岸はファールス王国の領有するところとなった。
しかし、この時漁夫の利としてモルダエ左岸を得たウラル帝国と境を接することとなったことが、後にウラル帝国皇帝アゼルスタン1世没後、両国間に軋轢を生むこととなる。
ザールの在位30年には、春先に大宰相ボオルチュが卒し、秋口には録尚書事ポロクルとチラウン、チンベというトルクスタン侯国以来の重臣たちが次々と亡くなっていった。
その隙を窺うかのように東方でマウルヤ王国が蠢動したが、ガイの機敏な処置とトリスタン侯国国主アリーの尽力で事なきを得ている。
それから毎年のように、東で、あるいは西で小競り合いが起こったが、ファールス王国は微動だにしなかった。
「ザール陛下のご在位25年から35年までの10年間は、ファールス王国最高の時期だったと言っても過言ではないと思う。気候も良く作物も実り、兵乱も起こらず、周囲の国も比較的平穏だった。諸君はあまり魔物などと遭遇したことはないだろうが、それもザール陛下と次のロスタム陛下のご尽力のたまものだ」
ガイはそう言うと、実質的にザールの最後の作戦行動となった戦役を話し始めた。
ザール在位40年目、64歳となったザールは、ガイやロザリアなど近しい人物たちを側に呼び、昔話をしていた。
「余もすっかり歳を取った。ここにリディアとヘパイストスはいないが、二人はジョージアで元気に過ごしているようだ。ホルン陛下やジュチとは会えなくなって久しいが、二人とも元気でいるだろうか?」
「きっとお元気でしょう。今のような世の中が来たことを陰ながら喜んでいらっしゃるに違いありません」
ガイが言うと、ロザリアも白い髪を揺らしながら言う。
「そうです。陛下の周りを見てください。魔族である私、アクアロイドのガイ、ジーク・オーガのリディア、ドワーフのヘパイストス……種族の違う者たちがそれぞれに解りあい、力を合わせる世の中を陛下が招来されました。私たち、ジュチやホルン陛下も含めて、皆の理想が実現したのです」
それを聞きながらうなずいていたザールは、傍らに佇立した精悍な男に笑って声をかけた。
「ロスタム、そなたも立派になった。近ごろのトルクスタン侯国の様子はどうだ?」
するとロスタムは銀色の髪に翠の瞳を輝かせて答える。ザールには、その顔が記憶の中にある誰かの面影と重なった。
「はい、山賊などの被害はここしばらく聞いていませんが、どうやらダイシン帝国から魔物が流れてきているようで、特にアイニの町以東は少し危険な状態です。討伐隊を出していますので、報告があり次第お知らせします」
「アイニの町か……ティムール殿は亡くなって久しいが、ガルム殿やリョーカ殿はどうしているだろうか?」
ザールが訊くと、ロスタムは顔を伏せて答えた。
「ガルム殿は昨年、86歳で亡くなられました。リョーカ殿はまだお元気です。今回も討伐隊を率いてもらっています」
それを聞くと、ザールは沈痛な顔で
「そうか……『餓狼のガルム』にもついぞその時が来たか……」
そうつぶやいたが、すぐに顔を上げて言った。
「リョーカ殿を見舞うとともに、ガルム殿の霊にも額づきたい。ロスタムよ、余もそなたと共に久しぶりに戦いの庭に出てみよう」
ザールは、ガイやロスタムと共にサマルカンドへと向かった。ロザリアは体調を崩してイスファハーンに残ることになった。
アイニの町を拠点として街道に巣食った魔物たちの討伐戦を展開したザールたちは、一月ほどの戦いで街道の安全を概ね確保した。ザールは『白髪の英傑』と呼ばれた往年そのままにその雄姿を見せつけたし、ロスタムもまた父ザールに劣らぬ活躍を見せた。
「これでしばらくはこの方面に憂いはない。東方を頼むぞ」
ザールはロスタムにそう言ってイスファハーンに戻ったが、その彼に衝撃的な知らせが届けられた。
王妃ロザリアの危篤である。
ロザリアはザールの出発前に体調を崩していたが、半月ほど前急に容態が悪化して人事不省となった。
「陛下が間に合われればいいが……」
大宰相となっていたフラグ以下群臣が心配する中、ロザリアは昏々と眠り続けていた。
しかし、帰還したザールが
「ロザリア、僕だ。分かるか? 一人にして済まなかった」
そう言う声を聞いて目を開け、ニコリと笑うと、
「無事に戻って来られましたな。心配しておったんじゃ」
そう、細い声で言った。
ザールは、ロザリアの手を握ると、
「僕こそ心配したぞ。まだ僕らの夢は道半ばだ。しっかり養生して、早く元気な笑顔をみせてくれ」
そう言った。
ロザリアは薄く笑うと、力のない目でザールを見つめ、
「私は、長い間『毒薔薇の牢獄』によって数多の魔物や魔族を始末してきたが、その毒が私の寿命を縮めたのじゃ。これは術者の宿命とも言うべきもので、別に私はそのことを後悔してはおらん。けれど、私はザール様に長いこと嘘をついておった……」
そう言う。
「気の弱いことを言うな! きっと良くなる」
ザールがロザリアの手を強く握りながら言うが、ロザリアは首を小さく振って、
「陛下、私の口元にお耳を……」
そう言うので、ザールはロザリアの言うとおり、耳をロザリアの口元に持っていった。
ロザリアが何かをささやくと、ザールはびっくりした表情で思わずロザリアを見つめた。よっぽどのことらしく、ザールはあまりの衝撃で言葉を失っていた。
ロザリアはザールの顔を見つめてニッコリと笑うと、
「……秘密にしておいてくれと頼まれておったが、これを心の中にしまったままあの世とやらに行くのは気が引けての? ザール様はあのお方のことをずっと愛しておられたからのう」
そう、諦めと嫉妬がない混ぜになったように言う。
ザールは少しの間目を閉じていたが、ロザリアの手を握る手に力を込めて、
「僕は、君を選んで正解だったと思っている。運命は君と結ばれていた、そう思うようになったんだ。これは諦めではなく、運命を受け入れたんだ。ホルンと同じようにね?」
微笑んでそう言う。その笑みには諦念や負け惜しみと言った色はなかった。
ザールはロザリアの手を包み込むように握りしめて続けた。
「君には、僕の気持ちに疑念を抱かせ、不安な思いをさせたことを謝罪する。でも僕は、君という存在は王妃としては言うに及ばず、仲間としてもかけがえのない、得難い存在だったと思っている。愛しているよ、ロザリア」
その言葉を聞いて、ロザリアは肩の力が抜けたように微笑むと、ザールを慈しむような目で睨んで、
「最期にその言葉をくれるとは、優しい人じゃな、ザール様は。優しい嘘つきじゃ。私はザール様がそう言うお人じゃと知っておった。そう言うお人じゃから好きになったのじゃ……私は、幸せじゃった……」
そう言って眠るようにこの世を去った。その顔はまるでまだ20代の乙女のようだったという。享年62歳だった。
★ ★ ★ ★ ★
「ロザリア妃が亡くなって以降、ザール陛下は急に老い込まれた。そして3年後に崩御あそばされた」
ガイはそう言って目を閉じる。その脳裏には、その日のその場面が影絵のように浮かび上がっていた。
王国暦1620年花咲き誇る月、王都イスファハーンは重苦しい雰囲気に包まれていた。
死を覚悟したザールは、大宰相フラグ、録尚書事カサル、そして大司馬ムカリ、大将軍アローを一人一人召して後事を託した。
そして群臣と共にロスタムを近くに差し招き、
「そなたはもう、この国を統べるに十分な力量と貫禄がある。父は徳が薄かった、父の真似をせず、よき臣下と共に国民の声を聞きつつ王国を運営せよ」
そう言って正式に後継者として宣言し、
「リディア、ガイ、君たち二人だけ残ってくれ。その他の者はみな、席を外してくれ」
そう言って人払いをした。
部屋に三人だけになると、ザールはまずリディアを見つめて微笑んだ。
「リディア、君とはドラゴニュートバードで出会って以来、ずっと助けてもらった。感謝の言葉もない。ここにジュチやヘパイストス殿がいないのは残念だが、ロスタムを助けてくれればありがたい」
リディアは、群臣がいなくなるとずっとすすり泣きをしていたが、ザールの言葉を聞いてついに耐え切れなくなったのか、ザールの首っ玉にしがみついて泣き出した。
「うえっ、ひっく、ヘパイストスも死んじゃって、アタシはザールのために死のうと思っていたのに、ひっく、なんでアタシ、ジーク・オーガなんかに生まれちゃったんだろう」
ザールはリディアの髪を優しくなでながら言った。
「泣くな、これが摂理だよ。遅かれ早かれ誰もが迎える結末だ。君たちは僕たち人間より長い時間を与えられている。僕は一緒に夢をかなえてくれたみんなをあの世って所で待っている。だから天寿を全うしておいで」
そしてガイに目を向けて言った。
「ガイ、君やリアンノン殿をはじめアクアロイドの皆が尽力してくれたことは忘れない。アクアロイド、ジーク・オーガそしてハイエルフはこの国の大切な仲間たちだ。そのことはしっかりとロスタムにも伝えておいた。あの子を善導してくれ」
ガイはゆっくりとうなずいた。無言のままだったが、ザールにはその然諾で十分だったらしく、不意に大きなため息をついて、
「ああ、人生は過ぎゆく風を戸の隙間から眺めるに等しいと聞くが、今思うと僕は幸せだった。ここにジュチがいてくれたら彼にも託したいことがあったが、それも詮方ない。あの世でジュチをとっちめてやることにしよう」
その言葉とともに、ザールの左腕は『魔力の揺らぎ』を噴き出し竜の腕と化した。
「……この能力ももう、プロトバハムート様にお返ししなければな」
ザールがそう言うと、一瞬、左腕はまぶしい光を放ち、その光が消えた時、彼の左腕は人間のものに戻っていた。
ザールはまた一つため息をつくと、二人をじっと見つめて一言、
「さよなら、二人とも元気で……」
そう言うと、後はもう、リディアが何を言っても答えなかった。
これが、ファールス王国最高の王と言われる『白髪の英傑』、ザール・ジュエルの最期であった。享年67歳。
ザールの殯も済み、ロスタムの即位と立て続けに行事が続いたが、シェリル伯に任じられたガイは即位式が済んだ後、懐かしいシェリルの町に戻っていた。
「あの戦いが始まったのが王国暦1576年だった……もう45年も経ったか……。姉上がいなくなられてから45年か……この町も変わるわけだ」
ガイが自分の部屋から、シェリルの街並みを眺めてつぶやく。最初は小島のように海上要塞としてつくられたこの町も、今ではその名の元になった対岸のシェリルの丘まで取り込んだ大きな都市になっていた。
「変わるのが摂理なら、変転が不変であるという『摂理の矛盾』を感じないかい?」
不意にそう言う声がして、ガイの背後に金髪碧眼の美男子が姿を現した。
「おや、びっくりしないのかい? さすがはガイだよ」
「そなたがそこにいることは、10分前から気付いていた。いつ姿を現すかと待っていたところだ」
ガイは振り返って言うと、彼にしては優しい光を瞳に表して言った。
「ようこそ、ジュチ。私は君を一度シェリルにご案内したかったんだ。探す手間が省けたよ」
「どういたしまして。でもボクはすでに何度かこの町にはお邪魔しているよ。ザールの15年と35年の時にね」
ジュチが言うと、ガイは薄く笑って訊いた。
「8年前と28年前か……ここは変わっただろう?」
ジュチは肩をすくめて答える。
「そうだね、いい意味では活気が出て来た。人間がいるからだろうね。悪い意味ではせせこましくなった。これも、人間がいるからだろうね」
その言葉の裏に秘められたジュチの想いに気が付いたガイは、沈痛な顔で言った。
「ザール殿がいなくなって、この国は我ら人外の者たちを受け入れなくなっていくだろうな」
ジュチは片眉を上げる彼独特のしぐさでそれを肯定して、驚くべきことをガイに告げた。
「それは仕方ないね。ホルン陛下もお亡くなりになったよ」
「なに!? それはいつだ? どうしてそれを知っている?」
驚いて立て続けに訊くガイを、ジュチは両手を上げて制して、
「まあまあ、順を追って説明するから……まず、お亡くなりになったのはザールの殯が済んだ3日後だ。姫様はザールが死んだことはご存じだった……」
「お前はホルン陛下の居場所を知っていたのか?」
ガイの言葉に、ジュチはニコリと笑って答える。
「いや、姫様の居場所をはっきりと知ったのは、姫様が用心棒を引退された後だ。それまでは姫様がこの国の王位を捨てて用心棒をされていることは知っていた程度さ。一時期ウラル帝国やダイシン帝国の事件に巻き込まれたこともね? 君も、ウラル帝国の事件の時は活躍したみたいだね」
ガイはうなずいて先を促す。
「姫様は晩年、ドラゴニュートバードに住まわれていた。ボクの『妖精の里』とドラゴニュートバードの境辺りだ。『風採りの小道』が『星拾いの丘』に分岐する近くだったな。
ボクが姫様と会ったのは25年ぶりだった。誰にも居場所を話してくれるなと言われたから、ボクはその約束を守ったんだ……」
「それで?」
ジュチは遠くを見るような目でしばらく黙っていたが、ぱちぱちと目をしばたたかせると、
「……うん、ボクがザールの訃報を知らせに行くと、姫様はすでにそのことを知っておられた。その時姫様は、
『知っています、ザールの波動が消えましたから。ザールにも摂理が訪れたんですね』
と言って寂しそうな顔をされたのを覚えている。けれどそれも一瞬のことで、すぐに薄く笑って言われたんだ。
『私にも、摂理はもうすぐそこまで迫っています。本当は私、ザールと同じ時に逝きたかったけれど、そこまでのわがままはプロトバハムート様もお聞き届けになってくれなかったみたいだわ』
そしてボクに、髪留めを外して言われたんだ。
『ジュチ、これをザールの廟に供えてくれないかしら? あの人から貰った大切なものだから、私はこれを彼に返したい。そしてできるなら、あの世でもう一度、あの人から手渡してもらいたいの』ってね」
「……そしてそれを?」
ガイが訊くと、ジュチはうなずいた。
「姫様なりの優しさだろうね。おかげでボクもザールにさよならが言えた。ボクが姫様の所に戻って首尾を復命すると、姫様は座ったまま微笑まれて、
『ありがとうございました。ザールは私にとって運命が与えてくれた人物でした。そしてジュチ、あなたやリディア、ロザリア、ガイ、ヘパイストス、リアンノン、オリザ、そしてゾフィー殿……みんな運命の導きの中で私に摂理を教えてくれた人々です。私はみんなを忘れません』
そう言われて、パッと光を放たれたんだ。ボクが目を覆って、再び目を開けた時、姫様はすでに椅子に座ったままザールのもとに旅立っておられた……とても……神々しかったよ……」
ジュチは泣いていた。ガイもそれを見て目を伏せる。一つの時代が終わったことを、彼らはひしひしと感じていたのだ。
「……そなたはこれからどうするつもりだ?」
長い時間の後、ガイがそう訊くと、ジュチは疲れたような顔で笑って答えた。
「姫様もザールもいなくなった。久しぶりにアルテミスの所に戻るよ。ボクの摂理もそこで終わりを迎えるだろうね。つまらないことだけれど」
「30年以上もほっぽッといて、『久しぶり』は凄いな。アルテミス殿はずっとお前を待っていた。せいぜい大事にしてやることだな」
ガイが言うと、ジュチは不思議そうに訊いた。
「キミは、ボクがどこで何をしていたのかを全然聞かなかったね?」
ガイはそっけなく答えた。
「お前は『世界で最も優秀なハイエルフ』だ。そのお前がすることを詮索するつもりはない。そのうち何かの形でその理由とやらは判るだろうからな」
それを聞いて、ジュチはあの機嫌のいい時の笑い方をして、
「ははっ、じゃあせいぜいボクもアルテミスと共に世俗に塗れよう。摂理の時が来たら、ザールにとっちめられそうだからね?」
そう言って消えて行った。
★ ★ ★ ★ ★
「……摂理の時か……その時が来るまで、私は私の道を進むだけだ。この国のあちこちに、私の思い出が散らばっている。その道標をたどっていけば、いつかは私のしたことが正しかったかどうか分かるだろう」
ガイは、部下たちが出て行った帷幕の中で、一人そうつぶやいて笑った。ファールス王国3代の王に仕えて来た彼には、変わって来たものも変わって行くものも、みな一様に真実だった。そして、彼はふと思い出した。
『変わるのが摂理なら、変転が不変であるという『摂理の矛盾』を感じないかい?』
と言うジュチの言葉を。
「『不変のものは何もない』……それが普遍かつ不変の摂理なら、確かにジュチが言った言葉は矛盾を感じるな」
そうつぶやいたガイは、窓から差し込んでくる月の光の中で、空の月を見つめてつぶやいた。
「お互い、長く生きる者の哀しさだな、ジュチよ」
(サイドストーリー・追憶の道標 完)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
主要人物のその後、特に最期の模様を書くのは正直迷いました。
彼らの人生については、作品の構想段階でおおよそ決めていたのですが、実際に文字にすることは作者として一つの賭けではあります。
特にホルンについては今後、彼女を主役とする次の作品を書き始めていますので、作品の中でホルンがどんなに窮地に陥っても、『その後』を知っている方にとっては『予定調和』になりますから。
けれど彼女らの『最期の様子』を知っていただいたうえで、そこに至るまでの生き様を書けたらいいなと思い、自分への宿題のつもりで書きました。
できれば、ご意見をいただけたら幸いです。
次回は、『時空の約束』として、ジュチとゾフィーについて書きたいと思っています。お楽しみに。




