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青き炎のヴァリアント  作者: シベリウスP
62/70

サイドストーリー 魔弾の王妃

ロザリア・ロンバルディア。

『ザール一筋』の魔女にしてホルン陣営の謀将。

彼女と、トリスタン侯国公認魔道士であるゾフィー・マールの出会いと修行の日々を書いてみました。

 その日、いつもどおり私は、空が白み始めると同時に宿舎から王宮の中庭に出た。その日の朝は、夏が近づいているというのに深い霧が中庭にもかかり、10ヤード先も見通せなかった。


 けれど、私にはそんな世界の方が気が休まって好きだった。


 私は昔の癖で、というよりも性分で、時々人と会うのも億劫になる。そんな時は長く暮らしていたカンダハールの街並みや、山中にある我が家を思い出しながら、自分の部屋に籠るのだ。


「ふむ、今朝は珍しいほどに霧が濃いな。こんな時はベンチに腰かけて師匠のお言葉でも思い返してみるか」


 私はそうつぶやくと、折よく視界に入って来たベンチに腰かけた。ベンチは霧の水分を吸ってしっとりとしていたが、そのひんやりとした感触も悪くはない。


 私の名は、ロザリア・ロンバルディア。ホルン女王様のもとで録尚書事ろくしょうしょじという職に就いている。


 何、録尚書事とは何をする職じゃと? この職は女王様の発する勅書の起草やその執行に責任を持ち、配下の諸卿を監督する……と言うと聞こえは良いが、要するに大宰相に納まりくさったクズエルフ・ジュチの尻ぬぐいと言ったところじゃ。


 先の機構改革で、それまで大宰相兼大将軍としてこの国の政治と軍事、両面の重責を担っていたザール様は、『相国』という地位に登り詰められた。人は『位人臣を極めた』とか、『それまでのご心労に対するご褒美』と言うが、私にはこの人事には女王様の隠された意思があると感じていた。


「そう言えば、近ごろの女王様はおかしいのう……」


 私はふと、昨日の上奏時の光景を思い出してつぶやく。ザール様は相国となられてからは常に女王様の側に近侍し、女王様の相談相手のような恰好であったが、その日は珍しくザール様が上奏を受けられていたのだ。


「本日は女王様はいかがなされたのじゃ、ザール様?」


 私が訊くと、ザール様は訝し気に首をひねって、


「さあ? 急に『今日の上奏は相国に聞いてもらっていて』とだけ言われたらしい。侍女が伝えに来たから急いでお部屋に伺ったら、もぬけの殻だった。コドランに聞いても行き先は教えてくれなかったんだ」


 そう言う。そう言いはしても、ザール様にあまり心配の色は見えなかった。

 それはそうであろう、女王様は元『王の牙』筆頭デューン・ファランドール様の薫陶を受け、ご自身10年以上も辺境で『用心棒』として鳴らした武辺者であるし、この度の戦乱でも常に前線で槍を揮ってこられたお方である。そんじょそこらの戦士では勝負にはならないはずであるから。


 けれど、私はザール様のその言葉の中に、妙に女王様への親密さが表れているようで気に障った。あくまで噂ではあるが、女王様はザール様と『ご昵懇じっこんの仲』であらせられるらしい……覚悟はしていたと言っても、ザール様のお妃の座を狙っていた私には、結構なショックではあった。


(ふん、結婚前に独り身を楽しんでおられるのかも知れんな。今までご苦労が多かった身の上じゃ。お嬢様扱いすらなかなかしてもらえなかったお方にとって、今が一番幸せなのかもしれん)


 私はそう思うと、女王様とザール様の幸せを祈る気持ちにもなれた。


「……独身最後の楽しみを満喫しておられるのじゃろうて。臣下にはザール様はじめ信頼できる者も多いし、女王様は結構激職じゃからな。せいぜい大事にして()()()()()やるとよい、ザール相国様」


 祈る気持ちにもなれたが、やはりつい皮肉が出てしまうのは悪い癖じゃ。

 ……いかん、せっかく霧の中にいるのじゃ。もっと建設的で明るいことを考えねば……私はそう思いながら、昔のことを思い返した。


     ★ ★ ★ ★ ★


 カンダハールはファールス王国の東側にある都市の中では、トルクスタン侯国の首府があるサマルカンド、重要な軍港であるカラチに負けず劣らず賑わっている。

 それは、その地がトリスタン侯国の首府であるとともに、王都イスファハーンからマウルヤ王国への道と、カラチからサマルカンドに続く道が交差しているからでもある。


 そのカンダハールの西の外れ、山の中腹に、一軒の洋館が建っていた。この地方には珍しい木造で、建築様式や意匠もこの地域の物ではなく、むしろ大陸の西にあるイス王国の様式に似ていた。


 その洋館には、二人の少女が暮らしていた。二人とも長い黒髪に黒曜石のような瞳を持ち、一人は14・5歳、もう一人は17・8歳だった。

 一見すると姉妹のように見える二人だが、どうもそうではないらしい。その証拠に、14・5歳の少女が安楽椅子に座って古い本を読んでいるのに対し、17・8歳の娘は掃除をしたり、食事を作ったりと忙しなく働いていたからである。


「お師匠様、お昼ご飯ができましたが……」


 娘は、湯気の立つ器を持って、読書にいそしんでいる少女に静かに声をかける。少女は難しい顔のまま、左手で側にある机の上を指さした。


「冷めないうちにどうぞ」


 娘は呑み込み良く、器を机の上に乗せる。器から芳しい香りが広がり、それは少女の鼻腔をくすぐったらしい、少女はふと顔を上げて娘に訊いた。


「ロザリア、この料理はえらく美味うまそうじゃな。いったい何と言う料理じゃ?」


 するとロザリアと呼ばれた娘は、口角を少し上げて言った。この娘にとっては、これが笑顔のつもりらしい。


「毒マッシュルームとヒトカゲのスープです。昨夜、お師匠様が食べたいと仰っていましたので……」

「わざわざ狩りに行ったのか? 毒マッシュルームはともかく、ヒトカゲはこのところここら辺ではとんと見なくなっておったが……」


 少女が目を丸くして言うと、ロザリアは薄く笑ったまま首をかしげて答えた。


「お師匠様がご存知かどうかは知りませんが、一月ほど前に東の山に巣食っていたグリズリの群れが退治されまして、そのおかげで今度はヒトカゲがはびこりだしました」

「その噂は聞いておる。何でも『無双の女槍遣い』とやらがグリズリ100頭を一人で始末したそうじゃの?」


 少女はそう言うと、話の方に興が乗ったのだろう、本を閉じると机に向かい直し、


「せっかくの料理じゃ。そなたもここで食事をするとよい」


 そう言ってロザリアに自分の食事を持ってくるように促す。ロザリアはうなずくと、音も立てずに次の間へと消えた。


(ふむ、ロザリアをこの屋敷に引き取ってから6年になるが、なかなか術式の呑み込みは早い……けれどまだ精神が落ち着いておらんようじゃな)


 少女がそう思っていると、ロザリアは出て行った時のように音もなく食事をもって来て、音もなく椅子に腰かけた。


「では、いただこうかの……うむ、これは旨い。毒の苦みがヒトカゲの甘みと良くマッチしておるのう。ロザリア、そなた、いつでも嫁に行けるぞ」


 スープを一口飲んだ少女はそう笑って言うが、ロザリアは姿勢を正して静かにスープを飲んでいる。その端正な顔には表情が見えず、およそ感情の動きをそこから読むことはできない。


「……私は結婚そういうことには興味はございません」


 そっけなく言うロザリアだが、少女はロザリアの心の動きなど意に介さないように、


「まあそう言うな。私と違ってそなたは生粋の乙女じゃ。恋をすればさらに美しくなるし、術式も見えていない部分が分かってくるぞ」


 そう言って毒キノコを頬張る。

 ロザリアは一つため息をついて、少女に訊いた。


「お師匠様も、『恋愛』などという無駄な経験をされたことがございますか?」


 すると少女は、うっとりとした顔をして答えた。


「うん、またこのヒトカゲの肉が良い具合にホロホロになっておるのう、一緒に煮込んだユウガオに良く染みておる……と、私が恋愛をしたことがあるかと訊いたかの?」


 少女は、ロザリアが冷たい目でこちらを見ていることに気付き、慌ててそう言った。ロザリアは静かにうなずく。


「はい、仮にもこの国で一番の魔導士であるお師匠様が、『恋愛』などと言う腑抜けた経験をされたことがあるとは信じられませんので」

「ふむ……ロザリアは『恋愛』については無駄なものと理解しておるわけじゃな?」

「はい、そんな暇があれば術式について考えているほうがマシです。ましてや結婚など、赤の他人の男をどうして自分の貴重な時間を割いて世話をせねばならないのでしょう? 理解に苦しみます」


 ロザリアは黒曜石のような瞳を持つ目を細めて言う。


「うむ、ロザリアの気持ちは良く分かった。恋愛とは経験ではあるが、他のものと違って運命というものが介在しておるものじゃから、私はロザリアに対して無理に恋愛をしろとは言わぬ。その時が来たら、嫌でも心は動くものじゃからな」


 少女がそう言うと、ロザリアは首を振って言う。


「そんな時が私に来るとは思えませんが……時にお師匠様の恋愛とは?」


 すると少女は頬を桜色に染めて慌てて答えた。


「あ~、それは、なんだ。私はこの世に生きること久しすぎて、数多あまたの男を愛したことだけは覚えて居るが、それぞれの詳細なエピソードは記憶の霧の彼方じゃ。おいおい思い出したら話してやるとしよう」

「そうですか」


 ロザリアはそう言うと、自分の食器を片付けだす。そして少女の器にまだスープが残っているのを見ると、


「お食事が終わりましたらお知らせください。下げに参りますから」


 そう言うと、静かに部屋を出て行った。


(ふむ、ロザリアは心を開けば、もっと術式にも厚みが出るのじゃが……惜しいのう)


 少女はため息と共にそう思い、スープの残りを口に放り込んだ。



(ふん、『恋愛』か……)


 ロザリアは、師匠の食器を片付けた後、庭の掃除をしていた。

 春先の庭にはローズマリーやその他の魔術に使う植物がぞんざいに植えられているが、あちこちには飛んできた種から生えたのだろう、さまざまな雑草が花を競わせていた。


 ロザリアとて多感な少女である。花の美しさに心が動かないわけではない。けれど、


「ふふ、私が触れば、花はすぐにしおれてしまうものね……まだお師匠様のような術式が扱えないうちは、おちおち花にも触れないわね」


 そうなのだ。彼女は小さいころから気付いていた。花冠を作るために花を摘んだら、他の女の子と違って花はすぐにしおれ、枯れてしまうことに。

 最初は不思議に思っていたが、他の女の子たちからは気味悪がられ、10歳のころには『死神の子』などという噂を立てられたこともある。


 父も母も彼女を気味悪がり、特に母は、姉のアザリアや妹のラザリアほど彼女には構ってくれなかった。もっとも父の方は、ロザリアの能力ちからが『闇』のエレメントによるものだと分かってからは、そうでもなくなったが。


 『死神』というあだ名をつけられて以降、ロザリアを襲った最も大きな出来事は、母の死と、それにまつわる暗い記憶だった。彼女はそっと首筋に手を当てて思う。本当は母こそ重い荷物をずっと心に抱えていたのだろうということを。


『あんたなんか、生まれて来なければよかったのよ!』


 ある晩、寝ていたロザリアは、不意にそう言う罵声と、誰かが身体の上にのしかかって来た重さで目覚めた。


「え? お、おかあ……ぐっ」


 ロザリアを押さえつけていたのは母だった。かなり酩酊しているらしい母は、苦しがるロザリアの首に手を当てて、強い力で押さえつけ始めた。


「……あっ、お母様、何していらっしゃるんですか!?」


 物音を聞きつけてアザリアが部屋に飛び込んでこなかったら、ロザリアは今こうしているかは分からない。

 結局、母は病気として実家に戻され、その後ある事情で父母が離婚した後、実家でひっそりと息を引き取ったらしい……『らしい』と言うのは、そんな事件があってしばらくの後、ロザリアは今の師匠に引き取られたからだ。



 それは、ロザリアが12歳の時だった。


「ここに、ロザリアという子がおるな? ロンバルディア殿」


 どう見ても14・5歳の少女が、ロザリアの家を訪れた。


「はい、ロザリアは私の次女ですが、あなたは?」


 ロザリアの父は、相手の少女のような見た目に惑わされず、その老成した雰囲気や威厳というものを敏感に感じ取り、そう丁寧に答えた。

 父の丁寧さに、少女も満足したのだろう、至極上機嫌に名乗ったそうだ。


「私はゾフィー・マール。ロザリアを私の弟子に請い受けに参った」


 それを聞いて、父は光栄に感じた。

 ゾフィー・マールと言えばトリスタン侯国公認の魔導士で、その魔法の能力には時の国主アリー・トリスタン候も絶大な信頼を寄せていたからだ。


 ゾフィーは少女に見えるが、それはあまりにも強大な魔力のために歳を取らないからだと言われており、すでに300歳は超えていると噂されているほどの人物だった。そんな人物の弟子になることは、ロザリアの将来にとっては絶大なプラスとなるだろうし、それでロザリアのコンプレックスが解消されるなら、願ってもない幸運である。


 しかし父は、同時にロザリアの身を心配した。ロザリアは表情に乏しく、感情の表出がない。それは事件後さらに顕著になり、それに輪をかけたのが自分の出生の秘密を知ったことであったろう。そんなロザリアを今、ゾフィーの弟子としたならば、ロザリアには家族から捨てられたと受け取られるに違いなかった。


 父が逡巡していると、ゾフィーはニコリと笑って、


「ロザリアは12歳になったと聞くが、普通は魔法の修行には遅すぎる歳じゃ。しかしロザリアならば今からでも十分に間に合う。私が話をしてみるから、本人に決めさせたらどうかな?」


 そう言ったので、父は仕方なくロザリアを呼んできた。


「おお、そなたがロザリアか。うむ、よい『魔力の揺らぎ』じゃ」


 ゾフィーはロザリアを見て、感に堪えないようにそう言う。ロザリアは、自分の『闇』のエレメントについて大っぴらに褒められたことがなかったため、何も答えずに恥ずかしそうにしていた。


「私はゾフィー・マール。今日ここに参ったのは、そなたに私の弟子になってもらいたいからじゃ」


 ゾフィーの名乗りを聞いて、さすがにロザリアもびっくりした顔をする。まだ年端もいかないロザリアでも、国一番の魔導士の名は聞き知っていた。


「……私は、そんな能力なんてありませんけど……」


 やっとのことでロザリアが言うと、ゾフィーは笑って言う。


「能力なぞ、最初はだれでもひよっ子と同じじゃ。それを磨いてこそ、物の役に立つ魔導士になれる。そなたには私の跡を継げるほどの『魔力の揺らぎ』が見える。それが、私がそなたを弟子に所望する理由じゃ」


 ロザリアはチラリと父を見た。ひょっとしたら父の差し金かも知れないと勘繰ったのだ。けれど、父は術式を研究してはいるもののゾフィーに目をかけられるほどの魔導士ではない。父がゾフィーに手を回すことはあり得ない……父が困惑した表情をしているのもその証拠であった。


「私のエレメントは『闇』だそうです。それでもいい魔導士になれますか?」


 ロザリアが最も気にしていることを訊くと、ゾフィーは驚くべき答えをした。


「うむ、知っておる。私のエレメントも『闇』じゃからの。けれど『闇』の魔法でも、このくらいのことはできるのじゃよ」


 そう言うと、ゾフィーは玄関の花瓶に活けられていた花を一輪、その手に取った。その花はすでに折れ萎み、花びらも散っていた。


 ゾフィーはその花柄を無造作に切り取ると、『魔力の揺らぎ』をその手に込める。すると、切り取られた花柄が再生し、瑞々しい花を咲かせた。


「驚くことはない。『闇』はすべての始まりで、その性質は『混沌、平安、破滅、再生』じゃ。私は『闇』のエレメントでしかできぬ術式を誰かに引き継ぎたいと常々思って居ったのじゃ」


 ロザリアは、ゾフィーの術式を見た瞬間、


(この方の弟子になろう)


 と決心した。今まで自分を苦しめて来た理由の一つ、『闇』のエレメントに希望を見出したからだった。


「……私、ゾフィー様の弟子になります……」


 ややあって、小さいながらもしっかりした声でロザリアは言うと、父を見て続けた。


「……その方が、父も姉も妹も、気が楽でしょうから……」

「ロザリア……」


 父は何か言いかけて、哀しげな顔で黙ってしまった。


「……では、ロザリアはこのまま私の家に連れて参る。食事や着替えなどは心配せんでもいい。どうしても届けたい物があれば言うとよい。後で遣いの者を寄越そう」


 こうして、ロザリアはゾフィーの弟子となったのだった。


     ★ ★ ★ ★ ★


 ゾフィーの弟子としての暮らしは、ロザリアにとって楽しいものであった。

 何よりもまず、自分の能力について誇りが生まれたことが挙げられる。それまでのロザリアは、自分が『闇』のエレメント持ちだということをできるだけ隠したがっていた。


「それは『闇』と言う響きによって生まれた誤解じゃ。稀に『光』のエレメントを持つ者がそれを自慢したがるのと同じじゃな。『光』の性質は『発生、育成、爆発、破壊』じゃから、考えようによっては『闇』よりも質が悪いのじゃがのう」

「どういうことですか?」


 ロザリアが不思議そうに訊くと、ゾフィーは逆に質問してきた。


「ロザリア、『闇』の性質はどうじゃった?」


 ロザリアはびっくりしながらも、おずおずと答える。


「はい、いつかゾフィー様は『混沌、平安、破滅、再生』と言われました」


 するとゾフィーはニコニコとしてロザリアを誉めた。


「うむ、よく覚えていたものじゃ。そなたは頭もいいらしいの」


 そして、噛んで含めるように教える。


「よいか、この世の始まりは闇じゃ。闇が混沌から平安を生み出し、そこに光があることで世界が生まれ育つ。光の力が強ければ爆発して破壊し、それきりじゃ。しかし闇の力が勝れば世界は冷え切って破滅するが、同時にそこには平安が準備され、再生への芽となる。一回きりだが爆発的な『光』と、穏やかだが再生のループがある『闇』、その性質ゆえに光は攻撃魔法に特化し、闇は攻撃・防御・再生魔法にまんべんなく利用できるのじゃ。もちろん、個々の術式は光魔法の方が何倍も強いがのう」


(私のエレメントは、『再生』に特化したいものだわ)


 ゾフィーの話を聞きながら、ロザリアはそう思ったものだった。



 ロザリアが15歳になったころ、彼女は思い切ってエレメントに関する自分の希望を述べたが、ゾフィーは笑って答えた。


「何でも知っておくことは大切なことじゃ。それに『再生』に特化するということはエレメントの制約を厳しくする。『破滅』がないと『再生』はあり得ぬし、『再生』のためにはそれに続く『混沌』や『平安』という特性が欠かせぬ。『再生』に特化したいというそなたの気持ちはよく分かるが、私は『再生』を出発点とした術式の編み込み方を工夫することを勧めるぞ」


 そう言うと、ゾフィーはロザリアに、


「ついて参れ」


 そう言って、家の裏手の山に入った。


「お師匠様、この辺りにはグリズリが出るという噂ですが……」

「分かっておる。私はそのグリズリに用があるのじゃ」


 おっかなびっくり言うロザリアをしり目に、ゾフィーはずんずんと歩を進める。やがてかなり森の深いところまで入って来た二人は、突如として異質の魔力を感じて立ち止まった。


「お、お師匠様。この魔力は……」


 ロザリアは、サメの肌で撫でられるようなピリピリした感覚に、思わず声を震わせる。これほどの“痛み”を伴う感覚は、その相手がかなりの魔力を持っていることを意味している。

 しかし、ゾフィーはその目を細めて、魔力がやって来る方向を漠然と見つめながら微笑んだ。


「遅かったの。しかしなかなかに大物のようじゃな」


 ゾフィーがそうつぶやいた時、魔力の来る方向とは直角の位置から、突然グリズリが飛び出してきた。大きい、体長は5メートルはあるようだ。その何物をも通さない毛皮は薄い黄色に光り、鋭いかぎ爪も黄色く光っている。


「グアアッ!」

「えっ!? お師匠様っ!」


 ロザリアは虚を突かれて叫んだ。彼女は魔力が来る方向ばかりに気を取られていたのだ。グリズリはその点では奸智に長けた魔物と言えよう。

 けれど、そのような小手先の目くらましは、百戦錬磨のゾフィーには利かなかった。


「ふふん、猪口才な。『茨の監獄』!」

「!」


 ロザリアは見た。ゾフィーの顔がまるで大人の女性のような艶めかしさを帯び、その髪の毛が噴き出す魔力によって風をはらんだようにふわりと膨らむのを。


「ガアアッ!」


 そして、突進してきたグリズリは、地面から黒い瘴気と共に生えだした茨の蔓に巻かれ、その自由を奪われていた。グリズリが動けば動くほど茨はきつく食い込み、やがて血みどろになって喘ぐグリズリを眺めていたゾフィーは、悪魔的な微笑と共に左手をグリズリに向けて言い放った。


「いい子じゃ、楽にしてあげよう」


 そしてパチンと指を鳴らすと、グリズリを捕らえていた茨の棘が1メートル以上に伸び、グリズリの肉を突き刺し、切り裂く、耳を塞ぎたいような音が響いた。


「グバアッ!」


 グリズリはただ一声挙げて絶命する。その様子をゾフィーは能面のような冷たい顔で眺めていた。


「……お、お師匠様……」


 ロザリアは、ぷんと鼻を衝く血の匂いに目の前が暗くなって、そう一言言うとぺたりと地面に座り込んだ。ゾフィーは右手をグリズリの死体に向けると、


「目障りじゃ」


 そう一言言って指を鳴らす。その途端、グリズリはまるで最初からそこにいなかったかのように消えうせた。


「お、お師匠様……」


 呆けたように座っているロザリアに、ゾフィーは優しい目を当てる。ああ、お師匠様のいつもの眼差しだ……ロザリアはそう思って、少し落ち着いた。


「グリズリには悪いことをしたが、おぬしには魔導士には冷酷さも必要じゃということを知っておいてほしくてな。刺激が強すぎたかもしれんが、悪かったな」


 そう言うと、ロザリアに手を差し出した。


「い、今の術式は、収斂術式でしょうか?」


 ゾフィーに支えられて立ち上がったロザリアは、やっとのことでそう訊く。術式以外のことを考えたら、恐怖で叫びだしそうだったからだ。


「ふふ、私が怖いかの?」


 ゾフィーにそう言われたロザリアは、再び地面に座り込んで、こくりとうなずいた。


「魔法の術式を扱っていると、自らの醜い面や怖い面が見えてくるものじゃ。それとどう向き合っていくかも大切になる。揺るぎない自己を確立しないと、魔力も術式も安定しないのじゃ。よく覚えておくのじゃぞ」


 ゾフィーは優しい声でそう言うと、


「あの術式は、収斂術式を縦糸にし、拡散術式を横糸に操作術式で編み込んだものじゃ。神をも呪縛する緊縛術式を編んでいる最中にたまたま出来上がったものじゃが、そなたに術式の体系を教えよう。編み込みの訓練にはちょうど良いからのう」


 と笑い、続けて真顔で諭した。


「あの技が惨いと思ったのなら、そなたの工夫で変えても良いぞ。ただし、編むからには()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それが魔導士としての宿命じゃ」


     ★ ★ ★ ★ ★


 それから3年が過ぎた。18歳になったロザリアは、自分なりの術式を完成させつつあった。それだけではなく、彼女はゾフィーの家にあった蔵書をことごとく読破し、


「ふむ、知識の量に関してはそこらの魔導士は裸足で逃げ出すじゃろうな」


 とゾフィーに言わしめるまでになっていた。


 けれど、その3年間は、ロザリアにとって最も厳しい期間ともいえた。


『魔法の術式を扱っていると、自らの醜い面や怖い面が見えてくるものじゃ』


 ゾフィーはそう言ったが、ロザリアもこの時期、その意味するところを痛感する出来事が起こっていたのである。



「ゾフィー殿はおられるか?」


 ある日、一人の男性が洋館を訪れた。歳は30前後で、精悍な顔に整った口ひげを生やしている。

 着ているものもかなり上等なもので、全体的に品が良いものだった。


「おお、アリー殿か。急に何用じゃな?」


 箒を手にしたロザリアが答える前に、たまたま玄関から出て来たゾフィーがそう言う。相手はトリスタン候であった。


「実は、そなたに頼みごとがあってな……」


 トリスタン候が眉を寄せて言うと、ゾフィーは心得顔にうなずいて、


「では、屋敷に進んでもらおう。ロザリア、そなたはお茶の準備じゃ」


 そう言うと、トリスタン候もお供に向かって


「お前たちはここで待っておれ」


 そう言い残し、屋敷へと入って行った。


 ロザリアが紅茶を客間に持って行くと、二人はちょうど世間話を終えたところだったらしい。話の本題に触れようとしたトリスタン候が、ロザリアの姿を見て口をつぐんだ。


「ゾフィー殿、この娘は?」


 とってつけたように訊くトリスタン候に、ゾフィーは悪戯っぽくロザリアを紹介した。


「私の弟子じゃ。ここに来てもう6年になるかのう。なかなか筋がいいので、ゆくゆくは私の跡を継ぐだろうと楽しみにしておる逸材じゃ。そなたの毒牙にはかけさせんぞ?」


 そう言って笑うゾフィーに、トリスタン候も笑って抗議する。


「おお、余は確かに女性は好きだが、ゾフィー殿のお弟子にまで手を出すような男ではございませんぞ?」

「それは重畳、この娘はロザリア・ロンバルディアと言って、ロンバルディア三姉妹の次女じゃ。長女ならそなたの相手に相応しいかもしれんな」


 ゾフィーの言葉に、トリスタン候は思い出したように膝を打って言った。


「おお、そなたがロンバルディア殿の娘か。なるほど、世間の噂は正しいものだな。気品ある美しさだ。私はアリー・バクル、陛下からトリスタン候をいただいておる者だ。よしなに頼むぞ」

「いいえ、こちらこそまだ世間のことを知らぬ駆け出し魔導士です。以後よろしくお願いいたします」


 ロザリアは涼やかな声でそう言うと、お茶を置いて部屋を出ようとしたが、それをゾフィーが止めた。


「待て、ロザリア。私にちょっと考えがあるじゃによって、ここにいて侯の話をつぶさに聞いておくがよい」


 それを聞いて狼狽するアリーに、ゾフィーは鋭い目を向けて問いかける。


「本日のお越しは、このトリスタン侯国の大事かの?」

「む、無論だ。できれば人払いでそなたに頼みたいのだが」


 アリーが言うと、ゾフィーは首を振って答えた。


「そなたがもし、私に『カブールの魔女』を討ち取れと命じたいのなら、ロザリアにも話を聞かせておく必要があるぞ?」


 途端に、アリーの顔から血の気が引いた。ゾフィーはそんなアリーをニヤニヤしながら眺めていたが、


「どうされた、トリスタン候? 気付けに紅茶を一杯いかがじゃ?」


 そう言って地酒を垂らした紅茶をアリーに勧める。アリーは茫然としながらも紅茶を口に含んで落ち着いたのだろう、太いため息を漏らすと重い口を開いた。


「ふう、ゾフィー殿の慧眼には毎回恐れ入る。この話は厳に秘密を守ってもらいたい。でなければ事はトリスタン侯国では収まらず、ファールス王国とマウルヤ王国との戦にも発展しかねないからだ」


 ゾフィーとロザリアは頷いた。



 王国暦1573年の年明け早々、トリスタン侯国では大事が起こっていた。


 トリスタン侯国の北西は山岳地帯であり、その辺りのマウルヤ王国との国境線は明確ではない部分が何カ所かあった。いずれも高い山があったり、深い谷があったりして、現地調査によって国境線の確定が困難であったためだ。


 そのため、前国王シャー・ローム3世が『キスタンの戦い』でマウルヤ王国の領土を割譲された際に、『国境線が未定の部分は、当分の間現状維持とし、その周辺10マイル(この世界で約18・5キロ)は緩衝地帯とする』という協定が結ばれていた。


 問題となったカブールと言う都市はトリスタン侯国の町であり、緩衝地帯のすぐ隣にあったが、その町長たるエラスケス・マダンが突如『カブール王』を自称して独立を宣言したのだ。


「……どうやら、その裏にはマウルヤ王国の手が伸びているらしい。エラスケスは国境緩衝地帯をすべてカブール王国領として宣言したが、その宣言をマウルヤ王国が承認しているからな」

「なるほど、傀儡政権を作ってなし崩しのうちに緩衝地帯を我がものにしようという腹じゃな」


 アリーは頷いて、ずいとゾフィーに顔を近づけた。


「エラスケスがそうなってしまったのも、背後にマウルヤ王国から娶った妻の存在があるものと睨んでいる」

「ほほう、その女子おなごに町長はたぶらかされているというワケじゃな? しかし色恋で惑わされた者の考えを変えることは、どんな術式でも困難じゃぞ?」


 ゾフィーが言うと、アリーは首を振って、


「そうではない。わが魔導士長のシンが調べたところ、その妻マジョリカはどうやら魔導士らしい。それもマウルヤ王国きってのな。そこでゾフィー殿に出ていただきたいのだ」


 そう言った。


「ふむ……シンが調べたというところが少し引っ掛かるが……」


 ゾフィーは、頬に手を当てて考えていたが、やがて思い切ったようにロザリアに告げた。


「よし、ロザリア。そなたがそのマジョリカとやらを成敗して来るのじゃ」


 それには、アリーもロザリアもびっくりした顔をする。


「お、お師匠様。私はまだそんな大切な仕事を任されるほどの力はございません」


 そう言うロザリアを、優しい瞳で見つめながらゾフィーが言った。


「それは過小評価じゃ。そなたは十分にこの仕事をやってのけるだけの能力はある。それにそなたを差し向けるのには意味がある」

「意味が?」


 アリーが当惑した表情でゾフィーの言葉を繰り返す。ゾフィーは笑ってアリーに言った。


「のう、トリスタン候。そなたがマジョリカの立場なら、この国の中で誰を最も警戒するかのう?」

「そ、それは、ゾフィー殿かシンでしょうな」


 アリーの答えに、ゾフィーは微笑と共に頷く。


「そうであろう、私もそうじゃ。相手は私やシンの動きを見張っておるに違いない。ここでまさか、私に匹敵するロザリアと言う弟子が出て来ようとは思ってもいまいな。その虚を突くのが一点」


 そしてロザリアに向き直って言う。


「ロザリア、そなただけを敵地に送り込みはせぬ。私には『天空の眼』がある。そなたの行動をいつも見ていて、必要ならば指示を与えよう。安心して往って来るのじゃ」


 こうして、ロザリアは生涯最初の、そして決して忘れられない戦いへと出撃した。


     ★ ★ ★ ★ ★


 山間の町カブールは、周りを囲む山脈の険しさと、山脈から湧き出る水源を抱えた金城湯池である。人口は2万に足りないが、それでもこの地域ではずば抜けて大きな町であった。


 自称『カブール王』エラスケスの庁舎はその町の真ん中にあり、そこでは彼の命令で召集された人々が、ぎこちなく軍事訓練を行っていた。

 全員が、日常では戦とは関係がない人々である。彼らは突然呼び出され、そして突然鎧を着込まされ、剣や槍を与えられたのだ。戸惑いの方が先に立つのは当然である。


 それでも、彼らがおとなしく言うことを聞いているのは、この教練をマウルヤ王国の将校が行っていたからだ。将校たちは言葉が分からないが、それだけに手抜きをしたり怠けたりする兵士には容赦がなかった。


(いったいなぜ、ここにマウルヤ王国の兵士がいるんだろう?)

(町長はファールス王国を裏切ったのだろうか?)


 人々はそんな疑問を抱えながらも、自分たちを監督するマウルヤ王国軍兵士たちの武器を恐れ、言いなりになっていたのである。


「……この様子では、町の人々の心はすでにエラスケスから離れているでしょうね」


 ロザリアは、カブールを望む小高い丘の上から、町の様子を窺うとそうつぶやいた。そんな彼女のいでたちは、この国の一般女性の服の一種である浅葱色のブラウスに茶色の巻きスカート、その下にはくるぶしまである細身のスラックスというものだった。


 さらにゾフィーの意見を容れて、若草色のマントを羽織り、頭には若葉色のボンネットを被っていた。肩から下げた袋には武器の類は入っておらず、もしもの時の備えは腰に吊った短剣1本だけで、目立つようなものは特段持っていない。


(さて、まずは相手に気取られずにあの町に入り込めたら、第一段階は成功ね)


 ロザリアはそう気を引き締めると、ゆっくりとした足取りで丘を下って行った。



「そなたの言うとおり、ファールス王国は何も言ってこないな。さすがはマウルヤ王国随一の魔導士だな、そなたは」


 エラスケスは町長室の椅子に座って、庁舎の窓から教練の様子を眺めている女性に声をかけた。


「うふふ、ファールス王国の正規軍は“東方の藩屏”サーム・ジュエルがいる限り侮れないけれど、正規軍が出られない状況でなら、今のザッハークの周りには辺境を気にかけるほどの有能な臣下はいないわ」


 その女性はそう嘲笑気味に言うと、エラスケスを振り返った。濃い茶色の長い髪がうねり、浅黒い顔にある鳶色の瞳が怪しく光った。


「……マウルヤ王国のジャーラーン陛下も、あなたの決断を高く評価していたわ。この国を属国とするのではなく同盟国として遇しているのも、陛下のあなたへのお心配りよ」

「おお、さすがは陛下だ。ザッハークとは器が全然違う。マジョリカ、余はそなたの忠告を聞いてよかったぞ。おかげで小さいとはいえ君主というものになれたからな」


 エラスケスが手放しで喜ぶと、マジョリカも妖艶な微笑を浮かべて、


「わたしも、おかげで『王妃』になれたわ。あなたの勇気と決断のたまものよ」


 そう言うと、エラスケスに寄りかかるようにして彼の耳元でささやく。


「次は、陛下と共にトリスタン侯国を手に入れるのよ。あそこにはゾフィー・マールと言う希代の魔導士がいるけれど、まだ手を出してこないところを見ると守りに徹しているのかもね?」

「トリスタン侯国には魔戦士軍団もあると聞く。我が国は軍の編成を始めたばかりで、まだ1万に足りない程度の兵力しかない。この状態で勝てるか?」


 エラスケスが少しの不安を込めて訊くと、マジョリカはその豊満な胸を見せつけるように胸を張って答えた。


「あなたが兵を興せば、陛下がすぐさま5万の軍を送ってくださるわ。トリスタンの魔戦士軍団はたかだか2千、ゾフィーさえ仕留めれば、物の数ではないわよ」



「うん、ここがいいわね」


 ロザリアは、カブールの南東をかすめるようにして流れるカブール川の辺に、崩れ落ちそうに建っているあばら家を見つけてうなずいた。この辺りは町の庁舎からは遠いが、その分マウルヤ王国兵たちの巡回頻度も低かったからだ。


「ふうん、なかなかいいんじゃない?」


 ロザリアは苦労して裏口のドアをこじ開けると、家の中を見回して満足そうに言う。

 ここらの家々はうち捨てられて十数年が経っているようで、どの家も鍵など掛かっていなかった。外壁の泥は剥がれ落ちているが、それでも多少の埃とカビの匂いさえ我慢すれば雨風を凌ぐ分には十分だった。


(まずは、『カブールの魔女』のために罠を準備して差し上げないとね)


 ロザリアは、肩に下げた袋の中から透明なガラス球を取り出してニヤリと笑った。


 次の日、彼女はカブールの町を一渡り探索して回り、1週間後には『カブール王(自称)』が閲兵式を行うことを知った。マウルヤ王国肝いりによる『独立』だとしても、独自の兵力を持つことを町に人々に見せつけて反対勢力を牽制するとともに、『独立』の実を諸国に認めさせようというのであろう。


 ロザリアがそのことを『風の耳』でゾフィーに報告すると、


“その時までには何とかせよ。騒乱を起こすだけでもいいのじゃ”


 ゾフィーからは折り返しそう言う指令が来ていた。


(では、明日から罠を仕掛けないとね)


 ロザリアはそう思いながら、あばら家の中でマントにくるまって眠りについた。



 次の朝、エラスケスはマジョリカとともに庁舎に顔を出すと、早々に司直を束ねる隊長を呼び出した。


「陛下、何のご用事でしょうか?」


 隊長が慌てて町長室に顔を出すと、エラスケスは寝不足の顔で隊長に訊いた。


「フェルマー、ここ数日、城下に不審な人物を見かけなかったか?」


 すると隊長は即座に首を振って答えた。


「いいえ、ここ数日国境を越えた者は誰一人としておりません」


 その答えを聞いて、マジョリカが鳶色の瞳を怪しく光らせて言う。


「陛下に害をなす人物が、街道から堂々とこの国に入ってくるとお思い? 昨日、『風の耳』で連絡を取り合っている者がいたのよ。『風の耳』は魔戦士や魔導士が使う術式、誰かがこの町に入り込んでいるのは確かだわ。そして連絡を取っている相手は恐らくトリスタン侯国随一の魔導士、ゾフィー・マールよ」

「は、はい……それでは配下の者に命じて、城内をくまなく捜索してみます」


 隊長は腑に落ちない顔をしている。魔力のない人間では想像もできないことだからであろう。それでもゾフィー・マールの名を知っていた隊長は、そうマジョリカに答えた。


「そうしてちょうだい。陛下に何かあったら、私がただでは済まさないから」


 マジョリカの眼光に縮み上がった隊長が、そそくさと退出しようとするのを彼女は止めた。


「隊長、曲者の居場所が分かったら、すぐに教えてちょうだい。ゾフィーの犬は私の手で始末するわ」



 その頃、ロザリアはカブールの町を堂々と闊歩していた。それは、こそこそと人目を忍ぶような動きをすればすぐに怪しまれるからであるし、そもそも彼女には巡回している兵士たちを気にする必要がなかったからである。


(ふむ、兵士たちはもう一つ向こうの通りを巡回しているようね)


 ロザリアは、ゾフィーの遠隔操作による『天空の眼』の支援を受けて、自身の周囲5マイル(この世界で約10キロ)の状況を完全に把握していたのである。


「……城内を巡回する兵士が増えた……ということは、『カブールの魔女』がこちらに気付いたということね」


 ロザリアはニコリとして、すたすたと町の庁舎へと歩き出した。『最後の仕上げ』にかかったのである。


「おい、そこの女、止まれっ!」


 ロザリアが次の通りに入ると、4・5人の兵士たちがロザリアに声をかけて来た。ロザリアはおとなしく立ち止まると、秀麗な顔を兵士たちに向けて言った。


「私に何か用か? 用事があるので急いでいるのだ」


 ロザリアがそう言うと、兵士たちはニヤニヤしながら近寄って来て言う。


「そんなに時間は取らせないさ。近ごろ、この城内に不審な人物が紛れ込んでいないか調べている。悪いが身体検査をするからここで服を脱いでくれないか?」


 どうやら兵士たちは、ロザリアに疑いを持ったわけではなく、その美貌に惹かれて良からぬ役得を思いついただけらしい。しかし、ロザリアの機嫌を損ねるには十分であった。

 ロザリアは、冷たい目で兵士たちを見つめながら、抑揚のない声で訊き返した。


「ここで服を脱げばよいのか?」

「ああ、俺たちは眺めるだけだ。あんたの身体には指一本触れないさ」


 隊長が鼻の下を伸ばしてそう言うのを聞くと、ロザリアは若草色のマントを地面へと脱ぎ捨て、続いて若葉色の帽子をその上に投げ捨てた。

 そして、巻きスカートの紐をほどき始めると、兵士たちの視線はロザリアの身体の線に釘付けになった。


「やっ!」

「わっ!」


 ロザリアは、兵士たちの様子を確認すると、脱ぎ捨てようとしたスカートを兵士たちの顔に投げかける。兵士たちは突然のことに動転した。


「それ、これも差し上げよう!」


 ロザリアは、スカートで顔が隠れてしまった兵士たちに、今度はマントを被せかけると、そのまま一目散に庁舎へと駆けだす。


「く、曲者だっ! ひっ捕えろっ!」


 兵士たちが騒ぐ中、ロザリアは曲がり角を曲がった瞬間に『鏡面魔法』で身を隠した。騒ぎを聞きつけてロザリアを追跡した兵士たちは、そこで彼女の姿を見失う。


「と、とにかく隊長殿に知らせないと」


 兵士たちは慌てて、自分たちの所属する部隊長へと報告に走るのであった。


(よし、あとは『カブールの魔女』のお出ましを待つばかりだわ)


 ロザリアは、右往左往する兵士たちの間を抜けて通りを駆け抜けながら、そう心の中で思った。



「女? 曲者は女ですって?」


 庁舎を警備する隊長の報告を受けて、マジョリカは眉をひそめた。隊長は頷いて、へどもどしながら言う。


「は、はい。誰何した兵士の話によると、年の頃は17・8歳、身長は150センチ程度、長い黒髪に黒い瞳を持ち、冷たい感じのする美少女だったとのことです」


 それを聞いて、マジョリカは首をかしげた。


(わたしの知っているゾフィーとは、年齢や身長が少し違うわね。けれど、それ以外の特徴は一致している。ゾフィーのことだから見た目は自在に変えられるかもしれないわね……とすると……)

「ブレン、トリスタン侯国のゾフィー・マールが動いたという情報は入っているかしら?」


 マジョリカが念のために訊くと、近くにいた青年が答えた。


「ゾフィーが動いたという情報は入っていませんが、彼女の魔力が今朝方からカンダハールでは感じられません」


 それを聞くと、マジョリカは唇を引き結んで言った。


「してやられたわね、すでにゾフィーはここに来ているわ。ブレン、わたしと共にゾフィーを狩るわよ」


 マジョリカはそう言うと、水色のドレスの上から赤いローブを羽織り、優雅に玄関へと歩き出す。それを追ってブレンと呼ばれた青年も、影のように音もなく歩き出した。



(来たわね)


 ロザリアは、噴水のある広場でベンチに座っていたが、恐ろしく禍々しく強大な『魔力の揺らぎ』が近づいてくることを察して、ゆっくりと立ち上がった。


 近づいて来る『魔力の揺らぎ』は、それまでロザリアが見て来たどんなものよりも猛々しいものだった。まだ距離はあるが、その一端を感じ取っただけでも、ロザリアの身体の内に震えが走るほどだったが、


(大丈夫、勝てる。だってお師匠様がそうおっしゃったから)


 ロザリアはそう自分に言い聞かせながら、目を閉じて深呼吸した。


 やがて、広場の入口に一人の女が姿を現した。ロザリアも『鏡面魔法』を解く。ロザリアとマジョリカは、50ヤードほどの距離で向かい合った。


「あら、ゾフィーかと思ったら違うみたいね」


 マジョリカが笑顔とともに言う。しかし、次の瞬間、彼女の顔から微笑が消えた。


「……人違いだったけれど、あなたもゾフィーと同じ『闇』のエレメント持ちね?」


 マジョリカの声を聞きながら、ロザリアは違和感を覚えていた。どことなくしっくりしないのだ。何がと問われてもはっきりとは言えないが……。


(この違和感は、奴の正体と関係がある……それは分かるが、それ以上は私には分からない……くそっ、お師匠様なら、この違和感の理由をすぐに解き明かすのだろうけれど)


 その時のロザリアは、そう考えていた。

 今のロザリアなら分かる。マジョリカの『魔力の揺らぎ』とそのエレメントの波動が、今までロザリアが知っているものとは異質だった……ということである。そして、その異質さから相手の正体に思い至ることも簡単だったろう。若かったのだ。


(とにかく、やってみることだ)


 ロザリアはそう決心すると、物も言わずにいきなり『魔力の揺らぎ』を解き放った。ロザリアは身長140センチ足らずの少女の姿となる。魔族の血が動き出したのだ。

 ロザリアの魔力に合わせるように、広場の周りに結界が張り巡らされる。それは闇の魔力を含んで毒々しい色で空を覆いつくした。


「……なるほど、結界石を配置していたのね。そしてゾフィーと甲乙つけがたい魔力ね」


 ロザリアの変貌を見て、マジョリカは腕を組んでつぶやく。しかし、次の瞬間、彼女も魔力を解き放った。


「出ておいで、我が眷属たち! あの娘を八つ裂きにして、そなたたちの贄とせよ!」

「おおっ、待ってましたぜ!」


 マジョリカの言葉とともに地面から血のような色をした狼男たちが湧き出て、ロザリアに飛び掛かって来た。


「止まれっ!」


 ロザリアは間髪入れずそう叫ぶ。その叫びは魔力の波動と共に周囲に広がり、狼男たちをその場に釘付けにした。『魔女の雷鳴(クライストップ)』である。


「くっ! これでも食らいなさい」


 マジョリカは次々と魔弾を放ってくるが、ロザリアの眼には止まっているのと同じだった。すべての魔弾が回避され、ロザリアの機動についていけないと悟ったマジョリカは、


「ブレン、早くそいつを倒せ!」


 そう叫ぶが、ブレンは苦しげに身をよじりながら言った。


「なぜだ……動けん」


 それを見て、マジョリカはブレンたちに見切りをつけたのだろう、


「爆破!」

 ズドゥム!


 マジョリカが叫ぶと、ロザリアの周囲を取り囲んで動けなくなっていた狼男たちが一斉に爆裂した。その爆風は、辺りを揺るがし、近くの建物の窓と言う窓を破壊する。


「わたしの眷属たちを止めたのはさすがだけれど、その後の追い打ちを想定していなかったのがいけなかったわね。ゾフィーも戦い慣れていない者を遣わすから……」


 マジョリカは、爆風の中でロザリアが四散したことを確信してそうつぶやいたが、その言葉が終わらぬうちに、ロザリアの声が響いた。


「『毒薔薇の牢獄(ウィッチプリズン)』!」

「えっ!?」


 虚を突かれたマジョリカは、自分の周りに現れた紫のバラの蔓に完全に閉じ込められた。


「……あの爆発を、よく凌いだわね」


 薄れていく土煙の中からロザリアが無傷で姿を現すと、マジョリカは悔しそうに唇をかんでつぶやく。ロザリアは紫の瘴気を身にまとい、うっとりとした表情でマジョリカを見つめていた。


「あなたのやりそうなことだったもの。『死の香り(デッドオアアライブ)』を発動しただけよ」


 ロザリアはゆっくりとそう言うと、右手をマジョリカに向けて、


「あなたの好みの方法で殺してあげる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」


 そう言うと、マジョリカは観念したように目をつぶって答えた。


「あなたの好きにしなさいな……ぐべっ!」


 その言葉が終わるや否や、毒薔薇からは瘴気が噴き出し、その棘はマジョリカの身体中に()()突き刺さった。


「ぐっ……ぐはっ……あなた、見かけによらず……えげつないわね……ぐわっ」


 皮膚は壊疽のように崩れ落ち、瘴気で灼かれた肺からは鮮血を噴き出しながら、マジョリカはロザリアを睨みつけてそう言った。


「私は、断末魔が好きなだけよ」


 ロザリアがそう言いつつ左手を振り上げると、毒薔薇の棘はマジョリカの身体を縦にくし刺しにした。するとマジョリカの頭にはねじれた角が、背中にはコウモリのような翼が生えた。


「ごばっ!」

「あら、あなたサキュバスだったのね。道理で見慣れない魔力の波動だったわけね」


 最期の蠕動を起こし始めたマジョリカを、ロザリアはうっとりとした目でいつまでも見つめていた。



 マジョリカの死を知ったエラスケスは、


「俺一人では何もできない!」


 そう錯乱して叫び、窓から身を投げようとした。しかし、その身体は地面に叩きつけられず、ふわりと浮かんで道路に優しく降ろされた。


「そなたに今死なれては、マウルヤ王国の思うつぼじゃ」


 道路に横たわるエラスケスを見下ろして、ゾフィーはぞっとするような笑みを浮かべて続けた。


「私はゾフィー・マール、トリスタン候の依頼でここに参った。私の言うとおりにすれば、トリスタン候はそなたを罪には問わぬそうじゃが、どうする?」


 エラスケスは力なくうなずいた。

 それを見て、ゾフィーは莞爾として言った。


「素直でよろしい。マウルヤ王国の兵士たちのことは心配するな。我が弟子が皆殺しにしておるようじゃからな」


     ★ ★ ★ ★ ★


(あの頃の私は、まだ『揺るぎない自己』というものを確立しておらなんだ。殺すことの快感に心を支配される寸前じゃった。お師匠様がそれを導いてくださらなければ、今の私はここにはおらぬ)


「……今回はやり過ぎたのう、ロザリア」


 ロザリアは、ゾフィーの言葉でハッと我に返った。思わず周りを見回して目を見張る。辺りは兵士の死骸と血糊だらけだったからだ。


「私は……私は……」


 ロザリアは思わず自分の両手を見る。血の一滴すらついてはいなかったが、『毒薔薇の牢獄』や『魔女の槌(ウィッチストライク)』で兵士たちをなぶり殺しにしていた時の快感が、心の中に甘く残っていたのだ。


「……そなたには、魔族の血とはまた違う何かがあるようじゃ。それが何かは、時が来ねば分からぬが、そなたはきっとそれを克服するし、そのための出会いもあるはずじゃ」


 ゾフィーはロザリアの背中を優しくなでながらそう言った。



 それから2年後、ロザリアはトリスタン候の依頼によりいくつかの事件を解決し、漸くその名を国内でも知られるようになっていった。姉のアザリアがトリスタン候アリーの妃となっていたおかげでもあるだろう。


 そんなある日、ゾフィーは突然、洋館から姿を消した。たった一枚の手紙を残して。

 ロザリアはその内容をまだ覚えている。その手紙があったればこそ、ロザリアは闇に落ちなくて済んだからだ。


『そなたには私の術式をすべて伝えた。後は自分で自分の術式を編んで行くがいい。そなたは良い弟子であった。そなたが日ごろ苦しんでいる自分のさがについても、それを解決してくれるお方との出会いがもうすぐあるはずじゃ。そのお方と共に魔導士として誇りを持って生きてゆけば、そなたが倒した魔弾の王妃とは全く逆の未来がそなたを待っていよう。達者で暮らせよ ゾフィー・マール』


「お師匠様は、私とザール様の出会いを見通しておられた。そしてあのお方が私を変えてくださることも……お師匠様、私はやはり、まだあなたの足元にも及ばぬ」


 ロザリアは霧の中で、ゆっくりとそうつぶやいた。


 ファールス王国女王ホルン・ファランドールの出奔が発覚するのは、その数時間後であった。


(サイドストーリー 魔弾の王妃 完)

最後名でお読みいただき、ありがとうございます。

ロザリアの出生の秘密については大人の事情でぼかしましたが、はっきりと書く日も来ることでしょう。

次回はティムールの青春の日々を『老将の追憶』としてお送りする予定です。

お楽しみに。

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