56 最後の決戦
女神アルベドを封印したホルンとザール。しかし終末竜アンティマトルが異次元から飛び立とうとしていた。時空をも超える存在に完全と立ち向かうザールたち。存在の根源をかけて最後の戦いが始まる。『青き炎のヴァリアント』、いよいよクライマックスへ。
【主な登場人物】
♡ホルン・ファランドール…『死の槍』と『アルベドの剣』を持ち、辺境で名を上げた女槍遣い。前国王の娘で王国の現状に改革を志す。翠の瞳と銀の髪を持つ。26歳。
♧コドラン…シュバルツドラゴンのこどもで、生き別れになった母を探すためにホルンとともに旅をしていた。小さいが気が利く、ホルンの良き仲間である。15歳程度。
♤ザール・ジュエル…“東方の藩屏”トルクスタン侯国の世子で『白髪のザール』の異名を持つ。ホルンとともに王国の改革を志す。白髪に緋色の瞳を持つ。23歳。
♡リディア・カルディナーレ…ザールの幼馴染でジーク・オーガの王女。接近戦では無双の強さを誇る。額に角を持ち、茶色の髪に茶色の瞳をしている。21歳。
♤ジュチ・ボルジギン…ザールの幼馴染で『この世で最も高貴な一族』であるハイエルフの首領の息子。頭脳明晰で魔力に長けるがチャラい。金髪碧眼の美青年。23歳。
♡ロザリア・ロンバルディア…ザールに一目ぼれして仲間に加わった魔族の女性。冷静冷血で魔術に長けている。黒髪と黒曜石のような瞳を持つ。21歳。
♧ガイ・フォルクス…26年前にスケルトン軍団から国を滅ぼされたアクアロイドの王族。頭脳明晰で冷酷非情だが仇討に協力したホルンに恩義を感じている。29歳。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「わらわは、わらわは忘れんぞこの仕打ちをっ! ザールっ、貴様もアンティマトルの業火の中で死ぬがいいっ!」
アルベドが叫ぶのを、ザールは表情のない顔で聞いていたが、一言、
「うるさい」
そう言うと、『クリスタの剣』を鍔までアルベドの胸に刺し込んだ。ガッという音とともに、切っ先は女神像に食い込み、その途端、女神像は青い焔を上げた。
「うぐわあああーっ!」
ザールは炎の噴出とともに女神像から飛び離れた。女神アルベドは、ザールたちの前で青い焔に焼き尽くされた。
「……終わった、の?」
リディアがつぶやく。彼女は目の前で繰り広げられた戦いが凄まじすぎて、理解と感情がついて来ていないようだ。
その声に最初に我に返ったのが、ジュチとロザリアだった。
ジュチはホルンに駆け寄った。ホルンは、ザールの腕の中で意識を取り戻していたが、非常に危ない状態だった。
「……ザール」
ジュチが言うと、ザールは静かに
「オリザなら助けられたんだが……」
そう言う。それを聞いたジュチは悪い予感がして、はっと振り返ってみた。
「オリザ、オリザ、しっかりせい!」
ジュチの視線の先では、胸に剣が突き立ったオリザを、ロザリアが半狂乱になってゆすぶっている姿だった。アルベドは最期のあがきに、ホルンを斬った剣をそのままオリザへと投げつけたのだろう。
「……オリザの状態は?」
ジュチが訊くと、我に返ったガイが急いでオリザの脈をとる。そして、難しい顔で答えた。
「危ない状態だ。しかし、何ともならないわけではない。剣を抜かずにいてくれ」
「何するの?」
我に返って呆然としていたリディアが、何やらマントの下でごそごそしているガイに訊く。ガイはぶっきらぼうに答えた。
「海神ネプトレからいただいた『海のヒール・ポーション』がある。オリザ殿と女王陛下に使うといい。オリザ殿を先にある程度回復させれば、自身と女王陛下は『オール・ヒール』で治せるだろう」
そう言うと、ポーションのビンを二つ取り出してリディアを見た。
「リディア、君はこれで女王陛下を頼む」
「分かった」
そう言って差し出されたビンを受け取ったリディアは、急いでザールのところに駆け寄ってきた。
「ザール、これを」
リディアが言うと、ザールはニコリと笑ってリディアに頼んだ。
「オリザのことはロザリアとガイ殿に頼んだ。ホルンのことを君とジュチで頼まれてくれないか?」
「そ、それ、どういう意味?」
リディアが訊くが、ジュチが
「リディア、すまないがポーションをくれないかい?」
という。リディアは急いでポーションをジュチに手渡す。
「そうだった、ゴメン」
「ああ、ありがとう」
ジュチはそれを急いでホルンの口に含ませた。傷口は変わらないが、明らかに流れ出る血潮の量が減った。ジュチはうなずいてつぶやく。
「これは、うまくするとオリザの回復まで持つかもしれないな」
それを聞いて、ザールは再びリディアに頼んだ。
「リディア、すまないがジュチとともにホルンを守っていてくれないかい?」
それで、リディアはさっきの疑問を思い出した。
「そうだ、どうしてそんなこと言うのさザール。もうアルベドは封印したし、あとはオリザや女王様を回復させるだけだろ? 二人ともキミのことが大好きなんだから、そのキミがいないと話にならないじゃないか」
そう訊くと、ジュチが厳しい顔でリディアに訊き返した。
「リディア、キミはあの堕ちた女神が最後に言った言葉を覚えているかい?」
「最後に言った言葉?……あっ!」
リディアは少し考えていたが、すぐに思い出して叫んだ。そうだ、アルベドは最期に言った。『アンティマトルの業火の中で死ぬがいい』と……。
「……そうだ、彼女はそう言った。そしてそれは恐らくハッタリじゃない。なぜなら、僕らが倒したアンティマトルは、ザッハークを依り代とした破壊竜だからだ」
ザールが言うと、リディアは混乱したように訊いた。
「えっ? でも、あいつはアンティマトルだったんだよね? 違ったの?」
それに、ジュチが分かりやすく説明する。
「いや、アンティマトルではある。ただし、レプリカだけれどね?」
「レプリカ?」
イマイチ呑み込めていなさそうなリディアに、ジュチはさらに説明を加える。
「うん、アンティマトルというドラゴンではあるが、実体のアンティマトルを小型化したドラゴンだったってわけさ。考えてみたら、プロトバハムート様とほぼ互角に戦ったアンティマトルが、全長500メートル程度であるはずがない」
「じゃ、ホンモノのアンティマトルが出てくるって言うの?」
リディアが言うと、ザールが答えた。
「そうだ。アルベドは散り際に、自らの主であるアンティマトルに力を差し出したのだろう。僕の予想では、もう四半時もしないうちにアンティマトルはこの世界に姿を現すだろう。そうなったら、たとえ奴を倒しても世界の半分は燃え尽きてしまう。だから、僕はこの世界の外で奴と戦うことにした」
そう言うと、ホルンの支えをリディアに譲り、立ち上がるザールだった。
そのザールの顔は、すでに勝敗を度外視し、何とかこの世界の破滅だけは避けたいと考えている顔だった。リディアは知っていた、戦士の顔はこのようであることを。そして自らも戦士であるリディアは、ザールを止めないことに決めた。だって、ザールだもの……。
「うん、分かったよザール……無事に帰ってきてね」
「もちろんだ」
ザールはそう言い残すと、六枚の翼を広げて虚空へと飛び立った。
「さて、ボクたちは安全な場所を探すべきだね? ま、相手がザールたちだったら、探しても無駄かもしれないが」
ザールがノイエスバハムートに姿を変えて飛び去ってしまうと、ジュチはそう言って笑った。
★ ★ ★ ★ ★
虚空であった。
どこまでも広がり、果てさえ見えない。いや、そう言うと語弊がある。そこは、『閉じた空間』だったからだ。
虚無の中で、時さえない空間に、アンティマトルは漂っていた。
“我が力が戻ったか……”
アンティマトルはゆっくりと目を開けた。その目は漆黒の中に浮かぶ紅蓮の炎のようであり、その瞳だけで軽く1マイル(この世界で約1・85キロ)はありそうだった。
「虚無こそ我が力、虚空こそ我が棲家」
アンティマトルはゆっくりと首を持ち上げると、千年以上も眠っていた自らの棲家を、『魔力の揺らぎ』で破壊した。すうっと消えていくような壊れ方だった。
「アルベドが消滅したか。まあよい、余が世界の摂理となれば、アルベドはいつでも再生する」
アンティマトルはそう言うと、巨大な翼を広げた。その端は宇宙の闇に紛れて見えない。とてつもない大きさだった。
「征くか、プロトバハムートが統べる世界とやらへ」
アンティマトルは翼を動かし、はるか遠く、おそらく次元すら違う世界へと飛び立っていった。
その飛行した航跡波で、いくつかの星の運行が変わったと言う。
アンティマトルは、遥かな空間を見据えてつぶやいた。
「プロトバハムートよ、そなたとの遺恨を晴らす時が来た。そなたは世界の主宰者であるため、世界樹のもとから動けぬ。この世界の摂理は、わが信ずる摂理に書き換えさせてもらうぞ」
「アンティマトルが目覚めたな」
ザールは、自分がいる空間が、気味悪いほど振動するのを感じて、宿敵の目覚めを知った。ただし、ザールは虚空の振動でそれを知っただけで、アンティマトルが実際にはどの時空間に存在するのかをつかみ切れていなかった。
――ふむ、アンティマトルがどのような技を使うかは、プロトバハムート様から聞いてはいるが、そもそもどのような時空間に存在するのかは聞いていなかった。このままでは、こちらの不意を突いて思いもよらないところから現れるかもしれないぞ。アンティマトルが絶対にここに現れるという場所を、早く特定しないとな。
ザールはそう焦ったが、はっとあることを思い出した。
「そうか……そう言うことか」
ザールはそう独り言ちると、バビロンに進路を向けた。
★ ★ ★ ★ ★
カッパドキアで女神アルベドを封印した青き焔は、空の雲に反射し、あるいは雲の中にある水蒸気によって分光されて、一時、空を青く鮮烈な光で覆った後に、七色の光が彩った。その光景は、遠くダマ・シスカスにある『神聖生誕教団』の本山にいる人々に、強い印象を与えた。
本山にいる人々は、その光を見て、
「法王様、このような現象は今まで見たことも聞いたこともございません。これは『この世の終わり』の始まりではないでしょうか?」
そう、心配顔で法王ソフィア13世を見て言った。
ソフィアは、北の空を彩る光を微笑みとともに眺めていたが、人々の不安の声を聞くと振り返って、はっきりした声でみんなに言った。
「きょうだいたちよ、これは何も心配することはありません。この光は女神ホルン様の復活を告げるとともに、女神アルベドの封印を示すものです」
そう言うと、法王は自分の言葉にどよめいている群衆に向かって、預言書の中にある一節を読み聞かせ始めた。
「わが教団の『黙示編』には、次のような記述があります。
西の山に神が降臨し、疫病と悪鬼が地上を跋扈するとき、聖なる印の軍団が竜の軍団と共に竜都で大きな戦いを起こす。
見よ、女神の名のもとに終末竜アンティマトルは翼を広げ、竜都と三日月を元の姿を想像できぬほどに叩き潰し、飲み下すであろう。
アンティマトルは片翼の黒竜により傷を受け、止翼の白竜との戦いに臨む。
その戦いは長く、生きとし生けるものの2分の1は死に、3分の1は病と傷に苦しみ、新たな時を待ち望める人は6分の1に過ぎない。……と……」
法王は、大勢の人々の前で、それまで門外不出として選抜された司教と大司教以上にしか閲覧が許されていなかった『黙示編』について語り出した。
人々は驚いた。法王の言葉が正しいのであれば、『世界の終わり』はすでに始まっていることになり、自分たちは6人に1人しか生き延びられないことになる。
法王ソフィアは、自分の言葉が人々に届いたかどうか探るように、皆の顔を見回す。そして、多くの人々の顔に不安と恐れが現れ、そして途方に暮れた顔となっているのを見ると、静かにうなずいて続けた。
「確かにこの文章をそのまま受け止めれば、私たちは未曽有の出来事に直面しています。けれど、私たちには助かる手段も、そしてそれを成すための時間も与えられています。これは女神ホルン様に感謝しなければならないことです。なぜなら、女神様の復活は間に合い、私たちはプロトバハムート様の摂理の世界が壊れる日をこの目で見らずに済むからです」
法王はそう言うと、しばし目を閉じて女神ホルンに祈りを捧げた。そして、目を開けると、全員に向き直って言った。
「私はこれから起こることを、『黙示編』と『ジェダイの預言詩篇』をもとに、皆さんにお知らせしたいと思います。今後、大きな災厄があるとしても、私たちの行く道は決して暗いものではないことを忘れないでおいてもらうために……」
そして、法王は静かに話し出す。
「プロトバハムート様はおっしゃいます、『終わりは、始まりあるものの必然である』と。そしてその終わりは突然にやってくるのではありません。
前王シャー・ローム3世の治世は、突如として終わりました。そして、『黙示編』に言う、
見よ、歴史ある都市にラッパが響き、忠実なものの不在を狙って小心な悪人は珠玉を手に入れる。そのとき、黒竜は生まれるが、長い間世に現れない。
しかし、世に光を与える糸杉が、金に波打つ髪を持つ、赤銅色の髪を持つ二人の友と共に現れた時、黒竜は世にその名を現す。
見よ、黒竜は死を思い出させる。
見よ、黒竜は片翼である。それは、始原竜の血と神の血の混交。
黒竜と出会い、糸杉は白竜の力を目覚めさせる。
見よ、白竜は六翼である。
武威の止翼と福音の四翼を持つ白竜は、二つの魂に引き裂かれる。一つは始原竜バハムートを、一つは終末竜アンティマトルへと向かうもの。
見よ、白竜は互いに相手を自分のものにしようとするだろう。
……その言葉どおりのことが起こり、そしてこれから起ころうとしています。
そして東の女神は、三つの存在が一つになる時よみがえり、止翼の白竜は始原竜の御業を放つだろう。都市は消え、大地は燃え、海や川は干上がり、その苦しみは13の昼と夜を分かつだろう。
けれど、始原竜の咢が閉まる時、神の御業で大地も人々もよみがえるだろう。
……私が皆さんにお話ししているとおり、私たちにの神話や預言には『滅びの時』なる約束はありません。あるのはただ、プロトバハムート様と女神ホルン様の御業による『再生の時』だけです」
法王は顔を上げて言う。その顔は輝きに満ちていた。決して群衆を騙し、安易な安らぎを与えようとしているわけではないことが、法王の顔と態度に現れていた。
さらに法王は語る。
「では、『ジェダイの終末預言』について見ていきます。皆さんが初めて聞く詩篇もありますが、これは私たち教団がジェダイ本人から預かったもの。これを読みます」
法王は、古びた巻物を群衆に見せてから、それを広げながら、次のように語った。
詩篇1『34の太陽は、偽なる太陽に襲われる。7つの春秋過ぎた春/太陽が自ら隠れる日、太陽の黒竜が産み落とされる。母の血と共に/黒竜は、冠絶する勇士とその恋人に育てられる。聖女王の名を持ちて/恋人は法を黒竜に伝え、戦士は魂を黒竜に伝える。その命と引き換えに』
……この詩篇は、すでに成就しています。第34代国王は、簒奪という手段で王位を追われました。そして現在のシャー・ホルン女王陛下がお生まれになること、デューン・ファランドールに育てられることを語っています。
詩篇2『黒竜は白竜と出会い、偽王を討ちて国を興す。その仲間と共に/黒竜と白竜もし出会わば、我が元を訪え。始原竜はその子どもたちを誘う/幾多の仲間は黒竜に集う。白竜の名声の中で/九五の位は黒竜から白竜へとつながる。黒竜の願いと共に』
……この詩篇も、成就しました。白竜とは『白髪の英傑』ザール・ジュエル様のこと。ザール様たちとともに、ホルン陛下は兵を挙げられました。
詩篇3『聖女王の名を持つ片翼の黒竜、無頼の暮らしの中に育つ。その心はそのままに/片翼の黒竜、死をも恐れず慈悲もなく。その意志を遂げる中/乙女は乙女と扱われず、自ら四翼の白竜を求める。神のみ名のもとに/時を超えし受命の黒竜、命受けざる黒竜現れて、大きな混乱を憂う。自らの血のもとに』
詩篇4『四翼の白竜、天下の同論を従えん。片翼の黒竜の召しの下/命受けざる黒竜と受命の黒竜、どちらも白竜を乞う。真なる竜の姿を知れ/受命の黒竜、真なる竜の姿に進む。その血の覚醒と共に/一つの光を失いて、片翼の黒竜は抱かれん。月の光の下で』
……この二つの詩篇は、ホルン陛下の挙兵と今後を示しています。
詩篇5『蒼き水竜、時を止めるとき名を露さん。古き都の側で/赤き土竜、大地を焼くとき名を露さん。白き砂漠の中で/止翼の竜は四翼の竜と相打たん。正しき炎の中で/受命の黒竜は侍する黒竜に力を得ん。受けざる黒竜を飲み込むため』
……この詩篇は、アクアロイドの軍団がバビロンを無血占領した時に成就されました。ただ教団の中でも、第二節についてはまだ成就されていないという見方もあります。
詩篇6『西の女神は破壊を願う。天の側で顔を隠し/東の女神は再生を求む。人々の中で長く眠って/西の女神は先に目覚め、天の側に位置を占める。嵐の中で/東の女神は三つの炎。言葉と剣と、知識の炎』
詩篇7『東の女神の三つの炎/イスファハーンで生を受け/サマルカンドに産まれ出で、カンダハールに長くいる/三つの炎が竜都で落ち合う時、東の女神は目覚めるだろう』
……この二つの詩篇は、女神ホルン様がその意識を三つに分けられていたことを示します。女神アルベドの覚醒と女神ホルン様の到来を示したものですので、成就したと思ってもいいでしょう。
詩篇8『西の女神は悪魔を地獄に解き放つ。翼竜と疫病を従えて/その御稜威は蒼龍を砕く。水の竜の側で/その双腕は失われる。命受けざる黒竜と共に/西の女神を鎮めるは、受命の黒竜とその竜騎士。知識と言葉の犠牲のもとに』
……この詩篇は、女神アルベドがアクアロイドの軍を破ることと、その両腕であるティラノス、パラドキシアを失うことを預言しています。女神アルベドが封印された今では、この詩篇も成就していると思っていいでしょう。
詩篇9『東の女神は蘇る。止翼の白竜成った後/言葉は大地を蘇らす。古き穀の名は消えて/片翼の黒竜、四翼の白竜に抱かれん。月の光の中で/片翼の黒竜、事成り四翼の白竜のもとを去らん。紫紺の瞳がある故に』
詩篇10『西の女神は眠りの中で、東の女神の夢を見る/その顔はつややかで、その声色は春の風/西の女神は一柱、眠りについた一柱/それすべて、始原竜の命のまま』
……この二つが、今後の行く末を示しています。そして、詩篇10の後段に『西の女神は一柱、眠りについた一柱/それすべて、始原竜の命のまま』とありますから、どんなに戦いが激しく、その被害が甚大でも、女神ホルン様を奉じる女王陛下の軍が勝つことを示しています。それすべて、始原竜の名のまま……この世の摂理は、変わりません」
法王ソフィアの話を聞いて、すべての者たちが明るい顔になった。それを見て、法王は更に付け加えた。
「大いなる災難は、女神が自らを信ずる者を選別するためのものでもあります。そして、世の終わりには、多くの人々は将来に絶望し、女神を信じる心を忘れてしまいます。『死ぬもの2分の1、苦しむもの3分の1、生き残るもの6分の1』という『黙示編』の記述は、それほどの災害の大きさを表すためであり、極限状態には信じる心を忘れてしまうほど人は切羽詰まるということを示しているのでしょう」
顔を上げた民衆に、法王は笑顔で優しく語りかけた。
「ですから、私たちは信じる心を持って、女王様の凱旋を待っていましょう。皆さん、不安でしょうが、ホルン陛下のご無事とご武運を祈っていれば、すべては最終的に良い方向へ向かいます。私も祈りますので、皆さんの祈りの力を貸してください」
法王の言葉に、民衆は大きくうなずいた。
★ ★ ★ ★ ★
「オリザの具合はどうだい?」
ジュチが聞くと、ロザリアはしばらくじっとオリザの薄い胸が上下するのを見ていたが、ジュチの目を見てうなずいた。
「さっきよりはマシになったの。とにかく剣が急所を外れていたのが幸いじゃった」
それを聞いて、ジュチはリディアを見る。リディアはホルンの胸当てを外し、傷口を改めてホッとしたように言う。
「こっちも、さっきよりはマシだよ。何より、血が止まってくれたからね。それだけでも命に関わる恐れは少なくなってきているよ」
「それは良かった。女王様にはこの戦役が終わったら、十分にお礼を言いたいと思っていたところだからな」
ガイは海の色をした瞳を持つ目を細めて言う。
その時突然ジュチは、薄く笑って三人に言った。
「アンティマトルは、バビロンを襲う……」
三人は、ジュチが急に何を言いだしたのかと、彼に目を向けた。
「……もちろん、それはザールが阻止するはずだ。ザールはアンティマトルとの戦いは23次元空間でやるつもりだろうからね。アンティマトルの発見が遅れない限り、アンティマトルはこの次元には出てこられない」
「それがどうかしたか? ジュチ」
ガイが訊くと、ジュチは金色のうざったく伸びた前髪に、形の良い人差し指を絡ませながら言う。
「おや、ガイほどの人物が、アンティマトルの眷属の存在を忘れたわけじゃないだろうね?」
「アンティマトルの眷属……『影の軍団』か!」
ガイが思い出したように言う。ジュチはその秀麗な顔を歪めてうなずいた。
「うん、ボクはアンティマトルが自分で動けないとなったら、『影の軍団』を動かしてくると思うよ? だから、ボクたちは少なくとも二人、バビロンに行かないとね?」
「私が行こう。相手にとって不足はない」
ガイが言うと、リディアも顔を上げて言う。
「アタシも行くよ。『紺碧の死神』だけにいいカッコはさせないからね?」
けれど、ジュチは首を振った。
「残念だけど、ここにはロザリアとリディアに残ってほしい。というのは、女王様とオリザを守る必要があるが、ここにも『影の軍団』が来る可能性がある。その時、『紺碧の死神』か『炎の告死天使』のどちらかには残って欲しいんだ。奴らは魔力攻撃も物理的攻撃もかなりのものだからね」
「だけど、アタシもザールの役に立ちたいんだ」
リディアが食い下がると、ロザリアが笑って言った。
「リディア、ここで女王様とオリザの復活を守るのも、十分にザール様の役に立つことじゃと思うぞ? それに相手が瞬殺技を持っていたら、私とジュチでは攻撃ができん。リディアが残ってくれたほうがありがたいのう」
それを聞いて、ジュチは優しい目でリディアを見つめた。リディアはしばらく黙っていたが、
「……分かったよ。アタシが残る」
ついにそう言った。
ジュチは済まなそうに笑うと、爽やかな笑顔でリディアとロザリアに言う。
「良かった、これで後顧の憂いはない。行こうか、ガイ」
「うむ、私も思い残しがないように思いっきり暴れてやろう」
ガイはそう言って笑う。ジュチは右手の人差指を翠色に光らせ、転移魔法陣を描く。
「ではお二人さん、頼んだよ?」
ガイに続いて転移魔法陣に姿を消そうとしたジュチに、ロザリアが笑いかけた。
「ジュチ、おぬしは私との約束、覚えておるじゃろうな?」
ジュチはロザリアを見た。ロザリアは真剣な目でジュチを見ている。うかつな返事をしたらロザリアこそ『影の軍団』と戦うと言い出しそうであった。
「もろちん、覚えているよ」
ジュチはそう言い残して転移魔法陣に消えた。
「ジュチもガイも、死ぬ気じゃな……」
二人が転移魔法陣に消えたあと、ロザリアはポツリと呟く。
「えっ?」
それを聞きとがめたリディアが、
「どういうことさ! ねえ、ロザリア、それってどういうこと?」
と顔を青くして聞いてくる。ロザリアは首を振って言った。
「……何でもない。今の言葉は忘れてくれ」
けれど、リディアは黙っていない。
「忘れられないよ! ジュチとガイが死ぬつもり、なんて聞いたら。その『影の軍団』って、そんなにヤバい奴らなの?」
すると、ロザリアは沈痛な面持ちで頷いて言った。
「うむ、一言でいうと、『影の軍団』とは戦いようがないのじゃ」
「戦いようがない? それ、どういう意味さ? そいつら幽霊かなんかなの?」
リディアが訊くと、ロザリアは短く答えた。
「奴らは反物質じゃ」
「反物質?」
オウム返しに訊くリディアに、ロザリアはため息をついて言う。
「私たちは皆、物質でできておる。そして、この空間に存在する物質と反対の性質を持つ物質を反物質と呼んでおる」
「それじゃ、こちらの攻撃が効かないんだね?」
リディアが言うと、ロザリアは頭を振って、リディアを見つめて言った。
「攻撃が効かぬのならまだ良い。物質と反物質はお互いに性質を打ち消し合うものじゃから、私たちが触れたら、私たちもろとも消滅する。だから戦いようがないのじゃ」
「そんな……」
リディアはしばらく絶句していたが、不意に強い口調で言った。
「でも、アタシはジュチを信じるよ。アタシたち、幼いころからいろんな冒険をしてきたけど、困ったときはいつもジュチが知恵を出してくれたもん! ジュチなら、そんな奴らとの戦い方もきっと考えているよ」
ロザリアは、仲間を信じて疑わないリディアの顔を見つめた。リディアの茶色の瞳は、絶対の信頼を浮かべてキラキラとしている。
「……うむ、私もそう信じておくか。あのクズエルフは知識の宝庫じゃし、時たまにはとんでもない策を考えついておったからのう」
そう言って、ロザリアも笑った。
「……お前は優しいな」
バビロンの門前に姿を現したガイは、遅れて転移魔法陣から出てきたジュチに向かって言った。
「何のことかな?」
ジュチが訊くと、ガイは深い海の色をした長い髪を揺らして言う。
「まあ、俺は姉や仲間の仇が取れれば、後はどうでもいいことさ」
その言葉に、ジュチは碧眼に鋭い光をたたえて言う。
「生死も度外視ってわけかい? それは困るな」
「何が困る?」
眉間にシワを寄せて訊くガイに、ジュチはサラリと言った。
「キミは、ホルン陛下が国政を執られるようになったとき、いい将軍として活躍してくれると期待しているんだがね?」
その言葉に、ガイはビックリして言った。
「私が将軍? ザール殿やティムール殿がおられるではないか? まさか貴殿が……」
ジュチは、いたずらが見つかったときのように笑って答えた。
「勘違いしないでくれ、ボクはまだ何も言ってはいない。ただ、これまでのガイの指揮を見て、ザールが言う『すべての種族が互いに尊重し合う世界』に、アクアロイドの将軍がいてもおかしくはないと思っただけさ」
ガイは頭を振って言う。
「先のことは解らん。『影の軍団』にすら勝算が立っていないのだ。だいたい相手は反物質だ、戦いようがない。だからお嬢さん方をあそこに残したのだろう? ジュチらしいといえばらしいが」
ジュチは片目をつぶって言った。
「まあ、『影の軍団』はなんとかなるさ。それよりさっき言ったこと、冗談抜きで考えておいてほしいな」
「……私がこの戦いを生き残ったら考えてみよう」
ガイは遠くを見つめる目をして言った。
★ ★ ★ ★ ★
「来るな」
ザールは緋色の瞳をした右目を光らせて言う。空間の振動は大きくなって来ており、ザールの六枚の翼には今や強大な魔力……というより存在感というべきか……とにかく空間の色そのものが変わったような、重苦しい空気の流れを感じていたのだ。
「……とにかく、ホルンが目覚めるまで、僕があいつを抑えておかないと、バビロンを始め王国は火の海になるぞ」
ザールは『アルベドの剣』を抜くと、
「あそこだ!」
ザールは、常人には見えない『空間の歪み』を見つけると、『アルベドの剣』を振りかざしてそこに突入していった。
「やっ!」
ギャギャギャギャギャ!
『アルベドの剣』は、空間を甲高い響きとともに切り裂く。そこにはポッカリと真っ黒な深淵とも言うべき穴が開いた。
「……何を恐れている。皆のために戦うのが戦士の務めじゃないか!」
ザールは、抑えても頭を持ち上げてくる恐怖を振り払うように、大声でそう言うと、
「だああああーっ!」
空間の歪みに飛び込んでいった。
「これは、魔族にしても大きい存在感だ……プロトバハムートには及びもつかんが、ただ者ではないな」
アンティマトルは、はるかな次元の中でそうつぶやいた。目の前には散乱した光が閉じ込められている光景が続いている。光さえ真っ直ぐには進めない空間の中で、アンティマトルは巨大な翼を広げていた。
「ただ者ではないが、余はプロトバハムートを圧倒していた。エネルギーの摂理が平等ならば、余こそ世界の主宰者だったのだ……面白い、『四翼の白竜』とか言うプロトバハムートの代理であろう。余に対してどれだけ抗えるかを試してやろう」
アンティマトルはそうつぶやくと、その巨体を傾けて次元の歪みから世界へと飛び込もうとした。
その時、
「だああああーっ!」
ジャキン!
ザールが次元の歪みから飛び込んできて、アンティマトルの鼻っ柱に『アルベドの剣』で斬り付けた。
「くそっ! やっぱり硬すぎる」
ザールはそう言いながら、六枚の翼を広げ、アンティマトルの頭の上へと飛んでいく。大きい、覚悟はしていたが、アンティマトルの頭の大きさは、体感で大きな島一つ分は十分にあった。
「……『アルベドの剣』か。それを使えるところを見ると、そなたが噂に聞く『四翼の白竜』とやらだな?」
アンティマトルは普通に喋っているのだろうが、それを聞いたザールはブリザードの中に叩き込まれたような気がした。それほど、アンティマトルの存在は大きかったのだ。
まず、大きさの全体像がつかめない。視覚的にはザールとアンティマトルの距離は100メートルもないようだが、ザールの視界にはアンティマトルの顔がいっぱいに広がっていた。翼の先や尾の先、手足などは、とうていここからはそのすべてを見渡すことはできない。
アンティマトルの方から言えば、人間形態のザールは芥子粒以下で、その姿は小さすぎて見えない。けれど彼がザールの存在を感知できたのは、ザールと『アルベドの剣』の強大な魔力のなせるわざだった。
「人間よ、そなたの魔力は確かに人間という種族が発するものを遥かに超えていることは認める。しかし、余を眠らせられるのはプロトバハムート以外存在しない。そのプロトバハムートにすら、今の余は負ける気がしない。代理者たる『四翼の白竜』よ、無駄に命を捨てるな」
アンティマトルは、ザールに向かってそう呼びかけた。その悠揚迫らぬ態度は、まさに王者の雰囲気と言ったところだった。
けれどザールは大声で拒絶の意思を叫んだ。
「忠告はありがたいが、僕は今の世の中の摂理を守らねばならない。勝負はやってみないと分からない。アンティマトルよ、準備はいいか!?」
そう言うとザールは『アルベドの剣』に『魔力の揺らぎ』を乗せて、思いっきり上から下へと振り抜いた。
「やあーっ!」
ジャンッ、パーン!
「むっ?」
刃の長さが60センチしかない『アルベドの剣』だったが、ザールの魔力を乗せて、その危害半径は500メートルに達していた。まあ、アンティマトルにとってはかすり傷程度にしかならなかったが……。
しかし、その刃は鈍い音とともにアンティマトルの巨大で硬い鱗を叩き割った。その人間離れした能力は、アンティマトルの注意を引くにふさわしかった。
「なるほど、人間にしては強すぎ、神たるドラゴンであるにしては弱すぎる……行き場のない中途半端さだな」
アンティマトルは、その瞳を緋色に変えた。その視界に、身体の左半分をドラゴンの鱗で覆い、六枚の翼を生やしたザールの姿が映る。
「むっ?」
アンティマトルは、左半身を白く輝く鱗に覆われ、六枚の翼を広げたザールの姿を実際に見て、眉をひそめた。
「アンバランスだ」
アンティマトルはそうつぶやく。それは、太古の昔、彼がプロトバハムートと戦ったときのことを思い出させた。
★ ★ ★ ★ ★
「なるほど、それでわざわざここにおいでになったってわけですか」
ジュチとガイは、バビロンに戻ると、まず自分たちの部隊に戻った。もちろん、部隊全員をバビロン住民の警護に当てて避難させるためである。
けれど、ジュチの『妖精軍団』は、『影の軍団』の話を聞くと、副将をはじめ全員が戦闘参加を望んだ。
「ジュチ、これまでアンタはみんなにどれだけ心配かけたと思ってるの? パラドキシアのときも、ザッハークのときもそう。アンタは自分の部隊をほっぽって勝手に戦って、しかも何日も帰ってこなくて……部隊長がそんなんでいいと思ってるの?」
アルテミスが言うと、副将のサラーフが、葡萄酒色の髪をかきあげて言う。
「まあ、アルテミスは特別、ジュチ様のことを心配していましたから」
「ばっ! バカッ! そ、そんなんじゃないわよ! アタシはただ、せっかく『妖精軍団』がいるのに、ジュチ一人だけで戦わなくてもいいじゃないって思って……」
顔を真っ赤にしたアルテミスが、慌ててサラーフに抗議する。それを見て、ジュチは微笑んでアルテミスに言った。
「心配かけてすまなかった。今までは相手が一人だったことと、部隊で戦った場合に混乱を起こしてしまったら、かえってこちらのスキを突かれることになるから一人で戦ったんだ。その意味では、今度の相手は最悪だ。相手にはこちらの攻撃はまず効かないし、相手の攻撃は即死攻撃だからね。だからキミたちを作戦に参加させるつもりは最初なかったのだけれど……」
そう言うとジュチは、アルテミスの頬をなでながら、
「けれど、今度はキミたちにも協力してほしい。相手が反物質であっても単に時間を稼ぐだけなら何とかなりそうなんだ。けれど、ボク一人ではどうしても粗い魔法になってしまう。もっと精緻な魔法が望ましいから、キミたちの力をぜひ貸してほしい」
そう頼んだ。アルテミスは、ジュチの碧眼に見つめられて、頭がポウッとしてしまいそうになるのを何とか振り払っていう。
「ち、ちょっと! 恥ずかしい真似はやめなさいよ! ちゃんと協力するから!」
「それは助かる。では、ガイの部隊とのすり合わせが必要だから、各隊長たちを集めておいてくれないか?」
一方、ガイの部隊でも、
「相手が『影の軍団』だろうが神の軍団だろうが、我らアクアロイドの敵であれば、戦って叩き潰すまでです!」
という意見が大勢を占めた。
ガイはうなずいて言った。
「私も諸君と同じ考えだ。だが、私は諸君の誰一人として無為に失いたくはない。そこで、今回はハイエルフのジュチ・ボルジギン殿と共同戦線を張る。彼の作戦に基づいて、憎きアンティマトルに対し、その眷属たる『影の軍団』を叩くことで復讐の代わりとしたい。諸君の力を、今一度私に貸してくれ!」
アクアロイドの諸将兵は、ガイの言葉にうなずいた。
「わかりました。相手は私どもの手に余る敵、あなた方の勧告に従い、住民を連れて安全地帯に退避しましょう」
バビロンを守っていた二人の枢機卿は、微笑んでジュチとガイにいう。
「けれど、あなた方も、決して無茶な戦いはしないでください。女神ホルン様は生命大事にとおっしゃっていましたから」
シルビア枢機卿が言うと、ジュチはうざったく伸びた金髪を、形の良い指で弄びながら答えた。
「ご心配なく、お姉さま。ボクは負けると分かった勝負はしない主義ですのでね?」
するとシルビア枢機卿は、
「あなた方に、女神ホルン様の御加護がありますように」
そう目をつぶり祈った。
やがて目を開けると、穏やかな表情でジュチとガイに告げた。
「女神ホルン様は、いつもあなた方とともにあります。あなた方は、苦戦の中でもそれを乗り越え、死線をかいくぐって女神ホルン様のもとに戻る運命にあります。心置きなく戦ってください」
そこに、部隊を召集していたジョセフィン枢機卿が現れて、シルビア枢機卿に言った。
「シルビア枢機卿、部隊が集まりました。いつでも出撃可能です」
それを聞いて、シルビアは笑って言った。
「では、最後の決戦の邪魔にならないよう、私たちは住民の皆さんを連れてサルサル湖畔に避難しておきます。そこの守りは、私たちと女王軍にお任せください」
そう言って二人の枢機卿が出ていったあと、ジュチとガイは顔を見合わせてニヤリとした。
「軍師殿、どうやら俺たちは死なずに済むようだぞ?」
ガイが言うと、ジュチは片方の眉を上げて答えた。
「その前に、苦戦は免れないようだけどね?」
★ ★ ★ ★ ★
「アンバランスだ」
アンティマトルはザールの姿を見てそうつぶやく。それは、太古の昔、彼がプロトバハムートと戦ったときのことを思い出させた。
――プロトバハムートは、絶対の存在ではない。彼も余も、すべては宇宙の意識といったものの発現に過ぎない。
アンティマトルは、目の前に『存在する』プロトバハムートの意識を感じながらそう思った。
この世界は光が自由には動けない世界、物質としては素粒子以外はまだ何も存在しない世界であった。
だが、戦いを始める前に、アンティマトルはふと思った。
――意識とは、何であろうか。我らはまだ形を成さぬが、意識はある。プロトバハムートという『余以外の意識』すら感じ取れる。これは素粒子に依存するのか、それとも宇宙という『場』に依存するのか?
けれど、アンティマトルは深く考えないことにした。まだこの世界は半形成だ。その基本的な法則や定数も決定していない。
――宇宙に意識があれば、法則や定数は決まっていそうなものだが……。
アンティマトルは、そう思うと、
「だからこそ、余が世界の主宰者ともなりうるのだ!」
そう叫んで、プロトバハムートへと突っ込んでいった。
「……アンバランスだ、あの男の『魔力の揺らぎ』は、余にとっては不愉快な事実を思い出させる」
アンティマトルは、そう言うとザールに向かっていきなり『崩壊の序曲』を放った。
その火球は、まるで太陽のように明るく、一つの島ほどの大きさがあった。
グオオオン!
「わっ!」
ザールは、辛うじてその火球を避けたが、
「ぐっ!」
命中こそしなかったものの、その凄まじい温度はザールの息をつまらせるほどだった。
「や、やばいな……大きさといい、強さといい、桁が違いすぎる」
ザールは、彼らしくもなくそう思う。
けれど、彼が思い出したのは、
『“ノイエスバハムートよ、そなたの役目はあと少しで終わる。アルベドを封印すれば、そなたの能力は封印を完全なものとするために、そなたの身体から抜けることになる”』
というプロトバハムートの言葉だった。
その言葉どおりに受け取れば、ザッハークのアンティマトルを倒し、女神アルベドを封印した今、自分にはノイエスバハムートとしての力は残っていないことになる。
しかし、アンティマトルが目の前にいるということは、ザッハークのアンティマトルは偽物だったか、女神アルベドの封印がうまく行かなかったかのどちらかである。
「いや、アルベドは確かに封印した。『クリスタの剣』と僕のこの手で……ということは、やはりザッハークのアンティマトルは……」
「影だ、ノイエスバハムートよ。貴様は私の影と戦い、それに勝って喜んでいたのだ」
ザールのつぶやきに、アンティマトルがそう言って答えた。
「プロトバハムートほどのものが、余と余の影を見間違えるとは、彼の『世界』ももう終わりだという験だな。そなたたちも不憫なものだ、消えゆくものと心を通わせたがために新たなものの験が見えなかったのだからな」
ザールは、『アルベドの剣』を構えて言う。
「黙れ! 今、世界にどれだけの生き物がいるか理解っているのか? みんな、世の理に沿い、自らの生を生きているのだ。悲しんだり、苦しんだりすることもあるし、辛く厳しい時を生きているものだっている。でも、それぞれが大切な生命だ。それをみんな消し去っていいのか?」
アンティマトルは、緋色の瞳を持つ目を細めて笑った。
「はっはっはっ、自らの思いで地上に生を創るものは、自らの思いでその生を抹殺できるのだ。それに、全てを消し去るということは、『無くなる』と同義ではなく『無かった』と同じ意味だ。消えゆく者共にはなんの苦しみもないし悲しみもない。そなたが心配することもないのだ』
「あなたも、そしてプロトバハムート様すらも、決して永遠を生きる存在ではないと聞きます。ただ、生きられる時間が悠久とも言うべき長い時間なだけで、いつかは滅びる……その意味では、僕たち人間同様、あなた方始原竜の一族すら、宇宙の摂理の中にあるわけです」
ザールは静かにいう。アンティマトルは、そんなザールの言葉を黙って聞いている。
「ではアンティマトルよ。あなたは生きとし生けるものに『永遠』を与えることはできるのか? 宇宙の摂理に『永遠』を組み込むために、あなたはどの時空間で今の摂理を書き換えるつもりでしょうか?」
ザールの言葉に、アンティマトルは考え込んだ。ザールが言っていることは、アンティマトルが常日頃感じていた疑問に通じるものがあったためだ。
それは、
――宇宙には、『永遠』が組み込まれているのか?
ということだった。
「宇宙は、不完全だ」
アンティマトルは、ザールの目を見ながらそういう。
「生命あるものはやがて死に、形あるものはいつかは壊れる……余は永遠を求めた。一度形を結べば、未来永劫にその形は壊れない、そんな世界を求めたのだ。それこそが完成形だとは思わないか?」
「僕はそうは思わない!」
ザールがきっぱりと言った。
「なぜなら、変わっていくことこそが自然だからだ。もし、あらゆるものの状態が一定で不変のものだったならば、宇宙は何物をも生まなかっただろう」
アンティマトルは、それを聞いて笑って言った。
「フフ、人間の若造だと思っていたが、摂理については色々と考えておるようだな。そなたのような者を倒すのも惜しいが……」
そして、アンティマトルはその目を緋色に燃え立たせて言った。
「……それでも余は、余の思う世界を見てみたい。そなたには消えてもらおう。『崩壊の序曲』!」
アンティマトルは再び火球を放つ。その火球は、先にザールが避けたそれよりも数倍の大きさだった。
――いかん、大きくて速い! これでは避けられない。
ザールは迫りくる火球を見つめて、唇をかんだ。
★ ★ ★ ★ ★
「やって来たようだぞ」
バビロンの城頭で、ガイが遠くを眺めて言う。ジュチもうなずいて答えた。
「……思ったよりも早かったな。アンティマトルも勝負を急いだのかな?」
「ここに『影の軍団』が現れたということは、ザール様がアンティマトルの迎撃に成功したということだな?」
ガイの言葉に、ジュチは細くて形のいい顎を右手で押さえながら言う。
「……少なくとも、ザールがアンティマトルを足止めしているのは確かだね。ガイ、キミの部隊はどの辺りに展開している?」
ガイは、海の色をした髪を揺らし、左手に持った蛇矛『オンデュール』で左手に見える森を指して答えた。
「あの森の中に、おあつらえ向きに川が流れていた。われわれはその川を退避路として使うので、『妖精軍団』も思い切り暴れてもらって構わない。何なら、あの丘ごと吹き飛ばしてもいいぞ」
ガイの冗談めいた言葉に、ジュチはニヤリと笑って言う。
「おお、それではボクたちも遠慮せずに魔力を全開にさせてもらうよ。奴らの進撃は思ったより速い、あまりここで話をしている時間はないかもしれないな」
それを聞いたガイは、『オンデュール』を身体の横に立てて、
「そうだな。奴らを罠にはめたら、今度こそ戦いのない世の中が訪れるのだろうな」
そう言って笑う。寂しそうな笑いだった。
ジュチも同じような笑いで返す。
「ホルン女王様のもとで、この国はまたかつての勢いと平和を取り戻すだろう。さて、そんな日を一刻も早く迎えるために、出陣するとしようか」
二人の驍将は、黒い雲のように大地に広がり、バビロンを遠く包囲している『影の軍団』を望見しながら笑っていた。
「手筈は分かっているだろうね?」
急ぎ最前線にいる自陣に合流したジュチは、副将であるサラーフとヌールに訪ねる。二人の副将は、いつもと変わらぬ態度でジュチに報告する。
「私の部隊5百はヌールの部隊5百とともに、ジュチ様指定の場所に『魔力の門』を仕掛け終えています。そこまでの順路には、お言いつけどおり魔力による目印を設置し、ヌールの部隊は西に、私の部隊は東に埋伏しています」
ジュチはさらに二人に地図を見せて尋ねる。
「この作戦は、一歩間違えるとガイのアクアロイド隊まで危険にさらす。失敗したらバビロンどころかこの世界が終わるよ? 念のために『魔力の門』と目印の位置を指し示してくれないか?」
「ここです。『魔力の門』はここで、順路の目印はここと、ここと、ここに設置しています」
サラーフとヌールは慎重に地図を調べると、自分たちが設置した魔力の罠の位置を指し示していく。それをアルテミスが青い顔をして見つめていた。
ジュチは、隣に立っているアルテミスの異常な緊張に気づいた。
気の強いアルテミスは13歳のころから魔物狩りや戦いに加わっていた。
本人もそれを自慢し、時には無鉄砲なくらいの指揮ぶりを見せることもあったが、ジュチはその欠点に気づいていた。
――アルテミスは、戦場では恐怖の高まりによって意識が飛ぶことがある。そんな時の彼女は天性の勘とディアナの落ち着きとで切り抜けてきたが、今回はディアナがいない。下手をすると全滅しかねないな。
ジュチはそんな危惧を覚えていた。そこで彼は、一心に地図を見るそぶりをしていアルテミスに、静かに笑いかけた。
「アルテミス」
その言葉で、アルテミスは硬直が解けたかのようにハッとして、慌てて地図に見入る。
「アルテミス、その場所と順路はちゃんと覚えておくんだ。さもないとガイの部隊も危険にさらすし、キミも戻ってこられなくなるかもしれない」
ジュチが言うと、アルテミスは強いて笑顔を作って答えた。
「だ、大丈夫だよ。アタシはこれでも戦場には慣れているんだよ?」
けれど、その言葉はジュチの悲しそうな碧眼を見た途端に途切れた。
「……戦に慣れた者なんていないよ。ボクだって作戦が図に当たるまではドキドキしっぱなしだし、水すら喉を通らない。ただ、諸将や兵の手前、落ち着いているように見せているだけだ。それでも戦うのは、戦った先に自分の理想があると信じているからだ。そうでないとやっていられない……」
「ジュチ……」
ジュチの静かな告白に、アルテミスの肩が震え始めた。いつもこんな時には双子の妹であるディアナがいてくれた。けれどそのディアナは、『七つの枝の聖騎士団』によって命を落としていた。初めて一人で指揮を執るのは不安だったアルテミスは、ジュチの言葉で自分の正直な気持ちが分かった。
「……や、やだな……そんなこと言われると、わ、私も不安になるよ」
ジュチはアルテミスの言葉を聞いて、優しくその肩を両手でつかんで言った。
「……こんな時は誰でも不安さ。ボクが心配するのは、キミが不安で押し潰されそうになった時、蛮勇に似た行動をしやしないかってことだ。ディアナだけでなくキミまで失うことは、ボクにとって勝利の価値を無にするに等しい。臆病は卑怯とは違う。今度の戦いでは臆病な指揮を見せてくれ。それができなければ、この城に残ってボクの死体を収容してくれないか?」
それを聞いて、アルテミスは夜空の色をした髪を揺らし、同じ色をした瞳を持つ目をいっぱいに開いて言った。
「いやっ! 私だってディアナに続いてあなたまで失ったら、何のために戦ったのか分からなくなるし、ホルン女王様やザール様のことを一生恨みそうで怖い。私は死ぬならあなたと一緒がいい!」
するとジュチは、この上もなく優しい笑顔でアルテミスの髪をなでながら言った。
「ありがとう、嬉しいよ。ではボクの大事なキミに一言言っておくよ。キミが『死なない戦い』をしてくれれば、この戦は勝ちだし、ボクも死ななくて済む。それは約束するよ」
アルテミスがうなずいた時、サラーフが叫んだ。
「ジュチ様、奴らが動き始めました!」
ジュチはそれを聞くと、顔を上げて鋭い瞳で敵の動きを観察した。バビロンを包囲した『影の軍団』は、ざっと見て5万程度。そのうち3万以上が北の平滑な地に陣を敷いていた。主攻撃線を北から指向し、東と西から助攻をかけ、南は開けておく……城攻めの正攻法ともいえる方法である。
敵の展開も、教科書どおりのものだった。
ジュチは敵が、右翼にある森にはほとんど注意を払っていないのを見て、微笑してサラーフやアルテミスに言った。
「ふふ、どうやらボクたちは死なずに済むようだよ? あとはザールが頑張ってくれるかだね」
この戦いの最後の決戦である『バビロンの戦い』が始まろうとしていた。
(56 最後の決戦 完)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
いよいよ大詰めです。
ホルンはこの戦いの後に何を得るのか、そしてザールや仲間たちは?
次回『57再生の大地』は土曜日に投稿します。お楽しみに。




