47 女神の思惑
パラドキシアを倒したホルンたちだったが、女神アルベドにオリザがさらわれてしまう。
ザッハークの力を目覚めさせ、終局へ向けてひた走る女神アルベドの反撃が、もうすぐ始まる!
【主な登場人物】
♡ホルン・ファランドール…『死の槍』と『アルベドの剣』を持ち、辺境で名を上げた女槍遣い。前国王の娘で王国の現状に改革を志す。翠の瞳と銀の髪を持つ。26歳。
♧コドラン…シュバルツドラゴンのこどもで、生き別れになった母を探すためにホルンとともに旅をしていた。小さいが気が利く、ホルンの良き仲間である。15歳程度。
♤ザール・ジュエル…“東方の藩屏”トルクスタン侯国の世子で『白髪のザール』の異名を持つ。ホルンとともに王国の改革を志す。白髪に緋色の瞳を持つ。23歳。
♡リディア・カルディナーレ…ザールの幼馴染でジーク・オーガの王女。接近戦では無双の強さを誇る。額に角を持ち、茶色の髪に茶色の瞳をしている。21歳。
♤ジュチ・ボルジギン…ザールの幼馴染で『この世で最も高貴な一族』であるハイエルフの首領の息子。頭脳明晰で魔力に長けるがチャラい。金髪碧眼の美青年。23歳。
♡ロザリア・ロンバルディア…ザールに一目ぼれして仲間に加わった魔族の女性。冷静冷血で魔術に長けている。黒髪と黒曜石のような瞳を持つ。21歳。
♧ガイ・フォルクス…26年前にスケルトン軍団から国を滅ぼされたアクアロイドの王族。頭脳明晰で冷酷非情だが仇討に協力したホルンに恩義を感じている。29歳。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
膝をつくジュチを楽しげに眺めながら、パラドキシアはジュチに近づいてくる。その手には鈍い光を放つ鎌が握られていた。
「さ、これでアンタの魔力ごと刈り取ってやるよ。動かないでよ、怖くないからね?」
パラドキシアがジュチの髪の毛を掴んで顔をひき上げ、鎌を喉に突き付けた時だった。
ジュチが笑った。
唇の端から血を流しながら、ジュチは笑って言った。
「……『次元の崩壊』……」
「うっ?」
パラドキシアは、突然、23次元空間が収縮していくのを感じた。いや、感じたと言うほどの時間はなかっただろう。何せ光速で起こった出来事だったから。
けれど、その瞬間という時間の中で、パラドキシアは確かにジュチの声を聞いた。
「さて、一緒に消滅しようか」
その声が耳朶に届き、その意味を理解する前に、パラドキシアの意識は途切れた。
戦いは峠を越えたようだ。右側では巨大なドラゴンが敵軍に咆哮と共に魔力を浴びせかけていた。中央付近でも敵軍は散り散りになりかけている。
「……みんな、よくやってくれたみたいね」
ホルンがつぶやくと、急に背後から禍々しい魔力を感じ、総毛だったホルンは『死の槍』をそちらに向けながら跳び下がった。
そこには、複数の頭を持つ巨大な蛇が、ゆらゆらと頭を揺らしながらこちらを睨みつけていた。
「アタシの可愛い部下たちを、よくもやってくれたわね」
大蛇の中央にあるひときわ大きい頭が、鎌首を持ち上げながら言う。その両眼は赤く光り、首元には赤黒い瘴気を含んだ粘液がねらねらとまとわりついていた。
「……ケーニクスヒュドラね」
ホルンが翠の瞳を持つ目を細めて言う。パラドキシアは鎌首と共に他の首や背中の翼を持ち上げながらうそぶいた。
「……この世は、強さで幸せが決まる。アタシが強ければ、あの時死なずに済んだ。けれど今、アタシは不死身の身体と魔力を手に入れた。もう怖いものはない」
パラドキシアは一気にそう言うと、首を持ち上げ、翼を広げてホルンに言い、高らかに哄笑した。
「さあ、女神アルベド様の宿敵ホルンよ、アタシの手でアンタをアルベド様への供物にしてやるよ! 覚悟しておくがいい!」
その声とともに、パラドキシアは高く飛び上がり、九つの口から次々と瘴気の魔弾を吐きだしてきた。
「……不死身、か……」
ホルンは魔弾を躱しながら、片翼の黒竜に身を変えて空に舞い上がる。
「……だったらいいわね!」
ぶうつん!
ホルンの『魔力の揺らぎ』を乗せた『死の槍』は、ホルン目がけて放たれた魔弾を破砕するとともに、パラドキシアの九つの首をすべて薙ぎ払った。
「グワーッ!」
パラドキシアが悲鳴を上げる。八つの首は断末魔の声を上げながら地面へと落下し、鈍い響きを立てた。
しかし、中央の首は喉元から血を噴き出しながらも、
「その程度では効かん!」
そう叫ぶと、落とされた首の後から次の首が生えてきて、そのままホルンに襲い掛かってきた。
「……やっぱり厄介な相手ね、むっ⁉」
ホルンがパラドキシアの首を避けながら下を見ると、先に刎ねた首たちが自分に向けて突進してくるのが見えた。どうやらパラドキシアの首は、切り離してもしばらくは自らの意思で動けるらしい。
「これはさらに厄介ね。どのくらいで魔力が切れるのかしら?」
ホルンがそう言って困惑していると、
ボウウッ!
グアアッ!
こちらに向けて突進してきていた首は、大きな炎の塊に捕らえられて消滅した。
「コドラン!」
『ホルン~、助けに来たよ~』
見ると、コドランがこちらに向けて一生懸命飛んでくるところだった。ホルンの危機を見て、とっさにファイアボールを放ったらしい。
「助かったわ。コドラン、これを!」
ホルンは、コドランに向けて魔力を込めた『死の槍』を放る。コドランはすぐにホルンの意図を理解し、『死の槍』を両手でつかんだ。
すると、コドランは『死の槍』の放つ赤く、そして翠の『魔力の揺らぎ』に包まれ、たちまちのうちに全長30フィート程度の精悍なシュバルツドラゴンへと変化した。
『お待たせしました、ホルン様』
コドラン……いや、ブリュンヒルデは巨大な翼を広げて、あっという間にホルンの近くまで来て言う。
「ブリュンヒルデ、あいつはケーニクスヒュドラよ。不死身らしいわ」
ホルンがそう言うと、ブリュンヒルデは琥珀色の瞳でパラドキシアを睨み据えて、皮肉そうに言った。
『古来、不死身と自称したもので死ななかったものはいませんが?』
ホルンもうなずいて言う。
「ヒュドラ、アンデッド・ジル、そして『王の牙』スジューネン・アンダルシア……みんな『不死身』ではなく、『死に遠い者たち』だったわ。あいつもきっと倒せるはずよ」
そしてホルンはブリュンヒルデの上に立つと、『死の槍』を構えて命令した。
「行くわよブリュンヒルデ!」
『承知いたしました!』
ブリュンヒルデは大きく翼を広げ、素晴らしいスピードでパラドキシアに接近する。
パラドキシアも瘴気の魔弾を発射するが、それはすべてブリュンヒルデにかすりもしなかった。
「やっ!」
ガイン!
ホルンの『死の槍』の斬撃が、鈍い音と共に弾かれた。パラドキシアの身体に一筋の切り傷がついているが、それはある一点で消失していた。
「あそこがあいつの弱点よ!」
ホルンは、以前に戦ったヒュドラのことを覚えていた。
――あの時、ジュチのマグナムショットを弾き返した部分に、弱点となる心臓が守られていた。
ホルンは、『死の槍』に魔力を込め始める。
「わが主たる烈風と、わが真の友たる炎が依る『スナイドル』よ。その秘められし能力をわがために開放し……」
ホルンの呪文詠唱と共に、『死の槍』の穂先は赤と翠の炎を上げ始め、周囲の空間を振動させ始める。
けれど、パラドキシアは
「させないよっ!」
そう叫ぶと、八つの首を伸ばしてホルンに襲い掛かって来た。
『私にお任せください。女王様は呪文詠唱を!』
ブリュンヒルデがファイアボールを放ちながらホルンに言う。ホルンは頷いて続きを詠唱し始めた。
「……我らの、地上の楽園を欲する正義の志を嘉し、魔道の者を退けるため、暴虐な堕ちた神の眷属に『Memento Mori(死を思い出さ)』せよ! それは『Et in Archadia Ego(死は何処にでもある)』故になり!」
『くっ!』
ガギン、ガギン!
パラドキシアの首は、ブリュンヒルデの腕や羽に噛みついてきた。しかしその牙はドラゴンの固い鱗を貫くことができず、火花を散らして砕け散る。
『鬱陶しいヤツだ、こうしてやるっ!』
グワーン!
「ぐわああっ!」
ブリュンヒルデはパラドキシアにそのまま体当たりする。ブリュンヒルデの角が、パラドキシアの胴体と首の付け根に突き刺さり、そこから紫色の瘴気が噴出した。
「ぐええっ! き、貴様っ!」
どうにかしてブリュンヒルデを突き離そうとするパラドキシアを押さえつけるようにして、ブリュンヒルデはホルンに叫んだ。
『女王様、今です!』
ホルンは、今や十分に魔力を集積し、翠色の『魔力の揺らぎ』に緋色の炎を燃え立たせている『死の槍』をかざし、パラドキシアに飛び移るとその心臓部に突き刺した。
「魔道のものは直ちに滅せよ! 『真空の揺らぎ』!」
「ぐああーっ、アタシが敗けるはずないーっ!」
ホルンの叫びとともに、パラドキシアは身体の中から物凄いエネルギーが弾ける感覚に満たされる。それは地獄の業火のような熱さをもってパラドキシアの身体を焼き尽くし、そして粉々に消し飛ばした。
ホルンは翠色の光に包まれて空に浮かんでいた。その頭の中に、あの優しい声が語りかけてくる。
“私の『剣の力』である『クリスタの時間』をしっかりと受け止めているようですね。あなたの輝きは私の輝き、その輝きをさらに磨いてください”
すると、ホルンの身体中に温かい力がみなぎっていくような感じがして、ホルンは思わずため息をつく。
“あなたに、『智慧の力』が融合する時が近づいてきました。その時は運命ですので、何事にも心を動かされることなく、私の言葉を思い出してください”
「はい」
ホルンがそう答えると、周りを包んでいた暖かい光が消え、ホルンは地上へと降り立った。かなり激しい戦いだったはずなのに、あまり疲れていないのが不思議だった。
「……何とか、パラドキシアを倒したみたいね」
そうつぶやいた時、ブリュンヒルデの慌てた声が聞こえて来た。
『大変です、女王様。オリザ殿が攫われました!』
★ ★ ★ ★ ★
カッパドキアは、自然の造形の力を感じさせる土地である。そこには太古から長い時間をかけて形作られた独特の地形が広がっている。
特に特徴的なものは、高さが50フィート、100フィートに及ぶ土の列柱であろう。それはまるで土筆のように、あちらこちらに屹立していた。
女神アルベドの神殿は、そんな風景の中にあった。その昔、英雄ザールによってこの地に封印された女神は、長い年月ここで眠っていたが、ある日たまたまここに降り注いだ流星群によって封印は破られた。
以来、女神アルベドはカッパドキアに放棄された古城をその棲み処として、来るべき日のために仲間を集め、指令を出し、そして女神ホルンの再臨を見張り続けていた。
しかし、彼女は知っていた。自分が女神ホルンの再臨を見つめているように、自分のことを危惧をもって見つめている存在があることを。
その存在は、時には旅人として、時には近くの村の住人として、そして時には『神聖生誕教団』の司祭として、彼女の眠りがどのくらいであるかを探っていたのだ。
そいつの名は、ゾフィー・マール。人間なのか、魔族なのかは女神アルベドをもってしても判断がつかなかった。
そいつは、彼女の結界が壊れる以前から、彼女のことを見張っていたようだった。攻撃してくる様子はさらさらなかったが、アルベドはそいつの視線を四六時中感じていた。
そして、長い時が経ち、ファールス王国に後にシャー・ローム3世となる王子とザッハーク2世となる王子が生まれた時、アルベドは遂に時が来たことを確信した。
「確執の王子たちが生まれた。我が復活と制覇の時が来た」
アルベドはその時、神殿の封印から自由になった。
しかし、それと同時に、アルベドはゾフィーの存在以外にも『運命の車輪』が回っているような感覚に襲われた。それは女神である自分でも如何ともしがたい、抗いがたい力で運命を引きずられているような感じであった。
「これはプロトバハムートであろうか?……それならそれでよい。わらわは自分の運命をプロトバハムートから取り戻し、わらわ自身の運命を引きずっていってくれるわ!」
アルベドはそうつぶやくと、カッパドキアの神殿から東に向かい、神話に出てくるような朽ちた古城に居を構えたのである。
――女神アルベド様が復活された。
その噂は魔族から魔族へと伝わり、古い配下であったワイバーン族は勇躍してカッパドキアへと羽を連ねた。
「女神アルベド様、わが一族に伝わる伝承のとおり、我々ワイバーンは女神アルベド様のために粉骨砕身し、アルベド様の威徳を全世界に広げます」
――ワイバーンの長であるグライフが、爬虫類のような目に光を灯しつつそう言ってくれたことが、まるで昨日のことのように思い出せるのう。
アルベドはそう、昔を懐かしむような目をする。いや、昔とは言ってもたかだか50年弱の時間しか経っていない。自分が待ち焦がれた時間と比べると、それはわずかなものに過ぎなかった。
「……それと同じくらいの時間を、ホルンは眠っていた。いや、わらわと同様、時を待っていたのであろう……あのゾフィーとか言う女を触覚にして」
神殿から抜け出せたアルベドにとって、もはやゾフィーが何者であろうと興味はなかった。たとえゾフィーがかなり高位の魔族であろうと、神である自分には敵わないはずだ。
アルベドは、『黙示編』の世界を招来するために動き始めた。それは自らが世界の摂理となるための布石であった。
王国暦1546年、20歳のザッハークはアルメニア伯との交渉でダマ・シスカスに在住していた。このころ、アルメニア伯は国王シャー・ローム3世との間に領土の境界線問題を抱えていたのである。
「アルメニア伯は国の北方を守る藩屏。他国に寝返られたら困るが、だからと言ってあちらの言い分を唯々諾々と呑んでいては付け上がるし、余の権威にも関わる。ザッハーク、そなたが行ってアルメニア伯との境界線を決めて参れ」
当時21歳のシャー・ロームは、そう言って1個軍団とともにザッハークを送り出したのである。
ザッハークは途方に暮れた。ザッハークは勇猛で仮借ない男である。相手と戦って来いと言われれば意気揚々と従ったであろうが、政治的な問題は苦手であった。彼の左右にもそのような政治が分かる者がいなかったことも一因であろう。
「……相手を立てつつこちらの意見を飲ませるのは難しいことだな。いっそのこと交渉を決裂させて、アルメニア伯領を軍団で攻め取ってしまおうか」
ザッハークは、アルメニア伯をダマ・シスカスに呼び出す前に、宿舎で腹心たちと話し合っていたが、妙案が浮かばないためにそううそぶいて笑った。
周りの臣下たちは誰一人笑わない。アルメニア伯も呼び出しを受けた事情は分かっているはずだし、こちらは軍団を連れていることも知っているはずだ。
当然、全権であるザッハークの宿舎や周囲にはアルメニア伯の息のかかったものがいるはずである。時が時だけに、誰が聞いているのか分からないこの場でのザッハークの発言は、冗談だと受け取られない場合がある。
「王子様、風にも壁にも耳があります。そのような冗談は相手に漏れ伝わると要らぬ軋轢を引き起こします」
臣下の中で最も年老いたヴィレムがそう注意する。ザッハークは唇を歪めて笑うと、
「分かっている。冗談だよ」
と吐き捨てるように言った。
ザッハークの心の中に面白くないものがこみ上げてきたのであろう、彼はすっくと立ちあがると、あっけにとられている臣下に、
「私は少し頭を冷やしてくる。そなたたちも少し休憩せよ」
そう告げて、護衛の者も連れずに中庭へと歩いて行った。
「ふむ……星がきれいだな」
中庭まで来ると、ザッハークは頭の上で煌めく星々に思わず見とれて言う。そこに、
「ふふ、ザッハーク王子もなかなか風雅を心得ているようですね」
そう言う声とともに、暗闇から一人の女が現れた。
「誰だっ⁉」
さすが武人のザッハークである。女性の声に間髪入れずに反応してそちらの方を向く。すでに両手は腰に佩いた剣にかかっていた。
けれど、ザッハークはその両手をすぐに元に戻した。そこにいたのが目を疑うような美女だったからだ。
その女性は年の頃は10代の後半か? 葡萄酒色のウェーブがかかった髪を夜風になぶられて、同じく葡萄酒色の瞳でザッハークを見つめている。肌の色は夜目にも鮮やかに、星の光を反射しているようにぼうっと白く輝いており、その雰囲気からは他を圧倒するような厳かさが感じられた。
「そ……そなたは誰だ?」
ザッハークは、女性の持つ美しさと厳かな雰囲気に気を飲まれたように、どもりながら訊く。その問いかけに、女性はニコリと笑って答えた。どことなく妖艶さすら感じさせる笑いだった。
「私はアルベド、今宵は王子様に、良き人物を引き合わせたくてここに来ました」
「良き人物?」
オウム返しに訊くザッハークに、アルベドは緋色の瞳を当ててうなずくと、
「ええ、王子様はアルメニア伯との難しい交渉をなさるのでしょう? 今後の王子様の運命を切り開くため、ぜひともこの二人を召し抱えなさい。さすれば王子様の運命も変わるでしょう」
そう言って、左右を振り向く様子を見せた。アルベドの動きを見て、彼女の背後の闇の中から、精悍な顔つきをした細身の男と、たくましい身体つきをした女性が現れる。
「この二人は、ティラノス・レックスとパラドキシア・パレオと申す者たち。政治と軍事面で王子様の良き相談相手となりましょうぞ」
アルベドの言葉とともに、二人が丁寧にお辞儀をした。
「待て、なぜ私がアルメニア伯と会談することを知っている? 私の任務は兄王以外は大宰相しか知らぬはずだ」
ザッハークがいぶかしんで訊くと、アルベドはこともなげに言った。
「この二人に分からぬものはございませぬ。ぜひ、二人を召し抱えられますように」
アルベドと名乗った女は、くすくす笑いと共にそう言って、闇の中に溶けるように消えた。あとにはザッハークと二人が残された。
「では王子様、参りましょうか」
ティラノスという男が冷たく通る声で言う。それにパラドキシアという女もうなずいて続けた。
「ご心配なく、私たちの存在は家臣たちには受け止められていますから」
そこに、ザッハークがいつまでも戻らないことを心配した家臣たちが現れる。家臣たちはティラノスとパラドキシアを見て、一瞬立ち止まったが、すぐに笑顔になって言う。
「おお、ティラノス殿とパラドキシア殿。あなたたちが側にいたのだったら王子様の心配もいらなかったというものだ」
そう口々に言って部屋に戻る家臣たちをびっくりした顔で見送るザッハークに、再びティラノスが言った。
「では王子様、参りましょうか」
ザッハークはこの不思議な二人を、最初は薄気味悪がっていたが、ティラノスがアルメニア伯との境界線交渉を難なくやり遂げたり、パラドキシアがワラキア方面から攻め来たローマニア軍をわずかの間に壊滅させたりしたことで、二人への信頼が厚くなっていった。
特に、ザッハークの声望をゆるぎないものにしたのは王国暦1548年に生起した隣国マウルヤ王国との『キスタンの戦い』だった。
この戦いでは、別働軍1万余を指揮したザッハークは、パラドキシアの献策に従って10万を数えるマウルヤ王国軍を分断、敵の支隊3万を決戦場から引き離して完全に釘づけにした。
その間に、シャー・ロームが直率する6万が敵本隊7万を両翼包囲に持ち込み、マウルヤ王国軍本隊は指揮官である宰相パーシル以下5万以上を失い、支隊の方も全滅に近い打撃を受けた。
この機に乗じたシャー・ローム3世が、さらに軍を東に進め、その勢いは首都ジャイプールに迫りそうなほどだったため、マウルヤ王国はインディスタン地域の広大な領土をファールス王国に割譲せざるを得なかった。
この戦いで国土の7分の1を失ったマウルヤ王国は、その後20年以上もファールス王国に対しての軍事行動を起こさなかった。
この戦いの功績により、ザッハークは兄王の厚い信頼を受け、西方方面軍司令官に任じられ、軍都アンカラに駐屯することとなった。アンカラはカッパドキアに近い。このことが、ザッハークの運命を狂わせることとなった。
★ ★ ★ ★ ★
「オリザが攫われたって、どういうことなの?」
ホルンは、ブリュンヒルデの背中から飛び降りながら叫ぶ。その声を聞いて、『神聖生誕教団騎士団』の陣から副将のジョゼフィーヌ・ブランが飛んできた。
「あっ、女王陛下」
しゃっちょこばって言うジョゼフィーヌに、ホルンは
「状況を聞きたいわ。シャロンはどうしているの?」
そう訊くと、ジョゼフィーヌは先に立ってホルンを案内しながら答えた。
「団長は今回の失態の責任を取りたいと……」
「自害なんかしていないわよね⁉」
血相を変えて訊くホルンに、ジョゼフィーヌは慌てて首を振って、
「いえ……はい、そのお積りだったようですが、危ういところでフランソワーズが押し留めました」
そう答えているうちに、二人は『神聖生誕教団騎士団』の本部テントへとやって来た。
「シャロン、入るわよ」
ホルンはそう言うと、天幕をまくって中に入った。その目に最初に映ったのは、中央に安置された『神聖生誕教団』の道服を着た女性の遺体と、それを眺めて茫然としているシャロンの姿だった。近くにはフランソワーズ・マルシャルが侍立している。
「あっ、女王陛下」
フランソワーズがホルンに気付いてそう漏らすと、シャロンは身体をびくりと振るわせて、ゆっくりとホルンを見た。いつもは快活な顔はやつれ、目ははれぼったく隈をつくっていた。
「……申し訳ありません。私の油断のせいでオリザ様をさらわれ、ジャンヌを失ってしまいました」
ポツリとつぶやくシャロンだった。ホルンはまずジャンヌの遺体に礼拝すると、
「詳しい様子を聞かせて?」
そう優しく言ってシャロンの前に腰かけた。
『神聖生誕教団騎士団』は、ガイ隊の後ろに続いた。つまり、ティターン隊を相手にすることになっていたのだ。
けれど、12万5千もいるティターン部隊も、わずか2千のガイ隊に翻弄され、特にガイが首領のガルバニウムを討ち取った後は、単なる掃討戦と化していて、『神聖生誕教団騎士団』の出番はほぼほぼなかった。
「……さすがにアクアロイドはジーク・オーガに匹敵する戦闘種族ね。ほとんど彼らが相手してくれるから、私たちの出番はないに等しいわ」
副将のジョゼフィーヌが言うと、シャロンは快活に、
「いいじゃない。おかげで私たちはラクができるし、オリザ様の安全も確保できるし」
そう言うと、フランソワーズとジャンヌに挟まれて楯の陰で小さくなっているオリザにニッコリと笑いかけた。
「オリザ様、さすがに女王陛下のお仲間たちが指揮する部隊ですね。戦闘振りが普通の軍とは全然違います」
すると固い顔をしていたオリザは、その笑顔に釣られるようににっこりと笑って、
「そうね。ワタシ今までおサカナさんってバカにしていたけれど、認識を改めるわ」
そう言った。
その時である。突然、シャロンたちの真上から女の声がした。
「ふふん、その小娘が『オール・ヒール』の遣い手かい?」
「戦闘隊形!」
声を聞いて、シャロンが間髪入れずに号令をかける。2千の騎士は一瞬にして空に向かって剣と楯を振り上げた。
フランソワーズとジャンヌは、オリザを自分たちの後ろに隠し、ジョゼフィーヌはさらにその後ろに陣取って騎士たちをまとめている。
シャロンは、自隊の態勢が整ったのを感じ取ると、宙に浮かんでいる女性に向かって怒鳴った。
「我らは『神聖生誕教団騎士団』第6分団、私はその隊長のシャロン・メイル。そなたは何者だ? そして我が隊に何用だ?」
すると女性は葡萄酒色の髪を風に揺らしながら、胸の前で組んでいる腕を解いて腰に当てて答えた。
「ふふ、わらわが名乗れば、そなたたちは困ったことになろうぞ。悪いことは言わぬ、その小娘をわらわに渡せ。さすればそなたたちには手は出さぬ」
シャロンは、その女の隠れた『魔力の揺らぎ』を感じ取り、
――これは私たちが束になって掛かっても敵わぬ。『七つの枝の聖騎士団』以上だ。
そう、女の力量を正確に測っていた。
しかし、それでも守らねばならないものがある。ましてやそれがザール様の妹君だとすればなおさらである。シャロンは騎士らしく、誇りにかけても戦い抜くことを決めた。
「それはできない相談です。私たちもザール・ジュエル様の負託を受けてこの任務に当たっていますから」
その言葉と同時に、シャロンは『魔力の揺らぎ』で身を包む。隊長の戦闘態勢移行を見て、全員が『魔力の揺らぎ』を発動した。
全員が戦闘態勢に移行するのを、涼しげな顔で眺めていた女は、
「ふっ、まあ人間としてはかなりの『魔力の揺らぎ』じゃない?」
そうつぶやくと、ゆっくりと右手を動かしてシャロンを指さす。
「……あなたは隊長だから、みんなの代表で死んでもらうわね?」
女がそう言った途端、楯の後ろに隠れていたシャロンが、爆発音とともに叫んだ。
ズドムッ!
「ぐあっ⁉」
シャロンの楯が爆風で内側から膨れ上がって二つに割れて吹き飛ぶ。シャロン自身も鎧の内側から煙を噴きながら後ろへと吹き飛んだ。
「団長!」
ジョゼフィーヌが叫び、騎士たちが動揺した。その隙をついて女は左手を伸ばし、その左手から赤く透き通った光をオリザに当てて言った。
「さあ、オリザ。わらわのところに参れ」
「あっ、イヤッ! お兄さまッ!」
オリザは、自分の意思に反して身体が浮き上がっていくのを感じてそう叫ぶ。
「オリザ様っ!」
フランソワーズとジャンヌは、慌ててオリザに飛びついたが、
バチッ!
「くっ!」
オリザを包む赤い光に弾き飛ばされてしまう。
「おのれッ!」
いち早く飛び起きたジャンヌは、腰の長剣を抜いて呪文を唱えだした。
「我が破邪の力を宿した剣よ、我らが主なる聖ホルンの名において、司祭長ジャンヌ・アルクが命じる。その慈愛と再生の力をもって、邪悪なる魂を更生せよ!」
その言葉が進むにつれて、ジャンヌの剣は赤く透き通った『魔力の揺らぎ』を噴き出し始めた。その力が十分に開放されたとき、
「だああっ!」
ジャンヌは女に斬りかかる。
「むっ?」
女は、ジャンヌの魔力が思いのほか高いことを知った。どうせ届かぬとタカをくくっていたところもあっただろう。けれどジャンヌは30フィートを軽々と跳躍し、
「思い知れっ!」
ズバムッ!
女の真っ向から剣を斬り下げ、肉を断つ嫌な音が響いた。
「ジャンヌ!」
やっと立ち上がったフランソワーズが叫ぶ中、ジャンヌは
「……うーむ」
そううめき声を上げると、真っ逆さまに地面に墜落した。グジャッという何かが潰れる嫌な音がした。
「ジャンヌ!」
フランソワーズは、危険も忘れてジャンヌに駆け寄った。
「ジャンヌ……うっ!」
フランソワーズは、地面に伸びているジャンヌを見て固まった。ジャンヌは頭から胸まで縦に裂かれて息絶えていた。見開いた灰色の目には、もう光はなかった。
「……『攻撃転移』だね……」
身体中から煙を上げながら、シャロンが剣につかまって歩いてきた。そばにはジョゼフィーヌが付き添っている。
「……シャロンとジャンヌが……許せないっ!」
赤く透き通った『魔力の揺らぎ』の球に包まれていたオリザは、目の前で繰り広げられた惨劇に激昂した。オリザの身体からは薄い金色の『魔力の揺らぎ』が出ていたが、それが突然濃くなり、まぶしいほどの輝きが球の中を満たす。
それを見て、女は葡萄酒色の瞳を持つ目を細め、唇をゆがめてつぶやいた。
「あれは、『根源への回帰』……そうか、得心がいったぞ」
そう言った女の額に、赤黒いドラゴンの文様が浮かび、その身体からは周囲を圧するほどの『魔力の揺らぎ』が噴き出す。その瞬間、辺り一面に空震が起き、シャロンたちを地面に叩きつけたほどの威力だった。
「小娘、貴様は少し眠っておれ! 『破壊の誓約』!」
女は両手に『魔力の揺らぎ』を集め、光の球を挟み込むようなしぐさをする。その途端、女の両手に揺蕩っていた『魔力の揺らぎ』は消え、
「ぐぎゃっ⁉」
光の球の中から、オリザの叫び声が聞こえ、中を満たしていた光も消えてしまう。オリザは光の球の中で失神していた。
女はそれを見て満足そうにうなずくと、シャロンたちを見据えて言った。
「では、小娘はいただいて参る。ホルンに伝えよ、小娘の命はそなたの永遠の眠りとの引き換えじゃとな」
そう言うと、女と光の球はあっという間に消えてしまった。
「……あれは、女神アルベドだったんだわ……オリザ様を奪われ、ジャンヌを死なせてしまうなんて、団長にあるまじき不覚っ!」
シャロンは、唇をかんでいたが、いきなり剣を自分の喉に突き立てようとした。
「団長、何をなさるんですっ!」
驚いたジョゼフィーヌが、シャロンの剣を叩き落とした。ジャンヌの遺体を収容していたフランソワーズも、その声にびっくりして駆け寄ってくる。
「私はザール様に合わせる顔がない」
そう言って剣を拾おうとするシャロンを、ジョゼフィーヌとフランソワーズ、二人がかりで押さえつけながら言った。
「勝敗は兵家の常ではありませんか。オリザ様を助け出しもせずに死に急ぐのは騎士として恥ずべきことです」
フランソワーズが言うと、ジョゼフィーヌも
「ザール様に事の顛末を報告しなくていいのでしょうか? 責任問題はザール様から処断していただけばいいのではないですか? とにかく、まだ部下もいます。その部下の統率を放り出すことこそ、大きな罪ではないでしょうか?」
そうシャロンを説得する。シャロンも遂に折れて、
「……ジャンヌをあのままにして置けません。二人の言うとおり、事の次第をザール様に報告して、ザール様から私を処断していただきます」
そう言ったのだった。
「……よく分かったわ」
シャロンやフランソワーズの話を、目を閉じて聞いていたホルンは、目を開けて虚空を睨むようにして言った。その翠の瞳がこれまでにないほどの強い光を放っているのを見て、フランソワーズはぞっとし、シャロンは首を縮めるような思いで訊いた。
「あの、女王様、ザール様はまだお戻りになりませんか?」
それを聞いて、ホルンはハッと気づいたように笑って答えた。
「シャロン、今回の戦闘ではあなたに咎はありません。恐らくザール将軍もそう言うはずです。これからも力を尽くし、オリザを取り戻すために全力を挙げなさい」
それを聞いて、ジョゼフィーヌやフランソワーズはあからさまにホッとした顔をする。シャロンは下を向いていたが、ホルンが重ねて、
「あなたが相手をしたのは女神アルベド、私でさえ勝つことは厳しい相手です。今は一人でも優秀な戦士がほしい時、もしあなたが自分を許せないのなら、その命、私に預けてくれないかしら?」
そう優しく言ったため、シャロンもうなずいた。
『神聖生誕教団騎士団』は、ジャンヌ・アルクを失ったため、シャロンを助けるため副将を大司祭ジョゼフィーヌと司祭長フランソワーズの二人とした。ただ、騎士たちの損害は軽く、兵力がそんなに低下しなかったのは幸いだった。
その他、リディア隊、ガイ隊、ロザリア隊、ヘパイストス隊には大きな動きはなかったが、ホルンが気がかりとしていたことが二つある。
それは、ザールがいまだ戻って来ないことと、ジュチの行方が分からなくなったことであった。
ホルンとしてはザールも心配ではある。ザールのことだからめったなことでは後れは取らないと信じてはいるが、それでも相手は『七つの枝の聖騎士団』団長『怒りのアイラ』である。ホルンは万が一のことも覚悟していた。
それよりも気になっていたのはジュチである。このハイエルフの仲間は、ホルンとザールが出会ったころから行動を共にしていた。その頭脳の鋭敏さと魔力の強さは誰もが一目置くほどで、ザールと同様、彼が敗けるところなど想像すらできない。
けれど、ジュチがまだ『妖精軍団』に戻っていないことを知った時、ホルンは嫌な胸騒ぎがした。彼は私のピンチを救ってくれた。そして自分をこの世界に送り返してくれた。自分がパラドキシアの本体を倒したのに、ジュチともあろうものが不覚を取ったとは思えないが、だからこそまだ戻っていないという点が気にかかるのだ。
「……まあ、ジュチ様はああいうお方ですので、パラドキシアを倒した後、何か気になることについて調査に行かれたのかもしれません」
心配して『妖精軍団』を訪れたホルンに、副将であるサラーフやヌールはそう言って笑っていた。
ホルンとしても、二人の副将がこれほどジュチを信頼しているのは心強いことだった。けれど、胸騒ぎが収まらないままに陣を後にしようとしていたホルンに話しかける者がいた。
星空の色をしたうねるような髪と、同じく星空の色をした瞳を持つ女性――アルテミスである。
「女王様……」
幕舎の陰からひそやかに声をかけてきたアルテミスに、ホルンは振り返って訊いた。
「あら、アルテミス……だったわね? 何か私に話しでも?」
「……はい、よろしければ、私の幕舎においでいただけないでしょうか?」
アルテミスの顔があまりにも真剣で、青ざめていたため、ホルンはうなずくと彼女に案内されて幕舎へと入った。
「……それで、話とは何でしょうか?」
アルテミスから勧められた椅子に腰かけたホルンは、いつまでたってもアルテミスが言葉を発しないため、自分から問いかけた。するとアルテミスはいきなりポロポロと涙をこぼし、顔を覆って泣き出す。
ホルンはしばらくアルテミスの様子を眺めていたが、ゆっくりと椅子から立ち上がり、アルテミスの背中をやさしくなで始めた。
「……もう、大丈夫です。ありがとうございました、女王様」
やがて落ち着いたのか、アルテミスは静かにそう言った。
「……ジュチはあなたの大切な人なんですね?」
ホルンが訊くと、アルテミスは静かにうなずいて、
「妹の婚約者だったけれど、私はそれよりも幼馴染としてジュチのことを大切に思っていました。彼がそれに気が付いていたかどうかは知りませんが……ジュチはこの部隊を離れる時は必ず私に知らせてくれていたんです。女王様の戦いに参加するときもそうでした」
ホルンはうなずく。そうか、ジュチは私の苦戦と危機をいち早く察知し、助けに来てくれたのか……。
「……ジュチはザール様や女王様の言う『すべての種族が互いに尊重し合う世界』に自分の夢を重ねていると言っていました。私も私なりにジュチの夢を応援したいとは思っていたのです」
そう話すアルテミスの脳裏に、少し恥ずかしそうに、そして誇らしそうにこの戦の意義を語ったジュチの姿が浮かんで消える。
『彼は、英傑だ。『白髪の英傑』と言う二つ名は伊達じゃない。ボクは彼の夢見る『どんな種族も幸せを感じながら暮らせる世界』というものを実現させたい』
『そ、そんなの、夢物語だよ。出来っこないじゃない』
アルテミスがそう言うと、ジュチは笑って
『そうだね、ボクもそう思っていた。人間風情が大きな口を叩きやがって、ってね?』
そう言うと、その碧眼を細めてニヤリと笑い、
『でも、彼は違うんだ。彼と一緒なら、その夢物語が実現するかもしれないって思うんだ。そう思わせる人間ってすごいと思わないか? だから、ボクは彼の夢にボクの理想を重ねた。それを父上は理解してくれた……そう言うことだ。ボクだって伊達や酔狂でキミたちをこんな危ない場所に連れてきたわけじゃない』
黙ってしまった二人を見て、ジュチは少し頬を染めて言う。
『ゴメン、少し興奮してしまった。分かってもらえたら嬉しいな』
そう言って、ジュチはアルテミスに背を向けて歩き去った。
ホルンはアルテミスの様子を見て、微笑ましい思いにとらわれる。サラーフやヌールと同様、アルテミスも心からジュチのことを心配している。けれど、そんな思いも、アルテミスの次の言葉で吹き飛んだ。
「ジュチはこの部隊を離れるときは、いつも私のそばに自分の使い魔を残していってくれていました。何かが起きた時に、こちらから連絡が取れるように……でも、その使い魔が消えてしまったのです」
「それは、ジュチの身に何か起こったということでしょうか?」
ホルンは、分かりきったことではあるがそう訊く。アルテミスは首を振った。
「……そうでない、と信じたいです。けれど、ジュチの使い魔は彼の意識が途切れない限り消滅したりしないので……」
そこでまた、アルテミスの目には涙が込み上げてきた。ホルンはアルテミスの手をしっかりと握って言う。
「信じましょう! ジュチやザールは正義と信念をもって戦っています。そんな二人だから、めったなことではやられたりしないはず……私もそう信じています」
それを聞いて、アルテミスはハッとした。そうだ、ザール様もまだ戻って来られていない。しかもザールが敵と戦闘状態に入ったのは、もうずいぶんと前の話である。それなのに女王ホルンはザールを信じてパラドキシアとの過酷な戦いに臨んだのだ。
「……はい、私もジュチを信じます」
アルテミスが涙の残った顔でそう言うと、ホルンは一瞬痛ましそうな顔をして、でもすぐに笑顔になってアルテミスを励ました。
「そうよ、私たちが信じてあげないと、ジュチもザールも逆に困ってしまうはずよ。アルテミス、ジュチが戻ったらすぐに知らせてくれる? 次の戦いが迫っているらしいから」
アルテミスはうなずいた。
★ ★ ★ ★ ★
カッパドキアにある古びた城の中で、オリザはゆっくりと目覚めた。
――ここ、どこ?
オリザは、自分が柔らかいベッドに突っ伏しているのを知って、一瞬、サマルカンドの城に戻ったような錯覚を覚えていた。
「……ワタシ、ヘンな女に攫われてきたんだった」
そう声に出すと、オリザの脳裏には目の前で叩き斬られたジャンヌや、炎に包まれて吹き飛ばされたシャロンの姿がよみがえった。
オリザは表情を引き締めると、さっとベッドから立ち上がり、つかつかとドアまで歩いて、ドアノブを引いてみた。ドアは頑として開かず、カギがかけられているようだった。
「……まあ、誘拐してきたんだったら、ドアに施錠するのは当然よね」
オリザはそう言いながらも、紺碧の瞳で部屋中を見回す。
広さは5メートル四方で、そんなに狭くはない。ふんわりとしたベッドや、化粧ダンスと共用の机もあり、ほかには1メートル四方のテーブルに椅子が二つ置いてあった。それらの家具も、しっかりした造りで彫刻なども彫られていて決して安物ではない。
つまり、トルクスタン候の姫であるオリザを遇するにふさわしい部屋ではあった。ドアのカギと、窓の開かない鎧戸を除けば。
――あの女、何者なのかしら。あれだけの魔力から見ると、ただの魔族とは違うみたいだし……まあ、ワタシを狙うところを見ると、お兄様や女王様の敵であることは確定ね。
オリザがそんなことを考えていると、ドアが音もなく開いて、あの女が静かに入ってきた。どうやら廊下には女の部下である魔物たちがひしめいているらしく、それはオリザにも感じられた。
「目覚めたみたいじゃな」
女性がそう話しかけてくる。その声は高くもなく、低くもなく、どちらかと言えば無感動で感情を無くしたような話し方だった。
「ワタシをどうするつもり? 早く釈放しないと、アンタなんかお兄さまからギッタンギッタンにされちゃうわよ?」
オリザが相手を睨みつけながら早口で言う。その女性は鷹揚にうなずいて言った。
「そなたはザールの腹違いの妹で、オリザ・サティヴァ、17歳。『オール・ヒール』が使えて、女王ホルンのことを妬ましく感じている……違うかのう?」
「うっ……最後のはちょっと違うけれど、大体合ってるわ。で、ワタシをどうするつもりなの? ワタシを人質にしてお兄様を倒そうというのなら、ワタシはここで死ぬわ。お兄様には会いたいけれど、お兄様の邪魔になることの方が、ワタシには耐えられないもの」
オリザが強気で言うと、女性は薄く笑って首を振った。
「ふふ、いい子なのじゃな? でも安心せい、わらわの狙いはそなたの兄ではなく、女王ホルンと女神ホルンじゃ。だからそなたには、ここでじっとしていてもらわんといかん。よいかの? 女神ホルンの『慈愛の力』を持つ少女よ」
「……どういうこと? アタシが女神ホルン様の力を持っているなんて、アンタ飛んだ見込み違いをしているわ」
オリザがそう言うと、その女性は緋色の瞳でじっとオリザを見つめた。その額に、ドラゴンの形をした刻印が浮かぶ。『破壊の誓約』である。
その刻印を見て、その光に照らされたオリザは、何か懐かしい感覚を覚えつつも、身体中を襲ってきた痛みに耐え切れずに呻いた。
「うっ!」
「まあ、そなたはわらわの最後の楯になってもらわねばならんからのう。殺しはせぬぞ、ホルンの投影よ」
女性はそう言うと、あまりの痛みに失神したオリザを眺めて、後ろに控えている男に命令した。
「ティラノス、この娘に『永遠の忘却』を」
「かしこまりました、女神アルベド様」
ティラノスはそう言ってオリザを抱えあげると、部屋から出ようとする。そんなティラノスを押し留めて、
「そうそう、あの男はどうしたのじゃ?」
アルベドが訊くと、ティラノスは顔色一つ変えずに言った。
「例の部屋にお連れしています」
それを聞いたアルベドはうなずいて言った。
「その小娘に処置をしたら、わらわとともにあの男のところに行くぞ」
ティラノスは訝しげに訊く。
「まだちと早いのでは? アレもあの男の中でしっかりとは育っておりませんが……」
アルベドは、その緋色の瞳に憎悪の炎を燃やして吐き捨てた。
「わかっておる! が、パラドキシアがホルンに仕留められたのじゃ。これ以上ホルンを『クリスタの時間』に近づけるわけには参らぬ」
それを聞いて、ティラノスは一瞬顔色を変えたが、すぐにいつもの彼に戻って言った。
「承知いたしました。その後は私がグライフとともに出撃いたします」
★ ★ ★ ★ ★
「一体どうなっているのだ? ホルンはすでにイスファハーンを落とし、バビロンまでその手に収めおった! 余がこの世界の王者となる運命ではなかったのか?」
ザッハークは、アルベドの城で与えられた部屋で怒り狂っていた。最初はアクアロイドの暴発かと思っていた。しかしすぐにそれはサームを中心とした謀反だと分かった。
その時点でも、まだザッハークには余裕があった。海では負けていたが、ティムールもホルンもまだイスファハーンから遠い。そのうちに各州知事が彼らを打ち負かすだろうとたかをくくっていた。それはティムールが5万余、ホルンが1万余の軍勢しか集められなかったと報告があったことも一因だろう。
さらに、首魁たるホルンには『七つの枝の聖騎士団』が総出で掛かったとの報告もあり、ザッハークはあくまでティムールの軍を打ち破れば、この反乱は収束すると睨んでいたのだ。
が、艦隊の喪失、イスファハーンの失落、イリオンの命令放棄とバビロンの無血開城に『神聖生誕教団』法王のホルン支持と、ザッハークの思っても見なかった出来事が続き、最後のトドメとして大将軍スレイマンの寝返りが起こった。
それによって、ザッハークが辛うじて保っていた精神的均衡が崩れたのである。
「イリオンめ……スレイマンめ……余がどれほどそなたたちを引き上げてやったか忘れおって……反乱収束後には一族を皆殺しにしてやっても飽きたらぬ」
壁に向かってそんなことをつぶやくザッハークのもとに、アルベドとティラノスが姿を見せた。
「陛下、諦めてはおしまいですぞ?」
そう優しく語りかけたアルベドに、ザッハークは逝きかけた目を向けて喚いた。
「アルベド、なんとかせい! すべての出来事に、ことごとくそなたの言葉と齟齬が生まれつつあるのだぞ!? すぐに神の力とやらを行使して、余にしたり顔で申していた約束を果たさんか!」
髪を振り乱し、目は血走り、ひげはむしられて王者の威厳とは程遠いザッハークの姿を、アルベドは憫然と眺めていたが、さらに彼がなにか言おうと口を開いたその時、アルベドは虚空から取り出した剣をザッハークの喉元に付きつけた。
「ひっ!」
突然のアルベドの行動に、ザッハークは息を呑んで棒立ちになる。今まで怒りで真っ赤になっていた顔色は、今は真っ青に変わっていた。
アルベドは、そんなザッハークを緋色の瞳が醸し出すねっとりとした視線で絡め取り、ゆっくりと低い声で言った。
「ふん、そなたはいつもそうじゃ。自分では何もしようとはせぬ。自分に都合の悪い出来事が起こったときは、いつもわらわたちに泣きついてくる。それでもそちは国王のつもりか?」
ザッハークは、剣の先からほとばしり出るアルベドの殺気と魔力で動けない。そんなザッハークに、アルベドは不意に笑って言った。
「まあ、そんなところがそちの可愛いところでもあったのじゃが……どうじゃ、今回は自分の手で自分の運命を切り開き、闘い取ってみようとは思わぬか? ホルンのように」
ザッハークは、何を言われているのか分からなかったが、アルベドの言葉に逆らえないということだけは分かっていた。彼は無言でうなずく。
「うむ、ういやつじゃ。自分の置かれている立場というものを少しは理解していたようじゃのう。では、そなたの言う通り、神の力をそなたの中に開放するとしようぞ」
アルベドはそう言いながら、ザッハークの心臓に剣を突き立てた。
「うぐあああ〜っ!」
ザッハークは、突き立てられた剣から、なにか巨大で禍々しい想念が、奔流の様に自分の中に流れ込んで来るのを感じ、そのあまりの魔力に気が遠くなった。しかし、彼の心の中に、
『おおう、わしはこの時を、この時を待っていた! プロトバハムートよ、わしは再びそなたと雌雄を決するぞ!』
そう、猛々しい声とともに目を覚ましたものがあった。
「ぐ、ぎぎぎ……余は、余は……」
アルベドは、身悶えしつつ何かに変わりゆくザッハークを、微笑んで眺めつつつぶやいていた。
「……さあ、ホルンよ、最後の戦いと洒落込もうぞ」
(47 女神の思惑 完)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ザッハーク自身は打つ手が無いと混乱していますが、アルベドにはまだ奥の手が残っています。
次回『48偽王の黙示』では、ザッハークの最後のきらめきが?
『青き炎のヴァリアント』は、毎週日曜日9時〜10時に投稿予定ですので、お楽しみに。




