36 高貴の契約
戦いに入ったジュチと『嫉妬のインヴィディア』。インヴィディアの幻影に苦戦するジュチだが、幼い日にザールと交わした『高貴の契約』が彼に力を与え、そしてリアンノン艦隊は内陸部の敵拠点の一つ、バスラに照準を合わせる。
『七つの枝の聖騎士団』編、加速中!
【主な登場人物】
♡ホルン・ファランドール…『死の槍』と『アルベドの剣』を持ち、辺境で名を上げた女槍遣い。前国王の娘で王国の現状に改革を志す。翠の瞳と銀の髪を持つ。26歳。
♧コドラン…シュバルツドラゴンのこどもで、生き別れになった母を探すためにホルンとともに旅をしていた。小さいが気が利く、ホルンの良き仲間である。15歳程度。
♤ザール・ジュエル…“東方の藩屏”トルクスタン侯国の世子で『白髪のザール』の異名を持つ。ホルンとともに王国の改革を志す。白髪に緋色の瞳を持つ。23歳。
♡リディア・カルディナーレ…ザールの幼馴染でジーク・オーガの王女。接近戦では無双の強さを誇る。額に角を持ち、茶色の髪に茶色の瞳をしている。21歳。
♤ジュチ・ボルジギン…ザールの幼馴染で『この世で最も高貴な一族』であるハイエルフの首領の息子。頭脳明晰で魔力に長けるがチャラい。金髪碧眼の美青年。23歳。
♡ロザリア・ロンバルディア…ザールに一目ぼれして仲間に加わった魔族の女性。冷静冷血で魔術に長けている。黒髪と黒曜石のような瞳を持つ。21歳。
♧ガイ・フォルクス…26年前にスケルトン軍団から国を滅ぼされたアクアロイドの王族。頭脳明晰で冷酷非情だが仇討に協力したホルンに恩義を感じている。29歳。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「……アンタが『ハイエルフの智将』ジュチ・ボルジギンだね? 『色欲のルクリア』の仇は取らせてもらうよ」
『嫉妬のインヴィディア』は、ハスキーな声でジュチにそう呼びかける。ジュチは立ち止まると冷え冷えとした目でインヴィディアを見つめて言った。
「どういたしまして。ボクこそ至高の一族であるハイエルフの仲間の命を奪ったキミたちを許せないのでね? 残念だけれど返り討ちってやつにしてあげるよ」
そう言った瞬間、ジュチの足元の地面にぽっかりと穴が開く。けれどジュチは慌てもせずに笑って言った。
「いきなりのご挨拶だね。けれど、想定内だよ」
そしてジュチは呪文詠唱もなしに『空間術式М』を発動させた。二人の周りにはどこまでも白い世界が広がった。
「……ふむ、『23次元空間』だね? 思ったよりも厄介な術式を遣うね、さすがはハイエルフだね」
インヴィディアはゆっくりと辺りを見回すと、薄い笑いを浮かべて肩をすくめた。
「……まあ、この空間の解き方はアンタを血祭りに挙げてからゆっくりと見つけることにするわ」
インヴィディアの言葉が終わらないうちに、ジュチの周囲の空気が急速に氷結し、ガラスの破片のような鋭い刃がジュチに降り注ぐ。けれどその刃がジュチを切り刻む前に、ジュチは翠色の光と共にアゲハチョウの群れとなって拡散した。
「ちっ!」
インヴィディアは舌打ちをしたが、とっさに自らの身体に青白い『魔力の揺らぎ』をまとわせると、自分に群がって来たアゲハチョウたちを吹き飛ばした。
「なかなかやりますね。まあ、そのくらいでないとお相手しても楽しくないけれどね?」
インヴィディアは、自分の背後からジュチにそう呼びかけられ、びっくりして振り返った。ジュチは拍手しながら続ける。
「それと、この空間はボクがキミを倒さない限りは解除されないよ。そのことは先に教えておいてあげるよ」
「そりゃご丁寧にありがとう」
インヴィディアはジュチを忌々しげに見つめて吐き捨てると、両手をポケットに入れて笑って言った。
「けれどね、私だって負けるわけにはいかないんだよ?」
そう言うとポケットから右手を取り出す。ジュチの碧眼は、インヴィディアの右手に揺らめく『魔力の揺らぎ』の異常さを見て取った。
――あの『魔力の揺らぎ』は、放出術式ではないな。
「ぐっ⁉」
ジュチは、いきなり自分の髪が後ろから引っ張られるのを感じて呻く。そうか、ヤツの『魔力の揺らぎ』は空間を操作するのか!
ジュチはすぐさま自らの身体を無数のオオミズアオに分裂させる。ジュチの髪の毛を引っ掴んでいたインヴィディアは、悔しそうに右手をポケットに納めた。
「……なかなか本体を掴ませてくれないね」
インヴィディアが言うと、ジュチは金髪を撫で上げながら答える。
「恋も戦いも、こういった駆け引きが楽しいんじゃないかな?」
それを聞くと、インヴィディアはくっくっと低い含み笑いと共に、琥珀色の瞳でジュチを睨みつけて言った。
「ジュチ、私は『嫉妬のインヴィディア』だよ? 私の恋は駆け引きナシの、身を焦がすほどの恋さ。一途だからね?」
「……まあ、男冥利に尽きるというべきか……」
ジュチは肩をすくめてそう言うと、虚空から突き出て来たインヴィディアの右手をサッと避けながら続けて言う。
「……それとも、破滅的な恋と言うべきか、だね?」
そしてジュチは、自分の顔の前で右手の人差し指と中指を立てて
「ボクはゴメンこうむりたいね、そんな恋なんて」
そう言うと、インヴィディアの右手がボシュッと言う湿った音と共に弾け飛んだ。
「くっ……」
インヴィディアはすぐさま右腕をポケットにねじ込む。その中で右手が再生しているのだろう、ポケットがみるみるうちに膨らんできた。
「まあ、それも想定内さ。『七つの枝の聖騎士団』相手に、楽して勝とうなんて思っていないよ」
ジュチがそうつぶやくと、すぐ後ろで
「いい心がけじゃないか。褒めてやるよ」
そう、インヴィディアの声がした。
ジュチは後ろを振り返りもせずに前へと跳ぶ。しかし、ジュチの身体はインヴィディアの長い亜麻色の髪に捕まっていた。
「おや、いつの間に後ろに回ったんだい?」
ジュチがとぼけた声で訊くが、インヴィディアはそれをスルーして
「やっと捕まえたよ。これから楽しんであげるからね」
インヴィディアがそう言うと、ジュチを絡めとっている髪の毛がすべてうごめく蛇に変わる。小さな蛇たちは鎌首を挙げてジュチの身体中に噛みつき、毒を注入してきた。
「これは神経毒さ。すぐには死なないから安心しな」
インヴィディアはそう言って右手をポケットから出し、ジュチの股間を握り潰そうとした。その途端、
ボシュッ!
湿った音と共に、再びインヴィディアの右手が吹き飛ぶ。
「そんなところをやられたら、数多のオンナノコが悲しむからね」
インヴィディアは後ろからジュチの声がしたのに驚いて振り向く。
「くっ!」
ジュチは矢を放って、インヴィディアの左手をポケットの中で太ももに縫い留めた。続いてインヴィディアの頭部を狙ったまま、鋭い声で訊く。
「キミと手合わせして悟ったことがある。ボクが今まで戦ったことのある『強欲のアヴァリティア』『怠惰のピグリティア』、そしてキミ……『七つの枝の聖騎士団』って、実体はどこにあるんだい?」
それを聞いたインヴィディアは、左手を縫い留めている矢を右手で抜こうとした。間髪を入れず、ジュチの正確な矢が右手を左手に縫い付ける。
「……さすがだよ、智将とはよく言ったものだね。けれど、私たちの実体については教えられないし、教えてもアンタには手出しは出来ないよ」
インヴィディアはそう言うと、すべての髪の毛を蛇に変えてジュチに襲い掛からせる。そしてジュチがそれを避ける隙に、両手を縫い付けていた矢を抜き取った。
「これであの世に送ってやるよ!」
インヴィディアは、勝ち誇った顔で左手をポケットから出した。その途端、
パーン!
「げっ⁉」
インヴィディアは、思わず声を上げた。左手が吹き飛んだからだ。すぐさまインヴィディアは、左腕をポケットに突っ込む。
「そっちの手は、そう簡単に使わせてあげないさ」
ジュチの声とともに、インヴィディアの左腕は手首近くで腰へと矢で縫い付けられた。
「ふん、さすがだよ。ちなみに訊いてあげるけれど、私の左手がどうしてそんなに怖いのかしら?」
右手をポケットから出してインヴィディアが訊くと、ジュチは蛇の髪と空間から突き出て来たインヴィディアの右手を避けながら答える。
「キミの右手は空間を操作するが、恐らく左手は次元を操作するんだろう? そんなのを使われたら厄介この上もないからね」
そしてジュチは、ポケットの中で再生したインヴィディアの左手に正確無比な矢を叩き込む。
「くっ! 恐ろしい男だね、アンタは。何も知らずに挑んだ『愛欲のルクリア』が消滅するはずだよ」
インヴィディアがジュチの矢を避けながら言うと、ジュチは
「そうでもないさ」
そう答え、ポケットから出されたインヴィディアの左手を吹き飛ばす。
バシュッ!
「くそっ! 忌々しいね!」
インヴィディアはまたもや左腕をポケットに突っ込んで言う。
――ヤツの両手を吹き飛ばしているだけじゃダメだ。けれど、ヤツの『魔力の揺らぎ』に核が見えない……ヤツは『半実体』のようなもの、どこかにヤツの実体があるはずだ。それさえ見つけられれば……。
ジュチはそう思いながら、再びインヴィディアの右手を吹き飛ばした。
★ ★ ★ ★ ★
「全艦隊、出帆します!」
バンダレシェフルにいる総旗艦『リヴァイアサン』で、リアンノンがそう叫ぶ。すぐさま艦長はその旨を全艦隊あてに信号させるとともに、
「総帆展張! 錨を上げ!」
そう声を張り上げた。
リアンノン艦隊は、ついに最終目的である『竜都』と呼ばれるファールス王国中央平原で最大の都市、バビロンの攻略に向けて動き出した。まずは海岸線から50マイル(この世界で約90キロ)のところにあるバスラの攻略である。
「リアンノン様、ちょっといいでしょうか?」
『リヴァイアサン』艦橋で三又の矛『トライデント』を右手に突っ立っているリアンノンに、アンソン情報参謀が声をかけた。
リアンノンはちらりとアンソンを見ると、ただうなずく。そのうなずきを見て、アンソンは最新の敵情を報告した。
「敵はバビロンに第1軍支隊、第6軍、第7軍の計10個軍団20万を配置しています。守将はイリオン将軍です。そしてバスラには第53軍団と第131軍団、そして守備部隊の約5万が配置されています。守将は軍司令官ですが……」
アンソンはそこでニヤリと笑って言葉を切る。リアンノンは興味をそそられた顔で先を促した。
「アンソン、何か面白い情報でもあるのかしら?」
アンソンは笑いながら
「はい、どうも軍司令官と州知事との間に確執があるようで、軍司令官の撤退意見を州知事が却下したとのことです」
そう言う。リアンノンは顔を振って呆れたように、
「州知事とは言っても軍事には素人でしょうに。軍司令官と言う専門家の意見を聞かないのは解せないことね」
そう言うと、アンソンは心底可笑しそうに言った。
「王国軍には派閥があるようです。バスラを守る州知事は、バビロンの守将イリオンと敵対している大将軍スレイマン派のようです」
それを聞いたリアンノンの目がキラリと光り、すぐさまアンソンに言いつけた。
「アンソン、すぐに参謀長と先任参謀、作戦参謀を司令官室に呼んで」
シェリルの町を守っていたモーデルは、麾下の提督フッド、ロドニーを連れて出撃すると、途中でトリスタン候アリーの軍をバンダレシェフルの近くに上陸させた。
そして自分は300隻の艦隊を引き連れ、一路クワイを目指していた。クワイからファールス湾最大の軍事都市であるバスラまでわずか120キロに過ぎない。
「さて、バスラの敵はどうするだろうか?」
旗艦『リライアント』でモーデルは敵の出方を測りかねていた。目の前の敵はバスラの5万、こちらは3万だが、バスラの敵はリアンノンの7万がいることを知っている。
「私が敵なら、バスラを捨ててバビロンに集中するが」
バビロンには20万の敵がいる。バスラの軍を合わせれば25万だ。
一方でこちらはアクアロイドだけで10万。話によるとホルン王女が率いる軍は合わせて7万強、それにトリスタン侯国軍4万と投降した王国の2個軍団4万があり、全部で25万を超える。こちらも隔絶した兵数は持たないが、
「現状ではいい勝負ってところだな」
モーデルはつぶやく。
――敵がバスラを捨てた場合、バビロンは難攻不落になるだろう。一方で、敵がバスラにこもる場合、こちらは周囲の状況次第ではバスラを超越できる。ただ、後ろから襲われると厄介だ。やはり、バスラは叩かねばならないだろうな。
モーデルはアクアロイドには珍しい陸戦の猛者である。その手堅さと統率力をリアンノンに買われてシェリルの守備隊長を任されたほどだ。その彼ですら、バスラの敵が町に籠った場合の方途については思案に迷っていた。
そこに、リアンノンからの伝令がやって来た。モーデルはその指示に首をかしげた。
バビロン、それはファールス王国最大の都市であり、その下流域には国内最大の穀倉地帯を抱えている。ここでは、王国の穀物の7割、野菜の5割が取れ、それを交易する商人たちも多く集い、『肥沃な三角地帯』のみならず王国の交通の要であった。
その重要さは王都イスファハーン、海都ダマ・シスカスと肩を並べ、『水龍の都』又は『竜都』と呼ばれていた。
その守将を命じられたのが、ザッハーク朝最後の名将と呼ばれるイリオンであり、まだ29歳と言う若さで国軍のナンバー2である驃騎将軍に任命された。
「アクアロイドの軍団は、主力の7万がスルタン島に上陸し、別働の3万はクワイに上陸してバスラを攻撃する考えのようです」
バビロン郊外に作られた司令部で、イリオンは幕僚から報告を受けていた。目の前に広げられた地図には、アクアロイド軍やホルンたちの軍のおおよその位置が示されている。
「ホルンとやらが率いる反乱軍の中核はどこにいる?」
イリオンが訊くと、幕僚は地図を指し示しながら、
「反乱軍の主力はグロス山脈を越えてソレイマーンの町まで出てきています。兵力は約10万とのことです」
「主将は誰だ? 『白髪の英傑』か?」
「いえ、ティムール・アルメです」
「ティムール・アルメ殿だと? それは厄介な人物が敵に廻っているものだ……」
思わずつぶやいたイリオンは、幕僚が不審そうな顔をしているのに気づいて説明した。
「ティムール・アルメ殿は元『王の牙』の一人でこの国の東方軍司令官も務められた人物だ。恐らく御歳はすでに60代後半だろうが、その経歴から武勇と知略は侮れぬ。みな心して戦うように」
それを聞いた幕僚たちは、顔を固くしてうなずく。相手には『白髪の英傑』だけでなく、一級の人物たちが揃っていると再認識した顔である。
「主力と言うからには、別動隊もあるのだろう、どこにいる?」
イリオンが重ねて訊くと、幕僚は首を振って
「反乱の首魁であるホルンという女用心棒や、ザール様の一党は見当たりません」
そう言う。イリオンは不審顔で
「ホルンの軍も1万5千を超える人数を率いていたと聞くぞ。テーランを奇襲してその後の動きはつかめていないのか?」
情報主任となっている参謀にそう言う。
「イスファハーン付近でいろいろあっているようですので、情報が錯綜しています」
情報主任がそう言うのを聞くと、イリオンは難しい顔で地図をにらみつつ、
「では、その兵団がどのような進路をとるかをある程度予測しておかねばならない。それよりもまずはアクアロイド軍とティムール軍だ。この二つの軍がまとまってしまったら手に負えなくなる。バスラ方面の補給状況はどうだ?」
と聞いた。作戦主任は浮かぬ顔で答える。
「去年の干ばつと今年の水害とで、補給状況はままならないようです。州知事はバスラに籠城するとの連絡を受けていますので、2・3か月は食いつなぐ物資は持っているようですね」
「ふむ……道路状況を考えると、今さらバスラの守備部隊に合同を命じても動けまいな。仕方ないがバスラでできるだけ頑張ってもらおう。彼らがアクアロイド軍を1か月でも釘づけにしてくれれば、その間にさらに3個軍団は配置できるだろう」
イリオンはそう言って目をつぶった。しかし、彼らはトリスタン侯国軍が8万の兵力をもってティムール軍に合同すべく急いでいたことに気付かなかった。
★ ★ ★ ★ ★
「ジュチ、あんたもかなりねちっこい性格だね」
吹き飛ばされた両手をポケットの中で再生しつつ、インヴィディアは吐き捨てるように言う。ジュチはニコリと笑って爽やかに答えた。
「ステキな女性とは仲良くなるまであきらめない性格なものでね?」
そう言いつつ、次の矢を弾幕のようにインヴィディアに放つ。
インヴィディアはその弾幕を交わしつつ、クスリと笑って言った。
「私は『素敵な女性』認定されたってわけだね? 光栄だよ」
そしてキラリと目を光らせると
「じゃ、私もあんたを『イケてる男性』認定してあげるよ? 私の気持ちを受け取りな」
そう言って右手を手首から切り離す。切り離された手首は矢のようにジュチ目がけて飛んできて、ジュチの服の袖にしっかりとしがみつく。
インヴィディアは次々と右手を切り離して、ジュチに向かわせてくる。ジュチはそれをあしらいつつ、隙を見て発動させようとしたインヴィディアの左手を爆破する。
バシュン!
鈍い音とともに、吹き飛ぶ左手を見て、インヴィディアは憎々しげに
「……ホントにしつこい性格だね、女の子からもてないよ?」
そう言って左手をポケットに突っ込む。
ジュチは袖口やズボンのすそなどをしっかりとつかんで離れないインヴィディアの右手首を目で指して笑う。
「こんなにしっかり握られたらちょっと困るけれどね? キミこそかなりメンヘラな性格のようだね?」
それを聞くと、インヴィディアは我が意を得たりと言った風情で笑って言った。
「あら、私の性格をよく見抜いているじゃない? それなのに右手に捕まえられたのはあんたの失策だよ? だって私の右手はメンヘラの性格を詰め込んでいるのよ? 食らいなさい!」
すると、
ボボボン!
「ぐっ!」
ジュチにしっかりとつかまっていたインヴィディアの右手たちは、一斉に爆発した。
その瞬間、インヴィティアは左手をポケットから出し、その手のひらをまっすぐにジュチに向けて笑って言った。
「抜かったわねジュチ、私の『離れない絆』はいかがだったかしら?」
ジュチは、身体のあちこちを抉られて朱に塗れていたが、
「……メンヘラらしいネーミングだね。でも、ボクはまだこのくらいじゃ参らないよ……⁉」
そう言ってちぎれた右手を見て首を振ると、改めて左手に『魔力の揺らぎ』を集め出した。けれどインヴィディアの左手を破壊するには少し遅かった。
「ふふ、やっと私の本領発揮ね。ジュチ、ルクリアの恨みを思い知りなさい」
そしてインヴィディアは、初めて左手の能力を開放した。
インヴィディアの能力は、右手の空間操作と左手の次元操作である。
彼女の右手は、相手との間にいかなる空間もないものとして扱うことができるし、逆にどれだけ近くにいてもその距離を自在に広げることができる。
これだけでも厄介な能力ではあるが、左手が操作する次元とは、時空間を含んだものであり、その分右手が操作できる対象物をはるかに超える能力が発揮できた。
そしてなぜ彼女が『嫉妬のインヴィディア』と呼ばれるのか、その理由が彼女の能力にあった。
「ジュチ、嫉妬とは独占欲でも自己愛でもないのよ? それは『究極の慈愛の姿』なの。その証拠を見せてあげるわ」
インヴィディアの言葉とともに、ジュチの周りには見たことのある光景が広がった。
――これは、ドラゴニュートバード? インヴィディアのヤツ、一体何を?
すると、ジュチの前にザールが姿を現した。ザールは楽しそうにリディアと話をしており、リディアもポーっとした目でザールを見つめている。
そんなジュチの耳に、ハイエルフの里の女性たちが話す声が聞こえて来た。
「ザール様は、さすがに『白髪の英傑』と呼ばれるだけあって、気品がおありになるわね」
「我が里のジュチ様も、気品においてはザール様に敵わないかもね」
そう言う声を聞き、ジュチは心の中で微笑んでつぶやく。
――ふふ、『気品』においてはボクの方が上さ。それが『威厳』となると話は別だが……やれやれ、我が里の女性たちももっと言葉というものを正しく使ってくれないと。
その時、ジュチの耳にインヴィディアの声が響いた。
「ふふん、そうやって自分をごまかしているんだね。アンタは何もかもがザールに敵わないってこと、ホントは心の中で知っているんだろう?」
すると、目の前のザールが消え、代わりに幼いころの自分たちが現れた。7歳くらいの自分とザールが何か言い争いをして、それを5歳くらいのリディアが必死に止めている。
「やめてよジュチ、ザールをバカにしないで」
リディアが目に涙をためてジュチに言うが、
「ふん、キミみたいな人間風情に何ができる?」
ジュチが碧眼にあざけりの色を浮かべてザールを見る。
ザールは、白髪の下の緋色の瞳を光らせて、
「人間風情なんて言うな! どんな生き物だって命の大切さは同じだ」
そう言う。そんなザールをジュチはバカにしきった眼で見下したように嗤った。
「ははん、ボクたちハイエルフと比べると魔力も弱い、リディアたちジーク・オーガと比べれば力も弱い、そんな人間と言う種族に、何の取り柄があるというんだい?」
「僕たち人間は、確かにハイエルフやジーク・オーガと比べたら弱っちい存在でしかないだろう。けれど、命の大切さがみんな同じってことは、どんな種族よりも僕たち人間の方が分かっていると思う」
ザールが言うと、ジュチはニヤニヤして答えた。
「なるほど、だからこの世界の環境を悪化させ、同族で殺し合い、同族を騙し合っているわけだね? さすがに命の重さをご存知な種族だよ、キミたち人間はさ」
「ジュチ、それは言い過ぎだよ? 人間がどうってより、アタシはザール自身はザールが言うとおりの人間だと思うよ」
リディアが口をはさんでくる。いつもはおとなしくて口答えなどしないリディアがそう言って来るとはジュチにも意外だったらしい。ジュチはリディアに流し目をくれて言う。
「ふむ、リディア。キミはザール個人は他の人間と違っている、そう言いたいんだね?」
「うん、だってザールは優しいし強いよ? アタシがコボルトの群れにやられそうになった時、一人で助けてくれたもの」
リディアの言葉に、ジュチはプライドを傷つけられたような顔をして、ザールに向き直って言う。
「じゃあザール、キミの強さと優しさとやらを確認させてくれ」
そう言うと、ジュチは右手をザールに伸ばし、『風の鉄拳』を放った。ザールはそれをまともに受けて後ろに吹っ飛ばされる。
「ジュチ、何をするのさ⁉」
頬を押さえて立ち上がるザールを助け起こしながら、リディアが叫ぶ。けれどジュチはリディアの抗議にも頓着せずに、続けざまに魔法を放った。
「くっ!」
「リディア、よせ!」
リディアは、ザールが止めるのも構わずに自分の身でジュチの『風の鉄拳』を受け止めた。
「がはっ!」
その一発はリディアの鳩尾に決まり、リディアはお腹を押さえながら苦しそうにうずくまった。
「ジュチ、僕だけでなくリディアにまで怪我をさせるなんて、君はそんな人じゃなかったはずだ」
ザールが怒った顔で言うと、ジュチはすまなそうに頭をかいて
「いや、リディアがキミを庇うなんて想定外だったんだ」
そう言うと、改めてザールの顔を見て、眉を寄せて目を細めた。ザールの顔にどす黒いタトゥーのような文様が浮かび上がっていたからだ。
――ふむ、怒るとたまにザールはこうなるけれど、これはどういった現象だ?
ジュチはそう思い、いきなりザールに『風の鉄拳』を食らわせる。これは距離が近かったのと、まともに腹に決まったのとでザールをその場にうずくまらせるのに十分な威力だった。
「ぐっ……何をするジュチ」
ザールの顔に浮かんだ文様がさらに黒くなって、そしてあちこちに同じような文様が浮かび上がって来た。
――ザールの怒りに反応しているみたいだな。気持ち悪い文様だけれど、どう見ても破壊竜だぞ。
ジュチはザールを見つめてそう思うと、ぶるっと身震いした。ザールから、今まで感じたことのないくらい悍ましく、そして強い魔力を感じたからだ。
「ジュチ、俺は貴様を許せなくなりそうだ……」
不気味な『魔力の揺らぎ』を身にまとって、ザールがゆらりと立ち上がりながら言う。その『魔力の揺らぎ』はいつもの透き通った白ではなく、さまざまな色が混じり合った禍々しい黒といった感じのものであった。
――ヤバいな……ザールの魔力がこんなに強いとは思わなかった。今のボクでは絶対に敵わないし、あれが爆発でもしたら、下手をするとリディアごと吹っ飛んでしまいそうだ。
ジュチは幼いながらも聡明で現実的だった。現状をそう分析すると、ジュチは顔をやわらげてザールに謝る。
「ザール、ボクが悪かったよ。不用意にキミたち人間をバカにしたりして。それにリディアの件は本当に想定外の出来事だったんだ」
「だから? 今さら命乞いか?」
ザールの目は赤く輝き、身体中の文様が不気味にうごめいている。その魔力は増大するばかりで、もはや制御しようにも本人の手も及ばなくなっているに違いない。
その時、リディアがハッと顔を上げてザールを見て、
「ザール、いけない。落ち着いて」
そう叫ぶと、ザールを後ろから羽交い絞めにした。
「離せリディア、俺はあいつを破壊する」
とてもいつものザールの声ではないようなしわ枯れ声が響く。それでもリディアは首を振って、ザールの耳元でささやいた。
「怒らなくていいんだよ? アタシは大丈夫だったし、ジュチだって反省しているし。だから、ザールが怒ることなんて、何もないんだよ?」
するとザールの身体から噴き出ていた『魔力の揺らぎ』はすうっと消えて行き、肩で息をしているザールがリディアに言った。
「……ありがとうリディア、危うく敗けるところだった。ジュチにも怖い思いをさせてすまない」
ジュチはほっと胸をなでおろしながらも、ザールに対しての恐怖と興味がさらに増したことは否めなかった。
「いいさ、ボクだって先にキミやリディアに悪いことをしたからね」
そう言いながら、ジュチの胸には……
「アンタの胸には、このときザールに対しての劣等感と嫉妬が芽生えていたんだよ」
再びインヴィディアの声がジュチの脳内に響いた。ジュチは舌打ちしながら言う。
「ちっ! 思い出さなくていいことを思い出させてくれるじゃないか。そう言うのをお節介と言うんだよ?」
ジュチは、ゆらゆらと揺れる空間の中でつぶやく。その間にも目は油断なく空間の歪みを探し続けていた。
「……あんたは自分の無能と無力に気付いていながら、知らんふりをしているだけさ。その証拠を見せてあげるよ」
すると、ジュチの目の前には……。
「ルクリア様、もう一回……」
そこには、甘えた声を出しながらあられもない姿で『色欲のルクリア』と絡み合っているディアナの姿があった。
「!……ディアナ……」
ジュチは、胸をかきむしられる思いで、ディアナとルクリアが繰り広げる痴態を眺めていたが、不意に目を閉じて笑った。
「過ぎたことじゃないか……ボクとしたことがすでに取り返しのつかないことを見せつけられて、何を心乱れているんだ」
ジュチはそうつぶやくと、神経を研ぎ澄まして空間の歪みを探す。そんなジュチの姿を見て、インヴィディアのつぶやきが漏れる。
「ふん、なかなか理性を失わないね。それじゃ、今現在のこの娘のことはどうする?」
そして、次の幻覚が襲ってきた。
そこには、怒ったような目つきで自分を見上げている少女の姿があった。夜空の色をしたウェーブがかった髪を揺らし、同じ夜空の色をした瞳がジュチを見つめている。
「ジュチ、いつまでここに軍を留めておく気なのさ? アンタがだらしないから、軍紀が緩みまくっているじゃない。これでも軍事行動をしているつもりなの⁉」
ジュチは、そう言って噛みついてくるアルテミスの顔を優しく見つめながら、
――このやり取りは、いつかしたことがあるな……。
そう考えていた。するとアルテミスは、不意に悲しげな眼をしてジュチを責める言葉を口にし始める。
「アンタが私たちを編成に入れたせいで、ディアナが死んでしまった……ディアナがいなくなった原因は、アンタにもあるんだからね?」
それを聞いて、ジュチは何も言えなくなる。確かに、必要なことだったとはいえ、アルテミスとディアナを『妖精軍団』に入れて連れ出したのは、指揮官であるジュチなのだ。
ジュチは首を振って答えた。
「それについては何も弁解するつもりはない。確かに、ボクがキミたちを編成の中に入れなければ、可惜ディアナを失うこともなかった……」
ジュチの言葉を聞き、インヴィディアの顔がニヤリと歪んだ。
「かかった! ジュチ・ボルジギン、アンタの魂はもうこの手の中さ!」
その途端、アルテミスは笑いながら剣を抜き、ジュチの胸に突き立てた。
★ ★ ★ ★ ★
モーデルは、リアンノンの指示に首をかしげた。
「クワイへの上陸を取りやめてスルタン島の沖合に艦隊を集合させよ、とはどういうことだろうか? リアンノン様から何か別途言付かったことはないか?」
モーデルが伝令のキース戦務参謀に訊くが、キースも首を振って答える。
「いえ、ただ、リアンノン閣下は『今回も自分が指揮を執る』とだけ仰っていましたが、別途モーデル提督への指示はございませんでした」
モーデルは、左目にはめたモノクルを外すと、
「ふうむ……少し解せぬが、リアンノン様のご命令ならば従わねばなるまい。キース参謀、ご苦労だった」
そう言うと、キースをねぎらって笑顔を向けた。
キース戦務参謀が去った後、
「どういうことでしょうか?」
陸戦準備にかかっていた艦長がいぶかしげに訊くが、モーデルはさばさばとした顔で艦長に命令する。
「陸に上がらずに済むのであればいいじゃないか。艦長、全艦隊に信号して出帆してくれたまえ。リアンノン様の指示どおり、スルタン島沖合200マイルに占位できるよう針路をとってくれ」
モーデル支隊の300隻は、一夜にしてクワイの沖からその姿を消した。
リアンノン艦隊の動きは、すぐさまバスラの司令部に届けられた。
「何? クワイ沖の敵艦隊がいなくなった?」
軍司令官は、驚いてそう叫んだ。
クワイには守備部隊として独立コホルス隊の5千が配備されていた。相手が万を超える大軍なので、最終的な勝ち目はないかもしれないが、貿易港としても名高いクワイを一戦もせずに敵手に委ねることは出来ないとして死守命令が発せられていたのである。
「敵艦隊の行方は分かるか?」
軍司令官は情報参謀にそう訊く。クワイと言う搦手を攻めないとすれば、敵は一丸となってスルタン島の海軍基地を狙う可能性が高い。
スルタン島には艦隊はいなくなったが、生き残りの水兵たちで海軍の歩兵部隊を組織し守備に当てている。艦船用の弩弓や投石機なども残っていたため、兵力は1万5千と独立連合コホルス隊並みであり、総合的な戦闘力は陸軍の1個軍団に匹敵した。
「スルタン島守備部隊に警戒警報を出せ。守備部隊が善戦するようなら、クワイ守備隊やバスラからの増援も考えねばならない」
軍司令官はそう言った。今まで、リアンノンの部隊には連戦連敗だ。一度でも水際逆襲が成功すれば、士気も上がるに違いない。参謀たちは頷いて、新たな事態での最善策の再検討に入った。
「リアンノン様、今度はどのような方法でバスラを落とされるのですか? モーデル提督が不思議がっていますが」
会同してきたモーデル艦隊を見つめているリアンノンに、ホーク作戦参謀が訊く。リアンノンはニコリと笑うと答えた。
「時間がないのよ。今度は一撃でバスラを落とさねばならない。クワイやスルタン島の艦隊基地など、その後でいい」
「クワイやスルタン島の海軍基地にも、ある程度の敵軍が配置されています。それらを超越すると、バスラ攻撃時に後ろから襲われませんか?」
ハウ情報参謀が訊くと、リアンノンは右手に持った『トライデント』を眺めながら、ニコリと笑って言った。
「あなたたちも、わがアクアロイドは海神ネプトレ様に特別なご配慮をいただいている種族であることを知っているでしょう。そのことをザッハーク朝の者たちに今一度見せつけて、我らに敵対しようなどと考えないようにしないといけません」
「それは分かりますが……」
キース戦務参謀がうなずくが、その顔にははっきりと当惑の色が浮かんでいた。モーデル艦隊を呼び戻す遣いをしたのは彼自身だから、道々その理由を考えていたに違いない。しかし、海ならともかく、バスラは海岸から90キロも内陸にある。テゲトフ艦隊を壊滅させた時のような超常的な技は使えないのではないか。
しかし、リアンノンは涼しい顔で参謀たちに言った。
「バスラを落とし、クワイやスルタン島の艦隊基地を失えば、その先にいるバビロンのイリオンも考えを変えるに違いないと思います。作戦は明日の正午に開始します。その時、各艦追い波に飲まれないよう十分注意するように、全艦隊に警報を出しておきなさい」
そしてリアンノンは参謀たちに言った。
「追い波を越えたら、湾内に突入しなさい」
「ふ~ん、『追い波に注意せよ』か……」
リアンノン艦隊の先鋒であるエース准提督は、旗艦『バーラム』の艦橋でつぶやいた。前回のテゲトフ艦隊殲滅戦では敵艦隊のおびき出しに大活躍した彼だが、今度はリアンノンがどんな策を持っているのか想像もつかなかった。
エースは水平線を眺めながらしばらく考えていた。その視線の先には小さくリアンノン艦隊が見えている。
――明日の正午と言えば、ちょうど満潮直前だな。今度はあの女神様は何を企んでらっしゃるんだ?
やがてエースは諦めたように頭を振ると、薄く笑って独り言ちた。
「……まあ、麗しき我が女神様が何をされようと、人間どもが不憫であることには変わりはないか」
そして艦長にさばさばとした調子で命令した。
「明日の正午を期して作戦行動に入る。リアンノン様の指揮のもと、狙うはバスラだ。どんな戦いになるかは想像もつかないが、追い波に注意することと、機会があれば陸戦隊を使うので準備しておいてくれたまえ」
そして幕僚には
「このことを各艦に知らせてくれ」
そう言うと、
「俺はしばらく部屋に戻る。変わったことがあれば呼んでくれ」
彼は身軽に艦内へと降りて行った。
しばらくすると、エースの部屋のドアがノックされる。
「入れ」
エースの声を聞いた幕僚は、ドアを開けて部屋に入って来た。その手には通信文が握られている。エースはそれを見ただけで笑って言った。
「リアンノン様の命令だな? 見せろ」
エースは幕僚からそれを受け取ると、さっと目を通して笑う。その通信文には
『エース艦隊は陸戦隊を準備し、適宜バスラを攻略せよ』
と書いてあったからだ。
「リアンノン様に返事だ。『肯定』」
いとも簡単に言うエースに、幕僚は思い切ったように訊く。
「提督には、この作戦に自信がおありですか?」
その幕僚は青い顔をしていた。きっと通信文を盗み見したに違いない。そして、5万以上がいるバスラに対し、エース艦隊のみに攻略命令を出してきたリアンノンのやり方に不安と不満を持っているのだろう。
エースは笑って言った。
「リアンノン様の能力は先のテゲトフ艦隊殲滅で存分に見せていただいた。そのリアンノン様が俺だけでもやれると思われているのなら、それは十分に勝算があると思うぜ? それより、心配しているヒマがあったら追い波をかぶっても艦隊がバラバラにならない方策でも考えてくれ」
エースの屈託ない笑顔に、幕僚は心配が薄れたのか通常の顔色に戻ってうなずいた。
「クワイの奴らは命拾いしたな」
スルタン島の艦隊基地では、守備部隊の指揮を任された海軍士官たちがリアンノン艦隊への対応策を協議していた。
「クワイからの陸路を警戒しなくてもよくなったが、その代わりに敵10万が一斉にスルタン島の艦隊基地を攻撃する可能性が高くなった。その対応策を考えるべきだ」
「いや、対応って言っても、相手は10万、こちらは1万5千です。鎧袖一触にされるんじゃないですか?」
現場の部隊指揮官である准海佐たちが口々に言う。
「そうかもしれないが、我々がどれだけ踏ん張れるかで、その後のバスラやバビロンの防衛が変わってくるんだ。とにかく、相手は我々の艦隊を奪ったアクアロイド軍だ。ケッペル提督やテゲトフ提督の仇討でもある。みんなには頑張ってほしい」
次席指揮官の正海佐が言うが、部隊指揮官たちは一様に浮かない顔をしていた。
首席指揮官の大海佐は、海で死ぬのをあえて厭わぬ水兵たちに陸戦兵器を与え、地べたを這いずり回らせねばならない現状を残念に思ったが、静かな闘志を湛えた瞳で一人一人を見つめて言う。
「私は皆の指揮官として、これだけは言っておきたい。『無暗に死ぬな』ということだ」
その言葉にびっくりしている部隊指揮官たちを優しく見つめ、うなずくと、
「いいか、ここには弩もあるし投石機もある。その他の武器もある。ないのは艦だけだ。けれど、私たちは伝統あるファールス王国海軍の一員、海でも陸でも無頼の奴らを許しておくわけにはいかない」
そう言うと、続けて笑いを含みながらも
「といっても、相手はいまだ負け知らずのアクアロイド。確かに不安はあるが、奴らも生き物である以上、弱点がある。それが『乾燥』だ。身を隠し、隙をついて奴らの弱点を突けば、そう簡単に負けるとは思えない……どうだ、みんな」
部隊指揮官たちは軽くうなずく。その顔にはもう当惑の色や恐れの色はなかった。そんな指揮官たちを見回して、大海佐は満足そうに命令した。
「では、各部隊は所定の位置につけ。私は最も危険な部署の部隊と行動を共にする」
リアンノンは、旗艦『リヴァイアサン』の艦橋で、太陽の運行を測っていたが、傍らの航海長が天測しながら
「正午です」
と言うのを聞き、うなずいて命令を下した。
「全艦隊、全速前進!」
その命令は手旗や旗旒信号となって艦隊内の全艦に伝達される。各艦は命令を受けると、自分が所属する艦隊の命令に従って行動を開始した。
先鋒を承ったエース艦隊は、帆を張り足すとぐんぐんと前へ出て行く。しかし、その他の艦隊は次のような序列でゆっくりと進んでいた。
中央の本隊は、南の左翼から北の右翼へクリムゾン大提督、ローズマリー正提督、ミント上級大提督の艦隊と続き、そしてリアンノン、テトラ正提督、タボール正提督の艦隊と続く。
その後ろに、フッド大提督とロドニー正提督を左右の翼に従えたモーデルの艦隊が続いていた。
「艦長、エース艦隊が本隊から20マイル離れたら教えてください。そして全艦隊反転し、エース艦隊にもその旨を信号火矢で通知するように」
リアンノンはそう命令し、艦長の返答を聞くと、『トライデント』を片手につかつかと艦首甲板へと歩き出した。
やがて、
「エース艦隊との距離が20マイルになりました!」
と言う見張りの声とともに、艦長は
「面舵一杯、急げ!」
と号令し、それと共に、待機として掲げられていた『全艦隊右180度一斉回頭』を示す信号旗がサッと引き降ろされ、艦橋からは赤と黄色の火矢が高々と放たれた。
それを見た各艦は、一斉に回れ右を始めるとともに、
「来なすったな」
エースも旗艦『バーラム』で自分の艦隊に回れ右を命じていた。
リアンノンは、指揮下の艦隊の動きを見ながら、
「わが主なる海神ネプトレよ、今一度その力を我に与え、海嘯を正義の名と共に轟かせしめたまえ! C’est im portorete, j’eim hoan saru l’esonne, a pa dannportance. Ici sue C’esta doragonest im Doraco」
そう、『トライデント』を高く掲げながら海神に祈り始めた。
すると、リアンノンの身体は青白い光に包まれ、その光が収まるとともにその姿は『リヴァイアサン』艦上から消えた。
リアンノン艦隊の乗組員は、不意に艦の行き足が速くなっていくのを感じていた。
「何だ? 風も強くないのに、えらく速いじゃないか」
「風ではない、海流が恐ろしい速さで湾の出口へと向かっているんだ」
「ここにはこんな速い海流は流れていないはずだか?」
各艦長や航海長などが驚く中で、遠くに巨大なドラゴンが見えた。
「あれは、テゲトフの艦隊を全滅させたドラゴンだ!」
乗組員たちが騒ぐ中、そのドラゴンは身体を青白く輝かせ、大きく天へ咆哮すると、物凄いスピードで艦隊へと向かってくる。
「ぶつかるぞ!」
ドラゴンに対して恐怖の叫びを上げる水兵もいたが、艦長や航海長たちが恐怖したのは、別のものだった。
それは、高さにして50メートルを超える大きなうねりだった。巨大なドラゴンは海を揺さぶり、海面を持ち上げていたのだ。
「あのうねりはざらにはないぞ……艦首を湾口に向けていて正解だったな」
艦長たちがそうつぶやいて操舵手に舵を取られないように注意を促した時、巨大なうねりがリアンノンの艦隊を通り抜けていった。その巨大なうねりを受けて各艦は大きく揺すぶられはしたが、追い波ではなかったために転覆などの被害は皆無だった。
「リアンノン様が『うねりを越えたら湾内へと突入せよ』と言われていたのは、このことだ。各艦、緊急回頭だ!」
ニールセン参謀長はリアンノンの言葉を思い出し、急いで『リヴァイアサン』に再び『全艦隊右180度一斉回頭』を示す信号旗を掲げさせた。
リアンノン艦隊を巨大なドラゴンが通り過ぎた頃、スルタン島の海軍基地ではちょっとした騒ぎが起こっていた。
「指揮官、海が変です!」
血相を変えて飛び込んできた一人の部隊指揮官に、大海佐はいぶかしげに訊く。
「変とは?」
「とにかくおいでください」
大海佐は、日焼けした准海佐に引っ張られるようにして指揮所を出た。その途端、大海佐にも『異変』はすぐに感知できた。
まず、海鳥がいなかった。いつもなら少なくとも数十羽、多ければ百羽の単位で向けているカモメやアジサシなどが、見事に一羽もいなくなっていた。
海鳥の声が消えて、妙な静寂が支配する港にも『異変』が起きていた。艦隊がいなくなっても港内には雑役船の類は残っており、いつもならそんな船が忙しなく動いているのだが、それらの小舟がすべて着底していた。
「急に潮が引き始めたのです」
部隊指揮官の准海佐が引きつった顔で言う。大海佐はふと、今日が大潮の日であることを思い出した。
「今日の満潮はいつだ?」
大海佐が訊くと、准海佐は即座に答えた。
「8点2刻過ぎです。あと2刻程度で満潮になるはずですので、本来ならあの線以上に潮が来ていないとおかしいのです」
そう言いながら、桟橋に作り付けられた潮位盤を指さす。いつもの干満潮時に潮が来る場所には、びっしりとフジツボなどがこびりついている。
「……津波の前兆かも知れません」
准海佐が小声で言う。大海佐もその意見をもっともと思ったが、返事を渋っていた。いや、迷っていたのだ。
津波が来るのであれば、全部隊に退避命令を出さねばならない。でなければ部隊は無為に壊滅する。もう遅いかもしれないが。
けれど、それはスルタン島の海軍基地の防御を放棄することを意味する。
さらに大海佐を迷わせたのは、防御陣地は比較的高いところに作ってあったため、津波の被害を回避するためなら水際防御線の守兵を拠点防御に回すだけで事足りるかもしれないのだ。
「貴官の部隊の守備陣地の標高は?」
大海佐が訊くと、准海佐は
「本職の陣地は拠点防御用の観測陣地ですので、標高10メートルの地点にあります」
そう答えた。大海佐は頷いて
「水際防御の守兵を拠点防御陣地に避退させる。直ちに陣地に戻り、増加人員の配置を検討してくれ」
そう言った。准海佐は何か言いたそうだったが、敬礼して走り去った。
大海佐も急いで司令部に戻り、全陣地に警報を発した。
「警報、津波の恐れあり。水際陣地帯に配置された部隊は、至急、所属の拠点防御陣地へと移動せよ。繰り返す、水際陣地の部隊は、至急、最寄りの拠点防御陣地へと移動せよ」
その命令を発した後、大海佐も急いで第2指揮所としていた島の中でも最も高い丘の上にある観測所へ移動した。ここは標高が20メートルあるので、たいていの津波には耐えられると踏んでいたのだ。
しかし、大海佐が観測所に到着した時、海側を見張っていた水兵が驚愕の表情で双眼鏡を放り出したのを見て、彼も沖へと視線を移した。
そして彼は、信じられないものを見て固まってしまった。
沖から、青白い光に包まれた恐ろしく巨大なドラゴンが、物凄いスピードで島へと近づいてきた。それはあっという間に大海佐の頭の上を飛び去ったが、海に釘づけされた大海佐の視線の先には、まるで青い壁のように盛り上がった巨大な津波があった。
それは、キラキラと日の光を反射しながら、着実に、そしてかなりのスピードで迫って来ていた。波の高さは比べるものがないので何とも言えないが、100メートルは優に超えている……いや、もしかしたら200メートルを超えていると思われた。
「もう駄目だ……」
絞り出すような水兵の声に、ハッと我に返った大海佐は、海軍基地内を見回した。すでに低い場所からでもあの波の壁は視認できるのか、移動中の部隊で全員が海を見つめて茫然としているものもある。
大海佐は再び海へと視線を戻した。その時にはもう津波は近くにまで押し寄せてきていて、港近くに着底している雑役船たちを飲み込みながら、大海佐の頭のはるか上に覆いかぶさって来た。
「……なんてことだ……」
大海佐はそのつぶやきとともに、襲ってきた波の壁に叩きつけられるようにして飲み込まれてしまった。
リアンノン艦隊は、無血でバスラを占領した。
と言っても、敵軍が逃げ出したのではない。
その日、バスラを襲った大津波は、最大波高300メートルに達していたという。スルタン島の海軍基地が壊滅してわずか1刻足らずで津波はバスラを襲い、一瞬にしてそのすべてを飲みつくした。州知事も軍司令官も、そして守備隊の兵士たちも、一体何が起こったのか理解できなかったことだろう。
「今度は津波か……うちの女神様はやることのスケールがでかすぎらあ」
バスラ攻略を命令されていたエース准提督は、津波の後を追いかけるようにして内陸50マイル(この世界では約90キロ)にあるバスラまで艦隊を侵攻させた。引くと見えた海水はいつまでも引かなかったのだ。
それはバスラ周辺だけ津波の衝撃で地盤沈下を起こしているからだと思われた。
バスラの陥落はすぐにリアンノン艦隊へと通報されたが、その知らせを受けてリアンノンは憂鬱そうにつぶやいた。
「無辜の市民たちも犠牲にしてしまいました。その点だけが心残りですし、その責めはいつの日か私自身が取ることとなるでしょう」
しかし、すぐに顔を上げて、居並ぶ参謀たちに命令した。
「我が一身に関わることは、国の大事と比べると些事に過ぎません。私たちにはまだバビロンと言う目標が残っています。みな、気を引き締めてかかりましょう」
★ ★ ★ ★ ★
「ジュチ・ボルジギン、アンタの魂はもうこの手の中さ!」
『嫉妬のインヴィディア』の声が響く中、アルテミスは笑いながら剣を抜き、ジュチの胸に突き立てた。
「ぐおっ⁉」
ジュチはそう叫ぶと、口から血を噴き出しながら跳び下がる。目の前にいたアルテミスは消え、そこにはインヴィディアのニヤニヤ笑いがあった。
「くっ……魔力を……」
胸を押さえながらジュチが膝をつく。その足元にみるみるうちに赤い染みが広がっていった。
インヴィディアはニコリと笑って
「そうさ、アンタの魂はもう私の手の中にある。だから、アンタの魔力も私の思うがままさ。『略奪する愛』って言う技で、相手の魔力を拝借するって寸法さ」
そう言うと、インヴィディアはジュチに『ヒール』をかけた。流れていたジュチの血は止まり、その傷口も塞がる。
「勘違いしないでおくれよね? アンタを一気に殺すのは嫌なんだ。なんてったって、アンタは『色欲のルクリア』の仇だからね」
そう言うと、パチンと指を鳴らす。それとともに、
「ぐっ!」
ジュチの右手が手首から吹き飛ばされた。
「止血はしといてやるよ」
そう言いつつ、インヴィディアが再び指を鳴らすと、今度はジュチの左手首から先が吹き飛んだ。
「ふふ、アンタの苦悶の顔もなかなか美しいね」
そう言いつつ、インヴィディアはジュチの左右の足首を吹き飛ばした。
「どうだい? 魔力が使えない気分は? そのまま少しずつ削り取ってやるよ」
ジュチは、朦朧としてくる意識の中で、
――これくらいのことで参ってたまるか。ボクはハイエルフだぞ。
そう考えていた。
『ハイエルフと言っても、世界のすべてに責任を持つわけじゃないだろう?』
不意に、ジュチの頭にそんな言葉が浮かんできた。この言葉は、どこかで聞いたことがある……。
霞んでいくジュチの視界の中に、まだ少年だったころの風景が浮かんできた。
「時に、ザールに訊きたいことがあるんだが」
15・6歳のジュチは、金髪を風になびかせながら、背中合わせになっているザールに言う。その言葉は優しかったが、碧眼は鋭い光を湛えていた。
「こんな時に何だよ? 後じゃいけないのか?」
同じく15・6歳のザールは、目の前にひしめいているヴォルフたちを緋色の瞳で睨み据えると、背中合わせになっているジュチに言う。
二人は、ドラゴニュートバードにヴォルフの群れが巣食ったことを知り、二人でその討伐に来たのだ。巣を急襲して何体かのヴォルフを仕留めた二人だったが、数に勝る敵に逆襲を受け、草原の一角へと追い詰められていた。
「お前たちみたいなガキが俺たちヴォルフを狩ろうなんて、のぼせ上がるにもほどがあるぜ。せっかく追い詰めてやったんだから、楽しませてくれよ?」
ヴォルフの群れの向こうから、ひときわ大きなヴォルフがそう言って笑う。けれど、その笑いはすぐにかき消え、そいつは苦悶の叫びを上げた。突然、ヴォルフの左腕が血をまき散らしながら宙を舞ったのだ。
「ぐおおっ! なんだ?」
「ザール、ジュチ、助けに来たよ!」
左腕を切断されてのたうち回るヴォルフの親玉の向こうから、額に白い角を生やし、茶髪を振り乱した可愛らしいオーガの女の子が現れた。
「おお、リディア、ちょうどいい時に来てくれたね」
ジュチは、リディアの周りに飛ぶアゲハチョウを見ながら、にっこりとして言う。
「ジュチ、今だ。この包囲を突き破ろう」
周りを囲むヴォルフたちの動揺を見たザールは、言うよりも早く剣を閃かせて目の前のヴォルフに斬りかかった。その剣尖は15歳の少年のものとは思えぬほど速く、鋭く、あっという間に包囲輪を形成していたヴォルフたちの半分近くが地面に転がった。
「アタシのザールをひどい目に遭わせてくれたね?」
リディアも可愛らしい顔を朱に染め、眦を決して2本の両手剣を振り回している。その剣がひらめくたびに、ヴォルフたちの頭や手足が宙を舞った。
やがて、最後の一匹をザールが仕留めた後、三人は地面にぶっ倒れてハアハアと呼吸を弾ませる。剣を修行しているザール、ジーク・オーガのリディア、そして魔術が得意なジュチですら、三人でヴォルフ50頭は一苦労だったのだ。
けれど、三人は頭を寄せて横になっていたが、やがて三人とも大きな笑い声を上げた。
「やったぞジュチ、僕たちだけでこの里を守ったんだ」
ザールが言うと、リディアも喜色満面で
「うん、やったね! アタシ役に立った、ザール?」
そう訊く。ザールはうなずいて言った。
「もちろんだよ。最初、君が女の子だからって理由で参加を断ってすまなかった」
「ううん、それはいいよ。アタシのこと心配してくれたんでしょ? だったらうれしいもん。だから許してあげる」
リディアが頬を染めて言う。
「時にザール、聞きたいことがあったんだけれど」
不意に静かな声でジュチが訊いてきた。ザールは笑って言う。
「さっきもそう言っていたね。何だい、訊きたいことって?」
「キミは、あいつらの巣を奇襲できたはずなのに、わざわざ敵の親玉と話をしたね。なぜだい?」
「そのことか……」
ザールはゆっくりと起き上がりながら言う。
「うん、あのヴォルフたちは札付きの奴らで、この里を蹂躙しようと企んでいたことは確かだ。まあ、ハイエルフやジーク・オーガの里もあるから、奴らがここで好き勝手出来たかは非常に疑問じゃあるけれど、それでも奴らが悪意を持っていたことは容易に想像できたし、その蓋然性も高かった。それなのに、わざわざ奴らの言い分を聞いたキミの気持ちが分からないのさ」
ジュチも起き上がり、その碧眼でザールを見つめながら言う。ザールは笑って答えた。
「ジュチの言うとおり、奴らが悪意を持っていることは想像に難くなかった。けれどここはヴァイスドラゴンやシュバルツドラゴンが住まう『聖域』だ。ひよっとしたら、奴らは悪行を悔いてやり直すためにここに来たのかもしれない……そう思ったんだ。それなら征伐しなくても済むしね」
「ザールは優しいからね。だから相手に付け込まれるときもあるんだ」
リディアも起き上がり、ザールに優しい目を向けて言う。ジュチはしかし、笑顔一つ浮かべずに言った。
「ふむ、ザール、キミはずいぶん変わった。幼い時はすぐに暴力でカタをつけようとしていたけれど、今は王道を行こうとしている。けれど王道は覇道を行く者に対して時に決定的なほど弱い。ボクはそれを心配しているよ」
そんなジュチに、ザールは透き通った微笑を浮かべながら言った。
「ふふ、いつか二人に言ったよね? 僕の夢を」
リディアがうなずいて
「うん、どんな種族もそれぞれを尊重して生きていく世界を創りたい……だったよね?」
そう言うと、ザールは薄く笑って
「……夢物語だと思うかい?」
そう二人に訊く。リディアはすぐさま首を振って言う。
「ううん、ザールならきっとそんな世界を創れると思う」
ザールはジュチを見る。ジュチは金髪を形のいい人差し指に絡ませながら、しばし何かを考えていたが、やがて笑って言った。
「ふふ、人間風情が……って思っていたが、今までのキミのあり様を思い返してみたら、あながち夢物語では終わらないように思えてきたよ。この世で最も気高く、有能なハイエルフであるボクにそう思わせるなんて、すごいヤツだな、キミってやつは」
ザールも笑って言う。
「ハイエルフと言っても、世界のすべてに責任を持つわけじゃないだろう? ジュチの口癖を聞いていると、君が世の中の正義に対して責任を負っているように聞こえることがあるんだ。まるでプロトバハムート様のように」
「そんなことはない。ハイエルフはただ、さまざまな種族がどのような宿命でこの世に生を受けたかを知っているに過ぎないよ。そんな大それたこと、考えたこともない」
ジュチは肩をすくめて言うと、逆にザールに問いかけた。
「キミこそ、人間の分際で随分と大きな夢を持っているじゃないか? キミこそプロトバハムート様のつもりかい?」
ザールは顔を赤くして笑って言う。
「そんなつもり、さらさらないよ。でも、僕の夢を夢で終わらせないためには、ジュチ、リディア、君たちの協力が必要だってことは分かっている」
そして一つ息を整えると、ザールは厳かな調子で二人に訊いた。
「時が来たら、僕を助けてくれるだろうか?」
まずリディアがうなずいた。
「もちろんだよ! ザールの夢はアタシを救ってくれたんだから」
そしてジュチが、薄い唇を開いて言った。
「キミの夢は、追いかける価値がある。ボクもキミの夢に乗ったよ。この世で最も高貴な一族・ハイエルフの誇りにかけて誓おう」
その思い出が、遠ざかりゆくジュチの意識をしっかりとつなぎとめた。
――ボクは、ザールと一族の誇りをかけた『高貴の誓い』を交わしたじゃないか……こんな所でこんな敵に敗れてどうする。
ジュチはカッと目を見開くと、インヴィディアをしっかりと見つめて言った。
「悪いが、ボクの魂はボクのものだ。返してもらおう」
その言葉とともに、ジュチは青白く光るオオミズアオの群れに包まれた。
「くっ! 私の『略奪する愛』、そう簡単に破れるものか!」
インヴィディアは、襲い掛かって来たアゲハチョウの群れを『魔力の揺らぎ』で弾き飛ばしながら言うが、オオミズアオの群れが居なくなった時、そこにジュチが元通りにニコニコして立っているのを見て驚愕した。
「なっ⁉ 私の技は魂を縛り付けるはずなのに……」
そんなインヴィディアに、ジュチは流し目をくれながら言う。
「残念だけれどね、キミの力はボクやザールの『高貴の誓い』の前には無力に等しかったみたいだね?」
インヴィディアは、正対したジュチの身体から迸る『魔力の揺らぎ』の質と量が段違いに変わっていることを見抜いた。そして、ジュチの額を見て唇をかむ。
ジュチの額には、翡翠の光を放つドラゴンの刻印が光っていた。『強欲のアヴァリティア』は知らなかったが、『嫉妬のインヴィディア』はその刻印を知っていた。彼女たちの団長である『怒りのアイラ』が持つものと同じだったからだ。
けれど、その性質や能力は同じではない。ジュチの額に輝く刻印は、
「……『信仰の契印』だね。アンタがそんな力を持っているなんて……」
インヴィディアはそうつぶやく。ジュチ・ボルジギンという男については、事前に『嘆きのグリーフ』からいろいろと情報を受け取っていた。その中にもスティグマの話はなかった。しかし、インヴィディアは確信した。
――グリーフの奴、わざと黙っていたね。
そしてそれと同じくらいの確信で、自分の命がもうしばらくしかないことを感じ取っていた。
「さて、ボクにもちょっと用事がありましてね? あなたともっと遊んでいたいのですが……」
ジュチは、身体中に翡翠色の『魔力の揺らぎ』をまとわせながら、碧眼を細めてインヴィディアに笑って言った。
「キミの実体も見えたことだし、ボクたちハイエルフを敵に回したこと、キミの団長たちにも思い知らせて差し上げますよ」
そして、ジュチは背中のオオミズアオの羽根を大きく広げた。
(36 高貴の契約 完)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
前回のリディアvs『強欲のアヴァリティア』に続き、ジュチvs『嫉妬のインヴィディア』の戦いと、リアンノン艦隊の活躍をお送りしました。
次回はロザリアvs『貪食のグーラ』の戦い、『37 魔族の相克』をお送りします。
加速していく『七つの枝の聖騎士団』編、毎週日曜日9時から10時までに更新いたしますので、ご期待ください。




