35 紅蓮の誓約
『七つの枝の聖騎士団』の一人、『強欲のアヴァリティア』の幻術に苦戦するリディア。戦いの中でリディアに目覚めた幼き日の誓約とは?
【主な登場人物】
♡ホルン・ファランドール…『死の槍』と『アルベドの剣』を持ち、辺境で名を上げた女槍遣い。前国王の娘で王国の現状に改革を志す。翠の瞳と銀の髪を持つ。26歳。
♧コドラン…シュバルツドラゴンのこどもで、生き別れになった母を探すためにホルンとともに旅をしていた。小さいが気が利く、ホルンの良き仲間である。15歳程度。
♤ザール・ジュエル…“東方の藩屏”トルクスタン侯国の世子で『白髪のザール』の異名を持つ。ホルンとともに王国の改革を志す。白髪に緋色の瞳を持つ。23歳。
♡リディア・カルディナーレ…ザールの幼馴染でジーク・オーガの王女。接近戦では無双の強さを誇る。額に角を持ち、茶色の髪に茶色の瞳をしている。21歳。
♤ジュチ・ボルジギン…ザールの幼馴染で『この世で最も高貴な一族』であるハイエルフの首領の息子。頭脳明晰で魔力に長けるがチャラい。金髪碧眼の美青年。23歳。
♡ロザリア・ロンバルディア…ザールに一目ぼれして仲間に加わった魔族の女性。冷静冷血で魔術に長けている。黒髪と黒曜石のような瞳を持つ。21歳。
♧ガイ・フォルクス…26年前にスケルトン軍団から国を滅ぼされたアクアロイドの王族。頭脳明晰で冷酷非情だが仇討に協力したホルンに恩義を感じている。29歳。
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「……さて、とっとと勝負をつけようじゃないか?」
百錬の鏡のような眼光で自分を見つめるリディアに、アヴァリティアは碧眼を細めて、
「さすがに地上最強の戦闘種族だわね。私も今度は全開で行かしてもらうわね」
そう言うと、アヴァリティアの身体が赤銅色に輝き始めた。そしてその輝きが収まった時、アヴァリティアは3メートルほどの身長となり、刀身は2メートルを優に超えるツヴァイヘンダーを構えていた。
「……へえ~。アンタ、ティターン族だったわけかい。相手にとって不足はないよ」
リディアがそう言うと、アヴァリティアも薄い唇を歪めて言った。
「私もだよ、『炎の告死天使』。お互い力の限りやり合おうじゃないか」
そう言うとアヴァリティアは巨大なツヴァイヘンダーを振りかぶり、リディアに向かって突進した。
ガキン!
アヴァリティアのツヴァイヘンダーをリディアの偉大な青龍偃月刀が受け止め、空間に大きな振動が起きる。どちらも自分の『魔力の揺らぎ』を得物に込め、一撃必殺の威力を込めた互いの闘志が炎のように燃え上がった。
「やっ!」
一瞬、身を引いたアヴァリティアは、ツヴァイヘンダーを回してリディアの胴を狙って薙いで来る。刃渡り2メートルを超えるその大野太刀はかなり重いはずなのに、その重さを感じさせないほどアヴァリティアの斬撃は素早かった。リディアは『レーエン』の転回が間に合わず、石突部分でツヴァイヘンダーを弾き飛ばす。
「……速いね。さすがは『七つの枝の聖騎士団』だけあるよ」
リディアは敵のテンポに乗せられないように、わざと距離を取ってそう言う。アヴァリティアも痺れた腕を振りながら笑って答えた。
「あなたこそ、さすがに『白髪の英傑』やホルンに認められた戦士だね。こんなに重い斬撃は初めてだわ」
そう言いつつも、アヴァリティアはすでにリディアの大きな欠点を見抜いていた。
――『炎の告死天使』と呼ばれてはいるが、リディアはジーク・オーガらしく正々堂々の立会いを好み、自分の『魔力の揺らぎ』についても物理攻撃と物理防御に特化して使っているようだわね。
けれども、アヴァリティアは当分の間、戦士らしく技と力で戦うことを選んだ。『嘆きのグリーフ』からは、幻術を使った戦いによってリディアを圧倒するようにとのアドバイスを受けてはいたが、リディアの清々しい笑顔とひたむきな姿勢が、アヴァリティアにそうさせたのかもしれない。
――こいつの弱点を衝くことはいつでもできる。できるなら戦士同士、戦士らしい戦いで決着をつけたいものだね。
アヴァリティアはそう思うと、再びツヴァイヘンダーを振り上げてリディアに突進した。
★ ★ ★ ★ ★
さて、こちらは王国の南東方面、アクアロイドの町であるシェリルの攻防戦はどうなっているだろうか?
こちらの方面は第3と第4軍団管区が攻略命令を受けていたが、トリスタン候アリーの謀略によってどちらの軍団も本拠地防衛のために引き返し、トリスタン侯国軍4万がシェリル攻略を続けることになったことは先に述べたとおりである。
しかしアリーは真っ正直にシェリルを攻めようとはしなかった。もともとアリーはホルンの依頼によって自分を訪ねて来た義妹のロザリアから、ホルン挙兵時の戦策を受け取っていて、ここまでの行動はその戦策に沿っただけだったからだ。
王国暦1576年花咲き誇る月20日、アリーはシェリルの防衛司令官であるモーデルと密かに会談した。場所はシェリルの政庁舎であり、対外的には『シェリル防衛軍に降伏を勧告する』という触れ込みであった。
「最初に、私の立場を明らかにしておきたい。私はトルクスタン候サーム殿と同じ考えであり、このファールス王国を何とか立て直したいのだ」
アリーは、腹心のカブールのみを連れてこの会談に臨んだ。連れてきた兵はわずかに100人だけである。そのことでモーデルはアリーの真意を理解していた。
「トリスタン候の立場はよく理解しているつもりですよ」
モーデルは苦み走った顔を緩めて答える。彼の左右にはリアンノンが選抜して残していった諸将がずらりと座っていた。
「私たちも、リアンノン閣下の言われる『すべての種族が分け隔てなく暮らせる世の中』には期待していますし、そうでなくてはならないと考えていますから。ホルン様の依頼を引き受けたのは、単にホルン様がこの国の正統な後継者であるからというだけではなく、その周囲にいらっしゃる『白髪の英傑』をはじめとした帷幕の将がみな同じ考えを持っているということを知ったからです」
静かに言うモーデルに、アリーは深く同意のうなずきをして
「ザール殿のお考えは正しいと思います。正直、私は人間以外の種族に対してある種の警戒感や嫌悪感を持っていたことは事実です。しかし、今は臣下に対して種族よりもその者の志操を重く見ています。人間であっても同じ人とは思えぬほど非道なことを考える者がいることを考えると、種族などどうでもいいと考えるようになりました」
そう言って笑った。そして笑いを引き締めると本題を切り出した。
「そこでです。モーデル殿に一つお願いがあります」
モーデルは左目にはめたモノクルを光らせて言う。
「我々もリアンノン閣下と共に戦列に加わってほしい……そう言うことですかな?」
「そうです。ここからイスファハーンまで直線距離で870マイル(この世界では約1600キロ)。道のりでは1千マイル(約1850キロ)になるでしょう。魔戦士部隊を持つとはいえ私の軍ではどんなに急いでも20日はかかります。その間、私の部隊はザッハークに与する部隊に見つけられたくはないのです」
アリーがそう言うと、モーデルは腕を組んで考え込んだ。
「確かに、私の部隊もリアンノン閣下の部隊と会合するように命令を受けています。しかし、私が気にするのは第3と第4軍団管区の部隊が全くの無傷でいるということです。ここに残せるのは警備部隊として1万弱。2個軍管区の8個軍団を凌げるだけの力があるかどうか……」
アリーは真摯なモーデルの態度を見ると、言っていることが正論なだけにこの場での無理強いは出来ないと感じたのか
「……モーデル殿の苦衷も分かります。私も2・3日思案してみますので、なにとぞ前向きに検討いただければ幸いです」
そう言って会談を終えた。
シェリルを囲む陣地に戻ると、アリーはすぐさま左右の将であるアブドゥルとシンを呼び出した。アブドゥルはカブールと共に両翼の部隊を指揮する猛将で、シンはトリスタン侯国きっての魔族によって構成された魔戦士部隊の長である。
「……と言うことだ。シン、そなたの部隊で道中、部隊を完全に隠蔽できるか?」
シンは、黒い瞳を持つ細い目を閉じて注意深くアリーの言葉を聞いていたが、アリーの問いに対して浅黒い顔を上げて答えた。
「……難しい注文でんな。手っ取り早く『転移魔法陣』を使えばええのやろうけど、わての魔戦士部隊はラザリアの下の姉貴が率いていった部隊と違うて玉石混交や。悪くすると部隊が20キロ程度の範囲でバラバラになる可能性が高い。それに御屋形の部隊は3万、わての部隊は5千。魔戦士一人が6人を面倒見なあかん。悪くすると『転移魔法陣』で亜空間を抜けるとき、2・3人は亜空間に取りこぼすこともあるやろし、亜空間酔いがあることを考えると一度に500キロが限度や。安全牌で300キロとしたら6・7回は『転移魔法陣』での移動を考えなあかん。おサカナさんの船で移動することの方が実際的やと考えますで」
シンの話を難しい顔で訊いていたアリーだったが、仕方なく言った。
「……うむ、シンの話は分かった。それでは『転移魔法陣』による移動はあくまで最後の手段として、モーデル殿の返事を待ってみよう」
アブドゥル、シン、カブールはそれぞれにうなずいた。
★ ★ ★ ★ ★
「やあっ!」
「おうっ!」
ガキーン!
リディアとアヴァリティアは、何十回目かの光のたすきを交わす。二人とも息をも継がぬ激闘を続けているが、その顔は晴れ晴れとしていた。
「ふふ、さすがはジーク・オーガだね。今まで戦った奴らとは雲泥の差だよ」
リディアを上から押さえつけるようにしてアヴァリティアが言えば、
「アタシもだ。ティターン族との本気のどつき合いは初めてだけれど、ウキウキするよ」
と、『レーエン』をかざしてリディアが答える。そんなリディアに、アヴァリティアは目を細めて言った。
「けれど、これは遊びじゃないのよ? あなたにはこのまま潰れてもらうわね?」
そして、アヴァリティアは押さえつけているツヴァイヘンダーに力を込めた。キキンという刃鳴りがして、ツヴァイヘンダーはゆっくりと『レーエン』を押し下げ始めた。
「ぐっ!……さ、さすがティターン族。こりゃ一瞬も力を抜けないね……」
リディアは『レーエン』の棟に右手を当てて力を込めた。そして、じりじりと下がってくるツヴァイヘンダーをしっかりと受け止める。
「やっ!」
キン!
リディアの鋭い声と共に、もう一度、鋭い刃鳴りがして、ツヴァイヘンダーと『レーエン』はかみ合ったまま微動だにしなくなった。リディアもアヴァリティアも涼しい顔をしてはいるが、その腕の筋肉は大きく膨らみ、ぶるぶると震えていた。
「凄いね、リディア・カルディナーレ。あなたは最高だよ」
ぴたりと止まった押し合いに、アヴァリティアは感嘆の声を上げる。そしてニヤリとして唇を舐めると言った。
「けれど、まだまだだよっ!」
アヴァリティアは黄色い『魔力の揺らぎ』を揺らめかせると、ツヴァイヘンダーを押し下げる腕に力を込めた。
「ぐっ!」
リディアは、突然の荷重にうめき声を上げたが、それでもしっかりと『レーエン』を支え続けた。相変わらずツヴァイヘンダーと『レーエン』の相対位置は変わらない。しかし、二つの武器がかみ合っている地点が、じりじりと下がり始めた。
「なっ⁉ アタシごと地面に?」
リディアは、自分の両足が静かに、しかし確実に地面に埋まって行くのを見て驚いた。このままでは両足が取られて身動きすらできなくなってしまう。
リディアは、自分の置かれた状況を悟ると、全身に『魔力の揺らぎ』を発動させた。薄い、透き通った赤い『魔力の揺らぎ』がリディアを包み、まるで紅蓮の炎のように燃え上がった。
「うおおおーっ!」
それとともに、リディアは恐るべき雄たけびを上げ、『レーエン』でツヴァイヘンダーを思いっきり跳ね上げると、後ろへと跳んだ。
「やあっ!」
アヴァリティアはリディアの動きを読んで、自分も前に跳ぶとともに跳ね上げられたツヴァイヘンダーを目にも止まらぬ速さで横薙ぎに薙ぎ払った。
ジャリン!
しかし、リディアもアヴァリティアの攻撃を予期していた。跳ね上げた『レーエン』の石突でツヴァイヘンダーを弾き飛ばすと、そのままアヴァリティアの頭目がけて『レーエン』を振り下ろす。重さ82キッカル(この世界で約2・78トン)にもなる大青龍偃月刀は、異様な風切り音を立てて落下した。
「させるかっ!」
ジャリン! パーン!
アヴァリティアはツヴァイヘンダーを振り上げることで『レーエン』の軌跡を変えることに成功したが、さすがにその重さに耐えきれなかったのか、ツヴァイヘンダーは中ほどからぽっきりと折れた。
「もらった!」
リディアはアヴァリティアの得物が真っ二つになるのを見て、すかさず一歩踏み込むとともに『レーエン』を逆袈裟に摺り上げる。けれどアヴァリティアは慌てもせずに後ろに跳び下がりながら折れたツヴァイヘンダーをリディアに投げつけた。
「……見事ね。けれど私の武器を折ったからって、勝ったとは思わないでね?」
アヴァリティアはそう言うと、虚空からバトルアックスを取り出し、左右に構えた。
「これはあなたの武器から見たら少し見劣りはするけれど、どちらも30キッカル(約1トン)の重さがあるからね」
そう言いざま、アヴァリティアは右手の戦斧を横殴りに飛び掛かって来た。左の戦斧は頭の上にかざしている。リディアが下手な受け方をしたら、その頭は真っ二つにされるだろう。
ジャリンッ! カキーン!
けれどリディアは、左から襲ってくる戦斧を『レーエン』で受け止めざま、振り下ろしてきた戦斧を石突で弾き飛ばす。卓越した戦闘民族であるジーク・オーガらしい身のこなしだった。
「よいしょっ!」
リディアは左の戦斧を『レーエン』をぶん回しざまに押しやると、その回転を生かしたままアヴァリティアの右の肩口から斬り下げる。アヴァリティアはそれを右手の戦斧で受け止めつつ、リディアとの距離を詰めた。
「くそっ!」
アヴァリティアはニヤリと笑って左手の戦斧を摺り上げて来た。これで勝負が決まったと半分確信しているような顔だったが、その表情は次の瞬間驚愕のそれに変わる。
グワンッ!
リディアは、『魔力の揺らぎ』を込めた拳を戦斧に叩きつけ、それを弾いていた。そのままリディアは強烈な前蹴りを放つ。それは見事にアヴァリティアの鳩尾にはまった。
「うぐっ! がはっ!」
アヴァリティアは血反吐を吐きながら10ヤードほど吹っ飛ばされた。すぐに体勢を立て直すが、その目には真っ向から『レーエン』を振り下ろすリディアの姿が映った。
「もらった!」
リディアはそう叫び、『レーエン』を振り下ろす腕に力を込めた。
――くそっ! こんな所で負けてたまるものかっ!
アヴァリティアはそう思い、とっさに『魔力の揺らぎ』で自分の身を包んだ。
「えっ⁉」
リディアは振り下ろす腕を止めた。なぜなら、目の前にザールが笑っていたからである。
――えっ⁉ ザール、なんでこんなところに?
『レーエン』を振り下ろすことにためらうリディア。アヴァリティアはその一瞬のためらいを見逃さなかった。
「食らえっ! 『幻影の風刃』!」
「ぐわっ!」
リディアは、至近距離から鋭い陣風を十字に浴びて、血を噴きながらすっ飛ばされた。
★ ★ ★ ★ ★
王国暦1576年花咲き誇る月20日、王国の南東では局面が大きく動いた。トルクスタン候サームがシェリルの町に姿を現したのだ。
サームは、腹心のボオルチュとジェルメを侯国の守りに残し、自らチラウン、チンベと共に3万の軍を率いてシェリルにやって来た。
「トルクスタン候がおいでになっただと?」
トリスタン候アリーは、サームの到着を聞いて驚いて陣門へと走り出た。そこには、まごうことなき『赤髭の賢王』ことサーム・ジュエルが、銀の甲冑を身にまとい、騎乗して微笑んでいた。
「トリスタン候、この度は王女様のための御出馬、誠に大儀だったな。王女様に代わって礼を言うぞ」
サームが落ち着いた声でそう言うと、トリスタン候アリーははっと平伏した。
サームは前国王シャー・ローム3世の実弟で、ロームからは『11人目の王の牙』と呼ばれるほど信頼されていた。ロームの遭難後にはサームこそ次期国王にとの声が国のあちこちで挙がったほどの人物だ。サーム48歳、アリー31歳と歳の差もあるが、アリーはこの時ほど“人間の品格”というものの差を感じたことはなかった。
「とんでもありません。この国を立て直すことに力を尽くすのは、藩屏国として当然のことです……けれどサーム殿下には何故、こちらの方面への御出馬でしょうか?」
アリーは額に汗をにじませて心配そうに訊く。予定より行動が遅れていることを詰問されるのではないかと心配しているようだった。
サームは、アリーの心配をかき消すような笑顔で言った。
「トリスタン候、余は卿のことを叱責するためにここに来たのではない。ジェムとアンマンを牽制し、卿の軍を助けるためにここに参ったのだ。安心したまえ」
それを聞くと、アリーはあからさまにホッとした表情を見せ、顔を上げて言った。
「では、私はシェリルのモーデル殿と協議し、いつでも出発できるような算段をいたしておきます」
サームはその言を聞き、にこやかにうなずいた。
ほどなく、第3軍団管区のザーヘダーンや第4軍団管区のカラチの町に、次のような衝撃的な噂が広まった。
『ザッハーク陛下はダマ・シスカスへと遷都し、王国発祥の地であり長きにわたって王都であった光輝あるイスファハーンを捨てた。これは天がザッハークの世を終わらせようとしている証である』
『前の国王シャー・ローム陛下の遺児であるホルン王女様が、イスファハーンで即位された。新たな王国の歴史が始まるのだ!』
どちらもサームの麾下が広めたものだった。
しかし、ザッハークの遷都は、国の東側に住んでいる者たちは州知事や軍司令官以外知らされていなかったことである。首都方面については戦乱の影響もあって交易もほぼ途絶状態であったことから、初めて遷都の事実を知ったという軍団兵や市民も多かった。
二つ目の噂についてはサームのブラフだったが、国の東側にいる大多数の者はその噂を信じた。というより、サーム自身がザーヘダーンのジェム将軍やカラチのアンマン将軍に直々に申し渡したことだったのだ。
「時代は変わる。正統な後継者であるホルン王女は、歴史ある都市イスファハーンで即位された。余は陛下の勅命を受けて王国の東方面に責任を負っている。第3・第4軍の指揮官に訊く、ホルン陛下の御名のもとに新たな世を開くために力を尽くすか、それともあくまでザッハークに忠誠を誓って余の軍と矛を交えるか……5日のうちにシェリルまで出頭しない場合、余はそなたらを処断する。よくよく身の振り方を考えよ」
この通告を受けた州知事と軍司令官は驚倒した。今まで局地的な視点でしか戦局や政局を見ることができなかった彼らは、突然の出来事になすすべも知らなかったのだ。
しかし、サーム・ジュエルの名はここでも巨大だった。
「あのサーム殿下が仰ることならば、その命令を聞いておいた方が良いだろう。それにトルクスタン侯国の兵は強い。戦っても勝ち目はない」
ジェムとアンマンはそう考えて、早々にサームの軍門に降った。
サームは、やって来た二人を丁重に迎えると、
「それぞれの管区については、そなたたちの方がよくご存じだろう。よって、二人とも現在の地位は保証する。管区の人民を可愛がってほしい」
開口一番そう告げると、二人ともホッとした表情になった。その二人に、サームは続けざまに命令した。
「ついては、貴官たちの招集した軍団は、必要な時期が来るまで余が指揮を執る。ザーヘダーンには第33軍団を、カラチには第43軍団を残すので、軍司令官が指揮して拠点を守護せよ。その他の第3、第4軍団はトリスタン候指揮の下、イスファハーンの陛下のもとにはせ参じると良い。残りの第31、第32、第41、第42軍団は余と共にカンダハールで王国の東を守ることとする」
有無を言わせぬサームの威厳に、州知事たちはただ従うしかなかった。
王国暦1576年花咲き誇る月30日、トリスタン候アリーは自軍4万に王国軍4万、そしてモーデル指揮のアクアロイド陸戦隊の協力を受け、合計10万余の大軍でイスファハーンへと進軍を開始した。
「さて、これで決戦の準備は整った。あとはザールがうまくザッハーク軍を肥沃な三角地帯に誘致できるかだな」
サームは、高く砂ぼこりを巻き立てながら西へと向かう軍団を見送りつつ、そうつぶやいていた。
★ ★ ★ ★ ★
チャンスだった。
アヴァリティアは無防備に突っ立っているだけだ、後は『レーエン』を振り下ろせば勝負は決まる。
「もらった!」
リディアは勝利を確信する。
しかしリディアは振り下ろす腕を止めた。なぜなら、目の前にザールが笑っていたからである。
――えっ⁉ ザール、なんでこんなところに?
『レーエン』を振り下ろすことをためらったリディア。アヴァリティアはその一瞬のためらいを見逃さなかった。
「食らえっ! 『幻影の風刃』!」
「ぐわっ!」
リディアは、至近距離から鋭い陣風を十字に浴びて、血を噴きながらすっ飛ばされた。10ヤードも飛ばされたリディアは、そのまま地面に鮮血をまき散らしながら転がっていく。『レーエン』を手放していないのが奇跡だった。
「くっ……」
しかしアヴァリティアもダメージを受けていた。リディアの蹴りをまともに受けて胸骨にはひびが入っていたのだ。そのため『レーエン』につかまりながらよろよろと立ち上がるリディアに次の攻撃ができなかった。
「何だったんだ……さっきの?」
リディアは何とか立ち上がったものの、着ていた服は無残に破れて、その下に真っ赤なチェインメイルがのぞいていた。ヘパイストスが特別に誂えたものである。
――これを着ていなければ、さっきのでお陀仏になっていたね。ありがとさん、ヘパイストス。
そう思ったリディアは、ぶるっと頭を振ると、アヴァリティアを睨みつけた。そのアヴァリティアは、ちょうど自分にヒールをかけ終わったところだった。
「……なんかヘンな技を使ったね? 卑怯だよ」
リディアが言うと、アヴァリティアはすまなそうに頭をかいて
「ふふ、ついね……けれど、私はあなたと正々堂々の勝負をしたいと思っているから、さっきみたいにあなたの想い人の幻影を見せるなんてことはナシにするわ」
そう言うと、両手の戦斧を構えた。
「……そう願いたいよ」
リディアもそう言って『レーエン』を構える。けれど、リディアの構えは先ほどまでのそれとは明らかに違っていた。彼女は『レーエン』を後ろに回し、その柄の石突近くを握っていたのだ。『レーエン』の長さは3メートルほどあるため、彼女のリーチを含めると半径4・5メートルの圏内がリディアの攻撃範囲となる。
つまり、リーチの短いハンドアックスをアウトレンジしようという考えだった。
――あんなに長く握ったら、いかに膂力に優れるジーク・オーガといっても振り回しづらいに違いない。懐に飛び込んでやるわ。
アヴァリティアはそう考え、瞬息の攻撃を仕掛けた。横殴りに払ってくる『レーエン』を左の戦斧で受け止め、右の戦斧でリディアの左わき腹から摺り上げるように両断する……はずだった。
ガキン!
「なっ⁉」
しかしアヴァリティアは、受け止めた『レーエン』に弾かれるように右側へと吹っ飛ばされた。遠心力のついた『レーエン』は、リディアのパワーを何十倍にも増幅しており、さすがのアヴァリティアも地面に足をつけたままその打撃を受け止めることは出来なかったのだ。
「何度でも来な! 何度でも弾き飛ばしてやるから」
リディアは不敵な笑いを浮かべてそう言った。その顔は元が可愛いだけに悪魔的とすら言えた。何とか態勢を整えたアヴァリティアはリディアのパワーに驚いたが
――私の態勢が整わないうちに次の攻撃がなかった。やはり、あの長さでは連続攻撃の間隔は長くならざるを得ないようだわね。
そう思い、次の攻撃を仕掛けた。
「それっ!」
リディアの攻撃が右から迫る。アヴァリティアはその攻撃を受け止めるのではなく、戦斧で『レーエン』を弾き上げて受け流した。これでリディアの側面はがら空きになる……アヴァリティアはそうほくそ笑んだが、
「何ッ⁉」
ガギン!
リディアの膂力はアヴァリティアの想像をはるかに上回っていた。リディアは少し後退すると、弾き上げられた『レーエン』に体重を乗せ、そのまま振り下ろしてきたのだ。反射神経がずば抜けているアヴァリティアにしても、ようやく防御が間に合ったほどだった。反応が0・01秒でも遅れたら、アヴァリティアの頭部はスイカのように叩き潰されていたに違いない。
「くっ……ジーク・オーガを甘く見ていたわ」
頭部を狙っている『レーエン』を両手の戦斧をぶっ違いにして受け止めつつ、アヴァリティアはそうつぶやいた。『レーエン』はリディアの恐るべきパワーを乗せ、じりじりと押し下げられてくる。
「はっ!」
アヴァリティアがそう気合を入れると、身体中の筋肉が『魔力の揺らぎ』をまといつつ隆起する。それで『レーエン』の降下は止まったが、
「くそっ!」
「ふふん、どうだい? さっきのお返しだよ」
アヴァリティアは自分の足が地面にめり込んで行くのを感じて驚いた。ティターン族である自分より体格もパワーも劣ると信じていたジーク・オーガから、同じことをされるとはショックだったのだ。
「くそっ!」
アヴァリティアは左手の戦斧をリディアに向けて投げつけた。しかし、リディアはそれを造作もなく右手で受け止めると
「ほーら、返すよ」
と投げ返してきた。
アヴァリティアはその隙に『レーエン』を少し押し上げ、後ろに跳び下がるとともに投げ返された戦斧を受け止めると言った。
「……あなたは私の知っているジーク・オーガをはるかに超えているわ。残念だけど、力業だけでの勝負には勝ち目はなさそうね」
そしてアヴァリティアは身体中から薄い黄色の『魔力の揺らぎ』を噴出させると、
「ここからは魔力も使わせてもらうわ。ただし、さっきも言ったとおり、あなたの想い人の幻影を見せるなんてことはしないと戦士として誓うわ」
そう言った途端、アヴァリティアは何人にも分裂し、リディアの周りを取り囲んで突っ込んできた。
「……分身の術かい? 子供だましな技は効かないよっ!」
リディアはそう叫びながら、『レーエン』を目にも止まらぬ速さでぶん回した。
――手ごたえがない! 全員が幻影?
迫ってくる全員を薙ぎ払ったが、手応えがなかったリディアはそう思った。その瞬間、リディアは背後から凄まじい殺気を浴び、反射的に背中の『魔力の揺らぎ』を厚くするとともに、石突を突き出した。
「ぐっ!」
「がはっ!」
二人が同時に呻いた。リディアは背中に戦斧の打撃を受けたことによる、アヴァリティアは石突に胸を突かれたことによる苦痛の呻きだった。
「……何だい、今の技は? アンタどこにいたんだい?」
リディアが左肩をさすりながら顔をしかめて訊くと、アヴァリティアも口元の血を拭きつつ立ち上がって言う。
「ふふ、さっきの幻影は私が決めるまでは幻影さ。私が決めた幻影が私さ。けれどよく私の攻撃に対応したね。褒めてあげるわ」
そして、再び幻影でリディアの周りを取り囲むと言う。
「今度はさっきみたいにいかないわよ。『未観測の幻影』食らいなさい!」
アヴァリティアは勝ち誇ったようにそう言って突進を開始した。
★ ★ ★ ★ ★
こちらはリアンノン艦隊である。王国暦1576年花散り初める月5日に行われたファールス湾海戦後、リアンノン艦隊はファールス湾の王国海軍の基地であるバンダレシェフルを陥落させ、自らの前進基地としていた。
「さて、次の攻略目標はバスラ、そしてバビロンね」
リアンノンが言うと、ニールセン参謀長が笑って
「バスラの艦隊泊地であるスルタン島には一隻の軍艦もありませんが、艦隊の整備施設は無傷で残っています。まずはスルタン島を手に入れて、川沿いにゆるゆるとバスラを攻略するがいいかと思います」
アンソン情報参謀、ハウ補給参謀、キース戦務参謀が同意のうなずきを見せる。しかしベンボウ先任参謀とホーク作戦参謀は別の意見を持っていた。
「私たちの戦略目標はバビロンの速やかな奪取です。敵はバスラで遅滞戦術を取ってくると思われます。幸い、肥沃な三角地帯は大河が錯綜するため敵の軍の集結や機動は阻害され、我が方に有利な地形です。私たちはバスラを超越し、直接バビロンを攻略すべきだと思います」
それを聞いて、リアンノンは海の色をした長い髪を揺らしてつぶやく。
「確かに、本来我らは今頃バビロンを落としていなければならぬ時期ではある。しかし、バビロンは名にしおう堅陣、攻囲中に逆襲されてもかなわないけれど、その点は?」
アンソン情報参謀が答える。
「敵はバビロンに第1軍支隊、第6軍、第7軍の計10個軍団20万を配置しています。バスラには第53軍団と第131軍団、そして守備部隊の約5万が配置されていると思われます」
「我が軍は全軍で7万。20万の敵軍を攻囲している時に5万に背後を襲われたら壊滅するぞ? 何か策があるのか? ベンボウ、ホーク」
ニールセン参謀長が訊くと、ホーク作戦参謀はハウ補給参謀に訊いた。
「補給参謀、肥沃な三角地帯の補給状況はどうでしょうね?」
ハウは言下に答えた。
「今年はアルメニア地方に雨が多く、肥沃な三角地帯は例年に増して水害が多発しています。また、春先の作物の出来も思わしくなかったようです。私も陸戦移行後の後方兵站を心配しています。努力はしていますが」
それを聞いていたリアンノンがハウに畳みかける。
「補給参謀、本拠地からの物資についてはどんな状況なのかしら?」
「はい、モーデル殿の後任であるハーネギー殿はトルクスタン候サーム閣下とうまくやっているようですので、本国からの物資輸送について心配はありません。ただ、それでも長期にわたる行動となると、心配は残ります」
リアンノンはさらに、
「キース戦務参謀、モーデルの陸戦隊は今頃どの辺りにいるかしら?」
と訊くと、キースは
「はい、明後日にはスルタン島の南30マイルのクワイに上陸する予定です」
それを聞いて、リアンノンは薄く笑って言った。
「分かりました。では、電光石火バスラを落とし、そこを陸戦の拠点にしましょう。今度の作戦の指揮も私が執ります。今一度、アクアロイドの力を見せつけてやりましょう」
リアンノン艦隊がバンダレシェフルから動き始めた頃、バスラの軍司令部は混乱の極致にあった。少し話は先になるが、このころにはティムール率いる主力軍はイスファハーン防衛軍も合わせて10万の兵力を誇り、グロス山脈の西に出てソレイマーンの町に達していた。
また、トリスタン候アリーも8万の軍を率いてバンダレシェフルの北西50マイルのゲナーベの町にその姿を現していたからである。
「艦隊もない、テゲトフ提督亡き後は海軍を背負って立つ提督もいない。おまけに物資の集積も搬入もままならない……こんな状態ではバスラを守ることは出来ない。思い切って大集積地であるバビロンに退くべきだ」
軍司令官はそう意見を述べた。この案は現在の状況では軍事的に正解と言えた。ホルンの陣営は南からアクアロイド軍10万、南東からトリスタン侯国軍7万、東からトルクスタン侯国軍10万が進んでくるのだ。
ただし、ホルン陣営にも弱点はあった。それはトリスタン侯国軍7万は肥沃な三角地帯を進軍せざるを得ないということであった。
「このままここにいれば、わが5万の軍はアクアロイド軍10万との決戦に巻き込まれてしまいます。仮に敗北してしまえばバビロンは20万を超える敵軍に包囲されます。今撤退すればバビロンは25万で守れますし、敵はここの守備隊を押さえねばならないでしょうから兵力は伯仲します。バビロンを守るのは王国軍きっての名将イリオン驃騎将軍です。ぜひ、バビロンまで退きましょう」
軍司令官は口を酸っぱくしてそう説いたが、州知事はあくまでも自分の保身に拘った。
「私は陛下からこの州の安全を託された身だ。イリオン将軍ほどの名将ならば20万もあれば敵軍を殲滅するのは容易いはずだし、ここで少しでも敵を押さえ、敵を破砕するのも陛下のためになることだ。軍司令官の意見には承服しかねる」
「しかし、敵は海では無敵、陸でも恐るべき戦闘種族です。イリオン将軍が敗れれば王国が終わります。ここは将軍のもとに全力を結集して戦う時ではありませんか?」
あくまでもそう言う軍司令官に、州知事は厳然として最終的な命令を下した。
「だまらっしゃい! イリオン閣下がたとえ敗れても、陛下のおわすダマ・シスカスにはまだスレイマン閣下がおられる。つべこべ言わずにここで敵を叩くのだ」
実を言うと王国陸軍には悪弊があった。それは派閥である。
ファールス王国では伝統的に西側が文化的に進んでいて、イリオン驃騎将軍は西側の文化・文治派の新星であり、スレイマン大将軍は東側・武断派の巨頭であった。当然、州知事もどちらかのひいきがある。そして最悪なことに、このバスラを取り仕切る州知事はスレイマン派だったのだ。
★ ★ ★ ★ ★
「今度はさっきみたいにいかないわよ。『未観測の幻影』食らいなさい!」
アヴァリティアは勝ち誇ったようにそう言って突進を開始した。
「あいつが決心するまで全部が幻影だなんて厄介だね」
リディアはそうつぶやくと、『魔力の揺らぎ』はそのままに“乙女形態”へと移行して精神を研ぎ澄ませた。そして、鋭く冷たい感覚が走った刹那、
「やっ!」
カキーン!
リディアは左後ろから振り下ろされた戦斧を振り返りざまに『レーエン』で弾くと、返す刃でもう一つの戦斧を弾き返した。
「ふうーん、見事だね。その形態ならさらに反応が鋭いってわけかい。パワーは下がったようだけどね」
アヴァリティアは感心したように言うが、その顔には明らかに侮蔑の表情が浮かんでいた。リディアが勝ちを諦めたと思ったのだ。
「けれど、守ってばかりじゃ私には勝てないわよ? それとも、勝つのは諦めた?」
笑ってそう言うアヴァリティアは、リディアが何も答えないでいると、その沈黙をどう受け取ったのか一人頷いて、
「死にたくなければ、降参することね!」
そう叫んで、三度リディアを幻影で取り囲んで突進してきた。リディアは、その幻影に惑わされないように目を閉じて感覚を研ぎ澄ます。
――アタシは負けられない。絶対にコイツを倒す。
そのリディアの感覚から、ふっとアヴァリティアの気配が消えた。
「えっ⁉」
驚いて目を開けたリディアのすぐ目の前に、アヴァリティアのニヤニヤした顔があった。
「死になさい、『音速の戦斧』!」
その声とともに、アヴァリティアの戦斧がリディアを斬り裂き、叩きつける。リディアは血を噴き出しながら宙を舞った。
「ぐはっ!」
地面に叩きつけられたリディアが呻く。しかしリディアは『レーエン』にすがり付いて何とか立ち上がった。
「あら、さっきので逝っちゃえば楽だったのに……仕方ないわね」
そう言うと、アヴァリティアのハンドアックスが縦横無尽に振り回された。
「ぐっ! がっ! ぐはっ!」
戦斧がリディアの肉体を抉るたびに、リディアは苦悶の声を上げる。『魔力の揺らぎ』で守られているとはいえ、アヴァリティアの繰り出す音速を超える斬撃波を弾き返すことはできなかった。
とはいえ、ヘパイストスのチェインメイルがなければ、リディアはとうの昔に敗れていたに違いない。今でさえ、アヴァリティアの斬撃波は本来の力を阻害されているのだ。
「……しぶといね。もう楽になったらいいのに」
さすがのアヴァリティアも、肩で息をしながら言う。その目の前には、身体中を朱に染めたリディアがゆらゆらと突っ立っていた。すでに『魔力の揺らぎ』は薄くなり、あふれ出る血潮はリディアの足元に大きな血だまりを作っていた。
「いい加減に往生しなさい!」
いつまでも倒れないリディアに業を煮やしたアヴァリティアは、渾身の一撃をリディアの頭部に真っ向から叩き込んだ。
パーン!
「ぐがーっ!」
鋭く甲高い金属音とともに、リディアの野獣のような声が轟いた。そしてリディアは一瞬、大きく目を見開き、パッと大きく紅蓮の『魔力の揺らぎ』を燃え立たせたが、『レーエン』を握ったまま仰向けに倒れた。
――ゴメン、ザール。アタシ負けちゃった……。
遠ざかっていく意識の中で、リディアはそう思った。倒れたリディアの目からは一筋の涙がこぼれ落ちる。
アヴァリティアは、動かなくなったリディアをじっと見つめていたが、その目から一筋の涙がこぼれるのを見て、静かに言った。
「さよなら、最高の戦士よ。あなたの想い人は遠からずあなたの側に送ってあげるから、あの世ってところで平和に仲良く暮らしなさい」
そしてアヴァリティアは、倒れたリディアに一つ微笑むと、踵を返して歩き出した。
★ ★ ★ ★ ★
――ゴメン、ザール。アタシ負けちゃった……。
リディアは遠ざかる意識の中で、ザールにそう謝る。アタシが死ぬのはザールのためだけだと決めていたのに、こんな所で死んじゃってゴメン……リディアは無くなりつつある感覚の中で、そう悔しさと共に思った。
『悔しいからって泣いていても、物事は解決しないよ』
リディアはそんな声を聞いた。この声は、どこかで聞いたことがある……リディアはふわふわとした感覚の中、小さい頃の自分を見ていた。
まだ少女だったころ、リディアはドラゴニュート氏族が集う邑があるドラゴニュートバードで何不自由なく育った。父と母の優しさに包まれた日々だった。
彼女には悩みがあった。それは自分というものを意識しだす年頃の少女には特有のものであり、成長した後に思い出すと恥ずかしくも懐かしくもあるものだった。
その日もリディアは、オーガの里とドラゴニュート氏族の里の中間にある草原で、一人花を摘んで遊んでいた。そこに、二人の少年がひょっこりと顔を出す。
「リディア、ここにいたんだね。探したよ」
白髪の少年が言うと、もう一人の美少年が金髪をかき上げながら言う。
「まったく、あちこち捜し回ったんだよ? おかげでボクのお気に入りの服がすっかり汚れてしまったよ」
そんな二人に、リディアはおずおずと謝る。
「あ、ご、ゴメンねザール、ジュチ」
するとザールは笑いながら訊いた。
「別にリディアが謝ることじゃないさ。ところで、隣に座ってもいいかい?」
リディアは顔を真っ赤にしてうなずく。そのうなずきを見て、ザールは微笑みながらリディアの隣に座り、リディアが編んでいた花冠に目を止めて言った。
「その冠、リディアが作ったのかい? 器用だね」
「べ、別に、女の子なら誰でも作れるよ。アタシは指が太いからあんまり上手じゃない」
リディアが言うと、ジュチが形のいい人差し指で前髪をいじりながら、何気なく言った。
「リディアはジーク・オーガだからね。サイズが大きいのは仕方ないさ」
それを聞いて、リディアはカッとして花冠を引きちぎると、立ち上がってジュチの首根っこを押さえつつ喚いた。
「そうよ! どーせアタシはオーガだからサイズが大きいわよ! なんか文句ある?」
その時リディアは10歳、ザールとジュチは12歳だったが、リディアは170センチ、ジュチは150センチと一回りも二回りも身長が高かった。
「い、いや、別にボクは文句を言ったわけじゃないよ? 暴力ハンタイ」
わけが分からずビビるジュチの向こう側で、ザールが哀しそうな眼をしているのを見てリディアはハッと我に返った。リディアはジュチの襟首を離すと、不意に駆け出した。
「……なんなんだ?」
尻もちをついてつぶやくジュチに、ザールは悲しそうな顔でうなずいて言った。
「追いかけよう」
二人はリディアの後を追って駆けだした。
――ゴメン、二人とも。別に二人が悪いわけじゃないのに……。
リディアは涙をポロポロこぼしながら全速力で走る。今はザールたちと顔を合わせたくなかった。一人になりたかった。
「いけない、リディアが向かった先は『迷いの森』だ!」
足の速いリディアを懸命に追いかけていたザールがそう叫んだ。
『迷いの森』はヴァイスドラゴンのテリトリーである。入り込んでしまったら、よほどの幸運がない限り無事に出ては来られない。
「ジュチ、みんなに知らせてくれ!」
ザールが言うと、ジュチはニカッと不思議な笑みを浮かべて答えた。
「ザール、君だけカッコつけようなんてことは許さないよ? ボクだってリディアの友達なんだから」
「でも、誰かが知らせないと、取り返しがつかないことになるぞ」
ザールの言葉を聞いて、ジュチは右手からアゲハチョウを飛び立たせて言う。
「リディアが『迷いの森』に入ってしまったことを、村のみんなに知らせておくれ」
そしてジュチはザールに向き直って言った。
「さあ、急ごう。でないと探し出せる可能性がどんどん低くなってしまう」
リディアは無我夢中で走った。最初はジュチに体のサイズのことを言われたことにカッとしたのだが、ザールの悲しそうな眼を見たとき、急に自分がただの八つ当たりをしていることに気が付き恥ずかしくなったのだった。
――なんか、ジュチには悪いことしたなあ。
リディアは、いい加減走り疲れたところで立ち止まって思う。けれど、なぜ自分が体格のことを言われると居ても立っても居られない気持ちになるのか分からなかった。分かっているのは、ザールがいるととても気になるということだけだ。
「あーあ、なんでアタシってジーク・オーガになんか生まれちゃったのかな?」
「それはリディアのせいじゃないだろう? それに悔しいからって泣いていても、物事は解決しないよ」
そう言いながら、ザールが草をかき分けて現れる。
「あ……ザール……」
リディアは思わず顔を赤くして、ザールから目をそらした。ザールは穏やかな声で続けて言う。
「僕だってなんでドラゴニュート氏族になんて生まれたかなって思うよ。ただの人間で生まれたら、いつかドラゴンになってしまうんじゃないかって心配もないし、もっと平穏な道を歩けたんじゃないかってさ」
「でも、それってザールのせいじゃないわよ? アタシはザールがドラゴニュート氏族だってことを気にしていないし、ザールがドラゴンになったとしても、ザールはザールだもん」
リディアがそう言うと、ザールは優しい顔をしてうなずき、リディアの側まで来て言う。
「うん、ありがとう。そう言ってもらえると気が楽だよ。けれど、僕も同じだ。リディアがジーク・オーガだってことを気にしたことはない。君は素直で可愛らしいし、曲がったことが嫌いな素敵な女の子だと思っているよ」
するとリディアはパッと顔を輝かせたが、すぐに頭を振って言う。
「う、嘘だ。だってアタシみたいに身体が大きくて力が強くてガサツな女の子なんて、男の子が好きになるわけないじゃない」
ザールは悲しげな顔をして聞いていたが、首を振って答えた。
「種族の差だろう? そんなことをいちいち気にしていたら、誰とも仲良くなれない。少なくとも僕は、それぞれの種族の良いところを良いところとして感じたいし、リディアの良いところもたくさん知っているつもりだよ?」
二人がそんな話をしているところに、ジュチが面白くない顔をして現れた。
「やあ、お二人さん。いい感じのところ悪いけれど、『迷いの森』の番人に見つかってしまった。一緒にローエン様の所に来いってさ」
その後ろから、鋭い目をしたヴァイスドラゴンが現れる。リディアは思わずザールにしがみついたが、ザールは慌てもせずにヴァイスドラゴンを見つめてうなずいた。
“よく来たな、里の子どもたちよ……と言いたいところだが、そなたたちは無暗に『迷いの森』に入り込み、その静寂を乱した。そのことは許しがたい”
ヴァイスドラゴンの長であるローエンは、目の前に畏まっている三人に厳かな声で言った。三人とも、体長100メートルはあるローエンの威厳に気圧されて、自分たちはどうなるのかと青くなっている。
ローエンはそんな三人の顔色を見てうなずくと
“そなたたちも知ってのとおり、『迷いの森』は存在への不安や絶望と言った感情に支配されたものが迷い込む場所。そなたたちのように年端もいかない子どもたちがなぜ、あんなところにいたのか知りたくてな……”
そう言って三人を見回し、リディアにつと目を止めると、静かに訊いた。
“ジーク・オーガの娘よ、どうやらそなたの心に何らかの絶望があるようだな。『迷いの森』の道が開いたのはそのためだろう。何にそんなに心を痛めている?”
「えっ? えっと、その……」
ローエンから不意に訊かれたリディアは、顔を赤くしてあたふたしている。その目がちらりとザールを見て、さらに顔が赤くなったことを見て取ったローエンは、この世界の入口にいる二匹のドラゴンに微笑んで目配せすると、不意に厳しい表情になって言った。
“『迷いの森』を騒がせたジーク・オーガの娘よ。そなたの心の乱れの元凶はそこにいるドラゴニュート氏族の息子にあると見た! 門番たちよ、わが座所を騒がせた罪の償いとして、そのドラゴニュート氏族の息子を八つ裂きにせよ!”
“はっ!”
ローエンの命令と共に、二匹のドラゴンはすぐさまザールに飛び掛かろうとしたが、
「ちょ、ちょっと待って!」
「少し待ち給え」
そう言って、血相を変えたリディアと含み笑いを浮かべたジュチが門番たちの前に立ち塞がった。
“どけ、小娘。棟梁のご命令だ”
一匹の門番がそう言うと、リディアは激しく頭を振って叫ぶ。
「どかない! だって『迷いの森』を騒がせたのはアタシなんだから、ザールじゃなくてアタシが罰を受けるべきなんだ!」
自分を睨みつけるリディアをあえて無視して、ローエンはジュチに訊いた。
“ハイエルフの息子よ、そなたには直接関係がないはず。何ゆえにドラゴニュート氏族の息子を庇う?”
するとジュチは、やや煩げな金髪を右手でかき上げ、流し目でローエンを見ると答えた。
「関係ない? とんでもない。ザールもリディアもボクの親友だ。それにザールには『すべての種族が幸せに暮らせる世界』を作ってもらわないといけないからね」
ジュチの答えを聞くと、ローエンは目を細めて再び訊いてきた。
“『すべての種族が幸せに暮らせる世界』? ハイエルフの息子よ、そなたはドラゴニュート氏族の息子がそのような世界を本当に創れると考えているのか?”
ジュチは笑って答える。
「ふふ、人間風情が大きな口を叩きやがってって思うだろう? ボクも最初はそう思っていた。けれど、ザールはどこかが違うんだ。そんな夢物語のような世界を、ザールなら創れるかもしれないと思っている。だから、彼をここで失うわけにはいかないんだ」
とともに、ジュチは翡翠のような『魔力の揺らぎ』を身にまとった。
「そうだよ。アタシもそんなザールが好きなんだ! だから罰ならアタシが受けるよ!」
リディアも紅蓮の炎のような『魔力の揺らぎ』をまといながら叫ぶ。
そんな二人をなだめるように、ローエンはさっきから黙ったままでいるザールに声をかけた。
“ドラゴニュート氏族の息子よ。そなたは我が命令を理不尽とは思わなかったのか?”
するとザールは、緋色の瞳をローエンに当てて答えた。
「心を乱すものを無くすのが正解でしょう。リディアの心を乱すのが僕だとしたら、僕を処罰するのは合理的です」
「ザール!」
ザールは、何か言おうとするリディアやジュチを押さえて、ローエンに訊いた。
「僕は、さっきジュチが言ったように『すべての種族が幸せに暮らせる世界』を作りたいと考えています。けれど、ローエン様から見て、それは夢物語でしょうか?」
ローエンは、ザールの白く透き通った『魔力の揺らぎ』を見て、目を細める。この子は確かに変わっている。ドラゴニュート氏族であるからにはドラゴンの血を引いているのだろうが、それにしては猛々しさがない。
“そなたは、女神ホルンの祝福を強く受けているらしいな……それに……”
ローエンはこちらを見つめている三人を眺めて言う。
“そなたたち三人には、特別な絆を感じる”
「特別な」
「絆?」
ジュチとリディアが顔を見合わせて言う。ローエンは深くうなずくと
“うむ、それぞれドラゴニュート氏族、ハイエルフそしてジーク・オーガという種族を超えたつながりを、そなたたちに感じる。そのつながりを見せてもらおう”
そう言って、おもむろに巨大な翼を広げた。
「うっ!」
その翼から発せられる光を受けて、三人ともそう声を上げた。
“……なるほど、そなたたちは三人で夢を成し遂げる運命にあるようだな”
ローエンは三人の顔を見て、莞爾として言った。
★ ★ ★ ★ ★
アヴァリティアは、動かなくなったリディアをじっと見つめていたが、その目から一筋の涙がこぼれるのを見て、静かに言った。
「さよなら、最高の戦士よ。あなたの想い人は遠からずあなたの側に送ってあげるから、あの世ってところで平和に仲良く暮らしなさい」
そしてアヴァリティアは、倒れたリディアに一つ微笑むと、踵を返して歩き出した。
けれど、数歩も歩かないうちに、アヴァリティアは背後に凄まじい魔力を感じて振り返った。
「……な、何だい? この魔力は?」
アヴァリティアは、倒れたリディアの身体を紅蓮の炎のような『魔力の揺らぎ』が包み込み、空間が燃え立つようなエネルギーを放っているのを見てそうつぶやく。あまりにも衝撃的な光景だったため、アヴァリティアにはリディアを攻撃するという考えすら浮かばなかった。
「うおーっ!」
リディアはカッと目を見開くと、一声そう叫んで飛び起きた。アヴァリティアは、リディアの額に紅蓮の文様が浮かび上がっているのを見た。
その文様は、丸まったドラゴンだった。リディアの額に浮かんだドラゴンは、紅蓮の光を放ちながらぐるぐると回転している。
「あ、アンタ不死身かい? さっききっちりとどめを刺してやったはずなのに」
心なしか震える声でアヴァリティアは言う。その両手にはすでにハンドアックスが構えられていた。
リディアは、その可愛らしい顔でニコリと笑うと『レーエン』を構え直し、およそ地上最強の戦闘民族ジーク・オーガとは思えない可愛らしい声で言った。
「アタシだって不死身じゃないわよ?」
その声とともに、リディアの額の『希望の刻印』は輝きを増した。
リディアは知らなかったが、その頃、インヴィディアと戦っているジュチの額には翡翠の光を放つ刻印が、そしてアイラと戦っているザールの額には透き通った白色の光を放つ刻印が浮かんでいた。それぞれを『信仰の契印』『慈愛の聖印』という。
リディアは力が満ち溢れてくるのを感じながらアヴァリティアに言う。
「けれど、アタシは、ザールたちと理想の世界を創るまで、倒れるわけにはいかないんだ。ローエン様からそう言われたからね」
リディアの話が終わるや否や、アヴァリティアの姿が消えた。
――『未観測の幻影』からの『音速の戦斧』……これで決めてやるわ!
アヴァリティアは瞬息の技の組み合わせで、リディアの動きを止めに来た。しかし、
カキーン!
「なっ!」
リディアはその攻撃を易々と見切り、アヴァリティアのハンドアックスを弾き返す。
「次で決めてやる!」
再び攻撃態勢に入ったアヴァリティアは、自分が本体と決定した瞬間、その眼前にリディアが『レーエン』を振りかぶって立ち塞がっているのを見て息をのんだ。
アヴァリティアの攻撃は、たくさんの分身で相手を囲み一斉に攻撃を仕掛ける技だが、普通の分身攻撃なら必ず本体が一体いて、残りは分身となる。
しかし『未観測の幻影』は、アヴァリティアが決心するまですべてが分身であり、決心から本体の攻撃まで瞬きするほどの時間しかない。また、どの分身を本体にするかはアヴァリティアの気分次第であり、リディアがそれを事前に察知するのは不可能に近い。
にもかかわらず、リディアは正確にアヴァリティアの本体を見切り、稲妻のような斬撃を放ってきた。
「くっ!」
ガイン!
アヴァリティアは、間一髪のところで『レーエン』を受け止めたが、
「アンタ、もう解き放たれたらどうだい?」
リディアが紅蓮の炎を燃え立たせてそう言うと、リディアの偉大な筋肉が膨らんだ。
「やあーっ!」
キーン! ズバシュッ!
リディアの矢声とともに、『レーエン』はハンドアックスごとアヴァリティアを両断した。
「……しん、じ、られない……」
アヴァリティアは、歪んだ唇からそうつぶやきを漏らすと、頭から腹まで真っ二つになって転がった。
「……アンタは死後にも魔力が使えたね」
リディアはそうつぶやくと、『魔力の揺らぎ』を『レーエン』に込め、転がったアヴァリティアに叩きつけた。
「ぐおーっ!」
アヴァリティアは、そう最期の叫びを上げ、リディアの紅蓮の炎に焼き尽くされ、やがて灰になった。
「ザール、ジュチ……アタシはやったよ……」
リディアはそうつぶやくと、『レーエン』に寄りかかったまま地面に膝をついた。
(35 紅蓮の誓約 完)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
『七つの枝の聖騎士団』との戦いの中で、ホルンやザールを始め、登場人物たちの役割が明らかになると思います。
次回はジュチと『嫉妬のインヴィディア』の戦い、『36 高貴の契約』をお送りします。
来週日曜日、9時から10時までに投稿しますので、お楽しみに。




