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青き炎のヴァリアント  作者: シベリウスP
33/70

32 怒涛の海神

海峡の根拠地を手に入れたリアンノンに、制海権の奪回をかけて王国の名提督テゲトフが決戦を挑む。

そのころ、ホルンたちは北から、ティムールたちは東から王都に迫ろうとしていた。

【主な登場人物】


 ♡ホルン・ファランドール…『死の槍』と『アルベドの剣』を持ち、辺境で名を上げた女槍遣い。前国王の娘で王国の現状に改革を志す。翠の瞳と銀の髪を持つ。26歳。


 ♧コドラン…シュバルツドラゴンのこどもで、生き別れになった母を探すためにホルンとともに旅をしていた。小さいが気が利く、ホルンの良き仲間である。15歳程度。


 ♤ザール・ジュエル…“東方の藩屏”トルクスタン侯国の世子で『白髪のザール』の異名を持つ。ホルンとともに王国の改革を志す。白髪に緋色の瞳を持つ。23歳。


 ♡リディア・カルディナーレ…ザールの幼馴染でジーク・オーガの王女。接近戦では無双の強さを誇る。額に角を持ち、茶色の髪に茶色の瞳をしている。21歳。


 ♤ジュチ・ボルジギン…ザールの幼馴染で『この世で最も高貴な一族』であるハイエルフの首領の息子。頭脳明晰で魔力に長けるがチャラい。金髪碧眼の美青年。23歳。


 ♡ロザリア・ロンバルディア…ザールに一目ぼれして仲間に加わった魔族の女性。冷静冷血で魔術に長けている。黒髪と黒曜石のような瞳を持つ。21歳。


 ♧ガイ・フォルクス…26年前にスケルトン軍団から国を滅ぼされたアクアロイドの王族。頭脳明晰で冷酷非情だが仇討に協力したホルンに恩義を感じている。29歳。


★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


 王国暦1576年花咲き誇る月(4月)20日、リアンノン率いるアクアロイドの艦隊は、ホルム海峡の制海権を手に入れた。そのためファールス王国の内海と言えるファールス湾内の海上交通は大きく制限されていた。

 リアンノンは、ファールス王国に入ってくる軍需物資は完全に遮断し、ファールス王国から出て行く物資についても王室の財政に関わりそうなものについては輸送船を近くの港に引き返させるなどの措置を取りはじめたのだ。


 ファールス王国は西側もアトラスの海という大きな海に面しており、特に新たな首都であるダマ・シスカスはその海に面していたため、今のところ市民生活が直接に影響を受けることはなかった。しかし、もしリアンノンが別の艦隊を組織し、アトラスの海まで勢力を伸ばしたらどうなるか……そのことはザッハークが最も恐れることであった。


「アクアロイドの艦隊を滅ぼし、リアンノンの小娘の首をダマ・シスカスに届けよ」


 ザッハークのそうした命令が、バスラで待機している名提督テゲトフの許に届いたのは、花咲き誇る月25日のことだった。


「……確かに、このままアクアロイドの艦隊を野放しにしておけば、アトラスの海まで制圧されてしまうだろう。そうなっては王国に物資が届かず、国民が難儀するばかりだ」


 テゲトフはそう言うと、バスラの鎮守府長官に訊いた。


「バスラにいる艦隊の整備状況はどうだろうか?」


 長官は肩をすくめて答える。


「長年、予算が十分に割り当てられませんでしたからね。すぐに動けるのは戦列艦20隻と通報艦50隻程度です」

「敵の10分の1か……前進基地のバンダレシェフルにはどのくらいいますかな?」


 静かに訊くテゲトフに、長官はすまなそうな顔をして答える。


「バンダレシェフルの艦隊は半分をケシム島泊地に送っていたため、今いるのは戦列艦20隻と通報艦80隻です」

「ふむ、合わせても敵の2個艦隊に及ばず、か。それを考えると敵の7個艦隊700隻は大軍だな。我が国にも12個艦隊1500隻があった時代があるという。そんな時代が羨ましいな」


 テゲトフは寂しそうに笑うと、ゆっくりと自分の官舎に戻った。彼の官舎は司令部があるバスラではなく、艦隊がいるスルタン島にある。スルタン島の泊地には艦隊司令部があるが、艦隊の面倒を見る鎮守府は軍管区司令部があるバスラに置かれていたのである。彼我の距離は50マイル(この世界で約90キロ)。川を使って往来するのでバスラまで6時間、スルタン島まで4時間かかった。



 テゲトフは、自分の部屋に入ると、今までの戦闘詳報を調べ始めた。調べれば調べるほど、リアンノンをはじめとするアクアロイドの有能さがよく分かった。

 敵は海に慣れた、というより海をねぐらとするアクアロイドの700隻。対するにこちらはわずか170隻。最初の戦闘も、僚友であったケッペルが指揮した戦闘も、数の少なさと乗組員の稚拙さで敗れている。もちろん、敵もまたアクアロイドの特性を生かした戦い方をしていることだろう。


 乗組員については老兵も含めてひっかき集めれば何とかなるであろう。しかし、絶対数が足りない。敵の艦を沈めるにしても、燃やすにしても、拿捕するにしても、今のように4倍も開きがあると作戦を立てようがない。


「ふむ、これだけはやりたくなかったが……」


 テゲトフは暗い顔で言うと、引き出しから便箋を取り出し手紙を書き始めた。



 ケシム島の泊地では、旗艦『リヴァイアサン』の艦上でリアンノンが物思いにふけっていた。リアンノンは考え事をするときに歩き回る癖がある。今も、艦橋の端から端までを使って、何事かを考えていた。

 そこにいる艦長も、当直士官も、そして当直参謀であるホーク作戦参謀も、リアンノンの癖は知り抜いているので、その歩く先を遮断して考えを中断させることもない。


――さて、敵がいつ出てくるかだわ。敵にはめぼしい提督と言えばもうテゲトフしかいない。テゲトフは慎重だ。こちらの戦い方を十分研究してくるだろう。


 “次はテゲトフが出てくる”――これはリアンノンだけでなく、艦隊の幕僚全体の意見でもある。双璧と言われたケッペルが敗死した今、王国の海軍を率いることができるほどの戦略眼を持つ提督と言えば、それはテゲトフ以外には考えられなかった。

 問題は、いつ、どのくらいの兵力で、どのような作戦で立ち向かって来るかである。リアンノンとしても今後の行動に支障が出るくらいの損害は回避せねばならない。


――今後は必要があればバンダレシェフル軍港の占領、これは敵艦隊を撃滅できれば熟柿が落ちるようなもの。その後のバスラ攻略とバビロン包囲、これは状況によって変化させねばならないわね。艦隊決戦が先に起こればいうことはないけれど……。


 けれど、リアンノンとしては、テゲトフの戦略眼を高く買っている。


――私がテゲトフなら、艦隊が揃えば決戦を行うが、我が艦隊の半数以下ならバンダレシェフルで『Fleet in Being(艦隊保全)』策を取るだろう。そうすればバンダレシェフルを取るか単に封鎖するかどちらかになるが、いずれにしてもその後の陸戦に割ける兵力は減る……。

「……うむ、少々強引でも、テゲトフを海上に引っ張り出さねばならないわね」


 立ち止まったリアンノンはそうつぶやくと、ホーク作戦参謀を振り返って言った。


「ホーク参謀、今後の艦隊の行動について協議する。ニールセン参謀長にそう伝えよ」

「はい」


 リアンノンが立ち止まったことで、何か命令があると身構えていたホーク参謀は、すぐさまそう答えて船室へと降りて行った。



 バスラの軍管区司令部では、州知事であるジャハーン、軍管区の司令官であるイスマーイール、艦隊司令長官のテゲトフ、鎮守府司令長官マハールの四人が協議していた。


「艦隊としては、全力で敵の7分の2程度しか数を揃えられないのであれば、バンダレシェフル軍港で艦隊保全策フリートインビーイングを取ってアクアロイド艦隊を牽制する方が得策と考えている。本職としてはこの方向で行きたいのが本音だ」


 そう口火を切ったテゲトフに、ジャハーンが言う。


「しかし、陛下ははっきりと『アクアロイドの艦隊を滅ぼせ』とご命令なさっている。戦わぬわけにはいかんだろう?」

「提督が言われるように艦隊保全策を取れば、敵はバンダレシェフルを封鎖することになる。封鎖艦隊は陸戦には寄与しないので、こちらに来る兵力は現在の敵兵力の半分くらいと考えていい。敵が3万ないし4万であれば、ここにいる第72、第73、第74の3個軍団で十分に対応できる」


 イスマーイール司令官がテゲトフを助けるように言う。けれど、ジャハーン州知事はあくまで渋い顔だった。


「提督と司令官の意見は十分に理解しているが、州知事としての私の立場もある。陛下のご命令をむげにできぬのだ」


 テゲトフは、ジャハーンの言葉にうなずいて


「州知事閣下のご苦衷は分かります。しかし、今のまま出撃してもアクアロイドの艦隊に快哉を叫ばせるだけなのも事実。そこで、本職としては民間の大型帆船500隻を乗組員ごと徴用させていただくことを提案します」


 そう、自身が考えていた策を述べた。この言葉に州知事はびっくりする。


「民間船を徴用? できぬことはないが、民間船と軍艦では造りも違うだろう?」


 テゲトフはマハール鎮守府長官の顔を見ながら続ける。


「上甲板に最低限の装甲と最低限の弩弓、そして渡板を備えるような改装さえしていただければ結構です。そんなに時間はかけられませんからね」


 その言葉を聞いて、腕を組んで考えていたマハール鎮守府長官は、顔を上げて言った。


「うむ、その程度の改装なら、500隻をすべて終了するのに2週間も取らせん」

「……戦い方については提督に考えがあるのだろうから、私はすぐに徴用に関する命令を出す準備にかかる。鎮守府長官や提督の方も必要な準備を進めてくれたまえ」


 ジャハーン州知事は大きくうなずくとそう言った。


「これで何とかなる」


 帰りの船の中で、テゲトフはそう言って薄く笑っていた。



 王国暦1576年花咲き誇る月30日、『リヴァイアサン』艦上でホーク作戦参謀は一通の連絡文書を読んで眉をひそめた。

 その連絡文書は、先に作戦会議で決定した方策に従ってファールス湾内の通商破壊戦を行っているエース准提督からのもので、『敵の水兵隊が各地の港で帆船を物色している』というものだった。


「これは……敵の出撃は近いぞ」


 ホーク作戦参謀は、すぐさま顔色を変えて船室へと降りて行った。

 リアンノンとニールセン参謀長は、ホークの報告を聞くとすぐに作戦会議を開いた。


「敵の水兵隊が各地の港で帆船を物色しているという報告が、エース准提督から入りました。これは、敵が出撃準備を進めているものと思われます」


 ホーク作戦参謀は開口一番、そう言った。


「民間の帆船は軍艦とは造りが違う。にわか仕立ての改装軍艦には弩弓もそんなに積めないし、装甲もない。何を慌てているのだ?」


 ベンボウ先任参謀が言うと、ホークは


「いえ、敵が改装船を500隻も集めれば、それはそれで意味が違ってきます」


 という。ハウ補給参謀が訊いた。


「どういうことでしょう?」

「最低限の装甲と、最低限の弩弓を備えさせ、『接舷戦闘』専門の船に仕立てればいいんです。乗組員ごと徴用すれば、それは容易いはずです」


 ホーク作戦参謀が言う。リアンノンはうなずいた。


「なるほど、接舷戦闘だけを狙うのであれば、そんなに弩を積まぬともよいな。それにある程度乗組員を守れればそれでいいというワケか」


 そしてリアンノンはハウ補給参謀に訊く。


「どのくらいの期間があれば、500隻の改装が済むかしら?」

「……資材と船さえそろえば、10日もあれば可能でしょうね」


 ハウの答えに、リアンノンは決断した。


「エース准提督に、少しずつ湾の中央に集まるように伝えよ。それと、艦隊は明後日出撃する。今度は全力出撃だ」



 スルタン島の王国艦隊泊地では、夜を日についでの突貫工事が行われていた。各地から集められてきた大型・中型の帆船に、軽い装甲を取り付けたり、弩弓を据え付けたりしているのである。


「大型のものは両舷で10基、中型で6基から8基が備え付けられました。もう少し数が多くできそうなのですが、なにしろ弩弓の数が足りなくて」


 工事を視察しに来たテゲトフに、案内の係官がそう話す。


「敵に撃たれっぱなしにならなければいいのだ。あとどのくらいで出撃できそうか?」


 テゲトフの問いに、係官は


「思ったより数が揃いました。大型こそ120隻しかありませんが、中型が430隻も集まりましたからね。すでに大型は改装が完了していて、中型船が100隻ほど残っているだけです。明日には乗組員の乗船が可能です」


 そう胸を張る。テゲトフはにこやかに言った。


「そうか、でかしたぞ。それなら遅くとも明後日には出撃し、湾内を荒らしている敵艦隊を撃滅してやれるな」


 その後、テゲトフは艦隊の幕僚と戦隊の指揮官クラスを集めて、今回の作戦について指示を下した。


「アクアロイドとの戦いを振り返ってみると、最初の海戦ではこちらの軍艦が回頭に失敗して立ち往生するところに何らかの攻撃が加えられ、次々と転覆・沈没させられている。ケッペルはそれを艦底への刺突攻撃だと考え、艦底に防御を施して海戦に臨んだが、攻撃力と機動力が低下したところに敵の焼き討ちに会って敗北した。敵は練度も士気も高い、生半可な考えでは我が海軍は無為に消滅するだろう」


 そして、各級指揮官の顔を一人一人眺めて言う。


「我らも、彼らに劣らぬ歴史と練度を誇っている。敵がたとえ艦底への刺突攻撃を得意としていても、対処の方法はある。そこで、敵艦隊と3マイル以内に近寄ったら、各艦の直線行動を禁ずる。戦隊ごとにパターンを決め、とにかく30秒ごとに進路を変えるのだ。それと、艦底に防水具を積み込み、防水隊を編成しておくように」


 各級指揮官のうなずきを見て、テゲトフは続ける。


「攻撃方法だが、我が艦隊には正規の軍艦は170隻しかない。敵は700隻、その差は歴然だ。しかし、550隻もの改装軍艦を編入できたため、数のうえでは敵を上回った」


 テゲトフはそう言って明るく笑う。各指揮官の中にはそれでも心配そうな顔をしている者が多かった。何せ、商船は軍艦には攻撃力も防御力も全然相手にならないのだ。並走して弩弓を撃ち合えば、こちらの不利は明らかだった。テゲトフはそれを見透かしていたように、声を張り上げる。


「もちろん、攻撃力と防御力では話にならん。しかし、速力は同等で操作性は商船だけに良い。そこを生かして敵に接舷戦闘を強要し、敵艦に火を放ったらサッと離れる。その方法でいく。これなら各艦が敵艦を1隻炎上させれば、こちらの勝ちになるからな」


 それを聞いて、各級指揮官の顔色が少し良くなった。テゲトフは、商船で軍艦とまともに撃ち合わなくて済むという安堵感が広がったのを見て取って言う。


「であるから、今度の決戦では操艦が大きなウエイトを占める。各級指揮官は、部下の練度向上に十分に留意しておいてほしい」


   ★ ★ ★ ★ ★


 王国暦1576年花咲き誇る月15日、ホルン率いる遊撃軍は王国第9軍首脳部の意表をついて、アルボルズ山脈を比較的緩やかなサーリーの町からではなく、もっと西側にあるチャールースの町から越え、第9軍管区の主要都市テーランの西側に姿を現した。

 テーランには第9軍団の他に、動員したての第94軍団がいたが、軍司令官や州知事は


「ホルンたちはサーリーの町からアルボルズ山脈を越えてくるに違いない」


 との思い込みにより、テーランから東に50キロほど離れたダマバンドの町に精鋭の第9軍団を差し向けていたのである。

 そこに、テーランから西わずか30キロのカラジの町から


「トルクスタン侯国の部隊が現れました」


 との報告を受け、テーランの司令部は上を下への大騒ぎとなった。


「何かの間違いではないのか?」


 と州知事が叫べば、


「すぐに第9軍団と連絡を取るとともに、第94軍団の斥候隊で敵情を探れ」


 と、軍司令官も慌てて命令を下すありさまだった。



「敵に時間をあげてはいけないよ。このままテーランの町に急進撃すれば、精鋭の第9軍団とは戦わずに済むよ」


 カラジの町に入るとすぐ、ジュチがそうホルンに告げる。ロザリアも頷いて言った。


「うむ、もしも第9軍団が引き返してきても、そこはジュチ殿が上手くやることじゃろうて」


 それを聞いて、ジュチはロザリアを軽くにらんだが、すぐに笑顔になる。


「まあ、敵地で数的に劣勢なわが遊撃軍としては、常に動いて相手に所在地をつかませないようにするのが最善です。第9軍団については、ボクの方で手を打ちますから、王女様はご心配なく進撃してください」


 二人の言葉を聞いて、ホルンは顔をほころばせてうなずいた。


「分かったわ、お願いねジュチ。陣形はどうすればいいかしら?」

「前衛はガイとリディアを先鋒にしてザールを中軍に、本陣は『神聖生誕教団騎士団』、王女様の部隊、ロザリア部隊の順として、ヘパイストス隊を殿でいいと思います」


 ジュチがそう言うと、ホルンのうなずきを見て自隊へと戻っていく。その後ろ姿を見ながら、ホルンが目を細めてロザリアに言った。


「ジュチが思ったより気を落としていないみたいだから安心したわ」


 するとロザリアは、少し眉をひそめて答えた。


「いや、ジュチ殿はやはりどこか変わった。以前のように冗談を言わなくなったし、戦闘行動に仮借がなくなっておる。それも無理はないが、できればザール様を先鋒から外してジュチ殿と一緒にした方がよくはないかのう?」


 ホルンは少し考えていたが、一つうなずくと言った。


「ザールをここに呼んで」



 ジュチは自分が率いる『妖精軍団』に戻ると、副将であるサラーフとヌールに


「ボクたちで敵の第9軍団を煙に巻く。ボクとサラーフとヌール、そしてアルテミスでそれぞれ500人ずつ率いて戦うことになるが、今回はみんなに『幻影の回廊(エンドレスコリドー)』を使うことを許可する」


 そう言った。サラーフたちは驚いた顔をする。


「ジュチ様、『幻影の回廊』は人間相手に使うにはちょっと残酷なのでは?」


 するとジュチはその秀麗な顔を歪ませて答えた。


「ふふっ、『七つの枝の聖騎士団』への挑戦状さ。ボクはザッハークに付く奴らには地獄を見せてやると決めたんだ。それに、こんな所でこれ以上ボクたちの仲間を失うのも嫌だからね」


 すると、誰よりも早くアルテミスがそれに答える。


「分かった。それでジュチの気が済むのなら、私は部下に『幻影の回廊』を使わせるわ」


 妙に引っかかりがあるその言葉に、ジュチが目を細めて言う。


「別にボクの気が済むとかそう言うことではないんだ。ただ、『七つの枝の聖騎士団』の奴らに、ボクたちハイエルフを舐めるなという警告をしたいんだ」


 それを聞くと、アルテミスはニコリと笑って言った。


「そう、それを聞いて安心したわ。だってジュチはいつも『怒りで戦をしてはならない』とか言っているから、今回に限ってどうしたのかなと思ったのよ。私はわざわざ2万人もの人間を出口のない空間に閉じ込めるより、前回ジュチとロザリアがやったように全員を眠らせて武装解除してもいいかなって思っているけど……。それでも十分に私たちの力は示せるわ」


 そこに、にこやかに笑ってザールが幕舎に入って来た。


「うん、僕はアルテミス殿の意見に賛成だ。それなら王女様の仁徳に傷がつかない。ジュチ、今回は心を静めていつものように大局を見た作戦指導をしてくれ」


 ザールはそう言うと、何か言いたそうなジュチの眼を見て続けた。


「もちろん、僕も『七つの枝の聖騎士団』の奴らは許せない。奴らとの戦いなら、僕だって全身全霊の力で叩き潰してやる。ジュチ、それまでお互い力を温存しようじゃないか」


 ザールの言葉を聞き、その目が少し潤んでいるのを見たジュチは、秀麗な顔を伏せて首を振った。うざったく伸びた癖のある金髪で顔が隠れているので、彼がどのような表情なのかは分からなかった。

 やがてジュチはゆっくりと顔を上げて、ザールをすまなそうに見つめて言った。その口元にはいつものニヒルな笑いが浮かんでいた。


「やれやれ、キミはいつもボクに大切なことを思い出させてくれるね。確かに、アルテミスの言うとおり、ボクの中に私情が絡んでいることは否定しないよ」

「……僕が言うと軽く聞こえるかもしれないが、ジュチの無念は十分分かっているつもりだよ。そのうえで、王女様のために酷なお願いをしていることは知っている」


 ザールが言うと、ジュチは首を振って笑う。


「いや、キミの気持ちはよく分かっているよ。ボクやキミの夢を実現させるためには、王女様がどれだけ国民の心をつかめるかは大事なことだ。キミの言うとおり、ボクの気持ちは『七つの枝の聖騎士団』の奴らを叩くまでこの胸にしまっておこう」


 そして、ジュチはアルテミスたちを振り向いて言った。


「前言は撤回する。第9軍団の兵士たちはすべて眠らせて武装解除する。そのつもりでいてくれ」

「はい」


 サラーフとヌールは、明らかにホッとした顔で言う。アルテミスも笑って答えた。


「そうでなくちゃね。それでこそハイエルフの次期妖精王だわ、ジュチ」


 そのアルテミスにニコリと笑った後、ジュチは今さらのようにザールに訊いた。


「ところで、今さらなんだが、どうしてキミがここにいるんだい? ザール」


 ザールは笑って言った。


「王女様が、というよりロザリアが君のことを心配していたんだよ。いつもと違うので敵に必要以上に仮借ない戦い方をしないかとね。だから僕に、君のところに行って落ち着かせるようにと話があったんだ」


 ジュチはいたずらっぽい目で笑って言った。


「そうか、ロザリアにバレるようじゃ、ボクもまだまだ未熟だな」

「僕も心配していたよ」


 ザールが言うと、ジュチはニコリとして答えた。


「もう心配しなくていいよ。ボクはこれでも打たれ強い方だからね……。それでは、ボクはちょっと第9軍団をなでてくるよ」

「では、僕もご一緒しよう。ジュチの手並みをじっくりと拝見させていただくよ」


 ザールもそう言って笑った。



 ジュチ率いる『妖精軍団』は、得意の転移魔法を使って第9軍団の風上に回り込み、あっという間に全員を眠らせてしまった。抵抗する暇を与えぬほどに見事な手際だった。

 ジュチは、軍団兵たちを一所に押し込むと、ヌールに命令した。


「ヌール、悪いがキミが挙げた敵将の首、テーランの敵司令部まで届けてくれないかな? ()()()()、この部隊もテーランへと進撃するが、テーランの町人たちに動揺を与えたい」


 その頃、テーランの町では人々がよるとさわるとカラジの町に現れた『ホルン王女の軍隊』の噂をしていた。


「ホルン・ファランドールと言えば、1年ほど前まで用心棒をしていたという女性じゃないか? 槍を執っては天下無双という噂だ」

「何でも、前の『王の牙』筆頭だったデューン・ファランドール様がシャー・ローム陛下に依託されて守り抜いた姫様だそうだ」

「トルクスタン侯国の人々の話によれば、たいそうお優しい性格だそうだ。とても用心棒として無頼の暮らしをしていたとは思えない気品もお持ちとの話だぞ」

「何にせよ、あのトルクスタン候サーム・ジュエル様が後ろ盾となり、『白髪の英傑』として天下に轟いたザール様が付いているからには、ホルン王女様の軍隊はお強いに違いない。第91、第92、第93の3個軍団からの連絡が途絶えているのもその証拠だ」

「州知事も、無駄な抵抗をしない方がいいのじゃが」


 ……などなど、おおむね町の人々は『ホルン王女』に期待する声が大きいようだった。

 町の防衛に任じている肝心の第94軍団にしても、兵士たちは防御線の中で


「早く第9軍団が戻って来ないかな」

「敵の先鋒には、『炎の告死天使』と言われるオーガと、『紺碧の死神』と言われるアクアロイドがいて、どちらも物凄い強さだそうじゃないか」

「物凄いって、どれくらい凄いんだ?」

「なんでもオーガの女は身長が3メートルもあって、重さが82キッカル(約2.78トン)もある得物を振り回しているそうだ。その風圧を受けただけで即死するって話だぞ」

「82キッカル? そんなのが当たったら、ペシャンコになるぞ」

「アクアロイドの男は不死身だそうだ。それに長さ10メートルもある蛇矛を揮えば、いっぺんに10人や20人は首と胴を両断されるって話だぞ」


 ……などと、尾ひれがついた噂を話し合っては怖気を振るっていた。

 そんな噂で震えあがっていたところに、東から突然『妖精軍団』が現れて、


「キミたち、第9軍団の来援を期待しているなら無駄だよ。その証拠に、ここに第9軍団長の首がある。よーく見て、ホルン王女様の軍と戦うか戦わないかを決めたまえ。ホルン王女様はとても慈愛深いお方だ。抵抗せずに降伏すれば、ひどい仕打ちはなされないよ。ありていに言えば、軍団兵や住民のみんなの命と財産と暮らしの自由は保障されるよ」


 と、陣頭にジュチが現れて大声で言った。ジュチの隣にはモアウに乗ったヌールが、第9軍団長の首を突き刺した槍を掲げている。

 それを見て、市民たちは震え上がると同時に、


「我らは最後までザッハーク陛下に忠実である。町の人々も、陛下への忠誠を失くすくらいなら、そなたたちに切り刻まれても構わないと思っているぞ。反逆者め、この町を落とせるものなら落としてみよ!」


 と城頭で州知事が叫ぶのを聞いて、怒り心頭に発した。


「州知事は我々庶民のことをまったく考えていない。自分の立場だけを大事に考えて、我々を道連れに滅ぶつもりだ」

「あんな州知事の言うことを聞いていたら、命がなくなるぞ」


 と、住民たちは騒ぎだし、第94軍団兵が止めるのも聞かずに城門を開けてしまった。


「……ふむ、州知事はボクへの返事をあんなところで叫んだおかげで、自分の命を失ったらしいな」


 大きく開かれた城門を見て、ジュチは莞爾として笑った。


 こうして、テーランはホルンたちの手に落ちた。


   ★ ★ ★ ★ ★


 さて、同じ頃、マシュハドの町を落としたティムール率いる主力軍は、カラル砂漠越えでイスファハーンを目指していた。ティムールはマシュハドから100キロほど進んだサブゼパールの町で一旦軍を留めた。目の前にはカラル砂漠が広がっているので、今後の針路を決めねばならないからだ。


 ここまではシュール川に沿って進めたが、いよいよ砂漠に入ると水などは一滴もなくなる。もちろん、途中に町はあるが、そこまで直線距離で400キロはある。


「カラル砂漠は砂と岩だけの土地ではないにしても、途中で物資がなくなっちまったら、5万5千が干上がっちまいますぜ?」


 義勇軍を代表してガルムがそう言うが、ティムールは笑っていた。


「うむ、後方のことを考えると、砂漠を北に迂回して御曹司の『遊撃軍』と合流するルートの方が間違いは少ないと思います」


 参謀のクビライが言うと、スブタイも


「それか、一旦高原地帯へと南に抜け、トリスタン侯国の軍と合流すると言う手もございますが」


 そう言う。

 ティムールは笑って諸将の意見を聞いていたが、ふと目を止めるとシャナに訊いた。


「シャナ殿、そなたはエフェンディ家で家宰として後方のこともよく手掛けていたと聞くが、この軍をできるだけ早くイスファハーンへと導くには、どうしたらいいと思うか? 忌憚のない意見を聞かせてほしいが」


 シャナは、少し考えていたが、


「最も気になるのは水です。その次が塩ですね。この二つがないと軍事行動を取るより先に生存することが困難になります。必要量を考えると、かなりの兵站部隊が必要になりますが……」


 そう言って首をかしげる。シャナにしても、これだけの軍を補給線もない進軍路に投入するのは自殺行為だと考えていた。


 しかし、リョーカは別のことを考えていた。彼は元々山賊で、“補給線”という概念が通用しないような戦いもやって来ている。


――方法がないこともない。けれど、俺が成功したのはせいぜい2・30人がとこの手下しかいなかったからだ。5千や万を数える軍隊で、それが通用するかは未知数だからな。


 リョーカはそう考えて、敢えて意見を述べなかったのだ。その顔色をティムールは的確に見抜いた。


「リョーカ殿、そなたには何か腹案があるようじゃな。その案をここで聞かせてくれないか?」


 ティムールがそう言うと、リョーカはハッとして顔を伏せたが、


「リョーカ殿、せっかくティムール殿が言われているのだ。どんな意見でも何かの参考にはなる。言ってみたらどうだ」


 というガルムの言葉で、顔を上げて言った。


「これは俺が山賊として少人数を率いていたから出来たことだとは思います。そのつもりでお聞きください」

「わかった。まずどんな方法を取ったのかを話してくれんか?」


 リョーカの言葉にうなずいて、ティムールは続きを促す。リョーカは一つ呼吸をして言った。


「俺たちがキルギスの方面に出張っていた時、遊牧民たちの移動方法を知りました。ご存知のように奴らは長い距離を家畜と共に移動しますが、その距離に見合った物資は持っていません。水をできるだけ持って移動するくらいです」


 ティムールは黙って聞いていたが、スブタイが疑問を口にする。


「それだと、食料や武器の消耗品はどうなるのだろう? 弓矢などは結構使うだろうに。材料でも持って移動しているのだろうか?」


 それを聞いて、リョーカもうなずいて続けた。


「はい、俺もそれが一番気になりました。それで奴らに訊いたところ『食料は連れて歩いている』ということでした」

「……つまり、遊牧民にとって食料とは自分たちの家畜ということか?」


 クビライが言うと、リョーカは大きくうなずいて


「そうです。食料は連れて歩く。家畜の餌はステップには至る所にあります。それを食料とし、その骨などで簡易的に矢じりなどを作っていたのです。これから向かうカラル砂漠は砂漠と言ってもステップに近い気候です。武具の方は真似できないとしても、食料については遊牧民の方式が応用できないかと思うのです」


 そう言って口を閉じた。

 全員がリョーカから聞いた遊牧民方式について考えを巡らしていた。馬かラクダを使えばいいが、その頭数は? その餌は? と彼らなりに計算しているようである。

 ティムールは笑って裁断を下した。


「なかなか面白い方法だ。どれだけの数のラクダが必要か、それは集められるのか? クビライ、スブタイ、悪いがそれを帷幕で計算してくれんか」



 クビライとスブタイは、すぐさま帷幕でリョーカの案を検討し、


「カラル砂漠を20日で横断すると仮定し、念のため40日分の物資が必要とした場合、ラクダ1頭について水80リットル、食料60キロを積載するとなると、人数分のラクダが必要です。ただし、同時に食料として考えるのであれば、食料は各自10日分を携行するとして水を支えるだけの数があればいいですので、2万頭ほどの数になります」


 と、ティムールに答えた。


「2万頭のラクダを準備できるか?」


 ティムールが問うと、クビライたちは言下に答えた。


「ラクダだけでは困難ですが、馬やモアウを含めれば2万頭は可能です」


 それを聞いて、ティムールは命令を下した。


「よし、それでは花咲き誇る月30日をもってイスファハーンへの突進を開始する。王女様たちの軍はすでにテーランの町を抜き、カーシャーンまで進出されている。イスファハーンには第1軍団をはじめとした軍団や『七つの枝の聖騎士団』もいると聞く、こちらも早めに軍を進めないと、王女様たちが不利になるぞ」


 クビライとスブタイは顔を見合わせた。準備期間は実質的には1週間ほどしかない。けれど、それをやらねば『遊撃軍』の壊滅、ひいてはホルン王女の敗死にもつながりかねないと思った二人は、


「やれるだけのことはやろう」


 と、部下を督励して家畜の収集に努めた。

 そして、クビライやスブタイたちの非常な努力によって、5日間ほどでモアウを主としてなんとか家畜を2万頭以上集め、それに積載する水や食料も集められた。


「馬やラクダ、モアウは真剣に世話をすれば我々のことも分かってくれるぞ。野生だからと言って怖がることなく、愛情持って接してみよ」


 各隊の隊長は、家畜の世話を委ねた部下たちに、そう言って早く扱いに慣れるように言い聞かせた。


 そしてやって来た30日。ティムールは整列した全軍に檄を飛ばした。


「我らは国民の苦衷を除くために立ち上がった。王都イスファハーンにザッハークはいないと聞いているが、王都を落とせば国民の心は我らに傾く。そのためにぜひともイスファハーンにホルン王女様を迎え、新たな女王として立っていただくのだ!」


 かくして5万5千の主力軍は、イスファハーンへの突進を開始した。


   ★ ★ ★ ★ ★


 そのころ、イスファハーンの軍司令部は動揺の極致にあった。

 本来、ここには第1軍団と第14軍団から第19軍団の7個軍団がいたが、肝心の第1軍団と第14・15・16軍団の精鋭4個軍団が近衛軍団たる『不死隊』と共にダマ・シスカスに移動しており、残されたのは招集したての第17・18・19の3個軍団に過ぎなかったからである。


 しかも、北側を守る第9軍団管区では、その中心都市たるテーランがホルンたちに落とされ第9軍団は壊滅。他の第91・93軍団は『蒼の海』南岸で二進も三進も行かなくなっていたのである。

 そのため、最初はカラル砂漠に存在する交易路を押さえる地点に軍団を派遣し、ティムールの軍を迎撃しようと考えていた州知事アッバースは、


「北の側面からザールに押し込まれる危険がある。それでなくても精鋭は陛下と共に遠くダマ・シスカスへ行ってしまっている。幸い王都は三方を山に囲まれた地形だ、ここは王都を守ることを主眼に3個軍団で籠城しよう」


 そう考えて、軍司令官のザンジバルと協議していた。

 一方、ザンジバルの方は、王都の南側が大きく開けた地形であることを理由に


「ここを守るのは困難です。兵力を比べてもこちらは6万、敵は1万6千と5万5千で7万を超えています。南の平野に主力を置いた場合、北の小道から入って来られれば処置なしですし、北の小道を押さえる兵を割けば、南で敵に圧倒されます。ここは王都です。陛下がおられるのであればともかく、戦火にかけるのは畏れ多いと思います。全軍退いて、第6軍管区のタマルたちと共にティムールとの雌雄を決しましょう」


 そう主張していた。

 アッバースは、州知事として難しい決断を迫られた。

 軍事的に言えば軍司令官のザンジバルが言うとおりである。ザッハークがいない王都を守っても益がない。守るに困難が生じるなら、各個撃破を避けて第6軍管区の軍団との共同戦線を張るのも一案である。


 しかし、政治的に見るのであれば、ここをティムールやザールに落とされ、ホルンが女王として即位するようなことになれば一大事である。ただでさえ『簒奪者』の汚名がついて回っていたザッハークにとって、国民から絶大な人気があった前国王の正統な後継者が王位に就けば、それで王権が崩壊する恐れすらあった。政治的にはここは絶対に敵手に委ねることができない土地なのだ。


「せめて第1軍団だけでもここにいれば……」


 アッバースとザンジバルが頭を抱えていると、不意にドアの向こうで衛兵が騒ぐ声がした。


「こら、ここは軍司令部だぞ。そなたたちのような女性や子供が来るところではない……ぐわっ!」


 衛兵たちの騒ぐ声とともに、部屋のドアが乱暴に開かれると、ぞろぞろと6人の女性たちが部屋に入って来た。その先頭には身長150センチ足らずの白髪で翠色の眼をしたボーイッシュな少女が、自分よりも長い剣を背負ってニコニコとしていた。


「な、何だ? そなたたちは」


 ザンジバルが眉をひそめて訊くと、先頭の少女は笑いながら名乗った。


「私たち? 『七つの枝の聖騎士団』だよ。私は団長の『怒りのアイラ』。王都の守りは私たちが引き受けるから、あなたたちはさっさとアフワーズのタマルかシーラーズのタミルと一緒になってティムールたちを止めてくれないかしら?」


 それを聞いて、ザンジバルが何か言いかけるのを、アッバースは制して


「私は州知事のアッバースです、知らぬこととはいえ失礼しました。けれど、私たちは陛下から王都の守りを託されている身です。また、『七つの枝の聖騎士団』の皆さんがここにおいでになることについて、陛下から何も指示があっていません。ご加勢は大変ありがたいのですが……」


 そう言いかけると、『怒りのアイラ』はくすくすと笑って言葉を遮った。


「ふふっ、州知事というから少しは話せるかと思ったら、そんな些細なことを気にしているのね」


 そして何が癇に障ったか、『怒りのアイラ』は急に瞳を緋色に染め、その秀麗な顔にどす黒いタトゥーのような文様を浮かび上がらせながら続けた。


「すぐそこまで『白髪の英傑』ザールや『無双の女槍遣い』で名の通ったホルンがやって来ているのよ? 奴らは私たちの獲物、貴様たち人間風情では相手にならないから、私たちがここで奴らを食い止めると言っているんだ。さっさと軍団をまとめて第6軍管区まで退いて、タマルと共にティムールの方を叩き潰せ! それがお前たちのできることだ」


 ザンジバルとアッバースは、『怒りのアイラ』の豹変とその身体から噴き出す禍々しい『魔力の揺らぎ』に気圧されて、真っ白い顔に冷や汗を噴き出しながらうなずいた。

 『怒りのアイラ』は、そんな二人を見ると途端にご機嫌になり、


「そう、分かってくれたらいいのよ。じゃ、さっさと王都から出てってね?」


 それだけ言うと、二人にぷいと背中を向けて部屋から出て行った。残りの5人もそれに従ったが、最後に部屋を出た長い亜麻色の髪と琥珀色の瞳を持った美女は、ハスキーな声で次のように言い残した。


「24時間以内に王都を出ないと、あんたたちの安全は保障できないからね」



 アッバースとザンジバルは、『嫉妬のインヴィディア』に言われたとおり、24時間以内に3個軍団をまとめてイスファハーンから撤退し、南60キロにあるコムシェの町へと行軍していた。王都の市民たちも続々とそれに続き、今では大通りにも人っ子一人見えなくなっていた。


「団長、ここにはもうアタシたちしかいなくなったけれど、どうするつもりですか?」


 黒いチャードルを着て、同じく黒いニカーブから漆黒の瞳を持つ目だけを光らせて『傲慢のスーペヴィア』が訊くと、『怒りのアイラ』は笑って答えた。


「ザールたちはカーシャーンの町にいる。ティムールたちの軍が突進し、王都に近くなった時にカムサルの町で山を越えてメーメの町経由でここに突っ込んでくる予定だと思う。だから、私たちはメーメで奴らを捕まえ、そこで奴らの息の根を止める。あそこなら広いし、少しくらい本気を出して戦っても誰も巻き添えにはならないからね」


 そこに、『嘆きのグリーフ』が顔を出して言った。


「団長さん、あなたのお見込み通り、ザールとホルンはカーシャーンの町で攻撃準備中みたいよ。それぞれが2千人ほど連れているけれど、そいつらはどうするの? 少し邪魔になると思うけど?」

「ザールたちの兵数は?」


 『怒りのアイラ』が訊くと、『嘆きのグリーフ』は笑いを含んだまま答える。


「『白髪の英傑』ザール、『片翼の黒竜』ホルン、『ハイエルフの智将』ジュチ、『炎の告死天使』ジーク・オーガのリディア、『毒薔薇の謀将』魔族のロザリア、『紺碧の死神』アクアロイドのガイ、そして『神聖生誕教団騎士団』司教シャロンと『守りの鉄壁』ドワーフのヘパイストス……これが敵将のラインナップよ。それぞれが2千を率いているわ」

「そいつらも一緒にセバスちゃんに頼んで砂糖菓子にしてもらいたいけれどなー。そしたら食べ放題だしー。ねー、だんちょーさん?」


 小脇に抱えた紙袋から砂糖菓子を取り出して頬張りながら、『貪食のグーラ』が言う。

 『怒りのアイラ』はそれを見てクスリと笑ったが、表情を引き締めて言う。


「……ザールたちが率いているのはただの人間ではない。それぞれに『魔力の揺らぎ』を相当に使いこなせる奴らばかり。下手をすると雑魚ばかり倒して本人たちを取り逃がす可能性もあるわね」


 それを聞いて、『嫉妬のインヴィディア』が微笑んで言う。


「だったら、タイマンの勝負を申し込んだらどうかしら? 奴らだって戦士の端くれ、こちらから6対6の戦いを申し込んだら、乗ってくると思うけど? こっちには正真正銘6人しかいないってことは知っているはずだから」

「……アタシはそれで構わない。ルクリアの姉御の仇がとれるなら、奴らのうち誰を相手にしてもいい」


 『傲慢のスーペヴィア』は静かな闘志を燃やしながら言う。『強欲のアヴァリティア』もうなずいた。


「みんながそれでいいなら、私たち6人と奴ら6人とのタイマンの勝負を申し込むわ」


 『怒りのアイラ』がそう言うと、『嘆きのグリーフ』はニコニコしながら


「じゃあ、相手のことをよく知っとかないとね? みんな、ザールやホルンのことしか知らないでしょ? でも、そのほかのジュチ、リディア、ロザリア、そしてガイもそれぞれ一級の戦士よ。相手のことを知っておくに越したことはないわ」


 そう言う。『怒りのアイラ』もうなずいて言った。


「そうね。『色欲のルクリア』はジュチのことをよく知らずに挑んで負けた……その轍を踏まないためにも、グリーフの話を聞きましょうか」


   ★ ★ ★ ★ ★


 サブゼバールを花咲き誇る月30日に出発したティムール率いる主力軍は、ガルダン、タパス、フボールを経てナーイードの町を目指していた。

 途中は砂漠地帯だが、カラル砂漠はリョーカが言っていたとおり岩や砂だけの茫漠たる平野ではなく、適当に草も生えていて、連れて行ったモアウやラクダなどの家畜たちの世話も最初のうちは困難を感じなかった。


「この砂漠では、馬が最も気候に合わないようだな。馬に乗せている水や食料から優先的に消費するようにしろ」


 各部隊を見て回ったスブタイがそう全軍に指令する。

 花散り初める月(5月)2日、行軍途中でティムールは後方に続く義勇軍からガルムを呼び出した。


「総指揮官殿、何かご用事ですかな?」


 今年48歳になる戦場慣れしたガルムは、モアウを駆って本陣に来ると、その左目を輝かせてティムールに訊いた。


「うむ、また義勇軍に一肌脱いでもらいたくてな」


 ティムールは皴深い顔をほころばせて言う。ティムールは元『王の牙』の一員として、同じく王に使える『王の盾』副長だったガルムに絶大な信頼を寄せている。


「義勇軍はどこを目指せばいいのですか?」


 いつものようにガルムは先を取って訊く。ティムールは笑って答えた。


「ジャーンダクの町じゃ。我らとはアナーラクで合流する」

「先にアナーラクを取って、敵を牽制するわけですか」

「そうじゃ。ナーイードの南東には敵の集積地であるヤズドの町がある。そいつらが防御線を固めてしまわないよう、そなたの軍で牽制したい」


 ティムールの言葉に、ガルムは首をかしげて訊く。


「いや、それは構わんのですが、義勇軍がアナーラクまで迫ったら、逆に敵はナーイードを占拠しはしませんか?」


 ティムールは笑って言う。


「それが狙いじゃ。『守る所なからざれば、薄からざる所なし』というではないか」


 それを聞いてガルムは哄笑する。そして笑顔のままでティムールに答えた。


「分かりました。では、すぐに我らは先行します」

「うむ、頼むぞ」


 ティムールの言葉に、ガルムは笑って答礼し、義勇軍へと戻っていった。



 ガルムたち義勇軍の動きは、すぐさまヤズドの町に伝わった。この方面を守っていたのは独立第13コホルス隊5千だった。


「敵軍から1万5千ほどの軍が分離し、ジャーンダクの町に向かっています。このままではナーイードの町が取られる恐れがあります」


 斥候からの報告を受けて、コホルス隊の指揮官は地図を見つめた。


「1万5千がナーイードに向かうとして、残りの4万はどこを襲うつもりだろうか?」


 指揮官はそうつぶやくと、ハッと何かに思い当たったように頭を振った。

 そこに、次席指揮官が来て言う。


「指揮官殿、私の率いる第2マニプルス隊をナーイードの防衛に向かわせてください。ナーイードの町は王都の東側の関門です。ここを取られたら敵に王都南側の平野部に乱入されてしまいます」


 それに対して、指揮官は落ち着いて答えた。

 指揮官は、王都の3個軍団が軍司令部と共に王都からいなくなっていることを知っていた。だが、部下にはそんなことは言えない。士気が阻喪し、コホルス隊としての規律が取れなくなってしまう恐れがあるからだ。


「うむ、ナーイードを守ることは大切だ。けれど、兵数を考えてみよ。こちらは5千で相手は5万5千だ。そなたの隊をナーイードに割くと、このヤズドの町の防衛が難しくなるし、下手をするとナーイードもヤズドも失ってしまうことになりかねない。

それよりも物資が豊富なこの町を堅守していれば、相手もうかうかと王都南の平野には突入できないと思うぞ。突入して味方の3個軍団と交戦しているところを後ろから我々に攻撃されたくはないだろうからな」


 次席指揮官は、その言葉に納得して引き下がったが、指揮官は


「……とにかく、軍司令官がいない状況で、5千もの部下を犬死させたくはないからな。王都の状況を見て、今後の方針を決めないとな」


 とつぶやいた。彼はヤズドの町の守備に徹し、出撃する意思はさらさらなかったのだ。



「……ふむ、ヤズドの町にいる部隊は動かないようだな。平野に入ったところでティムール殿の後ろを襲うつもりだろうな」


 電光石火ジャーンダクの町を落としたガルムは、ヤズドの町に駐屯する独立第13コホルス隊の様子を見て、その指揮官の考えを正確に読み取った。


「それなら、俺たちは遠慮なくナーイードをいただこうか」


 ガルムはそう言って、速攻でナーイードを攻め取った。本隊のティムールも驚く果敢さだった。


「おう、ガルムはナーイードを取ったか。思ったよりも早かったな」


 『ナーイード陥落』の報をアナーラクで聞いたティムールは、そう言って顔をほころばせた。


「ヤズドの町にいる独立コホルス隊の指揮官がいい判断をしています。ヤズドの町の守備に徹しているのでしょう」


 参謀のクビライが笑って言う。もう一人の参謀であるスブタイも


「我々が平野に入っても、後ろから襲っては来ないでしょう。そのつもりがあるなら、せめて北のナーイードと共に王都の東関門を形作っている南のアルダカーンまで進出しているはずですから」


 そう言う。

 ティムールはどちらの言葉にも頷いて朗らかに言った。


「よし、我らもナーイードに進出し、そこで王女様とともに王都の奪回作戦を行おう」


   ★ ★ ★ ★ ★


 王国暦1576年花散り初める月(5月)2日、リアンノンは旗艦『リヴァイアサン』艦上で遠く前方から近づいてくる艦隊を凝視していた。


「エース准提督の艦隊です」


 メインマストの見張りが叫ぶと、リアンノンは目を細めて艦長に命令する。


「艦長、任意の通報艦で『バーラム』に信号。『司令官は旗艦に来たれ』、急げ」


 艦長は命令を受けるとすぐに近くにいた通報艦に手旗信号を送らせた。伝令役を仰せつかった通報艦は直ちに帆を増して前方へと突出する。

 一方、旗艦『バーラム』では、エース准提督がリアンノンの艦隊を見て笑っていた。


「今回は女神リアンノン様ご自身で出撃か。久しぶりにすげえ戦いを見せてもらえそうだな」


 そう言っているうちに、彼は目の端に近づいてくる通報艦を捉え肩をすくめて笑った。


「言っているそばから、お呼び出しのようだな」


 そこに、通報艦から受け取った通信文を持って艦長がやってくる。


「提督、リアンノン閣下からです。『司令官は旗艦に来たれ』」


 エース准提督は笑って命令する。


「艦長、すまないがこの艦を『リヴァイアサン』の風下に持って行ってくれ。それと返信だ。『肯定』」

「分かりました」


 艦長はそう言うと、航海長と通信長にエースの命令を伝えた。『バーラム』は風を間切ってゆっくりとリアンノン艦隊に近づき、その風下で並走する形をとった。


「見事な操艦だわね」


 リアンノンは、100隻に上る軍艦を一糸乱れず統制し、下手回し(ジャイビング)による一斉回頭を決めたエース艦隊に、思わず称賛の声を上げる。

 『リヴァイアサン』の艦橋から見ていると、『バーラム』からボートが降ろされ、それがゆっくりとこちらに近づいて来る。ボート上にはエースがニコニコとして艇指揮の当直士官と話をしているのが見えた。

 やがてボートが艦に横付けすると、舷門に『リヴァイアサン』の海兵隊員たちが勢揃いして、エース准提督が舷側をよじ登ってくるのを迎えた。


「エース准提督、出頭しました」


 エースはリアンノンの前まで来ると、若々しい顔をほころばせて敬礼する。不意にリアンノンは、エースが弟のガイと同年であることを思い出した。


「よく来てくれました」


 リアンノンは頷いて答礼すると言った。


「2週間にわたる通商破壊作戦はお疲れさまでした。おかげでファールス湾では軍事物資の流通は途絶しています。これは見事な戦果です」

「痛み入ります」


 エースは短く答えると、続けて言った。


「しかし、既にご報告のとおり、敵艦隊に不穏な動きが見えます。今回のご出撃はそれに対するものだと思いますが、我が艦隊は何をすればよいでしょうか?」


 するとリアンノンは、その美しい顔をパッと輝かせて答えた。


「今回は各提督には楽をしてもらいます」

「は?」


 リアンノンが言った意味が解らず、エースは思わず素っ頓狂な声を上げた。そんなエースを慈しむような目で見ながら、リアンノンは説明する。


「ふふふ……今回の戦いは、このファールス湾において制海権を確立する戦い。そして王国の輩に我がアクアロイドの真の力を見せつける戦いだと思っています」

「はい、そのとおりだと思います」


 エースの同意の言葉を聞いて、リアンノンは遠く進路上の海原を見つめながら


「そのためには、王国の輩に我がアクアロイドに楯突いても無駄だということを骨身にしみて感じてもらわねばなりません。そのために、私は『敵艦隊の完全な消滅』を狙っています」


 そう言う。その美しい横顔にかすかな不吉の翳を見たエースは、ごくりと固唾を飲んで訊く。その声は上ずっていた。


「と、言いますと?」


 リアンノンは、右手に『トライデント』を握りながら笑って言った。


「各提督は我が指揮のもと、敵艦隊を大きく包み込んでもらえばそれでいいのです。エース准提督、あなたには敵を釣り込む重要な役割を与えます。期待していますよ?」


 その後、自らの旗艦『バーラム』に戻ったエースは、幕僚や艦長に怖気を振るったように呟いたという。


「……やれやれ、すげえ女神様だぜ。同じ船乗りとして敵さんが不憫に思えるぜ」



 リアンノン艦隊は行動を開始した。その陣形は少し変わっていて、リアンノン艦隊の左翼にローズマリー正提督の艦隊とクリムゾン大提督の艦隊が並び、右翼にはミント上級大提督艦隊、テトラ正提督艦隊、そしてタボール正提督艦隊が並走していた。


 各艦隊は縦5隻横20隻の横隊陣形を取り、艦隊は横1マイル(この世界で約1・85キロ)に広がっていた。艦隊間の距離は5マイル(この世界で約9キロ)取っており、6個の艦隊で30マイル(約56キロ)以上の『軍艦の壁』が出来上がっていた。


 この艦隊の前方50マイルに、エース准提督の率いる艦隊が前衛として出ていた。彼の艦隊は80隻の通報艦を大きく翼のように広げ、20隻の戦列艦は10隻ずつ2列横隊になっていた。


 一方、テゲトフの王国海軍もスルタン島の泊地を出撃した。


「今回こそアクアロイドの艦隊を焼き払い、僚友ケッペルの無念を晴らしてやるぞ」


 旗艦『コンテロッソ』艦上で、テゲトフはそうつぶやいていた。

 風は真北から吹いているので、テゲトフ艦隊の進撃には好都合だった。しかもスルタン島泊地は湾の北どん詰まりの位置にあるため、敵は風下から現れるに決まっていた。


 テゲトフ艦隊が南東に向けて航海すること20時間、200マイルほど進んだ地点で、東から来る艦隊をメインマストの見張りが発見した。


「おーい、艦橋。ポイント13に艦隊発見。数は約80隻。距離は約10マイル、的速は約10ノット」

「……バンダレシェフルを出発した艦隊かも知れませんな」


 艦長が、報告を受けて艦橋に上がって来たテゲトフに言う。テゲトフはうなずいたが


「念のために戦闘準備はしておくように。あれがカルマンの艦隊だとしたら合図があるはずだ。合図確認まで近づくのは控えよ」


 そう言って、自らも遠眼鏡で艦隊を見つめていた。

 やがて、メインマストの見張りから次の報告が入る。


「おーい、艦橋。ポイント13の艦隊に信号旗が見えます。『応答』『(デッキ)』『(ジャイロ)』でーす」


 それを聞くと、テゲトフは艦長に命令した。


「カルマン艦隊だ。艦長、全艦隊あてに信号。『王国の興廃掛かりてこの一戦にあり、各員一層奮励努力せよ』だ」

「はい。信号長、全艦隊あてに信号。『王国の興廃掛かりてこの一戦にあり、各員一層奮励努力せよ』」


 艦長の命令を受け、信号長が信号員に号令する。


「メインマストに全艦隊あて信号。信号旗『デッキ・ジャイロ』、急げ!」


 信号長の命令を受け、『コンテロッソ』のメインマストにするすると『1』『D』『G』の信号旗が掲げられた。各艦の艦長以下乗組員はその信号旗を見て奮い立つ。各艦も一斉に戦闘旗の下に『D』『G』旗を掲げた。


「よし、士気は最高だ。このまま敵を捜索して撃滅するぞ」


 テゲトフはそう満足げにうなずいていた。



 しかし、先に敵を発見したのは例によってアクアロイド側だった。時に王国暦1576年花散り初める月5日の6点(午前6時)だった。この時エース艦隊は、夜間の隊形である6列縦隊から索敵隊形に移る直前だった。


「おーい、艦橋。ポイント2に敵艦隊発見。距離は約12マイル(22キロ)。敵針135デグレ、敵速約10ノット」


 それを聞いたエースは、さっと羅針盤を見た。現在の針路は315デグレ、敵とは反航している。風は0デグレ、つまり真北から吹いている。風力は3でそんなに強くない。

 それだけのことを瞬時に感じ取ったエースは、すぐに命令を下した。


「敵さんの肝を冷やしてやる。マストを伸ばしてロイヤルとスカイを張り足せ。スターンスルも準備するんだ。艦長、敵艦隊の前を航過するように持って行ってくれ」

「はい、ロイヤルとスカイを張れ。航海長、敵艦隊の前方航過の針路は?」


 艦長が訊くと、ディバイダを握っていた航海長が答える。


「10ノット半で55デグレなら、敵艦隊の前方3マイルを航過します」

「ではそれで行こう。面舵一杯、針路55デグレ」

「おもーかーじ、おもーかーじ」


 艦長の号令で、操舵員が舵輪を勢いよく右に回す。とともに、『バーラム』は頭を右に回し始めた。甲板では乗組員たちがマストを回し始め、上手回し(タッキング)に備え始める。やがて『バーラム』を始めエース艦隊は、危なげなく新たな針路に乗った。


「艦長、艦隊あて信号。『第1航行序列とせよ』、急げ」


 エースは遠眼鏡で敵がいると思しき水平線を眺めながらそう命令する。エースの命令は『バーラム』のメインマストに旗旒信号となって掲げられた。それを了解した各艦はやがて前から通報艦40隻、戦列艦20隻、通報艦40隻の一列縦隊となった。


「さて、敵さんはいつ気付いてくれるかな?」


 エースはそうつぶやきつつ、左舷側の水平線を見つめていた。



 テゲトフの艦隊は、距離9マイル半でエース艦隊に気付いた。エース艦隊が一列縦隊になって約1刻(15分)後のことだった。


「おーい、艦橋。ポイント2に敵艦隊発見。距離は約9マイル半、敵針55デグレ、敵速約10ノット」


 それを聞いて、テゲトフはエース艦隊が自艦隊の前程に出ることを理解した。


「敵の陣形知らせ」


 テゲトフは自らメガホンを取って、メインマストに入る見張りに問いかける。見張りはすぐに答えた。


「単縦陣でーす」


 それを聞いて、テゲトフは艦長に命令した。


「艦長、戦闘旗を開け。それと全艦隊に信号。『第3航行序列となり、敵艦隊を突き抜けつつ火を放て』だ。急げ」


 テゲトフは、掲げられた信号に従って艦隊が陣形を変えるのを見やりつつ、


「アクアロイドめ、目にもの見せてくれる」


 そう拳を握ってつぶやいていた。



「おーい、艦橋。敵艦隊が陣形を変えていまーす。8列縦隊から16列縦隊になって、速力を上げていまーす。敵速約11ノットでーす」


 『バーラム』のメインマスト見張りが叫ぶ。それを聞いて、エースはニヤリと笑って言った。


「ふん、突っ込んでくる気だな。あれだけの数が相手だと、いくら我らが優秀だと言っても無理がある。艦長、敵艦隊が5マイルまで近づいたら針路を一斉回頭で180デグレに持って行ってくれ」

「分かりました。けれど、針路は135デグレが相手と同航でいいのではないですか?」


 艦長の問いに、エースは片眉を上げて答える。


「それだと敵艦隊を引き離してしまう。ある程度敵に捕まりそうな状況を維持し続けて、敵将の注意を我が艦隊だけに向けさせるのだ」

「承知しました。敵が引っ掛かってくれるといいですな」

「艦長、引っ掛かるのを期待するのではない、引っ掛けるのだ。そのつもりでいないと、わが女神リアンノン様の計画がおじゃんになる。気を引き締めていけ」

「はい」


 艦長は、エースの鋭い叱責に似た言葉に、身体を固くして敬礼した。

 やがて、


「敵艦隊は本艦のポイント12、距離5マイルです」


 メインマストも張りがそう叫ぶと、エースはサッと右手を上げて振り下ろした。

 それを見て、艦長が叫ぶ。


「発動!」


 その合図とともに、するすると旗旒信号がマストに掲げられ、サッと引き降ろされる。エース艦隊は見事に一斉回頭を決め、横一列になって真南へと遁走し始めた。


「ロイヤルとスカイを絞れ、速力は11ノット程度にするのだ」


 エースはそう艦長に命令すると、敵艦隊を見つめてつぶやいた。


「さあ、テゲトフよ、海の地獄にご招待するぜ」



「敵艦隊が遁走します! 敵針180デグレ、距離5マイル、敵速11ノットです」


 テゲトフが乗る『コンテロッソ』では、見張りが興奮したようにそう叫んでいた。全体の流れを見ていなければ、敵艦隊は100隻余りで自分の方は720隻、敵が慌てて逃げ出したと見れば興奮するのは仕方ない。

 けれど、テゲトフは首をかしげていた。


「やつらは間切ってくる時でも10ノットは出せていた。それが真後ろからの風を受けても11ノットだと? 奴らはもっとスピードを出して我らを引き離すことができるはずなのに、同じくらいの速度を保っているのは何故だ?」


 その言葉に、幕僚が言う。


「奴らはアクアロイド艦隊の前衛です。我らを本隊におびき寄せているのでしょう。とすれば、この先にリアンノンの艦隊が待っているはずです」


 それを聞いて、テゲトフはニコリとして言った。


「うむ、私もそう思う。それでは奴らの誘いに乗ってやろう。敵の本隊が見えたら、すぐさま艦隊を散開させて適宜敵艦を襲撃するのだ。その旨、各艦に周知しておけ」


 テゲトフ艦隊の各艦長は、『コンテロッソ』のマストに翻る信号旗を見て、


「接舷戦闘に備えておけ」


 と、乗組員に伝えていた。



「敵将はテゲトフ、こちらの針路変更が本隊への誘導だと分かっているかもしれないな」


 『バーラム』艦上で敵艦隊を見つめながらエースが言う。


「そうでしょうね。敵艦隊が速度を上げないのがその証拠です」


 艦長もうなずいて言う。


「敵艦はどのくらいの速力が出せると思う?」


 エースが訊くと、潮焼けした顔をほころばせて艦長が答えた。


「私は人間ですが、リアンノン様のお誘いで海軍に加わりました。その前には船大工で徒弟をしていたこともあります。チラッと見ただけですが、敵の軍艦はともかく、商船改造のものは大型でも14ノットは出せるはずです。中型なら17ノットはいけるかもしれません」

「ふむ、我が艦隊の最速戦列艦が16ノットだが、それをも上回るということだな……では、敵は我が本隊を見たらどうすると思う?」


 エースが艦長を含め周りにいた幕僚に訊くと、


「散開して各個戦闘ですね」

「散開して1対1の接舷戦闘ですかね」

「軍艦は戦隊ごとの弩弓戦の後に接舷戦闘、商船改造は各艦でのゲリラ戦でしょうな」


 ……と、そのような意見をそれぞれが述べた。


「……なるほど、つまり敵は速度と操艦に戦運を賭けているわけか。それならば我が艦隊は、本隊のさらに後方まで遁走する必要があるな」


 エースはそう言うと、


「艦長、艦隊の最速艦に信号。『旗艦に並走せよ。距離50フィート』以上だ」


 そう艦長に命令する。艦長はすぐに信号長にその命令を伝えた。

 そしてエースは傍らにいた先任参謀に言う。


「先任参謀、悪いが艦隊の最速艦に乗って『リヴァイアサン』に赴いて、リアンノン様に次のように伝えてくれないか。『戦策第8の2の3の発動を乞う』とな」


 そう参謀に命令する。先任参謀はすぐにうなずいた。

 やがてリアンノン艦隊でも最速を謳われる通報艦『アイリス』が近づいてきた。先任参謀は『バーラム』と『アイリス』の間に渡されたロープを使って移乗すると、すぐに艦長に依頼した。


「艦長、すまないが司令官の急ぎの要件だ。この艦の出せる最大速力で私を『リヴァイアサン』まで送り届けてくれ」

「分かりました。おい、ロイヤルとスカイ、ついでにスターンスルを張り足せ。参謀殿に『アイリス』嬢の健脚をたっぷりとご堪能いただくんだ」


 この言葉に、『アイリス』の乗組員たちはどっと笑い、やがて帆を張り足した『アイリス』は折からの風を受けて20ノットに近い速力でエース艦隊から先行した。



 快走1時(2時間)。『アイリス』はリアンノン艦隊に合流した。


「ふむ、エース艦隊は20マイル先にいて、敵艦隊はさらにその5マイル先にいるというのですね?」


 リアンノンは先任参謀の言葉を聞いて、そうつぶやいた。


「戦策第8の2の3……両翼散開と包囲か……」


 ニールセン参謀長がつぶやくと、ホーク作戦参謀が言った。


「敵将はテゲトフ。エース艦隊の役目は看破しているのでしょう。敵艦隊は、我が艦隊に勝つためには各個戦闘で1艦1殺しかないと腹をくくっているのでしょう。それを防ぐために、敵の視界外で敵の横をすり抜け、敵を包囲するしかないとの判断だと思います」


 ホークの言葉に、リアンノンもうなずいた。


「よし、戦策第8の2の3を発動します」


 リアンノンの決意を受けて、左翼にリアンノン艦隊、ローズマリー正提督の艦隊とクリムゾン大提督の艦隊が並び、右翼にはミント上級大提督艦隊、テトラ正提督艦隊、そしてタボール正提督艦隊がそれぞれ単縦陣でずらりと艦艇を並べた。左翼と右翼の距離は20マイル以上も離していた。


「さて、エース。そなたの読みが当たっているかどうかだわね」


 『リヴァイアサン』艦上で『トライデント』を握りしめ、リアンノンはそう微笑んでつぶやいた。



「敵の本隊は見えないか?」


 『コンテロッソ』艦上では、テゲトフが何度も見張りに叫んでいた。マストトップからなら、条件さえよければ人間でも20マイル(約37キロ)先のものが発見できる。

 けれど、その日の状況はあまり良くなかった。すでに時刻は7点半(午前9時)に近くはあるが、海面には靄が残っていたのだ。


「まだ見えませーん」


 見張りの言葉を聞いて、艦長が言う。


「今日は靄が残っています。視界はいいとこ10マイル(約18キロ)でしょうな」


 テゲトフはジリジリしながらも頷かざるを得なかった。すでにエース艦隊を追跡して1時半(3時間)、発見地点から30マイル以上も追跡している。

 実はこの瞬間、リアンノン艦隊の先頭艦はテゲトフ艦隊の真横まで来ていた。その距離が12マイルもあったためテゲトフ艦隊の見張りはそれを見落としてしまっていたのだ。


「……さて、そろそろだな」


 太陽の運行を測っていたエースは、時刻が閏7点(午前10時)近くになった時、そうつぶやいて艦長に命令した。


「艦長、全艦にロイヤルとスカイ、スターンスルを準備させろ。あと1刻(15分)後、我が艦隊は速力を増して左右に散開し、敵艦隊の包囲輪を閉じる。それから後は敵艦隊を包囲しながら時計回りに航行だ」



 同じころ、『リヴァイアサン』の艦上でリアンノンが笑って命令していた。


「1刻後に包囲輪を閉じる。命令と共に黄色の信号火矢を上げよ。それと共に増速して針路を90デグレに持って行きなさい」


 右翼では、ミント上級大提督が『リゾリューション』艦上で命令を下していた。


「左舷をよく見張れ。黄色の信号火矢が上がったら針路を270デグレに持って行き、リアンノン様の艦隊が見えたら180度一斉回頭を行う。回頭時にてこずるなよ」



 やがて、その時が来た。


「よしっ、全艦全速前進、第3航行序列だ。リアンノン様の艦隊を見つけたら、全艦右90度一斉回頭だ!」


 『バーラム』艦上でエースが叫ぶと、


「信号弾、放てっ!」


 『リヴァイアサン』艦上ではリアンノンが頬を紅潮させて叫んでいた。

 そしてその信号弾を見た『リゾリューション』艦上では、ミントが


「左90度回頭!」


 と叫んだ

 リアンノン艦隊は、テゲトフの艦隊を大きく包み込むように行動を開始した。



「敵艦隊が増速して散開します。敵までの距離5マイル、敵速13ノットです!」


 『コンテロッソ』艦上では、見張りが慌てて叫んでいた。それを聞いてテゲトフはとっさに命令した。


「艦長、艦隊を散開させたまえ!」


 しかし、その時にはテゲトフ艦隊は直径24マイル(約44キロ)もの円の中に完全に閉じ込められてしまっていた。

 テゲトフ艦隊が慌てて散開するさまを見ながら、『リヴァイアサン』艦上でリアンノンは『トライデント』を大きく振りかぶった。その身体は青く澄んだ『魔力の揺らぎ』に包まれ、神々しいまでの光を放っている。


「我が主たる海神ネプトレよ。わが祈りを聞き、我が艦隊を海神の砦となし、我が棲み処である海に仇なす輩を悉皆、葬り去る力を我に与えよ!」


 その言葉とともに、リアンノンのうねるような長い髪が風に吹かれたように逆立つ。そしてその動きに合わせたように、リアンノン艦隊が作った円の中の水面が大きくうねり始めた。


「な、何だ? 何が起こっている?」


 『コンテロッソ』艦上では、大きく艦体を揺すぶられて倒れる水兵が続出し、中にはマストから海に投げ出されるものもいた。

 テゲトフ自身も、艦橋の手すりにしがみついて転落や転倒は免れたが、天候が崩れたわけでもないのに突如荒れ始めた水面に、不吉なものを感じて顔を引きつらせていた。


「ありゃ何だ?」


 一人の水兵が指さす方向を見ると、テゲトフの眼には海が盛り上がり、高さ100メートルはある海水の壁ができたように思われた。彼が見回してみると、艦隊の周りすべてに海水の壁が立ちはだかり、その高さもみるみるうちに高くなっていく。


「……海の地獄……」


 テゲトフは、幼いころに聞いた話を思い出してそうつぶやいた。海が円形に盛り上がる時、その中央には巨大な海竜『リヴァイアサン』が出現し、すべてのものを飲みつくすという……。


 『リヴァイアサン』艦上では、リアンノンが青い『魔力の揺らぎ』に包まれながら『トライデント』を両手で上段に構えて目をつぶった。


「我が主たる海神ネプトレよ。その力を我に貸し、我を神のみ使いとして敵を殲滅せしめよ! Quo vatis all’s Revaiasanne, et bastres C’est ere Vonisa!」


 すると、青白い『魔力の揺らぎ』は輝度を増し、リアンノンは見えなくなった。


「何が起こっているんだ!」


 テゲトフ艦隊は混乱の極致にあった。操艦しようにも海が荒れすぎて艦が言うことを聞かない。艦隊を取り囲む海水の壁は、もはや天に達しようとしている。あの壁がこちらに崩れたら、生き残る船はないだろう。

 と、艦隊の全乗組員は、ドスンという大きな音とともに艦体が大きく傾くのを感じた。

 よく見ると艦隊はすべて陸に乗り上げていた。


「……陸か?」

「いや、これは海底だ! 俺たちは海底に着底したんだ!」

「ばかな……ここの深さは500メートル以上あるんだぞ?」


 全乗組員が茫然とする中、突如として空中に身長200メートルはあろうかという青白いドラゴンが現れた。そのドラゴンは深い海の色をした目で全員を見つめて言った。


“正統の王女に背くものは、わが怒りを買うだろう。汝ら背きし者どもよ、その報いを受けて我が力を思い知れ!”


 そしてそのドラゴンが大きく咆哮すると、艦隊の周りにそそり立った海水の壁が、一度に崩れて来た。


「……か、海神ネプトレ様……」


 テゲトフは、艦隊を飲み込む怒涛の壁が、真上から崩れ落ちてくるのを見ながらそうつぶやいた。



 王国暦1576年花散り初める月5日の閏7点(午前10時)、ファールス王国海軍の残存艦隊は、名将テゲトフと共に全滅した。人一人、艦の残骸一つ残らない、まさに『消滅』だった。


「……すげえ……さすがはわが女神様だぜ……」


 『バーラム』艦上では、墓標一つ残さずなすところなく壊滅したテゲトフ艦隊との戦場を眺めながら、エース准提督が言葉を失くしていた。それは、ミント、クリムゾン、テトラ、ローズマリー、タボールの各提督も同様だった。


「ふん、これで邪魔者はいなくなったわ。あとはバビロンを落とすだけね」


 『リヴァイアサン』艦上で、リアンノンはその美しい顔で真っ直ぐ前を見つめて笑っていた。


   (32 怒涛の海神ネプトレ 完)

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

王都の奪回まであと少しですが、まだ恐ろしい敵が残っています。

次回は来週日曜日に、『33 死闘の開幕』をアップします。

『七つの枝の聖騎士団』との血闘の始まりです。乞うご期待!

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