25 緒戦の功名
ティムール主力軍はトルクスタン侯国の出口を抑えていた王国軍と対峙する。
ティムールの智謀やガルム、アローなどの活躍をお楽しみください。
【主な登場人物】
♡ホルン・ファランドール…『死の槍』と『アルベドの剣』を持ち、辺境で名を上げた女槍遣い。前国王の娘で王国の現状に改革を志す。翠の瞳と銀の髪を持つ。26歳。
♧コドラン…シュバルツドラゴンのこどもで、生き別れになった母を探すためにホルンとともに旅をしていた。小さいが気が利く、ホルンの良き仲間である。15歳程度。
♤ザール・ジュエル…“東方の藩屏”トルクスタン侯国の世子で『白髪のザール』の異名を持つ。ホルンとともに王国の改革を志す。白髪に緋色の瞳を持つ。23歳。
♡リディア・カルディナーレ…ザールの幼馴染でジーク・オーガの王女。接近戦では無双の強さを誇る。額に角を持ち、茶色の髪に茶色の瞳をしている。21歳。
♤ジュチ・ボルジギン…ザールの幼馴染で『この世で最も高貴な一族』であるハイエルフの首領の息子。頭脳明晰で魔力に長けるがチャラい。金髪碧眼の美青年。23歳。
♡ロザリア・ロンバルディア…ザールに一目ぼれして仲間に加わった魔族の女性。冷静冷血で魔術に長けている。黒髪と黒曜石のような瞳を持つ。21歳。
♧ガイ・フォルクス…25年前にスケルトン軍団から国を滅ぼされたアクアロイドの王族。頭脳明晰で冷酷非情だが仇討に協力したホルンに恩義を感じている。29歳。
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その女は、美しかった。葡萄酒色の波打つ髪と、葡萄酒色の瞳を持っていた。
年を聞かれれば、よく分からないとしか答えようがない。肌の張りはまるで10代の生娘のようであるが、妖艶な瞳やその雰囲気はどう見ても30歳以下とは思えない。話せば話題も豊かで、この世のことを何もかも見て来たかのように、彼女は何でも知っていた。
その女は、息せき切って部屋に飛び込んできた男を見て、冷ややかに笑って訊く。
「どうされた陛下? そんなに慌てて」
すると、男は、褐色の髭をむしりながら
「どうされたもこうされたもない! そなたは以前、余に予言してくれたよの? 余こそがこの王国を治めるべきもので、やがては神の名のもとに天下を取ると」
そう、焦りの色をにじませて言う。
女は、その様子を見て、くすくすと笑いだした。男はさらにいきり立つ。
「何を笑うか! 余はそなたの申す通りティラノス、パラドキシアの二人を余の側近として召し抱えた。そなたが役に立つと言ったのでそうしたのだ」
「陛下、その二人が役に立ちませんでしたか? そもそも、予言のとおり陛下がファールス王国の国王として君臨しておられるのは、あの二人の力ではございませんか?」
女の言葉に、男は押し黙る。そんな男を見ながら、女は自信たっぷりに話を続けた。
「陛下が陛下として君臨されておられることこそ、陛下御自身が神に選ばれしお方であることの証拠。ティラノスとパラドキシアは、予言成就に粉骨砕身しております。陛下が神のみ名のもとに、ファールス王国を治め、やがては天下を統一する……そこには何の不思議もなく、ただ運命の必然というものがあるだけですよ? ザッハーク陛下」
「しかし、兄上の娘と申す姫が現れ、サームやアクアロイドが余に反旗を翻した。今までになかったことだ」
ザッハークが心配を露わにして言う。女はそんなザッハークを見て、
「何も心配なされずともよいではありませんか。運命に逆らうものは運命に見捨てられます。サームもその一人となるだけです」
そう言う。ザッハークは、疑わしげな眼をして女に訊く。
「アルベド、それでは余がサームに勝つという神の験を見せてみろ」
アルベドと呼ばれた女は、哄笑して言う。
「ほっほっほっ、ザッハーク陛下、神は疑わぬもの、試さぬものです。しかし、陛下がどうしてもと仰るのなら……」
そこでザッハークを冷たい目で見て言う。
「御身に神の力が宿るようにしてもようございます。あれはお持ちですか?」
するとザッハークは、小脇に抱えていた木箱を、アルベドに渡しながら言う。
「もちろんだ。これで頼む」
「……陛下、ご気分はいかがですか?」
ベッドに横たえた裸身を毛布で包みながら、けだるそうにアルベドが訊くと、服装を整えているザッハークが答えた。
「……不思議だ。余は誰と戦っても負ける気がせぬ。アルベド、余に何をした?」
「陛下がお望みになったとおり、神の力の一端をその身に宿していただきました。ただそれだけです」
そう言いながら、アルベドはザッハークの背中に浮き出るドラゴンの文様をうっとりと眺めている。ザッハークはそんなことには気づかず、服装を整えると胸を張って言った。
「うむ、アルベド、これからも余の相談に乗ってくれ」
「私は、陛下こそ私たちの神の恩寵を広めるお方として、今まで神のみ言葉をお伝えしてまいりました。これからもお力になるのは当たり前ではないですか」
「うむ、それを聞いて百万の味方を得た思いだ」
ザッハークは笑いながらこの部屋を出て言った。
ドアが閉まり、外に誰の気配もしなくなると、アルベドの側に一匹のワイバーンが現れて訊く。
『気の弱そうな男ですな。あんな男にアレを預けていいのですか?』
するとアルベドは、くすくす笑いながら言う。
「アレは人間の恐怖が一番の栄養じゃ。恐怖が大きければ大きいほど大きく育ち、恐怖が強ければ強いほど強く育つ。その意味ではあの男が最も適任と言うことじゃ」
『器が小さい男ほど、アレを大きく育てることができるというわけですな』
ワイバーンが笑うと、アルベドは厳しい顔で彼に命じる。
「さあ、余計なことを言っている暇はないよ。まずは『神聖生誕教団』の力を削いでおかねばね。グライフ、すぐにカッパドキアにいる私の眷属とともに、この国全土に散らばり、疫病を広めなさい」
するとグライフと呼ばれたワイバーンは、黄色の眼を輝かせて
『わが主の命のままに』
そう言うと、大きく翼を広げて虚空に溶け込んでいった。
「神の予言どおり、正統の王女が四翼の白竜に守られて出現した。神の予言は二つの解釈がある。我らは裏の解釈に基づき、神をこの世界に降臨させねばならない。戦争、疫病そして大きな破壊……その時こそ人々は我が神の偉大さに気付くであろう」
アルベドはそう言って、誰に向けるともなく笑った。
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王国暦1576年若葉萌える月(3月)12日、ティムール率いる主力軍5万5千は、サマルカンドから南南西100キロほどに位置するカルシの町に入った。ここから南西にさらに500キロほど行くと、最初の目標であるマシュハドの町がある。ここには王国軍の領兵司が駐屯し、常設軍団の駐屯地でもある。
ティムールは、今後、西進してカラクム砂漠を越えてマシュハドに迫るか、南進してカラビル高地越えで攻略するかを考えていた。
「砂漠の途中にはマルィーの町があり、出口にはサラグトの町があります。どちらもマシュハドを守ろうとするのであれば前進基地には格好の場所。さらにどちらも近くにはテジェン川やその支流があります。夏には枯れてしまいますが、春先の今ならまだ水は流れているでしょう」
参謀であるスブタイがそう言うと、ティムールは
「敵はどう思っているかな? 砂漠は行軍には厳しいが、拠点となる地がある。高地は進軍しやすいが、拠点となりそうな大きな町はない……さて、どちらから5万と言う大軍を持ってくるだろうか?」
そう訊く。もう一人の参謀であるクビライは、少し考えていたが、
「戦いはスピードです。相手が想像できぬほど速く行動すれば、先手を取ることができます。砂漠を横断し、電光石火サラグトの町を押さえましょう」
そう言った。
「スブタイはどう思う? 今、クビライが言った方策を実現できる練度が、わが軍にあるだろうか?」
「練度的には義勇軍が心配ですね。それに分進すれば各個撃破されそうですし」
スブタイが言う。
「まずは手堅く、100マイル西方にあるチェルジャウの町を押さえ、街道沿いに進めるような算段を取りましょう」
これはクビライの意見である。この辺りはトルクスタン侯国とは言っても、相手の手回しが良ければ占領されている可能性もある。ティムールはうなずいた。
「相手にはもう王女様の挙兵の噂は届いているに違いない。トルクスタン侯国内に進軍されて相手に時間を稼がれても困る。大きな町は早めに押さえよう」
そこで、2日間かけて騎兵をすべてモアウに取り換え、輜重車に騎兵の馬も当てて行軍速度を上げると、16日にはチェルジャウの町を押さえた。まだここまでは王家の軍勢は来ていない。
ティムールは部隊を休ませることなく、そのまま砂漠を驀進させた。20日にはマルィーに達し、ここも無血で押さえることができた。ただし、ここで街道を行く交易商人から、砂漠の出口であるサラグトの町に、王家の軍団が駐屯していることを知った。
「相手のことを知るのは、勝利への第一歩である」
ティムールはそう言うと、斥候隊をサラグトの町やマシュハドに放った。
ホラーサーン州長官が所在するマシュハドは、王家直轄の第2軍管区の中心地である。州長官のイスマイルは、王の命令によりここに第2軍団の2万人を集めており、さらに第21軍団2万人を動員中だった。東の砂漠を越えてくるであろうサーム軍のためには、サラグトに第124独立コホルス隊の約5千を進出させていたのである。
「第124独立コホルス隊は、町を守り切れないと見たら、第2軍団と第21軍団が山脈線の陣地に着くまでの時間を稼ぐため、遅滞戦闘を行いつつ退却せよ」
イスマイルは、事前にそう、独立コホルス隊隊長に命令していた。
ティムールが放った斥候は優秀であった。彼らは27日までにイスマイル軍の配置、陣地の有無や場所と強度、使える道と罠がありそうな道などの情報をもれなくティムールに報告していた。
ティムールは、各指揮官を集めて、今後の行動について説明する。
「いよいよ、サラグトの町を攻略する。今度の戦いにおいて、実質的な初戦になる。勝ちをもぎ取ってその後の戦いを有利に進めたい」
デイムールはまず、この戦いの意義を説明する。
「我が軍は、現在の行軍隊形のままサラグトの町に接敵し、敵が現れたら我が隊を中心にムカリ将軍とポロクル将軍を左右の翼として戦う。クビライ将軍は後詰、スブタイ将軍は予備隊として控える」
ティムールは続いてガルム、シャナ、リョーカの三人を笑顔で見て
「諸君の部隊は戦闘に加わらず、ガルム殿が指揮を執って30マイル南にあるプリチャタムまで進出し、そこから西に、川の流れと共に敵陣の後ろに回り込んでくれ」
ガルムが何か言おうとするが、ティムールは笑って言う。
「不満か? 実は敵は山脈線上に陣地を作っているとの情報を得たのじゃ。そこにいるのは第2軍団、約2万じゃ。彼らは正面の東ばかり注意しとるじゃろうから、そなたたちの部隊で背後の西から突いていただければと思うのじゃ」
それを聞いて、ガルムたちは笑って答えた。
「分かりました。義勇軍も王女様の役に立ちたい気持ちは負けません。西から敵を脅かしてやりましょう」
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王国暦1576年若葉萌える月9日、主力軍がカルシの町に到達する前には、韋駄天のホルンたちの遊撃軍1万6千は、サマルカンドから西北西400キロにあるダルガナタの町に入った。ここから『蒼の海』に続くバルカン地峡までは直線距離で600キロ、茫漠たるカラクム砂漠を越えていく難所となる。
「ここまでは順調に来たけれど、イスファハーンにはもう挙兵のことは伝わっているはずよね。とすると、トルクスタン侯国内を進むとは言っても、何処で敵軍に遭遇するかは分からないわね」
ダルガナタの町の東側で、アムダリヤ川を渡河する前に、ホルンたちは作戦会議を行っていた。
「ボクの想像では、こちらに軍団は来ないよ。代わりに砂漠のど真ん中で『魔軍団』に襲われると思うね」
ジュチがそう確信を持って言うのに、リディアが訊く。
「どうしてそう言い切れるのさ。相手は50万人も動員できるんだよ? そのうちの何割かはこちらに向かってくるんじゃないの?」
ジュチはその細くて形のいい指で、うざったげな前髪をいじりながら言う。
「というのも、敵はまだ動員が完了していない。各地の間諜からの報告を見ていると、敵さんは各州常備の2万人に加えて、1個軍団2万人に召集をかけているようだけれど、常備軍をそのまま各州に分散させたままだ。これは新たに編成する軍団で首都を守ろうとしていることを意味する」
「じゃ、マシュハドの第2軍団とかは無理にしても、テーランの第9軍団とかはこっちに来るんじゃない?」
オリザが訊くと、ロザリアは首を振って言う。
「いや、ジュチの話を基にすると、各州知事は編成した軍団を自分の州を守ることには使えないということじゃ。とすれば、常備軍団は州都の守りに張り付けられるじゃろう」
「とすれば、攻めに出て来られるのは別途軍団か独立兵団を徴募できる州に限られる。私の見たところ、そんな余裕があるのは西にある第7、第8、第12、第13の4軍管区ぐらいだろう」
ガイが言うと、
「一番遠い第12軍管区なら、首都まで来るのに3か月かかるわ」
シャロンがぽつりと言う。
「総合すると、ここひと月の間なら、イスファハーンに2個軍団4万がいて、その間には主力軍方面に第2軍団が、こっちには第9軍団がいるだけだ。方策としては、第3軍団と第9軍団を首都に集めて、首都を4個軍団8万で守り、主力軍には第2軍団が、ボクらには『魔軍団』か『七つの枝の聖騎士団』がかかってくる。あるいは、首都を捨ててバビロン辺りに決戦場を誘致する。そのどちらかだと思う」
ジュチがそう、意見を締めくくる。
「バビロンで決戦すると仮定したら、どのくらいの兵力差になる?」
ザールが訊く。ジュチは笑って言う。
「こちらは無傷だとしても17万。相手は12個軍団24万。ただし相手には予備が4個軍団8万ある。ま、そんなとこだと思うよ?」
「バビロンにかかったアクアロイドの軍団が袋叩きにならないか?」
ザールが心配して訊くと、ガイは笑って答える。
「そんな雰囲気の場合、姉はバスラに退く。そこならバビロンを牽制できる」
だいたいの意見が出たところで、ホルンが言う。
「ジュチ参謀の意見のとおりなら、私たちの相手は『魔軍団』です。それぞれに備えを怠らず、この砂漠を突破しましょう。皆さん、4日後、バルカン地峡で会いましょう」
ホルンたち遊撃軍は、砂漠をいち早く突破するため、部隊を四つの進路に分けて進めることにした。
まず、アクアロイド部隊は、ガイを除けば乾燥に弱いので、アムダリヤ川とサルイカムシイ湖をへてカブランカー地域で『蒼の海』へ出るルートを取ることにしていた。このルートはかなり遠回りだが、ガイたちアクアロイドなら水辺では一日200キロを進むことができるし、カブランカー地域のアクアロイドの支援も期待できた。
砂漠の一番北を進むのはジュチ隊である。彼の部隊『妖精軍団』は最も進撃速度が速いので、デルヴェーザの町を経て高地地帯の縁を進み、カザンジクの町を目指す。ただし、状況によってはバルカン地峡の策源地であるネビトダグの町を攻撃する場合もあるとされた。この町はガイのアクアロイド隊の目的地でもある。
真ん中の地域を進むのはザール隊とホルンの本隊、そしてシャロンの『神聖生誕教団騎士団』である。この部隊は人数が多いし、進撃速度が最も遅いので、砂漠のど真ん中にあるベーレの町を経てカザンジクの町を目指すことになっている。
南を進むのはリディア隊、ロザリア隊そしてヘパイストス隊である。この部隊はジェルベント、カズィーの町を経てカザンジクを目指す。途中2か所の町に立ち寄るのは、必要な物資を調達するためである。
これらの部隊が再び一堂に会するのは、バルカン地峡の出口、グムダグの町である。
次の朝、遊撃軍が勢ぞろいした。ガイの部隊は前日夜に出発していた。
『ホルン、ぼくはどうすればいい?』
朝の光の中で、肩に止まったコドランが訊いてくる。ホルンはコドランの喉をなでながら、
「いつものとおりで良いわよ。空から私たちを助けて」
そう言うと、気持ちよさそうに喉を鳴らしていたコドランは
『分かった、まっかせといて』
そう言って空に飛び立つ。その空はあくまで青く、吸い込まれそうな色をしていた。ホルンは空の青をしばらく見つめていたが、
「では、行きましょうか」
ホルンは『死の槍』を振り上げてそう号令をかけた。
「ではザール、ボクはちょっとカブランカー地域のサムソン殿とも話をしたいので、先に行かせてもらうよ。バルカン地峡でまた会おう」
ジュチはザールにそう言うと、自分の部隊に号令をかける。
「世界で最も高貴で気高い軍団よ、我と共に勝利へと進め!」
「……相変わらずクサイ言い回しだこと」
リディアがけっと言いながらつぶやき、ザールに心配そうに声をかける。
「ザール、アタシが守ってやれなくてゴメンよ? 姫様をほっぽって、戦いだけに夢中になったらダメだよ? 無理な戦いはしちゃいけないよ?」
心配そうに言うリディアに、ザールは苦笑しつつ、
「大丈夫だ。誰かさんが無茶なことさえしなければ、僕は無事にバルカン地峡に着けるよ。むしろ女の子である君に、苛烈な戦いをさせなきゃいけないことをすまなく思っている。リディアこそ、無茶はするなよ?」
そう言ってリディアを励ました。
「あン、ザールったらぁ。アタシそんなこと言われると嬉しくて仕方ないよ。うん、無茶はしないよ?」
そう言うと、大青龍偃月刀『レーエン』を抱えて自分の部隊に戻っていく。
「リディアは猪突する場合がある。うまく手綱を執って、彼女の武勇が活かせるような采配をしてくれ」
ザールは、ロザリアの側に近づいてそう言う。ロザリアはニコリと笑って言った。
「大丈夫じゃ。リディアはザール様が思うほど脳筋ではないぞ? それに彼女にはとっておきの呪文がある。『ザール様』という、な?」
ザールはまた苦笑する。そして、ロザリアの眼を見つめて強く言った。
「ロザリア、君自身も気を付けて進め。リディアだけでなく、君も大事な仲間だ」
ロザリアはザールの瞳に映る自分の顔を見ていた。少し頬を染めて、そして昔のように感情がない顔ではない、この方が私をこうしてくれた……ロザリアは心の中でそう思い、ザールにいたずらっぽく言った。
「では、首尾よくホルン女王様が誕生したら、私はザール様に娶っていただこう。それが私への最高の褒美じゃ」
ロザリアはザールの返事も聞かず、自分の部隊に戻っていった。
「ヘパイストス殿、お世話になる。リディアはボクの幼馴染だ。道中気を付けてやってくれ」
ザールは、ヘパイストス隊に足を向け、そう言った。ヘパイストスは笑って答える。
「安心しな、『白髪の英傑』。俺もリディアとはガキの頃からの付き合いだ。あいつのことを心配するなら、ご自分のことを大切にしなよ。あいつはあなたのためならどんなことでもするって言うほど、あなたのことを心配している。だから、あいつの一番の元気のもとは、あなたなんだからさ」
その言葉を残して、ヘパイストス隊も出撃した。
「ザール……」
ジュチとリディアの出発した西の地平を眺めていたザールに、ホルンが話しかける。
「あ、すみません。僕たちも出発しないといけませんね?」
ザールが慌てて言うと、ホルンはジト目でザールを見て言う。どこか拗ねている感じが伺える。ホルンは詰問口調で訊いた。
「あなた、さっきリディアに『誰かさんが無茶なことさえしなければ』って言っていたわね?『誰かさん』って誰のこと?」
するとザールは笑って言った。
「あなたのことですよ、王女様。あなたは今は僕だけでなく、この国の人々みんなの希望です。『用心棒』とは立場が違うってこと、ご自身で言われていましたよね?」
「そ、それはそうだけど、『誰かさん』なんて言われるとちょっと傷付くわ。ザールからお荷物扱いされているみたいで」
ホルンが顔を真っ赤にして抗議してくる。ザールはため息をついて言った。
「……それは済まなかった。別に僕はホルンをお荷物だなんて思っていないよ。でも、たとえお荷物だとしても、そんなホルンを一人にはしないつもりだ。そう思っていたからつい、あんな言い方になったんだな。ゴメン、謝るよ」
それを聞くと、ホルンはパッと顔を輝かせたが、にやけそうになる顔を隠すようにしてザールに背中を向け、
「そ、それならいいのよ。じゃ、出発よ! ザール、警護をよろしくね」
「はい」
ザールはそう答えて自分の部隊へと駆けて行く。それを見て、シャロンがホルンに語りかけた。
「王女様、いい恋人をお持ちですね?」
するとホルンは顔を真っ赤にしながら言った。
「こ、恋人だなんて言わないで……私は、まず王女でないといけないから」
「王女様……」
言葉を選んでいるシャロンに、ホルンは笑って言った。
「私、26になるこの歳まで、女の子らしいこととは無縁だったの。だから、そう言うことには不器用だわ。そこはザールに甘えている。けれど、この後どうなるかは運命次第で、その運命は受け入れるわ」
シャロンは、ホルンの笑顔を見て、気の毒そうな顔をしたが、やがて黙って敬礼すると自分の部隊に戻っていった。
「そうよ、私は運命に従うだけ」
ホルンは、『アルベドの剣』をなでてそうつぶやいた。
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王国暦1576年若葉萌える月25日、主力軍はムカリ隊を先鋒に、サラグトの町の北北西50キロにあるテジェンストロイの町を奪取した。この町には第124独立コホルス隊の支隊千人がいたが、ムカリ隊の圧力の前に戦わずして後退したため、両軍ともに損害はなかった。
「いよいよサラグトを突破するぞ。今度は本格的な戦いになる。各隊気を引き締めてかかれ!」
ティムールの檄を受けて、主力軍は28日にテジェンストロイを出発した。何事にも拙速を旨とするティムールが、敢えてこの町に部隊を3日も留めていたのは、表向きは兵士の体力回復と補給のためだった。
しかし、実際の理由は、ガルムが指揮する義勇軍との調整である。義勇軍はテジェンストロイ攻略戦には参加せず、直接、サラグトの南50キロにあるプリチャタムを目指していた。彼らのプリチャタム到着が28日の予定だったからである。このタイムテーブルでは、主力軍がサラグトの防御線に着いた次の日に、義勇軍が西から挟撃する予定である。
28日、ガルムの義勇軍1万5千はプリチャタムの町に入った。案の定、敵はこちら方面を手薄にしていて、一兵とも遭遇しなかった。ガルムは、自分の任務が奇襲を旨とすることをよく理解していた。だから進軍途中では敵部隊にも交易商人にも会わないように周到に進出ルートを計画し、斥候をずっと前方に進ませるなどの努力をしていた。
「よし、このまま川伝いにサラグトの町の裏に出るぞ」
ガルムはシャナ隊を先鋒に、リョーカ隊を後衛において進撃を開始する。
義勇軍はアイニの町が集めた義勇軍2千、エフェンディ家が提供した義勇軍3千、そしてティムールが集めた5千を核に、『用心棒ホルン』の名を慕って来たもの、『白髪の英傑ザール』に認められたいと参戦したものなど、参加理由も目的も、そして練度も雑多な寄せ集めの部隊である。
しかし、これまで大きな破綻を見せていないのは、一つは各隊の隊長が優秀なこと、そして部隊指揮経験があるとはいっても小部隊しか率いたことがなかったガルムに、将帥としての才能があったことが理由だろう。
ガルムは、自分の部隊はティムールが集めた5千で統一し、リョーカの部隊にはアイニの町との関係上『ホルン・ファランドール』に関係がある人士を、シャナの部隊にはトルクスタン侯国との関係上『白髪の英傑』に関係がある人士を配置した。
この配置はなかなか妙に入っていた。というのも、『ホルン』に関係する人士は総じて若手が多く、ホルン直々に戦場での訓練を受けたことがあるジェベたちは、その者たちから尊敬の眼で見られることになったからである。これは統率に慣れていなかったジェベたちの不安を軽減した。
また、シャナもこれまで5千と言う部隊を指揮したことはなかったが、エフェンディ家の家令として培った威厳や兵站能力を遺憾なく生かし、女性特有の気配りもあって、部将や兵士たちの信頼を勝ち得ていた。こちらにはある程度戦場慣れしていた者が多かったことで、『武勇』だけで指揮官の能力を判断するものが少なかったことも一因であろう。
ともあれ、義勇軍は計画通り、敵の背後に進出しつつあった。義勇軍は31日に、敵陣の背後10キロの地点に到達することになる。
ティムールの主力軍4万は、31日にサラグトの町に入った。ここで最初の敵軍との衝突が起こった。第124独立コホルス隊5千とポロクル隊1万が激突し、ムカリ隊1万に側背に廻られた第124独立コホルス隊は、それ以上の抵抗を諦めて降伏した。ティムール軍は戦死なし、戦傷30名で、敵方は兵団が消滅してしまった。
ティムールは自軍の損害が皆無に近いことを見て、そのまま敵陣への攻撃を決心した。
「このまま麓の敵軍を捕捉するぞ」
ティムールは鞭を振り上げてそう叫んだ。
防御の主体となる第2軍団2万は街道の峠道を主陣地として1万を、東側麓に前進陣地として1万を配備してティムールの軍を待ち受けていた。
ここで、ティムールはムカリとポロクルを両翼として3万で敵陣にかかり、クビライの5千を予備として、スブタイの5千で別に山上の主陣地を攻撃するような機動をさせた。これにより、主陣地にいる1万は麓の1万を救援できにくくなった。自分たちが動いたらスブタイの部隊で主陣地を占領される恐れがあるからだ。
主陣地からの救援が望めなくなったことを悟った前進陣地の1万は、ある程度の抗戦の後に陣地を放棄して主陣地に後退した。ここまではティムールの作戦勝ちで、損害はティムール軍約500、第2軍団は登りの退き口で損害が出て、戦死戦傷2千を数えた。
「敵の弓と、落下物に注意しながら、少しずつ敵陣に寄せていけ」
ティムールは無理押しをさせず、少し進んでは陣を固めるという『緩歩進軍の策』を取った。これで否応なく第2軍団の意識はティムール軍に集中する。
第2軍団の指揮官が見ていると、ティムールは北側にムカリ隊を、南側にポロクル隊を並べ、2隊は連携を取って少しずつ陣地を押し上げてくる。その後ろにはティムールの本隊がどちらも助けられるように位置していた。そればかりでなくクビライ、スブタイの部隊は、もし第2軍団が山を下りて攻撃しようとしたら、その側面に噛みつけるような位置にいた。
さらに第2軍団長をして攻撃をためらわせたのは、先に手合わせしたムカリ隊とポロクル隊の鋭さだった。トルクスタン侯国は“東方の藩屏”として、マウルヤ王国の正規軍や北方の遊牧民、そして魔物との戦いを続けていた。
反対に第2軍団は、東に対する常設軍団とはいえ、トルクスタン侯国の後ろに控えた形で、盗賊の取り締まり程度しか経験がなかった。それがたとえ小競り合い程度に過ぎなかったとしても、実戦経験の有無の差は大きい。その差が、実際の戦場では攻撃力の鋭さとなって如実に表れた形である。
「と言っても、ここを突破されたらマシュハドまでは大きな障害物はない。何とかここで踏みとどまって、第21軍団の編成完了まで時間を稼ぐしかない」
第2軍団長は、そう言って部下を督励した。
一方、こちらは敵の背後に回り込んだ義勇軍である。指揮官のガルムは、街道と川筋が交差する地点を見て、
「リョーカ殿の部隊はここに陣地を築いて、マシュハドから増援が来た場合に備えてくれ。手に余るようならば後退して義勇軍本隊に合流してくれ」
と、陣地構築と守備を命じた。リョーカはすぐさまそれにかかる。彼は元山賊で、山塞の構築やトラップの利用に長けている。それに資材不足の中でも何をどう代用すればいいかを知りぬいていた。
リョーカは指揮下の5千人を督励して、川をまたいで高地から高地にかけて落とし穴と柵と塹壕をセットにした主陣地、その前方に落とし穴と逆茂木と土塁をセットにした前進陣地、その前方に落とし穴を互い違いに配置した塹壕線を瞬く間に作り上げた。
王国暦1576年花咲き誇る月(4月)2日払暁、陣地線がほぼ完成した時点で、ガルムは本隊とシャナ隊合わせて1万で敵陣の背後から攻撃を仕掛けた。
ガルムの部隊は、敢えて街道を進んだ。この土地はあまり背の高い木々がなく、街道を外れても部隊の行動を秘匿することにならなかったことが一つ、そしてこちらの方が大きいが、街道を外れて接敵すればそれが敵襲であることを簡単に暴露するからだった。
「だから、むしろ街道を進んだ方がいい。隊伍を整えて進めば、上の奴らは援軍が来たと錯覚してくれる可能性もあるからな」
不思議がるアローに、ガルムはそう言って笑った。今度の戦闘は義勇軍の初戦である。その初戦で先鋒を命じられたのが、まだ若きアロー・テル19歳だった。
「後ろからは俺とハイムマン、エドとシドのアラド兄弟が続く。みんな『用心棒』として鳴らした男たちだ、後ろは気にせず安心して戦え」
ガルムはそう言って、アローの緊張をほぐそうと笑った。
ガルム隊に続くのはシャナ・エフェンディ26歳を主将とする5千だ。こちらにもエフェンディ家の勇士である“シロッコ”アリーとトキルに加え、『用心棒』出身の“ルシファー”マントイフェルと“旋風のゲッツ”ことゴッドフリートがいた。
「なんとか、まだ暗いうちに攻撃発起地点に占位することができたわね」
シャナはそう言ってため息をつく。これならば奇襲できるかもしれない……シャナはそう思ったが、すぐに首を振って甘い考えを振り払う。上からは接敵経路は丸見えなのだ。いくらまだ暗いうちに動いたとしても、敵がこれだけの部隊の接近に気がついていないとは考えにくい。
「敵の部隊は山上で南北に分かれて陣取っている。私たちの部隊は、敵の相互支援を阻止するのが目的だ。途中で方向転換するので、合図を見逃すな」
シャナはそう言って、愛用の槍を握りしめて敵陣を睨みつける。
やがて、明けの明星が残る空に、一閃の火矢が放たれた。攻撃発起の合図だ。
「よし、突撃する。続けっ!」
シャナの号令とともに、暗さの残る中、5千の兵が動き始めた。
一方、火矢の信号を見たティムールは、
「よし、全員声を立てるなよ」
そう言うと、自ら先頭に立って山を登り始めた。とともに、両サイドにいるムカリ隊、ポロクル隊の陣地からは、わあっと言う鬨の声が上がった。
「敵襲です!」
山の上では、第2軍団長が部下の報告に驚いて跳び起きていた。軍団長が天幕を飛び出ると、わあっと言う声が敵陣から聞こえて来た。
「敵襲だ、弓隊、早く整列しろ。各部隊は連携を密にして戦え」
軍団長はそう言ったが、ムカリ隊とポロクル隊はその進撃路を進んでこなかった。しかし、その中央に当たる部分に、ティムール隊が無言で討ちかかった。
「ファールス王国元『王の牙』ティムール・アルメ推参! 者ども、初戦の祝いに敵を血祭りに挙げろ!」
ティムールの大音声が響き渡る。その声と共にティムール隊1万は山の北側に陣取った軍団長が直卒する部隊に襲い掛かった。
「軍団長殿の部隊を救え」
南側に位置していた副軍団長がそう言って部隊を北側に送ろうとしたが、
「ホルン王女様の義挙に賛同する、天下の用心棒ガルム・イェーガーとその一党が推参したぞ。アロー、突破だ!」
そう言うガルムの大声とともに、先頭の兵士たちから血煙が上がり、首と胴を異にした4・5人の兵士が一斉に崩れ落ちる。その向こうから、長剣を閃かせて楯を構えた隻眼のガルムとともに、双剣を構えた若き隊長が飛び込んできた。
「続けっ!」
アローは双剣を回して先頭に立ち、敵兵を当たるを幸いなぎ倒す。その部下も遅れまいと続く。南の陣地戦は、大混乱となった。
ガルムはアローの位置を確認しながら、仲間のハイムマンと共に尾根の東を進む。西側は同じく用心棒仲間のエド・アラド、シド・アラドの二人が押していく。
ガルム隊の攻撃を逃れて麓に降りようとする者や、北の陣地への突破を図るものは、シャナの部隊が一人残らず押し包んで討ち取っていった。
北の陣地ではティムールが押しまくっていた。ティムールは大胆にも供回りだけを連れて敵の司令部を目指していた。途中、襲い掛かってくる敵兵はすべて供回りの餌食になったが、たいていの兵士は黒い甲冑を輝かせ、槍を携えて歩くティムールの威風堂々とした姿を見ただけで逃げ惑った。
その頃、山腹の陣地にいたムカリとポロクルは、敵陣から矢が飛んでこなくなったことと、山上の喚声を聞きつけて
「よし、ティムール殿が突入された」
と判断し、部隊を率いて山を登り始めていた。
「この部隊の指揮官はいないのか! ティムールが推参したぞ」
ティムールは、司令部と思しき場所に来ると、槍を突き立てて大声で言う。第2軍団長は逃れられないと知り、
「おうっ! 王国第2軍団長のタマルだ。陛下に楯突く反逆者、覚悟しろ!」
そう言いながら、槍で突きかかって来た。
「うむ、かりそめの平和の中で惰眠をむさぼって来たようだな」
ティムールは、タマルの槍を弾き飛ばしながら言う。
「なにっ! 逆賊の分際で」
タマルはますます槍に気を込めるが、ティムールは顔色一つ変えずに言う。
「逆賊とはザッハークのことだ。前の陛下に王女様が居られたことを知った段階で、ザッハークは王位を姫様に譲るべきだった。それをせず、国政を恣にし、国威を落とすとは言語道断の所業だ。そちも軍団長職にあるならば、このくらいの理屈は理解できよう」
タマルはそれでも攻撃を止めない。ただし、槍を揮いながらも後退しているのはタマルであり、ティムールとの力量の差は瞭然だった。
「仕方ないのう、不本意だが、そちの首は戦神への勝利の報告に使わしてもらう」
ティムールはそう言うと、本気を出した。その途端、タマルの槍が宙に舞うとともに、その胸にティムールの槍が深々と突き刺さった。
「敵の軍団長を討ち取ったぞ!」
ティムールの勝利の雄たけびと同時に、南側の陣地でも
「敵の副軍団長を討ち取ったぞ!」
という若々しい声が轟いた。
指揮官を失った部隊ほど脆いものはない。軍団長がティムールに討ち取られたのをはじめ、副軍団長は初陣の若武者アローに、軍団副官はガルムに討ち取られ、その他の上級指揮官もあらかたシャナたちの手でその首を挙げられた。
残りの兵士たちはただ逃げ惑う中で捕捉されて討ち取られるか、戦場を離脱して逃げ散るかしてしまい、払暁からの戦闘は朝日が昇り切るころにはおおむね終了した。戦闘が終わった時に敵陣内に残された遺棄死体は約3千、負傷者は約5千だった。麓の戦いでの損害と合わせ、第2軍団はその半数を失って事実上全滅したと言える。
一方で、ティムール軍の損害は戦死200、戦傷1,500で、まだ損害は軽微と言うところだった。
ティムールは戦場を掃除すると、山上の陣地にクビライ隊5千を残し、義勇軍含めて4万8千をリョーカが造った陣地線へ進めた。
「初戦は大勝利と言うべきだな。それぞれの指揮官はよくやってくれた。次はマシュハドだ。そこを攻める前に、州知事イスマイルと軍指揮官カブールは何を考えているのかを知らねばならない」
ティムールはそう言って、再び斥候隊をマシュハドへと放った。
『第2軍団全滅す』の報は、すぐにマシュハドの町に広まった。それでなくても戦場は直線距離で33マイル(この世界で約60キロ)、それも遮るもののない33マイルである。望遠鏡を使えば、町中からも峠に翻るティムール軍の旗が見えた。
ただ、町の人々の反応は、パニックとは程遠かった。それは、ティムールが掲げた旗がトルクスタン侯国の旗であり、トルクスタン候サームの人柄は全国民に良く知られていたため、
……サーム様の軍なら、そんなに無体なことをしないだろう。ましてや正統の王女様を奉じて立った軍ならなおさらだ。
という観測が広がっていたためである。
しかし、州知事と軍指揮官は違っていた。彼らは共に王から任命された官吏である。州知事は『王の目、王の耳』と呼ばれ、地方ではその権威は並ぶもののない王の代理であり、軍指揮官は『剣の誓い』で王に忠誠を誓った者たちである。
けれど、第21軍団編成完結後の指揮官として予定されていたカブールは、他の軍指揮官とは一風変わった経歴を持っていた。彼はトリスタン侯国から軍指揮官に臨時で指名された者だったのだ。これはカブールが『二君に仕えている』わけではなく、トリスタン候を介してカブールが王宮から官職を得ていることに起因する。
「ティムール殿と言えば、元『王の牙』から東方軍指揮官まで上り詰めた軍事のエキスパートです。その個人的武勇も、戦略的素養も並ぶ者はいないでしょう。市街戦となれば民が非常に難儀します。第21軍団も編成未完の今、抗う術はありません。ここはおとなしく降伏してホルン王女様の側に立つか、西方80マイル(約150キロ)のサブゼパールまで引くべきです。あそこには独立混成第90コホルス隊がいます」
カブールはそう主張するが、イスマイルはあくまで決戦を主張した。
「何のための軍隊だ。それはこのような謀反人を征伐するためのものではないか。第2軍団の敗残兵どもが逃げ帰ってきている。そいつらを編入すれば第21軍団は編成が完結するではないか。すぐに出撃して、ティムールなどと言う老いぼれの首を持ってこい」
しかし、カブールは兵士の質などを鑑みて、
「トルクスタン候の軍隊は、連年にわたるマウルヤ王国や遊牧民との戦闘で鍛えられています。一方、常備軍は戦闘経験にも乏しく、訓練も足りていません。そのような軍隊とも言えない集団で、精鋭のティムール軍に対抗するのは愚です」
そうあくまで反対した。
「分かった、そなたはやる気がないのだ。そなたの軍指揮権を解いて、代わりにトオリルにやらせる。そなたは官舎で謹慎しておれ!」
業を煮やしたイスマイルは、州知事の職権でカブールを解任し、その後任にトオリルという男を任命した。トオリルはまだ若いが、よく兵書を勉強しており、秀才の名が高かった。彼は初めての部隊指揮官と言う職に有頂天になって
「私が指揮を執れば、ティムールなどと言う時代の遺物は朝飯前で首にしてやる」
そう、イスマイルの前で豪語した。
「よし、頼もしいぞ。あと少しで第21軍団の編成も完結する。新編の軍で大暴れしてもらいたい」
イスマイルも、そう言ってトオリルを煽り立てた。
「第21軍団の動員はまだ7割しか完了していないが、国境の陣地から逃げ帰って来た第2軍団の兵士が1万人ほどいる。その中で、もう一度戦場に投入できそうな者は5千人ほど。合わせると1万9千にはなる。早めに訓練を切り上げられるぞ」
トオリルはそう言うと、兵舎の方に駆けて行った。
マシュハドの状況は、もれなくティムールの下に報告された。ティムールは、第21軍団が実戦経験もない若い指揮官に委ねられたことを聞き、笑って言った。
「カブールが出てくれば、トリスタン候との関係上厄介なことになるはずだったが、これでマシュハドの町はこちらのものだ。しかし、出来るだけ住民の損害を少なくせねばならない」
そこでティムールは、自ら指揮を執り、王国暦1576年花咲き誇る月5日、1万の兵を率いて陣地から出撃した。
「途中、6マイル(この世界で約10キロ)ごとに柵と塹壕による簡易な陣地を作れ」
ティムールは、そう不思議な命令を下す。陣地からマシュハドまで33マイル(約60キロ)、普通に考えれば3つも作れば十分である。
「今なら敵には満足な軍団がありません。電光石火進出してマシュハドを電撃的に攻略したらいかがですか?」
そう言う部下もいたが、ティムールは笑って
「まあ、わしに考えがある。黙ってゆっくりと進撃せよ」
そう言うばかりだった。
ティムールは通常の行軍速度よりもかなりゆっくりと進み、マシュハドの近くまで来たのは花咲き誇る月10日のことだった。その頃には第21軍団も編成が完結し、出撃を待つばかりになっていた。
「来たか、あと5日早く来られたら、こちらとしては打つ手がなかったのだが、ティムールも老いたか、あるいはこちらに兵力がないと見くびったか」
州知事のイスマイルは、そう言いながらトオリルに出撃を令した。
「トオリル軍団長、ティムールの白髪首を持って参れ!」
「承知いたしました!」
トオリルは勇躍して第21軍団2万人を率い、町から出撃した。
「敵軍です」
ティムールの配下が、第21軍団がマシュハドの町から出撃したのを知って、ティムールにそう告げる。するとティムールは笑って部下に告げた。
「いいか、わしはあの青二才にわざと負けて退却を命じる。皆は落ち着いて、しかし急いで第5の簡易陣地まで退くのだ」
すると部将は、首をひねって訊く。
「それではこちらが敵に舐められるのではないですか?」
ティムールは笑いを含んだまま、続けて言った。
「それでいいのだ。ついでにもっと舐めさせてやるために、五つの簡易陣地を5日間かけて捨て、本陣地に立てこもる。その後のことはまだ言えぬが、心配せずにわしの指揮どおりに動け」
「私はファールス王国第21軍団長、トオリル。陛下に楯突く大罪人、老害ティムールよ、出てきて我が正義の刃を受けよ」
トオリルは、ティムール軍の倍の兵力を持っていることで安心し、そしてティムールを舐めていた。彼は初の実戦であることと初の大部隊指揮官であることで頬を染め、颯爽と陣頭に出てそう叫ぶ。
「おうっ! 乳臭い若者よ。元『王の牙』ティムール・アルメが相手する」
ティムールは愛用の槍を片手に陣頭に出て、大声でそう叫んだ。
「正義の鉄槌を受けよ!」
トオリルは、ティムールの姿を見るや否や、これも槍を振り回し突進してきた。
「やあっ」
「おっ」
トオリルの槍をティムールは余裕で受けたが、2・3合打ち合うとティムールは
「これは敵わん」
と、馬首を巡らして退き始める。トオリルはそれを見て
「待て! 返せっ。その白髪首を置いていけ!」
そう叫ぶと、有頂天になってティムールを追いかけ始めた。
「指揮官殿、ちょっとお待ちを!」
一散に馬を馳せるトオリルの横に、従兵長が馬を並べて叫ぶ。
「何だ。私は追撃に忙しい。つまらぬことなら後にせよ」
そう答えるトオリルに、従兵長は慌てて言う。
「落ち着いてください。ティムールの退き方はこちらを誘っている退き方です。途中に伏兵がいるかもしれません」
「このだだっ広い平野で、伏兵など隠せるものか」
トオリルの言葉に、従兵長は首を振って言う。
「いえ、塹壕を掘るとか起伏を利用するとか、その気になれば出来ます。全軍の安否に関わることです。伏兵の有無を確かめてから追撃を命令してください」
トオリルもバカではない。兵書をよく研究していることも確かであり、彼は従兵長の言葉に、馬の手綱を引いて言った。
「確かにその方が言うとおりだ。伏兵の有無を急ぎ確認しろ」
「はい!」
従兵長は、数人の部下を従えて先へと駆けて行った。
彼はやがて帰ってきて、
「伏兵はいません」
とトオリルに報告する。トオリルはうなずいて、
「よし、伏兵はいないぞ。全軍前進してあの老いぼれの鼻を明かしてやれ!」
と、第21軍団に進撃を命令した。
第21軍団は、ほどなくティムールが作った第5の簡易陣地に到着した。柵と塹壕だけで作られてはいるが、ティムール軍は矢を放ち、なかなか突破を許さない。
「陣地にこもるとなかなか頑強だな」
トオリルはそう言いながら戦況の推移を見守っていたが、次の朝、
「敵がいません」
という兵の声に跳び起きた。
「どうした!」
トオリルが部将に訊くと、
「ティムールは昨夜遅くに退却したようです。敵陣に灯りが明々と灯っていたのでまだ陣地内にいると思っていたのですが」
そう答える。トオリル自身が敵陣を観察してみると、なるほど敵陣には人っ子一人おらず、ただ燃え尽きた灯りがくすぶっているだけだった。
「思うに、あの陣地には兵糧も水も置いていない。だから退却したんだ。よし、追撃を開始するぞ」
トオリルはそう言うと、全軍を進めた。やがて6マイル(10キロ)も行くと、次の簡易陣地が見えて来た。ティムール自身もまだそこにいるらしい。
「この陣地でティムールの息の根を止めろ」
と、第21軍団は息もつかせぬ猛攻をかけたが、急造とは言っても陣地線の存在は大きく、兵士たちは矢に射すくめられてなかなか攻撃ははかどらなかった。
「やはり、陣地の価値は大きい」
トオリルはそう言って無理押しを控えさせた。ひょっとしたらこの陣地も敵は捨てるかもしれないと期待したのである。
次の朝、トオリルの期待どおり、ティムール軍は簡易陣地から消えていた。
「やはり、物資がないから陣地に長期間滞在できなかったんだ。この陣地は遅滞戦術用か何かかな」
トオリルはそう言って、またも全軍を進めさせた。
次の簡易陣地も、その次の簡易陣地も、同じパターンが繰り返された。ティムールは陣地にこもる。第21軍団の攻撃は矢で凌ぐ。そしてその日の夜には退却する……というパターンである。そして花咲き誇る月16日には、ティムールは攻勢発起地点である本陣地にまで戻ってきてしまった。
ティムールの退却に、ムカリとポロクルは仰天した。二人は、攻めてきている第21軍団長を見る限りでは、あんな若造にむざむざと負けるティムールではないと思ったのだ。
「ティムール様、どういう作戦でしょうか?」
ムカリがティムールに訊くと、ティムールは笑って言う。
「ただわしの胸の中にあり、じゃ。あの愛すべき若造の相手は任せる。ただし、ここ数日は何を言われても相手にせず、ただ矢戦で日を過ごせ」
そしてティムールはガルムを呼び出した。ガルムはニヤニヤしながらティムールの幕舎に入ってきて言う。
「陣地の外では、若造が何やらさえずっていますが?」
ガルムが入ってくるなり言うと、ティムールは笑って言った。
「あいつもまだ部下にいい格好をしたい年頃のようじゃからな」
「おかげで、私たちは後でたっぷりと食べることができるということですな?」
ガルムが言うと、ティムールは睨むような目でガルムを見て、そして笑った。
「そなたも鋭いな。では、わしが何を言いたいか分かるであろう?」
「義勇軍は、何処を占拠したらいいのですかな?」
ガルムが至極簡単に訊くと、ティムールは薄く笑って言った。
「マシュハドの町から南南東20マイル(約37キロ)にあるサンバストの町じゃ」
「そこで逃げてくる奴らを一網打尽なわけですな」
ガルムの頷きに、うなずきで返したティムールだった。
「ダメだ、奴らうんともすんとも言いやがらない」
陣地の外では、トオリルがそう言って悔しそうに歯噛みする。ここを攻めて4日になるが、今度はティムールも頑強に抵抗している。
「こちらの補給物資は大丈夫か?」
トオリルが訊くと、兵糧などを管理する係は笑顔で
「指揮官殿が敵をここまで追いつめていらっしゃいますから、州知事もお慶びで、州の倉庫を空にする勢いでこちらに搬送してくださってます」
そう答える。トオリルはそれを聞いてうなずいて言う。
「それなら兵糧攻めしても負けることはないな」
トオリルが言うと、部将もうなずいて言う。
「敵が全く反応しないので、兵士たちも退屈しています。あまりだれると軍紀が緩みますが」
「それも仕方ないことだな。よし、今夜は久しぶりに兵士たちに肉を腹いっぱい食わせてやれ」
トオリルはそう言って笑った。
その夜、第21軍団の陣地には明々と焚火がされ、兵士たちは久しぶりの肉に舌鼓を打っていた。
「やあ、やっぱり腹いっぱい食べられるのはいいな」
「上も若いようだが、なかなか話せるじゃないか」
「これで酒があれば最高だけどな」
などと、兵士たちは笑っていた。
その様子を見たティムールは、
「よし、敵は完全に油断している。今だ」
と、秘密裏に緊急呼集をかけ、自らの部隊の他にムカリ隊と義勇軍、合わせて3万5千で食事中の第21軍団に奇襲をかけた。陣地にはポロクル隊、クビライ隊1万5千を残していた。
「わわっ」
「敵襲だ」
数日、手も足も出ないように陣地に閉じ籠っていたティムール軍に対して、敵は勝手に『あいつらはもう出撃してこない』という思い込みが生まれていた。その思い込みの上に久しぶりのごちそうが兵士たちの心をすっかり緩めていた。
「わっ!」
「ぎゃっ!」
第21軍団の兵士たちは、武器も取らず、食べかけの肉を後生大事に抱えたまま、ティムール軍の餌食になっていく。
「全軍、簡易陣地まで退けっ!」
この場での事態の収拾は困難と見たトオリルは、そう号令をかけた。兵士たちは自分の部隊がどこにいるかを探す暇もなく、三々五々簡易陣地へと逃げていった。
「追撃じゃ、敵を逃すでない!」
ティムールは疾風のごとき追撃を開始した。
トオリルは、第1の簡易陣地でも部隊の掌握ができなかった。兵士たちが自分の部隊長の指揮下に掌握される前に、ティムールの追撃部隊が姿を見せたからである。
「仕方ない、各部隊長は部下を掌握しつつ、第2の簡易陣地まで退けっ」
殲滅を逃れるには、もはやその一策しかない。トオリルはそう命令したが、奇襲を受けて敗走中に部隊を掌握するのは、訓練された部隊でもなかなか困難だ。編成が完了して間もない第21軍団の部将や兵士たちにそれを求めるのは酷だといえた。
結局、第2の簡易陣地でも、同じことが繰り返された。
「次の陣地までは追って来ないだろう。追撃を続けてもう20キロ、敵の兵士も疲れているはずだ」
しかし、なんと第3の簡易陣地までティムール軍は追いかけて来た。このときには義勇軍を分離しているので兵力は2万になっている。その分、身軽にはなっていた。
「敵が追撃してきました!」
「なにっ!」
トオリルは、ティムール軍の突進力に驚いた。もう20日の夜が明けかけている。わずか半日足らずで30キロだと? 最初の進撃に5日もかけていた敵と同じ部隊だとは信じられなかった。
結局、トオリルたちは第4の陣地に逃げるしかなかった。
第3の簡易陣地に到着したティムールは、そこに積み上げられた兵糧や水を見て、ニヤリとして命じる。
「これは敵からの贈り物だ。残らず本陣地まで運べ。運搬部隊以外はわしに続け。追撃を続行するぞ」
するとムカリが反対して言った。
「ティムール殿の計略には脱帽しますが、兵士たちの疲れも限度まで来ています。ここで一旦兵を休めてから追撃されてはいかがですか?」
しかしティムールは、石色の瞳に強い光を込めて言う。
「何事にも中途半端が最もいけない。敵軍は統率を乱し、その物資を失っている。この量から察するとマシュハドの町の糧秣庫は空になっているに違いない。身を捨ててこそ、手柄も功名も挙がる。者ども、あと一歩じゃ。息をつかせず敵を追い詰めろ!」
疾風のようなティムールの追撃が続く。第4の簡易陣地からもティムールに追い払われたトオリルは、
「何てしつこい奴らだ!」
と辟易していた。けれど、だんだんとティムール軍の行き足が鈍りつつあることを感じて、トオリルは
「第5の簡易陣地で食い止めろ!」
そう叫んだ。
ティムールの本陣地から敗走すること50キロ、トオリルたち第21軍団は、やっとここで部隊を掌握できた。調べてみると、5千内外の兵士がいなかった。討たれたか、敗走途中で離脱したかのどちらかだった。もう20日の昼前になっていた。
「さすがにここまで追っては来ないだろう」
トオリルはそう思っていたが、案に相違してティムール軍の姿が遠く見え始めると、
「ティムールはバカか? 一日足らずで50キロも追撃するなど正気の沙汰ではない。あれでは兵士はへばっているだろう。陣地内でなく、野戦で蹴散らしてやる」
トオリルはそう言って、1万5千の軍を布陣して待ち受ける。
やがて、ティムール軍とムカリ軍の1万5千が現れる。どちらの部隊も各簡易陣地にある兵糧運搬に兵を割いていた。50キロも追撃してきた割には、敵の物資を大量に奪ったことで士気も上がっていた。
「ティムール、私はそなたがここまで追撃してくるバカだとは思わなかった。貴様の武運もここで尽きたな」
トオリルが陣前で言うと、ティムールも槍を抱えて陣前に出て答える。
「こちらこそ、そなたがこれほど見事にわしの策にかかってくれるほどの間抜けとは思わなかったわい。マシュハドの物資、ありがたく頂戴した。あとはそなたとイスマイルの首をもらえば、緒戦としては上出来じゃ」
「何をっ!」
トオリルは槍を回してティムールに突っかかる。しかし、今度はティムールは引かなかった。ティムールは、めちゃくちゃに突き出してくるトオリルの槍をあしらいながら、
「それそれ、何処を狙っている?」
とか、
「まだ遅いぞ、そんな槍では王女様に出会ったら瞬殺されるぞ」
と、まるで稽古をつけているかのように余裕綽々としていた。
「くそっ、バカにするなっ」
トオリルはむきになって突っかかるが、その時、第21軍団の後ろから、喚声と共にスブタイの部隊5千が突っ込んできた。この部隊はティムール隊の出発半日前に出撃し、一目散にマシュハドの近くまで進出していたのだ。
「くそっ! もはやこれまでだ」
トオリルは、自分の部隊がもみくちゃにされるのを見て、槍をティムールに投げつける。それと共に馬首を巡らせて戦場から離脱しようとした。
「待てっ! 逃げるとは卑怯ではないか。青二才、その首ここに置いていけ!」
そう言って追いかけたのは薙刀を持つムカリだった。トオリルはムカリに追いつかれて武人が最も恥とする後袈裟の一撃を浴び、悲鳴も上げずに馬から転げ落ちた。
第21軍団は、前からティムール軍、後ろからスブタイの部隊の挟撃を受けたにもかかわらずよく戦っていたが、軍団長が逃げ出すのを見て意気消沈し、隊列が乱れたところをスブタイの部隊にかき乱されたため、戦闘わずか四半時(30分)にして消滅した。戦死は少なかったが、戦傷と逃げ散ったもの含めて1万に近かった。
ティムールはスブタイの部隊にマシュハドの町の占領を任せた。イスマイルたちはすでに脱出していたため、町は大して混乱もなくティムールの手に帰した。
「我らは正統な王位継承者であるホルン王女を奉じた軍である。町の人たちの安全は保障する。わが部隊の兵士による略奪や虐殺行為があった場合は申し出よ。きっと重く罰するだろう」
ティムールは、町に入るとまずそう宣言して、町の人々の心配を払拭した。そして押さえた兵糧については、今後の行動を勘案して残った分は、特に貧しい者たちに分配した。
その処置に、町の人たちが感激したのは言うまでもない。
また、逃げ落ちたイスマイルとカブールは、サンバストの町を押さえていたガルムの義勇軍に捕らえられた。ティムールはイスマイルを追放処分とし、カブールには
「そなたはトリスタン侯国の臣下でもある。トリスタン候とわが主たるトルクスタン候サームの信義に基づき、そなたは殺さない。我が軍でホルン王女様のために働いてもらえるのならば5千を預けよう。それが嫌なら釈放する」
ティムールがそう言うと、カブールはニコリとして訊いた。
「私が再び王国の軍団の指揮を執るとしたらどうされますか?」
ティムールは首を振って言う。
「先ほども言った。そなたの主人とわが主人との信義に基づいて、この場では殺さぬとな。そなたがどの軍の指揮を取ろうと止めはせぬ。戦場で手加減しないだけじゃ」
「イスマイルは州知事として私を解任しました。すなわち王が私を必要としないということです。だから私は以前のとおり、トリスタン候のもとに帰ろうと思います」
カブールの言葉に、ティムールはうなずいた。カブールはその場で剣と馬を返され、そのままトリスタン侯国へと帰って行った。
カブールの姿が南東の丘に消えると、ティムールは配下の将軍たちを見て言った。
「緒戦としてはまずまずだった。ここからイスファハーンまで直線で440マイル(約815キロ)、道のりにすれば600マイル(約1,100キロ)はある。途中は山岳や高地で、砂漠も広がる険路じゃ。みな、気を引き締めていこうぞ」
★ ★ ★ ★ ★
トリスタン候アリーが、ザッハークからの要請に応じ、シェリルの町を攻めると号して4万の兵でヘラートを出発したのは、若葉萌える月28日だった。このころはすでにティムールの主力軍がトルクスタン侯国の国境の町サラグトにある敵陣を攻略しに、テジェンストロイの町を出発している。
ヘラートからマシュハドまでは直線距離で300キロに過ぎない。それなのにティラノスやパラドキシアがトリスタン候にマシュハドの救援を求めず、道のりにして1,200キロも南のシェリル攻略を命じたのは、ひとえにサームとの仲の良さを警戒したからに他ならない。
現在、シェリルの町はザーヘダーンに駐留する王国第3軍団が包囲しているが、海軍を持つシェリルの町の封鎖は困難だった。
シェリルの南東100キロにはファールス王国最大の軍港を持つ商都カラチがある。
しかし、ここから海軍は引き上げられており、駐留する第4と第41の二個軍団は、マウルヤ王国への抑えとして動かせず、現在対シェリル用として鋭意第42と第43の二個軍団を編成中だった。
また、ザーヘダーンの州知事も、第31と第32の二個軍団を準備中だったが、それらは州都防衛と首都の防衛として使われる予定であった。
イスファハーンの防衛としては、第1軍団、第14軍団が編成を完結して、とりあえず4万の部隊がいた。
その他には、イスファハーンの北にあるテーランから第9軍団が、南のシーラーズからは第5軍団がイスファハーンに急行中だったが、どちらも400キロは離れており、到着まで20日はかかる見込みだった。
しかしそのころ、ザッハークはイスファハーンにはいなかった。彼はティラノスやパラドキシアの意見を容れて、既に遠く西、ダマ・シスカスへと密かに遷都を決行していた。
ザッハークが遷都を決心したのは、若葉萌える月15日のことである。こんな早い段階で遷都を決心したのは、ティムールの主力軍の進撃のせいではない、ホルンの遊撃軍のあまりにも素早い機動と、アクアロイド軍の動きのせいであった。
ホルンは、遅くとも若葉萌える月13日までにはカラクム砂漠を越えて『蒼の海』近くのグムタグの町に入り、途中で戦いがあると仮定しても同月20日までにはテーランの町に突入する予定であった。
その予定は、さまざまなことで遅延を生じ、実際にテーランの町に突入できたのは花咲き誇る月の10日だった。それでも、その移動距離から見ると、ティムールの主力軍をはるかに超える韋駄天ぶりだった。けれども20日時点での位置は、イスファハーンを囲む山脈の北側、カーシャーンの町に入ったところである。
そして王国暦花咲き誇る月20日、ダマ・シスカスの王宮では、東の空を睨みつけながら、ザッハークがつぶやいていた。
「ホルン、ザールとその一党、そしてサームめ。見ていよ、余は必ず捲土重来し、この国を再び余の手の中に入れて見せる。ホルンとザールよ、イスファハーンがそなたたちの墓場となるのだ」
(25 緒戦の功名 完)
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いよいよ最初の戦闘が始まりました。今後は主力軍と遊撃軍、そしてアクアロイド軍団など視点を変えつつお送りしていきます。
次回『26 破砕の戦刀』では、遊撃軍の初戦をお送りします。
日曜日の9時〜10時投稿予定です。お楽しみに。




