24 蹶起の神剣
先に挙兵したアクアロイドのリアンノンたちは、有利に海の戦いを進める中で、いよいよトルクスタン侯国から王座奪還の軍が出発する。その総帥はホルン。彼女はザール、ジュチ、リディア、ロザリアそしてガイとヘパイストス、オリザとともに『遊撃軍』を、ティムール、ガルム、リョーカ、シャナそしてアローたちはサームの部下とともに『主力軍』を率いることになる。ホルンの王位奪回への戦いが始まる。
【主な登場人物】
♡ホルン・ファランドール…『死の槍』と『アルベドの剣』を持ち、辺境で名を上げた女槍遣い。前国王の娘で王国の現状に改革を志す。翠の瞳と銀の髪を持つ。26歳。
♧コドラン…シュバルツドラゴンのこどもで、生き別れになった母を探すためにホルンとともに旅をしていた。小さいが気が利く、ホルンの良き仲間である。15歳程度。
♤ザール・ジュエル…“東方の藩屏”トルクスタン侯国の世子で『白髪のザール』の異名を持つ。ホルンとともに王国の改革を志す。白髪に緋色の瞳を持つ。23歳。
♡リディア・カルディナーレ…ザールの幼馴染でジーク・オーガの王女。接近戦では無双の強さを誇る。額に角を持ち、茶色の髪に茶色の瞳をしている。21歳。
♤ジュチ・ボルジギン…ザールの幼馴染で『この世で最も高貴な一族』であるハイエルフの首領の息子。頭脳明晰で魔力に長けるがチャラい。金髪碧眼の美青年。23歳。
♡ロザリア・ロンバルディア…ザールに一目ぼれして仲間に加わった魔族の女性。冷静冷血で魔術に長けている。黒髪と黒曜石のような瞳を持つ。21歳。
♧ガイ・フォルクス…25年前にスケルトン軍団から国を滅ぼされたアクアロイドの王族。頭脳明晰で冷酷非情だが仇討に協力したホルンに恩義を感じている。29歳。
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ファールス王国で、前国王をその弟が弑逆するという事件が起きて26年。その間、辺境には威令が行き渡らず、盗賊や魔物などが跋扈する無法地帯と化していた。
無法地帯であっても、人々が生活している限り、そこには生産活動も経済活動も行われていて、交易などの交流を絶ってしまうわけにはいかない。
本来は、国の司法機関や軍隊が治安の維持や国民の生命・財産の保護の役割を担っているのだが、威令が行き渡らないのであるから司法機関の力はなく、軍隊もすべての事件に対しては手が回らない。
そこで、依頼を受けて報酬と引き換えに町の安全確保や交易商人、旅人の護衛を生業とする『用心棒』や『傭兵団』の出番となるわけである。
この物語の主人公であるホルン・ファランドールも、かつては辺境でトレードマークの『死の槍』を揮い、『凄腕の女用心棒』とか『無双の女槍遣い』などの武名で知られたものである。
けれど、日常的に死の不安と戦わなければならない辺境の人々からは、『辺境を見捨てたような』王室への不満が次第に高まっていった。辺境とは、『神』はいつもご不在で、『神の恩寵』とはまず無縁、『理屈』は言ったもの勝ちで、『法の秩序』は品切れで、『正義』はなにそれおいしいの?——そんな場所だったからだ。
その辺境では、随分と前から『前国王シャー・ローム陛下の妃ウンディーネ様は、王女を産み落とされており、その王女がいつの日か神話のホルン女王のように現体制を打ち破り、国全体に幸福をもたらしてくれる』という都市伝説めいた噂が人々の間で語られるようになっていた。辺境の人々はそんな噂をすることで、『未来』を信じようとし、『現在』の苦しさを和らげようとしていたのかもしれない。
そして、1年ほど前から、『前国王の血を引く正統な王女様が、この国を正すため、国の状況を把握しようと天下を巡られている』という噂が広まった。
それは、26年前の政変時に、ひそかに国民が“次の国王”と期待した、“東方の藩屏”トルクスタン候サーム・ジュエルの嫡子であるザールが、仲間を連れて国内を回っていたことが原因かもしれない。ザールの名は、トルクスタン侯国内ではすでに『白髪の英傑』として知られていたが、それを聞いた世の人々は、「侯国世子という立場にいるザールほどの者が、供回りとしてただ二人だけを連れて物見遊山のような旅をするはずがない。きっとサーム殿が、天下を巡っていられるという正統な王位継承者である王女と連絡を取らせようとしているのだ」と考えた——それは実際事実だったが——それほどに、現状を打破してもらいたいという国民の気持ちが大きくなっていたともいえるだろう。
さらに、ほぼ半年前、今度は国民の間に『正統な王位継承者ホルン王女が、“東方の藩屏”サームに迎えられ、サマルカンドで挙兵の準備をしている』との噂が広まった。そして、細かいことに気が付く人であれば、その頃、『凄腕の女用心棒』として知られていたホルン・ファランドールが用心棒稼業から足を洗ったことと重ね合わせたに違いない。
トルクスタン侯国では、すでに多数の人々が、『正統な王位継承者』であるホルン王女の姿を見、その活躍を耳にしていたが、その噂は噂を呼び、今では全国で『ホルン王女の待望論』がひそかに語られるようになっていた。機は熟したと言えるだろう。
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トルクスタン侯国の首都サマルカンドでは、いよいよ『王女様の旗揚げ』についての最終的な打ち合わせが行われていた。すでに、南方の海洋都市シェリルからはアクアロイドの首領であるリアンノン・フォルクスから軍事行動の開始予定日などの通知もあり、盟友であるトリスタン侯国のアリーからも、密かに親書が届いていた。
「それで、編成ですが」
ホルンは今回の挙兵の『錦の御旗』であり、その後見として全軍を代表するのはトルクスタン侯サーム・ジュエルであるが、実質的な野戦軍の総帥としてサームから任命されたのは、ファールス王国の元『王の牙』にして東方軍司令官だったティムール・アルメだった。今年68歳になるティムールはその槍の腕も衰えておらず、その軍歴、経験をみれば他の将帥を圧倒していた。
ティムールと同じ『主力軍』に所属するのは、参謀クビライ、スブタイ、将軍としてムカリ、ポロクル、ガルム、シャナ、リョーカの面々で、兵力は義勇軍を含めて5万5千であった。主力軍はサマルカンドから南西に進み、首都イスファハーンに迫る予定である。
もう一つ、ホルン自身が所属し、ザールが実質的な総大将を務める『遊撃軍』があり、こちらには総指揮官としてホルン、参謀にロザリア、オリザ、将軍としてはザール、ジュチ、リディア、ガイ、そしてヘパイストスがおり、兵力は約1万5千だった。遊撃軍はサマルカンドから西進し、『蒼の海』から南へ転回、一路南下してイスファハーンを衝く予定である。
サームその人は、参謀ジェルメ、チンベ、将軍ボオルチュ、チラウンを手元に残し、5万でサマルカンドの守備に当たることとなった。ただし、必要な場合はジェルメとチラウンを連れて3万で後詰に当たる。
「……と言うことになります」
ティムールが一通りの説明を終える。この編成と行動方針は、ザール側とサーム側でそれぞれすり合わせて確認済みのものであり、この段階でどうこう言う者はいなかった。
サームは、この場にいる全員が同意の色を浮かべているのを見て取り、立ち上がって宣言する。
「諸君、わが兄でもあったシャー・ローム陛下は、国民を大事にし、国威を発揚することにその心神を捧げられた。そして、外にはマウルヤ王国を叩き、内には産業を振興し、交易を盛んにし、軍律を正して国民の生命と財産の安全確保を堅持された。そのシャー・ローム陛下から王位を簒奪し、国政をほしいままにし、国勢を落としたザッハークの罪は重いと言うべきである」
サームはそこで口を閉じ、諸将を見渡して続ける。
「ホルン王女様は、長らく市井にあられ、『用心棒』として辺境の人々の苦しみを身近に見られ、人々と親しく接し、そして人々のために戦って来られた。これはまさにシャー・ローム陛下の継嗣として相応しく、この国を統べる器量をお持ちのことは、万人が認めるところである」
そして、最後には熱を込めて語った。
「今、正統な王位継承者であるホルン王女様を戴き、軍を起こすことは、シャー・ローム陛下のご遺志を継ぐとともに、陛下の鴻恩に応えることでもある。皆、一つは陛下の鴻恩に応えるため、もう一つはホルン王女のご威徳を広めるため、そして何よりも国民を塗炭の苦しみから解放するため、戦場では勇敢に戦い、国民には慈愛をもって接し、新たな王国の夜明けを皆で招こうではないか!」
サームの獅子吼に、諸将は盛大な鬨の声をもって応えた。その興奮が冷めやらぬ中で、サームはホルンを見て言う。
「王女様からも、諸将に一言お願いいたします」
ホルンはびっくりした。まあ、ほかならぬホルン自身のために諸将がここにいるのであるから、その将帥として挨拶を求められることは当然である。けれど、そのことに思い至らず、何も考えていなかったのは迂闊と言えば迂闊だった。
ホルンはザールを見る。代わりに何か挨拶してほしいようだ。ザールは笑って言った。
「心のままに、思うことを言えばいい」
ホルンは顔を赤くしてうなずき、立ち上がった。諸将の視線が痛い。
——どうしよう、何を言ったらいいか分からない……。
喉がカラカラのホルンに、ザールのつぶやきが聞こえた。
“君は、なぜ、運命を受け入れた?”
ホルンはハッとした。そして少しの間目を閉じて息を整える。再び目を開けた時、先ほどまで戸惑いを見せていたホルンはもういなかった。
「私は、父と母を知りません」
ホルンはポツリと切り出す。諸将は彼女の声に静まり返った。
「物心ついた時から、旅の中にいました。デューン・ファランドール様とその婚約者だけが私の家族であり、寂しさと、切なさと、そして不安だけが私の友でした」
ホルンの静かな声が、さざ波のように諸将の心に響く。諸将には、翠色の瞳を伏し目がちにしたホルンが、泣いているようにも見えた。
「15年に及ぶデューン様との暮らし、そしてその後の10年に及ぶ放浪の中で、私は大切なものを一つ一つ失ってきました。帰る場所も、大事にしてくれる人も、守るべきものもなく、振り返ればそこには戦いの日々だけがありました」
諸将は、目を閉じてホルンの言葉をかみしめている。ホルンは、不意に笑うと、明るく顔を上げて
「けれど、私は運命に導かれ、ザールやかけがえのない仲間たちと出会えました。今、私には、帰る場所、大事にしてくれる人、守るべきもの、そのすべてが運命から授けられています」
そしてホルンは、翠色の瞳に力を込めてこう言った。
「だから、私は戦えるし、戦います。どのような種族も、お互いを信じあい、分かり合い、尊重して手を握れるような国にするために。そしてすべての人々が、平和な日常という幸せを感じられ、命を輝かせられるような日々を手に入れるために!」
諸将は、天に突き抜けるようなホルンの声に、思わず両手を握りしめる。そしてホルンの
「皆さん、私に力を貸してください! 私と共に進んでください! ほかならぬ私たちと、すべての人々のために!」
という魂の叫びに、諸将はサームに向けた以上の熱狂をもって応えた。
諸将の熱狂を見ながら、ザールは目を閉じてうなずき、ジュチは
「うん、この話が城下に伝わった時、みんながどう思うか楽しみだ」
と笑っていた。
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ファールス王国暦1576年若葉萌える月(3月)、シェリルの町から戦列艦と通報艦、そして輸送船合わせて700隻に及ぶ大艦隊が出港した。
まず動き出したのは、先鋒梯団であるクリムゾン、ローズマリーの両提督が率いる200隻であり、続いて第二梯団のミント、テトラの2提督が指揮する200隻。
この大艦隊の総帥であり、シェリルの町を統括するリアンノン・フォルクスが、総旗艦『リヴァイアサン』に座乗し、本隊100隻を率いて続く。その後ろには後詰としてタボール、エースの若手提督二人が、それぞれ100隻を率いて続航していた。
「リアンノン様、エース提督の最後尾も港を出ました」
ミズンマストの見張りから報告を受けた、艦長のコリンウッド准提督が報告してくる。リアンノンは、黒潮の色をした髪を潮風になぶらせながらうなずき、命令した。
「任意の通報艦にて、先鋒梯団に命令。『艦隊から分離し、オルマー岬の見張り所を破壊せよ』」
艦長は敬礼すると、
「はっ、先鋒梯団あて、『艦隊から分離し、オルマー岬の見張り所を破壊せよ』。通報艦『ドラゴンフライ』にて下令します」
そう言うと、副長を経て通信長、掌信号長へと命令が伝わる。すぐさまメインマストの左舷側に信号旗が3枚、ひらひらと掲げられた。それを見た通報艦『ドラゴンフライ』が風をまぎって接近してきた。その艦橋横には信号員が立っている。
『リヴァイアサン』の信号員が、手旗で命令を送る。『ドラゴンフライ』は命令を承知し、帆を張り足して全速力で先鋒梯団へと向かって行った。
「ザッハークの艦隊は出てくるかな?」
艦隊総参謀長のニールセン正提督が言うと、情報参謀のアンソン正海佐が答える。
「王国の艦隊は現国王になってから活動が停滞していますからね。整備予算も削られているようですから、ほとんどがフナムシに艦底を食い破られているんじゃないですかね」
「しかし、王国にもまだケッペル提督など数人は使える提督がいる。出てこないとタカをくくっていたら、思わぬ不覚を取るぞ」
作戦参謀のホーク正海佐が言う。ニールセンもリアンノンも、その言葉にうなずいた。
「ホーク参謀の言うとおりです。ここは手堅くいきましょう。艦長、任意の通報艦にて、第二梯団に命令。『敵艦隊が見えたら、戦策1の2の13に基づき行動せよ』」
こちらは先鋒梯団である。通報艦『ドラゴンフライ』によってリアンノンの命令を受領した先任指揮官のクリムゾン大提督は、風下側にいるローズマリー正提督の旗艦『リベンジ』に命令を下した。
「艦長、ローズマリー提督あて信号だ。『われ艦隊から分離し、オルマー岬の見張り所を攻撃せんとす。貴艦隊にて第二波を準備されたし』。急げ」
その信号を受けたローズマリー正提督は、笑って艦長に言った。
「艦長、『ヴァリアント』あて信号旗にて返信、『肯定』。それと艦隊内に信号、『陸戦隊準備』。急げ」
クリムゾンは、『リベンジ』の『肯定』の信号旗を見ると、豪快に笑って言った。
「よし、我ら『海の種族』の力を見せつけてやるぞ。艦長、艦隊内に信号、『全艦、右1点一斉変針』続いて『陸戦隊準備』」
艦長は副長に命令を伝達すると、クリムゾンに告げる。
「隔壁を閉じます」
クリムゾンはニヤリと笑ってうなずくと、空を見上げてつぶやいた。
「潮もだれて来た。風も弱くなってきている。今夜は王国の腐った奴らに一泡吹かせてやれそうだ」
『海の種族』アクアロイドのいいところは、船に必要以外の短艇などを積まなくてもいいところだ。濡れてはいけない物資の輸送以外に、短艇を利用することはまずない。
今回も、先鋒梯団から出た陸戦隊員たち2千名は、ボートを使わずにオルマー岬に奇襲上陸し、見事に見張り所と連絡施設を焼き払い、全員無事帰艦した。
ここには警備の部隊として100名の兵士が詰めており、沖を行く大艦隊にも気づいてはいたのだが、まさか20マイル(この世界では約37キロ)も先にいる軍艦から攻撃を受けるとは想像もしていなかったらしい。まあ、普通は陸上を攻撃する際はできるだけ海岸に艦を寄せ、ボートを降ろすという手順を踏むので、アクアロイドの生態に詳しくない兵士たちが安心していたのも無理はない。
「成功したようね」
オルマー岬の火炎は、後方にいた『リヴァイアサン』艦上のリアンノンにもよく見えた。彼女は愛用の三又の矛『トライデント』で揺れる身体を支えながら、しばらくその火を眺めていたが、クリムゾンの『ヴァリアント』からの報告を発光信号による逓伝通信で受け取ると、報告書をニールセンに渡しながら笑って言った。
「私は部屋に戻るわ。艦隊が泊地に着いたら司令官を集合させて」
ニールセンは「はっ」と答えると、報告書にざっと目を通した。そこにはこう書いてあった。
『若葉萌える月3日0000(午後6時)、陸戦隊2千人出発、0035上陸敢行、奇襲により全員到達。0045見張り所確保、敵兵は見当たらず。0050信号所確保、敵兵は見当たらず。0100(午後7時)、見張り所及び信号施設に着火、炎上確認後0110離岸。0155各艦陸戦隊収容、全員無事』
ニールセンはニコリとしてつぶやいた。
「これは幸先いいぞ」
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アクアロイドの艦隊によるオルマー岬の奇襲は、規模としては小さかったものの王室に与えた衝撃は甚大だった。これまで、面と向かってザッハークに楯突こうとしたものはいなかった。それが治世26年目にして初めて、一石が投じられたと言っていい。
しかも、その方角が意外だった。ザッハークの腹心、政務参与のティラノスや軍事参与のパラドキシアたちは、
——この国に反旗を翻す者がいるとしたら、それはサーム以外にはありえない。
と確信し、『対トルクスタン侯国』一点張りで防御態勢を整えていたのだ。まあ、それも最初のうちで、治世20年を過ぎた頃には、誰もサームが挙兵するなどとは思わなくなっていたが。
「オルマー岬に配備していた兵の報告によれば、艦隊の規模は約200隻。損害としては大したことはありませんが、その艦隊がどこに向かうのかが気になります」
政務参与のティラノスが言うと、
「陛下に矛を向けるなど言語道断の所業。すぐさま近接する州知事に連絡を出し、シェリルの町を叩き潰し、アクアロイドたちに目にもの見せてやります」
軍事参与のパラドキシアもそうまくし立てる。ザッハークは玉座に座って苦虫を噛み潰したような顔でいたが、
「……シェリルの町の統括は、亡きシール・フォルクスの娘と聞く。余が目こぼししてやった恩を忘れて、反乱だと? 州知事では生ぬるい、『不死隊』を出して叩き潰せ!」
そう言うと、続けて、その険がある瞳をギロリとティラノスに向けて、
「ティラノス、サームのヤツの動向を探れ。これは単にフォルクスの小娘だけの考えではない。サームは、庇護下にあるホルンとか言う元用心棒の似非王女を担いでこの国を乗っ取る気だ。動きがあれば『王の牙』を向けてサームとホルンを殺せ」
そう言う。ティラノスは一応、頭を下げた。けれどパラドキシアが言いにくそうに
「……陛下、『王の牙』は、すでに全滅しております」
と言う。ザッハークは驚愕の表情で言った。
「何? エミオット・ジルの敗死は聞いたが、スジューネンたちをはじめとしてホルンの動向を監視させていたのではないか? 他の者はともかく、余が直々に『王の牙』に迎え入れたウルリヒまでもがやられただと?」
「はい、そして『怠惰のピグリティアとアーケディア』も、ホルンやザールたちに敗れております」
パラドキシアの言葉に、ザッハークは青くなって言った。
「なにっ? 『七つの枝の聖騎士団』の一人までもか……それは由々しき事態だ。それだけの手練れを揃えているとしたら、サームは必ず兵を挙げる。全国の州知事に緊急動員をかけよ。そして、藩屏国にも応援の指示を出せ」
「御意!」「はっ!」
ティラノス、パラドキシアの二人は、すぐさま動いた。
二人がいなくなると、ザッハークはゆらりと王座から立ち上がり、
「余は負けぬぞ。余がこの国を統治し、やがては世界の王となることは、予言されていることだからな……そうだ!」
ザッハークは、急に何かを思い出したかのように、自室に戻ると小さな箱を抱えて、部屋に作られていた秘密の抜け穴に入って行った。
★ ★ ★ ★ ★
首都イスファハーンは、標高が高い地にあった。その周りはさらに高い山が取り囲み、天然の要害でもある。その山の一つ、王宮の北側にある山の中に、『七つの枝の聖騎士団』が根拠地としている城がある。
その城に、王宮からの早馬が到着して、出て来た執事にパラドキシアの命令書を手渡すと、倉皇として帰って行った。
執事は、その命令書を封のまま団長室に届ける。しかし、団長である『怒りのアイラ』は部屋にいなかったため、プログラムされていたとおり命令書を団員が集まる部屋に持って行った。
「あれ? セバスちゃん、それなあに?」
執事が部屋に入ると、ソファに寝転がって山盛りにした砂糖菓子を頬張っていた少女がそう言って立ち上がった。身長は150センチくらいで、やせているとは言いにくい体型だった。それは彼女の着ているパステルカラーの可愛らしい服のせいかもしれないが、その体型に似合わず、動作は俊敏だった。少女は執事から命令書を受け取ると、部屋の壁にかかったベルを鳴らす。執事はカタカタと歯車の音を立てて立ち去った。
やがて、部屋に四人の女性が入って来た。
最初に、亜麻色の髪を長く伸ばした女性が現れる。その女性は全身をなめし革のボディ・スーツで覆い、底の厚いブーツを履いている。『嫉妬のインヴィディア』だ。
次に、ウェーブが掛かった黒髪で左目を隠し、ラメを散らした漆黒のイブニングドレスを着た妖艶な美女が部屋に入って来た。その豊満な胸を見せつけるように、ドレスの胸元は大きく開いている。『色欲のルクリア』である。
そして、金髪碧眼で色白の女性が続いた。『強欲のアヴァリティア』だ。彼女は上下ともにジーンズ地の黒の服を着ていた。
最後に現れたのは、黒いチャードルを着てニカーブで顔を隠した女性だった。ニカーブから見える目は、漆黒の闇のようだった。『傲慢のスーペヴィア』である。
少女は、四人を見るとニコニコ笑って
「あっ、お姉さま方、これセバスちゃんが持ってきたわ」
と、命令書を『傲慢のスーペヴィア』に渡すと、自分はまたソファに寝転がって砂糖菓子を頬張り始める。
「グーラ、食べてばかりいると太るよ? ところで団長は?」
スーペヴィアが訊くと、『貪食のグーラ』は、可愛らしい声で窓の外を指して言う。
「だんちょーさんなら、あそこだよ」
すると、窓の外に見える山の中腹で、凄まじい爆発が起こった。その音と爆風は何秒か遅れて、部屋にいるみんなの鼓膜と窓ガラスを揺さぶる。
「やれやれ、すっかり団長はお冠だね」
『嫉妬のインヴィディア』が言うと、『色欲のルクリア』がけだるそうに言う。
「仕方ないわよぉ。『怠惰のピグリティアとアーケディア』がやられちゃったらねェ。でもぉ、ピグリティアたちは惜しかったわねェ。もう一度あの子たちと3Pしたかったなぁ~。上手だったし」
そう言うルクリアの口元には、2本の牙が伸びていた。
「ルクリアの姉御、のんきなことを言っている場合じゃないです。ザールたちは強いですよ?」
『強欲のアヴァリティア』が言うと、『傲慢のスーペヴィア』はふんと鼻を鳴らし、
「そうかい? じゃ、あたしがザールの首は貰ってやるよ。だいたい『怠惰のピグリティアとアーケディア』って、そんなに強くはなかったじゃないか? あたしたちの中で最弱の聖騎士だった。あれでよく『七つの枝の聖騎士団』の一人って威張れたもんだとは思っていたけれどね?」
そう言う。自分も一度は土を付けられている『強欲のアヴァリティア』は、何も言えなくなった。
そこにまた、窓の外がピカリと光り、やや遅れて轟音と爆風が窓格子を揺らした。
「スーペヴィア、死んだ奴の悪口はやめな。それよりアヴァリティア、団長を呼んできてくれないか。あのまま荒れ狂ってもらったら、この辺の山々は全部更地の平野になってしまう」
琥珀色の瞳に優しい光を浮かべ、ハスキーな声で『嫉妬のインヴィディア』が言う。
「了解」
アヴァリティアはうなずいて部屋を出た。
「おのれザールっ!」
『怒りのアイラ』は、ショートカットにした白髪を逆立て、緋色の瞳を怪しく輝かせながら、自分よりも長い『バルムンク』を振り回す。
「おのれホルンッ!」
『バルムンク』はアイラの『魔力の揺らぎ』を乗せて、透き通った赤い波動を200ヤード先まで届かせ、範囲内の木々をすべてなぎ倒し、山腹に触れた場合は山肌を深くえぐった。
「わが『七つの枝の聖騎士団』に刃向かい、あまつさえその一人を倒すとは、奴らはよくよく命が惜しくないものと見える」
そう、唇を歪めて言う秀麗な顔には、どす黒いタトゥーが渦巻いていた。灰色の上着の袖をまくっていたが、タトゥーはそこにも現れ、時としてそれはドラゴンの文様にも見える。その文様はだんだんと数が増え、大きさも大きくなり、色も濃くなっていく。アイラの怒りが増幅しているのだ。
「上等だ!」
ズーン!
アイラの怒りが頂点に達すると、彼女は『バルムンク』を振り上げ、胸を張って天に叫んだ。その瞬間、アイラは灼熱の炎を噴き出すとともに、彼女の周りで凄まじい爆発が起こる。その爆風は、辺り一面の木々を引き裂き、周りの山々に突き刺さる。
爆風が収まり、もうもうとした煙が晴れると、爆心地にはアイラが目を据えて前を睨みつけながら立っていた。
「あ、あの、団長」
『強欲のアヴァリティア』が、恐る恐る『怒りのアイラ』に声をかける。アイラは、白髪を逆立てたまま、アヴァリティアの方に顔を向けた。
「なに? アヴァリティア。私は気が立っているんだけれど?」
アイラの刺々しい声に、アヴァリティアは冷や汗を流しながら言う。
「そ、そりゃ、このありさまを見れば分かる……ひっ!」
アヴァリティアは、自分の頭上をかすめるようにアイラが『バルムンク』を揮うのをみて、間一髪、身をかがめた。アヴァリティアの向こうにそびえていた山が、『バルムンク』によってその8合目付近で斬り裂かれ、8合目以上は吹き飛ばされるようにして粉々になる。アヴァリティアはそれを見て声を震わせてアイラに頼んだ。
「だ、団長、お願いだから気を落ち着けてください。アタシはこの間の『コール島の戦い』の時みたいに、島ごと吹き飛ばされるのはごめんですよ」
それを聞くとアイラは『バルムンク』を背中に背負った鞘に納めて言う。
「で?」
その声はまだ刺々しく、緋色の瞳も冷ややかだが、白髪の逆立ちは消えている。アヴァリティアは軽くうなずいて言った。
「パラドキシア様の命令書が届いています。直ぐおいでください」
するとアイラは瞳の色を碧に戻し、可愛らしい声で答えた。
「わかったわ。アヴァリティア、お疲れ様」
「で、団長ちゃん、パラドキシアは何て?」
パラドキシアの命令書を難しい顔で読んでいた『怒りのアイラ』に、けだるそうに『色欲のルクリア』が訊く。『怒りのアイラ』は、目の前の机に、ポンと命令書を放り投げて言う。
「……私たち『七つの枝の聖騎士団』の総力を挙げてホルンを討てってさ。けれど、どうやらホルンはザールたちと共に陛下に反旗を翻すみたいだね」
「命知らずな奴らだな。団長、あたしが行って二人の首を持ってくるよ」
『傲慢のスーペヴィア』がそう言って立ち上がる。それを押さえて『嫉妬のインヴィディア』が言う。
「待ちなさい、スーペヴィア。奴らは一度アヴァリティアの攻撃を跳ね飛ばしている。そしてピグリティアを瀕死の状態まで追い込み、次はアーケディアもろとも始末した。聞くところによるとアヴァリティアとピグリティアの時は5人、アーケディアの時はタイマンで倒している。あちらさんもだんだん強くなっているってことだよ」
「ふん、そうでなくっちゃ、この『傲慢のスーペヴィア』様の相手には物足りないよ。心配いらないよ、インヴィディア、あたしも気は抜かないから」
そう言うと、アイラに頼む。
「団長、今度はあたしに行かせとくれ。そしたら、この命令、即座に終わらせて見せるから」
アイラはしばらく考えていたが、首を振って答えた。
「いいえ、スーペヴィアにはもう少し相手の状況を見ていてもらうわ」
そして『色欲のルクリア』を見て言う。
「今回は、お姉様にお願いできませんか?」
すると『色欲のルクリア』は、ウェーブが掛かった黒髪からのぞかせている右目をキラリと光らせて答えた。
「あらぁ、団長ちゃん、珍しいわね。私に仕事を寄越すなんて?」
「だって、何事にも注意深いお姉様なら、ホルンたちの計略にも引っ掛からないだろうなって思って」
アイラがニコニコして言うと、ルクリアは銀色の瞳を持つ目を細めて言う。
「私がザールを可愛がってもいいのね? あなたは……」
「そこで止めといてね? お姉様」
アイラは顔の前で両手を握って膝に肘を付けている。ルクリアを見上げるアイラの秀麗な顔には、どす黒いタトゥーが浮かび、瞳は緋色に変わっている。それを見てルクリアは笑って言った。
「ふふっ、冗談よ。でも、楽しみだわぁ。久々に生きのいい男とできると思うと、今から興奮しちゃう」
そして、ドアへと歩きかけたルクリアは立ち止まり、アイラに真剣な顔で訊いた。
「……最後にもう一度だけ訊くわ。本当に後悔しない?」
「するはずがない」
「……そう」
アイラの答えを聞くと、ルクリアはニコリと笑って部屋を出て行った。
★ ★ ★ ★ ★
『アクアロイドの一派が王国に反旗を翻した』
その一報は、素早く全土に広まった。アクアロイドの軍は海では無敵である。そのことをほとんどの国民が知っている。だから、特に船で交易している商人たちは恐慌状態に陥った。
一方、オルマー岬を奇襲したリアンノンの艦隊は、近くの入り江に泊地を求め、全艦隊をそこに留めていた。
「リアンノン様、いつまでここに留まっているおつもりですか?」
ニールセン艦隊総参謀長が訊くと、リアンノンは笑って答えた。
「王国が私たちを討伐しようと艦隊を繰り出して来るまでよ。それまでは、商人たちが安心して交易できるよう、私たちはシェリルの町の旗を掲げる船は攻撃しないことを、全国に知らせてあげなさい。この件はモーデルとは打ち合わせ済みよ」
「しかし、それでは我が方の艦と見分けがつかなくなりませんか?」
アンソン情報参謀が訊くと、ニールセン艦隊総参謀長はベンボウ先任参謀、ハウ補給参謀やホーク作戦参謀、キース戦務参謀らの顔を見て訊く。
「ハウ補給参謀、もし貴官が我が旗を掲げた敵艦の艦長だとして、我が方から停止を求められたらどうする?」
ハウは面食らって、どもりながら答える。
「え? え、ええと、停船命令を無視した場合は撃沈の対象になりますので、停止せずに近寄り、近くまで来たら旗を掲げ変えて接舷戦闘します」
ニールセン参謀長はうなずくと、今度はアンソン情報参謀に訊く。
「アンソン情報参謀、貴官が本当の商船船長で、我が旗を掲げている場合、停船命令にはどう対処する?」
するとアンソンはやや考えていたが、
「……無視はしません。臨検されても構わない物資を積んでいるのであれば、我らは商船を攻撃しないと言っていますから」
そう答えた。次にニールセンはホーク作戦参謀に
「ホーク、貴官ならどうする? 停船命令にいちいち付き合っていたら、風を逃すぞ」
そう訊くと、ホークはニヤリと笑って答えた。
「まあ、『旗の協定』には違反しますが、我が旗の下に、本当の所属旗を並べるでしょうね。それか、旗を掲げ直します」
ニールセンは笑って言った。
「そう言うことだ。相手が真実の商船なら、こちらには近づいて来ない。相手が軍艦でも、こちらに近づいて来ないのであれば実害はない」
それからすぐに、シェリルの町から布告が出された。商船の船主や船長たちは、争って『シェリルの町の旗』を入手し、1週間も過ぎた頃は、海上に行き来する船のほとんどが『シェリルの町の旗』を掲げていた。
その頃、やっと乗組員の徴募がすんで、艦艇の整備に入ろうとしていたファールス王国海軍の残り少ない提督であるケッペルとテゲトフは、
「これではどの船が敵艦か、すぐには見分けがつかんぞ」
と頭を抱えていた。
「ふふふ、ではそろそろ次の行動に移ろうか」
『リヴァイアサン』艦上では、沖を行く船と言う船が『シェリルの町の旗』を掲げているのを楽しそうに眺めながら、リアンノンがそう笑ってつぶやいていた。
★ ★ ★ ★ ★
ファールス王国暦1576年若葉萌える月の7日、早朝にもかかわらず、サマルカンドの城外には5万5千の精鋭が勢ぞろいしていた。
「諸君、われわれ辺境の民は、ザッハークの簒奪以来26年、王室から見捨てられ、混乱と無理無法がまかり通るような状況になって久しい。ザッハークやその左右は、王権を壟断し、国勢を落とし、国民のことを考えていない政治を行ってきた。我らは正統な王位継承者であるホルン王女様のもとに結集し、その秕政を糾すため、今立ち上がった」
朝風の中、サームの声が響き渡る。
「皆、シャー・ローム陛下とホルン王女様の鴻恩に応えるため、そして国民を塗炭の苦しみから解放するため、戦場では勇敢に戦い、国民には慈愛をもって接し、我らの手で国民のための国を取り戻そう!」
サームの言葉に、兵士たちだけでなく見送りの市民たちも熱狂した。
続いて、ホルンが壇上に上がる。ホルンは、銀色の髪につけた髪留めを朝日に輝かせながら、翠色の瞳で兵士たちを見つめて言った。
「戦いは、空しい……私は用心棒であった10年間、いつもそう思いながら槍を揮っていました」
思いがけないホルンの言葉に、兵士たちも、見送りの民衆もびっくりして耳を疑った。しかし、ホルンは静かに言葉を継ぐ。
「戦わずにすめば、それに越したことはない……私はそう思い続けることによって、無味乾燥な戦いの日々の中で、自分の生きる理由を作ろうとしていたのだと思います。私には守るべきものも、大切にする人も、何もなかったのですから」
ホルンの言葉に、兵士や民衆はうつむいていた。それぞれがこの戦いの意義や自分が戦う意味を探ろうというように。ホルンは続ける。
「今、運命の導きによって、私は自らの人生にしか責任を負わなくてもよい『用心棒』ではなく、皆さん一人一人の夢や希望にも責任を持たねばならない王女として、ここに立っています。だから、私は戦います。どのような種族も、お互いを信じあい、分かり合い、尊重して手を握れるような国にするために。そしてすべての人々が、平和な日常という幸せを感じられ、命を輝かせられるような日々を手に入れるために!」
兵士たちと民衆は、天に突き抜けるようなホルンの声に、思わず両手を握りしめる。そしてホルンの
「皆さん、私に力を貸してください! 私と共に進んでください! ほかならぬ私たちと、すべての人々のために!」
その声を聞いた人々は、割れるような拍手と共に歓声を上げた。これが、『正統な王位継承者である王女様』だ、この人がいる限り、この人と共に進む限り、自分たちの不安や苦しさは、いつかなくなるに違いない——そう信じている人々の顔だった。このとき、ホルンは人々の心をつかむのに成功したと言えるだろう。
「では、私たちは前に進発します。イスファハーンで会いましょう」
黒い革鎧と黒い兜を付け、黒いマントを翻し、古豪のティムールが敬礼して言う。ホルンとサームは答礼し、それを見たティムールは配下の軍団に命令を下した。
「全軍、進発せよ!」
それとともに、ラッパの音が嚠喨と響く中、市民の歓呼の声に送られて、先鋒のムカリ隊1万が行動を開始した。続いてポロクルの1万、ティムールの本軍2万、そしてリョーカ、シャナ、ガルムがそれぞれ5千ずつ率いて進む。リョーカは白備えとして隊の戦袍を白で統一し、シャナが赤備え、殿のガルムが黒備えとしていた。
リョーカ隊には剣術使いのジェベ、弓使いのコクラン、槍遣いのアルムと両手剣のバズがいた。四人ともまだ二十歳前の若者であるが、隊長のリョーカは四人の資質を見込んで連れて来た。
ホルンがまだ用心棒だった時、彼らの生まれ故郷であるアイニの町を訪れたことがある。その時ホルンは、町を狙うヴォルフの大群を、ティムールやリョーカたちと共に征伐した。そのときジェベたちは用心棒見習としてその戦いに参加して、戦場の真実に震え上がったことがある。
「……でも、あの経験があったからこそ、僕たちはここにいるんだ」
行軍の中で、自分の部隊を率いながら、ジェベはそうつぶやいていた。
シャナも、自分の部隊を率いながら、
——あのホルンさんが王女様なんて、びっくりしたわ。
と考えていた。けれど、彼女もホルンのお陰で自分が愛するエフェンディ家の当主が道を踏み外さずに済んだと恩を感じていた。
「よし、エフェンディ家と王女様のために頑張ろう」
シャナは鐙を踏みしめながらそうつぶやいていた。
ガルム隊にはアローがいた。彼もまだ19歳であるが、ガルムに師事してその腕を格段に上げていた。今はガルム隊で先陣を任されるほどになっている。アローは、
「これで少しは、一人前に近づけた。けれど、僕はまだまだ強くならねばならない」
そう、腰の双剣を叩いてつぶやいていた。
「アロー」
そこにガルムが馬を近づけてくる。アローはハッとして
「はい、隊長」
と答えるが、ガルムはそんな彼をまじまじと見つめて、隻眼を細めて言う。
「まず、生き延びろ。王女様に認められることは二の次だ。お前は必ず強くなる。しかし、死んでしまったらお終いだぞ。この戦いの行く末と、ホルン女王様の治世を見るまで生き延びる、それが本当の戦士としての覚悟の在り方だ」
「はい、必ず」
アローはそう言って弾けるように笑った。
「いよいよ踏み出しましたな」
ティムール軍を姿が見えなくなるまで見送ったサームは、まだ彼方の丘を見つめているホルンに声をかけた。ホルンは視線をそらさずにうなずき、
「はい。私は午後に発ちます」
そう言うと、サームの方に向き直って
「ご子息をお借りいたします。彼がいないと、私一人では何もできません」
そう顔を赤くして言う。サームは笑って言った。
「ザールごときがお役に立つのであれば、王女様に差し上げます。存分に使ってやってください」
「そう言っていただけると有難いです」
ホルンは花のような微笑でそう言った。
「王女様、そろそろ我々も参りましょう」
モアウに乗ったザールがそう叫んでいる。ホルンはそれを聞くと、チラッとサームを見て、『死の槍』をつかみ直すと、
「行ってきます」
そう一言言って、ザールの所へ駆けて行った。
ホルン軍は、ザッハーク側の眼を晦ますため、サマルカンドからではなく、その郊外にある『神聖生誕教団』のサマルカンド大司教が所在する教会所領から出発することになっていた。ホルンとザールはモアウの轡を並べて教会所領まで走る。その他の諸将——ジュチ、リディア、ロザリア、ヘパイストスそしてオリザは、先に所領に入っていた。
「やあ、みんな揃っているね」
ザールはモアウから降りて、ジュチたちの所に行くとそう言って笑う。ジュチは片方の眉を上げる独特のしぐさをすると、
「待ちくたびれていたよ。けれど、待った甲斐はあった。朗報だよザール」
そう言うと、大司教がいる教会へとザールを誘う。
「何だ? ザッハークが死んだか?」
ザールが言うと、ジュチは笑って
「そううまく行ってくれればいいが、まあ、ザッハークにとっては凶報だね、それも限りなく。教会に入ってみるといい」
そう言う。ザールはジュチの癖を知っていたので、それ以上訊くこともなく、教会へと入った。
「よくおいでくださいました。“世に光を与える糸杉”ザール様」
大司教ソルがそう言ってザールを迎える。ザールもうなずいて答えた。
「身に余るお言葉です。わが友ジュチが吉報があると申していましたが……」
そして、緋色の瞳をソルの右側に控えた戦士を見て訊く。
「それはその戦士と関係がございますね?」
ソルは微笑んで言った。
「さすがはザール殿。わが『神聖生誕教団』は、先に我が兄弟が『七つの枝の聖騎士団』の一人に虐殺されたことを受け、今回のホルン王女様の挙兵に、教団挙げてご協力申し上げることといたしました。これが法王ソフィア様の教書です」
ソルは、大判の羊皮紙を恭しく広げると、それをザールに手渡した。
「それはありがたいことです。王女様の正しさが天にも認められたことになります」
ザールが言うと、ソルはさらに、
「精神面だけでなく、わが教団の『女神の騎士団』から、精鋭2千人を義勇軍として王女様の軍に従わせます。時にザール様、こちらの騎士に見覚えはございませんか?」
ソルがそう言うと、身長165センチほどの女性が近寄って来た。サラサラとした金髪にラピスラズリのような瞳が印象的だ。鼻筋も通り、雰囲気はどことなくホルンに似ていた。ただ、ホルンの方がやや目が大きい。
その女性は、胸に教団の印である『ルーンの泉』が藍で描かれた革鎧をして、銀のチェインメイルを着て、腰には白い垂を巻いている。足元は底の厚いブーツで固め、硬い革の籠手を着け、面頬を付けたヘルメットを持っている。それらの基本色は銀で統一されていた。
けれど、ザールは彼女に全く見覚えがなかった。
「さて? 失礼ながら存じ上げませんが……」
するとその騎士は、ニコリと笑って自己紹介した。
「ムリもありません。お会いした時とは全然姿かたちが違っていますから。私はシャロン・メイル、『神聖生誕教団』の司教で、『女神の騎士団』第6分団長です」
その声と名前を聞いて、ザールは思い出した。
「なるほど、思い出しました。ではそなたはちゃんと『悪魔の呪い』の術式を解いたということだな、シャロンさん」
「はい、私はあのままサキュバスとして生きていくつもりでいましたが、ザール様のご教示で元の姿に戻ることができました。その際、ソル大司教様を頼り、昔の誼で教団に元の地位で迎えてもらえました。今回は兄弟たちの敵討ちとともに、ザール様へのご恩返しでもあります。ぜひ一緒に戦わせてください」
ソル大司教が口を挟んだ。
「私からも口添えします。シャロン司教の祖父はザール様のご不興を買ってはいましょうが、司教自身は前非を悔い改めています。また、能力も『七つの枝の聖騎士団』と拮抗しましょう。我が教団の厚意、ぜひお受けください」
するとシャロンは、あの時のサキュバスの姿になって言う。
「あたい、こちらの方の力も残っているんだ。きっと役に立って見せるよ?」
ザールは笑って言った。
「分かりました。王女様もお慶びでしょう。教団のご厚意、ありがたくお受けします」
「では、出発します」
ホルンは『アルベドの剣』を振り上げてそう高らかに言う。これが、今後幾度となく発する命令の最初であった。ホルンの率いる『遊撃軍』は、静かに出発した。
先鋒は泣く子も黙るジーク・オーガ2千人を率い、青龍偃月刀の『レーエン』を抱えたリディアが承った。彼女は今後、数々の戦闘で敵陣をぶち破り、敵からは『炎の告死天使』の異名で恐れられることとなる。
続いて、恐るべき戦闘集団であるアクアロイド2千人を率い、ガイが進む。その手には姉リアンノンから譲られた蛇矛『オンデュール』が握られている。彼もまた、敵から『紺碧の死神』の異名を奉られることになる。
そして、『白髪の英傑』ザールが、2千人を率いて進む。
シャロン率いる『女神の騎士団』は、ザールの後に続いた。ここまでが先鋒兵団である。
その次は、智将として敵方にも知られたジュチが、『妖精の軍団』2千人を率いて進む。彼は軍師も兼ねている。
ホルンは、総指揮官として2千人を率い、その次に進んだ。愛用の『死の槍』は、すでにホルンのトレードマークとなっている。なお、この隊には参謀としてザールの異母妹オリザがいた。彼女は戦いには出ずに、戦士の回復を一手に引き受けることになる。
次は謀将ロザリアである。彼女はトリスタン候から派遣された魔女による魔戦士団2千人を率いていた。女性だけの部隊は彼女とシャロンの部隊だけである。また、ロザリアは参謀を兼ねている。
そして殿は、勇将ヘパイストスである。鍛冶屋としても優秀な彼は、防御戦で無類の強さを発揮する。ドワーフ2千人を率い、巨大な戦槌『ミョルニル』をふり立てた彼は、リディアが口説いてこの軍へと引き入れた。攻撃には参加しないが、武器などの修理や防御戦で大活躍することになる。
こうして『遊撃軍』は出撃した。最初の難関は酷暑の砂漠越えである。
★ ★ ★ ★ ★
ティムールの『主力軍』進発の報は、ファールス王国暦1576年若葉萌える月8日には王都に届いた。すぐさまザッハークはパラドキシアを呼んで訊く。
「パラドキシア、いかがいたす? こちらの迎撃態勢は整っているか?」
パラドキシアは答える。
「やはりサームが糸を引いていましたか。相手はたかだか5万と言っても、率いるのは老練なティムール、こちらとしても15万は出したいところです。今、動員の第一波として、各州知事に2万ずつの募兵を指示しています。その動員が完了するのが2週間後、全軍が揃うのはひと月かかるでしょう」
「で、それまではどうするつもりだ? そちは余が敵にただでひと月もの時間を与えるとでも思っておるのか?」
ザッハークの問いを予想していたように、パラドキシアは笑って言う。
「それまでは、常備軍にティムールの相手をさせます。また、私自身が集めていた『魔軍団』も出撃させます。シェリルへは、トリスタン侯国のアリーに向かわせましょう」
それを聞くと、ザッハークは頷いて命令する。
「すぐにかかれ。動員は1週間で終わらせよと各州知事には厳命せよ」
パラドキシアは平伏した。
パラドキシアが退出すると、ザッハークは玉座で笑って言った。
「ふふ、サーム、26年前の勝負の決着をつけようぞ。余は負けぬ、あのお方がいらっしゃる限りは、余の世界制覇は決定づけられた運命なのだからな」
『シェリルの町を攻略せよ』という命令がトリスタン侯アリーのもとに届いたのは、王国暦1576年若葉萌える月9日のことだった。アリーは『王の使者』には応諾の旨を返事すると、すぐさま部下に出陣を命令した。
「2週間後に出陣する。留守は頼んだぞ、アザリア。そなたの妹ごが言ったとおりになってきているな?」
アリーは諸準備のために館に戻ると、妻のアザリアにそう言って笑う。アリーは、ロザリアが出兵の依頼をしに来た時に交わした言葉を思い出していた。
「ザール様を射止めるには、義兄上の軍勢、3万の援護が必要じゃ」
それを聞いて、トリスタン候は思わず酒を飲む手を止める。そしてロザリアを恐る恐る見つめた。ロザリアは秀麗な顔に微笑を浮かべたまま、小声で続ける。
「よくお分かりにならなかったかの? 私がザール様を射止めるには、まずこの国がザール様の夢である『すべての種族がお互いを尊重し、すべての生き物が、生命を謳歌できる国』にならねばならぬ。そうでなければザール様の心はホルン姫に縛り付けられたままじゃからな」
「それで余の3万とは?」
トリスタン候が低く訊く。その顔からは酔いがすっ飛んでいた。
「ふふ、秘中の秘じゃが、近々アクアロイドの軍が兵を挙げる。その時に、3万の軍でイスファハーンの防衛部隊として義兄上の軍が駆け付けるわけじゃ。アクアロイドの軍は海沿いを進む……あとは、分かるの?」
「余の軍はアクアロイドとともに海沿いを進めと?」
アリーが訊くとロザリアは首を振って言う。
「いや、恐らくザッハークは義兄上の軍に、アクアロイドの本拠地であるシェリルを攻略することを命令するはずじゃ」
「それでは、余はザール殿の敵になるのではないか?」
アリーが訊くと、ロザリアは笑って言う。
「そこが知略というものじゃ。義兄上はザッハークの命令に従い、シェリルを目指し、町に到着したら包囲して、その3日後にザッハークに『攻略完了』の旨を報じて、そのままイスファハーンへ進軍していただきたいのじゃ」
「つまり、ザッハークをたばかれと」
その言葉に、ロザリアは悪びれもせずに言う。
「何をおっしゃいますか。もともと戦は騙し合いと言うではないか。義兄上の軍を向けて安心しているザッハークを、さらに安心させてやればよい。ただ、イスファハーンへの進軍は、隠密裏にしていただかねばならぬが、それはアクアロイドたちが協力してくれるはずじゃ」
「……つまり、シェリルのリアンノン殿とはもう話がついていると?」
アリーの問いに、ロザリアは深くうなずいた。
「今頃はリアンノン殿の弟であるガイ殿が、協力を取り付けているころじゃ。もともと10年前にリアンノン殿は姫様をデューン殿から預かる約束をされていたそうじゃからのう」
そんな話を思い出しながら、アリーはアザリアに感嘆したように言った。
「まったく、そなたの妹ごは隅に置けない知略の持ち主だ。余はそなたがロザリア殿の姉でよかったと心底思っているぞ」
★ ★ ★ ★ ★
王国暦1576年若葉萌える月12日、南の海に面した王国の軍港バンダ・アッバスから、緊急的に揃えられた艦隊が出帆した。その数300隻で、ほとんどは通報艦だったが、
「アクアロイドの艦隊は200隻だったという。それならまず300隻で相手して時間を確保し、大艦隊を整備してシェリルまで押し通ればいい」
という王宮内の意見で、反対する海将ケッペルとテゲトフの意見を無視して出撃させられたものだった。司令官はサマリーとオスマンである。二人とも艦隊勤務の経験はなく、ただ陸上での“猛将”という評価によりこの任務を与えられた。
「フネの上での戦いは、勝手が違うの」
旗艦『キュラソー』の艦橋で、揺れに合わせて足を踏ん張りながらサマリーが言う。彼は遠くに並行して進む『ライオン』を眺めて、
「ふふ、オスマンも苦労していることだろうな」
そう笑っていた。
彼らが与えられた任務は、『オルマー岬西側に停泊しているアクアロイドの艦隊を撃滅せよ』だった。当然、オルマー岬の施設を奇襲された日以後の情報は全くない。ただ、艦隊がシェリルに戻った形跡がないため、西にいると漠然と考えられていただけである。
要するに、ザッハーク側はリアンノンの意図、艦隊の規模、その位置など、まったく知らなかったという事であり、推測しようとも、捜索しようともしていなかったのである。
「まったく、敵艦隊の位置ぐらい、商船の船長たちに聞けば分かっただろうに……」
『ライオン』を旗艦とするオスマンは、そう愚痴った。彼はとにかく出航前に敵の位置ぐらいは把握しようと、部下に商船の船長たちを訪ねて回らせていた。
その結果、どうやらヌー岬西側まで西進してきているらしいことが分かった。
「とにかく、知りたいのは敵の位置だ。もう海峡も南下したから、ここらで偵察隊を分離した方がいい」
オスマンはそう言って、艦長に命令を下した。
「艦長、『キュラソー』に信号。『偵察隊派遣の要ありと認む』、急げ」
『ライオン』の信号旗が揚がる。ややあって『キュラソー』から返事があった。
「提督、サマリー提督から返信です。『肯定』」
「よし、『ジャッカル』に信号。『東進して敵艦隊を捜索せよ』」
艦長からの返事を聞くと、オスマンはそう命令を下した。『ジャッカル』は『ライオン』の命令を受信すると、指揮下の艦艇を連れて東へと速度を上げ始めた。
「奴らは海のスペシャリストだ。気を引き締めてかからねばな」
オスマンはそう言って唇をかんだ。
こちらはヌー岬の西、60キロにあるガタル湾に停泊していたリアンノンの艦隊である。今、サマリーとオスマンの艦隊は彼女の艦隊から西に400キロのところにいた。そして、リアンノンは商船の情報から、王国艦隊の一部が出撃したことと、その指揮官がサマリーとオスマンであることも知っていた。
「陸戦の将軍を艦隊の提督に持ってくるなんて、王国にはそんなに人材がいないのかしらね」
リアンノンはそう言って笑ったが、ニールセン参謀長に
「王国の艦隊について、最新の情報を教えて」
という、ニールセンはすぐにベンボウ先任参謀、ハウ補給参謀、アンソン情報参謀に訊く。
「敵の編成等について、新しい情報はないか?」
するとアンソンは
「王国海軍は帳簿上、戦列艦100隻と通報艦500隻を柱にした1千隻の艦隊を要しています。それをバンダ・シェフル、ラスタ・ヌー、ケシム島泊地、バンダ・アッバス、そしてカラチに配備しています。ただし、カラチからは先年のマウルヤ王国との協定で艦隊を引き上げています」
アンソンは資料をめくって続ける。
「実際に常備艦隊として就役している艦艇は、整備計画等から判断すると戦列艦50隻、通報艦200隻を柱とした350隻内外です。そして戦列艦50隻、通報艦300隻は現在整備中です」
「その整備が終わるのは、いつごろなのかしら?」
リアンノンが訊くと、補給参謀のハウが答える。
「敵の補給物資の流れを見ていると、一遍に整備しようとすれば1年かかりますね。まず戦列艦10隻、通報艦60隻を1グループとして、簡易なものから整備すれば、第1波は2週間、その後は2週間ごとに同じ数だけと仮定して、全体で10週間ってところでしょう」
それを聞いて、リアンノンは笑って言った。
「じゃあ、今出てきた艦隊を全滅させれば、その後の2週間は私たちはフリーね。参謀長、タボール提督とエース提督に出撃命令よ。『西にいる敵艦隊を撃滅し、適宜の前進基地を確保せよ』」
「はい」
ニールセン参謀長が答える。リアンノン艦隊は、再び動き始めた。
命令を受けたタボール正提督とエース准提督は、
「海峡のこちら側では風は西風、海流は東向きだ。つまり、相手をその流れに乗せてしまえば、退却が困難という事だ」
という考えから、先に海側にいるエース准提督の100隻が敵に仕掛け、段々と敵を東南へとつり出し、陸側にいるタボール正提督の100隻が敵の側背、北へ回り込んで叩くという作戦を取ることになった。
「敵が釣れればいいがな」
旗艦『ウォースパイト』の艦橋で、タボール提督がつぶやく。しかしすぐに首を振って
「まあ、エースの坊やなら、何とかするだろう」
そう独り言を言い、艦長に指示した。
「艦長、私の指示があればすぐ出撃できるよう、隊員たちの準備を頼む」
「さて、敵さんをつり上げてやるか」
旗艦『バーラム』の艦橋では、艦隊で最も若い提督、エース准提督が張り切っていた。
「おーい、艦橋。ポイント15に敵艦隊発見。距離は12マイル」
突然、ミズンマストの見張りがそう叫んだ。艦長がメガホンを取って叫ぶ。
「敵艦種と数を知らせ」
「敵は5隻……修正、7隻でーす。まだはっきり見えませーん。2本マストなので通報艦と思いまーす」
同時に、メインマストトップから見張員が滑り降りて、手に持った紙を航海長へ手渡す。
「艦長、敵は通報艦8隻、距離11マイル半、方向は270デグレ、敵針は110デグレ、敵速は約8ノットです」
それを聞いて、エースは見張員にメガホンで聞く。
「敵針変わりないか?」
「敵針変わりなーし」
見張りの声に、エースは考え込んだ。このまま敵を泳がせれば、ますます陸から遠くなる。しかし、こちらは最大で10ノットしか出ない。12から13ノット出せる通報艦が海洋に野放しになれば、こちらの作戦に支障が出る。敵はすべて潰さねばならないのだ。
「艦長、こちらの針路を相手の頭を抑えるようにしてくれ」
「了解です」
艦長が言うと、既に航海長が針路を決めて操舵手に告げた。
「取舵、針路210デグレ」
「宜候ー。取ーり舵ー……宜候」
操舵手が舵輪を勢いよく回す。そして羅針盤が210デグレ近くになった時、反対側に当て舵を当てる。艦首はぴったりと新針路に乗った。
甲板では、掌帆長が船員を督励して帆柱を回している。今までギリギリ間切って進んでいたので、風の向きをあまり気にしないで済むようになったのは楽だった。
「艦長、もうちょっと速度が出せないか?」
エースが言うと、艦長は頷いていう。
「やってみましょう。掌帆長、トガンスルをいっぱいに張ってくれ」
やがて、エース艦隊のすべてが針路を変更した。
エース艦隊の進路変更を見て、陸側にいたタボール艦隊は、敵の出現に気が付いた。
「おーい、艦橋、敵艦隊です。通報艦8隻、距離約11マイル、その後方に敵艦多数、種類不明、約150隻、距離12マイル、方向はいずれも250デグレ、敵針110デグレ、敵速は約8ノット」
「エースは敵の頭を抑えるつもりだな。では、こちらは横腹にかみつくように機動しようか。艦長、敵の本隊にぶつかるように頼む」
タボールがそう言うと、艦長はすぐに命令を下した。
「航海長、針路245デグレへ。掌帆長、帆を増せ、9ノットは欲しい。副長、隔壁を閉じて、弩を準備させろ」
それぞれが命令のとおりに動き、『ウォースパイト』は艦隊の先頭に立って新針路へと進みだした。
一方、オスマンの艦隊は、やっと先遣隊がエース艦隊に気づいた。
「司令官、『ジャッカル』から信号です。『敵艦隊出現』」
オスマンは口を歪めて言う。
「それでは何も分からん、敵の種類や数、針路を聞け」
その命令が『ジャッカル』に伝達されるより早く、『ライオン』の見張員がエース艦隊を視認した。
「おーい、艦橋。敵艦隊です。距離約10マイル。数は約100隻、戦列艦10隻、敵針205デグレ、敵速約10ノット、相対位置ポイント12半」
それを聞くと、オスマンは苦りきって言った。
「それでは頭を抑えられる。少し針路を右に振ろう。敵艦隊と同航戦に持って行こう」
司令官の意図を受けて、オスマン艦隊は針路を右に変え、150デグレとした。
オスマン艦隊の動きに、エースが気付いた。
「敵針が150デグレに変わった。ということは同航戦を挑んでくるわけか」
彼はしばらく考えていたが、
「よし、艦長と航海長、私の意図はこうだ」
と、艦長たちを集めて自分の意図を説明しだした。
「敵までの距離は約8マイル、敵針210デグレ、敵速約10ノット、相対位置ポイント13」
オスマン艦隊の旗艦『ライオン』で、見張りが叫ぶ。
「敵の方が若干速い。頭を取られないように針路を175デグレにしろ」
オスマンが言った時、状況が変わり始めた。
「敵針が変わって行きます。今……190……180……」
オスマンはびっくりした。このままいけば敵艦隊は自分の頭を抑えられたのに、左に旋回してそれを諦めている。敵艦隊に何か起こったに違いない、それなら追撃だ!
「追撃だ。一斉回頭だ。針路を90デグレまで変えろ!」
オスマンはそう叫んだ。敵が逃げるなら、徹底的に追撃するのが海軍士官の本性だ。
やがて『ライオン』の艦首が回り出す。今110……105……100……その時、予期せぬことが起きた。『ライオン』が行き足を失い、ぐるりと艦首を左に回し始めた。
「なんだ?」
突然ぐらりと揺れた『ライオン』の艦橋で、オスマンは叫んだが、その時には理由が分かっていた。『下手回し』に失敗して、風を取り逃がしたのだ。
信じられないことだが、操帆員たちの動きが鈍く、艦の回頭に帆柱の回転が間に合わなかったのだ。しかし、プロの船員である。風を前から受ける『上手回し』で失敗するならまだしも、風を後ろに背負いながらの『下手回し』で裏帆を打つとは……。
「突然の出航命令で、訓練未熟の船員までかき集めなければならなかったからか……」
オスマンは唇をかんで、エース艦隊の動きを見守るしかなかった。
「見ろ、敵艦隊は半分が裏帆を打っているぞ」
エースは、艦長が叫ぶのを聞いて、ニヤリと笑った。こうまでうまくいくとは思っていなかったのだ。
相手はおっとり刀で出撃した艦隊。敵艦隊はそれまで訓練すらまともにしていなかったことは、エースも出撃前から知っていた。未熟な船員が多ければ、急激な針路変更は大きな負担になり、場合によっては艦を止める場合があることも経験上分かっていた。
「このまま上手回しを続けろ。針路200デグレで接近。3マイルまで近づいたら隊員を出撃させろ」
その命令は手旗や旗旒で全艦に伝えられる。
敵艦隊は完全に隊列を乱している。うまく下手回しができたものも、旗艦を待って速度を落としている。
「こんな場合、俺たちなら各個に突撃だけれどな。王国さんはぬるいな」
エース艦隊が突撃に移ったころ、やっと『ライオン』の推進力が復活した。しかし、風に押されて後進していたものが全速力に復活するまで、どうしても1刻(15分)はかかる。
その時には、エース艦隊はもうオスマン艦隊から3マイルを切っていた。
「くそっ、やっと推進力が戻った。このまま敵にぶち当たれ、接舷戦闘準備! 艦長、弩を準備するとともに斬込み隊を編成したまえ」
オスマンがそう言った時、彼の目に『ライオン』に先行していた『ジャッカル』が、突然左に横倒しになり、そのまま沈んでいくのが見えた。
「何だ? 『ジャッカル』はなぜ転覆した?」
そう言う彼の目の前で、次々と艦艇がひっくり返って行く。その差はあるが、今や目の前にいる僚艦のほとんどが転覆し、あるいはひどく傾いていた。
ズガン! ガガガ!
突然、オスマンの足元で、まるで座礁したときの様な衝撃が起こる。そして『ライオン』は急速に右に傾き始めた。おかしい、この辺りには浅瀬などないはずだ。水深は優に500メートルを超えている場所なのに……。
「何だ? 何が起こった?」
オスマンは、訳も分からないまま、『ライオン』とともに海に沈んだ。
同じ悲劇は、オスマン艦隊の後ろに続くサマリー艦隊にも襲った。サマリーは比較的早くタボール艦隊の接近に気付いたため、
「反航戦で叩いた後、接舷戦闘だ」
と決め、急速にタボール艦隊との距離を詰めて行った。
しかし、その距離があと3マイルになった時、突然『キュラソー』は左に傾き始めた。
「何が起こった!」
サマリーもそう叫んだ。ここは浅瀬ではない。ではなぜ、艦は座礁した時のように震えたのだ。
しかし、彼にもその答えは分からず、沈みゆく『キュラソー』の渦に飲まれていった。
結局、王国の艦隊は『キュラソー』『ライオン』の艦隊旗艦2隻を含む艦艇233隻を失った。人的被害は艦隊司令長官のサマリー、オスマン両提督はじめ7千名ほどだった。
タボール、エース両提督の取った方法は簡単だった。アクアロイドの特性を生かし、海の中から喫水線の下に穴を開ける……ただそれだけだった。
そのために、各艦には訓練を積んだ『潜水要員』を20名ずつ配属していた。彼らは泳いで接近し、艦底や舷側にとりつくと、やや長めで幅は広く、身幅も分厚く、けれど鋭い短刀でもって穴を開けたのである。
「ふふ、わがアクアロイドの力を思い知ったか」
タボールもエースも、それぞれの旗艦の上で哄笑していた。
「よし、これでホルム海峡は我が手に有り。次の目標はケシム島よ」
艦隊を率いて出撃したリアンノンは、『リヴァイアサン』の艦橋でそうつぶやいていた。
(24 蹶起の神剣 完)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
いよいよ王国の未来を賭けた戦いが始まりました。
今後それぞれがどのように戦いを進めていくかが楽しみです。
話の都合上、ホルンが出ない回もあることと思いますが、そこはご容赦ください。
次回『25 初戦の功名』は明後日5日の9時〜10時投稿予定です。お楽しみに。




